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        新章:betrayer

パシィ……ンッ! と、乾いた音が室内に響いた。
こればっかりは神に誓おう。八百万の神に加えて古泉が言うところのハルヒ神に誓ったっていい。俺が殴ったわけじゃない。そりゃ今の一言には頭に来たが、映画撮影のときの経験から、どんなに頭に来ても女は殴らない方が穏便に事が進むことを学習しているんだ。
美代子を殴った……というか、平手打ちを食らわせたのは、喜緑さんの方だ。

「そのくらいで、もういいと思うけど?」
「……そうね、もう帰るね」

喜緑さんに叩かれた頬は、そんなに強い力だったわけではないが、色白な肌を朱に染め上げるには十分な威力だったようだ。けれど美代子は、頬に痛みを感じているのかいないのかわからない態度で戸口に向かい、ドアが慎ましやかに開閉する音と共に外へ出て行った。

「ごめんなさい、嫌な思いをさせて」
「喜緑さんが謝ることじゃないですよ。悪いのはあいつです」
「その謝罪ついでに……と言ったらあれですけど、彼女を追いかけてあげてくれませんか」
「そりゃ無理ってもんでしょう」

ああいう口の利き方をされて、さっさと一人で帰るヤツを追いかけてどうするって感じなんですがね。俺はそこまで人間できちゃいませんし、ああいうヤツには聖人君子でも塩を撒くってもんですよ。撒くってもんなんですってば。だからそんな目で俺を見ないでください。

「別に追いかける気はさらさらありませんが……そうそう、ひとつ忘れてました」
「何ですか?」
「あいつに携帯返すことです」
「ああ……そうですか」
「そうなんですよ」

だからそんな笑顔を見せないでください。

「長門が帰ってきたら、よろしく言っといてください。……そうだ」

もうひとつ、忘れていた。ここで喜緑さんに会えると思っていなかった上に、すっかり話し込んでいたからなぁ。
俺は財布から千円を取り出して、テーブルの上に置いておく。借りた金は返せるときに返した方がいいって婆ちゃんに言われていてね。

「別に今じゃなくても」
「どうやら俺は奢られるより奢るタイプらしくて、人から借りたままってのは落ち着かないんですよ。それじゃまた」
「ああ、待って」

部屋を出ようとする俺を、喜緑さんは呼び止めた。まだ何か伝え残したことでも?

「最後に、ひとつ。今回の出来事に敵はいません。ですが、すべてあなたの味方というわけでもありません。あなたの味方が誰なのか……言わずとも、おわかりですよね?」
「……喜緑さんは、味方ですよね?」
「いいえ、違います」

あぁ……そういうことを言いたいのか。

「それならもう、わかっていますよ」

長門の部屋を出てエレベータに飛び乗り、マンションの玄関口から見える外は、夜の帳にすっかり包まれていた。よくよく考えれば、小学生が一人で出歩いていいような時間でもない。
やれやれ。あいつを気に入ろうが気にくわなかろうが、小学生をほっとくわけにはいかないよな、常識ある高校生のお兄さんとしては。

「遅いよ」

追いかけるまでもなかった。マンションから出てすぐの所で、美代子は待っていた。さも俺が追いかけてくるのがわかっていたかのような待ち伏せに、こいつの思い通りに動いているよな自分が情けなくも頭に来る。

「予め言っておくが、別におまえを追いかけて来たわけじゃないからな」

携帯を投げ渡しながら、せめて自分のスタンスだけは貫いておくためにそう言うと、美代子は声に出さずに笑った。

「わかってるよ」

わかっているなら、その笑顔は何なんだと聞きたいね。俺がこうやって追いかけてくるのも、おまえの思惑通りってわけか。

「思ってないってば。今のあたしに、そんなことできるわけないじゃない」
「どうかな。今も昔もおまえは信用できない。さっきのおまえの言葉じゃないが、自分でそう言ってるだけで、実際はどうなのか俺にはわからないからな」
「信用ないね、あたし」

人に信用されたかったら、もうちょっと信じられる行動を取れと声を大にして言いたい。腹に一物抱えた言動ばかりじゃ、俺でなくたって眉間にしわを寄せるさ。

「それより帰るぞ。送ってやる」
「送ってくれるの?」
「送るのはミヨキチだ」
「そっか」
「そうさ」

何か言いたそうだが、それを親切に聞いてやるつもりはない。
俺が歩き出すと、後ろから着いてくる気配が伝わってくる。前も思ったが、どうしてそう、目の見えないところを歩きたがるんだ。一度刺されている身としては、気が気じゃない。

