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§第二章§

――6――
翌朝、俺は夢見も悪く気分も悪く学校へ向かう。
昨日は夕飯も食べずに眠ってしまった。困惑する長門などというものを初めて見た。
あいつはいつもSOS団の最終防衛ラインだった。どんな時でも、結果的には必ず俺たちを助けてくれた。
その長門を易々と出し抜いて、新急進派はあっさりと古泉を消しやがった。
「古泉……」
「古泉がどうしたんだ?」
横を見ると谷口が能天気に歩いていた。いまだに何も知らない、そして、これからも知らないままだろう、俺の友人……。
立場が逆だったらどうだろう。俺が谷口の立場だったら、今俺は何を考えているだろう。
新学期。新しいクラス。新しい毎日。けれど普通の日々。
俺は俺の立場を半ば望んでいたはずだ。それはもう分かっている。
けれど、こうして実際に団員に危機が迫ると、どうしても足がすくんでしまうな。
言い訳するつもりはないが、俺にはどんな特殊属性もないのだから。
「何でもねぇよ。今日の授業は何だっけ?」
「一限から物理だぜ。ほんとに、俺もさっさと文系に転向すべきかな」
谷口が文系というのもどうにもイメージできないが、かといって理系に進む谷口はもっと世紀末だ。


知らず知らず、俺たちに危機が迫っていて、気付けばそれは回避できない形を伴って襲い掛かってくる……。
今までは、根拠はないが確信というか自信というか、何とかなったから何とかできるだろう、みたいな妄信を俺はしていた。だが今回はどうだ? 長門が困る姿なんて、改変されちまったあの世界と雪山を除けば初めてだ。いや、それらが兆候だったのかもしれないな。少なからず、長門にもどうにもできない事態があるということを俺は知らされていた。その時にはハルヒという切り札を持ち出すまでだ、などと楽観的に考えていた。だが、そう簡単に持ち出せるカードではない。ハルヒに俺や他の団員の正体を明かすことで、世界はおかしな方向へ変貌してしまうことだってあり得るのだ。あくまでハルヒの力は「落ち着いてきている」というだけであって、無くなったわけではない。俺を含め、古泉やその背後にいる機関、長門と情報統合思念体主流派、朝比奈さんの未来人はどうか分からないが、少なくとも先に言った三つの望みは現状維持のはずだ。それが難しくなってきているのは、朝比奈さんが誘拐されたあの一件で明らかとなった。だからこそ俺はこの日常を守りたいと思ったし、俺に出来ることは何だってしてやりたいと思った。朝比奈さんや長門を助けるのはもちろんだし、ハルヒの思いつきにはなるべく巻き込まれちまいたい。古泉だって困っていたら手を差し伸べてやる……そう思っていた。だが、俺に何ができた? 今回、長門にすらどうにもならなかったこの状況で、俺に何ができるって言うんだ? 古泉は転校してきたばかりの頃俺にこう言った。「保証します。あなたは何の能力も無い、普通の人間です」と。そう、だからこそ俺はSOS団唯一の良心として、この団があらぬ方向へぶっ飛んでしまうのを、自分なりに抑えてきたつもりだ。……つもりだったが、今回ばかりは俺に何の非日常的特性もないことがうらめしくなる。何か起きていることを分かっていて、これからも、いや、今すぐにでも何か起きるかもしれないことを知っているのに、何もできないこのジレンマ。
谷口の話をまるっきり生返事で聞き流して二年五組の教室に入るまで、俺はそうやって自問自答していた。
新しい担任の吉崎が、俺が愕然とするようなことを告げるまで。


「新学期が始まって間もないが、転校生がわがクラスにやって来た」
吉崎のだみ声による発言は、クラス中をざわつかせる効力を十二分に発揮した。
「転校生ですって!?」
後ろの席のハルヒにいたっては十五分くらいの威力だろうか。明日から夏休みだと聞かされるよりよっぽど嬉しいニュースが飛び込んできたような表情である。反対に俺は、一体誰が新学期早々転入してくるのだろうと訝った。
その瞬間、ざわめきはどよめきと言ってもいいくらいに大きさを増した。何人かの男子生徒は口笛を鳴らしたほどだ。
がたん、と立ち上がったのは、谷口その他の生徒だけではなく、俺やハルヒも含まれていた。
「あー、およそ一年ぶりだそうだ。入学して間もなく、両親の仕事の都合でカナダに引っ越していた。昨年一年五組だった者は覚えていると思う、朝倉涼子君だ」
俺はすべてが真っ白になったようにその姿を見ていた。
昨日見たのとまったく変わらぬ出で立ち。笑顔は、表の顔。ハルヒが懐かしい驚喜の声を上げている。クラスが活気に満ちている。寒気を感じているのは俺だけ……。
そこで俺は、ようやくこのクラスに長門がいることを思い出した。今日は自分の考えに没頭しすぎていた。長門は朝倉を瞬きひとつせずにじっと見据えていた。その横顔には驚きの色が見える。見ているのが俺じゃなくても分かるくらいに、長門は驚いている。だが間違いなく、今、俺以外のクラスメートの視線は前にいる朝倉に集まっている。長門は俺のほうを一度も見ない。朝倉に持てる監視能力を総動員しているようだ。

