【読む前に】:本作は、長編・『罪と罰』の後日談的な位置にあたる作品です。


 夏。まごうことなき夏だ。今年も太陽は夏の大放熱バーゲンを絶賛開催中だ。
 そんな夏の日差しの中、毎年恒例の避暑と先祖供養を兼ねた田舎への旅路の途中、俺はのんびりと走る鈍行列車に揺られていた。
 俺たちが乗っている車両には俺たち以外に誰もいない。何個か前の駅までは数人の客がいたのだが今は俺たちだけだ。
 窓の外に望む景色はゆっくりと流れていく。山と田畑と民家の続くのどかな風景。ほんの数時間前の街の様子が嘘のようだ。
 窓から目を離し横を見やると、俺の隣にははしゃぎ疲れて眠る妹――と、更に隣に妹の手をそっと握ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めている宇宙人製アンドロイド、長門有希の姿があった。
 そう、今年の帰省は有希と一緒なのだ。一緒に行くかと尋ねた時の嬉しそうに頷くこいつの姿を俺は忘れることはないだろう。


 事の顛末を述べるとこういうことになる。




 今年も古泉主催のミステリーツアーは敢行されたわけだが、ハルヒの国外逃亡を俺と一樹で何とか阻止し、鶴屋さんには平身低頭で頼み込み外国の城の持ち主には丁重に訪問をキャンセルさせていただき、更に彼女はそんなことを気にするふうでもなく国内の他の別荘をひょいと用意し、これについて一樹は
「いやあ、鶴屋家の皆さんには本当に上げる頭がありませんね。しばらくは足を向けて眠れはしないでしょう」
 などと述懐していたが、同感だね。特に鶴屋さん本人には過去何度もいろんな意味で救われてきたからな。
 ちなみに雪山の時に俺が提言した殺人事件は問題編を冊子で用意するというのを一樹が取り入れたにも関わらず結局多丸兄弟と新川執事、森メイドさんの両名はレギュラーキャストになってしまったらしく、多丸兄弟は俺たちと一緒にトランプやら麻雀やらの遊戯に興じ、新川・森コンビは使用人仕事に勤しんでいた。
 殺人事件を実演するわけでもないのに何故この4人がいたかというと、今回は実際に演技をするわけではないからキャストは必要ないだろうという俺と一樹の意見をハルヒが「それじゃ物足りないわよ!」の一言で一蹴してしまったからに他ならない。
が、俺も一樹もこの意見を否定する気はなく、俺と一樹はあの雪山の時のように顔を見合わせ息まで合わせて嘆息した後に一樹は「では、彼らも呼びましょう」と笑顔で言ってから「実を言うと彼らも前2回のイベントをけっこう楽しんでいましたからね」と付け加えた。
 もちろん、俺もそうだ。何だかんだ言って俺たちの中で合宿とあの4人とはセットみたいなもんになっちまってる。
 実際楽しかったし、向こうも楽しかったというのなら出演をお断りする理由もない。ま、保護者みたいなもんさ。
 そうそう、これはついでなんだが妹とシャミセンもしっかりついてきていた。ハルヒ的には既にこいつらもレギュラーキャストらしい。このまま行くとそのうち阪中や谷口と国木田もついてくるような展開になりそうな気がしないでもないな。
 まあ、俺たちSOS団の活動はひとえに我らが団長様に委ねられているし、今更ハルヒが何を言い出そうがNOという気はないんだがね。


 そこに俺たち以外の一般人の意見が尊重されるかどうかは別として。


 さて、夏合宿は特筆すべき点もなく、遊び倒したり古泉考案の推理ゲームをやったりして、どこぞの情報意識体に襲われるようなこともなく
無事に終了とあいなった。もしかしたら統合思念体あたりが先手を打っておいたって可能性も否定できないけどな。
 推理ゲームの最中、ハルヒと鶴屋さんくらい一樹が楽しそうにしていたのは少し意外だったが、ミステリ好きのあいつのことだ、寸劇を演出する必要がなくなったことで肩の荷が下りて純粋に楽しめたのかもしれん。
 ちなみにこの推理ゲーム、自分自身の能力をほとんど封印した有希も宇宙的パワーを発揮することなく純粋に推理していたわけだが、それでもこいつの目をごまかせるわけもなく全員がギブアップしかけたところで華麗に解決編をやってのけた。
 ポツポツと、だが饒舌に事件の真相を語る有希に俺たち全員が目を奪われていたのは言うまでもない。
 後に一樹は安堵したような諦めたような、そんな微妙な笑みを浮かべながら俺に言った。
「長門さんを出し抜ける可能性なんて最初からほとんど考えていませんでしたよ。
涼宮さんと鶴屋さんの推理をかいくぐることができただけでも上出来でしょう」
 そうだな、褒めてやってもいい。
「ありがとうございます。ですが、」
 一樹は続ける。心底面白そうな笑みを浮かべていた。
「次は負けませんよ」


 やれやれ、こいつも相当な物好きだぜ。女の趣味もな。……ま、俺も人のことは言えないか?


