軋むような扉の閉まる音。元々殺風景であった治療室内は、殊更寂しくなったよ
うに感じられた。たった二人、その場からいなくなっただけだというのに、その空間
は異様なまでにがらんとしてしまったように思える。

 中にいた古泉と朝比奈さんに席を外して貰い、今、このがらりとした手狭な部屋
には俺とハルヒ、そして長門の三人きりしかいない。
 物言わぬ長門の姿に改めて動揺を隠しきれないのだろうハルヒが俯いたまま時
折擦れた喘ぎを漏らすのが、俺の心地を酷く落ち着かなくさせていた。

 俺はゆっくり、深呼吸の要領で息を吸い、腹に力を込めて全身に活を入れる。

 このままハルヒとともに陰鬱に沈むのはごめんだった。それに元より、今この場で
悲しみに浸る理由なんてのは――――俺にはないのだから。

 俺は横たわる長門に近づき、その、眠っているだけのような顔を覗き込む。そして
もう一度ゆっくりと息を吸い込み、吐き出すとともに背中のハルヒへと言い放った。

「お前も、そんなとこに突っ立ってないでこっちに来たらどうだ」

 案の定、返事はない。予想通りの無反応に、ついさっきも同じような状況で、同じ
ような台詞を吐いたな、なんてなことを考えながら、俺は再び口を開く。

「なあ、聞こえてるか?」
「聞こえてるわよ…」と、ハルヒ。酷く弱々しい声だ。

「なら、返事ぐらいしろよ」

 ぞんざいな俺の返しにカッときたのか、ハルヒはじろりと俺を睨み付けると、

「…あんた、なんでそんな平気にしてられるの…?あんたには血も涙もないの!?」

 一昔前まで冬眠中の爬虫類みたいに冷血だったお前には言われたくないな…、
なんて減らず口が頭をよぎるが、口に出すのは止めておく。今は、そんな冗談にも
ならないことを言うときではない。今、俺がその問いの答えとして語るべき言葉は、
ひとつだけだ。

 それは、気づいた、とでも言うべきなんだろうか。それとも、思い出した、なのだろ
うか。どちらにせよ随分と余計な回り道をした気がする。…いや、余計ではないか。
こうしてたらたらと回り道をしたお陰で、俺はようやくそれと向き合えるようになった
のだから。


 ……答えなんて、初めから分かっていた筈なのにな。


「そりゃあ、俺がまだ諦めちゃいないからさ」

 ハルヒは俺の言葉の真意を掴みかねているようで、目を白黒とさせて俺を見てい
た。僅かに、その顔に色が戻ったような気がするのは気のせいだろうか。

 俺はそんなハルヒのツラを眺め、そして再び視線を長門に落とす。

「…綺麗な寝顔だよな。これで死んでるだなんて、俺には到底信じられそうにない」
 恐らく、ハルヒはその台詞を現実を見ないガキの台詞と受け取ったのだろうな。
一瞬、輝きを取り戻したかに見えたその表情は、すぐさま失望の色に彩られる。

「…でも、死んでるんでしょ?」
 その口から簡潔に放たれた言葉は、そんな、突き放すような冷たい響きを持って
いた。嫌な想像が現実のものになる感覚に、俺は歯噛みする。

 やっぱり、こいつは認めちまっているのか。長門の……、死を。

「ああ。確かに心臓は止まってるし、体も冷たい。 ――――けどな」

 事実、俺はガキかもしれない。諦めの悪いガキかもしれない。けれど。

「…けど、何よ」
 詰まってしまった言葉の、その先を促すようにハルヒは問う。俺は暫し話す内容を
考え、そしてこう切り出した。

「なあ、ハルヒ。お前にとって、長門はどういう存在だ?」
「……は?」

 一足飛びに変化する話に咄嗟についていけないのか、ハルヒは素っ頓狂な声を
上げた。しかし俺の表情から何らか読み取ったのか、怪訝だったその顔は次第、
真剣みを帯びていく。

「長門だけじゃない。古泉は、朝比奈さんは。今のお前にとって、どういう存在だ?」

 その問いの意図するところは、多分、ハルヒにも分かっている筈だった。



 例えば屋上からの道すがら、俺は殆ど嫌がらせにも近い速さでハルヒの手をぐい
ぐいと引っ張ってきた。だってのにとうとうこいつの口からは非難の言葉の一つも出
やしなかった。
 つまり、ハルヒはどう考えても、今までに見たことないくらいの憂鬱に沈んでいるっ
てことで。そしてそれは、それだけ長門の死が与えたダメージってのが、こいつの中
で大きかったってことだよな?

