「さぁて。それじゃまずはどうしましょかね。有希、冷蔵庫見せてもらっていい?」
 一拍置いて、
「いい」
 長門が答える。やっぱりぎこちないな。
「うん。それじゃちょっと失礼するわ……って、有希? ほとんど何にもないじゃないの!」
 もちろん長門に呼びかけているのはハルヒである。その様子はテストでよろしくない点数を取ってしまった息子を叱りつける風でもあり、俺はこいつの息子でもないのに何やら胸がチクリとする。
「うーん。買出しに行く必要があるわね。って言っても、今あたしあんまり持ち合わせがないのよね」
 ハルヒは自分の財布を取り出して中身を確かめた。突然俺に眼光が向けられる。何だよ。
「キョン、あんた、あたしたちに借りがあるわよね?」
 何のことだか。それにその話を持ち出すのは反則じゃないのか?
「心配料よ。何なら医療費でもいいわ。あんたはたった今までそこでノビてたんだからね」
 なんちゅう理屈だ。阪中や喜緑さんの相談からは金を取らないくせに、俺からは取るのか。
「うだうだ言ってんじゃないわよ。そんなこと言ってるとあんた今晩夕食抜きよ」
 必殺のカードを切るハルヒであった。くそ、そう来やがったか。
「しょうがないな。分かったよ。俺が出しゃいいんだろ」
 こんな時に限ってこづかい支給日直後だったりする俺はとことん運に見放されているね。
 神々に事務係がいれば俺の運命係数をもうちょっとだけ上方修正してくれないもんだろうか。粉飾と呼ばれない程度にさ。

 長門を見ると不思議そうに(見えたのは俺の錯覚だな)俺とハルヒの中間に視線を固定している。そこに人類が未だ発見していない情報意識体や何やらが見えるかのようだ。
「それで、誰が買い出しに行くんだよ」
 俺の言葉にハルヒは片眉を吊り上げるというおなじみの仕草をして、
「料金を持つあんたとあたしは決まりね。あとは、そうね、みくるちゃん」
「ふぇっ、は、はーい?」
 何やら物思いか思案に暮れていたご様子の夕方の女神、朝比奈さんは忘れていた新聞料金の徴収がたった今やって来たかのようにあわてて答えた。
「あなたも来てちょうだい。有希、悪いけど留守役頼んでいいかしら?」
 片手を詫びの形にしてハルヒは長門に言った。留守役も何も、もともとここは長門の家だろうが。
 長門は一度俺に無感動な視線を送ってから、
「いい」
 と言った。しかしまぁ、こいつのこの反応ももう少しどうにかできないものかと訝る俺である。


「有希の話だとこの近くにスーパーがあるって話よね」
 ハルヒは春うららかな夕方の空の下、さっき長門から聞いた言葉を復唱するように言った。
 俺としてもこいつが妙な行動に走らないよう見ている必要がある。まるで生後数年の子どもを見守る父親であるが、はてさっきは子どもで今度は父親とはこれまた奇なものであるな。
 ハルヒは俺たちを先導してどんどん歩き出す。この組み合わせはいつかの映画撮影の一時を思い出すね。思い出した
くもない記憶、と俺はもう思わない。過ぎちまったことだからかもしれないが、あれだって何だかんだ楽しかった。
「朝比奈さん、大丈夫ですか? 何かさっきから上の空ですけど」
 朝比奈さんは口元に軽く閉じた片手を当ててなお沈思黙考の様相を呈していた。そりゃこの人にとっても考えることだらけだろうな。こんな状況だし。

