朝。確かに妹に叩き起こされたにも関わらず、俺はいまだに夢を見ている気分だった。
 寝覚めは最悪。二度寝の誘惑に駆られる。
 ふと覗き込んだ鏡にはひどい顔した男が一人写っている。
 階段を下りて、食卓に着き、食ったってしょうがない朝飯をかっこみ、
 制服に着替えて行きたくもない高校へ向かった。
 近ごろ強制ハイキングコースに差し掛かる度に引き返したくなるが、惰性で登り続ける。
 そんな鬱々坂の途中で会いたくない奴の一人、古泉に遭遇した。
 古泉が片手をあげた瞬間俺は拳を強く握っていた。殴りかかろうとするかのように。
 しばらくしてから俺は手を開き、足早に古泉のもとを去った。
 そして、あいつがにこやかに手をあげる事に
 ここまで殺意を覚えるのはなぜだろうか、と自問自答する。
 ……いや、するまでもない。俺はよく分かっている。
 このいらだちの原因も。それが八つ当たりであることも。


 教室に入ると相変わらず俺の後ろにいるハルヒが話しかけてくる。
 なんで俺に話しかけるんだと思いながら生返事を返す。
「あんた、今日も部活来ない気?」
 この一か月間毎朝繰り返されている質問。俺の答えも決まりきっている。
 言うまでもなく、俺もこいつもこれが嘘であることを知っている。
 案の定ハルヒが顔をブルドックのようにしかめて、
「そう言ってもう一か月も休んでんのよ」
 昔のこいつだったら放課後に俺を引っ張ってでも部室に連れて行っただろう。だが、
「……まあ、いいわ」
 今のハルヒはそう言って俺を放っといてくれる。そうなるならば嘘でも何でもいい。
 大事なのは俺が部室に行かずにすむことだ。そのためなら何でもしてやろう。
 ハルヒの尋問が終わると同時に担任がクラスに入って来て、
 俺がぼんやり話を聞き流しているうちにホームルームは終わり、
 全く理解できない授業が始まりそれらを全て寝て過ごした俺が次に起きた時、
 学校は昼休みを向かえていた。
 ポケットに入った物の感触を確かめ、弁当も持たずに教室を出る俺。
 これも一か月の間に恒例となってしまい、
 今やクラスの誰も――谷口や国木田さえも――気にしていない。
 向かう場所も屋上と決まっている。
 出てくるのはくしゃくしゃになったタバコの箱。手に乗ったそれを自嘲しながら見つめる。
 しばらく箱をながめたあとそれを開け、
 箱と同じくらいシワがついた一本を取り出し、ライターに火をつけ……、
 ためらったあと火を消す。そしてそのぼろぼろのタバコを箱にしまう。
「また駄目か」溜め息と一緒につぶやく。


 誤解のないよう言っておくが俺はタバコが憂鬱まっさかりなハルヒより嫌いだ。
 そうであるのに俺は毎日毎日飽きる事なくここに来てこいつと格闘しているわけだ。
 なぜか? これといった理由があるわけではない。
 嫌いなものを好きになれれば逆もまた起こり得るんじゃないかと思っただけだ。
 さて、いい加減叫びたい頃合だろう。「お前は何をやっているのか」と。
 ハルヒを知っている奴なら言うだろう。「何でお前を放っておくのか」と。
 軽く整理するために回想を始めよう。それは一か月前のことだった。


………
……


 その日のハルヒは終始、まるで何かを企むいたずらっ子のように上機嫌だった。
 部室に入ってからもそれは変わらず、むしろテンションは上がる一方だった。
 そして時々俺の方をちらちら見ていた気がする。
 古泉も――そのときの俺には理由が分らなかったが――緊張していたようだ。
 いつも以上にゲームが弱い古泉を軽くさばきつつ、お茶を啜った俺はふとハルヒの方を見た。
 ハルヒと視線があったと思ったら目を逸らしやがった。いかなる理由か顔を伏せながら。
 やれやれ。こいつはまた何か企んでいるらしい。古泉が共犯で被害者は俺。
 そんな所だろうな。


 部室が窓から射す夕日に照らし出された頃唐突にハルヒが俺を引っ張りだす。
 何がなんだか分からないうちに俺は中庭に連れ出されていた。
 俺が何をするつもりなのか訊いてもハルヒは石ころのように黙って何も言わない。


