§第三章§

――10――
夜と朝の間にもやもやとした異物感を残して俺は目覚めた。妹が来る前に。
「あー、キョンくんが珍しく起きてるー」
小六なのか兄ながら疑ってしまうような外見と中身をしているわが妹は、同時起床したシャミセンをくしくしと撫でると部屋をそそくさと出て行った。
「早く来ないと朝御飯なくなっちゃうよー」
鼻歌交じりに扉を閉めて、階段を下りる音がとんとんと小さくなる。
俺は徐々に昨夜見たのが夢ではなく、実際にあった出来事であることを思い出し始める。俺は確かに古泉と部室で茶を飲んだ。あいつは相変わらずに見えたが、さて自分が今世界から消滅していると聞かされて平静を保っていられる人間など、一体何人いるのだろうかとどうでもいいようなことを考え、顔を洗って寝ぐせの処理もほどほどに居間に下りて俺は絶句した。
「おばさん! この目玉焼き、固さがちょうどいいです。味噌汁もおいしいし!」
朝っぱらからこんな調子でまくし立てる人間は俺の家族にはいない。というか、知り合い全部ひっくるめても思い当たるのは一人しかいない。
「あ、おはようキョン! 早くしないと朝御飯なくなっちゃうわよ」
な、なんてことだ! なんでお前がここにいるんだ! 待て待て待て、待てい!
あまりの動揺に俺は玄関半ばまで引き返し、壁にかけてある鏡を見て自分を確認し、頬をつねって現実を認識し、ゆっくりとした歩調でリビングに引き返すと、
「朝から何やってんのよあんた。あ、おばさん! 片付け手伝います! おじさん、お茶入れますから待っててくださいね」
そこにいたのはエプロン着用涼宮ハルヒであったー。ちゃんちゃん。って、オチをつけている場合か俺よ!
俺は流しに食器を運んだハルヒの手首をひっつかむと、そのまま引っ張って玄関に舞い戻る。
「いた、いたた! なにすんのよ! 離しなさいっ!」
振りほどかれた挙句平手のお釣りをもらった。おかげで完全に目が覚める。
「ひっぱたかれる覚えなんかないぞ。まず、お前がどうしてここにいるのか説明しろ」
「来たかったから来たのよ。悪い?」
ちょっと待て。まったく説明になってない。来たかったから来るのであれば、この世のすべての泥棒は「盗りたかった」という名目の元で世界中のあらゆる金品を強奪できるだろう。
「あたしは別に犯罪者じゃないわよ。何? せっかく人が朝食作ってあげようってのに」
それは俺の母親の仕事だろうと突っ込んでいる場合ではないのだ。お前、よく見ると下はすでに制服だな。ついでにポニーテール……ってどこを見てるんだ俺は!
「お前、俺の家に寄って学校に行ったら遠回りなんじゃないのか?」
「そうだけど、だから何なのよ」
何もかにもないだろう。席が前後で放課後に正体不明の団体をやってるからって、ある朝突然遠回りして団員その1たる男子生徒の自宅に上がって朝食に加わるその理由はどこにあるんだ!?
「キョンくん、ハルにゃんが来てくれたのに嬉しくないの?」
出し抜けに妹の声がした。いつの間に来たんだお前!
「だって、学校行く準備しなくちゃいけないもん。二階に行くの」
「妹ちゃん、家出る時間何時?」
「んー、八時くらい」
「それじゃ一緒に出ましょう! キョン、さっさと朝ごはん食べちゃいなさい。もう冷めてるわよ」
ハルヒは固まっていた俺をほっぽり出して居間に戻る。……何一つ説明されていないに等しい。だが、朝であり登校前である。あまりぼやぼやしていたらハルヒに置いていかれてしまうって何を懸念してるんだろうね俺は。
しかる後に俺は試験運転中最高速をたたき出したリニアモーターカーも遠く及ばぬ速度で朝メシをかっくらい、先日のスポーツテストで数少ない好成績だった反復横とびで発揮された敏捷性でもって身支度をし、ものの十五分ですべてを終えて玄関にいた。
魂が口からもれ出そうな清々しい朝である。意味が分からん。何が起きているんだ。一体これはどうしたことだ。
「さ! いきましょ妹ちゃん! ついでにキョンも。おばさん、行ってきまーす!」
バタンと擬音をつけたくなる勢いで油圧式のドアを開け、うららかな春の朝は始まるのだ。うん、きっと。
「あーミヨちゃん! おはよー」
玄関前には吉村美代子ことミヨキチが今日も……。横を見ると、ハルヒの眉根がぴくんとつり上がった。
「はっはーん、あの子がこの前の文芸部会誌の彼女ね。ふっふーん?」
だから何だってんだ。別にやましいことなどそれこそ光学顕微鏡で穴の開くほど見つめてもないぜ。
「別に? あんなかわいい子があんたしか頼れない境遇に同情しただけよ」
痴話ゲンカ的応酬をしている前に妹とミヨキチは手を振って一路学校を目指して俺たちの前を去った。ハルヒはギラギラした笑みでイカれたワイパーのように手を振り、直後のセリフに俺の時は三秒凍りつく。
「さ! 駅前まで乗せていきなさい、超特急でね!」


