■三日目~See you again.(後編)
終わりというのは突然やってくるもので、当人も知らないうちに終わってしまうというのはままあるものだ。
だが、終わらせなければ半永久的に終わることのないものも世界にはある。もちろん、それが
終わるべきなのか終わらざるべきなのかは場合によるだろう。
さて、ここで問題になってくるのは、今俺が終わらせようとしているものが世界そのものであるということだ。
いや、正確には違うか。これは夢だからな。これは夢の世界であって、この夢を終わらせなければ
俺は目覚めることができない。もしもこのまま目が覚めなかったら――もしかするとこっちの世界が
本当の世界になってしまうかもしれない。
ぶっちゃけ、それだけは勘弁だ。
確かにこの世界は俺にとって天国ともいうべき世界であることは否定しないが、それと同時に地獄も渦巻いているのだ。
まあその地獄の元凶は今や消え去ったのだが……。
ともかく、この世界は俺のいるべき世界ではない。
ハルヒがその変態パワーで何をしたのかは知ったこっちゃないが、世界の改変を二度も体験し
(一度目はハルヒの閉鎖空間で二度目は長門のあれだ)、二度とも脱出した俺にとっては、
世界が書き換えられたら世界を元に戻すという図式ができあがっているわけで、今回も例外ではないのだ。
かくして、俺はこの世界の中心(多分)である文芸部室へと向かっていた。
この際、本当の世界の中心がどこかなんてことはどうでもいい。この世界での決着をつけるためには
まず文芸部室に行かねばならないというのだからしかたがない。しかたがないから走るのだ。
だが。
走りながら俺は妙な寒気を感じていた。
まだ春になっていないからだとか、日が照っていないからだとか、そんなチャチな話じゃあ断じてない。
そもそも寒気を感じたから俺は走っているのだ。いや、別に体を暖めるためとかそんなことじゃない。
急がなければいけないような気がした。
とにもかくにも、急がなければいけないような気がしたのだ。


「どうなってんだ、こりゃあ……」
実に地球に優しくない戦いが終わり、自然物人工物の区別なくボロボロになった並木道を後にした俺は、例の坂道を登りつつ呟いた。
何かがおかしかった。
静か過ぎる。
まるで人気を感じない。世界から人という人が消えてしまったかのようだった。
いや、人だけではない。まさに蟻の子一匹見当たらないという有様だった。
俺はこの世界でただ一人の自律行動をする有機生命体となってしまったのだろうか。などとすら思ってしまったほどだ。
いや――。
待て、よく考えろ。
ここが閉鎖空間なのだとしたら、もしかしたらこれが本来の姿なのか?
朝倉は俺がこの世界の真相を知ったことがトリガーになったと言っていた。
つまりこれは――。
選択の時が来たってことなのか?
「……まずいな」
見ればただの曇り空だと思っていた空の灰色が、かつて閉鎖空間で見た独特のものに変わっていた。そういえば街もどこか色彩が薄い。
またあの灰色の世界になろうとしてるってことなのか?
だとしたら、今度こそハルヒは新しい世界を創造しちまうんだろうか。
だが何かひっかかる。古泉、というか<機関>や朝倉のあの緊張感の無さはいったい何だ?
あいつらがこうなることが分かっていなかったとは考えづらい。だとしたら何で――。
「……そういうことか」
ここで俺は気がついた。
――もう答えは決まってるんでしょう?
朝倉が言っていたあの言葉……そういうことだったのか。
全てを理解して、俺は思わず笑みをこぼしてしまった。
そうだった。俺はぐだぐだ考えるのは苦手なんだよ。案ずるより産むが易しってな。
とりあえずは――。
俺を待っているだろうあいつらに会いに行くのが先決だ。


「待ってたよ」
息を切らしながら文芸部室の前まで辿り着いた俺を待っていたのは、意外な人物だった。
「お前……分かってたのか?」
「っていうか、全部の事情を知ってるのはあたしだけなんだけどね」
そいつ――春日はツインテールを揺らしながらこの三日間で初めて見る笑顔を見せた。
だが、春日はすぐにその笑顔を引っ込めて僅かに重い声で、
「もうすぐ世界が終わるよ」
その言葉に呼吸を整えながら聞いていた俺は、大きく息を吸い込むと同時に唾を飲み込んだ。
「でも、心配なんてしてないけど」
すぐに声の調子を戻した俺はあっけにとられ、次の言葉を発するのに数秒を要した。
「……何でだ」
「だって、あなたが何とかしてくれるでしょう?」
ここで春日はニヤリと笑い、
「あの時みたいにさ」
やけに自信に満ちた声で言った。「自信」って言い方もおかしいか?
「って、ちょっと待て」
何かおかしくないか? 古泉の話ではこいつは<神人>が人間の姿になったってことだった。そして
その<神人>こそがハルヒがフラストレーションを解消する為に動かす破壊者のはずだ。
古泉は神人が暴れださない以上は心配はないと言っていた。だが今はどうだ? もしこいつが本当に
<神人>なのだとしたら、何故また前回のように世界が生まれ変わろうとしてる?
これは予想できた事態なのかそれとも……。
「確かにあたしは<神人>だけど」

