携帯が鳴った。ディスプレイの発信人欄はそれが『機関』上層部からの緊急通信であることを告げていた。
「失礼します」
僕、こと古泉一樹は他の団員にそう告げると部室を出て廊下に移動してから、携帯を広げた。
「古泉ですが」
「暗号モードで通信する必要がある」
「了解」
携帯の暗号モードを起動するために一連のコードを打ち込んだ。
「暗号モードに変更しました」
「時間が無いので、一度しか言わない。また、以後、通信は封鎖する。本日、午後5時までに、涼宮ハルヒを抹殺するように。詳しいことは説明できないが、本日午後6時に涼宮ハルヒは大規模な閉鎖空間を発生させて、そちらに移行することが解った。現世界は涼宮ハルヒ移行後1時間で消滅することも解っている。この情報は朝比奈みくるの所属機関、および、統合情報思念体からもたらされたものであり、複雑な事情により、朝比奈、長門の両名はこの任務を遂行できない。また、この決定についても知らされていない。この決定は当機関を含む3つの組織の合意のもとに決められたものであり、任務遂行について外部からの妨害、ないしは、助力はいずれも存在しない。世界の運命は君の双肩にかかっている。この任務に関するいっさいの行為に対して、殺人罪を始めとする全ての刑罰は適応除外となり、民事上の賠償責任その他も一切生じない。つまり、平たくいえばだ、古泉君。いかなる手段を用いてもいいから午後5時までに独力で涼宮ハルヒを殺せ、ということだ。君を選んだ我々を失望させないことを祈っているよ。以上」
「ちょっと……ちょっと待ってください!」
しかし、電話は既に切れていた。こちらから緊急モードにアクセスしても反応は皆無だった。ついに来るべきものが来た。この「任務」に着いたときから、可能性としてはこれが起きうることは最初から解っていた。機関の目的は現世界の維持であり、涼宮さんがその目的に反する場合は抹殺をためらわないだろうと言うことも最初から解っていた。
が、それはあくまで、理論上の話だ。現世界の創造主たる涼宮さんの殺害は、現世界安定に対して、致命的な影響を及ぼす可能性があり、避けるべきことだった。おそらく、機関は、いずれにせよ、今日の午後7時で消滅する現世界を救うために賭けに出たのだろう。どうせ消滅するなら失うものは無い。涼宮さんの移行を阻止することでわずかな現世界の存続の望みに賭けたのだろう。
しかし、まさか、この僕自身が涼宮さんの殺害を担当するとは思っていなかった。僕の任務はあくまで、涼宮さんの観察、状況報告、そして、閉鎖空間出現時の対処に限られていたはずだった。
「おーい、早くしろよ」
そう、ゲームの途中で自分の番なのに席を立ったのだった。極力冷静を装いながら部屋に戻る。
「なんだったんだ?」
「いえ、機関への定時連絡を失念しておりまして、おしかりを受けたところです」
「機関って何よ。怪しいわ」
涼宮さんの鋭い視線が突き刺さる。しまった、冷静どころかひどい動揺ではないか。

