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『赤い絲 前篇』



 どこか遠くから甲高い電子音が聞こえてくる。
 それは自己主張するかのように徐々に大きくなっていき、呼応するが如く闇に潜っていたあたしの意識が浮上した。
 あたしは毎朝の習慣から無意識に布団の中から手だけ伸ばして、ちょっと煩わしくなってきた発信源を引き寄せた。手探りでタイマーを解除する。音が止んだ。
 取り戻した静寂の中、再び意識が深淵に滑り落ちていきそうになる。まだ眠い。けれど起きなきゃ。
 重い瞼をなんとか押し上げる。右手に納まったままの時計を見ると『AM 07:07』
 その数字の配列になんだか少し得した気分になった。自ずと睡魔が撤退し、それを機にあたしは上半身を起こした。
 大きく伸びをする。カーテンの隙間から差し込む光が『本日ハ晴天ナリ。』と告げた。ますます気分は上昇する。
 今日は土曜日だから学校は休み。でもSOS団の活動はある。集合は九時。
 まだぼんやりした頭をもたげて、ベッドから這い出しパジャマのまま階下に降りた。洗面所に向かう。まず顔を洗って目を覚まそう。
 洗顔石鹸で顔を洗い、冷水を二、三度顔面に浴びせた。すっ、と頭の芯が冷えていく感じ。ようやく目が醒めた気分になった。
 頬を伝い顎から滴り落ちる水滴をタオルで拭い、さて歯を磨こうと鏡の前にある自分の歯ブラシに手を伸ばして、
 気が付いた。
 左手の小指に何かからみついている。
 あたしは自分の左手を引き戻し、それを見直した。
 赤い、糸。
 糸はくるくると小指に何重にか巻かれ、小さく蝶結びしてあった。その結び目の端の片一方がやけに長く垂れ下がっている。
 それを目で追うと洗面所を抜けて廊下に続いていた。数歩移動して廊下に出たその糸を辿ると、玄関のほうに向かって延びている。
 これは俗に言う『運命の赤い糸』ってヤツ? とか、ちらりと考えてみたけれど、「まさか」という思いの方がまだ強かった。この時は。
 寝ている間にいつの間にか絡みついたのだと結論づけ、その赤い糸を取り外そうとして──できなかった。
「え?」
 確かにこの目で見えているにも関わらず、糸は自分の指先をするりと通り抜けてしまう。感触もない。
 思えば小指の方もしっかり糸が巻きついているのに緊縛感は一切なかった。
 まだ夢を見ているのかしら。
 あまりにも非常識な展開に思わず敵前逃亡しかけたけれど、それは許されなかった。
「あらハルヒ、早いわね」
 後ろで母親の声がした。鏡越しに自分の背後を見ると、既に普段着に着替えた母がシーツのなどの山を抱えて立っている。どうやら先に起きて洗濯の準備などをしていたみたい。
「母さんこそ――おはよう」
 朝の定期挨拶を口にしながら首を巡らし振り向く。振り向いて――固まった。
 母が「おはよう」と笑顔で返してきたが、あたしの様子に僅かに怪訝な顔つきになった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 あたしは誤魔化すように鏡の方に向き直った。保留中だった歯ブラシを手に取る。
 母親は首を傾げたがあまり気に留めなかったらしく、そのままランドリースペースに消えていった。
「ああ、ハルヒのシーツも今日洗うから出して頂戴ね」
 去っていった方から主婦の指示が飛んできた。洗濯日和だから一気に色々洗うのだろうか。
 あたしは歯磨き粉を歯ブラシにのせながら短く「わかった」と返事をした。
 返事をしながら考える。これは夢ではなく歴とした現実みたいだ、と。
 歯を磨きながら左手の小指を目の高さに掲げた。やはりしっかり見える赤い糸。
 そして。
 母の小指にも自分と同じく巻きついていた赤い糸。
 口を濯いでため息ひとつ。
 これはもう認めざるを得なくなってしまった。



 レモンママレードを塗ったトーストを齧りながら、あたしは目の前の光景をそれとなく観察した。外面はいつも通りの朝の風景だ。
 親父は新聞を読みながらテレビのニュースを『聞いている』し、母親は焼きあがった目玉焼きを食卓に運んだり親父のコーヒーを淹れたり忙しなく動いている。
 しかしその食卓を取り囲むように巡らされている赤い糸が、あたしに否応なしに非日常を伝える。
 この赤い糸は両親のもの。正確に言うと二人を繋いだ一本の赤い糸だ。両親はめでたいことに『運命の赤い糸』(推定)でしっかりと繋がれていた。
 その事実を確認したとき少なからずあたしは胸を撫で下ろした。自分の両親の赤い糸がお互い別のところに延びている光景は想像しただけでも精神上よろしくない。
 かといって今この状況を手放しで微笑ましいと思えるかというと、それはそれで話は違う。
 なんか当てられてるってカンジだわ。ゴチソウサマ、と言ってやりたいくらい。
 自分の両親の運命論についてなんて、気恥ずかしくて娘の立場からこれ以上考えたくもない。だから後は専ら赤い糸の観察、そして考察に神経を注いだ。
 両親の小指と小指を繋ぐ赤い糸は伸縮性があるのか、目まぐるしく変わる二人の距離をものともせず常に一定の緩徐を保っていた。