春日は俺の思考を見透かしたように、
「ハルヒ自身でもあるからね」
「そりゃ……どういうことだ」
「ハルヒが不機嫌になると<あたしたち>が出てくるのは知ってるでしょ? あたしたちがこっちで暴れるのは
ハルヒと一緒にあたしたちも不機嫌になるから。不機嫌じゃない時はいないわけじゃなくて、ちょっと休憩してるだけ。
ハルヒの精神の一部なのよ、あたしたちは」
随分と幼い声で大層なことを言う春日だった。
「で、今はまとめて一人ってわけ。っていうか、こっちの姿の方が維持するの大変なんだけどね。びっくりでしょ? 
あなたが見たあの巨人が全部一塊になってこんなもんなんだから」
びっくりにも程があるぞ。っていうか女だったのか。
「だってハルヒは女じゃない」
言いえて妙すぎる。
「まあ、そんなことは置いといて。今はこの状態を何とかするのが先じゃない?」
「だから何でお前がそんなことを言うんだよ。世界が変わる時はお前――ら、が暴れる時なんじゃないのか?」
「破壊と創造は表裏一体だから」
春日はまたも幼い声で難しいことを言う。
「ハルヒが望めば、それだけで世界は変わる。ううん。もう世界はできちゃってるの。分かるでしょ?」
世界はもうできている――この世界がそうってわけか。
「今回はあたしたちの出番はなし。後は選ぶだけ」
そこで春日は俺を指差し、再びニヤリと笑った。
「あなたがね」
その笑顔は、まさしくハルヒがよからぬことを思いついた時と同じものだった。


「選ぶのはあなただから、あたしは何も言わない」
文芸部室の戸の前に立った俺の隣で春日が言った。
「でも、心配はしてないよ」
「……お前ら、そればっかかよ」
「不満?」
「……いいや」
どの道、この状況を何とかするには俺が行動するしかない。
ハルヒがこの世界を作り出したのは、元の世界に不満があったからだ。その不満の原因はどうやら俺らしい。……とりあえず、古泉説では。
ついでにこの世界のいろんな意味での無茶苦茶っぷりもハルヒが望んだことらしいが……あの「うほっ」な連中にはどう説明をつけるつもりだ。
「意外とハルヒも別にこっちの世界を本当に望んでるわけじゃないのかもね」
「何だって?」
「この世界を作り出したのはあなたに自分や、他の子たちの気持ちを気付かせるつもりだったんでしょうけど、
今回は元の世界が嫌だったからってわけじゃないからね」
何だか曖昧だな。お前はハルヒ自身じゃなかったのか?
「考えてることが全部分かるわけじゃないよ。でも、あなたはこっちの世界にいたいとは思わないでしょ」
「当たり前だ」
ウホ泉は消えちまったが、谷口と国木田はあんなだし、他にもあんな連中がいそうな気がビンビンする。君子は危うきに近寄らないものなのさ。
「つまりそういうこと。もう言わなくても分かると思うけど」
それだけ言うと春日は一、二歩後退して、
「じゃ、後はよろしく」
よろしくって言われても。
「開ければ分かることだし、開けなきゃ分からないでしょ?」
「……そうだな」
俺は覚悟を決めてドアノブに手をかける、そして、
「待ってるから」
戸を開けた瞬間、目の前が真っ白になったかと思うと春日のそんな声が聞こえ、俺はいつの間にか文芸部室の中に立っていた。