 でもまぁ、と俺は思う。逆に言えばこんな状況もそう滅多にない。俺とSOS団女子ユニット三名がつかの間の晩餐を共にする、なんてのはな。ならばもうちょっとくつろぐべきなのだろう。長い日々の、これはきっと休息だ。それを各々がどこまで分かっているのかはともかくとして。
「え? キョンくん今何かあたしに言いましたか?」
 10秒くらいは経過していた気がする。朝比奈さんはようやく隣に人がいたことに気付いたように言った。
 しかるに俺はこう諭してみるのだった。
「朝比奈さん、もうちょっとだけ気持ちを楽にしませんか? 色々考えることがあるのは俺も一緒ですけど、だからこそ、こういう時だからこそ反対に楽しくしてることが重要なんです」
 俺は慣れないスマイルを浮かべたつもりだが、はて彼女に伝わっているだろうか。古泉に一度本気で良質笑顔養成講座を開いてもらおうか。
 朝比奈さんは大きくつぶらな瞳をさらに見開いてぽかんとしていたが、やがて俺と同じように、
「そ、そうですよね……うん。あたし、もっとしっかりしなくちゃって、そればっかり考えてて」
 俺はかつての彼女の涙を思い出す。それだけでこのお方の気持ちは痛いほどに伝わる。ハルヒさえここにいなければ肩に手を回して白薔薇の一輪でも差し出してあげたい心境である。
「あ、着いたみたい! さぁ、さっそく買い物よ!」
 袖まくりまでしてずかずかとスーパーマーケットに乗り込むハルヒである。あぁ、お前、いいかみさんになるぜ。
 空に向かって吹くような心地よい春風に大いにあおられつつ、俺はのん気にそんなことを考えた。



 ……買いすぎだろ。いくらなんでも。
 一夜限りの臨時合宿のはずだぜ。四人分ということを考慮して、さらに朝比奈さん以外は全員が人並みかそれ以上に食べるとしても、この量はどう考えたって多い、つーか、俺の財布は冬に舞い戻ったかのように瞬間冷凍マイナス180度だ。人の金だと思ってハルヒめ。
「たっだいまー!」
 ハルヒは出かけるときの何倍も威勢よく長門宅の玄関ドアを開けた。
後に続くはサンタクロースもびっくりの大入袋を抱える俺、何度も「あたしも持ちます」と心配りなさってくれた心優しき朝比奈さんである。
 靴くらい揃えろ、と思わずツッコミを入れてしまう俺に見向きもせずにハルヒはキッチンに向かう。ねぎらいの言葉もなしに巨大な買い物袋を持って。やれやれだな。この言葉はもはや特定の状況下における通例句か挨拶である。


「何作ろうかしらねー」
 半分以上呆れの面持ちをしている俺の対面に、ハルヒと朝比奈さんと長門が並んでいる。
 よくエプロン三人分あったな。朝比奈さん激似合ってます、今すぐ嫁に来てください。ハルヒも悔しいが様になってるじゃねぇか。長門もこれはこれでなかなか趣が……って俺は何コスチューム評論家をしてるんだっ!
 ツッコむべきところはそこではないのだ。
「何作るか考えてなかったのかよ」
 ここである。そりゃ買い物袋もブラックホールになろう。俺のなけなしの持ち合わせもカウントゼロに漸近するさ。

「当たりまえじゃない。だって、何が出来るか分かってたら、つまんないでしょ」
 この発言によりこいつはめでたく家計を任せてはいけない女暫定一位に確定した。いやめでたい。そんな場合じゃない。
「あんたは有希のうちの掃除をしてなさい、いいわねっ!」
 ここに来てハルヒ、絶好調である。わーったよ。どうせ異論は認めらんない、だろ? あたしたちが料理してるのに男が何もせずのんべんだらりと完成をまってるなんていけすかないわ! みたいなことを言うハルヒをリアルに想像できちまう俺はさながら妄想末期患者か? まぁ、男性も家事育児に参加すべきという世間的風潮には俺も同意するさ。
男尊女卑なんてのはつまらん慣習だ。SOS団は女尊男卑になってる感が否めないのだがな。


 眺めていたらさぞ和むだろう三名の夕食調理風景に半分ほどの別れを告げ、俺は掃除機片手に部屋をまわる。つか、掃除って普通午前中にするもんだろ? 夕方のまして調理中にするもんじゃねぇ。間違いない。そもそも長門に許可を得てなくないか? 成り行きでコンセントにプラグを差し込む俺であったが。
 ブィィィィンと機械そのものな音を立てながら掃除機は床にほとんどなさそうなホコリやチリをそれでもグイグイ吸い込もうと駆動する。まずは俺がさっきまでノビてた和室だ。あの七夕には朝比奈さんと二人で三年間も寝てしまった和室である。あらためて感慨にふけりそうになってしまう。長門本人はもちろんだが、長門の家にもずいぶんと厄介になった。今やSOS団第二アジトといっても過言でも虚言でもない。
 居間は後回しで俺は部屋から片付けていく。本当にさっき掃除したかのようにどこもかしこも小奇麗に片付いている。
 トイレを終えて、洗面所。ここも物が少ない。……ふと、コップに歯ブラシが一本入っていることに気がついた。