 しかも糸は実体がないことをいいことに、時として──無理がある移動や、物や人に絡みつきそうな時──物質を通り抜けるという反則技まで備えているので、障害物は尚更意味を成さなくなる。
 そしてこの赤い糸はどうやら自分にしか見えていないらしい。
 洗面所で母と対面したときに薄々気づいていたけれど、食卓についてそれは確信に変わった。親父も母親もこの赤い糸に囲まれた状況に顔色ひとつ変えず日常に徹している。
 両親の常日頃の言動は一般常識の範疇を超えることはなかったから、これが演技であるということはないだろう。有希ならともかく。あの子ならこの糸が見えている状況でも平然と日常を貫きそうだわ。
 部室に巡らされた何本もの赤い糸の中で黙々と本を読みつづける有希の姿を容易く想像したとき、あたしは忘れかけていた今日の予定を思い出した。
 部屋の壁掛け時計を見る。七時五十分。そろそろ出かけないとキョンにさえ出し抜かれてしまう。
 あたしはグラスに残っていたオレンジジュースを飲み干し、「ゴチソウサマ」と呟いて立ち上がった。二つの意味でね。
 自分の食器をシンクに片してリビングを出る。途中両親を繋ぐ赤い糸を思わず跨いだことに後で気付いてひとり苦笑した。



 家を出るとこれまた異様な光景だった。
 自分の赤い糸は勿論、誰の者かわからない複数の赤い糸が道なりに連なったり、もしくは道を横切ったりしていた。
 途中すれ違った人はもれなく小指から一本の赤い糸を引き連れて歩いている。車からも赤い糸が延びていた。運転手や同乗者のものだろう。
 その光景にまず驚き、呆気にとられ、そして不安になった。
 これが見えてるのはあたしだけなの?
 というよりも寧ろあたしの頭がどうにかなってしまったのかしら?
 ここでようやくあたしは、折角自分の身に起こった不思議現象に対してまったくテンションが上げられずにいる己の内面を知った。
 いつも非現実的なものを欲しているのに、いざ直面するとどう対処すればよいかわからずに尻込んでしまったのだ。情けない。
 なにを怖気づいてるの涼宮ハルヒ、と自分を奮い立たせる。この状況を楽しまないで何がSOS団長だ。
 この状況を持て余しているなら──そう、目的を作ればいい。
 そうだ、手っ取り早く自分の糸の先を捜してみるのよ。
 決めたら胸内に蟠っていた不安が引き潮のように遠のいた。代わりにワクワクと期待に満ちたものが胸に広がる。ちょっぴりドキドキもプラスする。うん、かなり興奮してきたわ。
 本当なら今すぐスタートを切りたいけれど……さて、すると今日の団活である不思議探索はどうしよう。団員全員で探すのも一興だけれど、この糸があたししか見えてない可能性が濃厚だ。
 それに――今日ハマダ会エナイ。
 その不透明で不可解な感情は、一瞬だけ心の表層に浮かび上がり形を成す前にすぐに消えていったけれども、たったそれだけであたしに結論を出させる決め手となった。
 一人で探そう。
 上着のポケットから携帯を取り出す。現在八時三分。もうそろそろ起きていてもいい頃合いだ。いや起きていなければならない。
 片手でボタンを操りアドレスからある電話番号を引き出した。即通話ボタンを押し、耳にあてる。呼び出し音が聞こえはじめた。
 一回。二回。三回。……
 十回繰り返されても出やしない。まったく、と惰眠を貪る相手に心底呆れた。勿論イライラもしている。
 一度切って自宅に電話してやろうかしら、と思っているとようやく呼び出し音が途切れた。
「もしもし~?」
 開口一番怒鳴りつけてやろうと準備をしていたら、想定外の声を耳にしてあたしは口を大きく開けたままフリーズしてしまった。
 耳元で高い声が「もしもーし?」と繰り返され我に返る。電話の向こうの人物を確認するため恐る恐る口を開いた。
「妹ちゃん?」
「あ、ハルにゃんだ! おはよう!!」
 朝から元気のいいお子様だ。兄と違って。あたしは路上であるのにも関わらず、妹ちゃんの声につられて結構大きな声で「おはよう」と返した。すれ違ったおばさんが自分にかけられたのかと振り向く。違うわよ。
「相変わらず元気そうね、妹ちゃん。ところでキョンは?」
「キョン君? それがねー、まだ寝てるの」
 無邪気な天使は困ったような声で事実を伝えてくれた。──まったく、こいつは団の活動を何だと思っているのかしら。
 メラメラと音を立ててあたしの悪戯心、もとい団員指導に火がつく。
「妹ちゃん、携帯電話をキョンの耳に当ててくれる?」
「うん、わかった!」
 弾むように返事したかと思うと、パタパタという足音とゴソゴソという雑音が聞こえてきた。それが収まると遠くから妹ちゃんの「いいよー」という声が聞こえた。
 大きく息を吸う。丹田に力を込めた。
「おーきーなーさーいー!! このバカキョン!!!!」
 百デシベルは越すのではないかという大声を右手に握った携帯電話にぶつけてやった。当然あたしの周りいた人たちはほとんど全員こちらを振り向く。驚かせて悪かったわね。でも一番悪いのはこの時間まで寝こけているキョンというバカですから。悪しからず。
 そして、その張本人であるバカは「バカキョン」の「ン」辺りで「うわぉ!!」と情けない声を上げた。コイツホントに寝てたわね?
