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§第四章§

――12・a――
「目覚めはどう?」
直後に俺が感じたのは、それがいつも聞く妹の声じゃないってことだった。
違和感。でも眠くてまだはっきりとしない。
目をこすり身を起こす。……何か薄暗い気がする。まだ夜なのか?
「何言ってるの。朝よ。ちゃんとね。七時過ぎ。いつもあなたはまだ起きてない時間なのかしら?」
夢か。そうか、でなきゃこのトーンの声が聞こえてくるはずはないな。そうかそうか。では二度寝するとしよう。
「起きて。せっかく驚かそうと思って入ってきたのに、台無しじゃないの」
両肩をつかまれて半身を起こされる。柔らかい感触。温かい気配。
「朝倉……」
おぼろに影を捉えた瞬間、俺はまともに立ち上がりもせずめちゃくちゃな声を上げて壁まで後ずさった。
「朝倉! どうしてお前――」
「なぜって? だって、長門さんも涼宮さんも常にあなたにつきまとってるじゃない? あなたと二人きりで話したいなぁって思って」
ね? と首をかしげるおなじみの仕草。俺、この場で殺されるのか? 目覚めた直後に永眠するなんてシャレになってないぜ。遺言を残す時間くらい与えてくれるんだろうな。
「あなた、わたしの話聞いてなかったの? 残念だけどわたしはあなたを殺せないのよ? 指示さえなければ今すぐにでもやっちゃいたいところなんだけどね。だから安心して」
やはりこいつ相手に油断していてはいけないのだ。俺は気力を総動員して壁に背をつけたまま立ち上がる。最悪の目覚めだ。……ここ一年でダントツである。
周囲はいつぞやと同じように薄暗い。一面灰色で、無機質な表面。
情報制御空間――。
「あなたに会いに来るのに結構手間取ったんだから。準備に丸一日使っちゃったわ。長門さんがわたしの知らない間に負荷と防御コードを仕込んでいてね。ふふ。さすがよね、あの子も」
あっけらと言い放つが、つまりそれは長門の防御策を突破したってことだろう。今俺を守るものは何もないってことだ。長門のバックアップでも何でもないこいつは、確実に以前よりパワーアップしている。
「新しい手段をテストさせてもらうわ。あなたの近くにいる人を次々消していくのも悪くないかなって思ったんだけどね、それじゃ効果を得られるまでに時間がかかりそうだから」
俺が警戒する間もなく朝倉は俺の眼前に瞬間移動し、直後俺は朝倉に何事かささやかれた。
「……」

「さぁ、一日が始まるわよ。よろしくね」


――12・b――
「目覚めはどう?」
俺は学校への坂道を登りつつ、その言葉を聞いていた。朝倉の言葉だ。今、隣で俺と坂道を登っている。
「寝ぼけてるの? しっかりしてよね」
俺の右腕をつかむ朝倉は、そう、どうして俺と歩いてるんだっけ?
「あなたはわたしの彼氏でしょう? いつも一緒に登下校してるじゃないの」
……そうだっけか。春。坂道。俺は何年生だっけ。
「二年五組。わたしと同じクラスじゃない。もう、本当に大丈夫かしら」
「あ、朝倉! おはよう!」
「涼宮さん、おはよう」
「あれ、キョンはまた寝ぼけてんの? まったくしょうがないわね」
後頭部を何かで殴られる。鞄か? いてぇじゃねぇか。
「アンタがそんな眠そうにしてるからよ。どうしてこんなのに朝倉みたいなのがくっついてるのか、さっぱり分からないわ」
お前に言われる筋合いはねぇな。誰がなんと言おうと俺と朝倉は普通の高校生カップルだ。
「あっそう。じゃぁね。急がないと遅刻するわよ」
ハルヒが坂道を駆け上がっていく。うん。いつもの風景だよな。
「……ねぇ、本当に大丈夫? どこか具合が悪いとかじゃないわよね?」
大丈夫だ。何ともない。ただ頭がぼんやりするだけだ。
「そう、ならよかった」
朝倉はにっこりと微笑んだ。