 下校時間をとっくにすぎた頃、中庭にもう一人現れた。
 そいつがハルヒの隣りに立つ。そしてハルヒが咳払いをして、
「有希とみくるちゃんにはもう言ったんだけど、」
 俺の心臓がわけもなくその仕事量を増やした。
「あのね、あたし」
 そう言って隣りに立った奴に手を向ける。
「古泉君と――」


 屋上の扉が開く音がしたので俺は回想を中断した。
 俺は物陰に隠れて身を縮め、そっと入口をうかがった。入って来たのは二人組だった。
 俺が見間違えるはずもない。ハルヒと古泉だ。
 ここからでは声は聞こえない。だが楽しそうな事は分かる。
 気付けば俺はまたタバコをくわえていた。
 ……そしてとうとう火をつけた。
「何かにおわない?」
 心臓が跳ね上がった。
 いつの間にかハルヒ達は近くに来ていたらしい。声がすぐ後ろから聞こえる。
「そうですね。タバコ、でしょうか?」
 古泉が答える。
「……戻りましょ」
 足音が遠ざかる。安堵した俺はそのまま屋上にいた。
 予鈴がなっても、午後の授業が始まっても、俺はそこに座っていた
 時間に反比例してくわえたタバコが短くなる。それでも、
「嫌いなものは嫌いなままだな……」


 放課後、俺は一本だけ抜き出したタバコの箱を握りつぶして火をつけ、
 それが燃え尽きるのを待って立ち上がった。
 下に降りようと扉を開けた俺は誰かがいるのに気付かずぶつかってしまった。
「ちゃんと前見なさいよ、バカキョン」
 こんな物言いの知り合いは一人しかいない。
「なんだ、ハルヒか」
 ハルヒはお得意のアヒル口を作って、
「なんだって随分な言い草ね。あんた午後どこにいたのよ? まさかずっとここにいたの?」
「そのまさかだ」
 ハルヒは問い詰めるように、
「じゃあ、昼休みもここにいた?」
 ハルヒの銃口のような視線に恐怖すら感じる。
「さあな」
 お茶を濁しつつハルヒの横を通り階段を下りようとした。
 しかしハルヒは一段目に足を掛けた俺の襟を掴み視線を合わせて、
「ちゃんと答えなさい。あんたここでタバコ吸ってたでしょ」
 確信している口調。否定するのも面倒臭くなった俺は軽くうなずいて肯定した。
 ハルヒは溜め息をつき、
「何考えてんの? 見つかったら停学は免れないわよ?」
 俺はハルヒから顔を逸らして言った。
「別にどうなろうと知ったことじゃねえさ。
それに俺が停学になってもお前に迷惑はかからないだろう?
近ごろ部室にも出てないから、あいつらにも……」
「いい加減にしなさい!」
 叫んだハルヒが俺を押した。本人は軽く押したつもりだろうが足場が悪かった。
 バランスを崩した俺は当然の帰結としてそのまま階段から転がり落ちた。
 ひととき浮遊感に包まれた俺を次は戦慄が襲う。そして体が地面に叩き付けられる。
 そこら中に響く鈍い音。痛む後頭部。目の前の真っ青な顔したハルヒ。
 薄れ行く意識の中で感じたのはひどく後ろ向きな安堵だった。
 誰へ向けたものか分からない別れを口が紡いだのを最後に俺の意識は途切れた。


………
……


 ぼんやりとした頭がひどく荒唐無稽で愉快極まりない夢を見ていたと主張している。
 まるで小説の主人公にでもなったような心持ちになれるほどの夢を。
 当然のことながら現実の俺は平々凡々たる男子高校生である。
 さて、そろそろ目を覚まさなければ。
「……」
 ゆっくり目を開けた俺は白い天井を見た。
 はて、俺の部屋はこんなに寒々しかったか、と思いながら俺は体を起こした。
 すると、まるで剣山で刺されたような痛みが後頭部に走る。
 その痛みで俺はやっと思い出した。
「そうだ、階段から落ちたんだったな。よくもまあ……、」
 つぶやきながら体の調子を確かめてみるが異常なし、と思いたい。
 なにせ結構な高さから転がり落ちたからな、
 頭の傷以外におかしな所があっても不思議ではない。
 そっと手を動かす。オーケー。足は? 問題なし。どうやら五体満足なようだ。
 安堵すると同時に猛烈な眠気に襲われた。
 睡魔に早々と白旗をあげ、今度は夢も見ない深い眠りに落ちていった。