「あのな」

立ち止まって振り返った瞬間、「きゃっ」と短い悲鳴を上げて、美代子は俺の胸の中に飛び込んできた……のではなく、頭をぶつけてよろめいた。後ろは後ろでも真後ろかよ。俺の背後霊になって歩き回るのは、長門だけで十分だ。

「急に立ち止まらないでくれる?」
「そっちこそ黙って後ろを着いてくるな。いつ刺されるかわかったもんじゃない」
「何それ? だからあなたを殺すつもりなんてないわ。それとも、刺されたいの? 涼宮さんにいじめられて、変な趣味に目覚めちゃった?」
「んなわけあるか。だいたい俺はいじめられてるわけじゃねぇ。おまえみたいなのが目の届かないところにいるのが落ち着かないだけだ。歩くなら横か、前を歩け」
「気にしなくていいじゃない。どこを歩こうがあたしの勝手でしょ」

ああ、なんつーか可愛くねぇ。しかも見た目がミヨキチだから余計に切なくなる。
前は素直でいい娘だったのになぁ……朝倉が中に入るとこんなのになるのか。おとなしい幼なじみと久しぶりに会ったら、健康優良不良少女になってたっていうくらいショックだ。

「とにかく、おまえが前を歩け」
「もう。目の届く所にいればいいんでしょ」

まるで俺が我が侭を言って困らせているかのようなため息を吐かれて、美代子は遠慮がちに俺のシャツの袖を指でつまんだ。
その物言いと態度とは裏腹に、生まれたての赤ん坊ハムスターをつまみ上げようとしているようなささやかな力加減に、いつかどこかで体験したと思える妙な既視感を感じる。

「これで満足?」
「え? あ~……まあ、うん」
既視感の正体が何なのか思い出せそうなところで話しかけられて、指の隙間から水が漏れるかのごとく、モヤモヤとした感情だけが頭の隅にこびりつく。
懐かしく、切ない。子供時代の思い出のような気持ち。
俺の頭の中には何故か、おとなしくて人見知りの激しい、この世界にはいない少女の姿がちらついた。


「こんばんは」

と、声をかけられたのは人気の途絶えた住宅街を歩いていたときのこと。街灯の下、電柱の影から現れた一人の野郎の姿に、俺は肩をすくめた。今日はいろいろ世話になったが、このタイミングで顔を合わせたくない相手だ。

「仲がよろしいですね。涼宮さんには見つかったらただ事じゃ済みませんよ」
「別に悪いことしてるわけじゃないだろ、それより、今日はいろいろ面倒かけたな」
「些末なことです。《神人》を狩ることに比べたらね」

ふっ、と息を漏らすように笑い、古泉はわずか二~三歩近付いてから俺の隣にいる美代子に目を向けた。その美代子は、古泉がいることを予め予想していたかのように平然としている。

「無事に見つけることが出来たようですね。まずは一安心といったところでしょうか」
「一安心ねぇ」

俺が美代子を見つけて一安心とこいつは言うのか。何を基準に「安心」なんて言葉を使うのか知らないが、俺が知っている情報で俺自身の立場を鑑みて、さらに古泉の立場に立つとそんな言葉は口が裂けても言えないね。

「はて、何のことでしょう」
「今日おまえは、俺を狙撃したのが朝倉かもしれないと言ってたな。しかも高確率で……だっけ? 俺とおまえの立場が逆だったら、そろって歩いてる姿を見て『一安心』とは言えないね」
「僕はこれでもあなたを信用しているんですよ。あなたが一緒にいるということは、何ら問題がないということでしょう? あなたももう少し、僕のことを信用していただきたいものです」
「それならしてるさ。SOS団の頼れる副団長、古泉一樹さまだ。もっとも、『機関』の古泉一樹は信用できないね」
「難しい話ですね」

ひょい、と肩をすくめて、古泉は俺との会話はそれまでと言わんばかりに会話を打ち切り、美代子へ視線を戻した。

「改めて、はじめまして」
「そうね、挨拶はそれで正しいわ。前は顔を合わせたこともなかったものね。それで、何が知りたいの? それとも、欲しいのかしら?」
「個人的な意見を言えば、僕は興味がありません。放置しておくのが──」

スッと、古泉の視線が俺に注がれる。

「──最善と考えています。ですが、そうも言っていられないようで」

シチュエーションがそれなりにはまっていれば、頭の中がフワフワしてる女をたらし込めそうな笑顔を見せる古泉に、美代子は物珍しい怪生物を見るような視線を向けている。どうやらこの二人の頭の中では会話が成立しているらしい。それを推測するのは、やや面倒だ。頭の中身の作りからして、この二人と俺とじゃ違うようだしな。
それでも、ひとつだけわかったことがある。