 妹ちゃんの「キョン君起きたー?」とか「ハルにゃん、すごーい!」という声を背景に数秒待つと、間の抜けた呻き声が聞こえてきた。
「もしもし……」
「お・は・よ・う」
 わざとにこやかな声で挨拶する。対してキョンは「あー、えーと……『ハルにゃん』、か……おはよう……」とまだ寝惚けた声だ。『おはよう』に欠伸がついているし。というか寝惚けてでも、妹につられても『ハルにゃん』とか呼ぶな。恥ずかしいわね。
 『至極にこやかに会話』続行決定。
「随分とごゆっくりね、『キョン君』」
 加えてハルにゃん呼ばわり意趣返し。
「……今何時だ?」
 あたしの口調にようやく徒ならぬものを感じてかキョンは声を低めて聞いてきた。
「八時過ぎね」と親切に答えてあげるあたし。
 それを聞いて「なんだ九時じゃないのか」とか言いやがりました、この男。
 あたしはそろそろ続行限界になってきた柔らかな口調をなんとか保ちつつ、しかし押し殺した声で、
「そんなことだからいつも罰金払うハメになるのよ?」
「……休日くらいゆっくり寝かせてくれ」
──ああ、もうムリ。『にこやかハルヒさん』解除。同時に通常ハルヒモード全開。
「あんたはどこぞの働き盛りのサラリーマンよ!! いーえ、サラリーマンのお父さんの方が偉いわね。家族サービスとやらで休み返上で体に鞭打って家庭に貢献してるんだから。それなのにあんたときたらたかが高校生の、しかもSOS団の雑用係の分際でこんな時間まで寝くさって、世間のお父さん方に申し訳ないと思わないの!? いーい? 今日学校は休みでもSOS団は通常営業なの!! わかったなら──」
 と、周囲の覗うような、もしくは窘めるような視線を無視して一気に捲し立て、そして勢いに任せて「とっとと目ぇ覚ましてすぐさま集合場所に駆けつけなさい!!」と続けてしまいそうになった。転がり出そうな言葉を慌てて呑みこむ。
 あぶないあぶない。怒りのあまり目的を忘れるところだった。あたしは暴走しかけた自分を戒めるかのように、左手の小指の赤い糸に目線をやる。
 不自然なところで途切れたあたしの声に訝しんだのか、携帯から「ハルヒ?」と問いかけるキョンの声が聞こえた。反射的に「あ、うん」と返すとキョンが小さく溜息吐いて、
「おまえの言い分はわかった。でも今こうして電話で四の五の話していたら本末転倒だろう? 今から急いで支度する──」
「その必要はないわ」
 キョンが皆まで言う前にあたしは遮るように口を切った。キョンの「は?」と腑抜けた声が聞こえる。
 あたしは構わず続けた。
「今日の探索は中止よ」
「……なんだって?」
 キョンの恨めしそうな声。「ならなぜ今まで寝ていたことに文句をつけられたんだ俺は」と言いたいらしい。
 その罰当たりな雑用係にあたしは指示を出した。
「だから他の皆に即刻伝えなさい。本日は団長様の私用によりまことに残念ながら不思議探索は中止となりました、ってね」
「へいへい」
 心底面倒臭そうな返事にちょっとムッとする。毎度のことだけど。
 そこであたしはふと『いい事』を思いついて、「じゃあな」と通話を切ろうとするキョンを呼びとめた。
「あ、あとキョン」
「なんだ?」
「妹ちゃんに伝えてくれない?『今度一緒に遊びましょ』って」
 キョンは虚を突かれたらしく、一瞬黙ってから吐息のように「珍しいな」と呟いた。なによ、『珍しい』って。失礼ね。
 それにあたしは全部言い終えてないのよ?キョン。
 「それから」とあたしは続ける。
「『あなたのお兄ちゃんの奢りでね』って」
 あたしは満足してキョンが抗議の声を上げる前に通話を切った。通話時間を表示した液晶画面を見つめながら、携帯を持ったままベッドの上で情けない顔をしているキョンを思い浮かべると自然と口元が緩んだ。
 さてと。あたしは深く息を吸った。
 携帯を上着のポケットに戻し、軽く目を閉じる。
 改めて何かに臨むとき自然としてしまう儀式のようなもの。時間としては二、三秒ほどの間、黙祷。祈ることは何もないのだけれど。差し当たり、この赤い糸を辿る行為が楽しいものでありますように、とか?