 先の、屋上で台詞に詰まってしまったときも同じことだ。理解はしていてもそれを
認めてしまうのが……、怖いんだ。恐らくはこいつにかつて、『そんな形容』で表さ
れる他人の存在なんてなかった筈だからな。

 他人はあくまで他人であり、自分にとってそいつが面白いか否かだけがその価値
を測る判断材料。そしてこいつが面白いと思うような対象なんてのは所謂普通の世
間一般というものに在る訳がなく、つまるところ面白いことを求めてる自分と面白く
もなんともない他人―――――
 そんな鬱病一歩手前みたいな二極化した世界が少なくとも高校入学当初の、あの
退屈そうだった涼宮ハルヒの頭にはあったのだろう。

 だが、どうだい。SOS団の活動を始めてからこの方のこいつは。そりゃあ、たまに
酷い浮き沈みはあるにしてもだ。毎日が楽しくて楽しくて仕方がない、そんな生き生
きとした顔をしているように俺には思えるのだがね。

 勿論、自分の好き勝手なことが出来てそれが楽しいってのはあるのか知らんが、
けれど谷口らから伝え聞くこいつの中学時代の話によれば、当時も十分好き勝手
なことをしてたわけで。

 しかしながら例えば、奇しくも俺が関わっちまったあの七夕の夜の校庭落書き事
件なんてのがあるが、あのときのハルヒの渋面は到底楽しいなんて感情が読み取
れるようなもんじゃなかった。

 ならその表情の違いってのはどこから来るんだろうねと考えたとき、出てくる答え
なんてのは結局のところこれしかない。


 その周囲に『そんな形容』で表される他人の存在が、あるか否か。


 最初はそれこそただ適当に集めただけの団員。体を成せばそれで用済みの、云
わば数合わせのような存在だった。けれどその存在は、いつの間にかこいつの中
で大きくなり、そしてこいつは今更ながらにそれに気付き戸惑っている。

 けどな、ハルヒ。戸惑うことなんてないんだよ。中学からこの方まともに人付き合
いもしてこなかったお前はもしかしたら忘れちまってるのかも知れないが。こんだ
け毎日顔をつき合わせてりゃそうならない方が不自然てもんなんだ。

 なあ、ハルヒ。お前が恥ずかしくて言えないってんなら俺が代わりに言ってやる。
いやまあ、俺だって流石に口に出しては言えないが、せめて推し量ってやるくらい
のことはできるからな。



 今のお前にとって長門は、朝比奈さんは、古泉は、『大切な仲間』って奴なのさ。



「俺は、信じたいんだ。……いや、信じてる。俺やお前が願う限り、みんなは絶対に
俺たちの前から消えたりしない」

 そうさ。俺は信じてる。
 お前にとってみんなが、今や掛け替えのない存在になっていることに。

 今こいつが見せている悲痛な表情ってのが、一体何を物語っているかなんてのは、
敢えて言葉に出すまでもない分かりきったことだろう?

 こいつは長門の死なんか望んじゃいない。今は勿論長門が倒れたあの瞬間も。

 そもそもが、だ。こいつが涼宮ハルヒである限り一億分の一秒たりとも長門の死
を望むわけなんかないんだよ。

 だから今のこの状況は、長門が死んじまった世界なんてのは、きっとなんかの間
違いって奴だ。それ以外に考えようなどない。

 なあ、そうだろう?ハルヒ。
 お前が流した涙はその理由になっていい筈さ―――――



 だから俺は信じない。長門の親玉を消し、長門をこんな目に遭わせたのがお前だ
なんて絶対に。長門が倒れたあのときも。古泉に、ハルヒの仕業でしか有り得ない
と、そう言われたあのときも。捨て切れなかった疑念はやはり、正しかったんだと。

 信じる。俺は、それを信じている。

 ガキみたいだと笑わば笑え。だが俺は何があろうと絶対に認めねえぞ。仮にお前
が認めちまったってんなら、無理やりにでもその間違いを正させてやる。

「―――――だから、」

 俺は言葉を区切り、ハルヒを見る。その自信を失った不安そうなツラは、いつもの
こいつを知っている奴なら我が目を疑うようなものだ。とてもじゃないが見れたもん
じゃないそのツラを、けれど、だからこそ俺は深く見据える。

 確かにな、長門が倒れ伏せその体温がなく、返事どころか心音すら感じられない
という状況は、お前が絶望するには充分なのかも知れない。けれどお前はまだこの
現状に対して何もしちゃいないだろう?まだやれることはいくらだってあるだろうに。

