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        新章:flower

「……さん、起きて! 起きてください!」

夢すら見ない眠りの淵、震度五くらいの地震でも発生したかと思える揺さぶられ方をして、俺は目を覚ました。覚ましたがいいが、それでも意識が朦朧としている。

「よかった、大丈夫ですか? わたしのこと、わかりますか?」

そこにいるのは……ええっと、喜緑さんか? ここはそれだと学校……いや、待て。そうじゃなくて……俺は……長門に……そうだ、長門だ!

「喜緑さん、長門は!? それより、今は何曜日の何時ですか!?」

ようやく意識がはっきりしてきた。ここはどうやら長門のマンションで間違いない。そこに何故、喜緑さんがいるのかまではわからないが、どうやら俺は長門に麻酔でも嗅がされて眠り続けていたらしい。あいつがそんな強硬手段に打って出るなんてな……油断した。

「すみません、もっと早くに来るべきだったんですが、長門さんの空間閉鎖と情報封鎖があまりにも強固で……今まで手間取ってしまいました」

いやいや、そんなことはどうだっていいんです。ともかく今が何曜日で何時なのかが問題なんだ。長門が言っていた改変される時間は……水曜日の十七時三十五分。それに間に合ってるかどうか以外はどうだっていい。

「今、水曜日の午後五時です。あの、」
「午後五時……」

あと、三十五分? ここから北高まで……走れば間に合うか? ギリギリだな。
長門のヤツめ、事が終わるまで俺を眠らせてここに閉じこめるつもりでいたな? 冗談じゃない。何も知らずに眠っている間に全部終わりました、って結末は望んじゃいないんだ。

「喜緑さん、ありがとうございます。助かりました」
「いえ、この事態はこちらの落ち度ですから。でも……個人的なことを言えば、このまま眠っていたほうがよかったかもしれません」

その意見には同意しますよ。確かに、あのまま寝てればよかったかもしれませんね。けれど、その代わりに長門が全部責任を背負うってのは納得できません。

「はっきり言っておきます。長門さんは朝倉さんをもう一度消すつもりです。ちょうど一年前と同じことを繰り返すつもりでしょう。でも……朝倉さんの目的はわかりません。いえ、感情を知ること、人になることと言うこれまで話した目的は確かにその通りなのですが、その先のことは……わたしたちにもわかりません」
「わたし……たち、というと」
「情報統合思念体です」

超高度な知性を持つそんな連中にすら理解不能な行動を取っているのか、朝倉は。いや。宇宙開闢の時代から生き続けている連中だからこそわからない……ってことか?

「長門には朝倉の目的がわかっていそうですね」
「あなたにも、わかっているんですか?」
「……予想だったら、いくらでもできますよ。すいません、時間がないんでもう行きます」

喜緑さんに一礼して、俺は長門のマンションを飛び出した。
ここから北高まで走るのか。しかも約束の時間に遅れるわけにはいかない時間制限付き。そのためにはたぶん、一時も休むことなく走り続けて、おまけに地獄のハイキングコースを全速力で駆け上る必要がある。
こんなことなら、日頃から体を鍛えておけばよかった。あまりにも非力な自分の体力の無さがうらめしい。
とは言っても、仕方ないことなんだ。SOS団は非公式の愛好会で、そりゃハルヒの我が侭に振り回されれば野球大会とかそういうのにも顔を出すが、日々、部室で古泉とボードゲームばかりしているんだぜ? どちらかと言えば文化系サークルさ。体力が著しく低下していても仕方ないだろ。
膝がガクガク震える。心臓が血液と酸素を体全体に送り込もうともの凄い速さで動いている。それでも酸欠気味になってるのか、頭がくらくらする。なんで短距離走の速度で三〇分以上走り続けなきゃならないんだ。
くそ、長門め。おまえが妙な気遣いをするからこんな苦労をするんじゃないか。そもそも、なんで俺が朝倉のためにここまで息を上げて走らなきゃならないんだ!? あいつ相手にそこまでする義理なんざ、ミトコンドリアのサイズほどもありゃしねぇぞ。

「はっ、はぁ……くっそ……はっ……いい加減に……ふっ……しとけよ……っは……宇宙人どもめ……っ」

心臓破りのハイキングコースを駆け上り、ようやく見えた北高の校門。ゴールが見えたことで気が緩みそうになり、足を止めそうになったが、ここで止まれば二度と動けなくなりそうだ。
時計を見る。長門が言っていた時間まであと一〇分も残っており、思った以上のベストタイムを叩き出した。これなら陸上部に入ってもそこそこの成績を残せそうだ。入る気はないが。
下駄箱で悠長に上履きに履き替えてる時間も惜しい。土足のまま校内に足を踏み入れ、階段を駆け上る。途中で誰ともすれ違わなかったのは、おまえの仕業なのか?

