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■一日目~始まりはいつも突然に

 日差しが暖かくなり春の到来を感じさせる3月上旬。卒業式も終わり、後は終業式を待つばかりという何とも微妙な時期のとある日。
 いつの間にやら俺の部屋に侵入していた愚妹によって某RPGのカビ何たらだか何とかゴンだかいうモンスターよろしくのしかかりを喰らい、
布団の上でウサギみたいにうるさく跳ねられついでに布団も剥ぎ取られ無理やりに起こされるという、それはいつもどおりの朝だった。
「キョンくん、早く起きてご飯食べなきゃだめだよー」
 妹はにこにこしながら俺の横で丸くなっていたシャミを抱え上げると「シャミー、シャミー、あっさごっはんー」と全く成長の兆しを見せない
調子っぱずれな歌を歌いながら俺の部屋から出て行った。
 そう、それはそんないつもどおりの朝だったのである。
 まさかこの後、とんでもない事態が俺を待ち受けていようとは想像のしようがないくらいに――。
 それは普通の朝だったのだ。


 いつものように北高へと至る坂道をえっちらおっちら登っていたところ、あと数分で正門に到着しようという辺りで俺はいきなり肩を思いっ切りどつかれた。
「よっ、キョン!」
「……てめぇ、何しやがる」
 振り向いて眼光を飛ばしてやると、そこにいたのは言うまでもなく谷口であり、
「おいおい、そんな睨むなよ。このくらいしたってバチはあたんねーだろ」
「はあ? 何の話だ」
 朝っぱらからニタニタしながら訳の分からないことを言う級友に俺はドスを聞かせた声で切り返す。
「何の話だ、じゃねえだろ。おい」
 谷口は気持ち悪い笑みを浮かべたまま再度俺の肩を小突き、
「全く、羨ましいぜこのモテ男くん!」
「ああ?」
 モテ男くん? 誰が? 俺がか。話の流れからして俺なんだろうが……。
 はて、俺にモテ男くんなどと呼ばれるような要素があっただろうか。モテ男くんってのも死語な気がするが。
 以前バレンタインの時に谷口に妬まれたことはあったがあれは別に本命じゃないし古泉も同じものをもらっていたから――そういえば
古泉はあれ以外にも大量のチョコを貰っていたことだろう。そういう想像ができてしまうところが何つーかこう腹が立つんだが、ああもう
考えたら本当に腹が立ってきた――とてもモテ男と呼ばれるには程遠い状況だ。
 そもそも仮に俺がモテてるとして、モテてる奴がいたらそいつに向かって恨み念法でも唱えそうなこいつが、何でこんなにニヤニヤしてるんだ?
「おいおい、どうした? いつもモテる男は辛い、って言ってるじゃねえか」

「はあああ!?」
「な、何だよ」
 俺のあげた素っ頓狂な叫び声によってようやくアホみたいな笑みからアホみたいな驚き顔へと表情を切り替えた谷口だったが、
そんなことはどうでもいい。今、谷口は何と言った? 俺が「モテる男は辛い」といつも言っていると言ったのか?
 何だその笑えん冗談は。そのセリフは俺が死んでも言いたくないセリフの上位に食い込んでるものだぞ。
「おい……お前マジでどうしたんだ? まさか記憶喪失とか言わないだろうな。それこそ笑えないぜ」
 谷口が今度はアホみたいに眉をひそめて俺を見てきやがる。ええい、もう何も言うな。訳が分からん。
 俺は頭を押さえて坂道を登りながら、じわりじわりと足元から這い上がってくるような悪寒を感じていた。
 この話の噛み合わなさ加減は以前にも経験がある。
 そう、長門が世界を改変しちまったあの三日間の一番最初の日――。
 まさか、教室に行ったらハルヒの席に朝倉が座っていたりしないだろうな?



 経験というのはやはり大事なもので、同じような場面に遭遇した時、経験があるかないかによってその時にとる行動は
大きく左右されるわけだが、例えそれがどうしようもないものなのだとしても経験があれば多少の覚悟はできるというものである。
 そして今俺が役に立てようとしている経験は谷口の恋愛的経験則よりは遥かにマシなものであって、ともすれば世界を
左右しかねない事態であるわけであるから、俺はそれなりの覚悟をして教室の戸を開けた。
 即座にハルヒの席を確認する。よもや朝倉が座っているのではないかと危惧したが、どうやら杞憂に終わったようでそこには
しっかりと黄色のリボン付きカチューシャを頭につけたハルヒがいた。
 いたのだが、俺はそのハルヒの姿を見て思わず口を開けたまま固まってしまった。
 何とあのハルヒがクラスメイトと楽しげに談笑しているではないか。珍しいこともあるものだ。
 だがまあ、球技大会の件もあるしハルヒもそろそろクラスの連中と打ち解けてもいい頃だ(年度末になってやっと打ち解ける
というのもどうかとは思うがそこのところは置いておくとして)。多分阪中辺りだろうとハルヒが話している相手の姿を見て、
今度こそ俺は絶句した。
 会話の中で小さく笑う度に緩やかに揺れるロングヘアー。ハルヒに劣らぬ完璧なプロポーションを持ったそいつは、
カナダに転校したということになっていたはずの、かつてのクラス委員長――。
 朝倉涼子が、そこいた。