「遅いわよキョン! やる気あんの? あんたの脚力も夏休みから全然進歩してないのね」
俺の背中をばっしんばっしんと叩きながら、ハルヒは飛ぶが如くと馬を酷使する戦国大名のように傲然と言った。
口ゲンカ第二ラウンドは見事に俺が負けた。というか、俺が抗議すればするほど、通学に使える時間が短くなるのだから、「あたしを遅刻させる気?」というハルヒの勝利がもともと決まっていたような、言ってみればデキレースである。やれやれだ。
この恥を顔に貼り付けて街を行くかのような通学風景を、クラスメートに見られでもしていたら俺は長門あたりに名簿の再構成を所望するかもしれん。たとえそれが手遅れでもな。
しかし、と俺は思うのだ。なんだってハルヒは急に家におしかけてまでこんな売れない画家に描かせた絵みたいな通学風景を演出してるんだ? 古泉の言うとおり、こいつは部分的にではあるが確かに常識をわきまえている。迷惑をかけていい奴と悪い奴を分かってるって言えばいいのだろうか。だからこそこの展開は急に思える。理由がないといえばそれまでかもしれないが、すんなり受け入れることのできない俺である。
「たまにはいいわねぇこういうのも! なんかいかにもって感じじゃない?」
な、何がだよ!
「いやぁ、何となくよ。何となく!」
ゲンコツで背中を叩くな。普通に痛いんだが。まったくどこからそんな力が出てくるんだろうな、こいつは。
自転車を止めて駅前に出て横断歩道を渡り、妙な既視感のある坂道にさしかかる。昨日の閉鎖空間で昇ったからか。
古泉の微笑顔が頭をよぎる。古泉の話では、ハルヒが無意識に俺と古泉をあの場所に呼び寄せたってことらしいが、こいつは一体何を望んでいるんだろう。
「なぁ、ほんとにどうしたんだ突然? 何かあったのか?」
「別に。……あのねキョン。高校生活は終わってしまったらそれまでなのよ。後になって、あぁしとけばよかった、なんて思っても遅いわけ。だからあたしは思い立ったことはできるだけ早く実行することにしてるの」
似たようなことならずっと前にも聞いたさ。お前の言い分は分かる。だがな、あまりに突飛すぎやしないか? どうもお前が思い立ったからってだけじゃ腑に落ちないというか。
「春の朝からそんなくだらないこと気にしてたら健康に悪いわよ。ほら、歩いた歩いた」
ハルヒに背を押され数百回上り下りしているこの坂道を行く俺であったが、はて、今までこいつと登校時に一緒になったことがあっただろうかと俺は思った。いつも一緒になるのは谷口くらいのもので、他の奴と登校時に会うことなどなかったな。予鈴ぎりぎりの登校がデフォルトとなっているからだろうか? にしてももう少しブッキングしてもいい気がする。
「あら、朝から仲がいいのね、おはよう」
温暖な気候を俺にとって真冬に変えてしまうような効果を持つのは朝倉の声に他ならない。振り向くと、一年前よろしく坂を駆け上がってくるところだった。何だお前、さては日直か?
「いいえ、ただ遅刻しちゃまずいと思ったから走っただけよ?」
「朝倉って、去年部活動やってなかったっけ」
出し抜けにハルヒが言った。朝倉は顎に人差し指を当てて、
「やってないわよ。去年はばたばたしてて、結局どこの部にも入れなかったから。今度は、そうね。入ってみるのも悪くないかもね」
ぱちりとウィンクをする。俺の心はいまやシベリア直送の風もまだきかない冷たさをともなって絶賛冷凍中だ。少なくとも、生徒一人をデリートしておいて言う台詞ではない。いまだに有機生命体の死の概念が理解できていないのだろうか。
「だったらSOS団はどう? どういうわけか入部希望者すらほとんど来なかったのよ。今なら即行で順団員くらいにならしてあげるわよ。そこから先は努力次第だけどね」
ハルヒの台詞に朝倉は模範生的スマイルを維持したまま、
「それは遠慮しておくわ。だって、いつあんなバニーの格好をさせられるかも分からないんでしょ? 涼宮さんの好意だけ受け取っておくことにする」
これには俺が盛大に胸をなで下ろす心境だ。億が一にでも朝倉が入部するなんてことになれば、俺はAWACSばりに全身の感覚と神経を総動員して放課後を過ごさねばならず、その際は俺の心身的磨耗レベルは高度経済成長期のグラフ並に高レベルの数値を記録することうけあいである。
「それは残念ね。しかし、どうしてこう新入生に魅力的な子がいないのかしらね。出し惜しみしているとしか思えないわ」
何を出し惜しむ必要があるんだ。つうか、あんだけ身体検査とか萌え特性チェックとか予知能力テストとかやってりゃ合格者なぞ現れようはずもないと俺は思っていた。この一年でSOS団に入団するための敷居はずいぶんと上がっちまったんだなぁハルヒよ。
それともこいつは本当の意味では新団員加入を望んでいないのかもしれんな。それこそ古泉の言う、無意識下、での話だ。
「ようキョン! 朝からずいぶん賑やかな登校風景じゃねぇかよ!」
直後に谷口が背中を叩いてきたが既に校門に差し掛かっていたので省略する。