 次に目を覚ますと部屋の中に人の気配があった。どうやら二人組らしい。
「こんな事になっちゃうなんて……」
 心底落ち込んだような女の声。それに答えるように男の声が、
「医師の話では頭の傷以外に目だった外傷はないと言ってましたし、
脳にも異常は見られないという事ですから必ず目を覚ましますよ」
 そうか、やっぱり頭以外に傷はないのか。骨折とかしてないんだな。
「それでも、もう三日も寝込んでるのよ? ……あんな事やるんじゃなかったなあ」
 三日か。入院なんて初めてだから長いんだか短いんだか分からん。
「そうですか? ……まあ、そうなんでしょうけど」
「当たり前よ。あたしが古泉君にあんなこと頼まなかったらキョンだって……、」
「ですが、結果的に彼の気持ちは分かったと思いませんか?
どうでもいい女性が知り合いと付き合ったくらいじゃ、あんなには変わりませんよ。
あなたの最初の目的は果たせてますよ」
「でも、これでキョンが目を覚まさなかったら本末転倒じゃない」
 一瞬つまる男。ご心配なく、俺はもう起きてますから。
「……大丈夫です。この前だってちゃんと目を覚ましましたし」
「……そうね」
 それっきり黙ってしまう二人。話してたことに分からない部分も多々あるが、
 たぶんこの二人は俺が階段から落ちたことに責任を感じているのだろう。
 しかしおかしな話だ。あの時あそこには俺以外いなかったはずだが?
 どんな奴等か気になった俺は顔を傾けた。その二人の横顔はどちらもすごく整っていた。
 男の方はもし知り合いだとしても、彼女には紹介しねえな。彼女なんていないけど。
 女の方は世の大半の男は振り向くような容姿だった。かく言う俺も含めて。
 この釣り合い具合からしてカップルか。なんでわざわざ独り身の俺の所に来るかな?
 待てよ。同室の人の見舞いかもしれん。
 なんせ我が家にはこんな立派な病院の個室を確保できるような財源はないはずだし。
 そう思って首を逆側に傾ける。誰もいない。
 要するにこの二人は俺の見舞いか。
 なんでやねん、と古臭いがゆえに定番と呼ばれるツッコミをかましておこう。
 さて、俺がまた顔を二人の方に向けると、男の方と視線があった。
 ちょっと間があいたかと思うと、男の顔が見る見る内に安堵色に染まる。
 そしてニコリとほほ笑みやがった。おぞましい、何の真似だ。
「涼宮さん、起きましたよ」
 そう毬のように弾んだ声で言って隣りの女の肩を叩く。
 そいつは俺の方を見ると怒り出しそうな、泣き出しそうな顔を作り、
「キョン……、ごめんね」
 今なんと言いましたか? 聞き間違えじゃなければごめんね、と言ったか?
「……つかぬことを訊きますが俺はなんで謝られてるんですか?」
 女は眉をつりあげながら、
「なんでって、あたしがあんたを押してこんな事になっちゃったから……」
 やれやれ、変な事を言う人だな。
「俺は自分で足を滑らせただけですよ。他の誰のせいでもなく」
 女は豆鉄砲をくらった鳩のようなかおになり、
「そんなわけないわ! あの時あたしは確かに、あんたを押したの!」
 それこそ、そんなわけない、だな。
 殺されかけた事を忘れるほど俺の頭はおめでたくない。そんな俺が覚えていない。
 つまり、あれは事故だ。そうだろう?
「そもそも俺が足を滑らした時に周りには誰もいませんでしたよ」
 女は何かに疑問を持ったらしい。話の方向を変えてきた。
「……ねえ、何でそんな他人行儀なの? やっぱり、今も怒ってるんでしょ?
ごめん、謝ってどうにかなるものじゃないのは分かってる。でも……」
 さて、この事態をどうやって処理しようか。
 なんで俺は泣きそうな美人に謝られなければいけないんだ?
 真実はどうあれ俺が泣かせたみたいじゃないか。
 大体だな、他人行儀も何も俺は見ず知らずの他人をマイフレンド、
 とか言っちまうようなアメリカ的精神は持ち合わせちゃいない。
 あくまでも俺は親友の事をちょっとした知り合い、と紹介する日本人さ。
「そもそもあなたたちは誰ですか?」


