その日、ちょっと遅れて部室へ向かっていたオレは、ありえないものと廊下で遭遇した。
そりゃ未来人、宇宙人、超能力者と毎日顔をつきあわせてダベってるオレだ。そうそう
のことでは「ありえない」なんて言葉は使わないようにしている。

そんなオレが、あえて「ありえない」と強調して言うんだ。

正直なところ、奥から走ってくるその姿は他人の空似かと思った。けれど、オレがあの
人を見間違えるわけがない。
顔を伏せ、手を口元にあてながら逃げるように走るその人は、紛れもなく朝比奈さんだ。
なのに、オレのことにも気づかずに、横を通り抜けてそのままどこかへ行ってしまった。

ありゃどう見ても泣いている。しかも、精神的にかなりのダメージを負った泣き方だ。
その姿に、オレは追いかけることも忘れてただ見つめるしかできなかった。
そりゃそうさ。あまりの出来事に呆然としてたんだ。が、よく考えれば由々しき事態じ
ゃないか? あの朝比奈さんがマジ泣きしてたんだぞ。いったい誰の仕業──。

いや。
いやいや、ちょっと待て。よく考えろオレ。冷静になるんだ。
まず、ここはどこだ? そう、部室棟だ。なら、部室棟には何がある? SOS団のア
ジトだ。そしてSOS団のメンバーが泣かされて、そのままに放置する薄情者が団員の中
にいるか? ノーだ。団員に手を出すヤツはハルヒがただじゃおかない。

にもかかわらず、そのまま放置ってことは……朝比奈さんが泣いている理由はひとつし
かないな。

オレは全速力で部室へ向かった。今日はノックする必要なんてない。朝比奈さんは、さ
っき泣きながらどっかに行っちまったんだからな。

「おいこらハルヒ!」

自分でもけっこう乱暴にドアを開けたと、あとあとになって思う。そのくらい、オレは
頭にキてたんだろう。
部室内には、ハルヒしかいなかった。長門も古泉もいない。2人は朝比奈さんを捜しに
いったのか、それとも最初から来ていなかったのかわからないが、少なくとも部室内にい
るのはハルヒだけで、そのハルヒは定位置に座って外を眺めていた。

「何よ、うるさいわね。静かにドアも開けられないの?」

それをおまえが言うか。まぁ、そんなことはどうでもいいんだ。
このテンションの低いハルヒを見れば、一目瞭然だ。朝比奈さんを泣かしたのは、コイ
ツで間違いない。

「ハルヒ、おまえ今度はいったい何をやらかしたんだ!?」
「なんの話よ」
「さっき、そこで朝比奈さんとすれ違った。マジ泣きしてたぞ」
「……あっそう」

そう……っておい、それだけか? 朝比奈さんもSOS団の大切な団員だろ? それを
泣かせて、「あっそう」の一言でおまえは済ませるのか!?
カッとなったオレは、いまだに外に顔を向けたままこちらを見ようとしないハルヒに近
付き、強引にこちらを向かせた。事と次第によっては、殴ろうかと思ってたくらいだ。

けれど、なすがままにこちらを向いたハルヒの顔を見て、オレは息を呑んだ。
目は真っ赤に充血し、頬には乾いたばかりの涙のあとがある。それをオレに見られてど
う思ったのかは分からんが、睨むその表情はすぐに険しいものになった。

「何よ……もう、何なのよ! 何も知らないくせに騒がないでよ! ああ、そうね。キョ
ンはみくるちゃんのこと大好きだもんね。だったら、さっさとみくるちゃんのとこ行けば
いいでしょ!」

叫ぶや否や、ハルヒの平手が飛んできた。あまりにも突然すぎて思わず避けちまったん
だが、それがまた、ハルヒの癇に障ったようだ。

「何で避けるのよ! あんたなんて、素直に殴られてりゃいいのよ!」

むちゃくちゃ言うなよ。なんで八つ当たりで殴られなきゃならんのだ。そんなに殴りた
ければ、フィットネスクラブに行ってサンドバッグでも殴っくりゃいいじゃないか。
などとはとても言えず、朝比奈さんの泣き顔で頭に登った血が、ハルヒの泣き顔で一気
に下がった。いくらオレでも、こんなハルヒを見れば一概に『おまえが悪い』とは言えな
いさ。

「何かわからんが、オレも悪かった。まずはケンカの原因を話してみろ。事と次第によっ
ちゃ、力になってやらんこともない」
「……ない……」

なんだって?