 僅かに笑んであたしは瞼を開けた。視線を赤い糸が指し示す方向に据える。
──それじゃはじめましょうか。
 あたしは意気込んで赤い糸が導く方向に一歩足を踏み出した。




 甘かったわ──
 捜索二日目。つまり今日は日曜日。
 天気は昨日ほど良くはなく、桜の季節にはまだ早いけど花曇りといったカンジ。
 あたしはベンチの背もたれに寄りかかって、空を見上げた。青色が雲の隙間から薄っすら見える。
 雨が降らなかったのは良かったわ。でももうちょっと天気がよかったら気分もここまで滅入らなかったのに、と空模様にケチをつけてみる。晴れたからって捜査がはかどるわけでもないのに。
 あたしは左手を翳して元凶である小指を睨んだ。
「──どういうことよ」
 小指に依然として巻きついている赤い糸に向けられた文句はただ虚しく響くだけ。その上くるりと方向転換してあたしの頭の中にそのまま降ってきた。
 ほんっと、どういうわけよ。
 昨日からずっと赤い糸の先を求めそこら中歩き回っているにも関わらず、手応えのある収穫が一切ない。『骨折り損のくたびれ儲け』とはこのことね。
 まあ、まったく空振りと言うわけではないんだけれども……
 あたしは視線を水平に戻し、少し先の舗道を行き交う人々に目を向けた。
 正確には人々の小指から生じた赤い糸を、だ。
 複数の赤い糸のほとんどは地上五十センチから一メートルのあたりを行き交っていたけれども、実は例外もあることを昨日の時点ですでに知っていた。
 ちょうどいいサンプルが目の前を横切る。ベビーカーだ。一本の赤い糸がそこから延びているから、赤ちゃんが乗っているのだろう。
 ちなみに赤い糸は老若男女問わずあらゆる人間についているらしい。実際昨日今日と歩き回って、赤い糸をつけていない人を見かけなかった。
 逆に人間以外の動物がそれを有していることもなかった。猫も犬も鳥もまったく糸がついていない。つまりこの赤い糸は人間限定なのだ。
 その中で赤ん坊の小指から延びた赤い糸は空に向かっていることが多かった。勿論全部が全部ではないけれど、目の前の赤ちゃんの赤い糸は天に向かって延びている。
 で、サンプルその二。
 右斜め前に視線をスライドさせると、あたしが座っているのと同型のベンチに腰掛けたご老人がいる。散歩途中の休憩みたい。
 このご老人の小指からも漏れなく赤い糸が垂れ下がっているんだけど……赤い糸はそのまま老人の足元まで落ち、地面に潜ってしまっている。これもこのご老人に限ったことではない。でも赤い糸が地面に潜ってしまっている人は一概に年配の方々だ。
 この二つのことからあたしはある推論を立てた。
 赤い糸が空に上っていく人は相手がまだ生まれていない。
 赤い糸が地に潜っていく人は相手がもう存命でない。
 この説には自信がある。確信があるといってもいい。
 けれどそれが分かったからといって、あたしの糸の先のお相手を見付ける手掛かりにはなりはしなかった。
 十代のあたしのお相手は果たしてバリバリに生きている、ということが分かっただけ。
 あとわかっているのは(これも推論の域を出ないけど)どうやら相手はこの町の人間の誰かだということかしら。
 昨日からずっと歩き回っているけれど、町中うろうろとしただけで隣り町に行ったりすることもなかった。外れまで近づいたと思ったら回れ右でまた町の中心に戻るし。駅に近づいたと思ったら通り過ぎるし。
 なんだ、この町の人間なのねと気づいたとき、あたしは思っていたよりすぐに見つかるかも、と楽観的に期待した。
 相手が見知らぬ町の見知らぬ誰かというのも面白そうではあったけれど、県外やら国外だったらそれなりの準備が必要になってくる。何日かかるか知れたもんじゃないわ。
 捜索が手近で済むと踏んだあたしは安心した。それに嬉しかった──
 べ、別に相手があのバカである可能性が残ったということで喜んだわけじゃないわよ?多分……いいえ、ずえったい!違うんだから!
──さて。気を取りなおして。
 結局は地道に糸を辿るしか方法がないので、糸が導く方へ着いて行くだけなのだけれど、これが色々厄介なのだ。
 糸は先述した通り実体がないものだから、あらゆるところを通り抜ける。人の家の中まで入っていくのは流石のあたしでも憚られて、色々頭を使って糸の先を手繰り寄せた。糸は己の筋道を一番緩やかで、なおかつ簡略できる方向に変える。だから糸が消えていった障害物の周りをぐるっと一周回ればある地点で、糸の先が目の前に現れるようになった。すっごく面倒臭いけれど、これしか方法がない。
 そんなこんなでこの不思議な糸に振りまわされながら一日歩き通しだったのだけれど、一向に相手の居場所も手掛かりもつかめず仕舞で、仕方なく昨日は日が暮れる頃切り上げた。
 このとき一晩寝たら赤い糸が消えていた、というケースも考えたけれど、寝ずに夜遅くまで徘徊していたら色々面倒なことにもなりかねない。
 だから賭けた。もし赤い糸が明日の朝起きた時に消えていたら、この糸はただの幻覚で運命とかなんかは一切関係ない嘘っぱちだと。でも消えてなかったら……これは『運命の赤い糸』(確定)だと。
 誰と賭けたかって? 勿論神様よ。神様との賭けは絶対なんだから。
 もし朝起きたとき赤い糸がまだ見えていたら、日曜日こそ絶対相手を突き止めてやる!とあたしは意気込んで結構早めに就寝した。
 けれど意気込みとは裏腹に今朝は九時過ぎ頃起きてしまった。
 早めに寝たのに自分が思っているよりよっぽど疲れていたのか、身体は通常より多めの睡眠を欲していたらしい。体力には自信あるほうなんだけれど、一日中歩き回ってたから仕方ないわね。
 このときあたしはすかさず左手の小指を見やった。
 赤い糸は昨日と変わらず指に巻きついていた。いや、見えた。
 まだこの不可思議な状況が続いているということと、この赤い糸の先にいる人物が本当に自分の『運命』なんだということにあたしはドキドキした。
 これはぐずぐずしていられない。あたしは遅めの朝ご飯を急いでとって昼前に家を飛び出した。
 今日はきっと辿り着く。根拠もなくそんなことも思っていた。
 しかし現実は──
 今日も昨日と状況は1ミリも変わらず、おやつの時間になった今も糸の先の相手と巡り会えていない。
 人を連れまわすだけ連れまわしてこの糸は目的地に着いてくれないのだ。
 ベンチにもたれかかったまま、あたしは溜息を吐いた。
 おちょくられているのかしら? それとも糸の先の相手が見つかりたくなくて逃げ回っているのかしら。
 自分の勝手な想像に苛々としながらあたしはクラスメイトであり団の雑用係でもあるバカ者の顔を思い浮かべ──
──って!!