「あ、キョン!」
 教室と廊下の間で呆然と立ち尽くしている俺に先に気付いたのはハルヒだった。朝倉もゆっくりと振り向き俺に微笑を送ってくる。
 更に驚くべきはハルヒがはぐれていた飼い主に再開した子犬のような表情で俺に駆け寄り抱きついてきたことで、
俺は驚きの余り近付いてくる朝倉に防御体制をとることすら忘れてしまっていた。
「おはようキョンくん。そんなところに立ってたら、ほら、邪魔になっちゃうよ」
 朝倉の言葉にようやく我に返り後ろを向くと、何故かニヤニヤしながら俺の背後に立つクラスメイトがいた。
 俺がハルヒに抱きつかれたまま体をずらすと、そいつは「今日もアツいなぁ」とでも言いたげな視線を俺たちに送ってから
適当な挨拶をくれ、自分の席に向かったそいつを朝倉は笑顔で送ってやってから俺たちの方に振り向いて、
「涼宮さん、もうすぐホームルーム始まっちゃうよ。そうしたいのはあなただけじゃないんだから……ね?」
 諭すようにハルヒに言いながら、何故か一瞬俺に流し目を送ってきた。
「分かってるわよ。次は譲るって。ほら、キョン。いつまでぼーっとしてんのよ」
 ハルヒは素直に朝倉の言葉に頷くと、俺の手を引いて席に戻る。その後ろに朝倉が続き、ハルヒの席は無論俺の隣。
そして朝倉の席は俺の隣だった。まだ事態が飲み込めないまま席に座り、ふと横を見やると朝倉は邪気の欠片もなく微笑んだ。
 その邪気の無さが逆に恐ろしいぜ。俺はお前のその雰囲気に二度も騙されてるんだからな。
 俺が朝倉の笑みから視線を逸らしたところでチャイムが鳴り、担任岡部が颯爽と教室に入ってきた。
「おはようみんな!今日も絶好のハンドボール日和だなあ、あっはっはあ!!」
 颯爽としすぎていた。


 颯爽と入ってきた岡部が颯爽と去っていった後の一時間目の最中、俺はずっと頭を抱えて悶々としていた。
 何のことはない、今更になって抱きついてきたハルヒの体の感触が蘇ってきたのである。
 くそ、相手はハルヒだぞ? 俺は何でこんなにドキドキしてんだ。いや、柔らかかったのは認めるけどさ。ちくしょう、忌々しい。
「どうした? 具合が悪いのか?」
 何でもありません先生。どうぞ授業を続けてください。
 何気なく視線を動かした時に視界に移った朝倉の心配そうな顔がやけに印象的だった。
 ……そういえばあの時もこいつこんな顔してなかったっけ。やばい、寒気がしてきた。


 理性と本能の狭間で軽く悶え続けた一時間目が終わってすぐ、俺は席を立ち上がり跳ね飛ばされたように隣のクラスへと向かった。
ハルヒと朝倉が何か言っていたが気にしてはいられない。
 何故かは言わずとも分かるだろう、長門の姿を確認しに行く為だ。
 果てしなく嫌な予感がする。朝倉がいてハルヒの性格まで変わっちまってる。更にはどうやら俺以外の記憶が摩り替わっている。
だとすればこんなことをできて、やりそうなのは一人しかいない。
 そして、世界が改変されていようがいまいが、この事態を何とかするためのヒントをくれるやつはあいつ以外にありえなかった。
 また長門がハルヒの変態パワーを掠め取って、世界を改変しちまったのか?
「ちょっといいか?」
 六組の戸の前で近場にいたやつに呼びかけ長門はいるかと聞くと、
「ああ、君か。どっちの長門さん?」
「は?」
 俺の知る限り長門と名のつく生徒は六組どころか北高全体であいつしかいないはずだ。どっちって何だ。
「変なこと言うなあ。まあいいや、どうせ用があるのはどっちもだろうしね」
 若干怪訝そうな面持ちで妙な物言いをしたそいつは教室の奥の方へと歩いていく。何故かさっきから好奇な視線が俺に
突き刺さっているが、どういうことだ?
 俺は歩いていったそいつの後を目で追う。クラスメイトに話しかけられ読書を中断して顔を上げた不揃いのショートカットは
眼鏡をかけておらず、その整った顔立ちに浮かぶ果てしない無表情は間違いない、俺の知っている長門有希だ――。
「…………」
 と、安堵したのもつかの間。俺は長門ばりに三点リーダを駆使して絶句することになった。
 俺の知る長門の隣に座っていたそいつは、長門と同じように読書を中断して顔を上げる。長門と瓜二つの、双子というよりは
ほとんど生き写しのような容姿を持ったそいつは、眼鏡のツルをくいと指で押し上げた。
 もう会うことはないだろうと思っていた、この世界には存在しないはずの、何の力も持たないただの女子高生――。
 内気な文学少女、長門有希がそこにいた。

 俺は頭を抱えながら廊下に出て、俺の後ろを背後霊みたいについてきた眼鏡無しの長門と、更にその後ろを
やはり背後霊みたいについてきた眼鏡有りの長門に振り返った。
「どうなってるんだ、いったい」
 頭を抱えて心の声をそのまま吐き出した俺に二人の長門はほぼ同タイミングで首を傾げる。眼鏡のない方の長門が
精密機器で測定しないと分からないようなものであるのに対し、眼鏡をかけた方の長門は困惑がありありと分かる
表情を浮かべて誰の目にも分かるくらいはっきりと首を傾けた。
「何でお前が二人もいるんだ?」
 二人の長門はゆっくりと互いの顔を見合わせ逆再生するような動きで俺に振り返ってから、
「もとから」
 平坦な声で告げたのは眼鏡有りの――ええい、段々面倒くさくなってきた。長門(無)と長門(有)でいいよな、もう。
後者がどこぞの企業みたいだが気にしないでくれ。俺は気にしない――長門だった。
「そもそも、わたしが二人いるという表現は適切ではない」
 発するべき言葉が見当たらないでいる俺をじっと見つめながら、長門(無)は俺をますます混乱させるようなことを言ってのけた。
「わたしはわたし。彼女は彼女」