 俺は特に変な事を言ったつもりはない。
 誰だって知らない人には言い方の堅い柔らかいの差はあれこう言うだろう?
 なのになんだ、この全世界が止まったかのような空気は。
「……冗談でしょ?」ようやく絞り出した女の第一声。
 ここで冗談なんて、少し大袈裟だが、百害あって一利なしだ。
「それは本気で言っているのですか?」
 男の威圧する視線。受けてたってやろうじゃないか。
「まあな」
「……涼宮さん、医師を呼んで来てくれませんか。目を覚ました、と。
あと彼の家族にも連絡を」
 女は男の声に反応していない。
「涼宮さん?」
「えっ? ……あ、うん分かった。行ってくるわ」
 よろよろと歩くその姿は俺より病人だな。一度検査してもらった方がいいと思うぞ。
 男は彼女が出て行くのを見届けてから、溜め息をつきつつ、
「すいません、もう一度訊く事になりますが、どこまでが本気か教えていただけませんか?
確かに彼女にも非はありますが、それでも今のは少し……」
 よく分からんから途中で遮った。
「どこまで、も何も俺は最初から最後まで本気だ」
 男は頭を抱えた。
「……僕は古泉一樹といいます。それで彼女は涼宮ハルヒ。あなたの知り合いのはずです」
 そんなこと言われても知らないものは知らないままだ。
「知り合い、ねえ。咄嗟に思い出せないから大昔の知り合いか? 幼稚園とか」
「いいえ。同じ高校です」
 本当かよ。
「じゃあ、違うクラスの奴等だろ?」
 そうにちがいない。
「確かに僕はそうです。でも彼女はあなたと同じクラスですよ」
 おいおいおい。幾らなんでも冗談がすぎるぜ。
 俺は同じクラスの奴を忘れるほどぼけちゃいねーよ。
「でも実際に彼女はあなたのクラスメイトなのです。
推測でこんなこと言うのも何ですがあなた、記憶喪失ではありませんか?」
 そんなわけはない。
「親の名前も妹のことも覚えているし、
クラスの奴等の名前だって言えるぞ。その涼宮ってのは聞いた事がないが。
そうそう、特によくつるむのは谷口と国木田辺りかな」
 男――いや、古泉といったか――は深く肩を落とした。
 そのとき扉が開き医者が入って来た。古泉との話は終わり、
 俺は検査のために部屋を連れ出された。


 結果。脳にも異常は見られず、俺は明日、明後日くらいに退院する見込みとなった。
 異常がないってことはあの二人組の言ってることの方がおかしいって事でいいんだよな。
 少しほっとしながら部屋に戻ると、家族が来ていた。実に三日ぶりの再会らしい。
 なぜだか知らんがあの二人も部屋の隅にいた。
「あーっ、キョン君だあ!」
 飛び掛かかってくる妹を片手で制しつつ俺はおふくろに謝った。
「心配かけてすまん、あと二、三日で退院できるらしい」
 と言いつつも一つ気になることがある。
「……でも一人部屋なんかにしちゃって大丈夫なのか?」
 そう言うとおふくろは不審そうに、
「何言ってんのよ。ここ古泉君の知り合いの病院なんでしょ?
あんた、去年もお世話になったってのに……」
 今なんと? まあ、百歩譲ってここが古泉の知り合いの病院だとしよう。
 だが、なぜ見ず知らずの俺にそんな便宜をはかってくれるんだ?
 やはり俺は記憶喪失なのか? 不安になるじゃねえか。
「じゃあ、あっちの女の子も知ってる……?」
 おふくろはさも当然という風に、
「涼宮さんでしょ?」
 決定。認めたくないが俺の方がおかしいらしい。俺の目の前は真っ白だ。


 最終的に俺は一時的な記憶喪失、と診断された。いつ治るかは検討もつかないらしい。
 見舞いの連中も帰ってしまった夜。考えごとをしていた俺はとある事に気付いた。
 俺以外は誰もいないはずの個室に誰かがいる。誰だ? 何しに来た?
 足音はしないが侵入者が段々俺に近付いて来るのを感じる。
 ついに枕元まで来たそいつは俺の顔を覗き込んで言った。
「よう、俺」