その朝倉はにこやかに笑うと――俺と長門に目配せをした。

ほんのわずかな時間だった。賭けてもいいが気が付いたのは俺と長門だけだ。
こいつは今声なき意思を俺たちに伝えてきたのだ。「覚悟はいいわね?」と言うかのように……。
朝倉は吉崎に案内を受けると、廊下側の一番後ろの席に腰を下ろした。てっきり欠席者の席かと思っていたが、新学期当初からこいつが来ることが決まっていたのか……?

俺はその後の授業をまったく聞けずに、朝倉に注意力のほとんどを払っていた。……いたのだが、
「ねぇ! 朝倉が何の前触れもなく戻ってきたわ! おかしいと思わない?」
ハルヒが俺を刺すような勢いでシャーペンつっつきをやって来るのでたびたび注意がそがれた。本人は小声のつもりなんだろうが、周囲の席の人間には間違いなく聞こえてるぞ。席は遠いが朝倉も聞いているだろうな。何せ普通の人間じゃないのだ。
「急に転校したんだから急に戻ってくる事だってあるんだろ。ほっとけ」
「そうは行かないわよ。あの時転校した理由を聞くまたとない機会じゃない。実はあたし、夏ぐらいまで朝倉転校の理由を自分なりに調査してたのよ? なのに何にも手がかりは得られなかった。どう考えてもおかしいのよ」
何がおかしいのだろう。素人が誰かの素行調査をしたところで、得られる情報などたかが知れているのは明らかだ。まして相手は広域宇宙体のインターフェースである。というか、朝倉の痕跡を消したのは長門のはずだ。
長門は朝倉の方こそ見ていなかったが、何かあったらすぐに動けるよう警戒しているのが見て取れた。ハルヒが数分に一度は俺に自分の考えを聞かせてくるので、どうしてもそちらに構う以外の選択肢がなくなってしまう。


物理が終わって次の古典までの休み時間、ハルヒはさっそく朝倉の席に向かって行った。止める間もなく。
「久しぶりね。元気そうで何よりだわ。早速だけど去年転校した本当の理由を教えてちょうだい」
横柄な態度を隠しもせず、去年の五月を再生するような調子でハルヒは言った。両隣には俺と長門。もちろん警戒レベルは最大だが、朝倉は笑うだけで、昨日俺に見せた嘲笑も挑発ももちろんしなかった。
「あら、伝わってなかったの? ちゃんと学校には行っておいたんだけどなぁ……。わたし、カナダに祖父がいるのね、昔から大好きだったんだけど、この一年具合がよくなくてね。結局亡くなってしまったんだけど、しばらくわたしと過ごすことを望んだのよ。わたしもそれを断らなかった。それだけよ? 涼宮さんが望むような不思議な事なんて何一つないわ、ね?」
朝倉は俺に訊いてきた。知るか。嘘100%じゃないか。ハルヒがそんなことで信じると思ったら大間違いだ。案の定、
「ははーん、どうしても言えない理由があるのね。まぁいいわ。おいおい聞き出してあげるから」
朝倉は何の思い当たりもないと言うように首をかしげて、
「それより、この一年涼宮さんがどうしていたかの方がわたしは気になるな。教えてくれないかしら?」
優等生そのものの振る舞いでハルヒに尋ねる。ハルヒは、
「じゃぁ交換条件ね。あたしがこれまでのSOS団の武勇伝を聞かせるから、代わりにあんたは転校の本当の理由を教えること。どうよ?」
長門を見ると、やはり朝倉をずっと見据えたまま微動だにしない。
「だから、本当にそれだけしか理由がないのよ? ふふ、涼宮さんも相変わらずね」
朝倉の笑顔に周囲の生徒数名が視線を送っている気配がしたが、俺には振り返って確かめるほどの余裕はない。


ハルヒは次の授業が始まるぎりぎりまで朝倉と言葉を交わし、二限が始まるや
「絶対何か隠してる。あたしには分かるのよ」
と言ってそれきり俺には話しかけなかった。俺も俺で考えなければならない。
朝倉がこのクラスにいては長門とやりとりすることすらままならないではないか。というか、あっさりとこのクラスに転入してくるなんて、新しい急進派とやらはどれだけパワーアップしてるんだ? 朝倉がこのクラスに来る利点はいくつもあるだろう。何せハルヒがいるのだ。その上で俺と長門が会話するのを知ることができる。あいつなら易々と盗聴してくるだろう。だが、逆にあいつはそれほど大きな行動を起こせないんじゃないのかとも思う。昨日、あいつは俺を殺せないようなことを言っていた。役目だったか、急進派が一体何を考えているのかは知らないが、大きなアクションを起こせば朝倉がそれ以上このクラスにいることは困難になるはずだ。