なんたるざまだ。
「こいつのバイト先だよ。なんとか機関とかいう大げさな名前なんだ。大して大きな会社でもないくせに、名前ばっかり大げさでな」
彼が、すかさずフォローする。涼宮さんに機関のことを知られてはまずいという認識はこの部屋にいる涼宮さん以外の全員が共有している。
「涼宮さん、はい、お茶です」
朝比奈さんがすかさずお茶を出し、驚いたことに長門さんが自ら
「あなたのもっている本に興味がある」
などと、涼宮さんに話しかけた。機関の話はそれで終わった。
「どうしたんだ、古泉、どうかしてるぞ。ハルヒの前で機関の話をするなんて。何かあったのか?」
なんたる失態。
「いえ、なんでもありません。ここ長いこと、無事平穏だったので、つい気が緩んでしまって」
「しっかりしろよ、おまえらしくない」
彼は再びゲームに戻った。僕は完全にうわの空だ。今程、真剣にやっても負け続ける自分に感謝したことは無い。ゲームから意識をそらして大負けしても疑われない。
僕が、涼宮さんを殺す? ……ははっ。とてもできそうにない相談だ。ふと、時計を見ると午後3時を既に回っており、5時まで2時間もない。SOS団の活動が終わるのは何時だろうか? ……この部屋で涼宮さんを殺害するなど問題外だ。彼女の運動神経からしたら、二人っきりでこちらが凶器をもって襲いかかったとしても、首尾よく目的を達成する前にこの部屋からにげられてしまう可能性は高い。まして、彼と長門有希と朝比奈さんがいる状態では涼宮さんを殺害できる可能性はほぼゼロに等しい。
いや、これでは、閉鎖空間に涼宮さんと二人っきりで閉じ込められた彼と同じだな。現実逃避している。今の自分はあの時の彼と同じ様に現世界を救うかどうかの全責任をおわせれているのだ。最大の違いは、彼にとっては現世界と涼宮さんの命が二者択一ではなかったという点だが。問題はそんなことじゃないだろう、古泉一樹。問題は、そもそも、お前に涼宮さんが殺せるか、ということだ。仮に何の障害もなく、やすやすとそうすることが物理的に可能な状況にあるとしても。お前にできるのか、一樹?
「おい、はやくしろよ、お前の番だぞ」
「これは失礼しました」
と、僕が言ったちょうどその時、涼宮さんが携帯を取り出すと、突然、会話を開始した。
「あ、はいはい、え、いいけど、今? あ、はいはい」
携帯を切った涼宮さんに彼が尋ねる。
「誰だよ?」
「んなことはどうでもいいでしょ! ちょっと出てくるから。帰らないで待ってなさいよ。帰ったら死刑だから」
というと涼宮さんは部屋を出ていった。
「ハルヒの『死刑』を聞くのもひさしぶりな気がするな」
ここで、いつものごとく「いや、まったくですな」と相槌をうとうとするとその前に長門さんがこう宣言した。
「緊急事態。部屋を封鎖する。時間がない。涼宮ハルヒは5分で戻って来る」
「何の話だ、長門」と彼。
「今の電話は私。これからする話を涼宮ハルヒに聞かせるわけにはいかない」
「と申しますと?」
何の話かはわかりきっていたが、ここでいつもと違う反応をするわけにはいかないのでいちおう、合いの手を入れる。
「涼宮ハルヒは本日18:01:35に大規模な閉鎖空間を生成し、現世界から若干名を伴って閉鎖空間に移行する。現世界は涼宮ハルヒの移行後59分32秒後に消滅。移行後の世界と現世界の類似度は99.99%。人類などもほぼ正確にコピーされる」
「何だって、長門、それは確実か?」
「確実。情報統合思念体が涼宮ハルヒの消去を決定する可能性は98%以上」
「なんてこった。そうなったらお前には解るのか」
「わからない」
「なぜ?」
「情報連結を解除した」
「なぜ?」

「この決定が下された場合、私が涼宮ハルヒ消去実行を命じられる可能性は100%。私はそれを望まない」
「しかし、それじゃあお前は...」
「わたしは今から90分27秒後に消滅する」
「長門、しかし、」
「いい。いずれにせよ現世界が消滅すれば私は存在できない」
ここで、この部屋に残った、最後の人物が発言した。
「あのー、私、」
「あ、朝比奈さん、何ですか?」
「今の情報が正しければ、私の立場も同じになります」
「つまり?」
「涼宮さんの消去を命じられます」
「そんな馬鹿な」
「今は大丈夫です。長門さんがこの部屋を情報封鎖しているから。命令も届きません」
「古泉?」
「わたしも同じです。情報が届かないのも同じ」
ここで本当のことをいうわけにはいかない。とりあえず、事実は隠しておこう。
「そうか」
「問題がある」
「何? ……問題だらけだろう、長門。問題じゃないことが何かありえるのかこの状況で?」
「若干名の内訳」
「何?」
「涼宮ハルヒは閉鎖空間に移行する際に若干名を伴う」
「俺だけじゃないのか?その前に俺は入ってるのか?」
「当然、あなたは含まれている」
「あとは?」
「朝比奈みくる」
「え、私?」
「他には」
「わたし。長門有希」
「で?」
「それだけ」
「それだけ? それだけなのか?」
「そう」
きまずい沈黙が流れた。涼宮さんが閉鎖空間を作って現行世界を捨てる。それはありえる話だった。彼を連れていく。いかにも。が、SOS団から一名だけを残して移行する、という想定は誰にもなかった。その一名が「古泉一樹」。……つまり、この僕。機関からの電話の内容がよみがえる。

