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 どうしてまたこんな所へ足を運んだのか。その理由を明示せよと問われると、少
しばかり困ったことになる。と言うのも俺自身、その理由を理解していなかったから
だ。
 言葉にすれば「自然と足が向かったのだ」とでもなるのか。第六感だとか虫の知
らせだとか、そういった類の超自然的な某かが作用していたとしか考えられそうに
ない。

 果たして、そんな超能力染みた奇跡なんぞ望むべくもなければ信じてもいない俺
であるが、このときばかりはそんな胡乱な子供騙しもちょっとくらいは信じてみても
いいかな、なんてなことを考えていた。

 例えば古泉の奴に言わせれば、俺がここへ足へ運んだことも、こうしてその背中
を拝むことが出来たのも、その周囲に誰一人他者の存在がないというこの状況も、
ひいては『古泉が会えなかった』という事実でさえ、あいつが望んだからそうなった
のだとでも言うのだろうな。

 それの意味する所が如何なるものか。無論その絵空事が真実であれば、だが。
俺はなんとなくは理解をしていたものの、それを言葉にするのは憚られた。

 折角の決意が甘えで揺らいでしまうのが嫌だったからか。
 それとも、単に柄になく照れていただけか。


 まあ、ともかく。


 何かに誘われるように訪れた屋上。そこへ通じる扉を開けた瞬間俺の目に飛び
込んできたのは、赤々と染まる世界にぽつんと佇むハルヒの後ろ姿だった。

「よう」

 その寂しげな背に近づきながら俺は声をかける。案の定返事はなく、呼びかけた
余韻だけがただただ乾いた音色を響かせたに過ぎない。その残響が遺されている
内に歩を進め、俺はハルヒの隣に立った。

「聞こえてるか?俺は挨拶してるんだが」

 転落防止用のフェンス越しに見える街並みは、どうしてか、いつものそれと違って
いるように思えた。ひょっとすると小泉の危惧していたような世界の改変が既に始
まっているのか?いやいや、目の錯覚だと思いたい。でなけりゃ夕暮れ時の風の
匂いやクツワムシだかの鳴き声が、そんな勘違いを誘っただけだろうさ。

 そんなこんなを考えながら、俺は横に視線を向けた。勿論、その視線の先にいる
のは我らが団長閣下だ。薄ら寂しい街並みをただ黙って睨んでいるハルヒの横顔
は、唇は尖り眉根は寄せられていて、まるで叱られた子供のようだった。

 或いは、親とケンカしたガキ大将のような、だろうか――――そんなことを思った
のは、次の瞬間、そのつい、と突き出された唇から吐き出された台詞とその音色が
あまりにそれらしかったからだろう。

「ふん、何しに来たのよ。顔も見たくないとか言ってたくせに」

 無論だが、この上なく不機嫌そうな声色である。けれど内心、ひょっとすると口も
聞いてくれないかも知れないと思っていただけに、俺の表情筋は無意識の内に緩
んでしまっていた。



 ……うん?

 と、俺は我がことながら正気を疑う。
 俺は、ハルヒの声を聞けてホッとしている…、のか?

 いやいや、まさか。俺がこいつの声に安心するだなんて、そんなことがあろう筈が
ない。そりゃあ確かにハルヒが反応をくれたのは嬉しかったが、それはあくまで話の
端を切り出せたことに対してのものであって、こんな世が世なら魔王になってるかも
知らん横暴と我欲の権化のような女の言葉に心落ち着けるなんざ、まかり間違って
もあるわけがない。そうだろう?そうだよな?誰かそうだと言ってくれ。