 そいつは紛れもない『俺』だった。


「……誰だ?」
 こんなそっくりな奴が他人の空似なわけがない。
 生き別れの双子か、クローンか、はたまたこれが俗に言うドッペルゲンガーか?
「少し落ち着け。俺はそんなんじゃない。分かりやすく言えば、そうだな……」
 少し考えるようなポーズを取り、
「お前の失われた記憶だ」
 分かりやすくない。全く、全然、これっぽっちも。
「要するに、お前が忘れてしまっているSOS団に関する記憶。それが俺だ」
 変わってない。全く理解できない。SOS団てなんだよ?
 それに、たかが記憶が人格持ってふらふら歩くわけねえだろ。
「それが起こっちまうから困ったもんなんだな。……まあ、少し教えとこうか」
 そう言って『俺』が語った事は俺の想像力と常識のはるか彼方のお話だった。
 宇宙人? 未来人? 超能力者? そんな馬鹿な。
「そう言いたいのも分からんでもないが、」
 そんな奴等がいるとしよう。じゃあ、お前は何なんだ? その三人のうち誰かの仕業か?
「多分違うな。正確な事は長門辺りに……と言っても分からないか」
 全く分からん。誰だ長門ってのは。
「さっきも言った宇宙人だ。
それはともかく。ハルヒのせいじゃないかと思ってる、俺がここにいるのは」
 えーと、ハルヒってのは……。
「ん? ああ、『涼宮』だ。涼宮ハルヒ。さっき会ったんじゃないか?」
 なるほど、あの美人ね。『俺』は下の名前で呼んでたのか。
 仲が良い事で。付き合ってたのか?
「なんて事言いやがる」
 違うのか。まあ、どっちかって言うとあの古泉の方が似合ってるよな。
「……その話題、今はおいとけ。ともかくそのハルヒだが、」
 そしてまた俺の理解の範疇を大幅に逸脱した事を語りだす『俺』。
「つまり涼宮には、なんだか知らんが神懸かった力があるんだな」
 口ではこう言ったものの内心ではこうだ。「アホか」。これはきっと夢だ。そうに違いない。
 もう一人の自分が出て来て電波な事を語ってる、なんて夢以外の何物でもない。
「どうも信じてないらしいな」
「当たり前だ。そんな馬鹿話をあっさり信じるほどおめでたくはない」
 『俺』は溜め息をついた。
「まあ、いい。今日のところはこの辺りにしとこう。お大事にな」
 そう言って、目の前から『俺』は消えた。
「やれやれ」


 さて、次の日無事に――と言えるかどうかは定かではないが――退院した俺であるが、
 これは一体どういう事だ?
「なんでお前が俺の部屋にいるんだ?」
 紛れもない『俺』がそこにいた。
「なんでと言われても俺はお前の記憶なんだから、しょうがないだろ」
 そういう事じゃない。どこから入ってきやがった?
「俺は実体がないからな。出入りは自由、まるで幽霊だな」
 くそったれ。出てけ、目障りだ。それか、俺の記憶だってんならさっさと戻れ。
「それができたら苦労しないさ」
 そして『俺』はやれやれとつぶやいた。
「もし俺が二人いるのを他人に見られたらどうするつもりだ?」
「そこは安心しろ。どうやらお前にしか見えてないみたいだからな」
 実はこいつ、幻覚に幻聴じゃないか? だとしたらもう一度入院の必要ありだな。
「それともう一つ。どうやら俺はお前からそんなには離れられないらしい」
 こいつが常に視界の端にいるのか。落ち着かん。
「で、一つ頼みがあるんだが……」
「何をしろってんだ?」
「話をしなきゃいけない奴が何人かいるからそいつらに連絡を頼みたい」


『はい、古泉です』
 『俺』が俺に――ええい、ややこしい。俺(記憶)、俺(本人)としとこう――
 最初に連絡させたのは古泉だった。
「少し話がある。ええと……」
「長門だ」
 俺(本人)の後ろでささやく俺(記憶)。
「長門さんとやらの家に来てくれるか?」
 知らない人間をこれまた知らない人の家の前に呼び出すのもどうかと思うが。
『記憶は戻ったんですか?』
「それについての話だ」我ながら刺々しい口調だな。
 三十分後に会おうと告げて俺(本人)は電話を切った。
「次は長門のところに頼む」と俺(記憶)。