 泣き寝入りなんてらしくない。いつものお前なら医者の首根っこ引っ掴んで、「有希
を生き返らせなさい!五秒以内で!」くらいの横暴は言ってのける筈だろうが。

 そうさ。お前はまだ何もしちゃいない。何もせず諦めて現状に甘んじるなんてのは
俺の役割だ。俺に任せとけばいい。そんな、どこにでもありふれた無気力さの対岸
にいるのがお前だった筈だ。

 だから俺は信じるのさ。
 お前はこんなところで終わるような奴じゃない。

「信じてくれ、ハルヒ。 長門は、必ず戻ってくる」

 このまま――――――終わる筈がない。






 ……どうしてだろう。たった二言三言話しただけだってのに、俺の口はからからに
渇いていた。ごくりと固い唾を飲み込んだ音は、もしかしたらハルヒにも聞こえてしま
ったかも知れない。

 すっかり口を閉じてしまった後で、言葉が足りなかったかも知れないとか、もっと
論理的に話すべきだったとか、愚痴のような後悔が押し寄せてくる。
 おいおい随分と俺は小心者だったんだな。なんてことを思うが、しかしこんな目で
睨まれたら誰だって後悔もしたくなるってもんだ。

 そう、まるで親の仇を見るような殺気立った目で、ハルヒが俺を睨んでいた。

「まったく…、おめでたいにも程があるわね…、」

 怒りを押し殺したような声。…いや、『ような』じゃないな。ハルヒはまず間違いなく
怒っている。何故だ?とは思わない。むしろ至極当たり前のことか知れない。
 そりゃそうさ。あんだけ言葉の足らないふわふわとした夢想論を、しかも上から目
線で語られて、こいつが黙ってハイそうですかなんて納得するわけがない。

「…信じる?…願う? そんなもんでなんとかなるなら、どうして今、有希は起きない
の? どうして、返事もしないの?」

 ハルヒはつかつかとこちらに歩み寄り、左手で俺の胸倉を引っ掴む。捻り上げ、
自由な右手はぎりぎりと音がしそうなほどに固く、握り拳をつくっていた。

「答えなさいよ………、 ……答えろって言ってんでしょ!?」

 叫ぶとともに大きく振り上げられた拳は、しかし次の瞬間、とすん、と。俺の胸に
力なく打ちつけられる。

 その衝撃は本当に、まったくもって小さなものだったが、それでも―――――


「なんなのよバカキョン…!あたしがそう信じたって、どれだけ願ったって…、有希が
生き返るわけないじゃない……っ!!」


 打ちつけた側であるハルヒの、その両目になみなみと溢れていた涙を零すには
充分すぎた。




 ああ――――と。あまりにも慣れすぎて半ば忘れていた認識が頭をもたげ、思い
知らされるような心地で俺は真正面にそれを見据える。ぼろぼろと涙を零している、
その顔を。

 そうだったよな、お前は。どうしようもなく自分勝手で自己本位で猪突猛進、周りの
迷惑とか考えなくて、宇宙人とか未来人とか超能力者とか異世界人とか、そんなも
のの存在を本気で信じているようなぶっとんだ奴だけど。

 それでも常識的な部分が捨てきれない、そんな奴だったんだよな。

 涙を流すに任せているハルヒの肩を両手で掴み、俺は言った。

「ハルヒ。 聞いて欲しいことがある。 …大切な話だ」

 立ち位置やら体勢やらが似通っているからだろうか。デジャビュのように思い出す
のは、あのときのことだ。…いや、似通ってるのはそれだけではない。

「……なによ」

 ハルヒの不機嫌そうな声も、融通の利かないこいつをなんとか宥めすかそうとして
いるという状況も、まるであのときと同じだった。

 ひょっとすると、俺はこの時点で何か幻覚でも見させられていたのかも知れないな。
でなけりゃこの俺があんなこっ恥ずかしい真似が出来るわけがない。
 ……と、後になって湧き上がるのはそんな後悔のような感情ばかりであるが、しか
しながらこのときの俺にそれを危惧させるのは、果たして不可能に近かった。

 簡単に言えば『ハイになっていた』という奴だろう。俺はそんなハイになった気分に
任せ、押さえつけるように掴んだハルヒの肩を軽く揺らし、その視線を俺の目に合わ
せさせる。丁度、互いに見つめ合うような形である。