「これは……」
文芸部室だ。何の変哲もない――というのは少し御幣があるが――、俺の知っているSOS団の部室だ。
ただ一つ違うのは、
「誰も……いないのか?」
水を打ったかのような静けさだった。まるで、あの冬の日、エンターキーを押した時のような。
部室の真ん中辺りまで歩を進めて呆然としていた時、不意に背後に気配を感じた。
「あ……?」
「やっ、待ってたよ」
振り向くとそこにいたのは腰の下まである長い髪を揺らしながら楽しそうに笑う――。
「鶴屋さん……?」
「いんにゃ、あたしは鶴屋であって鶴屋ではないのっさ。ま、分かってると思うけど」
と言いながらもう少しでウインクになりそうなくらい片目を閉じた鶴屋さんの笑顔に俺がドキリとすると同時、
鶴屋さんはまるで兎のようにぴょんと飛び跳ね、俺の目の前に立った。
「いったい……どこまで知ってるんですか?」
「それは大した問題じゃあないんだよっ」
そう言って鶴屋さんはまた「ニヒヒ」と歯を見せて笑う。本当に笑顔の似合う人だ。
まあ、言われてみれば確かにこっちの連中がどれだけのことを知っていようとも、俺がこの世界からの脱出を成功すれば
それはいわゆる「夢オチ」になるわけだから、関係はないとも言えなくはない。朝倉説ではそういうことになっているらしいからな。
「まあ、そんなことは置いといてっ」
強引にも話を脇に置いてしまった鶴屋さんはふと笑顔を柔らかいものに変えて、
「キョンくんは、あたしのこと、どう思ってるのかなっ?」
「……えー」
突然の質問に戸惑う俺である。
いやまあ、「この世界の俺」だったら言うことは決まってるだろうが、この鶴屋さんは俺がこの世界の俺でないことを知っていて、
元の世界の記憶を持った上でこういう質問をしてきたってことはつまりこの質問は俺の鶴屋さん自身の質問なわけであって、
ここは真剣に悩むべきところであるはずなのだが、何故か言うべきことは決まっているような気がした俺は僅かに逡巡した後、
「……好き、ですよ」
思わずこのチキン野郎と突っ込みたくなるような小声で呟いた。

「本当に?」
「本当ですとも」
「んー、まあ及第点ってとこっかなあ」
鶴屋さんはまた楽しそうに笑い、
「まあ今はまだ迷ってるところだと思うけどね。これだけは言っちゃうよっ。あたしはキョンくんのことがめがっさ大好きなのさっ」
「それは嬉しいんですが……何でまた?」
我ながら俺がこの人のお眼鏡に適うような人間だとは思いがたいのだが。
「んー、何でかなー?」
鶴屋さんは人差し指を唇に押し当ててあくまでもわざとらしく、困ったような表情で、
「キョンくんとみくるやハルにゃんや長門っちのやり取りを見てたら自然とねー」
言ってから鶴屋さんはその指を今度は俺の唇に触れさせた。
「本当に優しい人ってのはね、自分では気付かないうちに他人に優しくしちゃってるのさっ」
いつもとは違う、優しい笑みで言う鶴屋さんに俺は思わず心を射止められそうになる。
「だから、ね。多分大丈夫だと思うよっ」
そう言って鶴屋さんはいつもの笑みに戻り、
「みんな分かってるからさっ」
にひっ、と歯を見せて笑うと、くるりと振る向いて一歩二歩とステップした後もう一度振り返って言った。
「それじゃ、待ってるからねー」
「あ、ちょっと……!」
言うが早いか、鶴屋さんは手をひらひらと振りながら光に包まれ――例によってワープしたみたいにいなくなった。
「いったい……」
「鶴屋さんはいいなあ、自分に正直になれて……」
「え?」
聞こえてきた声に振り返ると、今度は羨ましそうな表情をした朝比奈さんが立っていた。
「でも、ここならあたしも正直になれます」
そう言って朝比奈さんは俺にゆっくりと近付き、
「キョンくんっ」
「は、はいっ」
いつかのように真剣な目で俺を真っ直ぐに見つめる朝比奈さんに圧倒され、俺は思わず声を上ずらせてしまった。

「キョンくんに一つ言っておかなきゃならないことがあるんです」
「な、何でしょうか」
朝比奈さんは大きく息を吸い込むと決心したように、
「前から、キョンくんのことが好きでしたっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ朝比奈さんに内心激しくエキサイトしながら、この後の展開が読めたような気がして
俺は思わず溜息をついた。もちろん心の中で。
「朝比奈さん」
「は、はいっ」
俺はあくまで紳士を装って朝比奈さんを真っ直ぐに見つめる。
「朝比奈さんの気持ちはとても嬉しいし、俺も朝比奈さんのことは好きです。そりゃもう声を大にして主張できますよ。でも……」
「いいの」
朝比奈さんは俺の言おうとしていることを悟っているかのように首を振って、
「あたしはこれでいいんです。それに、みんなもきっと同じ気持ちだから」
そう言って顔を上げた朝比奈さんの表情は、晴れやかなものだった。
「うん、本当に……。これが禁則じゃなくてよかった……」
「え?」
「バレンタインの時のこと、覚えてる?」
覚えてますとも。あの時は「時が二人を引き裂いた」なんて言葉がまさにしっくり来るような話を聞かされましたからね。
「本当は……別の時代で、恋、をしたりするのは禁則事項とかじゃないんです。別れが来るのが分かっているから、誰もしないだけ」
確かにあの話の中に禁則なんて言葉は一度も出てこなかった。出てきたのはその後の時間移動の話の時だけだ。
「でも、やっぱり自分に嘘はつけないから。どうしても、キョンくんにあたしの気持ちを伝えたかったの」
「朝比奈さん……」
「あたしの帰る場所はこの時代じゃないけど、今はまだキョンくんと一緒にいられるし、いつか帰ることになっても
また何度でも戻ってこられる。そんな気がするんです」
そう言う朝比奈さんの表情は曇り一つない本当に嬉しそうな笑顔で、
「だから……よろしくね?」
最後に悪戯っぽくウインクした顔が、あの朝比奈さん(大)と重なって見えた。
……そのとおりですよ朝比奈さん。あなたはこの先も俺たちを助けるために何度もこの時代にやって来てくれる。
いや、ハルヒさえ望めばこの時代で、みんなとずっと一緒にいられるんだ。