 事態は俺の知らぬ間にペストと赤痢と腸チフスを併発して死にそうになるくらいとんでもない方向へと転んでしまっていたようである。
 まず眼鏡をかけた方の長門だが、こちらは俺の知る長門有希で間違いないらしい。問題なのは眼鏡をかけた方の長門――。
 彼女は長門沙希といい、長門――有希の双子の妹であるらしい。
 超万能選手である長門有希とは違い病弱である彼女――長門沙希は学校を長い間休学していたが最近になってようやく復学したのだが、
貧血などで倒れることがしばしばある為に学校側の計らいで姉である長門有希と同じクラスに編入し現在は姉に面倒を見てもらっているのだそうだ――。
 というのが、記憶喪失になった知り合いを見るような目で俺を見る二人の長門から聞き出した情報である。
 奇しくも用意していた二人に対する呼称が即刻意味を成さないものになってしまった。ここからは長門(有希)と長門(沙希)という呼び名で
いかせてもらう。フルネームよりも文字数が多くなっているが気にしないでくれ。俺は気にしない。
 どうやら俺は二人のことは苗字ではなく下の名前で呼んでいたようである。まあ双子だからややこしいので仕方はないとは思うが……。
 それ以上の大問題が、今ここに浮上していた。
 話の節々から察するに長門(有希)は対有機なんたらインターフェースなどではなく、普通の人間であるらしい。つまり今回、俺は長門の助力を
受けられないというわけである。一番の望みが早速絶たれてしまった。そして、長門(有希)がそうなのだからまさか長門(沙希)もそうでないわけはない。
病弱で学校を休学しなければならないようなアンドロイドをわざわざ統合思念体とやらが作るとも思えん。もしわざわざそんなものを作ったのだとしたら
統合思念体はただの馬鹿だ。変態だ。

「今日は、どうしたの?」
 眩暈がするのを必死に堪える俺を見て不安げな声を上げた長門(沙希)は悲しげに瞳を瞬かせて、
「何か変」
 俺は沈黙するしかない。冬の日の長門が改変した世界がそうであったように、この世界でも頭のネジが数本飛んじまっているのは
俺だけのようだ。もはやそう判断するしかない要素は十二分に揃いすぎている。夢なら覚めてくれ……。
 俺が今度こそ本格的に頭を痛めていると長門(有希)は瞬きの極端に少ない目を物問いたげに俺に向け、
「話はそれだけ?」
「あ、ああ……。それだけだ、すまん。」
「……そう」
 若干俯き気味になった長門(有希)の顔が悲しげに見え、俺は慌てて、
「いや、悪い。今日の俺はどうかしてるみたいだ。うん、どこかで頭でも打ったのかもしれんな。はははは」
「…………」
 くそう、二人の長門の子犬みたいな視線が痛い……。
 と、休み時間終了を告げるチャイムがなった。た、助かった……。
「そ、それじゃあな。また後で」
「…………」
 ああ、胸が痛い。良心がズキズキと……。くそう、忌々しい。


 苦し紛れのフォローを入れて長門姉妹の視線から逃れるように五組の教室に戻った俺だったが、
そこには当然ハルヒと朝倉がいるわけで、
「もう、突然出て行くなんて酷いじゃない。いつもはちゃんと一言断っていってくれるのに」
 朝倉が拗ねたように言うと、
「どうせ有希と沙希に会いに行ってたんじゃないの? でも何も言わずに出て行くのは感心しないわねえ」
 ハルヒがなだめるように言って、ニヤついた顔を俺に向けた。
「……ああ、そうだ。すまなかったな」
 俺が顔に出した精神的疲労を隠そうともせずによろよろと席について頭を抱えることを続行すると、
「疲れた顔してるわね。何かやらしいことでもしてきた?」
 ハルヒが本気とも冗談ともとれるような口調で言って、俺はとうとう机に突っ伏すこととなった。
 ……いったいこの世界はどうなっちまってるんだ。


 まずは事態の整理をすることが最優先事項だろう。このままでは俺の頭がおかしくなりそうだ。今の俺はおかしくなっちまったのは
世界の方なのだと心の中で自分に言い聞かせることでかろうじて正気を保っているような状態だ。まさか長門の世界改変の時に
感じたような困惑と焦燥を再び感じることになろうとは思いもしなかった。
 何かしらの問題が発生した時に少しでもできることはないかと模索し、それを行うということは当然の措置であって、この場合
俺がまずすべきことはあの時のように何が変わっていて何が変わっていないのかということを見極めることであるのは考えずとも
分かることなのだが、いかんせんこの世界の変容っぷりは異常すぎだろうと内心で愚痴らざるをえないのはもはや言うまでもないことである。
 だがしかし確認しないわけにもいかないわけで、とはいえハルヒや朝倉、長門姉妹に何かを訊ねたところで話がややこしくなるであろうことは
容易に想像できることなので、やはり自分の目でそれらを確かめねばならず、それを実行するということはハルヒや朝倉の制止を振り切って
教室を出て行かねばならないということであり、戻ってきた時に良心が痛んでしまうような目で見られるだろうということはもはや明らかなことなのだった。
 いや、心を痛めている暇などない。俺は一刻も早くこの異変の全容を解明し、そして世界を元に戻さなくてはならないのだ。
そうする以外に俺が安息を得る方法はない……!下手をすれば俺はこのおかしくなってしまった世界にはまり込んでしまうという
危険性もあるのだ……!まさに……“沼”……!!
 ざわ……ざわ……と俺は全身の毛が逆立つような悪寒を覚えた。
 またしても俺を混乱させようというのか、世界は……!何とかしなければ、何とか……!
 そうだ、決して……。

 あ き ら め な い ! !