 さっき、朝比奈さんに楽しくしてましょうとか言っておきながら、ふっと青い色が胸をよぎる。
 そうだったな、長門……お前は今、ひとりなんだよな。
 俺は置いてきちまった色々を思って、それから今ここにいる長門のことを考えた。
 もしかしたら、あいつは本当に今日掃除をしたのかもしれない。
 訊いたって答えるかどうかすら定かじゃないが、そうしていたって不思議はない。

 俺が入ったことのない部屋があった。いつもばたばたしていて気がつかなかった、玄関脇の小部屋。
 そこは三面が上から下まで本棚で埋まっていて、隙間なく大小様々な本がびっしりと収まっていた。
 俺は掃除機のスイッチを切った。並んでいる本を見渡す。本当に多種多用だ。これらすべてを読んだのだろうか。
 一冊を手に取る。見覚えのある表紙。そして……栞。
 何も書かれていない。
 


 長門は一日の多くをこの家で過ごしている。
 あいつにとって、今この時はどういう風に感じられるのだろうか。
 雨が降ろうが嵐になろうが静謐を崩さない部屋に訪れる、いつもと違う、時間。

 楽しく、か。
 それが今のあいつには難しいってことくらいは分かっているさ。
 でも、そう願ってしまうのは、俺に心残りがあるからだ。

 俺は栞を元に戻すと、本をたたんであった場所に収めた。
 掃除機のスイッチを押す。

「でーきたわよっ! 力作だわ! 三人分の情熱がこもってるって感じね」
 すべての部屋に響き渡っているだろう明朗ボイスで、ハルヒはそうのたまった。
 そして俺は呆れや脱力をすでに通り越し、感嘆すら通りすぎて安心してしまった。

 ……。
 やっぱすげぇよ。お前はな。

「なに変な顔してんのよ。さ、冷めないうちに食べましょ!」
 オムライス、野菜スープ、ポテトサラダ、鳥のから揚げ、肉じゃが、ほうれん草のソテー、ピーマンの肉詰め、きんぴらごぼう、麻婆豆腐、etc……。
 いくらなんでも作りすぎだとか言うつもりはなかった。……これでこそハルヒだろ? ちょっとしたブルーも何のその、真夏の太陽もびっくりのエネルギーと笑顔ですべてを吹き飛ばしちまうんだからさ。
「朝比奈さんはどれを作ったんですか?」
 横にいた幼き上級生に俺は言った。さっきよりずっと元気そうに見える。

 朝比奈さんはぽわんと微笑むと、
「えっと、な、内緒です! 食べてからのお楽しみで、ね?」
 あなたにそう言われちゃもはや俺の胃袋もご相伴を待つばかりである。
 だがその前に俺は長門にそっと訊いてみる。
「どうだった? 料理は?」
 退屈しのぎくらいにはなっただろうか。
「……」
 長門はやはり5秒以上の間を空ける。やがて、
「無為ではない」
 ははは。なるほどね。そっかそっか。まぁいいさ、それでも十分だ。返事が聞けただけでも、な。
「みんな席について! はい、それじゃぁ」


 いただきます


 そう。これはほんの一時、心安らげる休息なのだ。
 だからこそ、くよくよしたりたわけた禅問答したりは、おあずけにすべきなんだ。
「おいハルヒ! 箸をはなせ!」
「何よ! 同じのたくさんあるでしょ!」
「これは俺が先に取ったんだ」
「いいえあたしの方が早かったわ!」
 な、そうだろ? 長門、古泉。



「二人とも食べ物で遊んじゃだめですよ~」
「離せ!」
「あんたが!」

「……」

 あなたたちと、夕食。




 ――

 ――エラーを検出。


(おわり)

|