 ……いや、もうやめるかこんなのは。

 いい加減、俺も学習しなきゃならん。それに俺はハルヒに謝るためにここへ来た
わけで。謝るってのはつまり、自分の気持ちに素直になることだ。

 だからこの場合、真に正解たる心象描写ってのはこうなる。


 俺は、ハルヒの声を聞けて、心底から安堵していた―――――とな。



「すまん。それは撤回だ。そのしょぼくれたツラを見てたらそんな気は失せた」

 俺は浮かんでいた薄らにやけた笑みをなんとか噛み殺し、ハルヒの横顔へ向けて
言葉を放った。

「何それ?」
「いや、お前のそんなツラ、滅多に見れたもんじゃないしな。よぉく眺めることにした
んだよ。この場にカメラがないのが残念だね。あれば激写して額にでも飾ってやろ
うかってくらいの、えらいふぬけヅラだ」
 敢えて煽るような台詞を吐いたのは言うまでもないが、しかしてハルヒの反応は
薄い。やれやれとでも言いたげに肩を竦めると、依然視線は外したまま、

「…は、ウザ。てか寄って来ないでくれない?あんたなんかに構ってるほど、あたし
は暇じゃないの」
 取り付く島もない、という奴である。ハルヒはフェンスから手を離し、俺から遠ざか
る方へと歩き出す。その背を呼び止めようか逡巡するも、そのゆっくりとした足取り
は、しかし数歩もしない内にはたと止まった。

 かくも不機嫌そうなハルヒであったが、どうやら話をするつもりもないという訳では
ないらしい。その場から立ち去るつもりもまた、ないようだった。そんなハルヒの後ろ
姿とその向こうに見える夕日に目を細め、俺は話を続ける。

「ふぅん?なるほど暇ではない、と」
 しかしハルヒよ。俺の基準じゃ夕暮れ時の病院の屋上でぼうっと景色を眺めてる
奴なんてのはどう考えても暇人でしかないんだがな。

「うっさいな。あたしの基準じゃ暇じゃないの。それにあたしが何処で何してようと、
あんたには関係ないでしょ?あんたもう団員じゃないんだから」
 そう言ってハルヒは後ろ髪を鬱陶しげに払った。

「関係なくはないな。まだお前とはクラスメイトという繋がりが残ってたりする」
「そんなの知ったこっちゃないわよ。あたしは普通の人間には興味ないの」
 ハルヒが吐き捨てるように言い放ったのは、そんな、なんだか懐かしさすら覚える
ような台詞だ。

 果たして。俺はあの麗かな春の日に執り行われたこいつによる甚だ意図不明な
宣言を、今でも一字一句漏らすことなく、まるで昨日のことのように思い出せる。

 ただの人間には興味ありません――――――か。

 くつくつと漏れ出そうになる笑いを押し留め、俺は呆れたような声を返す。



「成る程。しかしそうなるとSOS団は普通じゃないということになるな」
「そうよ。あたしが作った団なんだから普通なわけないじゃない」
 その返答にもなんとなくデジャビュを感じながら、俺はオウム返しのように、

「そうかい。…なら、団員ならいいんだよな?だったらさっきの辞めるって奴、それも
撤回だ」
「…はあ?何言ってんのあんた」
 ハルヒはそう言って肩口にぱっぱと後ろ手を振った。

「あたしさっき言ったわよね?辞めたけりゃ勝手にどうぞって。あんたの退団申請は
既に受理されたわ。今更撤回しようったって、そんなのもう無理に決まってんでしょ」

 こちらからはその顔を窺うことは出来ないが、その声色からハルヒが今どんな表
情をしているのか、俺には容易に想像できる。なんなら賭けてもいい。まず間違い
なく、出来の悪い学生を相手にしている数学教諭のような、呆れ顔の筈だ。

「ほう、SOS団は口頭での退団手続きが可能なのか」
「ええ、団長の許可がある場合に限りね」
 軽口交じりの俺の台詞に、ハルヒはどうでも良さそうな声色で答える。期待通りの
その答えに俺は内心にやりと笑い、すかさず言葉を継いだ。

「なら、入団手続きが出来ないって道理はないよな。ってことで、俺は今ここで再入
団しようと思う。入団試験とかあったら遠慮なく言ってくれて構わないぞ」

 くどいようだが、俺の位置からハルヒの顔は見えない。だがしかしその表情が如
何なるものか。俺は手に取るように理解できた。どうやら出来の悪い学生の相手
も、いい加減疲れてきた頃合のようである。