 まあそんなこんなで楽しんだ合宿の帰り、別れ際に俺は有希に帰省のことを話したわけだ。妹は朝比奈さんと鶴屋さんにじゃれついて聞いていなかったが、別に聞かせてやることもないだろう。聞かれたら多分、出発の日まで待ち切れずにまとまりついてくるだろうし、どうせ暴走するなら出発の当日に知らせるなりして少しでも期間を短くしないと俺の体力が持たん。
 ちっこいくせにパワーばかり有り余ってるようなやつだからな。
 だが、団長様には有希に耳打ちする俺の姿を見られてしまったようで、
「キョン!明日からちょっとの間有希借りるわよ!」
 ズカズカと歩み寄ってきたハルヒはニヤニヤしながら腕を有希の首に巻きつけてもう一方の手で俺を指差し宣言した。
 ああ、言ってなかったがもう俺と有希の関係は周知の事実となっていた。ここまで来るのにいろんな紆余曲折があったわけだが――それも今となっては昔の話だ。つっても2ヶ月くらいしか経ってないんだけどな。
 ついでにここまできてこれを読んでる誰かは「一樹」って言い回しにさぞかし首を捻ったことだろうが、何故俺が古泉一樹を一樹と呼ぶようになったのか、それもまた別の話だ。いずれ分かるさ。
 それからハルヒは有希に抱きついたまま、
「キョン、有希が可愛いからってあんまりいやらしいことしちゃだめだからね」
 なんて言っていたが大きなお世話だ。っていうか今更だ。もちろんそんなことは口にしなかったが。
 でまあ、出発の日までの数日間ハルヒが有希を連れ回して何をしていたかというと、主に服屋に行っていたそうだ。これには一樹と朝比奈さんも連れて行かれたらしく、ハルヒ主催&プロデュースの長門有希ファッションショーが各地で催されたようで
「いやはや、涼宮さんの服飾センスには脱帽しますね」とニヤニヤした笑みで一樹は語り、
「いろんな長門さんを見れて新鮮な気分でしたよ~」とぽやぽやした笑みで朝比奈さんはのたまった。
 ハルヒに至っては満開のひまわりの如き笑みと共に「選んだのはあたしなんだから感謝しなさいよ!」と料金を請求された。ローン払いで。
 一樹が製作したらしいSOS団エンブレム入り請求書に書かれた額を見て俺が半日分くらいの水分を失ったのは言うまでもない。
 そんな俺を様子を見た有希はすまなそうに、
「代金のことなら気にしなくていい、わたしが何とかする」
 とみんなに聞こえないように言ってくれたわけだが、実に情けないことに俺は今回ばかりはその言葉に甘えることにした。
 とはいえ流石に全部任せるのは気が引けたので半分だけだが……それでもけっこうな額で、俺は本気でバイトしようかと思い始めている。
 有希の嬉しそうな姿が見られたからプラマイゼロさ。できたらファッションショーに参加したかったけどな……。
「それなら、」
 有希が俺の耳元に唇を近づけて囁く。