 あたしは勢いよく頭を抱えて俯いた。端から見たら怪しいこと極まりないだろう。それでも構わずあたしは頭を強く抑えて目も閉じて、さっきまで脳裏に浮かんでいたキョンの姿を打ち消すことに全力を注いだ。
 なんであのバカがでてくるのよ! 不覚だ。かなり不覚だ。
 己の失態に内側で全身全霊かけて煩悶していると、不意に外側から不意に声を掛けられた。
「ハルにゃん?」
 その声にあたしは無意識に身体を固まらせた。
 その呼び方は二人の人物を思い起こさせる。内一方とは昨日の朝電話で会話した。
 声を掛けた人物がもしそちらの方だったら、かなりの高い確率でその兄も漏れなくついてくることになる。
 ダメよ――今はまだ、ダメ。まだ会えない――見たくない。
 けれど、心の片隅になんとか留まってくれていた冷静なあたしが「この声は違う」と判断した。
 ゆっくり顔を上げると常に笑顔の上級生がこちらを覗き込んでいた。
「やっぱりハルにゃんじゃないかい! どうしたのさ、こんなところで」
 曇り空を吹き飛ばすようなカラッとした笑顔のとなりに、お馴染みの可愛らしい少女の顔もある。
「鶴屋さん──みくるちゃんも」
「もしかして具合悪いんですか?涼宮さん」
 みくるちゃんは本気で心配してるようだ。そりゃ蹲っているように見えなくもない。
「大丈夫よ、みくるちゃん。あたしはすこぶる元気だから」
「でも……」
「ん~、そうね……ちょっとお腹空いてるのよ」
 朝が遅かったからお昼ご飯食べていないのよね。小腹が空いてきたのは事実だし、さっきの挙動はそういうことにしておこう。
 鶴屋さんが「おや、そうなのかい?」と言って右手に持っていた手提げ付きの箱を目の前に差し出した。
「それじゃ、さっきそこで買ったドーナツでも食べるかい?」
「え、いいの?」
「遠慮はいらないっさー! なんせ新装オープン記念とか言って一個八十円だったから、あたしもみくるもたくさん買い過ぎちゃってね」
「ええ、明日部室にも持って行こうと思っていたんですよ」
 みくるちゃんも自分の左手に持っていた同型の箱を胸の高さまで持ち上げた。
 そこであたしは初めて気付く。
「みくるちゃん、あなた──」
「? はい?」
 みくるちゃんは小首を傾げてあたしの次の言葉を待っている。そんな姿も可愛らしい。
 じゃなくて。
 あたしはどう言っていいか考えあぐねいて、
「……まあ、頑張ってね」
「はい??」
 みくるちゃんはあたしの言葉に更に首を傾げた。当たり前か。
 鶴屋さんはそのちぐはぐな遣り取りに一切何もツッコミをいれずに、さっさとあたしの右隣りに陣取ってドーナツの箱を開けるのにとりかかっていた。
 その手元にちらりと目を向ける。赤い糸は地上五十センチ辺りをキープしつつ鶴屋さんの前方に延びていた。あたしと同じ状況だ。まあ、あたし達くらいの年頃なら普通そうよね。うん。
「さあハルにゃん! どれがいいかな~」
 差し出された箱の中を覗くと確かに数種類のドーナツが大量に入っていた。あたしは数秒迷って、「じゃあこれ」とチョコレートドーナツを紙ナプキンを使って取り出した。
「足りなかったらおかわりしてもいいにょろよ」と鶴屋さんはスタンダードなドーナツを手に取り「みくるもととったとった!」とあたしの左隣りに座ったみくるちゃんにも差し出した。
 みくるちゃんは自分のがあるからと言って辞退しようとしていたけれど、鶴屋さんの押しに勝てるわけもなく最後には苺チョコレートがついたドーナツを申し訳なさそうにもらっていた。
 美人の上級生の二人に挟まれて公園のベンチでドーナツをパクつく。これが一般男子高校生なら夢のような状況よね。
 キョンなんかニヤケ面で……ってまたキョンのこと考えてる。あのバカのことしばらく考えるの禁止よ、あたし!
