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 誰よりも早く動いたのは、やはりハルヒだった。

「有希っ!?」

 流れるに任せていた涙を拭うと床に倒れ伏せる長門へ駆け寄り、その華奢な体を
抱き起こす。見開かれた目は赤く充血していたが、それ以上に、溢れんばかりの心
配の色が見て取れた。

「―――っ!すごい熱……、有希?ちょっと大丈夫?苦しいの?有希っ!」
 耳元で聞いたら鼓膜が破れるのではないか。そんなことを思わせるようなハルヒ
の声。しかし、長門は反応を見せない。ぐったりと垂れた頭が、その身を揺らされる
度に右へ左へぐらぐらと振れる。

「ええ、お願いします。北口駅前の喫茶店……」
 古泉は携帯を片手に、俺たちにわざと聞かせてるんじゃないかってくらいの声量
で話していた。場所と状況を電話越しに伝えるとそれを切り、ハルヒに駆け寄る。
「いま、救急に連絡を取りました。すぐにこちらへ向かうとのことです」

 朝比奈さんは暫くの間、何故か左耳を手で押さえながら、びっくりしたような表情
で長門を見つめていた。かと思うと急に悲しげな顔を見せ手を離す。そして嫌な想
像でも打ち消すかのようにふるふると首を振ると、

「あの、あたし。お店の人に言って氷を用意してもらってきます」
 誰に言われるでもなく小走りに厨房へ向かう。あたふたと何も出来ずにいるかと
思われた朝比奈さんのその行動に、俺は少なからず困惑する。


 朝比奈さんの様子だけではない。古泉の電話についてもだ。俺の記憶が確かで
あれば、先程の電話は長門が倒れた瞬間に何処からか掛かってきたものだった筈。
それがいつから救急に繋がったことになったのか。
 まあ、普通に考えて、『組織』との連絡とハルヒへ向けた芝居を一緒くたにしただ
けの話なのだろうが、そのときの俺は「ああ、最近の救急はサービスがいいな」だ
なんて的外れなことを考えていやがった。

「すいません。事情は見ての通りです。皆さん、ご協力をお願いします」

 そう前置きした古泉が周囲にいた客や従業員にてきぱきと指示を出す。咄嗟の
ことだ。何のことか分からないだろうに。そんなことを思う俺を尻目に、しかし彼らは
即座に頷き、その指示に従う。その内に朝比奈さんが戻ってきて長門の額に氷袋
が当てられる。

 俺だけが、何も出来ずただ呆けるように突っ立っていた。
 俺だけが、状況を全く理解できていなかった。

 立ち尽くし、ただその光景を眺める。まるで出来の悪い再現VTRを見ているような
気分で、雪山のときとまるで同じ状況ながら、大いに違いすぎるその光景を。

 古泉や朝比奈さんが即座に状況を把握できている、周りにSOS団以外の誰かが
いる、そんなことは大した差異じゃない。ただ一つ。一つだけだ。その光景には、
あの雪山のときとはあまりにも違いすぎる点が一つだけ存在している。

 長門が、苦しそうに顔を歪め、喘いでいる―――

 或いは、俺は悪い夢でも見ているのか。
 長門に呼びかけるハルヒの声が、何故か遠く聞こえた。






 五分もしない内にやってきた救急車に乗り、俺たちは病院に向かった。その間は
勿論、病院に着き、緊急搬送用の治療室の前で立ち尽くしているたった今でさえも、
俺はこの状況を理解できずにいた。

「涼宮さんは長門さんの親族の方に連絡を取ってください。こちらが連絡先です」
 古泉はそう言って紙切れをハルヒに渡す。
「分かったわ。電話は…」
「受付に一台、公衆用のものがあった筈です」

 分かった。そう言ってハルヒは受付へと早足に去っていく。何故古泉が長門の親
族の連絡先なんぞを知っているのか。そんなことは疑問にも思わなかったらしい。

「あなたは…、こちらへ。朝比奈さんも一緒に」
 そう言って古泉は俺と朝比奈さんを治療室へと促す。当たり前だが、その中には
長門がいて、今まさに治療を受けている最中か、それとも…、

「…なあ、古泉。長門の親族って」
「心配要りません。我々の仲間が電話越しに迫真の演技を披露する手筈になって
います。それより、急いで」
 …やっぱり『組織』か。口を衝いて零れそうになった言葉を飲み込み、俺は頷いた。
古泉と朝比奈さんの後に習い、治療室への敷居を跨ぐ。