そう、俺にはこんなに素敵な彼女がいる。


授業が始まる頃には寝ぼけていた俺の頭もすっかり回復し、まぁ、板書や内容理解ははかどらないけどもだ。
変わらぬ日常風景が今日も幕を開けた。

「しかし、お前と朝倉が付き合っちまうとはなぁ」
休み時間に谷口が言った。
「やられたぜ。先を越されたとはこのことだ。やっぱりお前は隅に置けねーよな」
「僕も意外だったな。僕はてっきりキョンは涼宮さんのことが好きなんだと思ってた」
おいおいお前達。いくら俺でもあんな変てこかつ奇矯かつ傲慢な女に惚れたりしないっての。
まぁ、ハルヒは確かに面白い奴だ。だがな、俺はそれだけでいつ爆発するか分からない火薬無限の不発弾を持つような真似はしないのさ。彼女にするならもっと真っ当な性格を持つ人間にしようと前々から決めていた。
「へっ。あんな妙ちきりんな集団に入っておいて言う台詞かよ、それ」
谷口は吐き捨てるように窓から半身を乗り出して言った。SOS団か。……確かに。今にして思えば、どうしてあんな団に身を置いているんだろうな俺は。
「涼宮に引っ張られて無理矢理入れられたんだろ。お前のお人よしにも愛想がつきるぜ」
「キョンは巻き込まれると中々はっきり断れないからね」
谷口の言葉に国木田が相槌を打つ。そうだったな、うん。
「……」
「どうしたの? キョン」
何だろう。何か引っかかるな。無理矢理、お人よし。……ふむ。
「何? まだ頭がぼーっとするの?」
そう言って入ってきたのは朝倉だ。穏やかに笑う。それだけで俺は心の安寧を得られるというものだ。
「どうも暖かすぎるんだな。このボケた頭をどうにかせんとな」
俺は側頭部にノックを入れた。同時に予鈴がなる。
「しっかりしてよね。あなたはわたしの大事な人なんだから」
耳元で谷口や国木田に聴かれないように朝倉はささやく。あぁ、幸せだ。谷口は今どんな表情してるだろうな。
そう、これが俺の日常じゃないか。どこに不満があろう。真っ当な毎日バンザイである。


「キョン、あんた、今日部室に来る?」
ハルヒの言葉だ。四限終了間際。
「何でそんなこと訊くんだ?」
俺は伸びをしつつハルヒに答えた。どうも今日は眠くていかんな。
「何でって、あんた最近全然顔出さないからよ。朝倉と付き合いだしてからずっとね。……あんた、まさかSOS団を辞めたりしないでしょうね?」
確かに、ハルヒに言われなきゃ俺は今日も普通に朝倉と下校してただろうな。
「どうだろうな。場合によっちゃそうなるかもな」
俺は弁当を取り出そうと鞄を持ち上げる……前にハルヒにブレザーの襟首をつかまれる。何だよ。
「ねぇ、あんたそれ本気で言ってんの? 少なくともあたしは冗談のつもりで言ったのよ。分かってる?」
うるさいな。放っておけ。俺はお前の下僕でも召使いでも執事でも秘書でもないぞ。お前とくっついてなきゃならん理由なんぞ、大宇宙を端から端まで探しても見つからん。
そう言うと、ハルヒは下唇を噛んで俺を睨みつけ、盛大に平手で俺の頬をひっぱたいた。
「ハルヒ……?」
「もう……知らないわよ」
そう言うなりハルヒは自分の鞄をひっつかんで廊下に飛び出した。何か悪いこと言ったか、俺。
そういえばあいつポニーテールだったな……。今頃気付いた。
「どうしたの? 涼宮さんと何かあった?」
クラスの視線を集める中、朝倉が俺の傍にやって来た。
「別に何でもない。ハルヒがどうかしてるんだ」
そうさ。物事は移り変わってゆくのさ。いつまでもSOS団なる学内非公認団体を続ける理由など俺にはない。ハルヒがどうしてあの謎の集まりにこだわるのか、それこそが俺には理解できないね。あいつの言うように、やる気がないならさっさと辞めちまうのも手かもしれんな。
「そう? あまりケンカしちゃだめよ。これまで一緒にやって来た仲間なんでしょ」
朝倉は心から心配しているような表情をした。俺からすれば朝倉、お前の方がよっぽど大切な存在さ。