 ほんの数センチ先にあるハルヒの顔が、急に赤みを差したように思えるが、恐ら
く気のせいだ。泣き腫らした目元のせいでそう見えるだけだろう―――――と。

 ちょっと引っかかるものはあったものの俺はそう思うことにして。
 引っ叩かれるのを覚悟で、二の口を告げた。






「俺は、長門が好きだ」

 まあ、まさかまたグーで殴られるとは思ってなかったわけだが。



 ずがん、と脳髄が重い衝撃を受ける。しかしまた今日はよく殴られる日だ。俺は
そんなことを考えながら、けれど覚悟していたお陰か今度こそ無様に転げることな
く踏み止まることができた。
 殴られた左頬はすぐにも熱をもって痛み出すかと思われたが、しかし今日一日で
幾度となく殴られたせいだろうか、最早痛みを通り越して感覚が麻痺している。それ
がちょっぴり恐ろしい。

 ここが病院であったことに、俺は感謝すべきだったのかも知れないな。歯科医院
だったらもっとよかったような気もする。

 ともかく、たたらを踏んだものの転げることのなかった俺は、殴った反動そのまま
転進するハルヒの手をなんとか捕まえることができた。

「最低…っ!なんなのよ…!…この!離しなさいよ!」
「離さん。俺は確かに最低か知らんが泣いてる女の手を放せるほど腐っちゃいない」

 ハルヒはぶんぶんと手を振って俺の手を離そうとする…だけでなく、俺の脛にげし
げしと、…いや、ずどんばきんと一発一発丁寧に腰の入ったローキックをお見舞い
してきやがった。

 おいおい。いくらなんでもこういう状況で蹴りを入れるか?しかもすっげえ痛ぇし。

 ハルヒの凶暴な反応に苦笑しかける己を抑えようと思ったが、無理だった。むや
みやたらとハイな気分も普通ならこの鮮烈な痛みで醒めるというものなのだろうが、
増して楽しくなってすらくる。
 別に俺が特殊な趣味を持ってるってワケじゃない。だがこれで笑うなと言う方が
不条理ってもんだろう。この、身に有り余る横暴さ。


 ――――――そうだよ。それでこそ涼宮ハルヒだ。


「はーなーせ! 離せって言ってんで―――――ぅわぁっ!」

 俺は笑みを浮かべながら、ぎっちりと掴んでいたハルヒの手をぐいっと引き寄せ、
勢いあまってぶつかってきたその華奢な体を抱きとめた。

「ちょっ…、ちょっとキョン何してんのよ! 離れなさい!離れろってば! …ぐぇ」

 ハルヒの意に反し、俺は背中に回した腕でがっちりとホールドする。抱きとめてい
ると言うよりは『さば折り』のような形であるが、だからと言ってどうということはない
だろう。ハルヒが簡単に逃げられなくなった、という意味ではどっちも同じことだ。

「嫌だね。 離したらお前、逃げるだろうが」
「逃げないから! と…、とにかく離して! 痛いんだって!」

 マジに痛そうな顔をするハルヒに俺は腕のホールドを解くと若干身を離すが、しか
し先程と同様、その両肩をがっちりと掴むのを忘れない。逃げないと言ったハルヒ
の顔はとても嘘を言ったようには思えなかったが、またいつ心変わりするか分から
ない。こいつを逃がさないようにする為には、これが最大限の譲歩という奴だ。

 しかしこいつ、ますます顔が赤いように見えるが、吹きっ晒しの屋上にずっといた
せいで、風邪でもひいたんじゃなかろうか。俺がそう言ってやるとハルヒは、

「うっさいわね!」

 と若干キレ気味で返してきた。折角心配してやってるのに。意味が分からん。

 しかし後々になって思うのは、恐らくこれが最後の分岐点だったのだろうというこ
とだ。つまり、ここで俺がもう少し冷静だったなら、あんな恥ずかしい真似はせずに
すんだかも知れない―――という論拠のない仮定の話である。

 ただ少なくとも、あと2デシベルくらい俺のテンションが減衰していれば、俺はもう
ちょっと危険の少ない策を取っていただろうし、体が密着するくらいの距離になって
初めて気づく思春期の女子特有の甘い匂いなんぞに騙されたりはしなかった筈だ。

 だが果たして、このときの俺はそこまで回る頭を持っていなかった。
 まあ、無理もない。

 文化祭の、あの映画撮影を思い出す。部室でぶうたれていたハルヒに柄にもない
ことを言っちまったあのときと同じくらいに、いや、あのとき以上に―――――

 俺は、最高にハイってヤツだった。






「ハルヒ、もう一度はっきりと言うぞ。俺は長門が好きだ」

 ハルヒの目を正面から見据え、俺はもう一度同じ台詞を吐いた。何故かハルヒの
表情が悔しそうに歪み、その視線が斜め下を向くが、俺は気にせず言葉を続け、

「長門だけじゃない。朝比奈さんも好きだし、古泉もまあ、好きだな。それからアホ
の谷口も、国木田も、鶴屋さんも、みんな好きだ」

 正面に捕らえたハルヒの瞳が、微かに、驚いたように震えたのが分かる。上目遣
いでこちらを見るその瞳は、「あんた…、何言ってんの?」……と、そう言っているか
に見えた。