「朝倉ぁっ!」

窓から差し込む夕日が、教室内を朱色に染めていた。叩きつけるように開いた教室の引き戸は、そりゃもう盛大に響き渡った。
けれど黒板の前に立っていたそいつは、そんな音でビクリともせずに俺に背を向けて外を眺めていた。清楚そうな真っ直ぐの髪が、微かに揺れる。プリッツスカートから伸びる細くて白い足が、やけに目に付いた。

「今回は早かったね」

そこにいた朝倉は、俺の知る朝倉涼子だった。一年前、同じクラスのクラス委員をしていて、放課後に俺を呼び出して俺を殺そうとして、そして長門に消された朝倉だった。
言いたいことは山のようにある。聞きたいことだって尽きることなくあるさ。それでも……ああ、情けない。本当に情けないが、息が上がっている俺は二の句を告げられず、肩で息をしながらその後ろ姿を眺めることしかできなかった。

「大丈夫? 今にも倒れそうよ」
「はぁ……はっ、う……はぁ……るせぇ」

膝が折れそうになる。むしろ腰から崩れ落ちそうだ。地球の重力がこれほどまでに強烈だとは思わなかった。そう感じるほど、体が重い。教室の引き戸につかまってようやく立っていられる状態だった。このままぶっ倒れた方が楽になれそうだが、そうれはできない。

「なんで……おまえが……いるんだ……? ミヨキチは……どう……した」

ようやく言葉になって出た台詞がそれだった。朝倉はさも意外そうに肩越しに視線を寄越すと、俺の席を指さした。窓際の、後ろから二番目。一年のときと変わらない場所。そこに、くったりと意識を失っているミヨキチの姿があった。
普通ならミヨキチに駆け寄るところなんだろうが、さすがに足が動かない。息は整ってきたが、足が棒のように……というよりも、感覚がない。

「ミヨキチに何をした。あいつの中にいたのは、おまえじゃないのか?」
「あれもあたし。ここにいるのもあたし」

なんだそりゃ? ミヨキチの中にいたのも、今目の前にいるおまえも同一人物だとでも言うつもりか。

「まだわからないかなぁ。この体、作ってくれたのは涼宮さんよ」
「なん……」
「長門さんから聞いてない? 今のあたしは情報統合思念体とは関わりないスタンドアローンの存在。なのに何で『涼宮さんが情報爆発を起こしてくれればいい』って言ったと思う? この体を作ってもらうため」
「だからなんでそれがハルヒなんだ。あいつには、」
「想像を創造する力があるでしょう? 彼女が心の奥底から信じれば、それは実現するの。月曜日に話したじゃない。あたしが──朝倉涼子という個体が実在するかのように」

あれが……そうか、あの話か。ハルヒは朝倉の正体なんて知らない。カナダに普通に転校したと思っていただけで、それで……今ここに来て話を出されて、元気でやってるなんて思ったのか。それで朝倉の肉体が復活って筋書きか? 出来すぎな話だろ、それは。

「それだと、おまえが二人いることになるじゃないか」
「そ。だから、吉村さんは眠ってるの。ふたつの体と魂にひとつの心。三つそろわなきゃダメだから、片方が動いてるときはもう片方は眠ってるってこと。その辺りのことは……あなたが知っても仕方ないことだし、関係ない」
「関係なくはないだろ。ミヨキチはどうなる?」
「さぁ……どうなるのかな。心がない状態になっちゃうのかな? 死ぬ訳じゃないけど、あたしがいると眠り続けたままかもね」

眠り続けた……まま? 目を覚まさない?

