バレンタインデーや学年末試験も終えたある日、俺はいつものように部室でのほほんと朝比奈さんが淹れたお茶をすすっていた。
今部屋にいるのは、パイプ椅子に座りながらいつものメイド服で編み物をしている朝比奈さんと、相変わらず分厚いハードカバーのSF小説を読んでいる長門、それに文庫本の小説を読む俺だけだった。ハルヒは掃除当番でまだ部室には来ていない。古泉は知らん。
何事も無くただ流れていく時間を感じつつ、せっせとマフラーを編んでいる朝比奈さんを見ていると、心がすこぶる晴れやかになる。
俺の目線に気づいた朝比奈さんは顔を上げて
「どうかしましたか?」
ダ行やカ行の発音がナ行と混じりそうなほど舌足らずな声を出した。思わず顔面の筋肉が緩みそうになる。
「いえ、ちょっとマフラーが気になって」
「これですか? 時間が余ってたので作ってみたんです」
朝比奈さんはオレンジと白が交互に織られたマフラーを見せた。
「キョン君や古泉君にはちょっと小さいかな?」
どんなに小さくても、朝比奈さんが作ったものならば絶対着用します。
「涼宮さんか長門さんに着てもらいたいなー、なんて思ってるんですけど」
突然、ドアが叩きつけられたような音がした。慌てて振り向くとSOS団団長様が目を輝かせていた。
「本当!? 貰えるものは貰っておかないとね」
ハルヒよ、お前のドアの開け方はどうなっているんだ。ノブを回したぐらいででかい音は立てられないぞ。
ハルヒはズカズカと朝比奈さんに詰め寄ると、編んでいたマフラーを手にした。
「うーん、なんか普通ね」
マフラーにノーマルもアブノーマルもあるか。
「まぁ、いいわ。このマフラーは完成次第あたしにちょうだい」
「え、えぇ……いいですけど」
「決まりね」
押しかけ強盗のごとくマフラーを予約したハルヒは、意気揚々と団長専用の席に座った。
「うーん、暇ね。何か面白そうなことはないものかしら」
始まった。またこいつの暇つぶしにつき合わされないといけないかと思うと、憂鬱になる。
「この時期に何をやれって言うんだ。寒中水泳か? 滝に打たれての苦行か?」
「それじゃあ風邪引いちゃうじゃない。もっと現実的なこと考えなさいよ」
これでもお前の尺度にあわせてやってるつもりなんだが。
「あー、つまんない。いっそのこと巨大隕石や彗星でも接近してくればいいのに」
「冗談はやめてくれよ」
本気で起こりかねないからな、こいつの場合。
「遅れてしまって申し訳ありません。掃除だったもので」
古泉が部室に入ってきたところで、SOS団は全員集合した。
結局その日は何もやることが無く、朝比奈さんは引き続きマフラーを編み続け、古泉と俺はボードゲームをやり、長門はハードカバーを一冊読み終え、ハルヒは終始ネットサーフィンで時間をつぶした。唯一気がかりだったことは、長門が俺に向けて紙飛行機を一機飛ばしてきたことだった。見事俺の目の前に着陸。普段はこんなことしない奴なんだが。
「開けて」
長門は聞こえるか聞こえないかギリギリのラインで指示した。
『放課後、私の家で。あなたに大事な用事がある』
首を傾げる俺を長門は透き通った黒目で見ていた。

帰宅後、俺は急いで長門の家に向かった。テンキーに708と打ち込んで通話を開始する。ブツッという音が聞こえた。
「……」
「長門、俺だ」
『入って』
自動ドアの開く音が聞こえた。

708号室のインターホンを鳴らすと、何も言わなくてもドアは開いた。
「入って」
長門はドアを片手で押さえて俺を招き入れた。
「お邪魔します」
もう何度目だろうか、この殺風景な部屋を見るのも。奥にある大きな窓からは眺望もよく、暗い空の下に数多の光が散っている。
いつもの席に陣取ると、長門もいつも通り対面に座った。
「どうぞ」
淹れたての緑茶がテーブルに置かれている。緑茶を少し飲んでから、長門に訊いた。
「用事って何なんだ?」