「…あんた、ひょっとしてあたしをバカにしてる?」
「ようやく気付いたかこのスカタン」
「……っ!」
 息を呑む音が聞こえる。と同時に肩が強張るのも見て取れた。そろそろか、と俺
は心持ち身構える。そろそろ、こいつの短すぎる導火線に火がついてもいい筈だ。

 そもそもがおかしな話だったのだ。今日これまでのこいつと俺とのやり取りを鑑み
れば、こうして面をつき合わせて…はいないが、普通の声量で充分に声の届く空間
に俺がいて、それでいてハルヒの口から文句のひとつも出ない、なんて状況は有り
得る訳がない。それぐらいのことを、俺はやっちまった筈なんだからな。

 ならば、ハルヒは何故かは知らんがそんな文句を吐けない程にヘコんでいる、と
いうことになるわけだ。何を思って沈んでるのかは知らんが、早いところいつもの調
子に戻して、話はそれからだ。そう思っての俺の言動だったわけだが……、




 しかしながら今日のこいつの導火線は、どうにも湿気っちまっていた。

「あたしなんかほっといて戻りなさいよ…。愛しの有希が待ってるわよ」

 頭を垂れ、まるで何かを我慢しているかのような、漬け物石になるんじゃないかっ
てくらいのトーンで、ハルヒは言った。
 思わず、俺はため息をつく。やれやれ、またそれかよ。どうやら謝罪の言葉を述
べる前に、まずはそこらへんの疑問と違和感を解消しなければならないらしい。

「なあ、ハルヒ」
「なによ」
 呼びかけた声に、ハルヒは振り向きもせず反応を返す。

 しっかし、こいつはいつまでそっぽ向いてるつもりなんだろうね。人と話すときは相
手の顔を見て話しましょうと小学生のときに習わなかったのか?まあ単に、あの喫
茶店での自らの台詞に、ガキみたいな意地を張っているだけなのかも知れんが。

 ともかく、俺はその背に言葉を投げかける。

「この際だから聞くが、どうしてそんなに俺と長門に拘るんだよ」

 長門に対するあらぬ他意なんぞを読み取られないよう、なるべくぶっきら棒に聞こ
えるように言葉を発した俺だったが、応答を返す側であるハルヒが黙ってしまっては
その努力も水泡である。…こういう沈黙は地味にキツイな。

 こういうのも無言のプレッシャーというのだろうか。過ぎ去ってゆく非常に気まずい
時間に根を上げ、俺が再び口を開きかけたそのとき、ハルヒがぽつりと呟いた。

「わかんないわよ…」

 はあ?自分のことだろう?なんでだよ。

「自分のことだからって、わかんないものはわかんないわよ!」

 なんだそりゃ、逆ギレか?―――と、喉元まで出かかったそんなツッコミを飲み下
してしまったのは、ハルヒの肩がわなわなと震えているのが目に入ったからだ。

 どうやらこいつは、本当に分からないらしい。どうして自分がこんな瑣末なことに拘
るのか、その理由が分からない理由さえ分からない。ああ腹が立つ。ああいまいま
しい。いまいましい―――その心情を代弁すれば、そんなところになるのだろうか。

 まあ、そんなのを論じたところで詮無いことであるし、分からんというのがハルヒの
答えならばそれはそれでいいとしよう。今日一日でこれだけ引っ掻き回されたんだ。
出来れば知っておきたい気持ちはあったが、これ以上問い詰めたところで出てくる
のは、どうせ同じ答えだろうしな。

 ならば、とばかりに俺は次の質問を口にする。

「…じゃあ、質問を変えるぞ。お前、なんでまた長門に、あんな嘘をついた」

 いや、むしろこれが本題だった。

 ずっと、喫茶店で長門に事の真相を聞かされたときから気になっていた。ちょっと
前のこいつならいざ知らず、だ。どうしてまた今になってあんな真似を仕出かしたの
か。それがどうしても分からない。