「あんたに言う必要ない、って言ったのよ! いいからほっといてよ!」

オレを突き飛ばし、自分の鞄を引っつかむとハルヒは部室から飛び出して行った。
今日は本当に、ありえないことが次々と起こる。女同士のケンカに首を突っ込むとロク
なことにならなさそうだが……でもまぁ、仲が良ければケンカのひとつもするだろうさ。
これはもう、傍観しとくのが賢い選択だろう。
傍観できれば、だけどな。


その日、結局部室に古泉は現れなかった。古泉だけじゃない、長門の姿も見ることはで
きなかった。といっても、オレが部室に残っていた時間はハルヒが帰ってから1時間くら
いだけどな。

なんか今日は調子が狂う一日だったが、たまにはこんな日もあるだろうさ。部室で朝比
奈さんの淹れてくれたお茶が飲めなかったのは残念極まりないが、ハルヒと朝比奈さんの
ケンカも明日には──まぁ、度合いにもよるだろうが──仲直りしててくれりゃ有り難い。

そう思って下駄箱を開けると……ウサギのシールで封をされたピンクの封筒が入ってい
た。周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、手紙を手に取る。
改めて周囲を確認し、本当に誰もいないことを再確認してから開封。中にはたった一言
『公園のベンチに来てください』と書いてある手紙が入っていた。

差出人の名前は、みくる、と書いてある。

こうやって下駄箱に手紙を入れられていると未来的な雰囲気が漂い、いやぁ~な予感が
するが、オレが朝比奈さんの呼び出しを断る理由なんざ1ミクロンもありはしない。

もはや口癖になっているいつものセリフが喉もとまで出かかったが、グッと飲み込んで
オレは学校を後にした。

朝比奈さんの呼び出しに、オレの足取りはいつもの3倍は軽やかに……って感じにはな
らなかった。
さすがにハルヒと朝比奈さんのケンカ後だし、待っているのが朝比奈さん(大)かもし
れないって思いもミックスされれば、足取りは重くなるというものだ。

そんなオレの沈んだ気分を持ち上げてくれたたのは、いつも部室でお茶を淹れてくれて
いる朝比奈さんがベンチに腰掛けていた、ということだろう。
まぁ、軽くなったのは一瞬だけだ。どうにも嫌な予感がする。これまでの経験がちゃん
と血となり肉となっているのか、はたまたオレの第六感もそこそこ鍛えられているのか、
嫌な予感だけはよくあたるんだ。

「こんなところで何やってるんですか、朝比奈さん」
「え……? あ、え、キョンくん?」

別に他意はなかったが、さも偶然を装ったフリをして声をかけてみると、朝比奈さんは
驚いた素振りを見せた。
……決定、あの手紙は朝比奈さん(大)からの手紙だ。

「隣、いいですか?」
「え……っと」

何か言いたそうな顔をしているが、オレは返事を待たずに隣に腰を下ろした。
手紙の主が朝比奈さん(大)だろうと朝比奈さん(小)だろうと、どっちでもいいんだ。
今ここに、ハルヒとケンカをして泣いていた朝比奈さんがいただけで、来た甲斐があった
ってもんさ。

流れる川の水面をどれほど眺め続けただろう。
オレから何か話しかければよかったのかもしれないが、あいにく気の利いたセリフは何
も思い浮かばない。
ハルヒとのケンカなんて気にするな、と言ったところで、それは当人同士の問題だ。外
から何か言われても、下手すればよけい意固地にさせる結果になるかもしれない。

「……キョンくん」
オレからは何も言うべきことがないと悟って黙っていると、日が暮れて、街灯に灯りが
灯り始めた時間になって、ようやく朝比奈さんは沈黙を破った。

「来てくれて、ありがとう……」
「偶然ですよ」

かなり作為的な偶然だな、と考えて苦笑が漏れる。素直に「捜しに来ました」とでも言
った方がよかったのか、それともこれでよかったのか、ガキのオレにゃよくわからん。
ただ、こうなったら朝比奈さんが何か喋ってくれるまで、とことん付き合うつもりでは
いるんだ。オレにはそのくらいしか出来そうにないからな。

「あたし……ね」

ぽつりぽつりと、吐息を漏らすように言葉を紡ぐ。何を言うべきか迷っているような、
何を言えばいいのか考えているような、一言の間がかなり空いているが、オレが黙って朝
比奈さんが話す言葉を理解しようと耳を傾けた。
そして、朝比奈さんが次に漏らした一言には、我が耳を疑ったね。

「あたし……未来に帰ることにしちゃいました」

その言葉の意味を、しっかり頭の中で理解するのにどれほどの時間を要したろう。
当然だ。そんなことを急に言われても、すぐに理解できるわけもなければ、納得もでき
やしない。
そりゃ、朝比奈さんは未来人だ。いつかは本来の時間軸に戻る日が来るんじゃないかと
は思っていた。でもそれがこんな急に、しかもこの日に訪れるなんて、理解しろという方
が無理ってもんだ。

「それは……何故ですか?」

口の中が乾く。頭がぐらぐらする。それでもオレは、張り付く唇を無理矢理こじ開けて
納得のできる答えを求めた。

「何でって……ほら、あたし、全然ダメでしょ。みんなの役に立たないし、大変な時にだ
っておろおろするばかりだし……自信なくしちゃった」

本当になんで……この人はこんな時にまで……。
儚げに笑う今の朝比奈さんを見れば、オレじゃなくったって苛立ちの感情しかわいてこ
ないさ。

そんな言い訳じみた理由が聞きたいんじゃない。どうしてここにきて、オレにそんなウ
ソを吐くんだ。悔しいし、情けない。これまで一緒にハルヒや長門、古泉たちと行動を共
にしきたんだぞ。その中で朝比奈さんの存在は、はずすことなんてできやしない。いない
ほうが不自然じゃないか。

なのにどうして、その関係を崩すような事を言うこんな時にまで、ウソでごまかそうと
するんだ!?