「信じられない…、こんなことって…」
「ええ、僕も信じられません。まさか、ここまで…」
 扉が締まると同時に、ぽつり、呟くように放たれた二人の声は、これ以上ない程に
悲壮な色を呈していた。

 こんなこと?ここまで?一体どういうことだ?
 俺の散漫な問いかけに、朝比奈さんが答える。

「詳しくは禁則にかかるので言えませんが…、過去から未来まで、全ての時間平面
において、情報統合思念体の消失が確認されました。四年前…、あたしたちの技術
では涼宮さんが引き起こした時間断層を越えることは出来ない。だからそれ以前の
過去の情報は読み取れませんけれど…」
 途切れた朝比奈さんの言葉を繋げるように、古泉が言葉を紡ぐ。

「ええ、それ以前に存在していただろうそれらも、恐らく消失してしまったでしょうね。
全く、なんてことだ。一人の人間があの超自然的存在を細部まで把握し切ってしま
うだなんて。これを無意識にやってしまうというのですから、まさに脱帽ものですよ」

 ここまではっきりとした言葉を伝えられながら、俺は未だ事態を理解できずにいた。

 お前ら、さっきからなんの話だ。情報ナントカ体って長門の親玉だろ?
 それが消失?どういうことだ?

「キョンくん、落ち着いて?統合思念体が消えたからってすぐにそれが――――」
「そうです。落ち着いて下さい。かの存在と長門さんとの関連は未だ――――」

 ふざけるな。これが落ち着いていられるかよ。なあ、どうなったんだ。
 長門は、長門はどうなったんだよ。親玉が消えたんだろ?なら、長門は……、

「―――っ、長門!?」

 俺は、見た。……いや、見てしまった。

 医師はおろか俺たち以外に誰一人いない治療室。その寝台の上、横たわる長門
の体。波にさらわれた砂の城のようにさらさらと崩れかけているその体は―――

 ―――――まるで、あのときの朝倉と同じじゃないか。




「長門!」
 俺は咄嗟に駆け寄り、消えかけた長門の体に触れ―――――冷たい。文字通り
体温を司る情報を失ってしまったかのような冷たさだ。

 くそ!何がどうなってやがんだよ!なんでこいつが消える?なあ、おい!消えるな
ら俺だろうがよ!ハルヒは俺に『死ね』と言った!なら、消えるのは俺の筈だ!なん
で、なんでこいつがこんな目にあわなきゃいけない?なんでだ?全く意味が分から
ない!なあ、ふざけんなよ!こんな不条理があって堪るか!

 溢れ出した感情が、俺の中で暴れまわる。もし『それ』に気付かなかったら、俺は
そのまま体裁なく喚いていたことだろう。

 長門の手が、俺の手に触れている。

「…長門!?目を覚ましたのか?なあ、分かるか?今お前大変なことになって……」

 俺は問いかけながら長門の顔を見た。長門は目をぱちりと瞬かせると、ゆっくり、
首を左右に振る。そしてその意味を俺が理解するよりも早く、口を開き、断定する
ような口調で言った。

「情報結合の解除が開始された。もう時間がない。わたしという情報はいずれ消える。
その前に、わたしに残された処理能力でこの肉体を再構成、凍結する」

 再構成はいいとして…、凍結…?どういう…、ことだよ……。
 長門の言っていることが、理解できない。

「この肉体はわたしの活動停止後も暫くは保存される。わたしは死んだことに出来る」

 言葉に、ならなかった。



「なんでそこまで…、後のことなんて考えなくていいんだよ…。お前は今生きること
だけ考えりゃいいんだ!なんとかなるんだろ?いつもみたいに!なあ、長門!」
「…もう遅い。どうにもならない」

 長門はいつもの無表情でそう言うと、早口で何か呪文のようなものを呟く。霧散し
かけていた長門の体が、まるでビデオの巻き戻し再生でも見ているかのように見る
間に元通りになっていく。
 本来ならば喜ぶべきその光景は、けれど、あんな言葉を聞いてしまった今となって
は、俺の目には悲痛なものにしか映らなかった。