「なんだそりゃ……。なんでおまえの代わりにミヨキチがそんな目に遭わなきゃならない!? あいつはハルヒと何の関係もないだろ? どうして巻き込んだ!」
「別にあたしが巻き込んだわけじゃないわ。彼女と共生関係になったのは、本当に偶然。それで……どうする? あたしがいると、あの子は目を覚まさないよね? じゃあどうすればいいと思う? なんて、聞くまでもないか。もうわかってるでしょ?」

そうかよ……やっぱりそうなんだな? そこまでお膳立てして、俺が拒否できない状況まで作り上げて、そこまでしておまえは……。

「俺に殺されたいってわけか」

ずっと考えていた。
情報統合思念体から切り離されたスタンドアローンの存在となり、人が持つ当たり前の感情を理解しようとして、かつて殺そうとした俺に近付き、自分のメインとも言うべき長門に観察される立場となり、そして人になろうとした朝倉涼子。
与えられたヒントは、順番通りのものではなかった。全部バラバラで、最後のヒント──喜緑さんの『その先のことはわたしたちにもわからない』という言葉を聞くまで、答えはわからなかった。
でも、俺があいつの立場になってみれば、すべての状況が一つの結論に帰結する。

つまり……死にたい。

その結論に俺が達した最初の切っ掛けは、あの未来人野郎の言葉だ。『朝倉が人になるその瞬間に残された野蛮な解決方法』とは、つまり殺すこと。
それを切っ掛けに、どうして殺さなきゃならないのか考えた。朝倉はかつて俺を殺そうとしたが、今は違うと言った。俺だって、いくらなんでも朝倉を殺したくはない。
でも、逆だった。
俺が殺すんじゃなく、朝倉が死にたがっている。結果は同じでも経過が違う。
スタンドアローンの存在になった朝倉は、親も兄弟もいない人間でもない、たった一人の存在だ。そして人の感情を理解すれば、孤独はとても耐えられない。しかも生き続けたところで、かつての同胞に観察されるモルモットのような立場でしかない。
喜緑さんや情報統合思念体に、その感情がわかるわけがない。感情そのものを理解してないからというより、『死』という概念そのものが欠落していれば、どうして自ら死を望むのかわかるわけもない。
けれど朝倉は人の感情を理解したからこそ、その結論に達した。
その命にどんな価値がある? と。

「でも何故だ。何故、俺なんだ!? どうして俺が……おまえを、」
「あなたが、あたしとこの世界を繋ぐ鎖だから」
「鎖……? だから、なんで俺が」
「恐怖にしろ、憎しみにしろ、あたしのことを忘れられずにいるのはあなただけ。あなたがいるから、あたしはいるの。よくわからない? ま、それでいいと思うよ。どちらにしろ、あなたがすべきことはひとつだけだから」

ゆっくりと近付いた朝倉は手を握り、俺の手に何かを握らせる。
ナイフだった。
今から一年前のこの日、この時間、朝倉が俺に斬り付けてきたナイフ。それと同じものを、俺の手に握らせる。

「躊躇うことなんてないよ」
「やめろっ!」
「あたしがいなくならないと、あの子は目を覚まさない」
「やめろ」
「だから、あたしを──」
「……やめてくれ」
「──殺して」

そうすることが『当たり前のこと』と錯覚させるような甘い響き。突き放そうとしても、それができない。まるで呪言のように朝倉の言葉が俺の体を自由を奪う。自分の意思とは裏腹に、ナイフを握る腕だけが不自然に動く。
朝倉の胸にナイフを突き立てようとする……そのとき。
衝撃音と共にナイフが砕け、俺と朝倉の間を駆け抜けたそれの衝撃波で互いが吹き飛んだ。何が起きたのか瞬時に理解できるほど、俺はそこまで冷静ではいられなかった。ただ、それのおかげで朝倉の呪縛から逃れられたのは間違いない。
首を巡らし、窓の外に目を向ける。そこに、俺は見た。隣の校舎から狙撃銃を構える、北高の制服姿の長門を。
その長門は、あろう事か窓枠に足をかけたかと思うと、一足飛びでこちらの教室まで飛び込んできた。

「ちょっとやり過ぎじゃない?」

このときばかりは俺も朝倉に同意する。が、乱入してきた長門に驚きも困惑も見せない朝倉が不気味と言えば不気味だった。

「あなたを止めるためには仕方がないこと」
「止める? あたしを? 長門さんには無理。あなたには、あたしの情報連結を解除することしかできないもの。殺すことはできないでしょう?」
「そう。一年前と同じことの繰り返し」
「それならわかるでしょう? あたしを消しても、また来年同じことが繰り返されるだけ。延々と続くだけ」
「それでもかまわない」