「ハルヒとのケンカが理由ですか?」

まだウソを並べ立てる朝比奈さんの言葉を遮るように、オレは我知らずキツイ口調で問
い質すように聞いていた。

「え……っと……」
「朝比奈さんがハルヒとケンカしたのは知ってます。朝比奈さん、泣いてたじゃないです
か。未来に帰るって……それが理由ですか? ウソやごまかしはやめてください。本当の
ことを話してください」
「それは……」

朝比奈さんは、言葉ではなく首を縦に振ることで、オレの問いかけを肯定した。

「だったら、そんなのハルヒに謝らせればいいんです。朝比奈さんが未来に帰る理由にな
んてならないじゃないですか」
「違う……違うの、キョンくん。そうじゃないの。涼宮さんとのケンカは、きっかけでし
かないの。それに、あれはあたしが悪いの」

そう言う朝比奈さんは、両手で顔を覆っていた。こぼれる言葉は嗚咽とともに溢れ、オ
レは……情けないことに、ただ見ているしかできなかった。

「あたし……あたし、涼宮さんに知られてしまったの。ずっと隠しておかなければならな
かった禁則事項を涼宮さんに知られて……。だ、だから……もう、もうあたしは……この
時間平面には……」

嗚咽が号泣に変わり、朝比奈さんの目元からは大粒の涙がこぼれていた。彼女をここま
で狼狽させる、ハルヒに知られてはいけない禁則事項ってなんだ? それは……自分が未
来人だということなのか?

「ううん、それよりも、もっと……重要なこと」
自分が未来人であることがバレるより、もっと重要なこと? そんな秘密なんて、オレ
には想像もつかない。
「キョンくん、覚えてますか?」

朝比奈さんは、涸れることのない涙を双眸に湛えて、オレをまっすぐ見つめていた。あ
ふれ出した涙がボロボロこぼれるのも気にせず、ただただオレを見つめていた。

「はじめて2人でこの道を歩いたときのこと」

忘れるわけがいない。ハルヒに無理矢理集められたオレたちが、今じゃ定例になってい
る市内パトロールの第1回目を行った日のことだ。
そのとき、オレは朝比奈さんがから未来人であることを告げられたんだ。

「そうじゃなくて、あの日、あたしは初めて男の人と2人っきりで一緒に歩いたんだ……
って話ましたよね?」
「え? ああ、そうでしたね」

あのときは甚だしく意外に思ったものだが、朝比奈さんが未来人であるというのであれ
ば、この時間の人間と仲むつまじくしているのは……確かに切ないものがある。

「もう、最後だから言っちゃいます。あたし、あたしね……ホントはあのときから……」

目を閉じて、朝比奈さんの顔が近付いてくる。無意識に朝比奈さんの両肩に手を置いた
オレは、朝比奈さんの行為を決して拒んでいるわけではなく、力を入れず、ただ添えてい
るだけだ。
朝比奈さんは、そのままオレに体重を預けるように顔を近づけ、かくいうオレは反射的
に目をつむり、そして──。

あれ?
「……すぅ……」
…………寝てる…………。
ってことはつまり。

「朝比奈さん、そこにいるんですね?」

がさごそと、その常緑樹が時間移動時の出現ポイントだとでも言いたげに、以前と同じ
場所からオレをこの場所に呼び出した当の本人が。ようやく現れた。

「ごめんね、キョンくん」

見る人すべてを魅了するその笑顔は今はなく、陰りを落とした表情で朝比奈さん(大)
がオレの前に立っている。

「口だけの謝罪なら、もういいです。ほかの懸案事項についても、今は何も問いつめたり
しません。ですが、この状況だけははっきりと説明してください」

正直に言うと、今のオレはけっこう頭に来てるんだ。自分で言うのも何だが、オレは意
外と懐の広い人間だと思っている。人道からはずれるようなことでもなけりゃ、常識はず
れなことだって笑って済ます器量くらいはあるだろうさ。

でもな、朝比奈さん(小)が未来に帰るとか、そういう冗談はシャレで済ませられる話
じゃないんだ。それだけオレは全員のことを大切にしている、と思ってもらいたい。
だから、ハルヒと朝比奈さんのケンカが仮に仕組まれたものだとしたら、それを仕組ん
だヤツは誰だろうと許せない。

それがたとえ、未来の朝比奈さんであったとしてもだ。

「違うの、キョンくん」

朝比奈さん(大)は珍しく取り乱し、今にも泣きそうに顔をさらに曇らせていた。そん
な表情を見ると、本当に朝比奈さん(小)と同一人物なんだな、と感じてしまう。

「あたしと涼宮さんのケンカは、本当に起こるべくして起きたことなの。あのときのあた
しは本当に混乱していて……だから『未来に帰る』なんて言い出しちゃって。思い出した
今でも恥ずかしくなるわ。本当にごめんなさい」

深々と頭を下げる朝比奈さん(大)のセリフに、オレは違和感を覚えた。
今、なんて言ったんだ? 未来に帰るなんて「言い出しちゃって」……だって? それは
つまり、裏を返せば帰らないってことじゃないのか?