「さっき喫茶店で言ってたな。『俺が流され易いからつきたくない嘘までついた』って。
俺にはそれがどういう意味なのかさっぱり分からんのだ。俺が流され易いのは事実
であるか知らんが、それと長門に嘘を教えることにどんな関係があるってんだ?」

 俺が半眼で訊ねると、ハルヒは少しばかり考えて、それからこんなことを言った。

「…あんた、あのとき『好きかもしれない』って言ってたわよね」
「あのとき?月曜の話か?」

 俺の脳裏に自らの口から出た薄ら寒い台詞が蘇える。自分で自分の気持ちが分
からない、とかいった要旨の奴だ。今思うとよくもあんな台詞が言えたものだなあと
いったところであるが、あのときはつい、何と言うか…、何と言うんだろうな、こう…、

「あれって本気だった?『売り言葉に買い言葉』って奴だったんじゃない?」

 ズバリ、ハルヒが正解を口にする。そうだな。まさにその通りだ。全く以ってその通
りなのだが、そう答えるのもいけ好かん。

「まあ、そんなもんかも知らんが…」
 俺はとりあえず肯定はしたものの、言葉を濁した。
 しかしまあ、問い詰めた本人がそれを言うのかね。

「そう、それがあんたなのよ。余裕ぶってるくせに状況に流されやすい。ちょっと可愛
い女の子が言い寄ってきたら、すぐにコテっていっちゃいそうな、ね」

 喋っている口元にかかるのだろう、風になびく髪を抑えながらハルヒは続ける。

「だから、答えを決めるのは有希だと思った。有希はあんたとは逆で、なんていうか、
こうと決めたら一途なところがあるから。有希が本気であんたのことが好きなら、そ
れで決まりだなって。どうせあんたはそれを拒まないでしょうし」
「…まあ、否定はせんがな」
「だから、有希の気持ちを確かめようと思ってあんな嘘までついたのよ。衆目の真
っ只中であんなこっ恥ずかしい真似、本気じゃなかったらできるわけないもの」

 成る程、あの『確かめたくって』ってのは、そのことだったわけか。

「そ。まあ結果は最悪だったけど」

 ハルヒはそう言って、力なく笑う。



「正直、あんたがあそこまで怒った理由が、あたしには分からなかった。そりゃ、確
かにあたしが有希に酷いことしたのは認めるけど、でも、なんでそこまで?って。
それくらい怖い顔で、あんたは怒ってた」

 そこで一旦言葉を区切り、ハルヒは俺から遠ざかる方向へまた数歩、足を進めた。

「だから、ずっと考えてたわ。あんたが怒った理由。色々言いたいことはあったけど、
ずっと黙ってね。…そしたらあんた、いきなり『辞める』とか言い出して、みくるちゃん
や古泉くんにまで当たり散らして、自棄になった自殺志願者みたいなこと喚いてるん
だもの。流石に我慢も限界だった」

 自棄になった自殺志願者ね。まあ、あながち間違いではあるまい。

「止めようと思った。発端はあたしにあるってことくらい、分かってたしね。でも、あん
たは聞く耳持たなかった。それどころかみくるちゃんや古泉くん、あまつさえ有希の
ことさえご機嫌取り呼ばわりして、あげつらった。あたしは気付いた。あんたはもう
話をするつもりもないんだって。あたしたちで作ったSOS団を勝手に見捨てて、勝手
に終わらせようとしてるんだって、そう思ったら…」

 そう思ったら、なんだ?口を衝いて出かけた言葉を飲み込み、俺は考える。

 あのときこいつは泣いていた。なら、それに続く言葉は一体なんだ?悲しかった?
寂しかった?いやいや、相手は腐っても涼宮ハルヒ。そんな生っ白い台詞が吐か
れるわけはなく、となれば答えはこれしかあるまい。

