「そんな服いやですぅ」
朝比奈さんの間の抜けた反抗が、周囲で買い物をしていた人をふりむかせた。
「何を言ってるのみくるちゃん! あなたはあたしのオモチャなのよ。だからこれを着なさい!」
何を言ってるんだこのバカは。
商店街のど真ん中で、ハルヒは朝比奈さんに女王様の格好を強制させていた。
「そんなぁ」
狼に狙われた兎のような目で困惑している朝比奈さんを横目に、古泉は苦笑して長門は無表情だ。
いい加減怒らないとまずいな。
「おい、やめろ。お前のやってることは度が過ぎている。
普通の女子高生が黒いボンテージなんか着るわけないだろ」
「あんたは黙ってて!」
ハルヒは睨み一閃、俺につばを飛ばしながら叫んだ。
ハルヒのこの言葉に、俺の脳内はカチーンときて久々にファイティングポーズを取ってしまった。即座に俺はハルヒに右手でビンタを一発かまして怒鳴る。
「手前いい加減にしろ!! 自分がされて嫌なことは他人にするなって親から教わんなかったのか! お前のその性格のゆがみはどこから来てるんだ。つけあがるのも大概にしとけ!!」
「っるさいわね……」
ハルヒがうつむきながら肩を震わせる。
「あ!? 何だよ」
「うるさいって言ってんのよ!! いっつもあたしの行動に口出しして、あんたは団員なんだから団長の指示に従ってればいいの!」
そう叫びながら、負けじとハルヒは俺に一発ビンタをかました。かなり痛ぇ。
「もう帰る!!」
ハルヒは朝比奈さんに衣装を押し付けて、駅へと歩いていってしまった。
朝比奈さんは泣いているし、古泉はあーあやっちゃったと言わんばかりの顔をして、長門は相変わらずの無表情。さーて、どうしたものかねぇ。
「困りますよ。あなたらしくもない。あまり涼宮さんを不機嫌にしないでもらいたいですね」
古泉が苦笑しながら愚痴を漏らす。
「お前はどこまでハルヒに従順なんだ。あの状況下で怒る以外の選択肢は普通の人の頭には存在しない」
「だからです。彼女は普通の人間ではない。普通の人間の尺度で彼女のことを当てはめてはいけないのです」
ったく、こいつら機関はハルヒのイエスマンか。流石に、俺の頭が少しおかしくなりはじめた。
「あの……わたしなら大丈夫です。どんな目にあってもそうな」
「あなたはもう少し自分というものを持ったほうがいい。アイデンティティを傷つけられてまで、ハルヒや上の人の命令を聞く必要なんて無いんです」
涙目になった朝比奈さんが言うのを遮って、俺は普段思ってることをぶちまけた。ついでに古泉にも訊いてみる。
「お前は、ハルヒが俺たちを殺してとお前に願えば、俺たちを殺すのか」
「それは困る質問ですね。僕としてはあなた方との関係を維持したいと思っています。
しかし、涼宮さんの命令に背くわけ」
「馬鹿野郎!!」
古泉の言うことも遮って、俺は駅へと歩を進めた。
あの後俺は結局そのまま家に帰って、気分が収まらないまま床に就いた。

「少年を発見しました!」
うるさいな、何時だと思ってるんだ。今日は休日のはずだぞ。ゆっくり寝かせてくれ。どうせ今日はハルヒも怒り心頭で、ろくな探索になりそうもないから休むんだ。まぁ、いつもろくでもないけど。
「おい!大丈夫か」
妹よ、俺の安否を心配するならビンタするのはやめてくれ。それにしても随分声が野太くなったな。って……え?
「……君を保護。繰り返す! ……君を保護! 目立った外傷は無し」
何事かと思い目覚めた俺の目に飛び込んできたのは、紺色の男数名とゴミが散らばって汚らしい部屋だった。 あれ、俺は自分の部屋で寝ていたはずなんだが。
妹と勘違いしてしまった男が、無線らしきものに顔を近づけて喋っている。
目が覚めて何が何だかわからないことになるのは、ハルヒと閉鎖空間に閉じ込められた時以来だな。しかし今回は既に見たこともない他人が俺の目の前にいる。どうやら閉鎖空間ではなさそうだ。
「大丈夫、もう犯人は逮捕されたよ。君が無事でよかった」
犯人? 逮捕? 
最初は彼の発する言葉の意味がわからなかったが、どうやら俺は何らかの事件に巻き込まれていたらしい。 そして、彼は警察官らしい。制服を着ていなかったので、恐らく刑事だろう。
俺は至極まともな人なら必ず言うであろう言葉を発した。
「ここは……どこだ」