つつがなき授業風景は昨日と同じくして進行し、しかし俺の心が安らがないのもまた昨日と同じであった。長門も普通に授業を受けているが、朝倉に対する警戒は以前レベルSで稼動している、はずである。しかし、俺のほうは授業にいつになく集中できず、これではひと月後の中間での成績予想も先行き不安だ。イイワケするつもりは毛頭ないがな。
長門はハルヒに気取られない範囲で行動を共にしているらしかった。まぁ、折角同じクラスになったのだし、これを期にもう少し親密になってもいいかもしれん。その原因が朝倉なのには閉口するが。


「おいキョン、お前いつの間に朝倉と仲良く登校するまでになったんだよ。やっぱり狙ってたのか? あいつのこと」
こんな見も蓋も仕様もないことを言うのは谷口をおいて他にいない。昼休みである。
「だから違うって言ってるだろうが。ハルヒとも朝倉ともたまたま一緒になったんだ」
「おうそうかい。言っておくがな、お前の『たまたま』ほど信用できんものもそうそうないぜ。今にして思うんだがな、お前あの涼宮のナントカ団ってのの誰かと付き合ったり別れたりしてたんじゃねぇのか」
箸で人を指すな。眉をひそめていかがわしい表情をするな。俺にはやましいことなど何もない。
「谷口は朝倉さんを取られやしないかと心配なんだよ。だよね、谷口」
国木田。お前もこんな奴の心情通訳係をやってやる必要なんてないさ。朝倉が好きならさっさと告白して成就でも玉砕でもしちまえばいい。ぐずぐずしてると誰かに取られちまうぜ。
「う、うるせぇな! お前に俺の複雑な気持ちが分かってたまるかよ! もういい、ごちそーさん」
そう言うなり谷口は乱雑に弁当箱を片付け、拗ねたように自分の席にとって返すと、そのまま机に突っ伏した。やれやれ。一丁前に恋の病ですか。複雑な気持ちね。そう言われれば俺だってこの上なく複雑な心情である。次の予案案作成に四苦八苦する内閣財政担当も真っ青だ。
「谷口も忙しいよね。たまにうらやましくなるよ」
国木田が額を机につけたままの谷口を見やって言うが、そりゃ忙しいってより慌しいとかおめでたいとかの方が適切じゃないか?