「あなたに私が行う作業の補助をしてもらいたい」
長門は一旦テーブルにあるお茶をすすってから内容を発表した。こういう時はあまりいい期待はできない。
「現在私の行動を制限しているバグが多数見受けられる。これらは私には本来ありえないバグ。涼宮ハルヒとあなたとの接触によって日々生み出される情報のジャンクから派生して、独自に成長を続けていったと思われる」
「バグがあるなら直さなきゃいけないな」
まるでロボットだなと言いかけたが、こいつはもうロボットみたいなものなので止めておいた。
「そう。このバグは現在私や周囲に対する直接的攻撃性は見受けられない。バグを放置すると、私は暴走して涼宮ハルヒに何らかの悪影響を及ぼす可能性がある。そしてあなたにも」
嫌な思い出が脳裏をよぎった。俺以外の全ての環境が改変されて、朝比奈さんは書道部員、ハルヒと古泉は別の学校に行ってカップルに、そしてこいつは一人で文芸部員をやっていた世界を。
「……具体的に言うと?」
「この世界の終焉」
随分重症なものを背負ったみたいだな。
「バグは私に要求をしている。その要求が通れば、バグは沈静化すると思われる」
「じゃあその要求を通せばいいじゃないか」
「それにはあなたの許可が必要。この要求はあなたがいないと成立しない」
何をされるか分かったものじゃないが、この世界が終わる危険性があるなら仕方ないけどやるしかないだろう。
「……わかった、じゃあそのバグの要求を通してやれ。朝倉みたいに俺を殺しはしないだろうな?」
「攻撃性はない。これよりバグの要求を許可、行動パターンadktzndcをトレースする」
長門は一瞬海老のように飛び跳ねてから、くたっとその場に倒れてしまった。
「おい、長門!」
何事かと思い駆け寄って肩を揺すっても長門は起きる気配はない。一体何が起こったんだ。
倒れてから一分ぐらいだろうか、長門はようやく目を開いた。
「長門、大丈夫か?」
俺は次に長門が発する言葉を聞いて物凄い違和感を感じた。
「うん、……平気」
あれ、長門って今まで「うん」なんて言ったっけ?
「一体お前に何が起こったんだ」
率直に訊いてみる。
「簡単に言うと、人格の交代」
「どういうことだ?」
二重人格にでもなったのか。
「今までは長門有希の本来のパーソナリティが体を支配していた。でも、だんだんわたしのパーソナリティの容量が増加していって、今は六対四でなんとか本来の長門有希が維持されている状態にまで陥った。
そこで、一度眠っているわたしを引き出して要求を全て満たしてから、また本来の長門有希のパーソナリティが完全に支配できるようにするってこと」
いまいちよくわからない。
「もうちょっと簡潔にできないか?」
「……ストレス解消」
そう言って、人格が変わった長門はお茶を入れにキッチンに向かった。
「なぁ、長門」
「何?」
「今のお前は、普段俺が知っている長門有希じゃないんだよな?」
長門はポットからお湯を出しながら答えた。
「そう。最も近い存在で言うと、前回暴走を起こしたわたし」
「まさか、また世界を改変するなんてことはないよな」
「安心して。そこまで容量が達する前にわたしは消去はされる。そのために必要な鍵を取得するために、わたしは長門有希の体を支配した」
長門は再びお茶を淹れた湯のみをテーブルに置いた。
「鍵って、何なんだ?」
そう尋ねると、長門は俺の目の前に来て座り込んだ。
「ごめんなさい、これから起こることは絶対に口外しないで」
待てと言う暇もなく、長門は俺の体にもたれかかった。突然のことだったので俺は何をしていいのかわからず、ただ長門に抱きつかれた状態で身動きできずにいた。
「お前、何やってんだ?」
「鍵はあなたと一緒にいること」
長門は何をするでもなくただ俺にしがみついて、頭を俺の胸にあずけている。うなじは白熱灯のような肌で、きれいに整えられていた。