「今度は二人だけで……」


 萌え死んだ。




 ……そういうわけで今に至る。いつぞやに俺が買ってやった白のワンピースに麦藁帽子を被って家に来た有希の荷物がやけに多かったのはどうもどの服を持っていけばいいのか分からず、とりあえずあるだけ詰め込んできたかららしい。
 「あなたに選んで欲しい」とか言ってたが、こいつは本気で俺を萌え死にさせるつもりなんだろうか。本望だが。
 ああ、それから有希がついてくると知った妹がはしゃぎまくっていたのはあえて言うまでもないだろうな。それよりも俺は玄関で待っていた有希に向けられた両親の意味深な視線が気になったんだが、まあ深くは考えないでおこう。
 そんなわけで駅に着くまでの間にずっと有希にじゃれついていた妹だが、電車の中でも飽きずに有希にじゃれつきまくり有希はと言えば嫌な顔一つせずに、むしろどこか優しい視線を妹に注いでいた。
 そうして好き勝手はしゃぎまくった妹は襲ってきた疲れに対し本能に忠実に休眠モードに入ったというわけだ。繋いでいる手は駅に着く少し前辺りからずっと握っていたようだが、子供の体温は暑くないんだろうかね……。
 というか、もう小6なんだからもう少し妹にも大人らしさというものを持ってもらいたいもんだ。
「有希」
「……なに?」
 昔は常時液体ヘリウムのように冷たかった瞳は今や氷菓子程度には温まっている。もっと言うと鶴屋さんや妹なんかも含めたSOS団関係者を見る時は雪解け水くらいにはなってるし、……ゆっくりとこちらを振り向いた有希の目は、小春日和のように温かいものだった。
「疲れてないか?」
 パチリと瞬きをして有希は数ミリだけ首を傾げた。どうやら質問の意味がよく分かっていないらしい。
「妹の相手しててさ」
「……問題ない」
 そう言うと有希は自分の肩に頭を預けて眠っている妹に視線を戻す。
 そういえばさっき有希は疑問符で応えたけど、昔はこの疑問符すらなかったんだよな。
「彼女の相手をしていると、」
 山道によって遮られていた日の光が窓から差し込み、有希はわずかに目を細める。それが俺には妹を見守る姉のような目に見えた。
「何故か温かい気持ちになる」
「……そうか」
 俺には何となく分かるぞ。それは多分、母性ってやつなんだよ。
「……そう」
 母性という俺の言葉に顔を上げた有希は不思議そうな表情で瞬きを一度二度としたあと、また妹に視線を戻した。
 この1年半で有希の心は確実に人間らしく成長してきていると言えるだろう。いや、こいつの主観時間で言ったら約596年になるのか。俺が、俺たちが知らないだけで、あの繰り返された夏の中で実は大きな変化があったのかもしれない。
 そういえばあの時のことを俺たちの中には1回分の記憶しか残っていない。15498回も繰り返された2週間の、ただの一度の記憶。
 その間こいつはたった一人で俺たちのことを見守ってきたんだ。自分の感情を出さずに、出すこともできずに。
 エンドレスにループしていた8月のことを思い出す度に、俺はやるせない気持ちになってくる。
 何もできなかったのは分かってる。俺にできたのは、ハルヒのやり残したことを推理して、何とかしてあのループを抜け出すきっかけを作り出すことくらいだった。でも、あの頃の俺は今のような有希に対する気持ちは持っちゃいなかった。
 こいつのためではなく、あくまでも自分たちと世界のために。いや、それが間違いだったなんてことは言わない。
 これでよかったんだ。少なくとも、俺たちは今こうして普通の世界に生きていられるんだから。
「…………」
 いまだに妹に優しい視線を送っている有希を一瞥すると俺は立ち上がり、揺れる車内を歩いて有希の隣にまた腰掛けた。
 有希が不思議そうに俺を見る。
「なあ有希」
「なに」
 俺が隣に来たことが嬉しいのか有希の声の調子が俺にだけ分かる程度に上がる。そんな微妙な変化が嬉しい。
 それを確認してから、俺は息を一つ吐いて呼吸を整える。これだけはどうしても聞いておきたかった。
「もしも……もしも万が一、去年みたいに時間がループしたりしたら、お前は」
「だいじょうぶ」
 有希が俺の言わんとすることを察したように俺の言葉を遮った。
「今のわたしは統合思念体の端末ではない。今後あの2週間のような事態が発生した場合、おそらくわたしの記憶もリセットされる」
「……そうか」
「……ただし、」
 安堵の溜息を吐く俺を見つめたまま、わずかに躊躇するように一拍の間を置いてまた口を開く。
「その場合、統合思念体の他の端末から連絡が来ることになっている。彼らはループの原因の調査と状況の打開について、
我々――SOS団に一任すると言っている。だから、わたしが記憶の継承を行わないという保証はない。……でも、」
 俺の表情が固くなったのを有希は見逃さなかったんだろう。眉の角度がほんの少し変化する。
 そんな顔をしないで、と言っているようだった。
「あなたがいれば、わたしはだいじょうぶ」
 何も言えなかった。ガタコトと電車の揺れる音だけが聞こえる。本当に駄目な男だ俺は。結局有希に気を遣わせただけじゃないか。
「……いつかも言ったことかもしれないけど、どうしても言いたいことがあるんだ。言わせてくれ」
 俺は体を横向けてじっと俺を見つめる有希の手をそっと握った。
 有希は2ミリ程首を傾けて瞬きした後、黙ってこくりと頷く。
「すまなかった」
「……なにが?」
 わけが分からないと言った様子で有希は聞き返す。
「今までずっと待たせちまって」
 今なら分かる。こいつは4年前、俺が朝比奈さんと時間遡行して会いに行った時から、俺のことを一途に想っていてくれてたんだ。
 有希が言うには、この時から既にエラーの蓄積は始まっていたらしい。3年後の自分と同期して、3年後の俺との記憶を持った時から。
 俺は覚えている。一番最初に俺が有希のマンションに行ってハルヒとこいつの話を聞いた後、部屋を出た時のこいつの寂しそうな顔を。
 こいつは知っていたんだ。未来の俺が自分のことを信頼しているということを。そして、俺が自分の最初の告白を信じないということも。
 知っていたとしても、どうにもならなかった。あのハルヒの消失事件の時と同じように。分かっていても悲しかったんだろう。
 そして、あの8月――15498回もの2週間の繰り返し。594年分もの記憶を、この小さな体に溜め込んで。こいつは――
「…………」
 有希は小鳥のように首を傾けて俺を見ていた。
 約600年もの間俺のことを想い続けててくれたのに、俺は何一つ気づけてやしなかった。
 思えばあの世界の改変は、有希の、ハルヒや朝比奈さんに対する最後の抵抗だったんだ。あの世界でこいつは俺に自分の想いに気づいてほしかったんだ。できることなら自分を選んで欲しいと、そう願っていたんだろう。
 自惚れだって言われそうだけどな。それでも、そう思わずにはいられないんだ。
「すまなかった。600年間も待たせっぱなしで放っといちまって。本当に、すまん」
 有希の手を強く握る。この小さな掌を離したくなかった。
 有希の顔をまともに見ることができない。俯いてもう一度「すまん」と陳腐な謝罪の言葉を重ねる。
「……泣いているの?」
 顔を上げると、目の前にある有希の顔がぼやけていた。目の端が熱い。
「……どうして」
 有希の声がわずかに震える。困惑、不安。そういった負の感情が有希の声を震わせているのだろう。
「……俺には、一緒にいてやることくらいしかできないけど、それでも……もう、絶対に離したりしないから」
 右手で有希の手を握ったまま、左の腕で有希の体を少しだけ引き寄せる。隣で寝ている妹を起こさないように、そっと。
「だから……頼む。ずっと一緒にいてくれ。これは、俺の望みだ」
「……そう」
 不意に唇に柔らかいものが触れた。ほんの一瞬。俺が今みたいにふさぎこんでるような時、こいつは必ずそうするんだ。
「なら、笑って」
 有希はそう言うとぎこちない、俺にしか分からないような微かな笑みを浮かべた。
「やくそく」
 以前、有希に言われた言葉を思い出す――泣かないで。
 そうだ。俺は約束したじゃないか。
「……ああ」
 そう言って微笑み返してやる。
 有希がずっと一緒にいてくれると言ったんだ。それなら俺は――こいつの傍で、笑っていてやらなくちゃな。