 二時間目の休み時間。廊下を重い足取りで歩いている俺は北高と呼ばれる高校に通っている俺はごく普通の平凡中庸な少年だ。

あだ名はキョン。
 そんなわけで非常階段の近くにある一年九組の教室までやって来たのだ。
 恐る恐る教室の中を覗き込むと一人の如才なさそうな男がクラスメイトと談笑していた。

 ウホッ!いい古泉……。

 九組も消えてないし古泉もいた。俺が不本意ながらもほっと胸を撫で下ろしていると、突然古泉は俺の方を振り向いてにっこりと微笑んだのだ……!

 と、モノローグで少し遊んでみたところで俺は微笑み光線から逃げるようにして一年九組のクラスを後にした。
 とりあえず今は北高に在籍しているということが確認できさえすればいい。何となく今回もあいつはあまり役に立たないような気がする。
というか俺を見た時の微笑がいつもと違うような気さえして寒気を覚えた。これ以上胃の痛むような思いはあまりしたくないのでこれ以上
関わり合いにならないようにスタコラサッサだぜい。


 三時間目の休み時間。さて、次は朝比奈さんと鶴屋さんだ。そういえば喜緑さんも同じクラスって言ってたっけ? 
余計なところを探さなくて済むからここは喜んでおくべきところだろう。ハルヒと古泉がいたからにはあの人たちもいるはずだ。
というか朝比奈さんと鶴屋さんは長門の世界改変の時も消えていなかったから今回もいるだろう。いや、逆パターンもありか? 
しかし朝倉はいたし……。
 などと考えながら歩いていたらいつの間にか目的の教室の前に到着していた。しかし何だ、この違和感は? 二年のフロアを一年が
難しい顔をしながら歩いているというのにまるで周りの上級生たちは俺がいるのが当然であるかのように気にもしていないどころか、
例のニヤニヤ顔で俺の方をちらちらと見ている者までいる。また嫌な予感がしてきたな……。
 俺はまた胃の痛むような事態になりませんようにと、思いながら教室の中を覗き込んで――。

 うおっ、まぶしっ!

 その時俺は確かにそこにこの世の楽園を見た。教室の真ん中で三人の天使が談笑している背景には後光すら見える。
今なら中河の気持ちも分かる気がするぜ――。
 などと思いながら、命の灯火が消え行く中で大聖堂の壁にあるルーベンスの絵を目にしたフランダースの少年のような心持ちで
仲睦まじく笑い合っている朝比奈さん鶴屋さん喜緑さんのトリオを見ていた俺に気付いた三人がゆっくりと振り向いて
微笑みかけてきたところで――。
 まさしく天にも還らんかという俺を現実に引き戻したのは休み時間の終了を告げるチャイムであった。仕方がないので
全速力で自分のクラスに戻ることにする。とりあえず確認すべきことはした。あとは……。
 これからどうしよう? 何も考えてねーや……。


 四時間目の最中、俺ははたと気がついた。この違和感は何だ?
 ……そうか。喜緑さんだ。
 今まで喜緑さんの出番が限られていたことを考えると朝比奈さん、鶴屋さんが喜緑さんとそう親しくしていたとは考えづらい。
 とはいえそんなのは些細なことだ。ただ単に俺が知らないだけなのかもしれないしな。
 それよりも重要なのはおそらく古泉や朝比奈さんたちが俺のことを知っているらしいということだ。
 これは以前の時との決定的な違いだ。少なくとも以前のような喪失感に苛まれることはなさそうだが、これは逆に危険なんじゃないか? 
下手をすれば俺はこのおかしくなってしまった世界にはまり込んでしまうという危険性も――あれ、これさっきもやったな。
 とにかくもう少し見極めが必要だ。他に元の世界との相違点がないかどうか。そしてどこかに脱出の為の『鍵』はないのか。
 のんびりしてはいられない。
 今回も期限があるかもしれないのだ。


 あれこれ考えているうちに四時間目の授業も終わってしまった。ハルヒは教科書やら筆記用具やらを片付けると、
「それじゃ、学食行ってくるわ」
「うん、じゃあね」
 席を立ったハルヒに朝倉は笑顔で手を小さく振って見送る。なるほど、この世界でもハルヒは学食を理由しているらしい。
そしてこのやり取りも毎日行われていることなのだろう。
「あ、キョン」
「何だ」
 ハルヒはふと足を止めて振り返り、
「今日はどうしたの? 何か変よあなた」
 心配そうな視線を俺に送ってきた。……そんな表情をされても今の俺は困惑するだけだぞ。
「いや、何でもない」
「そう? 具合悪くなったらちゃんと言わなきゃダメよ?」
「ああ……」
 ハルヒがこんなだと何か裏があるんじゃないかと疑ってしまいそうになるが、おそらくこの世界ではこれがこいつの本心だ。
ううむ、落ち着かない。
「じゃ、また後でね」
 そう言ってハルヒは教室を出て行った。
 参った。これじゃ本当にどこにでもいそうな普通の女子高生じゃないか。「普通」ってのはこいつが一番嫌ってるものの
一つだったんじゃないのか?
「ねえキョンくん、本当に大丈夫なの?」
 朝倉が心底心配そうな表情で俺の顔を覗き込み、その髪から芳しい香りが漂ってきて俺は過去のトラウマを思い出し寒気を覚える。