最初は背中に手を回しそうになったが、ここはぐっとこらえて我慢するつもりでいた。だけど、うなじを見てしまったりこう長いこと抱きつかれていると、さすがの俺も辛くなってきた。
「手、回してもいい……」
長門の口が僅かに動く。上目遣いに長門は上気した顔で若干うるんでいる瞳を俺に向けた。ごめん、ハルヒ。
「わかった」
許可を得た俺はしがみつく長門を出来る限りやんわりと包んだ。潰してしまいそうなほど小さな肩に手を交わして添える。
「お前は今、長門であって長門じゃないんだよな」
「そう。今のわたしは本来の長門有希ではない」
「何て、呼べばいいかな?」
長門は数秒俺の胸に頭を押し込めながら、くぐもった声で呟いた。
「……ゆき」

俺は出来る限りゆきを抱きしめていた。
普段の長門は決してこんなことをしない。あいつは感情を持ち得ないはずだし、だいいち俺に好感を持ってしまえば、それだけでハルヒの機嫌はもうスカイダイビングのごとく急降下する。そうなればどうなるかわかったもんじゃない。
だけど長門が言っていたバグは、俺にはどうしても普通の女の子が持つものにしか思えなかった。
「なが……じゃなくて、ゆき」
「何?」
ど真ん中ストレートで訊いてみたいけど口がなかなか動かない。相手は長門のバグなんだ。勇気を出せ、俺。
「お前は俺のことが」
小動物のような純粋な目が俺の視線と重なった。
「……好きなのか?」
突然、背中で感じていた腕がうなじの辺りに動いて、ゆきが接近してきた。もう選択肢は覚悟して目を閉じる以外に無い。
ああハルヒ、本当にごめん。
味はしないけどおいしい感触が俺の唇を襲う。一体どのくらいこの感触を味わってただろうか。
味わい始めてから三分ぐらいすると、衝動を抑えることが辛くなってゆきを押し倒すような形にもっていってしまった。ここでようやく唇が離れる。
「わたしが発生した主な原因は、多分あなたにある」
キスを終えた後でも互いの顔は接近していた。
「長門は俺のことが好きなのか?」
「本来ヒューマノイドインターフェイスは、人間の言うエロスと呼ばれる感情のプログラムを受けていない」
「じゃあ何故お前が存在しているんだ」
「……わたしはバグだから」
ゆきは相当困惑している様子だった。
「そうじゃない。俺はなんで俺を原因としたバグが発生してお前が生まれたのかを聞いてるんだ」
俺は相手が認めたくないものを認めさせようと必死になっていた。
「……わからない」
最初潤んでいただけのゆきの瞳が徐々に涙で満ちていく。
「わからない」
涙を流す長門は割れたガラス細工のようだった。
「俺の話を聞いてくれるか」
震える喉に鞭を入れてなんとか声を絞り出す。
「うん」
水面のような目が俺の頭を貫いた。
本当はこんなこと言いたくないけど、いまのこいつは多分自分の存在すら揺らいでいる。残酷だけど、俺はこいつに現実を教えることにした。
「俺が思うにだ、お前は長門有希から切り離された存在なんだ。何故お前が切り離されたかというとだ」
ゆきの唾を飲む音が心に刺さった。
「どういう経緯でお前が生まれたのかはきっと誰もわからない。でもな、お前のようなやつは全ての人間にも存在する。特に俺らぐらいの年頃はそいつにひどい目に遭わされる」
これから言うことをこいつの立場になって聞いたらと思うと、ぞっとする。
「長門はな、自分でも知らないうちに恋をしていたんだと思う」
ゆきはそれを聞いた瞬間目を丸くした。
「きっと長門ももやもやしていたんだろうな。これまでは情報……なんだったっけか、まあいいや。それが長門に指令を出して、それを基にして長門は動いていた。
しかし最近の長門は大部分はまだ情報なんとかが支配していたが、徐々に俺を意識するようになったんだと思う。その意識がお前だ」
自分でも長門みたいな長ったらしい説明をしたのは初めてだった。