「うん。まだ帰りません……けど、それはキョンくん次第」
それはどういう……?
「キョンくん、『好き』って気持ちと『愛してる』って気持ちの違い、わかる?」

頭に疑問符を浮かべていると、朝比奈さん(大)はさらに混乱させるようなことを聞い
てきた。

「あたしの感覚でゴメンだけど、『愛してる』っていうのは広い意味であって、『好き』
っていうのは一途な感じなのよね。ほら、『家族愛』とか『人類愛』とかは普通に使うけ
ど、でも『家族好き』とか『人類好き』って何かニュアンス的に違うような気がしない?」

なんとなく言わんとしていることは分からなくもないが、オレが正しく理解できている
かどうかと問われれば、首をかしげるしかない。何が言いたいんだ?

「キョンくん、今、好きな人がいるでしょ?」

な、何を言い出すんだ突然!?

「その相手が誰とは言わないけれど、その人に対する思いが『好き』って感情で、妹さん
や友だちを大切に思う気持ちが『愛』なんだと、あたしは思うの」

それは……そう言われれば、より具体的に分かる……ようが気がするが、その話が今の
この状況で話すべきことなんだろうか?
そんなオレの混乱を見て取ったのか、ふぅっ、とため息をついて朝比奈さん(大)は言
葉を続けた。

「あたし、好きな人がいたの」
どこか照れくさそうに、けれど何かを吹っ切ったような微笑みを浮かべていた。
「その人は、あたしが淹れるお茶をいつも美味しそうに飲んでくれて、あたしが困ってい
るときは必ず助けてくれて……その人のことを、あたしは本当に大好きだったの」

それは……。

「でも、あたしの気持ちにその人が気づいてもいけないし、ほかの人が気づいてもいけな
いの。だって、未来人のあたしは本来この時間にいない人間だもの。その人が結ばれるべ
き相手との未来を、未来人のあたしが奪ってしまうことになるもの。だから……過去にお
いて、あたしは誰かを好きになることも、好かれることもできない。何よりも優先させる
べき重大な禁則事項なの。でも、バレちゃったけどね」

こつん、と自分の頭を叩いて、朝比奈さん(大)は照れくさそうに舌を見せた。

「それが、ハルヒとのケンカの原因ですか」

朝比奈さん(大)は、こくんと頷いた。

「切っ掛けは些細なことだったの。でも、そのときのあたしもまだ子供で、どうしても許
せなくて……何を言ったのかよく覚えてないけど、わんわん泣いちゃったなぁ。でも、涼
宮さんも泣いてたでしょう? あたし、涼宮さんを泣かせたんですよ。凄いでしょ」

そりゃあもう、ハルヒを泣かせることができるなんて、もしかするとあなただけかもし
れないですよ。

「今も、涼宮さんは泣いてるんです。本当はあたしが謝らなければならないことなんだけ
ど、でも涼宮さんのことだから会ってくれない。それに、涼宮さんが待っているのはあた
しじゃないと思う」

朝比奈さん(大)は、戸惑いの瞳でオレを見つめていた。突き放すような意志と、引き
留めようとする意志が葛藤している瞳……と見えるのは、オレの気のせいだろうか。

「キョンくん、涼宮さんのところに行ってあげて……」

躊躇っているオレの背中を後押しするように、朝比奈さん(大)は絞り出すようにそう
言った。

「あたしなら、大丈夫。今日のことの記憶は長門さんに頼んで凍結してもらうし、涼宮さ
んの居場所は古泉くんが知ってるから……だから」
「朝比奈さん、ひとつだけ答えてください」

今のこの気持ちのままじゃ、オレはハルヒのところになって行けやしない。行ったとこ
ろで、何もできはしないだろう。

朝比奈さん(大)がその話をしてくれたということは、朝比奈さん(小)にとっては現
在進行形の想いであっても、朝比奈さん(大)にとっては過去の思いなんだ。だから、禁
則事項にならずに、オレに話してくれた。

それはわかっている。わかっているが、ただひとつ、本当に些細なことでいいんだ。

踏ん切りをつけさせてくれなければ、オレはどこにも行けないし、朝比奈さん(大)だ
って、この時間に現れた意味がない。

だから、オレは聞くんだ。



「朝比奈さん、今、幸せですか?」



その問いかけが意外だったのか、朝比奈さん(大)は一瞬目を見張って驚いた表情を見
せたが、すぐに極上の──それこそ、世の祝福を一身に浴びたような女神のような微笑み
を浮かべて、「当たり前じゃないですか」と──。