「そろそろ時間です。あたしもいかなくちゃ」
朝比奈さんが笑顔を絶やさぬまま言う。その体が光に包まれ始め、
「それじゃ、待ってます!」
鶴屋さんと同じようにして、消えた。
「未来人ってのも大変ね」
「……朝倉」
振り返ると今度は面白そうな笑みを浮かべた朝倉が立っていた。……おいおい、何か先の展開が読めてきたぜ。
「やっぱり来てくれたね」
「……世界の命運がかかってるからな」
「ふうん?」
何だよその含み笑いは。というか何故お前がここにいるのかをまずは説明してもらいたいね。
「それは、他の人と同じよ。あたしもあなたのことが好きってわけ」
「俺には見当がつかないんだが」
「元々はそんな気はなかったんだけどね。殺そうとしたのは本気だったし」
逃げていいかな。俺。
「大丈夫よ、今は。どうせならちゃんと理由聞いてもらいたいんだけどな」
「……いいだろう」
「そう」
と、朝倉は「ふふっ」と笑い、
「情報連結を解除されてからね、肉体はなかったけど、あたしの精神は長門さんの中にあったのよ」
「何だって?」
「あたしたちインターフェースも統合思念体を構成する情報の一部だから完全に抹消するわけにはいかないのよ。
だから長門さんが一時保管してたってわけ」
ちょっと待て。だとしたらあの冬の三日間でお前がいたのは……。
「そ、ちょっと嬉しい話よね。あの長門さんがあたしのことを必要としてくれたんだから」
なるほど……。長門が望んだ世界に朝倉がいたのは、やっぱり長門が望んだからだったのか。

「まあ結局また消されちゃったけど」
朝倉はぺろりと舌を出して笑うと、
「ま、今更かもしれないけど、二度も殺そうとしたりして、ごめんね?」
すまなそうな顔で今までの否を詫びた。……いやもう何も言わん。長門が望んだことならしかたがない。
幸い俺は死んでないしこの先襲われる心配がないんだったらいても別に問題はないだろうしな。
「やっぱり優しいのね」
そう言って朝倉はまた笑顔に戻った。
「そう言うところに惹かれたのよね、長門さんも。あたしも」
「お前も?」
「うん、結局あの後もあたしはずっと長門さんの中にいて、長門さんと同じ視点であなたを見てきたから。
もしかしたらいい奴なのかもって思い始めてから、いつの間にか、ね」
いつの間にか……ね。自分で言うのも癪だが、鶴屋さんといい朝倉といい、俺は普通にしてて他人に
自然と好かれるような人間性など本当に持ち合わせているんだろうか?
「そういうのって自分じゃ気付かないものなんじゃない? 多分ね」
そういうもんかね。しかし二度も殺されかけた相手に好かれるというのも、何と言うか妙な気分というか……。
「怖い?」
「それは、な」
「大丈夫よ、あたしはもう急進派のインターフェースとしての任務は負ってないからね。あたしも喜緑さんの管轄下に入ってるし」
「信じていいんだな」
「何なら戻ってから長門さんと喜緑さんに訊いてみたらいいんじゃない? ……それじゃ、あたしもそろそろ行かなくちゃ」
その言葉と同時、朝倉が光に包まれる。
「長門さんの気持ち、ちゃんと聞いてあげてね。それじゃ、また後で」
手を振りながらそう言うと、朝倉もまた同じようにして消えた。
「…………待っていた」
「長門」
この展開にもだいぶ慣れてきたが、今度はちょっとばかし予想外だった。
「……有希に、沙希か」
そこには、長門姉妹が二人並んで立っていた。