ハルヒはその日の授業がすべて終わっても姿を見せなかった。
「一緒に帰りましょ」
朝倉が言った。……俺は部室に行こうかわずかに迷っていた。
「どうしたの? やっぱり涼宮さんが心配?」
何だろうな。何か俺はおかしなことをしている感じがするんだ。ちぐはぐな。それでいてどこが狂ってるんだかよく分からないような。
「春だものね。たまには散歩でもしない? きっと気も紛れるわ」
朝倉に従って俺は校門を目指す。
教室を出た直後――、
「……」
「……長門か?」
それは確かに長門有希だった。眼鏡をかけて、無口な。いつもの……長門。
「お前、クラスはどこだっけ?」
「六組」
長門は言った。当たり前だ。別におかしなところはないだろう。学年が変わっても隣の教室だってだけだ。
……そうだろうか。
俺は違和感をまた感じる。何か気持ち悪い感じだ。本当に俺の環境ってこんなだったか?
何か、あらゆるものが微妙にずれてしまっている感じがする。
「行きましょう」
朝倉に手を引かれる。長門は部室方面へと足を向ける。
「なぁ、朝倉」
「なぁに?」
「俺たちっていつから付き合ってるんだ?」
俺の問いに朝倉は無表情になった。
「……どうして?」
朝倉は俺に問う。どうしてってお前、はっきり覚えていないからさ。
「そんなに大事なことかしら、それって」
いや、そう言われると大したことじゃないような……。でもな、実際いつだったか気になるんだよ。
朝倉は一息つくと、穏やかな口調のまま話し出す。
「つい最近よ。わたしがこっちに帰ってきて、それからあなたが告白してきたの」
俺が? お前に?
「そうよ。忘れちゃったのかしら……かなり真剣な顔してたけど」
思い出せない。どうしてだ? 俺はそんな最近のことも忘れちまうくらい白痴になっちまったのか?
「とりあえず、外の風に当たりましょうよ。話はそれから。ね?」
朝倉に付き添われて昇降口までやって来る。
「あ、キョンくん」
見ると、朝比奈さんがこの世の光をすべて一点に集めたような神々しさでこっちに……。ん? 何だろう。
朝比奈さんは小動物チックにかくんと首を傾げて言う。
「また部室には来ないんですか?」
いえいえ、朝比奈さんのお茶を飲むためだけでも、あの部室には行く価値が……。
あれ。何だ。またか。
「ねぇ、さっきからどうしちゃったの? 早く行きましょう?」
朝倉……。
「それじゃぁさよなら、キョンくん」
はい、さようなら……。
「……」
このまま見送ってしまっていいのだろうか。何だかものすごく惜しいことをしている気分だ。
「行くわよ? ねぇったら」
制服の袖を引く朝倉に構わず、俺は考えていた。

違う。

何かが決定的に異なっている。
それこそ、この状況が、まるごとすべてずれている。

「ちょっと?」
「朝倉、すまんが今から俺は部室に行く。今日のところは一人で帰ってくれ」
そう言って振り向かずに俺は部室棟へダッシュする。待ってろ。ハルヒ、長門、朝比奈さん。
……まだ何か足りない。
廊下を走るなという小学校からの警句を全力で無視し、俺は旧館三階まで全速力で駆け抜ける。
このモヤモヤも、そこまで行けば正体がつかめるはずだ。急げ。
俺は階段を駆け上がってドアノブに手をかける。開く。


……!