「いや、大丈夫だ。気にするな」
「そう、ならいいんだけど……」
 ああ、早く行ってくれ。悪いがお前が近くにいると落ち着かないんだ……。
「おい」
「ん、なあに?」
 顔を上げると何故か俺の机の上で弁当の包みをといている朝倉の姿があり、
「何してんだ?」
「何してるって……いつもどおりじゃない」
「…………」
 ああ、そうだったな。と適当な返事をするしかない俺である。
 下手なことを言うとまた事態がややこしくなりそうなのでもう無闇に言及するのはよした方がいいだろう。
むしろ流れに任せておいた方がいいかもしれん。
 怪訝そうな表情をした朝倉だったが弁当を広げることを続行し、俺もそれに倣うことにする。まずは飯でも食って心を落ち着けよう。
この世界で昼食を共にしているのはどうやら谷口・国木田コンビではなく朝倉であるようだ。
 朝倉のおでんを食った時みたいに何食ってんだか分からん気分で弁当を貪っているとふと朝倉が思い出したように、
「あ、そうそうキョンくん。明日はお弁当持ってこなくていいからね」
 何でだ。
「ふふ、言うとおりにしておけばいいことあるわよ?」
 自家製おでんでも持ってくるつもりなんだろうか、こいつは。


 結局この日は何の解決策も見出せないまま放課後と相成ってしまった。俺がいつもの癖で文芸部室へ向かおうと立ち上がると
ハルヒが大きく伸びをして、
「さーて、今日も終わったし帰りましょうか」
「え?」
 ちょっと待て、部活はどうしたんだ。
「部活? あんた何言ってんの? あたしたち部活なんか入ってないじゃない」
 なんてこった。今度こそ俺は世界が丸ごと改変されたってことを確信しちまった。
 つまりSOS団は存在しないってことじゃないか。
 俺が呆然としていると朝倉も立ち上がり、
「それじゃあ、二人とも気をつけてね」
「朝倉は部活なのか?」
「うん、陸上部……だけど、キョンくんが知らないわけないよね?」
「あ、ああ、もちろん」
 いかん、少し前に余計なことは言わんと決めたばかりじゃないか。うかつだった。
「キョン、今日は本当に変よ。何かあったの?」
「いや、何もないさ……」
 だからそんな心配そうな目で俺を見るんじゃない。そんなお前を見てると調子が狂うんだよ。
「ただ確かに少し疲れてるのかもしれん。今日は早めに休んだ方がよさそうだ」
「そうね。無理はよくないしね」
 朝倉が俺に微笑みかけるがこいつの笑顔で俺が安らげるわけがない。正直言ってこいつの笑顔はトラウマだ、トラウマ。
 とでも自分に言い聞かせていないと本気で魅入られそうで恐ろしいのである。朝倉の美貌は。

「それじゃ、行きましょ、キョン」
「ああ……いや」
 待て。ここでこのまま帰ってはいけない。まだこの世界でやっていないことがある。
 長門の栞。
 もしもこの世界が長門の作り出したものであるならば、今回も栞のヒントがある可能性は高い。少しでも望みがあるのならば
それにかけれみなければいけないのだ。
「すまん、今日はちょっと寄るところがあるんだった」
「どこ? 文芸部室?」
 ……予想はしていたがやっぱりそういう応えが返ってくるのか。俺は反射的に口を閉ざすが、ハルヒは続けて、
「今日は早く帰るんじゃなかったの? まああの娘たちも寂しがってるでしょうし、顔出すくらいならいいかもね」
 それにしてもこのハルヒ、やけに素直である。
「じゃあ涼宮さん今日は一人で帰るの?」
「そうねえ。ま、よくあることだし」
 よくあることなのか。
「じゃ、キョン、涼子。また明日ね」
「うん、じゃあね」
 ハルヒがひらひらと手を振って教室を出て行く。朝倉は微笑んだまま手を振り返す。何だ、妙にあっさりしてるんじゃないか? 
休み時間に俺がいなくなった時はあんなに悲しそうな目をしてたのに。
 って、そうか。何も言わずに出て行ったからよくなかったのか? 乙女心ってのはよく分からんもんだね。
 何でここで乙女心なんて言葉が出てくるのかって? そりゃあお前……。
 ここまで来て気付かない奴がいたらそりゃ、それこそ鈍感の極致だぜ。