その左手の薬指に輝くリングを見せて、そう言ってくれた。



朝比奈さん(大)から古泉は学校にいると言われて駆けつけたオレを待っていたのは、
古泉だけではなく、長門も一緒だった。
2人の表情に驚きがないのは、オレが来ることを予めわかっていたってことか。

「思ったよりも早くて助かりました」

爽やかな笑みを浮かべて、古泉がいけしゃあしゃあと、本当に感謝しているのかどうな
のか問いつめたくなることを言いやがる。

「ハルヒは?」
「おわかりかと思いますが」

持って回った言い方をするなよ、こんな時まで。

「閉鎖空間の中ってわけか」
「理解が早くて助かります。ですが、ただの閉鎖空間ではありません。以前……そう、あ
なたと涼宮さんが2人で閉じこめられた閉鎖空間と同じもの……いえ、下手をすればそれ
以上の場所ですね」

それは……よく分からんが、実はけっこう危険な状態じゃないのか? それこそ世界が
終わる寸前だとオレは思うんだが、古泉の態度を見ているととてもそうとは思えない。

「いえいえ、とんでもない。『機関』の人員が総出でかかっても対処しきれない異常事態
です。ただ、今回に限っては長門さんも協力してくださったおかげで、今もまだ保ってい
る、ということです」

長門が『機関』のやることに協力とは……それはまた、珍しいことと思うべきか、それ
ほどまでの緊急事態と把握すべきか、迷うとこだな。

「古泉一樹が所属する組織への協力ではない」
違うのか? じゃあいったい何で……?
「ただ、時間を返しただけ」
時間を返すって……なんの話だ?

「涼宮ハルヒはあなたや古泉一樹、朝比奈みくると出会う時間を、あなたはわたしが『私』
という存在であることに気づく時間を与えてくれた。それを返しただけ」

ジ……ッと、吸い込まれるような漆黒の瞳でオレを見つめた長門は、その無貌に何を思
っているのかオレが把握する前に、ついっと顔を背けて校門へ向かって歩き出した。

「お、おい長門」

オレは何を言いたかったのかな、思わず長門を呼び止めていた。

「あー……ありがとな」
「……いい」

ほんのわずかな間だけ歩みを止めて、長門はそう言うと長い坂道を降りて行く。

「では参りましょうか」

去っていく長門の後ろ姿を惜しみつつ、オレは古泉とともに校内に足を踏み入れた。

「今は異常事態……って、おまえは言ったよな?」

古泉曰く、校内すべてが閉鎖空間になっているわけではないらしい。校内の、ごく一部
がそうなっており、範囲の狭い閉鎖空間はこれまで出来たことがない、という。
それもそうだ。《神人》が暴れるのは、いわばハルヒのストレス解消であり、逆に言え
ば《神人》が暴れられなければ、ハルヒのストレスは解消されない、ということになる。

「そうです。もはや一刻の猶予もありません」
「それにしては、余裕がありそうに見えるんだがな」
「それはそうですよ」

なんなんだ、その根拠のない自信の表れは。

「根拠がない、とはとんでもありません。ただ、確かにあなたが言うように楽観視はして
いますが。何故かわかりますか?」

そういう持って回った言い方は、時と場合を考えて使ってくれないもんかね。今のオレ
には心の余裕があまりないんだ。

「それは失礼を。理由は簡単です。ここにあなたがいるからですよ」
「なんでそれで楽観視できるんだよ」
「あなたを残して、涼宮さんが世界を改変するわけがないからです」

自信満々だな。そんなのは根拠にすらならないじゃないか。

「僕はこれでもSOS団の副団長ですから。団長のことはもちろん、団員のことも把握し
ているつもりです。そうでなければ、しがない中間管理職はつとまりませんからね」

それはまた……頼もしいことを言ってくれる副団長さまじゃないか。

「こちらです」

古泉がオレを連れてきたのは、1年5組の教室だった。オレはてっきり文芸部の部室だ
と思っていたんだが、ここだってのは意外だ。

「僕にとっては、なるほどと納得できる場所ではあるんですが」
「そうか?」
「ここは、あなたと涼宮さんが初めて出会った場所でしょう?」

古泉はオレの手を取る。閉鎖空間に入るためには仕方がないとはいえ、男に手を握られ
るのは気持ちの良いもんじゃないね。

「予め断っておきますが、僕に……というか、『機関』の人員を総動員してできることは、
あなたを涼宮さんのいる閉鎖空間へお連れすることだけです。そして、中では涼宮さんの
記憶すら曖昧な状況になっているでしょう。覚えていることは、強い思いだけ……といっ
たところでしょうか。世界が変わろうとしているのだから、当然ですね」

「それで?」

おまえが真面目な顔つきになっているのは、この際、スルーしてやろう。だがな、話を
するなら手を繋ぎっぱなしじゃなくてもいいんじゃないのか?