ハルヒは休み時間になるたび朝倉に話しかけ、同じような会話が繰り返された。朝倉は朝倉でハルヒに余計な情報を与える気はないのだろうか。だがここで問題なのは、ハルヒがいることで今度は俺が朝倉から情報を聞き出せないことである。こいつには質問したいことが山のようにある。長門だって同じだろう。今教師の指名に淡々と答えを述べているが、授業内容を聞いていたとも思えないな。
「いやぁ! まさか朝倉が帰ってくるなんてな! このクラスにいてよかったぜ、感謝感謝!」
昼休み、国木田と揃った昼食での谷口の発言である。まるでなぜ朝倉がここにいるのか分かっているかのような内容だが、間違いなくこいつは単純に朝倉が帰ってきたことを喜んでいるだけだ、うん。
「急に転校したと思ったら、帰ってくるのも突然だったね。谷口も、ひさびさに嬉しいんじゃない?」
朝倉について一人熱く語る谷口を軽やかにほっぽらかし、国木田は玉子焼きを頬張り言った。
そりゃぁ俺もお前ら二人のどっちかだったら同じように狂喜乱舞してるかもしれん。見た目と上っつらだけなら朝倉はいまだに全北高生の中でも上位に位置する容姿と性格をしている。だがそれはあくまでも表の顔にすぎず、正体とこれまでの行いを知っている俺からすれば、他にどんなに性格の悪い人間がいたとしても最下位にはならない。
さらに驚くべきことに、朝倉とハルヒと長門は連れ立って学食に出かけたらしかった。止めようとする俺に長門と朝倉が揃って「大丈夫」と言っていたが、何が大丈夫なんだ。二人が言った言葉は同じでも、そこに込められた感情は明確に別のものだろう。
「俺、いっそ朝倉にコクッちまおうかな」
谷口のアホ発言に俺は即行でむせた。げっほげほ! おい谷口。それは新式のジョークか。それとも俺をからかってるのか。
「ん、何だよ。お前も朝倉が好きだったのか?」
俺は全力で持って首を横に振った。というか、お前も、ってお前……
「今だから分かるんだが、あの時俺が朝倉に抱いていた感情は恋愛感情だと思うんだ」
「へぇ、谷口、冬の傷はもう癒えたわけ?」
国木田の発言に今度は谷口がアスパラのベーコン巻きを取り落とした。
「だからあれはもう蒸し返すな! 俺は前しか向かないことに決めたんだ」
「そういやその話、結局詳しく聞かないままだったな」
「キョン、知らなくていい。国木田! 言うんじゃねぇぞ。知らない方が幸せなことだってこの世にはあるんだ」
達観したような悟ったような台詞を谷口は言った。知らない方が幸せ、ね。この会話をただのクラスメートとしてできていたら今の俺はもうちょっと楽しくなってたかもしれない。
「どうしたんだキョン? お前今朝から何か様子が変だぞ? さては、やっぱりお前も朝倉のことが」
それだけは死んでも刺されてもない。二度死にかけた俺が言うんだから鉄板だ。
まぁ、谷口や国木田との会話と、春という清々しい季節のおかげで、朝俺にわだかまっていたブルーな気分はだいぶ軽くなった。
今さらながら友達ってもののありがたみというか、実感する次第であるが、口に出しては言わないことにする。