「複雑な事情により、朝比奈、長門の両名はこの任務を遂行できない」

つまり、彼らは移行後の世界で連続した人生を送るべく、運命づけられている。彼らには涼宮さんの新世界移行を『ハルヒの生命を奪ってまで』阻止する動機は無い。
「いや、お気になさらなくて結構です。移行後の世界には僕もいるのでしょう?であれば、移行後の世界の僕と仲良くしてやって頂ければ、充分です」
「しかし」
「他に選択肢は有りません」
涼宮さんを抹殺する以外には。
「長門、俺がハルヒと、その、例のあれをすれば、こっちに」
「それは無理。帰還が可能になるのは移行後1時間以上時間が経過してから。前回はその時間があった。今回、移行後1時間後には現世界は存在しない。帰還は不可能。」
「...…」
「みなさん、何をそんなに騒いでおられるのですか? 現世界が消滅するといってもこっちの人間は「消滅」したことに気づきさえしないでしょう。時間が突然終わる。予兆もない、痛みも苦しみも。いつか起きる可能性があることが起きただけです」
「ふざけるな」
彼は本当に怒り始めた。
「移行世界はこの世界じゃないんだ。俺は一度行ったから解る。そこにいる新しい古泉はお前じゃない。俺は、ここにいるこの古泉が好きなんだ。移行後の世界のコピーやろうなんかに興味は無い」
「ですが、それでどうしようと?」
もし、僕が、涼宮さんを抹殺しない場合には、だが。
「ハルヒに、全てを話そう」
「え?」
「それは危険すぎる。結果が予測不能」
「予測不能ってなんだ、長門。この世が消えてしまうんだぞ。それより悪いことが起きる可能性があるのか?」
「ある」
「どんな」
「完全な消滅」
「何?」
「涼宮ハルヒが自己の能力を不完全に認識した場合、移行すべき閉鎖空間の生成に失敗する可能性がある。失敗すれば、移行空間は消滅する。戻るべき現世界は既に存在しない」
「そんな……馬鹿な」
「でも事実。起き得ないことではない」
朝比奈さんはとうとう、声をあげて泣き始めた。
「ひどい、ひどすぎる、なんでこんな。あまりにもむごすぎます」
「みなさん、動揺するのはやめて下さい」
「いい加減にしろ、古泉。いい加減にしてその微笑を引っ込めるんだ。俺はハルヒに現行世界を破壊させるつもりも、見たことも聞いたこともない世界におまえ以外のSOS団で移動するつもりもない。そんなことはさせない」
「ですが、方法が」
「長門、方法があるはずだ。考えてくれ」
「考えることは可能。しかし、時間がかかる。情報統合思念体との連結を解除しているから私の能力は減っている」
「いいから、考えてくれ、長門、頼む」
「涼宮ハルヒが戻って来る」
「何、ちきしょう、こんなときに」
「僕が連れ出しましょう。適当な理由をつけて。僕の方から
涼宮さんを誘うことは極めてまれですから、彼女は興味を惹かれるはずです」
「よし、解った。だが、くれぐれも変なことするなよ。お前だけ
残して移行したりはしない。忘れるな」
「はい」

涼宮ハルヒが戻って来る。
「ったく、わけがわかんないわ」
「なんだったんだ?」
「さっきの電話、確かに鶴屋さんからだったのよ。すぐ教室に来てくれっていうから言ったら誰れもいないし、携帯にかけたら鶴屋さんは家にいて電話してないっていうし、おまけに私の携帯にはあるはずの着信履歴は残ってないし。何がなんだか」
さすがは長門さん。手際がいい。今度は僕の番だ。
「涼宮さん」
「何よ?」
「ちょっとお話が」
「言いなさいよ」
「ここではちょっと」
「SOS団の内部に秘密はなしよ」
「それは解っていますが”平”団員のみなさんにはちょ~っとお聞かせできない内容で」
涼宮さんはニヤッと笑った。
「あー、そういうことなら話は別よ。”平”団員はここで暫時、待機するように。団長と副団長の執行部会談をしてくるからね!」
「はい。では、1年9組の教室へ参りましょう」
でがけにちらっと振り返ると彼が目で「頼んだぞ!」と言っているのが解る。これから自分がすることを思うときりきりと心が痛んだ。

涼宮さんは僕の数歩前をつかつかと歩いている。今なら誰も邪魔するものはいない。ポケットから、涼宮さんを暗殺する時に使えと上層部から与えられた”器具”を取り出す。これをつかえば、涼宮さんは痛みも苦しみもなく、即死する。おそらく、自分が死んだことにさえ気づかないだろう。器具を手で握り、振りかざし...…。
「う」
小さなうめき声をあげて、涼宮さんは倒れた。床に横たわった姿は、眠っているようにしか見えなかった。涙が溢れた。器具を持ち替えると自分に向けた。とても、このまま生きていることはできそうもない。一生、こんな気持ちで....…