「あなたには、謝らなければならない」
「何がだ」
若干俯き加減で長門(有希)が言う。長門(沙希)の方は不安げに俺と長門(有希)を交互に見ている。
「わたしはまた、涼宮ハルヒの力を利用してしまった」
ああ、それは知ってるさ。
「これは前回の異常動作と同じこと」
「そんなこたあないだろ」
今回は世界が変えられちまったわけじゃないし、何より原因はハルヒだ。お前が少しばかり手を加えたところで、
俺は別にお前を責めたりはしない。
「だが、一つ気になることがある。何でお前は……あの時のお前を、別人として用意したんだ?」
古泉の奴は代弁者だとかそんなことを言っていたが、それだけじゃ納得できん。それなら前回みたいに
自分の性格を変えちまうだけで良かったはずだ。
いや、俺としては二人のままでもこの際構わないんだけどな。
「あの時のわたしは、わたしであってわたしではない」
「どういうことだ」
「あれはわたしの中に蓄積したエラーが生み出したもの。蓄積したエラーを処理するために用意した依代」
「…………」
長門(有希)は俺を真っ直ぐに見つめたまま続ける。
「結果として、わたしではないわたしが生まれた。それが、あの時のわたし」
「人格が変わっちまってたのは?」
「それは……」
長門(有希)は一瞬、迷うような表情をして、
「あなたと、普通の人間として、一緒にいたかったから」
細く透き通った声が心地よい響きを伴って聞こえてきた。
「長門……」
「でも、今は違う」

「違う?」
「嬉しかった」
「何が」
「あの時、あなたがわたしのために怒ってくれたことが」
あの病院でのことか。
「今のわたしのままでも、あなたはわたしを一人の人間として見てくれていることが分かったから」
不思議なことに、この時の長門(有希)の顔が、俺には微笑んでいるように見えた。
「このエラーは、心地よいもの。……あなたと、あなたたちと共にあるということが、今のわたしにとっては何より心地よいこと」
俺は長門の行動に久々に驚かされた。長門は、エラーを自分の一部として受け入れようとしている。
いや、実はもう自分の中に芽生えた感情というものを、こいつはもう理解しているのかもしれない。
俺が気付いていなかっただけで、こいつはもう立派に人間らしい成長を遂げていたのかもしれない……
いや、全知全能っぽい統合思念体とやらにとっては退化なのかもしれないけどな。
「あの時、わたしは“わたし”の中から世界を見ていた。あの“わたし”には、わたしのものではない自意識が確かに存在した」
そう言って長門(有希)は長門(沙希)に目をやる。
「わたしは、この“わたし”を失いたくないと思った。わたしの異常動作によって生み出されたものだけど、わたしには違いないから」
……そうだよ長門。お前のその考えは間違っちゃいない。俺はあの長門を俺の長門と同一視することはできないが、
それでもあの長門のことは決して嫌いじゃなかったんだ。
「わたしはもう一人のわたしと共にありたい。……でも、あなたは」
「構わんさ」
長門が言い終わる前に俺は、
「実は俺もあの長門にはもう一度だけでもいいから会ってみたいと思ってたんだ。お前の好きなようにするといい」
「……そう」
不思議なもんだ。また長門(有希)が笑ったように見えた。いつの間にか長門(沙希)の表情も和らいでいる。
「あー、でもこっちで言ったことは元の世界の長門は覚えてないのか」
「だいじょうぶ」
「大丈夫って、何が」
「わたしはこの閉鎖空間に介入しているから、ある程度のことは元の世界にいるわたしも把握している」
……そういうことは先に言ってくれ。段々自分のやっていることが恥ずかしくなってきた。
と、まあそれはいいとして。

「朝倉のことなんだが……」
「朝倉涼子のことは、安心してくれていい」
「……そうか」
まあ、長門がそう言うんならそうなんだろう。だがまあ、しかし。
「やっぱりお前、朝倉のことは嫌いじゃなかったんだな」
「…………」
長門は答えない……が、もしかしたら照れてるだけなのかもな。
「……もう、時間」
そう呟いたのは長門(沙希)だった。
「よかった。あなたがわたしの存在を認めてくれて」
長門(沙希)がそう言って微笑む。あの改変された世界で見た笑顔は変わってはいなかった。
「お前の望みなら、それでいいさ」
「……ありがとう」
俺も笑みを返してやると、長門(沙希)は嬉しそうに頷いた。
次の瞬間、二人の体が光り始める。二人は顔を見合わせると、手を繋いで同時に口を開いた。
「“わたし”をよろしく」
二人の長門が消える。
窓の外を見ると、いつの間に晴れたのだろうか、空がオレンジ色に染まっていた。
「あなたもなかなか罪作りな人ですね」
「う、わ!?」
朝比奈さんに匹敵するかと思うようなエンジェルボイスに振り向くと、そこにはいつもの笑顔で喜緑さんが佇んでいた。
「でも何だか分かるような気もします。あなたには何か、特異なものを感じますから」
「えー、と」
この人に関しては俺もよく分からない。でもここにいるということは、やっぱりあなたも俺のことを?
「ええ、まあ」
ええ、まあって。
「人間の持つ恋愛感情というものには興味はあります。それと、あなたにも」
「はあ」
「何しろあの長門さんが異常動作を起こす要因になってしまったほどの人ですからね。インターフェースが創造主である
統合思念体以上に一有機生命体を尊重するなど考えもしなかったことですから」