「朝倉さん、あなたが一人でいるのは『機関』として都合が悪いようです」

友だちの友だちは、味方じゃないって話はどうやら事実のようだ。
古泉の後ろに姿を現したのは、多丸さん兄弟。背後に気配を感じて振り向けば、そこには森さんと新川さんまでいらっしゃる。顔見知り全員がここにいるってことは、見えないとこで俺の知らない『機関』の人間が見張っていそうだ。逃げ場なしじゃないか。

「できれば説明が欲しいところだな。おまえがしてくれるのか? それとも、森さんですか?」
「我々の望みは現状維持です──と、以前伝えたことを覚えておられますか?」

と、俺の問いかけに答えてくれたのは森さんの方だった。古泉は説明役を森さんに譲るつもりらしく、だんまりを決め込んでいる。

「大きな変革をもたらす存在は、いささか目に余るのです」
「それで、どうしたいんです?」
「こちらの提案は、すでに申しました」

美代子の身柄を預けて事後処理のすべてを『機関』に任せる……ってヤツか。
確かにそりゃいい話だ。そもそも、朝倉が持ち込む厄介事を、そいつに殺されかけた本人たるこの俺が、胃をキリキリさせてまで背負い込む理由なんて微塵もありゃしない。ここであっさり縁が切れて、平穏無事な日常が戻ってくるなら万々歳ってヤツだ。
長門のマンションに行く前だったら、間違いなくそうしてるね。いや、今でもそうすべきだと考えている。だから、あとは『機関』でも何にでも任せるべきだ。
べきなんだがなぁ……平然とした面をしてるくせに、袖を握る美代子の手が俺の決心を鈍らせる。掴まれていなければわからないほど微かに震えてさえいなけりゃ、後はよろしく、って言えるのにな。まったく、これだから嫌なんだ。

「ハルヒと同じ扱いじゃダメなんですか?」
「涼宮さんはご自身の能力を把握しておられません。ですが、朝倉さんはご自身の価値を理解されています。だからこそ、道理に逸れると思われる手段を取らなければならないのです」
「価値?」
「彼女は長門有希さんを作り出した地球外意識体の情報と知識を、我々人類のレベルで把握できる程度の情報として記憶しています。朝倉涼子としての記憶があるのだから、間違いないでしょう。その知識を悪用されたくはないのです」

それで美代子は古泉に「知りたいのか、欲しいのか」と聞いたわけか。

「我々『機関』に敵対する組織がいることも、貴方はご存じのはず。彼女がそちらの手に渡る危険性もあります。その前に、我々で保護できればと考えております」

なるほどね。そりゃこいつのことだから、ハルヒの側にいる『機関』じゃなくて、事態を引っかき回したいって理由だけで敵対組織にいろいろ情報提供しそうだな。俺でも思いつく危惧を、『機関』の方で考えつかないわけがない。

「でも、『機関』がこいつの知識を悪用しないとも限りませんよね?」
「我々は貴方の味方だと──その言葉が必要でしょうか」
「必要ありませんよ。俺は誰が味方なのか、十分心得ているつもりです」
「では」
「美代子は渡せません」

その言葉を俺が口にした瞬間、街灯が細々と周囲を照らす、薄闇の世界が一変した。
黄土色の靄がたなびき、地平線のその先が見えない平坦な世界。いつかどこかで見たことのあるこの世界に何故、俺や美代子、さらに『機関』の面々がいるのかさっぱりわからん。
ああそうさ。これは当然ながら俺の仕業じゃない。こんなことが起きることすら予想していなかった。それは腕にしがみついてきている美代子も同じ。だからこいつの仕業でもない。
かといって、こんな異常空間を作り出す技術が『機関』にあるとも思えない。森さんも驚いている風であり、誰もが驚愕の面持ちで周囲を見渡している。

そして。

そんな中、小規模ながらも爆発が起こり、砂塵が舞えば混乱はさらに広がる。視界を奪うには十分な砂が宙を舞い、その瞬間、グイッと力任せに引っ張られて俺は尻餅をついた。

「ってぇな!」

手に触るのは、冷たいアスファルトの感触。今の一瞬の出来事がすべて幻であるかのように、周囲は代わり映えのしない住宅街が広がっていた。ただ、違っていることもある。
俺の側には、森さんを含む『機関』の面々は一人もなく、側には美代子とそして──。

「ああいう切り抜け方をするとは思いもしませんでしたよ。あまりのことに、やや乱暴になってしまいましたね」

SOS団の頼れる副団長さまの、からかうようなニヤケ面があった。


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