――12・c――
「キョン!」
ハルヒの声だ。
「しっかりしてよ! 目を覚まして!」
「あーあ、意外と早く効果が切れちゃったのね。所詮テストプログラムだったかぁ」
朝倉!? 部室に来て何をする気だ? くそ、目が開かない。……身体が重い。
「キョ……キョンくん! だ、大丈夫ですかぁ~、うぅぅぅ、しっかり、ふえっ、えっ」
間違いない、これは朝比奈さんの声だ。
「朝倉、あんた一体」
「下がっていて」
ハルヒの声に続くのは長門だ。……これで全部か?
「キョンくん……うぇぇぇぇえええん」
朝比奈さん、泣かないで下さい。俺なら平気ですから。どういうわけか身体とまぶたが動かないんですが、心の方はこの通りピンピンしてます。だから、そんな本気で泣くようだと、俺の方が参っちまいますよ。
「彼に何をした」
怜悧な声は長門のものだ。平坦ではない。険がこもっている。どうなってんだ、くそ。目が開かない。
「何て言ったらいいかしらね。端的に言えば幻覚を見ていてもらったんだけど。どう? 涼宮さん、彼が心配? 大丈夫よ。死にはしないから」
「朝倉……これ、あんたがやったの!? ねぇ、有希! これって一体……」
「あなたは黙っていて。彼の傍を離れないこと。朝比奈みくるも離さないこと」
長門の声がいつになく鋭く響く。何が起きてるんだ。どうして身体が動かない。それどころか、全身の感覚がまったくない。時間も温度も分からない、触覚すらまったくない。朝倉、てめぇ何しやがった。ハルヒに朝比奈さんに長門に、ちょっとでも手を出したら許さないからな……。
「キョン、しっかりして! 目を覚まして! ねぇ、キョン!」
「無駄よ。そいつは完全に意識も神経機能も失ってる。分かりやすく言えば植物状態かしらね」
バカな。じゃぁどうして俺はこうやって考えていられるんだ? それに、耳だけなら生きてるぜ。
「さ、決着をつけましょうか。今回は絶対に負けないからね」
朝倉はかつてないほどに冷たい声で突き刺すように言い放った。やめろ。何をする気だ! ハルヒの前で妙なことを起こすな!

「長門さん、よろしくお願いします」

突如、聞き覚えのある声がした。が、即座に誰と判断できない、状況が状況だからな。耳しか使えないってのもある。

……!

次の瞬間、俺はひさびさにあの感覚を味わった。すべてをグルグルと巻き込んで、そして俺のあらゆる感覚を持っていってメチャクチャにかき乱してしまう、アレだ。ただし、今の俺は聴覚情報でしかそれが分からない。既にさっきまでいた場所にいないことは明白だった。そう、時間移動――。四ヵ月以上のご無沙汰だな。今度はどこへ向かっているのだろう。鼓膜が、空気が四方八方に飛び交う音を伝えてくる。他の感覚が麻痺しているためか、気持ち悪さはない。こんなのは初めてだな。いや、気持ち悪さがあっても脳が受けつけていないだけかもしれん。……目的地に着いた瞬間吐いちまうなんてのはごめんだぜ。
突然びょうびょう言ってた空気の波が止んだ。どこに着いたんだ?
「着きました。……ごめんなさい。私はもう行かなければなりません。この手紙を読んで、その通りに行動して。彼の無事も、あなた達二人に懸かっているわ。頑張って……」


――13――
喧騒とまではいかないガヤガヤをBGMに、その声は言った。ここに来てはっきりと分かった。今のは大人版朝比奈さん
で間違いない。おそらく、窮地に陥っていた俺たちの元に現れて、どこか別の時間に跳躍したのだろう。
「あの、あなたは……?」
ハルヒが言った。
「私のことはいいの。今は彼を救うことだけ考えて。いい?」
「……あのっ! あの!」
急きこんでそう言うのは朝比奈さん(小)である。それも当然だと思う。彼女はずっと抱いてきた疑念の答えを、今、ほとんど完全な形も同然に提示されているのだ。……たぶん。視覚に頼らなくともそれくらいは推察できる。
しばしの間を空けて、
「この件が終わった時、あなたに話します。今は、彼を」
大人版朝比奈さんは鋭い口調で言った。こんなに緊張感のある朝比奈さん(大)の声は初めてだ。部下に指令を送る上司の緊迫感そのままである。
「あっ! えっ、えっ!」
と、声にならない声を朝比奈さん(小)が発する間に、おそらく、大人版朝比奈さんはいなくなった。まるで姉妹のやりとりを聞いているようであったが、それも何か違うな。何せ同一人物なのだ。本来顔を合わせてはいけないはずだ。
「あら、今の人は? どこに行ったの?」
ハルヒの声がする。……ハルヒ。

ハルヒ!?