「あ、そうだ! なんか飲み物買ってきますね!」
 みくるちゃんは突然立ち上がり慌ててそのまま自動販売機まで走っていこうとした。それをすかさず鶴屋さんが呼びとめる。
「みくる、ドーナツは置いていったほうがよいにょろよ?」
「――あ! ホント。そうですね」
 みくるちゃんは恥ずかしそうに開いてる手でこつんと頭を軽く小突いた。そんな仕草も幼い顔立ちのせいか様になっている。さすが萌えマスコット。自分の魅せ方をわかっているわね。
 自分の持っていたドーナツを紙ナプキンにつつんでベンチに置き、みくるちゃんは再び自動販売機の方に駆け出した。
 小走りで遠ざかるみくるちゃんの後姿をあたしは眺める。
 確かにみくるちゃんは童顔だけど……世の中には凄い年の差の夫婦とかいるのも知っているけど……
 でも十七歳以上年が離れてるってことよね、あれ。
 あたしの目線の先にはみくるちゃんの赤い糸。
 その赤い糸は紛れもなく空に延びていた。



 みくるちゃんの買ってきたミルクティを片手に、あたしは鶴屋さんのお言葉に甘えて二個目のドーナツを頬張った。中にホイップクリームが入っているやつだ。
「しっかしハルにゃん、今日は一人でお出かけかい? 昨日の不思議探索も急遽お休みにしたそうじゃないか。みくるが『体調悪いのかな』と心配しててねー」
 と、鶴屋さんはちょっと悪巧み風な目をあたしの方に──実際はあたしの後ろのみくるちゃんに向けてきた。
 みくるちゃんの方に顔を向けると、みくるちゃんはほんのり頬を赤らめてしどろもどろに釈明し始めた。
「す、涼宮さんいつも土曜日の探索は楽しみしてるみたいなのに、急に中止になっちゃったから……もしかしたら体調良くないのかなあ、と思ったら心配で……」
 ほとんど鶴屋さんの言っていたことを繰り返しているだけだったけれど、そんなみくるちゃんはいつもの百万倍可愛かった。
 あたしは湧き上がった衝動が一気に噴き出すのを抑えつけながら、残りのドーナツをすべて口の中に放りこみ、ミルクティーでそれを喉の奥に流しこんだ。
「みくるちゃん!」
「は、はい!!」
 あたしの声に思わず畏まるみくるちゃん。姿勢を正しあたしの方へ体ごと向き直る。あたしもみくるちゃんの方を向き、何かに対して準備万端なみくるちゃんを正面から抱きしめた。
「ふ、ふぇええええええ!?」
 みくるちゃんは突然の抱擁に柔らかい悲鳴を上げる。いや柔らかいのはみくるちゃんの体。柔らかくって気持ちいい。
「もう、みくるちゃん! あなたなんて可愛らしいの!? 反則よ反則。男ならもうコロっていっちゃうくらいねっ!!」
 あたしはみくるちゃんのこれまた柔らかい髪に頬擦りしながら己の心情をぶちまけた。
「でもその可愛さでロクでもない男引っ掛けちゃダメよ! 心に決めた人ができたらまずあたしに言いなさい! そいつが赤い糸の相手かどうかあたしが判断してやるわ!」
「え、は、はいっ!」
 みくるちゃんはあたしの勢いにつられて大きな声で返事した。よろしい。
 でもあたしの方がよろしくなかった。
「『赤い糸』?」
 背後から聞こえたその単語はカルキよろしくあたしの脳内を一瞬にして漂白した。
「ハルにゃん、『赤い糸』とは運命の人と繋がっているというあの『赤い糸』のことかい?」
 固まったあたしに構わず──というか気付いてないのかしら──鶴屋さんは聞いてきた。
 あたしは自家発電の予備電源を作動させ、一時停止した思考を再起動させる。
 まだウォームアップ中の鈍く回転する頭で、思わず口を滑らしてしまった自分に気づく。
 しまった……さあ、どうしよう。
 ここで「実は赤い糸が見えるのよあたし」と言い張るのはいくらなんでも賢明ではないだろう。
 鶴屋さんはともかくみくるちゃんがさっきとは違う意味で心配しそうだ。
 あたしだって団員の誰かが「赤い糸が見える」とか言い出したら信じられない。何の冗談かしらと思っちゃう。
 ──ん?ちょっと今なにか既視感を感じたわ。
「涼宮さん?」
 黙ったままのあたしを訝しむみくるちゃんの声。
 ええい、ままよ。あたしは破れかぶれに口を開いた。
「え、えと、そうよ──だから、みくるちゃんの運命の人とやらを見定めてやる、という意味で言ったのよ」
 これで誤魔化せたかしら。あたしは内心どぎまぎしながら二人の反応を待った。
 鋭い反射角で返してきたのは勿論鶴屋さん。
「そうかいそうかい、ハルにゃんもキザなことを言うね~」
 ニヤリと笑んだ目を向けられ、つんつんと腕を肘で突つかれた。
 う、確かに恥ずかしいかも……でもなんか誤魔化せたみたいだから結果オーライか。
 みくるちゃんの方は、なぜか頬を赤らめて「あ、あの涼宮さん、ありがとうございます」とお礼を述べた。
 んー、やっぱり可愛いなあ。
 抱き締めたみくるちゃんの頭を撫でぐりまわす。みくるちゃんはまた「ひぇー」と悲鳴を上げてわたわたした。
 そんなあたしたちの様子を見て鶴屋さんは一頻り笑って、
「ところでハルにゃん。赤い糸、という表現が出てくるってことは、ハルにゃんも宇佐見センセの授業であの話聞いたのかい?」
 へ? 誰、ウサミって? ウサ耳?