 母親の実家がある田舎までもう少しかかる。それまで……こいつのひんやりとした柔らかい手の感触を愉しんでいよう。




 駅に着いて俺が起こしてやることでようやく目を覚ました妹は結局実家に着くまで有希と手を繋いだままだった。
 で、実家に着いた俺たちを待っていたのは、例年の如く実家の親戚の面々だった。のだが。
 有希の姿を見つけた途端にガキどもがまとわりついてきた。それはもう5,6人が一斉にわらわらとだ。
 おいおい、去年まではこんな歓迎なかっただろう。確かに実家には今年は一人増えると言っておいたが……。
 ガキどもはきゃいきゃい騒ぎながら有希にじゃれついてよろめかせ、
「有希ちゃんって言ってねー、キョンくんのかのじょさんなんだよー」
 妹は何故か自慢げに有希の紹介をしている。おいガキども、あまりこっちを見るな。ひそひそ話をするな。
 俺が半ば諦め気味の視線をジャリ集団に送ってから有希へとパーンすると、有希はまとまりつくガキ共をいつものように無視して……は、いなかった。
 昔は宙に固定され、どこを見ているのか分からなかったような視線は今、春風の如き優しさをもってじゃれつく子供たちに注がれていた。
 その光景に思わず笑みがこぼれてしまう。有希にまとわりつくガキ共も今日くらいは許してやるか。


 与えられた部屋に荷物を置くと、俺たちはこのクソ暑い中でも元気の耐えないお子様たちに早々に拉致られた。
 というか実際は有希が、なのだが。せっかく長旅の疲れを有希で、いや有希と癒そうと思っていたのに俺が自分の部屋に荷物を置いて有希の部屋に行くと、襖を開けて出てきたのは足元に妹他数名のジャリをまとわりつかせて微妙に困ったような表情を浮かべた有希だった。
「……川に行く」
 俺の姿を見るなり救いを求めるような視線で俺に告げる。有希に頼られているというならばその頼みを断る理由など俺には1万と2千年前まで遡ってみたところで存在しない。断るくらいなら俺はちょっとイカれたパイロットのアクロバット飛行に同乗する方を選ぶ。
 というわけで俺たちは山道を20分程歩いた所にある川にいる。
 来てしばらくの間は有希にじゃれついていたガキ共だったが、今は好き勝手にはしゃいでいた。
 有希の方はと言うと、大きめの岩に腰掛けて足首を川に預けながらぼんやりとガキ共のはしゃぐ姿を見つめていた。本でも持ってきたかと思ったが、その余裕がなかったのか手ぶらだった。
 だが……。
 もしも有希が自分の意思で本を持ってきていなかったのだとすれば、それは良い傾向だと言えるのかもしれない。
「ったく、せわしない奴らだ」
 言いながら俺も手近にあった岩に腰を下ろした。パンツの裾をまくって足首を川の流れに預ける。水の冷たさが気持ちいい。
「すまんな、こっちにいる間はずっとこんな感じかもしれん」
「……そう」
 ゆっくりとこちらを振り向いた有希は、一言そう呟いて逆再生したみたいに視線を子供たちに戻した。
 その横顔が少し楽しそうに見えたのは……多分、間違いじゃない。
「お」
 と、水面でキラリと光るものが目の端に映った。
「有希、見てみろよ」
 俺が指差した方向を有希は観察するようにじっと見つめる。
「魚だ」
 せっかくこういうところにいるんだ。久しぶりに童心に還ってもバチは当たらないだろう。俺は岩から降りて有希に手を差し出した。
「ほら、来いよ」
 俺の方を見てパチリと瞬きをした後、有希は岩から降りておずおずといった感じに手を差し出してきた。
その手をとってそろりそろりと歩き出す。
「……見えるか」
「…………」
 魚のいる位置を指差しながら囁くと、有希は覗き込むようにしてからこっくりと頷いた。
「よし……」
 ゆっくりと腰をかがめ、ゆったりと流れに逆らっている魚に手を伸ばす。そして、
「ほっ!……ああ、くそ。逃げられた」
 ガキの頃はけっこう得意だったんだがな。流石に腕が鈍ったか。
「あれー、キョンくん何やってんの?」
「魚だよ、魚」
「え、どこどこ!」
 お友達数名を引き連れてこっちにやってきた妹にそう応えてやると、目を輝かせてキョロキョロし始めた。
「捕まえようとしたんだけどな。逃げられた」
「えー、キョンくんかっこわるーい」
「うるさい」
 ガキ共の他愛のないバッシング攻撃が俺に注がれる。言うんじゃなかったか。
「まだその辺にいるんじゃないのか? 探してみろ。ただし、日が落ちる前には帰るからな」
「はぁーい」
 案外素直に応じるガキ共。大人になってもその純真さを忘れるんじゃないぞ。
「…………」
「……有希?」
 バシャバシャと水を跳ね上げながら歩いていく妹たちの後姿を見つめていた有希の表情がわずかに変化したのを、俺は見逃さなかった。
「笑ってるのか?」
 有希が俺の顔を見上げる。それは俺にしか分からない程度のものだったが、有希は確かに笑っていた。
「少し……想像してしまった」
「想像?」
 川のせせらぎとガキ共のはしゃぐ声に混じって、小さな声が俺の耳に届けられる。