さて放課後だ。一日が長いのやら短いのやら、あらぬ方角へ集中力を傾けているために無闇に疲れる。しかし朝倉も朝倉で、あれだけ鮮烈に再登場しておいて、この二日はやけに普通である。何か起こされては困るのはもちろんだが、静かすぎるのも不気味だ。つまりどうしていたってそこにいるだけで俺にとっては脅威以外の何物でもないということになる。
「先に部室行ってて!」
というハルヒの言葉を受けた俺と長門は、歩もそぞろに部室棟を目指す。
「なぁ、長門、朝倉のやつ、やけに静かじゃないか?」
長門は俺に視線を向けずに、
「待機命令が出ているのかもしれない。クラスに転入してきたのは、涼宮ハルヒをもう一度近くで観測するためとも考えられる」
なるほどな。急進派のインターフェースは、俺の知る限り朝倉ただ一人だった。だから朝倉がいなくなっちまえば、急進派が直にハルヒを観測することは不可能になる。のか?
「思念体は独立した急進派の構成情報を解析し始めている。わたしにも彼女の現在位置特定と危機感知は可能になった。
朝倉涼子は現在自宅に向かっている」
そう言われて思い当たったことを俺は長門に訊いた。
「朝倉はまたお前のマンションに住んでるのか? あの505号室に」
「あの部屋にはいない。情報制御がかかっているため、具体的な位置特定は困難」
「そうか」
やっぱり元の場所にのこのこ戻ったりはしないのか。まぁ長門の家に行くのにためらわないで済むな。
長門のほうを見ると、何か考えこむようにわずかに顎を引いていた。
「どうしたんだ?」
俺は長門に尋ねた。長門は言うかどうか一瞬迷うかのように間を置いて、
「あなたに謝りたい」
そう言うと俺を見上げた。思わず足が止まる。謝る? 何を?
「古泉一樹のこと。わたしは彼の消失を防ぐことができなかった」
長門は意外にも後悔するかのような光を瞳に宿していた。たぶん、間違いないと思う。
「長門……?」
部室棟に渡り、階段の手前である。旧館の人通りは、いつもまばらだ。
「わたしはあなたや涼宮ハルヒを観測すると同時に、周囲の環境を守ることも思念体によって課せられている。その意味において、わたしは古泉一樹を守ることができなかった。……わたしの責任」
春の陽がゆっくりと西に向かおうとしている。新芽が開ききる前の、つかの間の静かな時期。
「長門。前から言おうと思ってたんだけどな」
「あら、キョンと有希、何やってんのこんなところで」
割り込んできたのはハルヒに他ならない。ずいぶん早く用が済んだんだな。
「えぇ。だって、生徒会に新しく同好会設立の申請書を出してきただけだもの」
生徒会。すぐに思い浮かぶのはひと月前の部室差し押さえ騒動である。古泉の仕向けたあの学園陰謀まがいのドタバタは、文芸部会誌を作りすべてさばくという一連の忙殺スケジュールをもって収束した。あの時ハルヒと真っ向から対立する役目を古泉に与えられたのがあのワルい生徒会長である。洋画声優ばりの渋いテノールを思い出す。
「また生徒会長と小競り合いしてきたのか? お前は」
「残念なことににっくき悪の首領は不在だったわ。会議とかなんとか。一丁前にね。だから喜緑さんだったかしら、彼女に提出してきたわよ」
いいのやら悪いのやら。何にせよその申請書は会長の目に触れた瞬間、四つに裂かれゴミ箱に舞い込むのが関の山である。
「そうかい。そりゃご苦労なこった。つうか、お前まだSOS団の同好会昇格をあきらめてなかったのか」
「当たりまえじゃないの。学校側にも確固たる地位を築いて、ゆくゆくは創部百周年となって後世まで残るくらいに目標を高く持たないとダメね。もちろん、そのころには全国の高校にSOS団の支部が出来上がっているに違いないわ」
こいつは死んで亡霊になっても得体の知れない団の布教を続けたいらしいな。一年前と何ら変わってない。
「ところでキョン、みくるちゃんの新しい衣装をそろそろ用意したらどうかと思うんだけど、何がいいかしらね」
いつもながら嵐のようにやって来たハルヒのマシンガントークのせいで、長門とそれまで話していたことなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。もちろんその時長門が何を思っていたか、また長門の表情もどうだったか分からずじまいだ。