 そのときの俺はどんなツラをしていたのだろうな。多分、誰が見ても気の毒に思う
ような情けないツラだったんだろう。長門の手が、俺の頬に伸びる。

「最後にひとつだけ」


 呟いた長門の顔を、俺は多分、一生忘れない。
 長門は俺の顔を真っ直ぐに見据え――――――小さく、微笑ったんだ。


「あなたと、涼宮ハルヒを、信じる」


 俺の頬を撫でていた冷たい手が、はたりと落ちる。
 傍らにあった心電計が、無情な電子音を響かせた。








 気付けば、傍らには古泉と朝比奈さんがいて、どんな顔をしていいのか分からな
い、そんな表情で突っ立っていた。鳴り続けていた心電計はいつの間に止められて
いたらしい。治療室の中は一切の静寂に包まれている。
 位置からして、止めたのは古泉だろうか。…いや、そんなことはどうでもいいか。

 頬に感じる感触は、何故かひんやりとしていた。ひょっとすると、俺は泣いていた
のか知れない。俺はシャツの袖で顔をぐしぐしと拭う。それから味気ない天井を見
上げ、目を閉じた。
 どうしてそんな行動を取ったのかは分からない。ただ、もしかしたら、天にもすがる
ような気持ちだったのだろうかと、そんなことを思う。

「なあ、古泉、朝比奈さん。ひとつだけ教えてくれ」

 俺は運命なんぞ信じちゃいない。けれど仮にそんなものがあるとしたら、俺たちの
日常に似つかわしいそれはきっと、こんな悲惨なものじゃない。そう、信じたかった。
 晴らして欲しかった。このすっきりとしない心の靄を。俺が抱えているあらぬ疑いを、
掻き消して欲しかった。

「長門の親玉を消したのは、誰だ?」

 俺の問いに、古泉はあまりにあっけなく答えた。

「考えたくありませんが、涼宮さんしか在り得ません」

 聞きたくなかった台詞。
 それでも俺は、『ああ、やっぱりか』と思ってしまった。




「僕は『組織』の仲間に連絡を取ってきます。涼宮さんが来たら……、いえ、涼宮さ
んには僕から説明しておきましょう。あなたには少々時間が必要のようだ」

 そう言って古泉は治療室を後にした。こいつに気を遣われるくらいだ。俺はさぞか
し酷いツラをしているらしい。だが、それを直す気すら起きない。

「キョンくん…、あの、元気を出してください…。長門さんは…」

 誰かの声が聞こえて、俺は視線を向ける。暫く眺めても、それが誰なのかが分か
らない。その内に、ああ、朝比奈さんかと至極当然の結論に至る。
 朝比奈さんは気落ちした表情で、何か言葉を発していた。けれどどうしてだろう、
俺の耳に確かに届いている筈のその声は、意味を伴わない音の羅列のようだった。
例えばその音の羅列に名を持たせるなら、『慰めの言葉』とでもなるのだろうが。

「あなたは、行かなくていいんですか?」

 咄嗟に口から出たのは、そんな一言だった。途端、朝比奈さんの口から発せられ
ていた音の羅列が止む。俺はこれ以上、惨めな気分になんぞなりたくはなかった。
だから、言葉を続ける。

「長門の親玉が消えたんです。あなたも上司とやらと今後の対応を検討しなければ、
ではないんですか?」
「……ぁ、……ぇ、と」
 俺の八つ当たり染みた言葉に朝比奈さんは口ごもり、瞳を潤ませる。その挙動ひ
とつひとつが、堪らなく俺の胸を締め付ける。だが、俺はそれを甘んじて受け入れ
なくてはならない。

 そう、だ。俺は惨めな気分になりたくないんじゃない。
 逆だ。もっと、惨めになりたかった。

「それとも、検討する必要もないことだと?いつだかもありましたね。規定事項がど
うのと。これもそうなんですか?長門がこんな目に遭うのは既に決まっていたことだ
と、あなたの未来に必要なことだと、あなたはそう言うんですか?」

 分かっている。こんな言葉をぶつけたって何にもなりはしないってことは。未来人
の意図がどうあれ、朝比奈さんがそれを語る術を持たないことを、俺は知っていた。
 でも、だからこそ俺は言わなくてはいけない。最低の俺は、最低に似つかわしい
姿で在らなくてはならない。


 それが、長門をこんな目に遭わせてしまった俺に出来る、唯一つの償いなのだから。


「ぁ…、あの……、あたしは…、……ぁ、」
 ぽたり、頬を伝う涙が雫となって床に落ちる。締め付けられた胸は、もう限界だと
言っている。……いや、まだだ。俺はまだ、最低に堕ちちゃいない。