 気付いてしまったものは気付いてしまったもので仕方がないのだが、気付いてしまってから気付かなければよかったなんて思うことは
しばしばあるわけで、どちらかというと気付かなければいけないことほど気付かなかったりするということは、これまでの経験に裏打ちされた
おそらく多くの人間が共感してくれるであろう俺内理論であるわけだが、今回もどうやらそのケースに当てはまるようであるというのは言うまでもない。
 言うまでもない辺りが頭を抱えたくなる事実であるというのもまた言うまでもないのだが、言うまでもないことに限って言ってしまいたくなるのも
人のさがなわけで、とはいえ実際に言ってしまえば奇妙な独り言を呟く頭のネジをどこそこかに落としてしまってきたような人として見られるのは
当然至極なことであり、それは是非とも避けたい所存であるのでこういうことは一人心の内で呟いておくのが吉である。
 正直言って自分でもたまに自分の言っていることがモノローグなんだか実際に口に出してることなんだかもよく分からなくなるのだが、
それも問題のような気がするのでせめて余計なことだけは口にしないようにしようと努力してたりもするのだが、余計なことに限って
口走ってしまったりするのもやはり人のさがなのであろうか?
 などと余計なことを考えていなければ正気を保てそうにないくらい今の俺には精神的余裕がなかった――。
 というほどでもないがやはり懸案事項を抱えている時は何も考えないか、あるいは他のことを考えることが頭をリラックスさせる方法なわけで、
俺が何故後者を選んだのかというとそれは一重に俺の性格上の問題であるので一切の苦情を受け付けるつもりはない。
 むしろ苦情をつけるべきはこの世界の方であるのだが、苦情をつけたらつけたでどこか他方面から俺に対して苦情がつきそうなので
これ以上自分の首を絞めない為にも止めておくというのが懸命な判断であろう。実に聡明だな、俺。誰か褒めてくれ。
 さて、ではそもそもこの世界がどういう世界なのかということをそろそろ結論付けておかねばなるまい。
 朝から放課後にいたるまでの女性陣の反応。そして周囲の反応。それこそがヒントであり答えである。
 ハルヒ、朝倉、長門姉妹の四名は俺のことが好きらしい。というかほとんど付き合ってるような状態らしい。しかも互いにそのことを
嫌がっておらず、むしろ楽しんでいるようである。そして俺の推測が正しければおそらく上級生三人組も……ということになり、
何これ、ハーレム?

 ここは嬉しがるべきことなんだろうか? いやむしろ嬉しがっていなければクレームが来そうな事態でもある。だがしかし
ここで嬉しがっていては俺がこの世界を受け入れてしまうことと同義であり、俺としてもこの世界での生活をもうちょっと楽しみたいと
思うところがないわけはないのだが元の世界にも未練はあるし、この世界のハルヒや長門や朝倉は俺のハルヒや長門や朝倉ではないわけで、
つまりは朝比奈さんや鶴屋さんや喜緑さんも俺の朝比奈さんや鶴屋さんや喜緑さんではないのだろうから、この世界で幸せを感じたとしても
果たしてそれは本当に俺にとって幸せなのだろうかと考えないこともなく、ハルヒに振り回される日常を楽しいと感じるようになっちまった俺にとって
おそらく元の世界のような超常的事件には遭遇しないであろうこの世界はやっぱり俺の居場所ではないのだろうが、しかしこのハーレム状態も
かなり超常的な事態なんじゃないかとは思いつつも、そう思ってしまえば俺は全てを捨てることになるわけで俺はまだ今まで得てきたものを
全て捨ててしまえるほど達観しちゃいない。
 つまり、結局のところ俺の結論はここに行き着くわけである。

 俺は元の世界に帰りたかった。

 おいそこ、藁人形と五寸釘を持ち出してくるんじゃない。そんなことをしても俺は立場を替わってやるつもりはないぞ。


 何事か考えながら歩いていると目的地を通り過ぎてしまうこともよくあることであり、つまるところ俺は勢い余ってコンピ研の部室の前まで
来てしまったことに気がついて、左手でもう右の腕の肘を押さえ右手の親指と人差し指を顎に当てるという典型的考える人ポーズのまま
一歩二歩と下がって文芸部室のドアに向き直った。
 まずは一度二度とノックする。常識である。常識的行動を取らない人間は逆説的に非常識な人間であるということであり、
まだ人間としての正常性を保っているつもりである俺は常識に従うまでだ。
 そして中に人がいる場合何かしらの反応があるのもまた常識なわけだが、この場合中にいると思われる人物は常識どころか
宇宙の摂理さえも当てはまらないような存在であり、しかしてこの世界においてはその非常識性が消去されてしまっているようなので、
果たして常識的な反応が帰ってくるかは実に興味深いところではある。
「…………」
 あるのだが、期待した反応は返ってこなかった。まあ予想はしていたけどな。
「長門――有希、沙希。いるんだろ? 入るぞ」
 言いつつ勝手に入る俺である。ドアを開けると椅子に腰掛けた二つの人影。その人影がほぼ同タイミングで顔を上げる。
「…………」
「あ…………」
 一方は無表情のまま。もう一方は安堵したように小さく息を漏らした。もちろん前者が長門(有希)で後者が長門(沙希)であるわけだが、
反応が俺の知る長門ともう一人の長門そのままなので俺はまた微妙な気分になるわけで、
「よう、来てよかったか」
 その微妙な気分をどこかにやろうと声をかけると、
「…………」
 何も言わず、やはり同タイミングで小さく顎を引く長門姉妹。ただし長門(沙希)の方がやはり若干こういう感情表現における動きは大

きいようである。長門(沙希)の頷きは他の奴が見ても普通に分かるだろう。

「断らなくても、いつでも来てくれていい」
 と、口を開いたのは長門(有希)の方である。長門(有希)は俺を姿に安堵する妹を一瞥して、俺にしか分からないレベルで表情を