「このままじゃお前が長門有希を支配して、自我が完全に目覚めてしまう可能性がある。長門は自分一人で物事を考え、自分だけの意思で行動を起こすことが出来るようになるだろう。
しかしそうなるとハルヒに何らかの悪影響を及ぼす。それを危惧した長門はお前をバグと呼び、自分の意識から切り離してお前を生み出した」
ゆきは茫然自失といったところか。
「ありえない」
存在し得なかったものが実際は存在して、それが自分の行動に影響を与えているのだから、わけが分からなくなるのも当然だ。
「今お前がするべきことは、長門の俺に対する考えを明らかにして実行することだと思う。それであいつは救われるんだ」
「そう……なら、わたしは自分が考えていることをする」
「それでいいんだ」
ゆきは仰向けの状態から腕を俺のうなじに伸ばして、こう呟いた。
「あなたが好き」
その後俺はゆきの成すがままにされた。あいつが俺としたいことを、何一つ不満無く俺は受け入れた。
長門の裏の顔は普通の女の子と変わりなく、いつぞやの異世界で出合った文芸部員の長門を思い出した。あいつのように世界を改変されるぐらいなら、悪い芽は早いうちに摘んでおいたほうがいいのだ。
「……お前はこの後消されるんだろ?」
「うん、だってわたしバグだから」
ゆきは笑っていたけど、俺にはその笑顔は痛々しすぎた。
「また会えるよな?」
バグ相手になぜか必死になる俺。
「会うことになると思う、多分」
こいつがまた現れるということは、長門には相当辛い思いをさせていることになる。本来ゆきは存在してはいけないのだ。
「でもその時は、今までのあなたとのことをきっと覚えていない。ここでの記憶も消されるから」
「ということは、またお前が出現したとき俺は同じようなことをやらないといけないのか?」
「多分」
心苦しい。ゆきが消滅する時を何度も見ないといけないなんて。
「泣いてるの?」
気がつけば、俺は左目から涙を流していた。
「泣かないでよ。あなたが泣いたらわたしも辛く……」
二人の目は決壊した。ゆきは大声で、俺は声を上げるのを必死で抑えて泣きまくった。
「わたし、認められないかな? こんなの辛すぎるよ」
ゆきの唇がわなわなと震える。
「多分、無理だろ」
もうまともに喋れないほどしゃくり上げていた。
「俺は長門を傷つけた」
あいつに好きだっていう概念を持たせてしまった。間接的だけど、俺はゆきを生んだ。だから、自分のケツは自分で拭こうと思う。
「俺は誓う。おまえが消える瞬間がこれから何度訪れようと、絶対最後まで見守る。これは俺に与えられた罰だ」
ゆきは真剣な目で俺を見たまま固まっている。
「そして、長門やこれから生まれるお前を大切にする。これは俺が出来る長門へのせめてもの罪滅ぼしだ」
数秒間をおいた後、ゆきはぷふっと噴出した。
「……わたししか覚えていないのに、何言ってるの?」
ようやくゆきは笑ってくれた。どことなく乾いた、心の底からというものではなかったけど。
「最後に、俺のことを名前で呼んでくれないか?」
こくりとゆきは頷いた。
「キョン」
二人の顔が刻々と近づいていく。
「好き」
互いの唇を貪りあった。

散々俺を愛しつくしたゆきは、疲れた子供のように俺の腕の中で眠ってしまった。そういえば、俺は一度もゆきに好きと言ってやれなかった。次に生まれてくる時は言ってやらないとな。
寝顔かわいいな、なんてクサい台詞を吐こうとする寸前に、長門は目を覚ました。
「危害は加えなかったと思う」
長門の冷たい声だ。どうやらゆきは削除されたらしい。
元に戻った長門は液体窒素のような目を俺に向けたまま動かない。
「長門」
「……」
「またバグが溜まりそうになったら、いつでも呼んでくれ」
長門は俺から目線をそらすと、言葉を漏らした。
「そう」

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