「すいません、朝比奈さん。暫く独りにしてください。これ以上あなたといても、俺は
あなたを傷付けるだけだ」
 それは、言葉だけを取れば、相手を思いやったような台詞。けれどその実そこに
あるのは明確な拒絶だ。それに気付いたのだろう、朝比奈さんは、

「ぅ……、ひっ……ぅ、ご、ごめんなさい……っ!」
 朝比奈さんは、ぽろぽろと涙を零しながら、駆け足で部屋から出て行った。


 これでいい。これでいいんだ。胸の痛みを堪えながら、俺は自分に言い聞かせる。
やり遂げた達成感などはない。当たり前だ。

 俺の所為で、長門はこんな目に遭ってしまった。
 俺の所為で、長門はいなくなってしまった。

 こんな痛みなんて、長門が感じたそれの何億分の一に満たない。自分が消えてい
く感覚ってのがどんなものか、俺は知らない。けれど、手の施しようのない患者が末
期に見る感覚に近しいものなんだと思う。苦しみながら、ゆっくりと死んでいく。それ
に近しいものなんだと思う。だからこそ、俺は理解できない。

 畜生…、なんでだよ。なあ、なんでだ、長門。
 なんでお前、あのとき微笑ったんだよ。

 俺の所為だと一言罵ってくれれば、俺はこんなにも自分を惨めに思うこともなかっ
たのに。こんな状況にあっても、未だ現実を受け入れられない俺を、どうして……。

 本当に?本当にそうなのか?
 本当に?ハルヒがこんなことを望んだというのか?
 本当に?

 俺の頭の中にあったのは、そんなありもしない妄想だった。長門と長門の親玉を
消すだなんて、そんなことハルヒ以外の奴に出来るわけがないのに。なのに、俺は。

 この場に自動小銃でもあれば俺は自分の頭を撃ち抜いていただろう。妄想を掻
き消す気力もない。もう、うんざりだった。








 どれくらいの時間が経ったか分からない。一時間か、数時間か。いや、実際はも
っと短くて、精々数分かそこらだったろうが、俺には永遠に思えたくらいに長い時間
が過ぎた後、俺は扉を開け中に入ろうとしている古泉の姿に気がついた。

「廊下で朝比奈さんが泣いていたようでしたが…、何かあったのですか?」
 開口一番触れられたくない話題を持ち出す辺り、流石は古泉と言ったところだ。
が、生憎とそれに対応できる気力は今の俺にはない。

「…お前には関係ない」
 呻き声のような俺の声に、しかし古泉は何ともなしに言葉を返す。
「そうですか。ところで朝比奈さんにも聞いたのですが、涼宮さん、こちらへ来てい
ませんか?探したのですが見つからないんですよ」
「いや、来てないな」
「…ふむ。そうですか」

 なんなんだ。俺は古泉のはっきりしない発言に苛立ちを覚える。大体廊下にいた
朝比奈さんに聞いたなら俺に聞く必要もないだろう、などとは思ったが、口には出さ
ない。出す気力もない。しかし古泉は頼まれもせず言葉を繋げる。

「いえ、もしかしたら朝比奈さんが見落としている可能性もありましたので。何せ酷く
落ち込んでいたものですから」

 …こいつ、喧嘩でも売っているのか?

「……さっきからなんなんだ。俺は独りにして欲しいんだがな」
「ああ、それは失礼。ですがもう暫く我慢してください。実は聞いて欲しいお願いが
ありまして」
 そう言うと、古泉はこちらへと歩み寄りながらいつもの口ぶりで話し始めた。

「現在、かつてない勢いでかつてない規模の閉鎖空間が発生し続けています。我々
の仲間が総出で対応に当たっていますが、侵攻を推し留めることも叶わない状況
です。このままではこの世界全てが呑まれるのも時間の問題でしょう」
 はっきり言って絶望的ですね。古泉はそんな台詞を言いながら、にこやかに笑う。

「そうなったらどうなるのか、今はまだ分かりませんが、恐らくはあのとき…、あなた
と涼宮さんがこの世界から消えたときのように、世界全体が切り離されてしまうのか、
或いは全く新しい世界が生まれるのか、どちらにせよ、我々はそこに存在しない」
 『お願い』と前置きしながらいつもの推理になっていることからして、長ったらしい
こいつの話はまだまだ続くようだった。

「ですが問題はそんなことではありません。以前お話ししましたが、閉鎖空間の発生
は涼宮さんの精神活動に著しく関係しています。そして今回の発生は規模も頻度も
今までの非ではない。最も不安定だった頃を上回るペースで巨大な閉鎖空間が発
生している。僕が何を言わんとしているか、もうお分かりですよね」