 頭だけ振り向き、首を傾げるあたしを見て鶴屋さんも首を傾げた。
「おや? ナベっちの古典の代講の先生だよ。知らないかい?」
 ナベっち? 誰それ? もう頭の中はクエスチョンマークの嵐だ。
「古典の渡辺先生だよ。一年生の古典の担当は違うのかな?」
「多分。沢村とかいうオバさんだったような……」
 それもうろ覚えだけど。沢田?沢山?どれだっけ。
「じゃあ宇佐見センセの存在を知らなくても仕方ないねえ……」
「鶴屋さん、ごめん。話が全然見えない」
 あたしはお手上げ状態で鶴屋さんにことの内幕の開示をねだった。
「ああ、ごめんよハルにゃん。実はうちのクラスの古典担当のナベっちが急性虫垂炎で入院しちゃってさ~。その代わりとして期間限定で来たのが宇佐見センセという非常勤講師なんだよ」
 あらそういえばどこかで耳にしたかも。先生の一人が入院したとかくらいは。
「で、今うちのクラスは漢文をやっているんだけどさ。宇佐見センセが退屈な授業の合間の小話として赤い糸の話をしたんだよ」
 ああ、コミュニケーションの一環としてそういう雑談を披露する教師っているわよね。
 でもなんで漢文の授業に赤い糸? 接点すらないような気がするんだけれど。
 そんなあたしの疑問に鶴屋さんは明快に答えてくれた。
「赤い糸の伝承って実は中国がはじまりらしいにょろよ~」
 へぇ。てっきり欧米辺りかと思ってた。中国だったら歴史が古そうね。
「どんな話だっけかな? もう一週間も経っているからほとんど忘れちゃってねえ。みくる、覚えているかい?」
「ええっと確か……」
 みくるちゃんは右上に視線を上げ、まるでそこにカンペがあるかのように宙を見つめたまま話し始めた。
「ある若者が縁談相手の家に向かう途中不思議な老人と出会うんです。でその老人は『その縁談は上手くいかない。なぜならこの赤い糸で繋がれた相手がおまえの運命の伴侶だから』と言って」
 そこでみくるちゃんは神妙な顔つきになった。
「その相手というのが貧しい身なりの少女だったらしいんです」
「そうそう、それでその若者は怒ってしまうんだよ! 気に食わなかったみたいでさっ」
 鶴屋さんは「思い出した、思い出した」と頷きながらみくるちゃんの後を受けて話の続きを始めた。
「怒った若者は、手下か誰かにその少女を刺すように命じるのさ。そのとき可哀相な女の子の額に傷をこさえっちゃったわけだ」
「酷いヤツね」とあたし。みくるちゃんも同意するように力強く頷いている。
 鶴屋さんも「そうさね~」と頷いた。
「でもこの話には続きがあるにょろよ」
 と、今度はまるで怪談でも話すような低い声で鶴屋さんは話を再開した。
「結局その当時の縁談相手と破局した若者は、数年後別の娘と結婚することになるのさ……ところがその結婚相手」
 一旦そこで鶴屋さんはわざと区切る。そして最後は種明かしとばかりに大声で、
「額に傷があったのさ!」
 ここで雷の効果音を入れたら様になっていただろう。けれど鶴屋さんには申し訳ないけどオチは途中から見えていたわ。ごめん、反応薄くて。
 その代わりといってはおかしいけれど、オーディエンスのあたしは一応感想らしきことを述べることにした。
「つまり運命には抗えないってこと?」
 感想と言うよりこれは結論ね。
「そうそう、人間万事塞翁が馬、ってことさ!」
 鶴屋さんはあたしの冷静な反応も気にすることなく満足気にそう締めくくる。それ意味合ってるのかしら? 微妙に違う、というか別問題な気がしないでもないけど……
 ところで。
 実は自分で結論を述べた辺りから急に胸内に鉛を抱えたような気分になっているあたし。なんで?