「あなたとの、未来」




 日も暮れかけ、戻ってきた俺たちを待っていたのは、例年以上に豪勢な食卓だった。
 どうやら妹が有希の食欲のことを話していたらしく、実家の連中はこぞって有希に料理をすすめていた。
 すすめられた料理を黙々と平らげる有希を見て目を丸くする者や愉快そうに笑う者もいたが、有希も楽しそうにしてたのは間違いない。
 が、俺はと言えばあまり落ち着いて飯が食えなかった。
 そりゃそうだ。みんなしてニヤニヤしながら俺と有希の関係について問い詰めてきやがるんだからな。
「いやあ、しかしキョンにこんな可愛い彼女ができるとはなあ」
 叔父が豪快に笑いながらそう言った。大きなお世話だ。
 そんなこんなで賑やかに過ぎた1日目もようやく終わりを告げ、俺たちは解放された。
 自分の部屋に戻ってさしてする必要もない荷物の整理を終え、麦茶の入ったプラスチック容器と氷を入れたグラス2つをお盆に乗せて俺は有希のいる部屋へと向かう。
「有希、いるか?」
 襖越しに声をかけると5秒くらいで静かに襖が開き有希が顔を出した。
「入っていいか? 麦茶もあるぞ」
 有希は即座に頷くと部屋にとって返した。俺は後を追うようにして部屋に入りお盆を畳の上に置いた後、襖を閉めてあぐらをかく。
「今日はお疲れさん。明日からもこんな感じだろうが、まあ付き合ってやってくれ」
 麦茶をグラスに注ぎながら有希の方を見ると、どうやら荷物の整理中だったようだ。……本当に中身が服ばっかりだ。
 ってかバッグ1つに全部入れてたのかよ。いくら大きめのとはいえこんなに入るのか?
「ハルヒのやつどれだけ買ったんだよ……毎日別なの着てもローテーションしなさそうだな」
 有希の肩越しに荷物を覗き込む。ワンピースにスカート、ノースリーブ……。って、おい。ちょっと待て。
「有希……そりゃ何だ?」
「……涼宮ハルヒが選んだ」
 いや、まあそりゃ分かるんだが……。何でバニーやらメイド服やらゴスロリやらのコスプレ衣装が混在してるんだ。
「どれを持ってきたらいいのか分からなかった」
 整理する手を止めて無表情に応える有希。まあ、その、何だ。その辺の衣装は二人きりの時にでも着てみせてくれ。
「……そう」
 言いつつ有希は白いバニーの衣装を手に持って体の前に合わせながら、
「今は?」
「……いやあ……」
 確かに今は二人きりだし有希が着てくれるってんならそりゃあもうこれ以上嬉しいことはないんだが、その……ばれたらまずいし。
「……そう」
 ほんの少しだけ眉の角度を変化させて有希は衣装をしまいこんだ。……そんな残念そうにしないでくれ。ってか着たかったのか。
「あなたが望むなら」
 有希が振り返って俺の目をじっと見つめる。
「わたしは拒まない」
 ああ……そんな真摯な瞳でそんなこと言わないでくれ。こっちはやましい気持ちありありだってのに。
「やましい?」
「いや、だからその……」
 それを着てもらったまま、したい、というかだな。


「あなたなら、いい」


 有希の芯の強い声が耳に届いた瞬間、俺は有希を抱きしめていた。
 危うくそのまま押し倒すところだった。抱きしめるだけに留まった自分を褒めてやりたいぜ。
「……なに」
「……つい」
「……そう」
 それだけを言うと有希は目を閉じて俺の背に手を回してきた。有希の鼓動が伝わってくる。ああ……何て可愛いんだこいつは。
 しばらくそのまま何も言わず体を寄せ合う。雨戸の外から聞こえる虫の声と、扇風機の音だけが部屋に響いていた。
 やがて俺たちはどちらからともなく唇を重ねる。
「ふぅ……ん、ちゅ……。ちゅる……」
 有希の口内に舌を侵入させると、それが当然の行為であるかのように有希は俺の舌に自分の舌を絡ませてきた。
 扇風機があるとはいえ部屋の中は蒸し暑い。その上肌を合わせて抱き合っているというのに何故か不快ではなかった。
むしろずっとこうしていたかった。有希の体温が低いからなのか、こいつが何か情報操作をしているのかは俺は知らない。
 ……いや、今となっては後者の可能性は考えづらいか。だがどうだっていい。そんなことは。
「んぅ……ちゅ、ちゅむ、ちぅぅぅ……」
 有希が俺の舌を吸い上げる。息苦しさがむしろ心地いい。このまま溶け合ってしまいたいような気分だ。
「んく……んく……んぅ、う」
 互いの唾液を交換するように、俺たちは互いを貪り合う。有希が喉を鳴らして俺の唾液を飲み下している。
「ふ……ん、ちゅ……ぷぁ」
 くちゃぁ、という粘質な音と共に、俺たちは唇を離した。その距離に艶かしく光る透明な糸が橋をかける。
「……ョン」
 小さな呟きが聞こえたかと思うと、有希が俺の首に腕を回して抱きついてきた。
 ……よくは聞こえなかったが、何を言われたのかは分かる。きっと――あの雪山の時も、こいつはこの言葉を口にした。
 一樹、お前の推論も馬鹿にはできないな……。
「有希」
 有希の呟きに応えるように、俺も愛しいこいつの名前を口にする。
「有希、好きだ。愛してるぞ」
 何だって好意を伝える言葉ってのはこんなに少ないんだ。ちょっと不公平なんじゃないのか。
「……わたしも」
 耳元に届く有希の声は、本当に嬉しそうで、
「大好き」