授業がすべて終わると放課後になる。
朝倉は偶然目が会った俺に手を振ると何の迷いもなく教室を出て行き、俺は数秒ほど出口に視線を固定したままだった。
「……聞いてんの、キョン!」
「のわっ!」
ハルヒにネクタイをつかまれた。いい加減にそのケンカを売るような振り向かせ方はやめてくれないもんだろうか。
「何よそれ、あんたが聞いてないのが悪いんでしょ! さぁ、部室に行くわよ。有希も!」
長門はこくんと頷いて俺たちの傍に音もなく歩いてきた。
「昼休み何話してたんだ? 朝倉と」
「秘密よ秘密。あんたも野暮なこと訊くのね」
そりゃ普通に女子的トークに興じてたんなら俺もわざわざ内容を問うたりしないっつうの。だがな、相手が露骨に敵意を持って接近してきた前科二犯のアンドロイドだとすれば話は別だ。……などと言えるはずはない。
「特別なことは話していない」
長門が言った。例によって真摯な眼差しだから俺もそのような顔つきになる。
「そうか。ならいいんだが」
俺と長門の言外のニュアンスに特に何も気付かないように、ハルヒは、
「それにしても、転校した理由については結局他に何も言わなかったわ。本当にあれだけなのかしらね。何だか訊いてるこっちがバカみたいに思えてくるわ」
「だから余計なことを詮索すんなって言っただろうが。お前はいちいち疑ってかかりすぎなんだ。探偵は孤島と雪山だけで十分だ」
ハルヒは別にがっかりした様子も見せずに、意気揚々と部室に向かう。その段になって俺は昨日の朝倉の台詞を思い出す。……朝比奈さんは無事だろうか。朝倉が学校に戻って来て、何をするでもなくもひょうひょうと帰ってしまったものだからすっかり忘れてしまっていたが、あいつは近いうちに朝比奈さんも消してしまうと言っていた。
「みくるちゃんやっほー! 元気してる?」
先陣切って部室に入り込んだハルヒの言葉に、朝比奈さんの笑顔が帰ってきた。実は彼女は春の精で、その笑顔で地上に春という季節をもたらしているのだと言われたところで俺はまったくそれに反論したりしないであろう。
「あれ、古泉くんは今日もいないのかしら」
ほわんとしかけた俺の心が一瞬で引き締まる。長門とつい目配せしてしまう。朝倉の話が本当ならば、古泉は今日もここに来ないはずだ。それどころか、今全宇宙を捜しても古泉一樹なる存在はいないことになっている。昨日までは病欠か機関の特別任務かと思っていたのだが、そのどちらでもなかったらしいな。SOS団は四人になってしまった。情報連結解除……俺はふと思い当たり、ハルヒが団長机に向かうのを見届けて長門に小声でささやいた。
「古泉の再構成って、統合思念体にはできないのか?」
長門はつと思案するように顎を引いたが、
「できなくはない。ただし、わたしは独立した急進派による古泉一樹の再構成の可能性を憂慮する。その場合、古泉一樹が二人になってしまう。どちらがオリジナルという区別もない。その際、片方を抹消しなければならない」
……それはとんでもないことだ。急進派が古泉を消しちまったことももちろんだが、長門の側にそんなことをしてほしくはない。砂のように姿を無くしてしまうあれは、形こそ違えど殺人に当たるのではないかと、俺は思ったことがある。
「今はまだ様子を見たほうがいい。古泉一樹の思念体による再構成は、最終手段」
人間を蘇生することができるなら、誰もが思念体に死者の復活を懇願するのではないだろうか。これはたぶん、本来いなくなるはずはない人間への特別措置だ。だからこそ、慎重にならなければいけないのだろう。ハルヒが変な力を発現させなければ、そもそも情報統合思念体なる存在が地球に目をつけることもなかったのだ。当然古泉が超能力を持つことも、朝比奈さんが未来からこの時代に来ることもない。SOS団があったのかどうかは分からないが……。
正直に言ってしまうと、俺は古泉に一刻も早く戻ってきてほしかった。それは部室のいつもの風景を取り戻したいということもあるし、ゲームの対戦相手はやはりあいつが最適ということもあるし、あいつがSOS団の副団長であり俺のよき話し相手ということもある。だがそれ以上に、俺がこの学校で一番親しくしている奴は、やはり古泉だと思うからだった。いなくなって気がついた。あいつの、耳にタコができそうなくどい説明も、意味があるんだかないんだか分からないような発言も、何だかんだいって退屈はしてなかった。こういうことをわざわざ自覚するのはこっぱずかしいが、今ここにあいつがいないからこそ俺は思うのだ。古泉一樹は俺の親友だ、と。
俺は何かを失うかどうかのところに来ないと、いつも気がつかない鈍い性質を持っているらしいな。
俺は古泉が帰ってくることを信じるし、帰らなくても取り戻すまでだ。ここにはハルヒも長門もいる。それに朝比奈さんも……。
「朝比奈さん。このところ変わったこととか、ありませんか?」
お茶をいそいそと運んできた春の妖精さんに俺は尋ねる。何か変わった兆候があるとも思えないし、消えてしまうとすればそれは一瞬のことなのだろうが、だとしても俺はそう訊かずにはいられなかった。
「変わったことって何です? あたしはいつも通りですよ。うふ」
「いえ、それならいいんですけどね。お元気ならば何よりです」
マヌケな発言に聞こえるだろうが、これも俺なりの精一杯の防衛手段なのだ。