「一般的な視点で状況を説明すれば、『世界の運命はあなたに託された』ということです。
けれど……そうですね、僕がこんなことを言うのは意外かと思われますが、こればかりは
本心なので、信じていただきたいのですが」
「だから、なんだよ?」

「まだ、あなたにゲームで勝っていません。あなたに黒星を付けるのが、高校生活の目標
なんですよ。ですから、是非とも戻ってきていただきたいのです。……涼宮さんと一緒に」

オレにゲームで勝つだって? そんなこと、本気で考えているとは驚きだ。

「おまえに土を付けられることなんて、想像できないけどな。でもまぁ、ゲームには明日
もつきあってやるさ」

その答えに満足したのか、古泉はいつものようなニヤケ顔を見せた。

「約束ですよ」

古泉に導かれて入った教室の中は、机が整然と並ぶ見慣れた景色だった。違うところと
言えば、教室内に誰もいないことだろうか。……いや、1人だけ、そこにいる。

窓際の最後尾、机を枕にして顔を伏せている黄色いカチューシャの女。

悪いが古泉、時間がないとおまえは言っていたが、オレには関係ないね。オレはただ、
ハルヒに言いたいことを言いにここへ来ただけだ。世界がどうとか、そういうのは二の次
なんだよ。

「よう、ハルヒ」

登校したいつものように自分の席に腰を下ろして、顔を伏せているハルヒにオレは声を
かけた。そんなハルヒはチラッとだけオレに目を向けるや否や、再び顔を伏せる。

「何よアンタ、馴れ馴れしいわね」

不機嫌この上ない口調で、とりつく島もない。テンションがローギアに入っているのか、
いつぞや長門が改変した世界のハルヒのように、蹴りが飛んで来ないのは有り難いね。

「オレが誰か、わかるか?」
「知らないわよ」
高校入学当時とも、ちょっと違うらしい。言葉のキャッチボールをちゃんとしてくれて、
オレは嬉しいぞ。
「ジョン・スミスのことは覚えているか?」
「はぁ? あんた何いってんの?」

なるほどな、古泉。こいつは確かに重症だ。異常事態の緊急事態だ。それをオレ1人に
投げちまうとは、おまえはマジでひどい野郎だぜ。

「ま、いいさ。それよりもな、オレの知り合いが言ってたことなんだが、人間、言いたい
ことを溜め込むのは精神衛生上よくないことらしいぞ」
「だから何?」
「へこんでるヤツを見ると、話を聞いてやりたくなるんだ」
「……変なヤツ」

おまえに変なヤツ呼ばわりされるのは甚だ心外だが、まぁ、今のオレは自分でもいつも
と違う気がするさ。それもこれも、ハルヒの調子がいつもと違うからだ、ということにし
ておこう。

「あたしさ」

しばらく顔を伏せたままの後頭部を眺めていると、ようやくハルヒが口を開いた。

「友だちと、ケンカしたのよ。泣かせちゃったし、もう許してくれないかも……って思っ
たら、あたしも泣きたくなったわ」
ホントは泣いてただろ、とは口が裂けても言えず──。
「ケンカの原因はなんだったんだ?」

何も見えない窓の外に視線を固定したままのハルヒに問いかけてオレが黙ると、しばら
く経ってからようやく話してくれた。相手を知らないから、気も弛んでいたんだろう。普
段のハルヒなら、到底言いそうにない話だ。

「あたしさ、今まで散々男に言い寄られたけど、自分から誰かを好きになることって、あ
んまなかったのよね。初恋だって中学入ってからだし、その人とはもう会えそうにないか
ら諦めたんだけど、高校になってまた好きな人ができて。それで……」

「それで、ケンカした友だちとおまえの好きな人が被ってたのか」

図星を指されて、ハルヒはようやく顔を上げた。まるでエスパーを見るような目だが、
やめてくれよ。ケンカの原因を聞いてそんな話をされれば、そうじゃないかと見当くらい
つくだろ。

「ふーん、あんたボケた顔してるけど、意外と鋭いのね」
ボケた顔は余計だ。
「でもまっ、あんたの言うとおりよ」
再び顔を伏せるハルヒ。まるで独り言のように言葉を続ける。

「やっぱり恋なんてするんじゃなかったわ。恋愛感情なんて、やっぱ精神病よ。一時の気
の迷いで友だち無くすなんてさ、あたし、バカみたいじゃない……」

やれやれ……。ああもう、本当に何度でも言ってやる。
やれやれ、だ。
こいつは今になってもまだそんなことを言ってるのか。

「だったら、なんで自分の好きなヤツを友だちに譲らなかったんだ?」

ハルヒの肩が、ぴくっと震える。

「友だちが大事で、恋愛感情なんて精神病の一種って言うなら、おまえが身を引けば丸く
収まったんじゃないのか?」
「それは……そうかもだけどさ」
「おまえの理屈じゃ、そうなんだろ?」
「…………」