 俺はそれが嬉しくて、もう一度有希の体を強く抱きしめた。


 その後はどうしたかって? 別に何もないさ。残念だが、ここでナニかをするわけにはいかないからな。
 俺に抱きついたままの有希が「……残念」なんて呟いた時には理性が飛ぶかと思ったが。
 時には我慢も必要だ。溜めて出すのは気持ちいいって言うだろ? いや、深い意味はないけどな。
 それよりも俺が気になったのはハルヒがコスプレ衣装の数々をどんな意図で有希に買い与えた(まあ代金は俺と有希持ちなんだが)かってことだ。……いや、何となく分かる気はする。俺はあの時のハルヒの思い出す。


――キョン、有希が可愛いからってあんまりいやらしいことしちゃだめだからね。


 やれやれ。
 まあもう少しだけこの時のことを語っておこうか。


 向かい合って冷えた麦茶を飲む。互いに無言だが、俺にはこの沈黙が心地良かった。何も言わずにずっと一緒にいて気詰まりすることがないなんてのはこいつくらいなもんだろう。
 まあ今の俺たちは何と言うか……“言葉はいらない”って表現するのが正しいのかもしれないけどな。
「ん?」
 ふと有希の荷物を見やると、予想通り何冊かの本があった。だが――
「有希、これしか持って来てないのか?」
 ハードカバーが2冊に文庫本が3冊。本来なら多いと評するべきなんだろうがこいつにとってはこのくらい何でもないだろう。
 むしろ俺はその少なさが気になった。
「そう」
 有希がこくりと頷いて麦茶に口をつける。ああ、画になるね。実にいい。
「けっこうこっち長いぞ? もっと持ってきた方がよかったんじゃないのか?」
 ガキ共に振り回される時間もそう長いもんじゃないだろう。こいつならこの程度すぐ読み終えるに違いない。そう思ったのだが、
「…………」
 何故か有希は俺の方をじっと見つめたまま動かない。その瞳に宿った色を見て、俺は一つの考えに思い当たった。
「もしかして……俺と遊びたいのか?」
 有希がまるで「やっと分かってくれた」とでも言いたげに俺にだけ分かる範囲で表情を緩めてもう一度頷いた。


 ああもう、可愛いなこいつは。




 海が見える。今日も空はこれでもかってくらいに晴れ渡っている。蒼と藍の共演。いい眺めだ。
 自転車をこぐ俺の横を、時折サーフボードやらパラソルやらを積んだ車が走り抜けていく。
 うちの田舎は実に都合のいいことに山もあれば海もある。実家から1時間も自転車を走らせれば砂浜に到着だ。
 バスで行ってもよかったんだが、そこはせっかくの機会だ。二人乗りを満喫しないでどうする。そう、今俺のこいでいる自転車の荷台には、ノースリーブにスカートを身に着けた有希がちょこんと横座りしていた。頭には麦わら帽子をかぶっている。ちゃんと紐で顎に固定してるあたりがこいつらしい。
 有希の両腕は俺の腰にそっと回されていた。その腕の感触は確かに感じるのだがやはり体重は感じない。自転車をこぐ俺の脚は軽快だ。それはもちろんペダルが軽いってのもあるが、それだけじゃなく有希が後ろにいるからだ。
 二人の間に会話はない。だけど、その間に流れる空気はとても心地良いものだった。
 自転車に二人乗りして海へ向かう。我ながら妙案だと思うぜ。ああ、青春って素晴らしい!……なんてな。
 ふと、背中にこつんと何かが触れた。考えるまでもない、有希の頭だ。麦わら帽子はいつの間にか首の後ろに回されていた。


 いいね、こういうの。


 さて、そうこうしてる間に砂浜が見えてきた。既に砂浜はカップルや家族連れで賑わっている。
 もちろん俺たちの目的も彼らと一緒だ。泳ぎに来たのさ。
 本当なら有希の素肌はあまり他の野郎共には見せたくはないんだが……この賑やかな雰囲気を味わわせてやるのもいいだろう。
 なあに、そんなに心配することはない。常に一緒に行動すればいいだけのことだし、例え有希に言い寄る野郎がいたとしてもこいつはそんな奴らなんていとも簡単にのけてしまえるだろうさ。……彼女を守るのは彼氏の仕事なはずなんだけどなぁ。


 水着に着替えて来た有希を見て、俺の時間は凍結した。立て掛け途中だったレンタルパラソルがドサリと音を立てて倒れる。
 何人かの水泳客がこちらを見るがこの際どうでもいい。俺は有希の外見分析に全身全霊を集中させることにする。
 頭のところに赤フレームのサングラスが引っ掛けられているのはまだいい。全然普通だ。問題は有希の水着だ。
 色はサングラスと同じような赤。セパレートタイプなのもまだいいだろう。ああ、へその辺りが眩しいぞ有希。
 だが……下はどうだ。何というか……ギリギリ感が否めない。ローレグと言えなくもない。まずい。やばい。
 ハルヒのやつめ、何て水着を選びやがる!あえて言おう、グッジョブであると!!だが!バッジョブな面も否めない!!
 何故ってそりゃあお前……有希のきわどい半裸姿を他の野郎共に見られるじゃあねぇか!!
 俺はとっさに辺りを見回す。何人かの野郎の視線を感じた気がする。俺の有希に色目を使いやがったらただじゃおかんぞ。
「……どうしたの?」
 眼光を飛ばす俺を不審に思ったのか、いや誰でも不審に思うだろうが、有希が声をかけてきた。
「いや、お前の水着姿があんまり素晴らしいんでな。どこぞの男がお前を狙ってるんじゃないかと――」
「…………」
 至って自然に言ってしまったが、言ってから実は俺はトンデモなく恥ずかしいことを言ってしまったんじゃないかと思った。
 有希が微動だにせずに俺を見つめていたが、しばらくして
「…………そう」
 小さく呟くとビニールシートの上にぺたんと座り込んだ。
「ええと……泳ぎに行かないのか?」
 パラソルを立て直しながら聞いてみる。有希は海を、いや、それよりもずっと遠くを見つめながら小さく言った。