 それを見届けて、俺は末尾を結ぶ。


「―――――そこに、消えちまった朝倉を含めてもいい」


 ハルヒの目が見開かれる。口も同様に、ぽかんと半開きになる。その表情は恐ら
く驚愕という形容で言い表されるものに違いない。

 俺はそれを眺め、苦笑染みたため息をつく。

 実を言えば、俺は自分でも自分の発言が理解できていなかった。このときの俺は
ただ思いつくままに言葉を吐き出していたに過ぎない。ましてあのときのことを再現
しようなどこれっぽっちも思っちゃいなかった。

 だと言うにそんな台詞を吐いてしまったのは、ただ単に勢いに任せただけか、そ
れともデジャビュとともに思い出したあの忌々しい出来事がいつの間にか俺の言動
を支配していたのか。
 どちらにせよ、最早俺に言葉を止めるつもりはない。ここまで来ちまったんだ。後
はもう、思いつくに任せ言葉を吐き出していくのみだ。

 と、ヤケクソ気味に決意しながら、俺はもう一度笑いを漏らすようにため息をつく。


 昨日までの俺は、きっとガキだったんだろうな。気恥ずかしさ、或いは己の臆病さ
に負けて、逃げに走っていた。だが不幸にもそれが間違いだったと気づいてしまい、
そのせいで俺は前よりずっとガキになった。

 誰かを信じるということ。誰かと共にいたい思うこと。大切だと思うもの。大切だと
思う人。大切なものを大切だと大声で言えるのがガキの特権なら、俺はガキでいい。

 思えば…、そうだな。俺が文字通りのガキの頃に憧れた、アニメ的特撮的マンガ
的ヒーローなんてのは、その戦う理由は数あれど、そういった大切なものを守る為
に戦ってたんじゃなかったっけか。そして俺は、そんなものになってみたいと本気で
思ってたんじゃなかったっけか。

 まあ、俺にはそんな子供たちの憧憬の対象になるような宇宙的な知識もなければ
未来的技術力もないし、超能力なんてもっての他である。当たり前だ。俺はごくごく
普遍普通のイチ男子高校生なんだからな。
 それに現実そんなものを持っている奴らがやってることなんてのは、正義の味方
なんて畏まったものでなく、夏休みの宿題みたいな観察日記なのである。これでは
夢を持つ方が馬鹿らしいってものだ。

 いやいや、問題はそんなことじゃないな。分かってる。顔も知らない誰かの為に戦
うヒーローなんてのは、所詮虚構の中でしか存在できない有形無形の偶像で、現実
にあるのはその模造品のような偽善だけで、けれど元よりそんな献身的精神なんぞ
持ち合わせちゃいない俺には、その模造品にすらなれない。

 ……いや、だからってどうということもないな。それならそれでいい。

 俺が願うのは、世界平和だとかそんな大仰なもんじゃなくていい。俺の周りにいる
人だけでいい。俺が好きだと、大切だと思う人たちの幸せを、共に過ごす時間を守
りたい。それだけなのだから。

 都合のいい話だとは分かってる。虫のいい話だと理解している。それは全と一を
天秤にかけて、一が勝る矛盾だ。

 だがな、俺にはそれが精一杯なんだよ。俺にはお前と違って世界を相手に背負い
投げかませるような器量もなければ力もない、ただの一般人だ。情けない話だがそ
の願いを叶える為に俺に出来るのは、せいぜいお前を説得するくらいのことだしな。

 ああ、そうだな。説得するしか出来ないってんなら、俺はお前が首を縦に振るまで
なんべんだって説得する。罵られようが声が枯れようが知ったことか。もしも説得な
んて言い草が気に食わんのなら、頼みということにしてやってもいい。プライドが鼻
につくってんなら地べたにでも這いつくばってやるよ。

 だからさ、そんなちっぽけな願いくらい、叶えてくれたっていいだろう?
 なあ、ハルヒ――――――――



「なあ、ハルヒ。俺は今日、色んなことを学んだよ。その中で、俺はこの世界が前よ
りかずっと好きになった」

 笑みを崩さないまま、俺はハルヒのツラを正面に見据え、言う。いつもならあと数
歩は後ずさるだろう、軽く曲げた腕のリーチ分しかない距離も気にならない。
  俺を見るハルヒは何故か呆けたようなマヌケ面で、まるで今の俺の姿に別の何か
を重ねてみているような、そんな様子だった。