凛とした長門の声に、初めて朝倉の表情から笑みが消える。代わりに浮かぶ表情は、驚きか戸惑いか。よほど長門の言葉が意外だったんだろう。

「やめてよ、そんなこと言うの」
「やめない。あなたはあたしのバックアップ。あたしの影。だから、あなたを受け入れなければならないのはあたし。そして、あなたが本当に望むことはわかっている」
「それはウソ。長門さんにわかるわけがないわ」
「わかる。あなたが真に望むのは死ではない。あなたが望むのは自己の完全な消滅。存在そのものの消失。誰の記憶にも残らない、真の意味での『死』。あなたは、あなたを強く知る彼に忘れてほしいだけ」
「そう……そうね。驚いた。長門さん、よくわかったわね。だから、」
「でも、違う」

長門の言葉を受け入れようとする朝倉の声を遮って、長門は続ける。

「あなたには別の願いもある。世界のすべてから忘れられることを望み、けれど彼だけには覚えていて欲しいという願い」
「……なによ、それ」

口では否定する朝倉だが、その表情には隠してきた本心を暴かれているような悲愴なもの微かに浮かぶ。
長門が言ってることは、もしかするとかなり残酷なことなのかもしれない。他人には知られたくない、朝倉の心の奥底の暗い部分をさらけ出しているようなものかもしれない。しかもそれが的を射ていれば、耳も塞ぎたくなる。聞きたくはない。

「あなたが人になるというのであれば、人は一人では存在できない。自分を認識する他者が必要。あなたはそれを彼に求めた」
「違うわ。あたしはただ、」
「自分を認識し、必要としてくれる存在を求めた。それは……あたしと同じ」
「違うって言ってるでしょう!」

声を荒げ、朝倉の叫びが木霊するとともに教室内の見慣れた風景が一変した。もう、まともな空間でもなんでもない。幾何学模様と化して湾曲し、渦を巻いて踊っている。一年前と同じだが、今になって見ればこれは、朝倉の不安定な心の中を表しているかのように思える。

「長門さん、無駄なお喋りもそこまで。ここにあなたが来てくれたことは有り難いわ。ここはすでにあたしの情報制御空間。おまけに情報統合思念体との連結もできない。スタンドアローンのあたしはあたしだけの能力でここにいることができるけど、長門さんは情報統合思念体との接続が切られた状態ではまともに動けないものね」

その言葉で俺の脳裏に蘇るのは、冬山で遭難しかけた事件のこと。いまだ姿を現さない新手の宇宙的情報体がハルヒ相手に吹雪きの挨拶を送ってきたとき、自身に負荷を掛けすぎてぶっ倒れた長門を思い出した。
ここが、あの雪山の館と同じような『閉じられた空間』だとすれば、長門は……。
長門は、それでも平然としていた。

「あなたはあたしの影。だから、その行動のすべてを理解している。この行動も予想の範囲内」

長門は、すでに元の空間とは掛け離れた状態になっているが、元は窓があっただろうその方向を指さした。

「そのための、楔」

ピシっと音がした。パキッだったかもしれない。そんなガラスにヒビが入るような音とともに、異常空間が瞬く間にもとの教室の姿に戻った。あの狙撃には、そういう目的があったのかと今になって理解することができた。
あまりにも呆気ない展開に俺は拍子抜けしたが、朝倉にしてみればそれどころの話ではないのだろう。

「全部……お見通しなんだ」

妙にさばさばした表情で、朝倉は嘆息した。これでもう万策尽きた……のか? いや、こいつはまだ、改変を行っていない。それを行うことで朝倉は人になり、それで俺が……それが未来人野郎が期待している筋書きじゃなかったか?

「へいき」

そんな俺の不安を、長門はあっさり払拭してくれた。

「すでに対抗プログラムは待機中。改変直後に修正される」
「さすがだね。事前にあたしが行うことを予期できていれば、その対抗プログラムも準備しておけるものね」

何か──変だ。朝倉は、呆気ないほど長門の抵抗を受け入れている。これじゃまるで、朝倉の方も長門がこうすることを知っているかのように……だとすれば、それなら──まさか!