 そこで言葉を区切り、掌をこちらに向け差し出す。反応を待っているのか。暫く、
古泉は口を閉じて俺を見ていた。しかし黙ったままの俺に業を煮やしたのだろう、
ため息をつくと、急に真面目な顔を作り、言った。

「涼宮さんのところへ行ってあげて下さい。あなたにはそうしなければならない責務
がある。違いますか?」

 まあ、そんなことだろうとは思っていた。こいつが俺に何かを頼むなんざ、どれも
ハルヒ絡みのことだ。それにしても『責務』とはね。ふざけた話だよな全く。
「古泉、俺はな。あいつの保護者じゃあないんだ」
 かすれた声で、俺は言う。

「俺があいつのところに行って、それで何がどうなる?それにお前の話じゃもう世界
は終わりなんだろ?そんなのは俺にはどうしようもない話だ。こんな状況で俺に一
体何が出来るってんだ?ああ、仮に何かが出来たとしよう。だがな、古泉。もう無理
だ。俺にはもう何かしようって気力なんざ残っちゃいない」

 だってそうだろう?俺がのうのうと生きてるこの世界に、長門はもういないんだ。
なら、このまま黙って消えていこう。それが俺の仕出かしたことなら尚のこと、だ。
 それに……、そう。多分、これが一番の理由なんだろうな。この世界をハルヒが
望んだと言うのなら、もう、俺に出来ることはない。出来ることは……ない、筈だ。

 俺は頭に浮かぶ妄想を振り払い、古泉に告げる。

「言ったよな、古泉。俺はもうこの世界がどうなろうと知ったこっちゃない。消えるなら、
消えてくれりゃあいいさ。その方がなんぼかマシだ」




 古泉は、俺の言葉をただ黙って聞いていた。だが、その顔に張り付いた妙な表情
が、俺の琴線に触れる。

 古泉は、呆れたような笑みを見せていた。

「…何が可笑しい」
 俺の口から押し殺した声が漏れる。古泉は肩を竦めるような仕草を見せると、
「やれやれ、今度はこちらがあなたに失望する番のようですね」
 言うが早いか真っ直ぐにこちらへ踏み込み、そして――――


 気付けば、俺は仰向けに床に転がっていた。左頬がじんじんと痛む。衝撃が脳を
揺らしたのか耳の奥がちりちりと鳴る。火薬臭い匂いがぐらぐらと揺れる思考を煮
立たせていく。口腔に広がるのは、鉄の味だった。
 ハルヒのときとはまるで違う重い拳。その感触を知覚して、ようやく俺は古泉に殴
られたことを理解する。……クソッ、まるで見えなかった。

「くっ…、何しやがる」
「これは、涼宮さんの分ですよ」
 よろよろと身を起こしながら悔し紛れに呻く俺に、古泉は至って真面目な顔でそん
なことをのたまった。

「…あん?何言ってんだ?お前」
「ですから、涼宮さんの分です。それに加えてあなたの不用意な発言の所為で活動
を停止してしまった長門さんの分、同様の理由で零れ落ちた朝比奈さんの涙、つい
でに、明らかに勝ち目のない戦いに挑んでいる『組織』の仲間や、僕の心労の分も
加えておきましょうか」
 冗談のつもりだろうか。ふざけた台詞を続ける古泉のツラは、しかし笑みすら浮
かんでいない。

「普通…、そういうのは一個一個別に殴るもんだろうが」
 立ち上がり、調子を確かめるように首をぐるりと回しながら、俺は言う。殴られた
衝撃も痛みも未だ抜けきっていないが、それでも、

「嫌ですよ。殴る方だって痛いんですから。一回で済ませられれば済ませたいじゃ
ないですか。それともあなた、殴られたいとかいう特殊な性癖を」

 古泉が言い終わるのを待たずに拳を握り、軸足を踏み込む。こんなふらふらの
状態でまともな打撃が繰り出せるわけはない。恐らく簡単に避けられるか悪ければ
そのまま反撃に遭うだろう。だが、そんなことはどうでもいい。