 俺(本人)が一方的に喋り最後に長門さんがそう、とつぶやいて会話終了。
「最後は朝比奈さんだな」
 朝比奈……? それは、もしかして、
「朝比奈みくるさんの事か?」
 俺(記憶)が意外そうな顔をする。
「朝比奈さんの事は覚えてんのか?」
 知ってはいるぞ有名だしな。話した事はないはずだが。
「いや、ほぼ毎日会ってた」
 どうってことなさそうに俺(記憶)が言う。マジか?
「マジだ。……お前の覚えてる基準、だいぶ曖昧だな。
ハルヒも全校レベルの有名人だってのに名前すら覚えてない、
対して朝比奈さんの事は少しなら覚えている」
 人事みたいに言うな。お前の事でもあるだろ。
「俺はいつかお前の中に戻るべき『記憶』でしかないからな。
現実に何かが起きたら対処すんのはお前だ。
それはそうと早めに連絡つけないと長門と古泉を待たせる事になるぞ」
 あの朝比奈さんと話すってのに緊張しない馬鹿がいるか? いや、いない。
「いいから早くしてくれ」


 カチコチに緊張しながらも何とか用件を伝え切った俺(本人)は俺(記憶)の道案内のもと、
 自転車をこいでいた。
 なかなか立派なマンションが見える。
「あそこだ」
 ようやくゴール。そこには古泉と朝比奈さんがいた。
 俺(記憶)は、
「708号室だ」
 ナンバーキーを押すと無言のリアクションが帰って来る。
 俺(記憶)の促すままに俺(本人)は、
「……俺だ」
『入って』
 打てば響くとでも言おうかね。まさにそれだ。
「随分手慣れてらっしゃるんですね。長門さんの事は覚えているんですか?
それとも最初から記憶喪失でなかったとか」
 やけに皮肉っぽく聞こえるのはなぜだろうか。
「あの胸糞悪いストレス発散空間でもできてるんだろう」
 納得してる俺(記憶)。俺(本人)は全く納得できないが。


 こうして通された長門さんの部屋はこの年頃の女子の部屋にしては殺風景だった。
 しかし部屋の主はそんな殺風景さに見事になじんでいる。
 俺(本人)がキョロキョロ観察していると俺(記憶)は、
「長門、俺が見えるか?」
「見える」
 即答である。まるでこの質問を予期していたかのような早さだ。
 朝比奈さんが不思議そうに、
「長門さん、誰と?」
 長門さんは視線を俺(記憶)から外さぬまま、
「彼の記憶と」


 ここで俺(記憶)から事態の説明があったわけだが、なんで実体のない奴が喋れたかというと、
 長門さんが何かを小声でつぶやいたと思ったら俺がもう一人部屋に出現していた。
「なんと……」
「キョン君が、二人……?」
 絶句する二人。俺(記憶)は、
「本人の忘れた記憶だ」
 と自己紹介。
「つまり、あなたが彼の中に戻れば記憶が……」
 確かめるように一つ一つ単語を発する古泉。
「そうなんだろうがな……」
「何か問題が?」
「戻り方が見当もつかん」
「そんな事でしたら、長門さん」
 古泉が長門さんの方を向く。
「不可能。涼宮ハルヒによるプロテクトがかかっている」
 これまた返事が早い。
「それってどういう……?」
 きょとんとしている朝比奈さんと対照的に納得している古泉。
「なるほど」
 何がなるほどなんだかな。
「言ってみろ」
 促す俺(記憶)にほほ笑む古泉。うげぇ。
「要するに彼女は記憶が戻ったあなたに嫌われたくない、責められたくない、と望んだ。
そう言う事ですよ」
「じゃあ、俺がここにいる原因はわかるか? やっぱりハルヒか?
それともまた変な宇宙人どもか?」とは俺(記憶)。
 対して長門さんは、
「広域帯宇宙存在の情報操作の可能性が高い」
 行為期待宇宙存在? よくわからんが嫌な響きだな。
「違います。広域・帯です」
 どっちにしろわからん。
「あの雪山の時の奴等か」と心当たりがあるらしい俺(記憶)。
「それで、彼らの目的はわかりますか?」
「それは、」
 長門さんは十分に間を取ってから降り始めの雨のようにポツリと、


「『鍵』の複製」

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