結局その日も休息的なSOS団の放課後が展開された。
長門も読書をしていたが、終業時刻を迎え駅前まで歩いた後に、やはりというか何というか、俺は呼び止められた。


――7――
「朝倉涼子があなたを狙うことはない」
それが長門の第一声だった。昨日に引き続き前置きをせず、場所も昨日と同じで家具もまばらなマンションの一室である。
「わたしは朝倉涼子と意志の疎通を図った。彼女は多くを未だ隠したままだったが、それだけははっきりと伝えてきた」
昨日との違いはお茶が出ていることである。長門の声は依然緊張を帯びているようだったが、それくらいのゆとりはあったのだろう。
「統合思念体は新しく誕生した急進派とのコミュニケートを試みている。早い段階で止めることができれば、平和的に解決することもありうる」
果たしてその情報の信憑性はいかほどなのだろうか。誰がどのようにしてもたらしたのかは分からないが、昨日の朝倉の言動は真に迫っていたぞ。まるで今日にも朝比奈さんを消してしまうかのようだった。
「急進派も手段は違うものの目的は同じ。長期にわたる静観姿勢に異を唱えたかったものとみられる」
どうも駄々っ子のイメージだな。だからって人一人を消したりもう一人消す予告をしたりしていいわけがない。大体、俺には朝倉にもういい印象は抱けない。あの改変された世界は長門によるものだったが、そこでも朝倉に同じ役目が課されているとは思いもしなかった。スタンスそのものを見れば、あいつは悲しい存在だ。長門以上に、普通であることを許されていない。意識を持っているが、上の命令には逆らえない。反逆集団の一員もまた属する集団に反旗を翻した。それが昨年五月の一件だったのかもしれない。表と裏。ギャップがありすぎるんだ。それこそ俺も谷口みたいに、のん気に朝倉ファンのひとりになれていればよかったのかもしれない。
「だがあいつが古泉を消しちまったことには変わりないんだろう。平和的解決とか、期待してていいものなのか」
「朝倉涼子はしばらく様子を見ると言った。古泉一樹がいなくなることで涼宮ハルヒがどう反応するかを観測するためと思われる」
そろそろハルヒは古泉の不在に不信感を抱いてもおかしくない頃合だ。実際、朝倉が来てなかったら今日あたりイライラがピークに来ていたかもしれない。
「それでも、お前や思念体はまだ朝倉や独立した急進派に対抗する術を持ってないんだろ。危険なことには変わりがないんじゃないか?」
長門は一度目をつむった。ふたたびまぶたを開くと、お茶を一口飲んで、
「だからこそ朝倉涼子との衝突は回避すべき。彼女が以前のように暴走した際、今度はわたしにも止められるか分からない」
例によって空恐ろしいことをさらっと言う長門である。だが、その目には最悪の事態を本気で危惧する色が見えるようで、そこは事実を淡々と告げていた昨年の春先とは隔世の感がある。
「わたしは思念体と連絡を取りつつ、わたしの思うように行動することを許可されている。あなたも、自分の信念に従うべき」
信念、ね。俺にそんなものがあるかは分からない。あるとすれば、SOS団の日常が壊されるようなことだけは何としても避けたいってことぐらいだ。そしてそれは今の俺にとって守るべき最重要事項だ。ならば、信念と呼んでさしつかえないものなのかもしれない。しかし、長門からそんな言葉を聞ける日が来るとはね。いくら対処する術がないとしても、十分に心強い言葉だぜ。
「わかったよ。また何かあったらいつでも言ってくれ」
長門はこくんと頷いた。手付かずだったお茶を飲むと、まだわずかに温度が残っていた。


俺が家に帰ると、今日も黒塗りの車が停まっていた。乗っていた人物も昨日とまるっきり同じで、やはり俺は同様にして後部座席に乗り込んだ。
「連日すみません。古泉の消息を長門有希さんより聞いたものですから、あなたに昨晩の状況を直接伺おうと思いやってまいりました」
森さんは慇懃にお辞儀をして、新川さんもミラー越しに目礼する。俺も挨拶を返すと、昨日森さんに会った後の来訪者二人について話し、今日そのうちの一人が転入生として北高に帰ってきたことを話した。
すでに夜の帳が下りており、空気こそ寒くはないが特有の緊張が車内に満ちていた。
「なるほど。朝倉涼子が復活したのですね。古泉は彼女が存在ごと消してしまったと……」
森さんは普段と変わらぬ口調であったが、その内側には普段と違う思いがあるように感じた。あくまで俺がそう思っただけであって、気のせいかもしれないがな。長門と違って、俺は森さんや新川さんのことはあまり知らないからな。
森さんはしばし黙考していたが、やがて、
「古泉は重要な対『神人』要員の一人です。一刻も早い復帰が望ましくありますが、事態の悪化はもっと避けるべきです。長門さんの言うように、こちらから波風を立てるような真似は避けるべきでしょう」
そう言って俺に目配せした。本当にこの人は実年齢が分からないな。十代後半でも、二十代半ばでも俺は信じるだろう。穏やかながら鋭い視線は、いつだったか誘拐犯を撃退した時に見せた凄まじいまでの微笑と同じく、彼女が持ついくつもの表情のうちのひとつなのだろう。