何と言うかこの人はデフォルトで笑顔な分、こういうことを喋っているとまるで古泉のようだが、まあそんなことはどうでもいい。
長門、朝倉はともかく、この人は何で俺なんだろうか……。
「フェロモンですかね?」
フェロモンて。
「冗談です」
……何故だかよく分からないがこの人からは妙な人間味を感じる。
「まあ、一番興味があるのがあなただというのは本当です」
そう言って人差し指を唇の前に持ってくる喜緑さん。……いかん、可愛いじゃないか。
「生徒会長はああですし、コンピュータ研の部長さんとはそもそも付き合ってませんしね」
……何となく分かった気がする。考えてみれば喜緑さんはそういう役回りばかりだった。喜緑さんなりに感ずるところもあったかもしれない。
そこで残ったのが俺……というわけか。まあ、光栄な話じゃないか。
「でも、まだお互いのことはよく知らないわけですけど……。これから何度もお世話になると思いますので、よろしくお願いしますね」
何やら意味深なことを言いつつ喜緑さんは俺に会釈する。
と、例の如く喜緑さんの体が発光し始めた。
「それでは」
最後まで、喜緑さんは笑顔のままだった。……意外に喰えない人なんだな。
――さて、鶴屋さん、朝比奈さん、朝倉、長門、喜緑さんときて、ということは残ったのは……。
「おっそいわよ、キョン!」
予想通りのいい意味で突き抜けた声を耳にして、俺は振り向いた。
ハルヒが、太陽のような笑みを浮かべて仁王立ちしていた。
「いやすまん、待たせたな」
ここまで来たらもうやることは分かっている。俺は笑ってひょいと手を挙げて応える。
「まったく。女の子待たせるなんていい度胸してるじゃない」
ハルヒは唇と眉を同時に吊り上げるという例の器用な笑みを浮かべて言う。
閉鎖空間を生み出すくらいだから相当イラついてるか鬱屈としてるかとも思ったが、そんなことはなかったようだ。
まあ元々アニメに影響されて作ったようなふざけた世界だからな。
「ああ、本当に俺はあれだ。女心ってやつをてんで分かっちゃいないようだ」

「ふぅん? 分かってんじゃない」
ハルヒは俺の顔を睨むようにじーっと見つめてから、
「今更になって気付くなんてほんっと甲斐性ナシよね!あたしはちゃーんと気付いてたんだから!」
長門や朝比奈さんのことか?
「そっ。っていうか多分、気付いてないのはあんただけだと思うけど」
ああ、そんな気がするね。っていうか気付いてなかったというよりは……。
「気付かないようにしてた、って?」
「まあ、な」
「あんた、ほんっとにバッカねー。そんなだからダメなのよ」
「そりゃ、悪かった」
呆れたように言うハルヒだが、俺は何故か穏やかな気持ちでその言葉を聞いていた。
そうだよ。こいつはこうでなきゃいけない。他人を無理矢理自分のペースに巻き込んで、そいつまで楽しい気分にさせちまうような
突き抜けた性格がこいつの持ち味なんだからな。
「今だから正直に言うけど。最初はね、やっぱり独占したいって思ってたわよ。でも恋愛なんて精神病の一種だなんて言っちゃった手前、
あたしから言うなんてできなかった」
ハルヒは俺の言葉を聞いていたのかいなかったのか、一人で喋り始めた。
「でもねー。あんたが全っ然なんとも思ってなさそうだったからイライラしちゃって」
古泉も言ってたな。これが閉鎖空間を発生させた理由か。
「それどころか、あんた有希やみくるちゃんの気持ちにだって気付いてなさそうだからますますイライラしちゃってね。
本当は喜ぶべきとこなのかもしれないけど、何か我慢できなかったのよねー」
と、ハルヒは突然俺をビシッという効果音が聞こえてきそうな程の勢いで俺を指差し、
「そこで考えたのよ!あたしはキョンのことを好きだけど、有希やみくるちゃんもあんたのことが好き。だったらみんなで
キョンを共有すればいいじゃないって!!」
俺は物か。それがアニメに影響された結果かよ。何て単純なやつだ。
というかこっちのハルヒは本当に素直だな。気持ち悪いくらいだ。……冗談だよ。
「こーんな可愛い女の子たちに囲まれて、まさか嫌だとは言わないわよねえ」
「当たり前だ」