――11――
部室で珍しくコーヒーを飲みながら俺は思う。
はて、朝比奈さんは彼女の上司と連絡できているのだろうか、と。
連続訪問者のトリ、大人版朝比奈さんは「今回は手伝えることがほとんどない」と言っていた。同時に、自分が消えてしまうとその間この時代に来ることができないとも言っていた。ということは、まだ今の朝比奈さんと定時連絡なり定期報告なりといったやり取りをしているのではないだろうか。
「朝比奈さん、未来と連絡は取れていますか?」
丁度長門へのコーヒーを運び終わり、自分の椅子に戻るところだった彼女に俺は訊いた。朝比奈さんは一転の曇りも汚れもないたおやかな仕草と笑みでもって、
「前にも言ったじゃないですかぁ。そんなこと、あたしがキョンくんに言えるはずないでしょ?」
だよな。分かってますとも。このリアクションを聞きたくて質問したのかもしれんな俺は。だがしかし、これで確認できた。朝比奈さんが普段どおりにしているということは、まだ何も彼女の周りに異変は起きていないということだ。何か時間に関する異常が起きたときには、あのずっと昔のことのような夏休みのように、朝比奈さんはアクションを起こすはずだ。それが高確率で涙になりそうなのは何とも心苦しいが。


古泉がどこへ行ったのか知らないかというハルヒのぼやきに何パターンもの言語的回避をし、ようやく放課後を迎えると俺たちは揃って下校する。
「あぁ、あんたんちにまた寄ってくから、よろしく!」
「はぁ? 何だと?」
一日もようやく終わりに近付こうかと言うのに、まだお前は俺に心配事をもたらす気か。
長門や朝比奈さんとは別れた直後である。本当なら朝比奈さんにはボディーガードのひとつでもつけたいところなのだが。いっそ長門に頼んでみようか。そう思ったが長門の家で一泊したときの朝比奈さんのリアクションを思い出すと何とも言えないな。
「さぁ、早くしなさい! 出発進行!」
朝に匹敵するかそれ以上の大音声を放つスピーカーを後ろに乗せ、俺は自宅を目指す。どうなってんだかな。


困ったことに俺以外の家族は全員でハルヒを歓迎していたのだった。オフクロはハルヒの家族に電話をして談笑した後にハルヒと夕食の支度をし、うらやましくなったのか妹はないほうがいいんじゃないかと思うような手伝いをして食器を運んでいた。俺は他人の家にいるような落ち着かない気持ちとなって自室でしゃちほこばっていたが、携帯が机の上で振動したのを見て気持ちを切り替えた。知らない番号である。
「もしもし?」
「今晩は。森です。公園脇に車を停めていますのでご足労願えるでしょうか」
俺は電話を切って玄関に下りると、自分の靴を適当につっかけて家にいる面々に気付かれないようにそっと外に出た。門前から見える場所に、自らの存在を忍ぶように例の車が止まっていた。ウィンカーが一瞬だけ点灯する。
しかし三日連続とはね。俺も近いうちに機関からスカウトされるんじゃないだろうか。そうなったら俺も古泉の同僚か? いや、あいつは四年も前から所属してるんだったな。とすると先輩か。「どもっす、古泉先輩」「こんにちは。今日の任務はですね」……おぞましいやり取りである。つうかアホらしい。俺の脳内妄想に止めておくにしておこう。
俺は特A級の機密任務にあたる007を装った面持ちでドアを開け、後部座席に乗り込んだ。
「こんばんは」
「今晩は。連日申し訳ありません。涼宮さんと帰ってこられるようでしたので、一度身を潜めておりました」
新川さんへの目礼にも慣れ、俺は森さんとの定時連絡的やりとりをスタートさせる。
「何かありましたか」
先に訊いたのは俺である。森さんはわずかに表情を曇らせる風にして、
「朝比奈みくるさんにこちらのほうでガードをつけています。我々『機関』は一時的に長門有希さん、朝比奈みくるさんの勢力と部分的にではありますが、協力することにいたしました」
さすが機関といったところだろうか。古泉主催のハルヒ接待合宿では一体どんな連中なのかといらぬ心配をしたが、それこそ杞憂だった。先日のカーチェイスといい、日本に存在するプロフェッショナルスパイ集団と銘打ってもいいくらいじゃないかと俺は思い始めている。
「ご存知かもしれませんが、統合思念体は独立した急進派と和解できるようチャンネルを探っている最中とのことです。こちらから行動を起こせないのは、私どもとしても心苦しいところなのですが」
「古泉に会いましたよ、昨日」
俺は森さんにハルヒ特別製閉鎖空間の話をした。存在がまるごと消されている状態ではあるものの、あいつはさほど心配する素振りを見せていなかったこと、各方面のみなさんによろしくと言っていたことなどを、かいつまんで説明した。
「そうですか……。それは、安心材料になりますね」
森さんは確かに安心しているようだった。俺が見てきた森さんの中でも、初めて見るタイプの表情かもしれない。同じ機関の同僚に向けるものなのか、親戚の従兄弟に向けるものなのか、俺には定かでないが。
「しかし、結局のところその新しい急進派とやらの狙いは何なんでしょうね」
俺の何気ない問いに森さんは神妙な面持ちとなって答える。
「涼宮さんやあなたそのものではないのではないかと私どもは考えています。現在観測するような姿勢をとっていることからも、周囲の環境変化による涼宮さんの反応を見ていると捉えるのが、最も自然でしょうか」
「長門も言ってましたね。あんなに警戒するあいつも初めて見ましたが」
俺が不安なのは、今回の一件が一体どのように解決するのかってところだ。古泉は復活できるのか。朝比奈さんを守ることができるのか。そして、朝倉はこのまま2年5組に居続けるのか……。