「……ムカついたか?」
「ええ。ムカついたわよ。すっげえムカついた。あんまりムカついたからつい殴るの
忘れちゃうくらいムカついた。結局殴ったけど」

 そりゃまたえらいムカつきようだな。

「だから、気付いたのよ。…まあ、あのときはそれどころじゃなかったから、気付い
たのはついさっきのことだけどさ」
 そう言ってハルヒはまた一歩二歩、俺から遠ざかる。
「気付いた?何にだよ」
 俺はその後ろ姿に向けて、言った。ハルヒは振り返らない。

「あんたがあんなに怒った理由」

 病院の側壁を駆け昇ってきた風がふわり、その黒髪を巻き上げる。

「あのとき、あんたに自分のことを馬鹿にされても、そんなに腹は立たなかったわ」

 嘘つけ。めっちゃ悔しそうな顔してたじゃねえか。

「うっさいわね。そりゃ、まあ、少しはムカついたけど。あんたが言ってることも半分
は事実だったしさ。なんとか我慢できたわよ。でも、どうしてかしらね。みんなのこと
を馬鹿にされて、あんたがみんなを捨てようとしてるのに気がついて、あたしは我慢
できなくなった」

 そこでようやく、本当にようやく、ハルヒは振り返り、俺の顔を見た。……いや、ど
うなんだろうな。丁度逆光線のシルエットになっている為、分からない。その表情や
ら視線やらは自らの作る影に包まれて、振り返って尚、俺からは確認できない。

「あんたも、それと同じだったんでしょ?」

 ただ、そう言ったハルヒの声がやけに穏やかだったこと。それだけが妙に印象的
に耳に残った。

「それで、分かったの。ようやく理解した。自分のやったことがどれだけ愚かしいこと
かって。有希は、有希は……」
 言葉を詰まらせ、ハルヒは俯く。



 途切れてしまった台詞のその後、こいつはなんと続けるつもりだったのだろう。
文脈から察するに、まず間違いなく長門に対する何かしらの形容である筈だが。

 こいつにとって長門有希とは、あるとき曰く、SOS団に不可欠な無口キャラであり、
またあるとき曰く、SOS団随一の万能選手、である。

 しかし、だ。そんな褒めてるんだか貶してるんだか分からない形容を吐く状況でな
いことは俺も重々理解していたし、何より、そんな淡白で面白みもない台詞よりも、
もっとこの場に相応しい言葉が存在することを俺は知っている。

 なるほどな、と俺は独り納得し、苦笑する。そして再び閉口してしまったハルヒへ
と近づきながら、こんなことを言ってやった。

「なあ、覚えてるか?前にも似たようなことがあったよな。お前の発言に俺がキレて。
文化祭で映画を作ったときのことだ。お前は忘れちまったかも知れないが…、」

 あの、鶴屋邸での出来事。こいつは常日頃以上に朝比奈さんを不遇に扱い、あま
つさえ、あろうことか自分のオモチャ呼ばわりしやがった。あんときも俺は大概にぶ
ち切れた―――それこそいっぺんぶん殴ってやろうかってくらいにぶち切れたもん
だが、果たしてそれはハルヒにとっても同じことらしかった。

「…覚えてるわよ。あんときもしこたまムカついたから」
 そうだろうさ。お前は執念深いからな。そういうことは忘れなさそうだ。
 まあ、ありゃ逆ギレにも程があるが。
「で、それがなんなの?」
「今でも、朝比奈さんはお前のオモチャだと、そう思ってるか?」

 再び、会話が止まる。俺は尚も足を進めながら、

「…違うよな?」

 ハルヒは答えない。その首が傾げたのが一瞬、首肯したようにも見えたのだが、
単に俯いただけのようだった。

 ハルヒは肯定も否定もせず、ただ無言のまま。けれど、その沈黙の意味するとこ
ろがなんなのか、なんとなく俺には理解できた。……いや、なんとなく、じゃないな。
それ以外に考えようなどないのだから。