今日は俺が情報を提供して森さん新川さんコンビとは別れた。静観か。今最もされたくない指示のひとつかもな。何か起きているのが分かっているのに何もしてはいけないなんて。まだもう一人の朝比奈さんと目的不明のままお使いRPGをこなしているほうがよかったかもしれん。


朝倉も朝比奈さん(大)も今日は俺の元を訪れず、とはいえ来てもらっては困るのだが、そういうわけで俺は自宅にようやく帰りついた。夕食と風呂をすませ、母親が机に置いた予備校のパンフに目を通す気にもなれず、ベッドで答えの出ない問題について一人考えながら、俺はいつしかうとうとと眠りに就く――


はずだったのだが。いや、実際に就いたのだが、次に目を覚ますのは朝ではなかった。


――8――
誰も、何も俺の眠りを妨げはせず、俺は普通に目を覚ました。
いつもなら目覚ましだけでは起きずに、続いてやってくる妹の奇襲を受けてようやくベットからはい出る俺であるが、はて自力で起きられたのだろうかと周囲を見渡して、違和感に気がついた。
現在時刻が朝ならば、室内がこんな色をしているはずはないだろう。ならまだ夜中なのか。普通はそうだろうが、それも違う。この胸がざわざわするような感覚が伝えている。……俺の推測が外れていなければ、実に十一ヶ月のご無沙汰だ。
俺は自分の居場所と服装をあらためて確認する。寝た時のままのスウェット、同じくベッド。さて、何を着て外に出るかと考えて、そのようなことは些末な問題に過ぎないと思い直し、俺は制服に着替えることにした。落ち着かないのはやはりこの状況のせいか。誰が俺をここに呼んだんだ。
自室を出て家族の部屋を一通り見て回ったが、やはりというか、誰もいなかった。居間に下りるが、何か食べるような気分ではない。
俺は玄関に向かい、靴を履いてポストをチェックした。新聞は来ていない。……余計な確認作業だったかもな。
間違いない、ここは閉鎖空間だ。俺にとって三度目の、来てほしくなかった灰色世界。
「どこに行けばいい?」
思いつく場所はせいぜい二つか三つだ。休日の集合場所、長門のマンション、北高……。
俺は周囲を見渡した。『神人』のものと思しき青白い影は、少なくとも視界には映らない。俺は自転車を引っ張り出して、北高を目指すことにした。


他に物音がまったくしないために、油もろくにさしていない自転車をこぐ音がやけに大きく響く。動くものも、明かりも何もなく、いつの間にか駅前の駐輪場に到着する。鞄も持たずにハイキングコースを登るのは妙な感じだが、そもそもこの状況自体が妙なのだ。俺は坂道を登りながら考えていた。誰が作った閉鎖空間だ? やはりハルヒか? 
古泉はハルヒ以外にも閉鎖空間を作り出せる人間がいるなどと言ってはいなかった。古泉不在による無意識のイライラが発生させたのだろうか。だとすれば俺がここに呼ばれる理由が分からない。イライラしても、今回はあいつが世界に失望するような要素はないはずだ。じゃないと、これまでSOSの五人やその他の順団員、関係各位で繰り広げてきたあれやこれはまったく意味を持たなくなってしまう。実際ハルヒは今年になってからは特に笑顔でいる回数が増えていた。今や教室でもあの100Wスマイルを浮かべるかもしれないくらいにだ。だからこそこの閉鎖空間には疑問しか生まれない。それに神人もいないじゃないか。またはこれから出てくるのか? ハルヒもいないのに? ひさびさに見る灰色の校舎。例によって人気も明かりもなく、俺は閉ざされた校門を乗り越えて敷地内に入る。思いついた候補地のうちで、なぜここを選んだのか、明確に述べることは俺にもできない。ただ、過去二回来た閉鎖空間のうちの片方がここに発生したからとしか言いようがない。こんな忌々しい場所に帰属意識なんぞ持ちたくないのが正直なところだが。
昇降口は施錠されていて、俺は空いている場所がないかひとしきり見て回る。……すると、かつて俺が出てきた窓(あの二度目の四年前の七夕の日だ)に鍵がかかっておらず、運がいいのかはたまた他の理由か、校舎内に入ることに成功する。
クラスは変わったばかりだが、つい一年五組のほうに行きたくなってしまう。俺は旧クラスと新クラスを見て回り、何もないと分かると、部室に足を向ける。これまでの経験から言って、非日常と呼べる現象が発生した際には、必ず行くべき場所やするべきことが存在している。今回も俺はそれを信じて疑わなかった。暗く無人の学校に対する恐怖はさほどなかったが、いつ朝倉のような存在が立ちはだかるかわからないと言う不安は無視できなかった。俺は可能な限り警戒して校舎を巡り、しかし今のところ何に遭遇することもなかった。
部室の前まで来て、俺は一度呼吸を整えた。日常の中心はいつだってこの部室だったし、おかしな状況に陥った時、何度かキーポイントと化したのもこの文芸部室だった。俺はひやりとしたノブをしっかりつかんで、ゆっくりドアを開けた。