 このままじゃ、俺の腹の虫が治まらねえ。

「―――寝ぼけたことぬかしてんじゃねえよ色男!」

 叫ぶと共に突き出した拳は、やけにあっさりと古泉の顔面を捉えていた。




 なるほど、これは痛い。古泉の談も頷けると言うものだ。じんわりと熱を持ち始め
る右拳に、俺はそんなことを思う。
 しかし驚いたのは、古泉が倒れることなく二三歩たたらを踏むだけで留まっていた
ことか。拳に感じた衝撃も痛みも、かなりの手ごたえを感じさせた。なのにこいつが
こうして立っているということは、こいつが人並み外れて頑丈なのか、それとも、

「なんだ。殴る気力くらい、あるんじゃないですか」
「お前…」
 わざと、避けなかったのか?言いかけた台詞を口に溜まる血液と共に飲み込む。
そうだ。来ると分かっている打撃なら、避けるのはまだし耐えるのはそう難しいこと
ではない。

古泉は口の端から垂れる血を拭い、まるで俺の心を読んだかのような言葉を吐く。

「僕も、涼宮さんの様子がどこかおかしいことに気付いていました。それでも僕には
帰属する『組織』がある。だからどうしても穏便に済ませようとしてしまった。情けな
い話です。つい先日、あんな大見得を切ったばかりだというのに。ですから、これは
それの償いだとでも思って下さい」

 あんな大見得、というのはいつだかお前が言っていた、『一度限り、『組織』の意向
に背いてでもSOS団に味方する』とかいう内容のそれか。……確かに、そんなことを
言っていたな。でも、それは果たされなかった約束だ。

「ええ、僕は約束を破った。それを否定しませんし否定する気もありません。けれど、
だからこそ僕は今、あなたを涼宮さんのもとへ行かせようとしている。それが、僕に
できるたったひとつの償いですから」












 ……………、え?



 心臓の鼓動が、止まりそうだった。
 息が、苦しい。上手く、吸えない。吐けない。苦しい。

 たったひとつの……、償い? なんで、お前がそんな台詞……、

「だから…、なんだってんだよ…。今更俺があいつの所に行って、何になる……?」

 俺はどくどくと煩い心臓を頭の中で鷲掴みにし、途切れ途切れの言葉を吐く。古
泉は俺を、まるで心の中まで覗き込むようにして俺を見ると、静かに言い放った。

「あなたは、逃げるのですか?」
「……なんだと?」


「そうやって償いもせず、あなたの罪から逃げるのですか?」


 お前、何を言って……、――――――
 俺は、だって長門が……、――――――う
 それが、おれの償いで……、――――――違う
 俺が、あいつをあんな目に……、――――――そうじゃない


 だから、俺は、全てを諦めようって……、――――――ふざけるな!




 きぃ、と小さな音が聞こえる。音のした方向に視線を遣ると、所在なげにこちらを
見ている小さな影。

「朝比奈さん……」
 呼びかけると、朝比奈さんはびくりと肩を震わせた。まあ、無理もない。ついさっき
の出来事を思い返し、俺は心底後悔した。……後悔した?いや、違う。俺は。あれ
は、望んでやったことで。だから、後悔なんてするわけがない。違う、違うんだ。

「あの、あたし、中から大声が聞こえて…、キョンくん、独りにしてって言ってたけど、
でも……、物音とか、して、気になって……」
 朝比奈さんは身を震わせながらもそんな健気な台詞を吐いて、

「あたしからも……、あたしからもお願いします。キョンくん。涼宮さんのところへ
行ってあげてください」

 真っ直ぐに俺を見据える。その肩は、もう震えていなかった。


 俺はもう、何がなんだか分からなくなっていた。俺は、償いをしているつもりだった。
けれど古泉はそれを違うと言った。それは償いではないのだと。
 俺は、もしかしたら間違っていたのだろうか。朝比奈さんに酷い台詞を吐いてまで、
最低に堕ちようとした。そうあるべきだと思ったから。なのに、なんでだ?

 なんで、こんなにも後悔の念が押し寄せる―――――

「それは、未来からの指示ですか?」

 ――――――バカヤロウ!!バカヤロウ!!バカヤロウ!!