ちょっと待て。ってことはあの朝比奈さん(大)はハルヒともどもどこかの時代にワープしたってことか?
一体どういうつもりなのだろうか。ハルヒに超常現象を認めさせてしまってはマズいのではないだろうか?
それこそ宇宙全体がめちゃめちゃになるという古泉の説明を思い出す俺である。
「それでみくるちゃん、その手紙にはなんて書いてあるの?」
ハルヒはどこか冷静さを感じさせるような声で言った。……一体今こいつは何を思っているのだろう。こんなSFど真ん中直球ストレートな状態に、ついにこいつが巻き込まれてしまったわけである。ハルヒが望んだから起きたなどと俺は思わない。だったらとっくにこの宇宙は崩壊寸前まで法則とやらを乱しているはずだ。ハルヒの認識範囲におかしな現象が及ばないよう、俺たちはギリギリまでごまかし続けていたのが、今回ばかりは隠しようがないんじゃないか。
しかしハルヒは朝比奈さんに対し余計な疑問を呈するようなことはしなかった。どうやら手紙を朝比奈さんから取って開いたらしい。……ハルヒが見てしまっていい内容なのだろうか。ハルヒは内容を読み上げ始めた。
「朝比奈みくる様。まず一番初めに書いておきますが、あなたの目の前にいる彼は無事です。まったく意識がないだけで、命に別状はありません。一時的に凍結状態に置かれていると考えてください。これから提示する手段に従って行動してください。優先度はコードの通り。急ぎすぎることはありませんが、油断も禁物です。涼宮さんにこの手紙を見せてしまっても構いません。どうしてあなた達がここに来たのか、それについて考えるのは後です。まずはどちらかが長門有希さんの自宅へ行って、彼女をここに連れてきてください。彼女ならば彼を目覚めさせることができます。以降の指示はそれから読むこと。まずは、長門さんの家へ――」
数秒間、二人は何も言わなかった。
……やがて、
「あたしが行ってくる。みくるちゃんはここにいて」
ハルヒが立ち上がる音がする。そういえば、俺は一体どこでノビてるんだ? 聴こえてくる音からして、外にいることは間違いなさそうだが……。
「あ、えっ、でも! 涼宮さ――」
朝比奈さんが呼びかける間にハルヒはすごい速度で走り去った。あっという間に足音が遠ざかる。
俺としても不安なことこの上ないが、一度目標が定まったハルヒの行動スピードたるや、初速だけで宇宙空間まで飛び立てそうなほど凄まじい勢いであるのは、この一年で俺も散々味わってきた。それが時に助かるんだけどな。……例えばこういう時にさ。
「キョンくん……。どうして……」
朝比奈さんの声が近い。吐息が顔にかかっているくらいじゃないかと思うのだが、なにぶん生きているのが耳だけなので距離感しかつかめないのが残念というか。いやはや。
「ごめんね。あたし、また何にもできなくて……っ」
朝比奈さんは今にも曇りから小雨に変わってしまいそうな声色をしている。くそ、どうして動けないんだ。今すぐにでもこの金縛り状態を解いて彼女を抱きしめてあげたいくらいなのに。
「……涼宮さん……。ちゃんと長門さんとこに行けるかなぁ」
朝比奈さんの途切れ途切れな声が、彼女が悲しんでいる様子を物語っている。俺の精神状態だけ無事なのにも何とももどかしい気分だ。
長門……。
長門? そうだ。あいつは今どこにいるんだ?
さっきまでいた場所には、朝倉と俺、長門、ハルヒ、朝比奈さんがいたはずだ。どうなってる。長門は今ここにいないのか?