「……あなたが心配するから」


 心臓がズキューンとかいう音を立てて打ち抜かれた。


「よっと……ふぅ」
 ひとしきり泳いだ俺は海の真ん中にぽつんと浮かんでいる小島に手をかけて休息を得る。
 何のことはない、吸い込まれそうな青空を吸い込まれそうな黒い瞳で見つめたままた浮き輪の上でゆたっていた有希の、その浮き輪に俺も体を預けたのだ。
 夏合宿の時のように背中と脚を浮き輪に支えられて浮かんでいる。一つ違うのは――手に本を持ってないってことだ。
 珍しいことに有希は本を持ってきていなかった。理由は言わずもがな、俺と遊びたいからだそうだ。可愛いじゃないの。
「…………」
 上から覗き込むと有希はほんの少しだけ瞳を動かして俺の顔に視線を合わせた。……もしかしてただぼーっとしてただけか?
「……ここは、静か」
「ああ、そうだな」
 ここは砂浜からけっこう離れた場所で水深もある。普通に水遊びをするだけならこんなとこまでは来ないだろう。
ここからだと砂浜にいる人影はだいぶ小さく見える。
「……落ち着く」
「やっぱ、静かなところの方がよかったか?」
 ちょっと心配になって訊いてみる。
「あなたとなら、どこでも」
「……そうか」
 微妙にかみ合っていなかったが、多分これはこいつの本心なんだろう。だったら変につっこむのは無粋ってもんだ。
「有希」
 俺の呼びかけにほんの数ミリ、首が傾げられる。
「キスしてもいいか?」
「…………」
 有希は一瞬だけ砂浜の方を見やると俺の顔を振り返り、眠るように瞼を閉じた。
 ……見られるかもしれないってことを気にしてるのか? 羞恥心があるのはいいことだぞ。いや、変な意味じゃなくてな。
「……ん……」
 片手を浮き輪に、もう片方の手を有希の肩に置いてそっと口付ける。唇を触れさせるだけの軽いやつだ。
 5秒くらいして唇を離すと、有希がゆっくりと目を開けた。
「……昼ご飯」
「そうだな、ちょっと休憩だ」
 キスをした直後に発する言葉としてはあまりにも情緒のないものだったが、それでいい。
 何というか有希らしい発言で、俺はそれが嬉しかった。こいつにもちゃんとこいつらしさってものがあるんだ。
 それに、俺もそろそろ腹が空いてきた。三大欲求には逆らっちゃいけないのさ。


 意外なことに有希が海の家で注文したのは焼きソバとフランクフルトだけだった。もっと注文するかと思ったんだが。
「あなたにあまり負担をかけたくない」
 そう言って有希は俺をじっと見つめる。デートで男が女に奢るってのはセオリーみたいなもんだろうと思い、俺が奢ると言ったらこうなった。
 実際負担になってるのは俺の方なはずなんだけどな……。この目で言われると何も言えなくなる。
「わたしはあなたのことを負担だと感じたことはない」
 有希が否定する。
「あなたは、わたしの拠り所だから」
 それは優しさから来る気遣いの言葉か――いや、違う。やっぱりこれもこいつの本心だ。
「あなたを感じられれば、わたしはそれでいい」
 ……多分、有希は何の気なしに言ってるんだろうな。あー、顔が熱くなってきた。この会話、他の客に聞かれてないだろうな。


「お待たせしやしたー」
 微妙にやる気のない声と共に焼きソバ2皿とフランクフルト1本が俺たちの座っているテーブルへと届けられた。とりあえず食う。
「美味いか?」
 特に意味はないが訊いてみる。
「……決してまずくはない。けれど、」
「ん?」
「あの家でする食事の方が、おいしい」
 有希のそんな言葉に、俺は何となく笑ってしまった。
「そりゃそうだろうな。みんなで食ってるんだし」
「……そう」
 有希はいまいち分かってなさそうな表情で焼きソバをちゅるりとすすった。分からなくてもいいさ。これから少しずつ分かっていけばいい。
 俺と二人でする食事の方がいいと言ってくれんかなと思ったが、まあ海の家の飯だしな。と思うことにした。
「…………」
 ふと有希の方を見ると手に持ったフランクフルトを何故か凝視していた。食わないのか?
「…………」
 ちらりと俺の方を見やる有希。
 ……おい、お前は何と何を比べてるんだ。