「あなたは!どこまで腐れば……!」
 古泉が俺の襟元を掴み、捻り上げる。抵抗はしない。殴りたいなら殴れ、というよ
りか、殴って欲しいとさえ俺は思っていた。殴られれば、多分このどうしようもなく惨
めな気分も、幾らか楽になるだろうから。

 ……あれ?俺は確か、惨めになりたかったんじゃなかったっけか。
 ああ、もうどうでもいいや。早く楽になりたい。早く、楽にしてくれよ。頼むから。




 けれど、いつまで経っても古泉の拳は飛んでこなかった。見ると、今にも振り下ろ
さんとしているその握り拳を、朝比奈さんが制していた。

「待って。古泉くん。あたしに話をさせて」
 穏やかな声でそう言う朝比奈さんに、古泉は手を離し、無言で一歩退く。朝比奈さ
んは一歩前に出ると、こう切り出した。

「涼宮さんは、きっと寂しかったんです。あなたが、遠くに行っちゃいそうだったから」

 朝比奈さんは毅然とした態度で続ける。

「あたしには分かります。分かるんです。だって、さっきあなたが『辞める』って言った
とき、凄く、つらかった、悲しかった。目の前が真っ暗になって…、きっと、涼宮さん
はあたしの何倍も、ずっとずっとつらくて、悲しかったと思うんです」

 朝比奈さんは一度目を閉じ、開く。そして俺の罪をはっきりとした口調で告げた。


「それこそ、この世の終わりだと思うくらいに」


 そうだ。それは俺が気付いていながら、見過ごしていたこと。
 分かっていながら、俺は、無視していた。

「ごめんね、キョンくん。もっと言いたいことはいっぱいあるのに、上手くまとめられ
ないの……。でも、これだけは言わせて?」

 朝比奈さんはおずおずとこちらへ歩み寄り―――――――俺の頬を、引っ叩く。

「あんまり馬鹿にしないで…!あたしが未来人だからとか、小泉君が超能力者だか
らとか、涼宮さんの力とか、そんなの関係ない!あなたには分からないの!?」

 つん、と鼻の奥が痺れるのは、頬の痛みだけに起因するものではない。


「涼宮さん、あんな悔しそうな顔で泣いてたんですよ……?」


 心情をそのまま吐露するように、朝比奈さんの瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
 その姿に、あのときのあいつの姿が重なった。






 俺は、俺の罪に、ようやく気付く。
 俺は、何よりもまずあいつに、謝らなくちゃいけなかったんだ。




 俺は、自分を許せなかった。
 だから、自分を貶めて、嘲って、独り悦に入っていた。

 何が、長門の為に出来る唯一の償い、だよ。
 そんなのはただ、自棄になっただけじゃねえか。

 自分が許せないなら、許せるようになればいい。
 その為の努力すらしない人間に、どうして償いなんてできるものか。

 なあ、俺よ。長門はなんて言った?
 『信じる』と言ったんだぞ?俺を。あいつを。

 だったら、お前が信じてやらなくちゃだろうが。
 長門の言葉を。俺自身を。そして、ハルヒを。


 それこそが本当の、償いだ。

 ―――――――そうだろ?長門。






 俺の脳裏に、あのときの長門の微笑みが浮かぶ。






「だから、行ってあげてください…、お願い…、あなたじゃなきゃ、ダメなの…」

 朝比奈さんはぐずぐずと鼻を鳴らしながら、俺の胸元を掴んでいた。俺はその手
に触れ、口を開く。

「朝比奈さん……」

 俺は、随分と長い間、進むべき道を間違えていたようだ。
 ――――――もう、迷うつもりはない。


「俺、ハルヒのところへ行ってきます。行って、なんとかしてみせます」


 朝比奈さんはぱぁ、と顔を明るくさせると、

「……、はぃ………!」
 頷いて、大粒の涙を零した。










 朝比奈さんは暫くしても泣き止まなかった。本人曰く、嬉し涙らしい。まあ、言葉通
りに受け止めて素直に喜んでおくべきところなのだろうが、子供みたいにわんわん
と泣かれると、流石に居た堪れないものがあった。

「色々…、酷いこと言ってすいませんでした。……俺、どうかしてた」
 ようやっと落ち着いた朝比奈さんに、俺は謝罪の言葉を述べる。その声のトーン
からまた俺がヘコんだとでも思ったのか、朝比奈さんは慌てふためき、

「い、いいんです!あたしも、あなたにひどいこと、言っちゃったし…、それに……」
 と、俺の頬をちらちらと見る。
「ごめんなさい!…、あの、痛かった…でしょう?」
「ご心配なく。こう見えて俺、頑丈ですから」

 まあ、本当のことを言えば朝比奈さんに引っ叩かれハルヒに殴られ古泉に殴られ、
そして再び朝比奈さんに引っ叩かれた左頬は、ほんのちょっぴり感覚がおかしなこ
とになっているのだが、それはまあ敢えて語るまい。
 ああ、ちなみに先の言葉に「それに、朝比奈さんに叩かれるならむしろ本望ですよ」
と続けようとして飲み込んだことは禁則事項だ。この人、そういう冗談は通じないしな。