そこにいた人物を目の当たりにして、俺は意外にも意外な心境となった。


――9――
「おや」
そこにいたのは古泉だった。いつもの柔和な表情をたたえ、俺と同じ北高の制服に身を包んでいる。
「お前か……」
俺は安心したのやら当惑したのやら分からず、半ば自動的な動作でパイプ椅子を引き寄せて腰を落とす。
「待っていましたよ。いつあなたが現れるのかとね、思っていたんです」
古泉は立ち上がって戸口に向かい、電気を点けると、普段朝比奈さんがお茶を入れるコーナーへ向かい、急須にポットから湯を注ぎ始めた。背中をこちらに向けながら古泉が話す。
「どちらから説明を始めますか? 僕も、あなたも、共有すべき情報をいくつか持っているように思うのですが」
俺はこの状況にまだ慣れていないんだ。ひさびさだし、突然だったからな。
「お前から話してくれるとありがたい」
俺は古泉に言った。古泉は急須に湯のみふたつを持って長テーブルに戻ると、
「えぇ。ではそうさせてもらうとしましょう。僕の予想では、あなたの話の方が長そうですからね。僕があなたにお話できることは、まぁそんなにないでしょう。短い話から先に済ませてしまったほうがいい」
古泉は緑茶を湯飲みに注ぎながら続ける。
「僕が気がついたのはつい先ほど、一時間ほど前でしょうか。いた場所もここ、部室です。同時に、僕はここから離れすぎてはまずいという予感めいたものを感じました。おそらくはあなたがここにやって来るからなのでしょう。ここは閉鎖空間と見てまず間違いありませんでしたから、僕は校舎付近限定で三十分ほど辺りを探索してみました。何かが出てくるとは思っていませんでしたが、その通りでしたね。言っておきますと、神人の気配はありません」
古泉は俺の前に湯飲みをひとつ差し出した。古泉の茶か。あんまり嬉しいもんでもないが、喉は渇いているからありがたくはあるな。
「この状況を作り出したのも涼宮さんで間違いないと思います。閉鎖空間を生み出せるのは、僕や機関の知る限り彼女しかいませんから」
「ってことは、あいつが俺とお前をここに閉じ込めるなんてわけの分からん状況を望んだってことか?」
だとすればハルヒの趣味を疑ってかかる以前に、今まであいつのそんな性質を見抜けなかった自分にヤキのひとつも入れたくなるな。
「ここから先はあなたの話を聞いてからの方がいいと思うのですがね」
古泉は薬指で前髪をかき上げる。いつもながらいけすかん仕草である。一時でもこいつに会いたいように思っていた俺が馬鹿馬鹿しくなる。だがそれすらいわば条件反射に過ぎない。分かってるさ。俺はこいつがこうしていてくれて安心してる。そんなことないと思いたかったが、もう古泉と会えなくなることはありうるだろうかと、一瞬でも考えたからな。最悪の事態ってやつだろうか。
「わかった。俺のほうの話をしよう。先に言っておくが、嘘は何一つないからな。ショックを受けるのは後回しにしてくれ」
俺はこの四日間の出来事について話し出した。古泉が学校を休んでいると思ったら帰り際に森さんと朝倉と大人版朝比奈さんが続けて現れ、朝倉が古泉そのものを消してしまったと言い放ち、翌日転校までして来た……という、あらすじにしちまえば数行で済むが、起きたこととしてはこれまでのいくつかを凌ぐトンデモ現象を。
「なるほど。僕そのものが消失してしまったと、そういうわけですか」
古泉は他人事のように言った。世界改変の件を聞かせてやった時よりよっぽど冷静に見える。
「道理で気付きようがないはずです。僕の記憶では、僕はあなたの体感で言う四日前の夜に眠り、そのままここに来ていたという、まるで時間を切り取ってしまったような短縮的行動しかとっていないわけですからね。確かに、興味深い説明です」
「お前はこの四日間どこにも存在していないことになっている。それこそ存在や戸籍もまるごと、らしい」
「世界に忘れられてしまったわけですね。なかなか詞的な状況です」
置かれた状態を楽しむかのように古泉は言う。
「それに、そういうことでしたら、僕とあなたがここで会するように仕向けた涼宮さんの無意識にも説明がつきます」
「どんな後付け設定を持ち出してくれるんだ? 聞かせてもらおうじゃねぇか」
古泉とこうしたやり取りをするのが、ずいぶん久しぶりに感じられる。最初期のSOS団メンバーに戻っちまってから、どうも張り合いがないというか、炊いただけのもち米というか、とにかく物足りない風景だった。それに、女三対男一ってのは、不公平な配置だと思うだろ、お前も。