……。

俺はハルヒが長門の家に向かったことに思い当たる。長門に助けを求めに行ったってことは、やはりあいつは今この場にいないってことになる。長門は無口だから、声が聞こえないだけということもあり得るかと思ったが、様子から察するにそうではない。ならば、さっきまでいたはずの長門は一体どこへ行ったのか。

……簡単だ。元の時空に留まったのだ。朝倉と一緒に。

長門が今回も無事に朝倉に勝てるなんて楽観的な予測を俺はしない。もちろん無事でいてほしいが、前回だって俺から見れば結構接戦だったのだ。それなのに、今回の朝倉はあの時以上に予想を上回ることばかりしている。

そんな朝倉から長門はSOS団を守ったのだ。危険を顧みずに。

無力感を感じる。俺がどんなに長門に負担をかけまいと思っても、結局それは何らかの形であいつに返ってしまう。
……ふいに、廊下で交わした言葉を思い出す。

わたしは古泉一樹を守ることができなかった。……わたしの責任。

俺は結局、あの時長門に何も言ってやれなかった。今まで忘れちまってた、なんて言い訳はしない。
長門、お前に責任なんかない。そうやって自分を責めるのも、そろそろやめにしようぜ。……そう言いたかった。だって、俺たちは仲間じゃないか。お互いを助けるのは当然なんだ。それは義務なんかじゃない。好意だ。互いが、互いをかけがえのないものだと思っているからこその、好意……。
あいつはまだ人間としての感情の整理に慣れることができないのだろう。ある時は感情が大きくなりすぎ、ある時は十分すぎるくらいの貢献にもかかわらず、まだ頑張ろうとする。あいつに今一番言ってやりたいことは、無理はするなの一言だ。だが、あの場所に残った長門は朝倉と戦っている。そして今度こそ、俺はその場にいる長門に何もできないのだ。戦いに傷つき、倒れたあいつを、助け起こしてやることすら……。

「うぇっ、っく、ふぇっ……」

急に聴覚が戻ってきたかのように気がついた。

朝比奈さんが泣いている。

またしても動けなくなっちまった俺を前にして、たぶん、わけも分からないままで悲しんでいる。

「あたしぃ、うっ、もっと……ちゃんとし……しないと、いけ、いけないのに……っ」

泣かないで下さいよ朝比奈さん。俺までもらい泣きしちまいそうですよ……。
くそ。どうしてだ。何で誰も彼も自分を責めるようなことばっかり言いやがる。
一番しっかりしないといけないのは俺……いや、これも言い訳にすぎないな。俺がどれだけ自分を責めようと、今ここにいる朝比奈さんの涙さえ、止めることができない。

じゃぁ、誰が悪いんだ?
……朝倉か?

すべてを生まれ変った急進派と朝倉のせいにしちまえば、俺たちが持ち寄った憂鬱は全部晴れてくれるのか?
……そうじゃない。あの朝倉ですら、本当の意味で悪じゃあないんだ。あいつ自身も言っていた。朝倉は役割を忠実にこなしているだけだ。
まったく感情移入はできないが、哀しい存在であるのかもしれない。こんな事を言ったら、朝倉に命ひとつじゃ足りないくらいのナイフを突き立てられそうだが。俺はそう思う。あいつが、本当にただのクラスメートだったらどれだけよかったことか。普通に友達と笑って、勉強して、部活やってたりして、休日はちょっと遠くに出かけたりするような、ごく一般的な女子生徒だったら……。

俺は非日常たる生活を望んでいたし、これまで色々あったあれやこれを、ひっくるめて楽しかったと言えるくらいにまでなっていた。はずだった。

だが、今回はどうだ? 
お前は、この状況を楽しんでいるか? 

何が楽しいんだ。誰か教えてくれよ。
古泉は消えちまって、長門は別の時間に置き去りで、朝比奈さんは泣き止まない。そして俺だけのうのうと自省してるこんな状況の、どこが楽しいって言うんだ。
誰も悪くないのに、みんなが自分を責めやがる。
言ったはずだ。俺は灰色もブルー色も好きじゃないって。
どうせ倒れるなら前がかり。続けていくなら楽しく笑っていられる時間を、だ。
俺はどんなことが起きようと立ち向かうと決めたはずだ。