 俺はそんなことを思いながら傍らの古泉に視線を向ける。古泉はまるで微笑まし
いものを見るかのようなツラで、ニヤニヤと俺と朝比奈さんを眺めていた。なんだよ
そのツラは。気色悪い。

「古泉も、なんつーかすまんかったな」
 まあ、そのツラに思うところはあったものの、俺はそんな心境をおくびにも出さず、
ぞんざいな口調で謝った。

「気にしないで下さい。あなたに理解してさえ貰えれば、それで結構ですよ。それに、
僕も考えさせられたことは多々ありましたし。文字通りの痛み分けということで」
 そう言って古泉はくつくつと声に出して笑う。自分の発言でツボに嵌るなんざ、まだ
まだこいつも精進が足りんな。

「…ふふ、それにしても拳で語り合うなんてアナクロニズム、まさか今のこの時世に
体験できるだなんて夢にも思いませんでしたよ」
「ああ、全くだ」
 それも仲裁役の美少女のオプション付きだ。そう付け加えると、涙の痕を一生懸
命拭っていた朝比奈さんが顔を真っ赤にして「え?え?」という顔でこちらを見る。
思わず、噴出してしまった。

「ふぇ?な、なんですかー? なんでキョンくん、笑ってるの?」

 古泉もつられて笑っているようだ。暫く完熟トマトのように膨れていた朝比奈さんも、
次第、くすくすと声に出して笑い出す。気付けば三人が三人とも、大声で笑っていた。


 ―――なんて、こった。
 たったこんだけの時間で、ささくれ立っていた俺の心はすっかり元通りだ。

 ああ、そうか。
 そういう、ことだったのか。
 俺は、なんて、馬鹿野郎だったんだ――――――


 俺は喫茶店でのやり取りを思い返し、どうやら自分が酷い思い違いをしていたら
しいことに気付く。
 あれは、『あのハルヒ』に感じた怒りは、確かに俺にとって必要な怒りだった。けれ
どそれをぶつけるだけぶつけて、こいつらがそれに同意しないからって、俺は全て
を諦めようとしていた。

 なんて、愚かしさだ。

 俺は多分、これから一生忘れることはないだろう、掛け替えの無い仲間って奴に
出会って、その所為か、いつか大切なことを忘れていたんだ。仲間って言葉に踊ら
されていた。仲間だから、こいつらはいつだって俺のことを絶対に理解してくれると、
信じきっていた。それが叶わないから、裏切られたと思い込んでしまった。

 違う。そうじゃない。人間誰しもが誰かと顔をつき合わせ、共に時間を過ごしていく。
時にはすれ違うこともあるだろう。だが、それで終わりじゃない。自分が折れるつもり
がないのなら、俺はこいつらを分からせなきゃいけなかったんだ。

 そうだ。俺は話をするべきだったんだ。たとえ一言で分かってくれなくとも、二言目
には。それでも理解してもらえなくとも、三言目には。そうして言葉を重ねればいつ
かは分かってくれる。

 こいつらは、絶対に俺を信じてくれると。
 何よりそれを、俺は信じなくちゃいけなかったんだ。

 こいつらがどんな都合でここにいるかなんて、端から問題じゃなかった。俺はこい
つらを信じている。本当の仲間だと思っている。そして、こいつらだって、俺を。なら、
あのときだって絶対に分かり合えたんだ。

 現に今、俺の目の前にいる二人は――――――いや、みんなは、俺を立ち戻ら
せてくれたじゃないか!




 ああ、そうか、これが仲間って奴だ。
 あの大馬鹿野郎が作り上げた、SOS団って奴なんだよな。

「古泉、朝比奈さん」

 そして、長門。
 心の中で付け加え、込み上がってくるものをそのまま、俺はみんなに告げた。


「――――――ありがとう」


 何か可笑しなことでもあったのだろうか。古泉と朝比奈さんはきょとんとした表情で
互いに顔を見合わせる。そして再び俺の方へ視線を戻すと、少し恥ずかしそうに、
はにかんだような顔で微笑った。



 さて、役者は揃った。客席も満員御礼だ。
 幕を上げろ。ブザーを鳴らせ。手を叩いて盛り上げろ。

 さあ、再演といこうじゃないか。


 俺のSOS団の、復活だ。




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