もはや考えるまでもない。俺は即答していた。
みんながそれで良いってんなら俺だって断る理由なんざありはしない。
多くから一つを選びとるのではない――やれやれ、こういうことだったか。
「じゃ、決まりね!常識なんか知ったこっちゃないわ。好きな人が同じだったら一緒に好きになっちゃえばいい。
単純なことじゃない!まったく面倒な国ねえ、日本って」
法律やら倫理やらに文句を言うのは勝手だが本気で望んだりしないでくれよ。お前が望んだりしたらそれこそ
憲法すら変わっちまうかもしれないんだからさ。
「ま、あんたにそんな甲斐性なんてないかもしれないけど……。逃げたりしたら死刑なんだからね!」
「分かってるさ」
死刑は嫌だからな。なんてな。
まったく……俺はとんだ幸せ者だね。こんなご都合主義な展開に恵まれるとは。
ま、ハルヒが思ったことだからしようがないか。
「なーにこれで終わりだ。みたいな顔してんのよ。終わりなんかじゃないわよ」
「へ?」
「アホな声出してないで!もう一人いるでしょ!」
もう一人って、まさか……。
「あたしは先に行って待ってるから、さっさと来なさいよ!」
「あ、おい!」
って、うおっ、まぶしっ!
……言うだけ言って消えやがった。……まったく、ハルヒらしいぜ。
「……最後はお前か」
「何か問題でも?」
振り向くと金髪のツインテールを揺らして満足げな笑みを浮かべる春日実花がそこにいた。
「問題はないが……聞きたいことがある」
「なに?」
「こっちのハルヒは結局どこまで知ってるんだ?」
「心配いらないわよ。ハルヒはいつもどおりだから」
どういうこった。
「あの映画の時と同じ。自分では自分の力には気付いてないから」

「それは……おかしくないか?」
だったら何であいつはお前のことを知ってるんだ? 朝倉や喜緑さんはまだ分かるが……。
「それはハルヒじゃなくてあたしが望んだから」
「何だって?」
「最近はハルヒも落ち着いてるし……あたし自身飽きちゃったのよ。ただ壊すだけってのは」
どこか遠い目をして春日は続ける。
「あたしはハルヒの精神の一部だから、ハルヒの思考を操作するのは案外難しくないの。今回はそれを利用しただけ」
「そんなことが……」
いや、しかし春日は<神人>だということは、閉鎖空間であるこの世界だからこそこうしていられるんじゃないのか?
ハルヒが目を覚ましたら、結局……。
「言ったでしょ。破壊と創造は表裏一体だって」
不敵な笑みを浮かべて春日は言う。
「ハルヒの望みを具現化するのもあたしたちの役目。だったら、あたしが現実に存在するっていう事実を作ればいいだけ」
「無茶苦茶だ」
「今更この程度、驚くことじゃないでしょ? それに、結構長いこと壊してないし、一番最近の仕事はそれこそ創ることだったからね。
創る方が面白くなっちゃった」
創る……? あの映画の時のことか?
「そ。面白かったよ。鳩の色を変えたり、猫を喋らせてみたりね」
なんてこった。こいつは全部知ってたのか。
「そりゃそうよ。完全な無意識で、何かを変えられるわけなんてないでしょ。そこであたしたちの出番ってわけ」
「ちょっと待て」
そうだ、待てよ。こいつは自分の……というか、ハルヒの力を知ってる。それはつまり、ハルヒはいつでも自分の力を
自覚できてしまうってことなんじゃないのか?
「それは心配しなくてもいいよ」
「え?」
「あたしはあくまでもハルヒの精神の一部に過ぎない。その一部に自我が芽生えただけのこと。さっき思考を操作するのは
難しくないって言ったけど、直接話したりできるわけじゃないからね。それに、そんなことになったらみんな困るでしょ?」
そりゃあ、困るさ。いざって時には話す覚悟はあるが、そのいざってことがないうちにハルヒが自分の力のことを知っちまったら
何をしでかすか分からないからな。