「でも、そこには長門がいて欲しい。朝比奈さんがいて欲しい。古泉がいて欲しい。
俺たちの周りにいる、みんながいて欲しい。 誰が欠けても嫌なんだよ。俺が好き
な世界には、みんなが必要なんだ」

 そこで言葉を区切ったのは、息を吸い込むためだけではない。いくら思いつくまま
に言葉を発しているとは言え、流石にこの二の口を吐くのは躊躇いがあった。

 だが、その躊躇いも一瞬さえもたず、俺は勢いに任せたまま結句を――――





「そして、その中心にはな、ハルヒ。お前がいる」





 結んで、一瞬も経たない内に俺は激しい後悔に見舞われた。

 何故だろうかね。言ってしまった後で、まるで夢から覚めたように急に現実に引き
戻されたわけさ。
 先程ハルヒに殴られてこの方のおかしなテンションが、サーッと音を立てて退場し
てゆく。即ち、「うわぁ、何言っちゃってんだよ俺」……と。

 猛烈な気恥ずかしさが俺の身を震わせる。発熱していく右頬と、殴られたせいで
元から熱を持っていた左頬の温度が、コンマ秒足らずで等しくなった。それから幾
許もしない内に、もしかするとあれから今まで殴られた衝撃で頭をどうにかしていた
のだろうかと、そんなことを思ってしまうくらいには冷めた俺が戻ってくる。

 だが、冷め切ってないのが問題だった。こういう中途半端が一番よくない。つーか
まずい。この状況でこのテンションは非常にまずい。

 俺は身を切るような激しい恥辱に気が遠くなりそうになりながら、かつ自らの台詞
の青臭さに逆流しようとしている胃液を押さえ込みながら、なんとかフォローの言葉
を探し……、

「お、俺はさ。俺が好きな世界を、もっとお前にも好きになって欲しいんだよ」

 フォローになってねえよ!つーかダメ押しだ!?

「だから…、俺を信じてくれ…?」

 なんで疑問系なんだろうね。

 …ダメだ。どう思考を巡らそうとドツボに嵌っていくような、膠着円盤が如き台詞し
か思い付かない。考えすぎとストレスで胃がきりきりと痛み出し、頭はどうにかなり
そうだ……。

 なんだろう。今まで必死に作り上げてきたシリアスな雰囲気というものがガラガラ
と音を立てて崩れていっている気がする。いや、別にそれが問題ってわけじゃない
が、それにしたってこれはあまりに情けなさすぎる。

 あー、どうしてこんなときに素に戻るかね。以前朝比奈さんや長門と、まあ現状ほ
どじゃないが似たようなシリアスな状況に置かれたときは、もう少しマシな対応がで
きた筈なんだが………、何故だ?




 ともかく、この状況はまずい。何しろ俺はさっきからまともにハルヒの顔を見れて
いないのだ。息もかかるくらいに接近してるってのに顔以外に何を見るって話で、
しかもかあまりの窮地に吃驚したのか俺の両手は固まってしまっていて、ハルヒの
肩を掴んだまま、動かそうと思っても動かせないってのに。

 前狼後虎。蛇に睨まれた何とやら。そんな心地でちらりちらり、俺はハルヒの顔を
伺い見る。なんでまたそんな自らを死地に追い込むような真似をしたのかは我がこ
とながらまったく不明だが、丁度ハルヒがこちらから顔を隠すように身を屈めた瞬間
だったようで、視線がぶつかるという最悪の事態は免れた。

 …と、そこで一つ疑問が生じる。俺が目を逸らすのは分かるとして、ハルヒが顔を
背けるのは何故だ?また陰鬱な気分に囚われたか?いやいや、この状況でそれは
ないだろう。だとしたら……、そうか。こいつも俺と同じように恥ずかしがって―――


 なんて、そんなことがあるわけがなかった。


「…っく、…ぶふっ、……くく、……っ、………ぎゃーっはっはっは!!ぶひゃーっ!」

 大爆笑である。

 湾曲させていた体を瞬時に起こしたハルヒは、勢いあまって後ろにぶっ倒れそう
になるくらいに、それこそ俺の両手がその肩を掴んでいなかったら確実に倒れてた
だろうくらいに反り返り、天を仰いで爆笑という名の雄叫びを上げた。