……だから、今は悲しんでいちゃいけないんだ。
俺がしっかりしないでどうするんだよ。

そうさ、まだ何にも終わっちゃいない。
感動のラストなんか……まだ受けつけてない。

「有希! こっちこっち! 早く!」
朝比奈さんの鳴き声に混じって、叫ぶ声がした。間違いない。ハルヒのものだ。帰ってきた、俺たちの団長様が。
長門も連れてきたらしいな。……そういえば、ここはいつなんだろうな。長門が無事な時間……、過去のどこかだろうか。
「みくるちゃん、泣いてる場合じゃないわ。あたしたちにはすべきことがあるの。しっかりして」
声にならない声を上げる朝比奈さんにハルヒが言った。
「有希、キョンが動かないのよ」
続けてハルヒの声。……こいつ、さっきまでいた場所にも、ここにも長門がいて、どうして冷静でいられるのだろうな。

長門の声はしない。が、誰かが近付く気配がする。
かすかに服がすれるような音が聴こえる。何かしているのだろうか。
「治せるの……?」
ささやくようなハルヒの声。朝比奈さんの嗚咽も今は止んでいる。
「コード解析。解除プログラム検索――該当なし。同期――不能。言語分析。再生成。推定所要時間、一ヶ月」
長門の声に間違いはなかったが、俺がこれまで聞いたどの長門の声より無機質で無感情だ。発達した機会音声が喋っているんじゃないのかというくらいに。
「一ヶ月……って、その間待たないといけないの? そんなに長く?」
ハルヒが驚きと呆れの色を帯びた声で言った。俺がこいつの立場でも同じような反応をしたことだろう。長門は何でもないように言うが、俺はひと月も考える葦状態のまま風に吹かれにゃならんのか?
「未知の言語により生体そのものが凍結されている。それより短時間での解凍は不可能」
それとも俺は冷凍貯蔵庫のマグロだろうか。だとすればさながらここは競り市か。

「あっ」
声を出したのは朝比奈さんである。長門が来たことに気を取られたのか、どうにか泣き止んでくださったようだ。
「えぇっと。あの……長門さん? 今っていつだか分かりますか? その、時空間座標のコードを……」
最後の部分だけ朝比奈さんは聞きとれるか否かの小声だった。ハルヒに聞こえないよう、長門にささやいたのかもしれない。
対する長門は何も答えない。また衣服のこすれる音のみがわずかにした後で、
「ありがとうございます。……とすると、うん。あの、長門さん」
決意したように言う朝比奈さんに対し長門は返事すらしない。無反応にも程があるな。一体今はいつなんだ?
「キョンくんをお願いできますか」
台詞だけさらえば長年手塩にかけて育てた娘を嫁にやる時のような言葉に聞こえなくもない。だが俺は朝比奈さんの娘でもなければ女でもないし、朝比奈さんは父親でも母親でもない。
朝比奈さんの声は真剣だった。かつて川沿いのベンチでハルヒに関するトンデモ話を聞かされた時のような、緊張の色。
「ちょっとみくるちゃん? それって一体――」
ハルヒの声に朝比奈さんは、
「涼宮さん、すぐに済みますから。ちょっとだけ待っててもらえますか」
ハルヒに指示をする朝比奈さんなんてものを俺は初めて見た。いや、聞いた。

また数秒沈黙があった。おそらく、長門が音にならない反応をしているのだと思う。
「ありがとうございます。それじゃ……お願いしますね」
「みくるちゃん? どういうこと?」
ハルヒの問いに、朝比奈さんは別の答え方をする。
「涼宮さん、少しの間目を閉じてもらえますか?」
やや躊躇するようではあるものの、朝比奈さんの声は相変わらず真剣そのものだった。ハルヒもよもや朝比奈さんからこうしろと指示されるとは、まったくもって想定外だったらしく、しばらく「え?」とか「えっと」とか挙動不審そうなことを言って、ようやく
「目をつむればいいのね。こうかしら」
「それじゃ長門さん、よろしくお願いします。えっと、涼宮さん……ごめんなさいっ」
「えっ?」
直後、空気を払うようなヒュッという音が聴こえ、それきりハルヒの声も朝比奈さんの声もしなく――。

「……」

猛烈な眠気と共に、俺は急速に意識を失った。


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