それきり話は進展せず、今日の連絡は終了となった。車を出て自宅に戻ると、ハルヒが得意気な表情で待っていた。
「遅いじゃないの。ていうかどこ行ってたのよアンタ」
まるで飲み会帰りのサラリーマンのような心境である。別に浮気も酒も入ってないがな。
「コンビニだ。今日発売のマンガ雑誌を読んでたら遅くなっちまってな」
こういう時はハルヒと顔を合わせずに次に移ってしまうに限る。
「夕食は何になったんだ?」
「ふふん。楽しみにして手を洗ってくることね」


「……」
絶句しているのは長門じゃないぜ。というか今ここにあいつはいないしな。
あまりに力をふるいすぎて三日分の夕食を一同に会させてしまったかのような豪華ディナーである。
「お前これ、家の食材は無限じゃないはずだがな」
ようやく告げた一の句が憎まれ口なのもしょうがないと思うね。わが家のテーブルにこれだけ品数が並んだことなど、そう何度もない。というかどう見ても多すぎである。
「大丈夫よ。保存がきくものばっかりだし、そのへんはおばさんと話し合ってぬかりなく調理したから!」
びしぃっと親指を立てて蛍光灯いらずの太陽スマイルを浮かべる。俺の家までSOS団の支部になっちまう日も遠くないかもしれんな。
オヤジにオフクロ、妹までいつもより余計に笑ってる気がするのは、ひとえにハルヒ効果だろうか。まったく。
「いただきまーす!」


ハルヒはその後の片づけまでバッチリ手伝い、やたらオフクロと快活なトークを繰り広げてそのままの勢いで帰っていった。おかげで後になって「あんた、送ってかなくてよかったの?」などとオフクロに言われる始末である。そんな楽しげに言わないでくれ、頼むから。にしてもハルヒもここから自宅まで歩いて帰るのか? 確かに送っていってやったほうがよかったかもしれん。
俺はその後部屋に戻って色々なことが起こりすぎている現状をあらためて鑑みた。不確定な要素が多すぎる。朝倉ひとり現れて、本人が何かするところをまだ直接この目で見てないってのに、何なんだ一体。当惑しっぱなしな俺も俺だが。