和らげた。俺を見て、というよりは長門(沙希)が喜んでいるのを見て自分もまた喜んでいるようだ。
「いつもそう言っている」
 何となく予想していたがやっぱりそんなところか。この世界の俺は幸せ者だな。
「それから」
 長門(有希)は本を閉じて立ち上がり長門(沙希)に立つように促す。そして長門(沙希)の背中を押すようにして、
「今日は久しぶりだから」
「あっ」
「おおう!?」
 突如体に感じる心地よい重さと温かさ。何故かって長門(有希)が何故か長門(沙希)を俺にやんわりと押し付けてきたわけなのだが
何故だろう? なぜなに長門さん?
「…………」
 まるで今にも眠ってしまいそうなほどに蕩けた目で俺を見上げた長門(沙希)は顔を隠すように俺の肩口に頭を預けるとゆっくりと
腕を背中に回して――だから何故。
 だが考えていても仕方がない。おそらくこの世界ではいつもやっていることなのだろうからここで拒否してしまえばまたややこしいことに
なるのは目に見えているのでここは甘んじて事態を受け入れようではないか。私利私欲ありありだな俺。ずるいな俺。でもそこんとこは
理解してるから許してくれ。あれ、この場合は理解してるからいけないんだろうか? まあどっちでもいいや。
「…………」
 そんなわけで長門(沙希)の抱きごこちはその華奢な外見とは裏腹に実に心地よい柔らかさを持っており、こりゃすげえ最高の抱き枕だ――
などと畜生なことは俺は断じて考えていないぞ。本当だ。
 ところでいつまでこうしていればいいのだろうか。
 俺は当初の目的を思い出して、長門(沙希)の背中にそっと腕を回しながら――いや、何となくこうしないといけない気がしたんだ、
決してやましいことなど考えていないぞ、本当だ。
「なが……有希。頼みがあるんだが」

「…………」
 長門(有希)が2ミリほど首を傾けて疑問を示す。こういうところも元のこいつそのままだな。
「えー、何だったかな。……そう、ハイペリオンだ。ハイペリオンって本、あるか?」
 ハイペリオン――SOS団結成当初、長門が俺を呼び出す為に使い、また、ハルヒの消失した世界で俺にヒントを
与えるのにも使われた本だ。この本があればこの世界でも何かしらのヒントを得られるかもしれない。
「ある」
 長門(有希)は僅かに顎を引くと本棚の前に立ち、探しもせずにすぐその本を引き抜いて、
「これがどうしたの」
「その本の中にな、栞が挟んでないか?」
 直接確認したいところだがいかんせん今は両手が塞がっている。というか動けない。
 長門(有希)は一つ瞬きをするとページをぱらぱらとめくり、
「ない」
「……そうか」
 一瞬にして希望を見失う俺である。ちょっと展開早すぎなんじゃありません? 奥さん。
「すまん」
 用事はそれだけなんだ。と言おうとして俺は休み時間の時のことを思い出した。ここでまたこんなことを言ってスタコラサッサと
帰ろうものならば、またしてもこの二人に雨に濡れた子犬のような瞳で見つめられること必至である。
 というわけで俺は瞬時にこれ以外のこの後に続くべきワードを選び出してセリフを上書きすることにする。
「今日はしばらくここにいていいか?」
 俺がそう言うと長門(有希)は再びぱちりと瞬きをして、
「好きにするといい」
 この後に続く言葉を聞いて俺はまたしてもやっぱりなと思うのである。
「いつもそう言っている」


 天国とは常に地獄と表裏一体である。この日、二十年も人生経験のない俺が導き出した一つの人生訓だ。
 抱きついたままだった長門(沙希)は安心し切っていたようでいつの間にか眠ってしまい、すると当然俺は動けなくなるわけで立ったまま
長門(沙希)の体を支え続けなければならないという状態が続き、長門(沙希)の心地よい感触にこの世の天国を感じながらも俺の脚は
地獄の沼に引きずり込まれるかの如く重くなっていくわけで、そこに突然長門(有希)が抱きついてきて膝が折れそうになるのを必死に堪え、
もうどのくらいそうしていたのか分からなくなってきたところで解放された俺が得たものは、毎日の坂道登校で鍛えられていたはずの
脚に溜まった乳酸のみである。
 この世界の文芸部室での出来事はこんなものであった。
 実に文芸部らしいまったりした時間であることは間違いないのだが、いささか俺の認識は文芸部室イコールSOS団部室であり、かつそこが
文芸部室であることを忘れそうなくらい、俺の知る北高文芸部室はおおよそ文芸部の部室とはかけ離れた存在であることはもはや言うまでもなく、
どのくらい文芸部室としての印象が薄いかというとつい最近やったはずの機関誌作りで思い出した、文芸部室イコール文芸部の部室で
あるということをまたしても忘れ、今になって再び思い出したくらいである。
 結局文芸部室は文芸部の部室なのかSOS団の部室なのか。ここのところは是非長門に訊いておきたいところだ。
 まあそんなことはどうでもいいのだが、何となく長門姉妹と一緒に部室を出て、何となく長門姉妹と一緒に下校し、何となく長門姉妹の住む
高級分譲マンションまで来た辺りで、今から歩いて帰ったら何時になるんだろうかということに気がつくくらい俺の正常な思考回路は
ヒューズどころか基盤ごとぶっ飛んでいたらしいということを認識し、欝状態に拍車のかかる俺をどうにか救い出してくれたのは
長門(有希)の平坦な声であった。
「上がっていく?」
 あったのだが、やはりそこは長門である。必要最低限以下のことしか話さない無口っぷりは健在で主語が抜けているのもそのままだ。