「そこまでだ、古泉」
彼が僕の腕を強く握っている
「放して頂けませんか。私は涼宮さんを殺してしまいました」
「解っているよ」
「今、何と」
「それで良かったんだ」
「どういうことですか?」
床に倒れている涼宮さんの姿はぼやけて消えてしまった。
「もどろう」
部屋に戻るといらついた涼宮さんが部屋をうろうろ歩き回っていた。
「一体、全体、どこ行ってたのよ。待ってないと死刑だっていったじゃないの!」


彼も長門さんも朝比奈さんも、何も説明してはくれなかった。ただ、「携帯を見ればわかる」の一点張りだった。携帯を見ると、そこには一通のメールが届いていた。機関からだった。

「君がこのメールを読んでいるということは君は任務に成功したと言うことだな、古泉君。

おめでとう、見事任務を遂行してくれた。今回の件は非常に微妙だった。3つの組織が連携した最初で最後の作戦だろう。
涼宮ハルヒの抹殺は閉鎖空間生成阻止の絶対条件だったが、

複雑な事情により、彼女を殺害する人物は閉鎖空間移行組から選ばれねばならなかったのだ。しかも、当該人物は涼宮ハルヒを「本気で」殺害しなくてはならなかったのだ。

つまり、殺しても部室に戻れば「本体」がピンピンしていると知っていてはならなかったのだ。ここで問題になるのは殺害と言う「行為」ではなく、

「意識」あるいは「意志」の問題だった。かつて、涼宮ハルヒが移行空間から舞い戻った時、彼の帰還したいと言う強い意志表明が必要だったように、

今回も移行組の強い意志表明が必要だったのだ。そう、涼宮ハルヒ本人を殺害してまでも現行世界に戻りたい、と思う程の強い移行拒否反応だ。

その様な強い意志表明だけが、涼宮ハルヒに移行を断念させることが可能だった。最初は、彼(キョンと呼ばれているようだな)が選ばれた。彼には空間移行組ではないという嘘の情報が伝達され、涼宮ハルヒの殺害で世界を救うことができるというニセ情報が伝達された。が、彼は失敗した。世界を救うためにさえ、涼宮ハルヒを殺すことができなかったのだ。時間は巻き戻され、次には長門有希が、それから朝比奈みくるが同じ状況下に置かれた。彼らはいずれも涼宮ハルヒを殺害することができなかった。君は最後の希望だった。君が失敗すればすべては終わりだった。
おめでとう。」

5人で坂を下りながら、彼と話す。

「あなたたちはこれを知っていたのですか」
「ああ、ずるいとは思っていたがな。ハルヒ抹殺失敗組の記憶は時間を巻き戻す際に保持されたんだ。世界のためにさえハルヒを殺せないような人物がまわりにいたんじゃあ、ハルヒを殺すのはむずかしいからな」
「結局、僕だけが彼女を殺してしまったわけですね」
「そうだな」
「SOS団員失格……ですね」
「そうじゃないさ、古泉。世界よりもハルヒが大切なんて狂ってるさ。ハルヒはたったひとりの人間に過ぎない。そのために世界を犠牲にはできないよ。正しいのはお前だ。あとの3人は狂っている」
「ですが、僕は自分だけが行けないことが悔しくて実行に及んだのかも」
「いい加減にしろ」
彼は怒り出した。
「じゃあ、聞くが、自分もいっしょに行けるとわかっていて、それでもお前はハルヒを殺せたのか? ……賭けてもいいが、俺には絶対無理だ。結局、無理だったがな。SOS団員込で新世界に移行できて、かつ、移行後の人間がほぼ移行前と同一人物になる、という状況で、ハルヒを殺すなんてできないよ。俺だって迷ったさ。でも、自分も行けるとなったら、そう、迷うことさえできなかったよ。結局、俺は「取り残される」ことが耐え難かったからハルヒを殺そうとまで考えたんだ。そうじゃなければそんなこと考えることは不可能だよ。お前は正しくて正常なSOS団員唯一の人間だよ。お前が世界を救ったんだ、古泉。」

そうなのかもしれない。が、やっぱり、僕は殺すべきじゃ無かったんだろうな。そうすれば、新しい移行後の世界にSOS団員みんなで...。
残念。この次こそは。

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最終更新:2020年05月25日 12:59