さて夢の中まで昨晩と同じ展開が起こるとは予想しておらず、それはハルヒの奇矯で唐突な振る舞いによるところ大であり、今夜は俺が部室の中にいたのだった。
間もなくノックがあり、現れたのもやはり古泉だった。深夜に現れる亡霊だなまるで。
「その表現はあながち間違いじゃありませんね。何せ、今僕はそちらの世界にいないのですから」
相変わらず他人事のようだが、深刻な顔をされるよりは幾分ましであろう。
しかし今夜もお前に会うとはな。まぁ今回はあの坂道を登らされなかっただけよしとするか。
「さて、今日は何がありましたか。お聞かせ願えれば幸いです」
お前は心理カウンセラーか。ずいぶんと安い医院だな。などと突っ込んだりせず、俺は突然始まったハルヒのコメディ的振る舞いについて古泉に話した。
「それはそれは。ある意味うらやましいですね。世の男性であれば、誰でも一度は思い描く風景なのではないですか?」
多少のジャブは覚悟していたが、やっぱり実際言われると腹立たしいことこの上ないな。そりゃ俺だって朝比奈さんがある日突然自宅専用メイドさんになってくれたとなれば小躍りしてスキップしたまま学校に繰り出しただろうさ。だがお前、相手はハルヒである。こちらがありがたく思うはるか昔にお礼の督促状を千通も万通もよこすような感情インフレ団長だ。
古泉はクスクスと笑う。台本に書かれた予定調和を二人して演じてるような気分になってくるぜ。
「ずっと言っていることですが、僕は涼宮さんの心理に関してはスペシャリストです。機会さえあれば本にして出版したいくらいですよ」
何を書くつもりだ? あいつの次元を超越したような理解不能な思考回路に関してか。
「まぁ、それは余談として置いておきましょう。本題は、なぜ涼宮さんが突然あなたの登下校に付き添うような真似をしたのか、この一点です」
登下校ね。食事の用意までしてムダに俺の家族と親密になっていたがな。
「それは涼宮さんにとって、本当の意味で目的とはちがうのですよ」
「どういうことだ」
「彼女はおそらく、あなたが危機的状況にさらされている事を感知したのです。涼宮さんはいわば、あなたのボディーガードをするためにわざわざ遠回りをして登下校に付き添ったのです」
ボディーガードだって? あいつが? 俺の? んなアホなことがあるわけないだろう。
「そうでしょうか。ではあなたはどうですか。朝倉涼子が登場し、何が起きてもおかしくないような日常の中で、あなたはいつも通りに振舞えているでしょうか」
そう言われれば答えは明確に否だ。実際俺は朝倉そのものの危険性と朝比奈さんの無事に気が気でない。
「それと同じです。涼宮さんは僕がいないことや、あなたや長門さんの些細な変化、朝倉涼子の転入などから不穏な気配を感じ取ったのです。さいわい神人を生み出すような方向には向かっていないようですが、まさに、涼宮さんはあなたを心配して突然の同行を始めたんですよ」
俺は思わず唸りそうになるほど考えこんでしまう。認めたくないがそれでも解釈は成り立つ。あいつの勘の発揮具合は、地球上のどの生物よりも鋭敏と言っても構わないくらいだ。今回もそれか? 毎度ながらハルヒの第六感には俺は辟易する一方のような気もするが。
「何にせよ、涼宮さんに悪気はありませんし、彼女とあなたが近くにいることは他の人間にとってもメリットがあります」
耳を疑うような話だな。
「冗談ではありませんよ。言いましたよね。今や、あなたは涼宮さんと並んで最も重要な人物なのです。両方が守護の対象ならば、ひとところに集まっていてもらえる方が好都合です」
古泉は終始微笑を崩さない。どういうわけか、年末、別の制服を着ていたこいつの表情を思い出してしまった。
俺がどんな顔をしていたのか、古泉は小首をかしげ、
「どうしました。涼宮さんに警護されるのはお嫌でしょうか?」
ニヤけるな。こいつにはからかわれるようなことがあっても逆の立場になったことはないな。
「そんなことはないがな。慣れないだけというか」
古泉は肩をすくめて両手を広げるというお得意の仕草で、
「僕たちは今や運命共同体です。誰かが窮地に陥れば、他の誰かがそれを防ぎ、また救う。あなたも気付いているはずですよ。かつてあなたと涼宮さんの間に存在していた信頼関係が、今やSOS団全体に広がっているのです。僕はいつぞやあなたと交わした約束を今も覚えていますし、時が来て必要とあらばそれを実行するでしょう」
何やら諭されているような気分だぜ。投げてくる球がストレートなだけに打ち返さなければストライクを取られてしまいそうだ。しかしハルヒもハルヒだな。自分のキテレツな振る舞いの説明を自分の作った空間で古泉にさせるんだから。お前とハルヒの関係もある種理想的なんじゃないのか。
「えぇ、そうですね。かれこれ四年もこの空間と付き合ってきましたから、そろそろ慣れるくらいでないとやってられないというのも正直なところです」
昨日より俺と古泉は多くを話した。俺のほうもいつもより真摯な態度だったかもしれない。それはこの特異すぎる状況のせいもあるだろうし、うららかな春に進行する不穏な気配のせいもあっただろう。

土日は不気味なほど静かに過ぎた。
全ての出来事にポーズがかけられているようで、休日のはずなのに心休まらないのは俺だけだっただろうか。

月曜日の朝、起き抜けに俺はこの二日間古泉とあの閉鎖空間が現れなかったことや、ハルヒも市内探索だのイベントだの言い出さなかったことについてぼんやり考えていた。

しかし、それはあっという間に中断を余儀なくされるのである。


朝倉涼子の手によって。



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