「何処に」
「わたしたちの家」
 予想はしてたさ。そりゃあもうわたし「たち」の家ってとこまでな。
 だが上がってしまったらそれこそ取り返しのつかないことになりそうである。禁じられた果実はかじってはならないのだ。
「いや、また今度にしておくよ」
「……そう」
 残念そうな顔をする長門姉妹だがここは断っておくのが正解だろう。何故正解かって、それは間違いじゃないからさ。
もとい、間違いを起こさない為に選んだこちらの選択肢が正解なのだ。そうだと信じたい。
「じゃあ、また明日な」
 長門(有希)は顎を引くといまだに名残惜しそうな顔をしている妹の手を引いてゆっくりマンションの玄関へと向かっていく。
何度もこちらを振り返る長門(沙希)の視線が痛い。
「……やれやれ」
 長門姉妹を見送ってから俺はマンションに背を向け、封印していた言葉とともに溜息を一つ。
 そろそろ何とかしないと本格的にやばいぜ。主に俺の理性がな。


 今日という日もそろそろ終わろうとしている。だがまだ時間はある。俺は次なるヒントを求めて――といっても使えそうなヒントなんざ
何一つ出てきちゃいないが――ある場所へと向かっていた。
 長門のマンションの近くでヒントがありそうなところ、といったらここしかないだろう。
 そう、光陽園駅前公園だ。
 今まで何かおかしなことが起きる度に世話になってきたこの場所ならば何かが見つかるかもしれない。そう思って来てみたはいいものの、
「何もねえよなあ」
 はっきり言ってただの公園である。公園と言っても子供がはしゃいでいそうな砂場やらすべり台やらがあるものではなく、休日にはカップルで、
平日にはサラリーマン辺りで賑わいそうなタイプのものだ。とはいえそんな公園というものの概念をいかんとするやという脳内議論が
役に立つはずもなく、俺はこのだたっぴろい空間でただ立ち尽くしているというわけだ。
「んん?」
 流石に平日のこんな時間ともなると人はいないかと思っていたのだが、意外にも俺以外の人影があった。何となくそちらの方に
歩いていってみると、そいつは俺の姿に気がついたのかゆっくりと振り向いた。何故か腕に紙袋を抱えている。
 そこにいたのは金髪ツインテールに蒼い瞳というどこの外国人かと見まがうような美少女で――
「…………」
 すたすたと俺の方に早足で近付いてきたその少女は何故か眉を吊り上げたままぽつりと、
「春日実花」
 それが彼女の名前だと判断するのに数秒を要するような(どう考えても純和風な名前だったからというのもあるが)長門みたいな自己紹介をして、
「これ、あげる」
 抱えていた紙袋の中から1つのビニールの包みを取り出すと(ちらりと中を覗き込むと同じようなものが大量に詰め込んであった)俺にずいっと突き出した。

「…………」
 この三点リーダは俺と少女――春日実花の分である。どうやら差し出してきたはパンの包みであるらしいが、
彼女は俺にそいつを突き出したまま動かないし、俺は俺でどうするべきか悩んでいると、
「ん」
 春日と名乗った少女はリアクションしない俺に痺れを切らしたのか、包みを俺の胸に押し付けてきた。
「……どうも」
「うん」
 仕方なしに包みを受け取ると春日は小さく頷いて、
「それじゃ」
 さっと俺に背を向けると駆け足で俺の前から姿を消してしまった。
「……何なんだよ」
 何故俺にこんなものをよこしたのかがそもそも謎だが、自分から人に物をやるのにあの態度はないだろう。
無愛想さでは初めて出会った頃のハルヒとタメを張れそうだ。ついでにむすっとした顔だったのに
可愛いと思えたのもハルヒを初めて見たときのようだった。
 だがまあ、そんなことよりも今の俺にはもっと疑問を禁じえないものが俺の手の上にあった。
 春日が抱えていた紙袋の中身と俺に渡したパンは全部同じものだったらしいのだが、それが――

 何で、ヤキソバパン?


 ゲームをやるなら俺は腰を据えてやれるRPGがいい。戦闘や謎解きもいいが、何よりセーブが出来るというのがいい。
パーティが全滅してしまったりしたらリセットして途中からやり直せばいいだけだからな。
 まあ何でこんなことを言うのかといえば、家に帰ってから中途半端なまま放っていたRPGを久しぶりに、半ば現実逃避気味に
やり始めたからなのであるが、やはり久しぶりということもあって勝手が分からずなかなか先に進めない。ともすれば
リセットを何度も押すくらいである。このゲームってこんなに難しかったか?
 しかし、こうやってRPGなんかやってるとつくづくセーブってもののありがたみを感じるね。
 特に、今回みたいに頭痛と胃痛に同時に襲われるような事態に陥った時はな。
 まったく、このままじゃ夜も眠れず昼寝をしちまいそうだぜ。
 誰か俺がロードすべきセーブデータの在り処を知らないか? 知っていたら是非とも教えてくれ。ほうびをさずけよう。
 ……おお、ゆうしゃよ!あきらめてしまうとはなさけない!!
 まあおふざけはこのくらいにして。
 明日こそ本当に何かしらのヒントを得たいもんだね。俺が理性を保ってるうちにさ。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、俺は今日の夜食を一口かじった。
「……美味いな。このヤキソバパン」


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