好きな人は居ますか。
 好きな人は幸せですか。
 好きな人に「世界とわたし、どちらが大事?」と訊くことは出来ますか。

 ……今日も彼が彼女の世界の内側に入っていきます。
 彼女にとって世界で一番大事な人は彼ではないけれども、彼は、彼女の世界に入る資格を持った一人ですから。
 わたしは今日もまた、世界の理不尽さをかみ締めながら、彼を待っています。
 大切な人が居るというのなら、その人とだけの世界を築いて、どこかへ消えてしまえば良いでしょうに。
 それなのに、彼女は今日もまた、彼を呼び寄せるのです。
 彼もまた、彼女の心の世界に向かうのです。
 世界を守るために……、そして、彼女を守るために。

「お帰りなさい、古泉」
 わたしは出来るだけ何気ない表情、所謂営業用の笑顔というものを作りながら、今日も彼を迎えます。
 ほんの一時期離れていたこともありました。でも、それでは駄目でした。
 彼が彼女のために起こすイベントのための人員を求めていると知ったとき、わたしは周囲に手を回して、彼がわたしに頼ってくれるよう仕向けました。
 彼は多分、何も知りません。何も気づいていません。
 そしてわたしは、出来るだけ不自然にならないようにした上で、もう一度彼をサポートする立場に戻りました。
 わたしはわたしの私情交じりのこの選択を、決して間違ったものだと思っては居ません。
 彼をここまで導いたのはわたしなのですから。
 わたし以外の誰が、彼の傍に居ることが出来るというのでしょう。
 彼女に毒されそうになっている彼を、わたし以外の誰が救えることが出来ると言うのでしょう。
「森さん……、何時もすみません」
「いいえ、気にしないで」
 わたしは古泉と共に『機関』が借り上げているマンションへと車を進めます。
 古泉とわたしが暮らすのは同じマンションの別の部屋。でも、わたしが自分の部屋に居る時間はあまり長くありません。
 わたしの居場所は、たった一つ。
 古泉の隣、その場所だけなんです。

 こころも、からだも。

 孤独と戦いを強いられる少年の心に触れたいと思ったそのきっかけは、果たしてなんだったのでしょうか。
 重ねた体と交わす熱が全てを溶かしてしまえば良いと思いながらも、わたしの心の片隅では、今日もまた、変わることの無い現実に関する意味の無い思考がくるくると回っています。
 くるくると、くるくると。
 答えも無く回り続けるだけと言うのならば、いっそ、その始まりさえなければ良いのに。
 時間を飛び越えるように、この思いの全てで、始まりも終わりも関係なく、その全てを覆ってしまうことが出来たら良いのに。
 それなのに、それなのに、
「今日、学校でのことなんですけど、」
 それなのに、どうして彼はわたしにこんな話しをするのでしょう。
 こんなに楽しそうに、彼女の話をするのでしょう。
 世界中の誰よりも嫌っていたはずの彼女のことを、どうして、今は、こんなにも愛おしげに語ることが出来るのでしょう。
「楽しそうね」
 わたしにとっての唯一の救いは、古泉にとってのそれが恋ではないことを知っているということでしょうか。
 焦がれるような恋ではない、ただ、見守るだけの愛情。
 妹を見る、兄にような。
「ええ、楽しいですよ」
 けれどそれがどこかで決壊してしまうことを、わたしは恐れているのです。
 だって、わたし自身がそうだったのですから。
 見守るだけ、育てるだけ、それだけのつもりだったのに……、わたしはもう、この場所から離れられない。
 年齢とも立場とも無関係に、わたしは彼を求め続けている。
 肌を重ねても遠い古泉のその心を、わたしはずっと欲している。

 ねえ、どうしたら、あなたに届きますか?
 どうしたら、もう一度、わたしを頼ってくれますか?
 わたしでは、あなたの世界にはなれませんか?

 あなたは、この世界が、そんなに大事ですか?


 ****
 傍らで眠る森さんの横顔を見ながら、僕は小さく溜息を吐く。
 一番最初に手を引いてくれた彼女は、何故かもう一度僕の傍にやって来た。
 「まだまだ詰めが甘いですね」という彼女の言葉が、耳に痛かったのを覚えている。
 確かに僕は、詰めが甘いのかも知れない。
 孤島での事件も、結局見破られてしまったし……。
 不甲斐ない僕を見て、森さんはどう思っているんだろう。
 どう、ということに意味なんてなくて、これは彼女にとってはただの任務なのかもしれないけれど。
 学校外での僕の生活の殆ど全ては、彼女の掌の内側だ。
 肌を重ねることですら、多分、僕を縛る以上の意味は無いんだろう。
 表向きは、凄く優しく見えるけれど……、その裏側とか、内側がどうなっているかというのは、あんまり考えたくないかも知れない。
 時々甘えるような振りを見せる僕を、彼女は叱らない。ただ、受け止めるだけだ。 
 それはきっと、それが『必要』なことだから。
 僕が、この世界を構成する歯車の一つだから。

 多分、そういうことだから。


 終わり


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