オレなんかに言いくるめられるとはな、いつもめちゃくちゃな理論武装をしているハル
ヒさんらしくないぜ。

「おまえばっかりに話させるのも悪いな。気分転換にオレが小耳に挟んだ話でも聞くか?」
「……聞きたくない」
「まぁ、そういうなって。オレが聞いた話ではな、学校中の男子が憧れる美人な先輩の話
なんだ」

うるさい、とか、黙れ、とか言われないってことは、ハルヒにとって聞くつもりはある
ってことだろう。中断されるまで、オレの「聞いた」恋愛体験ってのを話してやるさ。

「その先輩ってのが、校内でもトップクラスの美少女だったわけだ。狙う野郎共は星の数
ほどいたわけだが、誰とも付き合わなかった。どうやら両親が遠い国にいて、でも先輩自
身はここに残りたかったみたいでな。それで親に出された条件ってのが『誰かを好きにな
るのはいいけれど、その気持ちを相手にはもちろん、ほかの人にも知られてはいけない』
ってことだったらしい」

いったん区切り、オレはハルヒを見る。まだ顔を伏せたまま、ぴくりともしやがらねぇ。
寝てるんじゃないだろうな?

「先輩は、だから誰も好きになろうとはしなかった。でもな、やっぱ人間、自分の気持ち
にウソは吐けないらしくてさ。好きな人ができたそうだ。最初はその気持ちをずっと隠そ
うと思っていたらしいが、ちょっとした切っ掛けで、やっぱり告白しようと思ったらしい。
返事が良くても悪くても、もう会えなくなるかもしれないのに、自分の気持ちを相手に伝
えたそうだ」

「……それで、その人どうなったの?」
「結果から言えば、告白した相手には他に好きな子がいたそうで、フラれちまった」
「ふーん……振ったのって、あんた? んなわけないか」

「……聞いた話って、最初に言っただろ。でもオレは思うわけだ。その先輩は、今のおま
えより百倍マシなんじゃないかってな」

机を枕にして顔を伏せているハルヒは、その姿勢のまま視線だけをオレにぶつけていた。

「あんた、あたしにケンカ売ってるわけ?」
「そんなつもりはない。ただ、こんなところで腐ってるおまえと、結果はダメだったが行
動することができたその先輩と、客観的に見てどっちがマシかって話さ」

そう言うと、喧嘩腰だったハルヒの瞳からみるみる力が抜けていく。

そうさ、ハルヒだって分かってるはずなんだ。わざわざオレが言うまでもない。ただ、
ようやくできた友だちを失いかけて、どうすればいいのか分からないだけなんだ。中学時
代は周りから距離を置かれて1人だったから、ようやく得た友だちを失いかけて、どうし
ていいか分からず、ただ怖がってる。

人を好きになるって気持ちも同じだ。自分から好きになったのはいいけれど、告白して
フラれたらどうしようとか考えている。ほかの人に取られるのはイヤだけど、自分からは
怖くて行動できない。

はぁ……まったく、情けねぇぞ涼宮ハルヒ。そんなの、まったくおまえらしくないじゃ
ないか。後先考えずに突っ走るおまえはどこにいったんだ!?

「ハルヒ、こんなところに引っ込んでないで、言いたいことを言うべき相手に言ってきた
らどうだ? あれこれ考えるなよ。おまえは勝手に1人で突っ走って、まわりをおろおろ
させるくらいの勢いで丁度良いんだ」
「……なによ……なによ、もう! 何も知らないクセに、なんでもかんでも知った風なこ
と言わないでよ!」

座っていた椅子をひっくり返すような勢いで立ち上がったハルヒは、ボロボロ泣きなが
らオレを糾弾した。だから、そうじゃないんだ。

「相手が何もわからないからこそ、わかるように言いたいことを言ってこい、ってオレは
言ってるんだよ。そりゃそうだ、人間、相手に自分の気持ちを伝えるには言葉か文字しか
ないんだ。どんなに想っていても、念じるだけで通じるわけがないだろ」

そうだな、それはオレにも言えることだ。ハルヒだけに何もかもぶちまけさせるのは、
確かに不公平ってもんだ。おまえがまだ躊躇ってるなら、オレが先に言ってやるさ。

「オレはな、ハルヒ。なんだかんだ言って、おまえに付き合ってバカ騒ぎする毎日が気に
入ってるんだよ。たまには『いい加減にしろ』ってツッコミたくもなるが、そういう毎日
がずっと続けばいいとさえ思ってる。そうだな、おまえさえよけりゃ、一生付き合ってや
ってもかまわないんだ」