「……んぁ?」
「……起きた?」
 有希の顔が上から覗き込んでいる。……ああ、そうか。そういえば食後の昼寝をしてたんだったな。待っててくれたのか?
「そう」
 ん、ありがとな。わざわざ枕まで――枕?
「…………」
 頭部に感じる心地良い柔らかさと温度。それはテンピュール枕を遥かに凌駕した至高の枕と言って差し支えなく――
 つまるところ、有希の膝枕だった。
「おぅぁ、すまん!」
 谷口みたいなことを口走りながら俺は飛び起きた。と、
「…………」
 あ。
「…………」
 えーと、その。
「……なに」
 ……もう少し、頼む。
「…………了解した」
 負けた。誘惑にじゃなく。有希の寂しそうな瞳に。
 ……まあ、いいか。有希がそうしたいみたいだし、今はまだこの天国に浸っておこう……。


 結局あの後俺はしばらく眠っちまってたらしい。だが誰が俺を責められようか。あの枕で眠ったら誰だって起きられなくなる。そうだろ?だからって俺以外の野郎にこの立場を譲るつもりはさらさらないがな。
 もちろん自分だけ寝てたことは謝ったんだが、有希が嬉しそうな顔をしてたので深く考えないことにした。
 俺が起きてから海に入って遊んだ時間は1時間くらいしかなかったと思うが、それでも有希は満足したようだったのでよしとしよう。
 というわけで俺たちは早めに帰路につくことにした。何たって片道1時間の道のりだからな。自転車をこぐ体力も残しておきたかったし。
 何だか清々しい気分でペダルをこいでいた俺は、ふと気になって荷台の有希に聞いてみた。
「有希、楽しかったか?」
 背後で頷く気配がする。よかった、退屈はしてなかったみたいだな。
「多分、海かプールにはまたハルヒたちと行くことになるだろうけど、二人だけでってのもいいもんだろ?」
 背中にまた有希の頭の重みがかかる。腰に回された腕の力が少しだけ強まる。無言の肯定。
「また行こうな、二人で」
 押し付けられた頭がゆっくりと上下した。
 その感触を愉しみながら、俺はゆっくりとペダルをこぐ。早めに切り上げてきたからまだ日は高い。
 夕暮れ時だったら、もう少し雰囲気あったかもな。




 遠くの方で祭囃子が聴こえる。俺たちは神社の境内に腰掛けて出店で手に入れた食料を二人で分け合って消費していた。
 主に有希が。
 焼きソバ、たこ焼き、アンズ飴、チョコバナナ――ちょっとエロいなと思ってしまったのは内緒だ――と次々に平らげていく
有希の食欲は凄まじいが、むしろ俺にとっては安心材料だ。
 こいつがこうやって黙々と食欲を満たす作業に没頭してる時はこいつが元気だってことの証明だからな。
 今はもふもふと綿菓子の体積を着実に減らしているところだ。その仕草が何だか幼くて、思わず笑みがこぼれる。
「……なに」
「いや、有希は可愛いなと思ってさ」
「…………そう」
 いつもより長い沈黙の後に発せられる短い言葉。本当に可愛いやつだな、いい加減慣れろよ。
「お」
 そんなことを思っていると、ひゅるるるる……という音と共に光の球が上昇し、次の瞬間には派手な光と音を発して弾けた。
「始まったな」
「…………」
 有希も綿菓子を食べる手を止めて光と音の宴に意識を集中させる。
「やっぱ花火はいいな。日本の心ってやつか」
 多分、花火は帰ってからSOS団全員でも見ることになるんだろうが、二人きりで見るってことが重要だよな、やっぱ。
「……そう」
 花火の光が一瞬、浴衣姿の有希の横顔の輪郭をはっきりと形作る。……綺麗だった。
 花火よりお前の方が綺麗だなんて使い古されたような台詞を言えるほど俺はロマンチストじゃないが――
「綺麗だな」
「…………」
 そう言わずにはいられなかった。花火も、有希も、今この瞬間だけは、この世界の全てが美しいもののように感じられた。
 ……いや、ちょっとクサかったな。これからはもう少し気の利いた言い回しを考えよう。
「なあ有希」
「なに」
 有希が振り向く。黒い瞳の中に、花火と光が反射し、同じ色の光を宿す。
「お前今、幸せか?」
 それは聞かなくても分かること。だが聞かずにはいられなかった。

「…………」
 光が消える。有希が何も言わずに俺に近寄って、小さな頭を俺の肩に乗せた。
 花火を打ち上げる音が再び聞こえる。そして――
「……しあわせ」
 花火のはじける音に一瞬遅れて、小さな、でも本当に幸せそうな声が俺の耳に届けられた。
「……そうか」
 長門有希が、あの無口で無表情な読書人形だった宇宙人が、普通の人間のような笑みを浮かべて、
俺の傍に寄り添って幸せだと言ってくれてるんだ。こんなに嬉しいことはないじゃないか。
 俺は花火に視線を戻した。それに合わせるようにして有希も空を見上げる。
 今夜最後の、一番でかい花火が上がる。


 今までで一番豪快な音と光と共に、それは弾け飛んだ。


「終わり……か」
 光の余韻も消え、薄暗い境内を静寂が支配する。やっぱり花火の終わりってのは、名残惜しいもんだな。
 そんなことを思いながら、俺は寄り添ったまままるで眠ったように大人しくしていた有希の方を見た。
 不意に不揃いなショートカットが揺れる。


 こちらを振り向いた無表情な天使が、俺にしか分からない微笑みを浮かべていた。


 花火は終わっちまったが、俺たちの夏は、このハチャメチャな高校生活はまだ終わりじゃない。
 向こうに帰ったらまた、団長様に振り回される忙しい日々が始まるぜ。


 なあ、有希?


 END


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