 噴き出されたつばきが雨のように俺たちに降り注ぐ。
 あのなぁハルヒ、きたねえよ。

「…っく、……大真面目に何を言うのかと思ったら…、…ぷっ、あはははは!」

 ハルヒは両腕で腹を抱え、抱腹絶倒をそのまま体現するような形で息も絶え絶え
呻き声を漏らし、時折思い出したように爆笑する。そんな様子にちょっぴりムカつい
てきた俺がその旨を伝えると、

「…いや、…だって、…っく、あんた自分で言った台詞反芻してみなさいよ。…っく、
あははは!…ぶっ、ぐふぉっ、ダメだ…、お腹…、お腹痛い……っ、ひっ」

 ……訂正。ちょっぴりではない。俺は今猛烈にムカついている。

「一応な。あれでもこっちは真剣だったんだ。そうやって茶化されるのは気分悪い」
「い、いや…、別に……、っ、茶化してるわけじゃなくて……、ブフィーッ!」

 盛大に噴かれたしぶきが俺の顔面を真正面に捕らえ、ぐっしょりと濡らした。

 それにしてもこのハルヒ、ノリノリである。ってふざけんな。

 いっそこいつ、穴でも掘って埋めちまうか?だが埋める場所を探すのは苦労しそ
うだな。なにせハルヒである。的確な処理を行った後完膚なきまでに埋めたにせよ
周囲の生態系に及ぼす悪影響は常識では計り知れないだろう。
 とかなんとか考えていると、ささくれ立った気分も少しは収まってきた。こんな根暗
な妄想で苛立ちを紛らわすなんざ我ながら情けないとは思うが、腹を立てたままで
いることによる精神的肉体的苦痛を思えば、その方がマシってものだ。

 とは言えこのまま何も言わず黙っているのも癪である。だから、「茶化してるんじゃ
なかったら、なんだよ」と、そんな意図不明の問いに見せかけた減らず口を俺が吐
いたのは、まあ自然といえば自然だった。

 ただ…、しかしなぁ…。こんな答えが返ってくると知っていたら、そんな言葉は吐か
なかったんだがね。まあ、それを言えばあの分岐点で選んじまった選択をやりなお
せたらという話なのだが。

「だって…、さっきのあんた…、っ、『みんなだいすき』っ…、なんて、子供みたいなこ
と言ったかと思えばっ、…っぷ、…その舌の根も乾かない内にプロポーズ紛いの台
詞吐いてんだもん……っ。そりゃっ、笑う、でしょ……、ぷっ、あははははは!」

 苦しそうに笑いながら途切れ途切れに紡がれたその言葉に、俺は絶句した。



 なんだって?プロポーズ?ハルヒの意味不明の言動に、俺は先程吐いたばかり
の台詞を思い出そうとする。その作業途中、あれから時間なんて殆ど経っていない
ってのに過去の忌まわしい記憶を呼び起こすような苦痛を強いられたのは―――
――それはつまり、そういうことらしかった。

 いやいやいや違うぞ確かにそうと受け取れなくはないかも知れないが俺はそんな
つもりで言ったんじゃないし第一いろんな手順とか段階とか一足飛びにしすぎだろ
そもそもなんで俺がお前にプロポーズなぞせにゃならんのだ先ずそこをはっきりさ
せて貰おうか。
 と、やたらと早口になってしまった俺の弁解を聞いていたのかいないのか。いや
さこの距離だ。耳にはきっちり届いていたに違いないハルヒは、しかし「ようやく落
ち着いた」とばかりに呼吸を整える溜め息をふうと吐くと、穏やかにこう言った。


「なんていうのかな。 …そうね、あたしは今、すっごく嬉しいかも」


 なんと言えばいいのだろう。そのときハルヒが見せたのは…そうだな。まるで台風
が過ぎ去った後の晴れ晴れとした空を見上げた時のような、満足げな表情だった。

 それを目に収めた瞬間、これまで俺を包んでいた気恥ずかしさやら照れたような
感情、困惑やら焦りなんてのが、灰燼となって消え失せる。

 どうしてかは分からん。これが毒気を抜かれるという奴なのか。はたまた呆気に
取られただけかも知れないが、まあ下らないことに執着してる自分が堪らなく馬鹿
らしくなったってことだけは紛れもない事実だった。

 気づくと、俺はくつくつと声に出して笑っていた。ハルヒもつられてくつくつと笑う。
そして肩を掴んだままの俺の手に自らの手を添え、半歩ほど俺に近づく。

「ねえ、キョン」

 なんだよ。

「あんたがみんなを好きで、一夫多妻制かつ同性愛支持者なのは分かったけどさ」

 とんでもないことを言い出しやがる。

 俺がそういう意味で言ったんじゃないってことはこいつも理解してるだろうに、それ
で敢えてそんなことを言うのだからまったく始末の悪いことこの上ないが、なんだか
否定するのも億劫な俺は、「ああ」と軽く相槌を打つ。