ピシッ、と何かがひび割れる音が聞こえた。

「ただ……それはおまえ次第だ。おまえがオレを必要だと思ってくれて、そしてオレが納
得できる答えを言えたらっていう条件付きだ。言えるか?」

一度聞こえてきたガラスが割れるような音は、あちこちから聞こえてきた。

「あ……たしは……」

絞り出すように、ハルヒが声を出す。耳を澄ませば聞き取れないような声は、まわりの
音にかき消されそうだが、オレは一言もその声を聞き逃すまいと耳を傾けた。

「ずっとみんなにいてほしい……。有希や古泉くんも……みくるちゃんだって、謝って一
緒にいたい……。それに……」

涙で真っ赤になった目を、ハルヒはまっすぐオレに向けていた。

「キョン……あたし、あんただけは絶対に離したくない! ずっと側にいてほしい! あ
たしは……あたしは、あんたのことが──」

そのとき、世界が割れた。
初めて古泉に連れられて行った閉鎖空間の最後と同じだ。静寂に包まれた世界に音と色
が戻り、世界は日常の当たり前の風景を取り戻す。

耳をつんざくような轟音で、けっきょく肝心なセリフは聞けず仕舞いか。まぁ、その言
葉はあんな場所で聞くもんじゃないな。できることなら、この世界で聞きたいもんだ。

……望みは薄そうだが……。

オレはちらりと時計を見る。
もう6時か。外が薄明るいってことは、午前6時か? まったく、唯我独尊な団長さま
に振り回されて徹夜かよ。そのくせ、本人は寝てるときたもんだ。
理不尽だ。理不尽極まりない。このやり場のない怒りをどうしてくれよう。

ふむ。

ここは学校の教室だ。そして目の前には寝てるハルヒ。となると、やることはひとつし
かない。えーっと油性ペンはどこにあったかな……。

「……ぅあ?」
ちっ、起きたか。
「……あれ……あれ? ここ……教室?」
「よぅ、ハルヒ」

寝ぼけているのか、状況が把握できてないのか、きょろきょろしているハルヒに、オレ
はいつものように声をかけた。

「えっ、キョン?」

その顔は、みるみる真っ赤になっていく。茹ダコだってここまで赤くはならないだろう
って勢いだ。

「なっ、なんでここにキョンがいるの!? ってか、なんであたし、教室に!?」
「何言ってんだ、おまえがこんな朝っぱらから学校に来いって言ったんじゃないか。オレ
の睡眠時間を返せ」
「あたしが……あんたを?」
「ああ。……なんだよ、寝惚けてんのか?」
「寝惚けてって……あれ、夢だったのかな……?」

ま、そういうことにしておこう。オレにとっちゃこの上なくリアリティのない現実だが、
ハルヒにとっては『夢オチでした』ってことにしといたほうが、世のため人のため、ひい
てはオレのためかもしれん。

「あたし、あんたを呼び出したの?」

ハルヒが怪訝そうな顔つきで聞いてくる。そういう話の振りにした手前、違うとはとて
も言えやしない。

「んー、何の用だったのかしらね? ま、どーせたいした話じゃないわよ」

そりゃそうだろうな。オレのデマカセなんだ。
なんてことを言うわけにもいかず、オレは大袈裟にため息を吐いてみせた。

「話がないなら、オレは寝るぞ。おまえのせいで睡眠時間が削られたんだ。ホームルーム
のときに起こしてくれ」
「なんであたしが、あんたの目覚まし代わりになんなきゃならないのよ!」

憤まんやるかたないという表情を浮かべるハルヒを無視して、オレは机の上に突っ伏し
た。今になって眠気が襲ってきてやがる。武田軍の騎馬隊もかくやという勢いだ。

「ちょっとキョン、聞いてんの!?」

えーい、うるさい。頼むから少し寝かせてくれ。背中を教科書の角で殴らないでくれ。

「……ったく、しょうがないわね」

教科書がダメなら椅子を使って、ってのがハルヒの思考パターンだが、幸いにしてそれ
はなかった。
どれほどの時間、沈黙が続いただろうか。オレの意識が眠りの縁に落ちる直前のころに
なって、またハルヒの声が聞こえた。

「キョン、寝ちゃった?」

まだ寝ちゃいなかったが、よく考えればハルヒがオレを放置したまま、おとなしくして
るわけがない。睡眠時間ゼロで今日一日を乗り越えなければならないことを覚悟して顔を
上げようか、などと考えていると、鈴の音のような小さな呟きが聞こえた。

「……あたし、やっぱりあんたのことが……好き……かも……って、あたしは何を言って
るのよっ!」

……やれやれ、オレが寝てると思って油断するなよ。おまえはオレに起きてほしいのか
寝ていてほしいのか、どっちなんだ?
ここでオレが顔を上げたらどうなるか、なんてことがチラリと脳裏を過ぎった。もっと
も、それは地雷原に飛び込むのと同義であるような気がするのでやめておくべきだな。

そもそもハルヒよ、そんなセリフは是非ともオレの目を見て言ってもらいたいもんだ。
そんな日が来るかどうかなんて分からないが……今は、そうだな。

ハルヒが『独り言』で自己嫌悪に陥って喚くという、世にも珍しい声を子守歌に、心地
よい微睡みをわずかな時間でも堪能することにしよう。



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