 足を止めたとき、俺とハルヒとの距離は手を伸ばせば届くところまで近づいていた。

「…お前は気付いたんだろ?なら、謝ればいいだけのことだ。俺もさっき朝比奈さん
と古泉に謝った。二人とも笑って許してくれたよ。だから、長門だってきっと…」

 許してくれるさ、と続けて、俺はハルヒの反応を待つ。

 太陽は既に山向こうに隠れ、その周囲に浮かぶ雲に、赤というより朱色に近い光
を映しているのみだった。最早、辺りは薄暗い。
 けれど元々が逆光であった為か、むしろ丁度よい光度になったと見え、或いは単
に距離的な問題かも知れないが、ともかく。差し向かうハルヒの顔は、以前よりか
よくよく見えるようになっていた。

 けれどそれは弱々しい、いつものオーラを全て失ったような、覇気のない表情だ。

「キョン…、」

 呟くと、ハルヒはその表情を苦々しく変化させる。そして、





「ふざけんな…!」

 呻くようなかすれた声とともに、俺はシャツの胸元を掴まれる。屈むような形で引
き寄せられた俺の眼前に、苛立たしげに歪んだハルヒの顔があった。

「あんた…、どこまで無神経なのよ…! 謝る?どうやって?あんた、あたしが何も
知らないとでも思ってるの?」

 目の周りが、うっすらと赤く腫れている――――互いの吐息の感触が分かる程の
距離になってようやく、俺はそれに気づき、理解する。こいつが、あれほどまで頑な
に俺に背を向けていたのは、何も自分の言った『顔も見たくない』なんて発言にガキ
みたいな意地を張っていたからじゃない。

 それを、その涙の痕を、俺に見せたくなかったから―――――なのか。

「今更気付いたって、有希はもう……、」

 消え入りそうな声で呟いて、ハルヒは引き寄せた俺の胸に、顔を埋めた。

「知って…、たんだな」

 考えてみれば当たり前の話だった。連絡の電話なんざそう何分も時間のかかる
もんじゃない。だってのにこいつは受付に走っていったきり戻らなかった。…いや、
戻ってきたのだろう。戻ってきて、俺たちが廊下にいないから治療室の中に入ろう
として……、聞いたんだ。あの電子音を。

 そのとき、こいつが何をどう思ったのかは分からない。ただ、少なくとも長門の死
をそのまま受け入れちまったのは事実だ。でなきゃ、こいつがこんな屋上なんぞで
たそがれていたことに理由がつかない。

 ハルヒは泣きっ面に蜂でも食らったかのように、俺の胸元に顔を押し付け、微か
な嗚咽を漏らしている。こんなにも弱っているこいつを見るのは、初めてだった。


 俺はその背中に手でも回してやりたくなる衝動に駆られる。そうして項垂れる頭を
撫でてやり、慰めの言葉でもかけてやりくなる。そのくらい、俺の鼻先、ほんの数セ
ンチ先にいるハルヒは小さく、まるでただの女の子のようだった。

 ―――――けれど。

 俺はぐっと堪え、背中に回そうとしていた左手を、頭を撫でようとしていた右手を、
それぞれハルヒの肩にやる。そして、その体を引き離した。離れる瞬間、俺の視線
がハルヒの恨めしげなそれとぶつかり、胸が張り裂けそうなほどに痛む。

 ―――――だがな。

 こいつが認めちまったこの世界を、長門のいないこの世界を、俺は絶対に認めち
ゃならない。認めたくないんだ。だから、俺はハルヒを慰めない。無神経だろうが無
責任だろうが、知ったこっちゃあるか。

 ―――――わりぃな、ハルヒ。俺はまだ、諦めちゃいないのさ。

「行くぞ、ハルヒ」
 ハルヒの両肩から手を離し、俺はハルヒの手を取った。そしてそのまま、開け放し
のままになっている屋内の入り口へとその手を引っ張り歩き出す。

「行くって、どこによ…」
「決まってるだろう」
 背後から聞こえてくるか細い声に、俺は振り返ることなく行き先を告げた。

「長門のところだ」





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