「いいですか、新たな広域宇宙体と化してしまった情報統合思念体急進派が僕をまるごと抹消してしまい、SOS団は四人になってしまいました。今現在は欠席扱いになっていますが、涼宮さんは団員五人が揃っていないことに、次第に不満を感じていきます」
それは今日のハルヒを見ていても分かる。また新しくイベントごとを計画したい風だったからな。
「本来、風邪をひくようなら急に治してしまう、くらいのことは、涼宮さんなら簡単に起こしてしまえます。数日単位の欠席ならば彼女が戻ってきてほしいと望むだけで、その予定がカットされるはずなのです」
ならどうしてお前は部室に復帰できないんだ? ハルヒが神ならそのくらいやってのけるんじゃないのか。
「あなたは本気でそう思っていますか? 機関の中でも、涼宮さんを神そのものと言う人間は今や極少数に限られています。実際、彼女はここ数ヶ月で著しくその力を減少させていますし、力が無限ではないらしいという兆候が見えている」
あいつが望んでいないことも少なからず起きているな。
「そこですよ、まさに。今回の事態は、涼宮さんが望むことに対し、彼女が望まない現象が勝ってしまっているのです。だから僕をSOS団に復帰させることができない。僕の存在そのものが消えているのだから、少なくとも統合思念体並の力を発揮しなければなりません。それゆえに、力を弱めてきている最近の涼宮さんでは、かの広域宇宙存在の力に打ち勝てないのです」
そりゃマジか。冗談じゃ済まされないんじゃないのか? ハルヒの力は弱まっているのに、ハルヒに関心を抱く奴らはこの先力を振るう一方かもしれないんだぜ。それじゃ俺がハルヒに自分がジョン・スミスだと言っても、切り札になり得ないかもしれないじゃないか。
「それは分かりませんね。あなたは涼宮さんにとっても我々にとっても、最重要人物の一人です。あなたがこれまで秘密にしてきた事実を、あなた自身の口から涼宮さんに聞かせ、またそれを涼宮さんが信じた時に発揮される力は想像もできません。それまで弱めていたという推移如何によらず、限界をあらためて上昇させることだってあり得ます」
可能性云々の話をしていたらキリがないと言うのは、こいつとの長い付き合いから得た教訓のひとつだが、今回の話はどれもあり得るように思えてしまうな。ここまで来てハルヒが何にも知らないってのには頭も下がるが、ハルヒは何だって閉鎖空間を作って俺とお前を呼んだんだ?
「彼女の無意識が働きかけた部分が大きいのではないでしょうか。もともと閉鎖空間も無意識の産物です。神人がいないのは僕ら二人を引き合わせるためで、その目的は今している会話でしょう。涼宮さんは、あなたに安心してほしかったのかもしれません。おそらく、この空間は一時的なものにすぎず、僕は今一度舞台から身を引くことになるのでしょう」
ずいぶん達観してるんだな。俺だったら一時的にでも意識がすっ飛ぶのはなるべく避けたいが、
「これでも機関の一員として長いことやってきましたからね。あなたには話していない時期にも、色々あったんですよ。色々ね」
中学時代のハルヒの精神は荒れ放題だったらしいからな。ひょっとすると俺が経験してきた現象よりもっととんでもない状況が生まれたこともあったのかもしれん。
「お前は他に言っておきたいこととかないのか? 機関への言づて……は俺にはできないかもしれんが、SOS団への伝言くらいならお安い御用だぞ」
古泉は微笑顔を崩さぬまま、
「そうですね。どうにもならない状況でしばらく戻れそうにありませんが、心配はしないでください。とでも伝えておいていただけますか。理由が何なのかは、まぁあなたに一存ということでいいでしょうか?」
「この空間は、本当になくなっちまうのか?」
「どうでしょうね。僕は本来存在すらしていないはずです。こうして意識を持ってあなたと話せていること事態が、本当ならあり得ないことなのですよ。逆にだからこその絶対安全領域とも言えそうですが。また、必要があれば現れることもあるのではないですか? 神人のいない閉鎖空間は僕も初めてなので、そういう意味ではここも新鮮ですよ」
流麗にウィンクを飛ばす。相変わらずこいつは本音がどこにあるのか分からないな。俺くらいには見せてもいいんじゃないのかと思うのはこんなおかしな状況にまた迷い込んでしまったからか?

ピシ――と、何かがひび割れるような音がする。

「おや、どうやらタイムリミットのようですね。それでは、またお会いしましょう。願わくば、放課後の部室でね」
古泉の一言と人工灯に照らされた部室の風景を最後に、閉鎖空間は消滅した。


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