「長門、ダメだ! 朝倉に時空改変をさせるなっ!」

時刻は十七時三十五分。長門が俺に告げた、時空改変の実行時間。一秒の狂いもなく、それは行われた。俺にでもわかる形で。

「朝倉っ!」

きらきらと。
きらきらと光って舞う結晶の粒。海の中に降る雪のように、朝倉の体を象るすべてが光の粒になって周囲に拡散していくように、輝き散っていく。
俺が動くより先に、長門は動いた。その表情は普段では決して見ることができないほど、どこか強張っている。朝倉が何をしたのか、事ここにいたり気づいたようだ。
もちろん、俺も朝倉が何をしたのかすぐにわかった。
一目瞭然だ。
それは、ただの自殺だ。

「朝倉……なんで、そんな……ふざけるなよ! 散々、俺を引っかき回して勝手に消えるつもりか! そんなの俺は認めないぞ。認めてたまるか!」
「なんだ……やっぱりあなたには、すぐ気づかれちゃうのね」

駆け寄って、手をつかむ。かくん、と朝倉は膝を崩し、倒れたところを抱き留める。その手の隙間から、朝倉を形作るものがさらさらと流れていくような──命が削られていくような──そんな錯覚を覚える。

「おまえも……ここまで予想してたな。長門がここまでするとわかっていて、長門が用意した対抗プログラムってヤツに何かしただろう!? くそっ。長門、何が起こったんだ? これをなんとかしてくれ!」

さらさらと消えゆく朝倉を前に、長門は身をかがめ何かを高速で呟いたように見えるが、すぐにその口を閉ざす。
「改変プログラムそのものにトラップが仕掛けられていた。対抗プログラム実行が自壊プログラムの実行キーとなっている。でも、これは……どうして?」
「これが、あたしの望みだもの」

なんだ、どういうことだ? まさか、長門でも……止められない? 止められないように仕組んでいたのか? そういうことなのか、朝倉。なんでそこまでして自分を……何故だ!?

「あたしは……誰かの代わりになるのは嫌。誰かの思惑通りに動くのも嫌。それに……思い出で語られるのも嫌」
「何を……」
「だから」

掴んでいる朝倉の手に、力が込められる。熱を帯びた指先が、俺の皮膚に食い込むほどの強い力で握ってくる。

「あたしのことは……忘れて」
「誰が……誰がおまえの言うことなんて聞いてやるか」

何が『忘れて』だ。殊勝なこと言うなよ。だったらなんでこんな強く俺の手を握るんだ。忘れて欲しければ、今になって俺の前に出てこなければよかったじゃないか。

「おまえが忘れろっていうのなら、俺は死ぬまで覚えているぞ。おまえがこのまま消えたいっていうのなら、俺がハルヒをけしかけて復活させてやる。おまえの喜ぶことなんて、誰がしてやるか。だから、」

だから、なんでそんな笑っていられるんだ。前もそうだ。前も消えるとき、笑っていた。今もそうだ。そんな……何でもかんでも受け入れたような顔を見せないでくれ。

「ありがとう……でも」

ふぅ……と、吐息がひとつ。音もなく溢れてこぼれる涙は、たった一滴。
──いかにも、朝倉らしい。

「でも、もういい。あなたから、思い出をもらったから」
「何を……」
「この数日……捜してくれて、ありがとう。側にいてくれて、ありがとう。手をつないでくれて、ありがとう。あたしは今、人になるんじゃないわ。あなたが側にいてくれた数日間だけ、人になれた」
「俺は……何もしてない」

その言葉に、朝倉はわずかに首を横に振る。

「もし……次に朝倉涼子が現れても……それはあたしじゃない。今ここにいるあたしは、これで消える。あなたに『ありがとう』って言えるあたしは、もういない」
「何が……ありがとう、だ」
「ああ、でも……ひとつ、忘れてた」

紅茶に落とした角砂糖のように、足下から消えゆく朝倉の姿はもう、上半身まで崩れて消えていた。握る手の平の感触も儚く、支える体の重みも真綿のように軽い。それでも、朝倉は微笑んでいる。

「手紙の返事、聞いてなかったな……」

何が……そんな……くそっ。なんで俺が朝倉のために泣かなきゃならないんだ。泣いてたまるか。こいつに散々引っかき回されたことを思えば、泣いてる場合じゃない。

「返事なんて、聞くまでもないだろ」

それは、精一杯の強がり。

「おまえなんか……大っ嫌いだ」
「だよね……」

音もなく、ただ静かに。

「……ありがとう」

その言葉を残して、朝倉は俺の手の中で消えた。光となって、弾けて消えて……その姿はまるで、つぼみが花開き、そして散るように──。

そう……思えた。


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