 ハルヒは何が可笑しいのか、くすりと笑ってこんなことを言った。

「あたしは?あたしについては、何も言ってなかったわよね?」

 悪戯盛りの子どものようなその表情に、俺はなんて言葉を返せばいいのだろうね。
とりあえず、そらとぼけることにしようか。

「………いや?俺は言ったはずだが?」

 ハルヒは格好だけ怒ったような素振りを見せながら、

「うそつき。とぼけようったってそうはいかないんだから」
「いーや、確かに言ったね。聞き漏らしたってんならそりゃお前の――――」

 再びそらとぼけようとした俺の口を、何やら柔らかいものが塞ぐ。お陰で告げよう
とした言葉は尻切れである。

 なんだろう。マシュマロというには硬いし、グミというには柔らかい。…そうだな、例
えばパスタ生地なんかの指標になる耳たぶくらいの固さってところだろうか。…いや、
それよりはもう少し柔らかいかも知れん――――

 なんてな。いくらなんでもそのとぼけかたはない。理解しがたいことではあったが、
理解できないわけじゃあない。難儀なことであるのは事実だが、それを勝手に都合
よく曲解しちまうのは、はっきり言って最低だろう。

 それに、実を言うとそんなに悪い気分でもない。

 俺の口を塞いでいる柔らかいものは、深呼吸二つ分くらいの時間をそうして過ご
すとあっけなく離された。それを名残惜しく思ってしまったのは、恐らく俺の人生の
中で一二を争うだろう不覚だ。

 こういうところだけは素直なのだから、我ながら困ったものだと言うべきか。

 しかしながらそれ以上に困ったのは、次に何を言うべきか、だった。

 不用意な発言をすればこいつのことだ。今度こそ気絶し兼ねない容赦のない一撃
を見舞ってくるかも知れないし、たとえ手加減をしてくれたとして度重なる衝撃でぐら
ついている俺の奥歯は今度こそ彼方へと旅立っていくに違いない。

 そんな戦々恐々とした気分を抱えながら、しかし俺は嗜めるように言ってやったさ。

「…あのなハルヒ。ものには順序ってのがあってだn――――」

 またかよ。

 呆れたような台詞を吐く俺の口を、再度柔らかいものが塞ぐ。今度は深呼吸一つ
と少しくらいですぐに離れた……と、文字通り目と鼻の先にあるハルヒの目が、じろ
りとこちらを睨んでいることに気づく。

 なるほど。どうやら先の質問の答え以外はこうやって言葉の端から潰しちまうつも
りらしい。



 なんというか、目的の為には手段を選ばないというか、手段のために目的を選ば
ないというか、相も変わらず突拍子のないことをする奴である。きっとこいつの思考
回路は、思いつきだけで出来てるんだろうな。
 しかし、だ。この手法は意味があるのだろうか。この問答が延々とくり返されて得
をするのは、果たしてこの俺だろうに。

 長引かせられるだけ長引かせようか、そんな不埒なことを考えるが、やめておく。
煩悩をかき消すように、コホンと一つ、咳払いをした。

「あー…、そうだな。 …なんつーか、こういう状況でこういうこと言うのはマヌケだと
は理解してるんだが……」

 そんな前置きをしたのは精神的逃げ道を作る為と発言の途中で笑っちまわない
よう心構えを改めようとした為なのだが、しかしどうにも俺の表情筋はその意に反し
て笑みの形を造ろうとばかりする。

 まあ、無理もないか知れないな。
 苦笑を隠そうとして隠せないまま、俺は言った。





「俺、実はポニーテール萌えなんだ」




 にやり、ハルヒが不敵な笑みを見せる。


 ハルヒも俺も、似たような表情を貼り付けた顔を見合わせていた。くつくつと笑い
ながら、ハルヒは「それで?」と返してくる。俺もまたその相槌に苦笑しながら言葉を
継ぐ。

「いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則なまでに似合ってたぞ」

 ハルヒはふん、とそれを一笑に付し、「それ答えになってないわよ」と呟くと、ゆっく
り両の目を閉じて、つい、と上向き加減に顔を突き出す。


 「そうかもな」と答えを返し、俺は――――


 あのときは初めから目を閉じちまってたから分からなかったが、もしかしたらこい
つは、あんときもこんな顔をしてたのかな。と、そんなことを思いながら、俺はその
態度の割には小さな体に覆い被さるように体を曲げる。






 そして三たび、俺の唇はその柔らかいものに―――――ハルヒの唇に、触れた。






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