「そこはあたしたちにも分からないことだからね。結局あたしたちはハルヒの意思で動いてるだけだから。それに」
春日が窓際へと歩いていき、窓の外を眺める。俺もそれに倣った。
「あたしもハルヒと一緒。今の、あなたやみんなのいる世界が好きだから」
春日が振り向く。その笑顔が夕日に照らされて輝く。
「だから、壊すなんてことはありえない。むしろ、守っていきたいくらいよ」
「……そうか」
安心したよ。俺も元の世界が好きだからな。
「……そろそろ時間だよ。覚悟はできた?」
「やっぱ……まだ何かあるのか?」
「うん。答えは……外にあるよ」
そう言って春日が指差したのは、文芸部室のドアだった。
「行けば分かるんだろ?」
「まあね」
二人で顔を見合わせて微笑み合う。
覚悟ね。もちろんできてるさ。
「じゃあ、もうだいじょうぶだね」
春日がドアへと近付いていく。
「それじゃ、行こうか」
「……ああ」
俺もドアへと歩み寄り春日の隣に立つ。
春日がゆっくりとドアを開けた瞬間――さっきと同じように、俺の視界は白い光りに包まれた。


「…………っ!」
目をゆっくりと開ける。
「ここは……」
おかしい。俺は“文芸部室のドアを開けて”外に出たはずだ。それなのにここは――。
「屋上じゃねえか」
眼前に広がる夕暮れの空。だだっ広いコンクリートの床。見覚えがある。
映画の撮影の時に使った、北高の屋上だった。
「あれは……」
ふと気がつくと、屋上の向こう側に何人かの人影が見えた。
不意にたんっ、と床を踏む音がする。春日が人影の方に向かって駆けていくのが見えた。
春日がその中の一人に何やら話しかけると、立っていた連中が一斉に(と言ってもタイムラグはあるが)振り向いた。
俺も春日の後を追う。
「遅い!何やってたのよあんた」
「ハルヒ……それに」
そこにいたのはハルヒと、
「……待っていた」
「ふふ。もう、遅いですよキョンくん」
「やっ。覚悟は決まったみたいだねっ」
「お疲れ様」
「やっぱり、あなたは不思議な人ですね」
長門姉妹と朝比奈さんと鶴屋さんと朝倉と喜緑さんの七人だった。
「春日、これは……」
「答えは決まったんでしょ? それなら、まだ言ってないことがあるじゃない」
……ああ、そうか。そういうことか。
「……やれやれ」
俺は思わず封印していた言葉を溜息と共に漏らした。ただし、あくまでみんなには聞こえないように。
「俺は幸せ者だな」
「何よ、今更気付いたの?」
ハルヒが心底面白そうな笑みを浮かべながら言う。
「ああ、実に今更だ」

本当に今更気付いてどうするんだろうね、俺は。
思えば、俺のこの無茶苦茶な人生はハルヒと出会っちまった時点で決まってたんだ。そして、この無茶苦茶な人生こそ
俺の望んでいたものだってことは……もはや言うまでもないことだろう?
結局、俺もハルヒも、似たもの同士なのかもしれない。
さて……この夕焼けの屋上って絶好のロケーションで、俺がしなきゃいけないことと言ったら――やっぱりこれしかないだろう。
「ハルヒ」
「何よ」
「長門……有希、沙希」
「……なに」
「朝比奈さん」
「はいっ」
「鶴屋さん」
「うんっ?」
「朝倉」
「なあに?」
「喜緑さん」
「はい」
「それから……春日」
「……うん」

俺は大きく息を吸い込んで、空を見上げ、
「俺は、みんなのことが――」
ああ、本当にらしくねえな、なんてことを思いつつ、
「大好きだあああ!!」
この場に最も相応しいと思う言葉を叫んだ。……すぐに顔を下げられるわけねえだろ。多分、いい歳して真っ赤だぜ。
「…………ふぅ」
しばらくして、やっと落ち着いた俺は一つ息をついて顔を下げる。
みんな――笑っていた。あの長門(有希)でさえ、俺にしか分からないようなレベルではあったけど、今度こそ本当に。
そして八人は声を揃えて――。


『よろしい!!』
「……よろしい」


……若干二名ほどタイミングがずれたのは、ちょっとしたご愛嬌さ。
八人がそれぞれに満面の笑みを浮かべている。……本当に俺は幸せ者だな。
そう思っているうちに、世界は段々と白い光に包まれて――。


俺の意識は、覚醒する。


「――ふがっ」
ベッドから落ちた衝撃で、俺は目を覚ました。
……何やらさっきまでやけにリアルな夢を見ていた気がする……。そう、夢を――。
「…………」

――何っつー夢見ちまったんだ!フロイト先生も爆笑――

「……いや」
俺は上体を起こして頭をバリバリとかく。
「今悩んだってしかたがないことさ」
独り言を呟きながら何気なくカレンダーを見て――今度こそ俺は愕然とした。

終業式なんてとうの昔に終わっている。


4月は出会いの季節。
始業式が、もうすぐそこまで近付いていた。



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