『運命には抗えない』
 これがキーワードかしら。いやトリガー? あたしの不安の中心はそこより少しずれている気がする。
 あたしは正体不明の憂いの理由を探りはじめていたけれど、それはみくるちゃんの珍しく覇気のある声に一時中断された。
「でも自分の気に入らない相手だからって傷つけるなんて酷すぎます!!」
 みくるちゃんは話のその部分に甚くショックを受けたらしい。目も少し潤んでいる。
 まあまあと鶴屋さんはみくるちゃんを宥め、
「でもそんなこと言ってみくるは赤い糸すら知らなかったじゃないかい」
 え?あたしは耳を疑った。鶴屋さん、ワン・モア・プリーズ。
「ハルにゃんハルにゃん、みくるってばこの歳になるまで赤い糸を知らなかったんだってばさー」
 ……どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「みくるちゃん、本当に? 聞いたこともなかったの?」
「え、ええっと……つ、鶴屋さん、それは内緒ですぅ~」
 みくるちゃんの声はいつものふわふわ綿菓子のような質に戻っていた。ちょっと湿り気も帯びている。
「いいじゃないかい、ハルにゃんとみくるの仲なんだし」
「そうよ。あたしに隠し事なんて許されないわ!」
「か、隠してないですよ! 知らなかっただけです!」
「違うわ。『知らなかったこと』を隠してたじゃない」
「う……はい……ごめんなさい」
 みくるちゃんは降参してしゅんと項垂れた。いつものことだけど。
 鶴屋さんはみくるちゃんが消沈したのをいいことに、発覚したそのときの状況を話しはじめた。それも愉快そうに。
「赤い糸の話が出た授業終わってからみくるがあたしの席に来てさー。もじもじしながら小っちゃな声で『赤い糸ってなんですか?』って聞いてくるからたまげたね! 男子で知らない奴がいるのはおかしくないけれど、こんなロマンチックな話知らない女子高生はみくると長門っちくらいだよ!!」
 不名誉なレッテルを我がSOS団の女子団員が貼られてしまった。(しかも名誉顧問直々に)これは団にとって恥ずべき事態ね。団長自らしっかり教育しなおさなくっちゃ。
 有希にも確認しておこう。あの子知ってるのかしら、赤い糸のこと。
 鶴屋さんは多分一番この話をあたしにしたかったのだろう。満足げにカラカラと笑って帰り支度を始めた。
「さて、そろそろあたしたちは帰るとするかー」
「は、はい。──涼宮さんは?」
「……あたしもそろそろ帰るわ」
「そうかい、じゃあ気を付けて帰るんだよ」
 鶴屋さんは立ち上がってあたしに向かってウィンクした。まるでお姉さんのような言葉──事実一つ年上だけれど。
 みくるちゃんも立ち上がり、鶴屋さんと並んであたしと向き合うとにっこり微笑んで、
「それじゃ涼宮さん、また明日」
「じゃあね! ハルにゃん」
「うん、バイバイ」
 あたしはその場に留まったまま二人の上級生を見送った。
 みくるちゃんは少し歩いた先でもまた振り返り、赤い糸がついた手を振った。



 さて。
 二人の姿が見えなくなって、あたしは踵を返す。そして赤い糸が延びている方向と逆に向かって歩き出す。
 なぜかって?
 勿論家に帰るからだ。さっき鶴屋さんに言った通りに。
 まだ日は暮れていない。朝立てた予定ではあと三時間くらいは探すつもりだった。
 けれど予定は変更することにした。
 今、あたしはこの赤い糸の捜す気分を完全に削がれてしまっている。
 鶴屋さんとみくるちゃんに聞いたさっきの中国の昔話の若者と自分を重ねてみる。
 赤い糸の相手がもし、若者のように自分が信じていた相手と違っていたら……
 考えていなかった。
 いや、考えるのを避けていたのかもしれない。
 漠然とあたしはこの糸の先には自分の望む結果があると信じていたのだ。
 けれど――そんな確証はどこにもありやしない。
 『運命』は自分の願望に左右されるものではないから。
 そして『運命』は容易く覆すことができないものでもある。
 あたしは自分が望んでいない『運命』の形をこの赤い糸に突き付けられたらどうするだろう。どう思うだろう。
 怖い。
 見たくない。会いたくない。知りたくない。認めたくない……けれど逃れられない。
 気分が急降下していく。背中が逆撫でされるような感覚。
 まるで突如現れた足元の落とし穴に落ちていったみたい。
 もちろん無様に地べたに叩きつけられるなんて真似をあたしがするわけがない。体勢を立て直して無事穴の底に着地はした。けれど落ちた穴は結構深く、這い上がることもできずにその場で呆然と自分が落ちてきた穴の口を見上げるしかない。誰か引き上げてほしい。
 落ち込んだ精神状態のせいか、さっきまでの『運命』に対する探求心は灰燼のように消え失せ、逆に赤い糸から逃げ出したい気分にさえなった。
 いつもなら意地でも立ち向かうのに、情けない……
 我ながら不甲斐ないと思いつつも、あたしは弱気になった自分を今日だけは許してあげた。



 あたしはそのまま赤い糸を気にせず――といういよりも寧ろ意識の外に強制的に排除して、真っ直ぐ家に帰り家でぼんやりと過ごした。そして昨日と同じくらいに早くベッドに潜りこんだ。一向に晴れない憂鬱を抱えながら。
 けれど枕元の目覚まし時計のデジタル文字を無意味に見つめていてもちっとも睡魔は訪れてくれない。
 そうこうしているうちに、時計が『00:00』を表示してしまった。もう月曜だ。
 今日はもちろんのこと学校がある。学校に行けば二日ぶりに会うことになる――
 休んでしまおうか、とちらりと考えた弱腰な自分に気づき、ほとほとうんざりした。うんざりしながら瞼を固く閉じる。そろそろ本格的に寝ないと。
 しばらく瞼の裏の闇と睨めっこしていると、ようやく意識が拡散してくれた。これで眠れる。この滅入った気分から逃れられることに心底ほっとしながら、滑り落ちていく意識の中で一つあたしは思った。



──明日、この赤い糸が消えていればいいのに……



──後篇に続く

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