見ず知らずの刑事に叩き起こされてから数時間が経過して、俺は頭がこんがらがったまま、警察署の休憩室で呆けていた。場所がないからと、ちょっと太めの老けた婦警が詫びて俺をここに置き去りにしたのだ。
まず何で俺は警察署にいるんだ? そしてここはどこなんだ? というか今は何時だ?
俺は昨日の午後十一時に就寝をして、翌日の午前9時に起床をする予定だった。だが今は窓を覗けば真っ暗闇だ。しかも眼下には大量の報道陣がうごめいている。全員俺目当てなのだろうか。
数分後、誰かわからないおっさんが俺に挨拶をしに来た。どうやら事情を知りたいらしい。もっとも、今一番事情を知りたいのはこの俺なんだが。
中肉中背で白髪が少し多めのおっさんは、カシイ ミノルと名乗った。やわらかい笑顔で接してくれたが、その裏には狡猾さがありありと滲み出ている。
カシイの警察手帳を見せてもらうと、なんと長野県警と書かれていた。待て待て待て。俺は長野県とは一切の関係を持っていないぞ。頭は余計に混乱しそうだ。
カシイは俺に非を詫びて、取調室に連れて行った。そこで俺はカシイから色々なことを訊かれた。
本名、住所、生年月日、血液型と基本的な情報を確かめるように質問を受け、その後にどういう状況で拉致られたのか聞かせてくれないかと言った。もうこの時点で俺の頭はパンクしている。閉鎖空間に閉じ込められた時並にわからねえ。
俺は無い知恵をなんとか絞って、記憶を失ったふりをして今俺がいる状況を教えてもらった。それによると、俺はある日何者かに身代金目的で誘拐され、事件が大々的に報じられてから一週間後に犯人は逮捕。深夜になって、俺は長野県長野市のアパートで寝ているところを妹と勘違いした刑事に発見された。そして俺は今長野中央警察署というところにいる。ということは、俺は自分の部屋では寝ていなかった。それどころか、家から数百キロ離れた長野県で少なくとも一週間も監禁されていたのだ。
ここまで聞いて一発で状況を飲み込める奴がいたら、ありえないぐらい勘が鋭い奴か、ただの妄想野郎としか言いようが無い。是非俺と代われ。
「さて本題だが、君は誘拐されたときの状況を覚えているかい?」
カシイがにこやかな顔で俺に尋ねてくる。
「いえ……全く」
本当に何も覚えていないのだ。というか、経験もしてない。脳内に誘拐に繋がりそうな案件が一切無い。
「そうかい。突然のことで少し混乱しているかもしれないねぇ」
カシイはふむと息をつくと、机においてあった番茶を一息で飲み干した。
「とりあえず今日のところは休んでもらって、また明日にでも聞こうか」
カシイは用意してあった調査書を整えて、取調室から出て行った。助かる。
その夜、俺は警察署にあるこじんまりとした部屋で布団についた。時計はもう午前四時を回っていたけど。

「起きて」
んー、またかよ。今度は誰だ。
「……起きて」
ん? この独特の間はまさか。
俺は目覚めた。いや正確には、意識だけが復活してあとは真っ暗闇の世界だったと言う方が正しい。
今度は真っ暗闇の中に北高の制服を着た女子が立っていた。人の意識の中にまで介入できそうな知り合いを、俺は一人しか知らない。長門有希だ。
「緊急事態なのであなたの脳に直接コンタクトをとっている。これから私が言うことを信じてほしい」
「……わかった。話を聞こう」
表情を全く変えない長門を見て、俺は自分は宇宙人だとカミングアウトしたいつぞやの長門の告白を思い出した。
「あなたの意識上にある最近の土曜日、涼宮ハルヒはあなたの存在が消えるよう願った。その願いの原因は、土曜日にあなたと涼宮ハルヒが朝比奈みくるについて争ったことが最もふさわしい。涼宮ハルヒは帰宅してから、あなたの存在を鬱陶しく思った。そしてあなたは土曜日の二十三時五十九分五十九秒に存在の消滅が確認された」
あんなしょうもないことで俺の存在を消すなんて、あいつはどこまで幼稚なんだ。
「もしハルヒがそう願ったとして、そしたら俺は何でここにいるんだ」
「涼宮ハルヒがあなたに無事に戻ってきてほしいと願ったから。それまでにかかった時間は約二週間。つまりあなたは約二週間この世界から存在が消えていた。このことについて、情報統合思念体は深い落胆と危惧を覚えた」
「……」
「涼宮ハルヒの唯一の不確定要素であるあなたの存在が消滅することによって、以降彼女の観測に主だった変動が見られなくなることを非常に危険な状態と判断した。そして私は朝比奈みくると古泉一樹とで、涼宮ハルヒにあなたが再び戻ってくるよう説得を試みた。同時に、あなたに関する情報を一部改変した」
「何だって?」
意味が分からない。一体俺の何の情報をこいつは改変したんだ。
「あなたは土曜日の市内探索が終わった後、何者かに誘拐されて今日まで行方不明だったことになっている」
ここは長門に感謝すべきだろう。突然神隠しにあったら、俺の周囲の人間は慌てふためくに違いない。そこを長門が強引にしろ失踪した理由を付けてくれたのだ。でも、せめて家出程度にしてくれたらもっとよかったのだが。
「これよりあなたの脳内に私が改変したデータを記憶させる。これにより、全てのつじつまが合って警察の捜査にも支障が出ない。あなたは穏便かつ早急にこの状況から脱出できる」
そう言って、長門は俺に手のひらを向けた。ここで待てと言うべきだった。
一瞬、俺の意識はぐちゃぐちゃになった。映像をありえないような早回しで見せられた感じになり、急速に吐き気が催してくる。しかし確実に俺の記憶が変更されいくのがわかる。頭の中では、家の前で二人組に無理やり車に押し込まれるなど、恐らく誘拐に関するであろう記憶がはっきりと思い浮かべられるようになっていた。数秒もしないうちに吐き気は急速に引いていく。
「終わったのか」
本当は頭を抑えてうなだれたいところだが、意識の中で起こってることなのでどうしようもない。
「終わった」
長門と言いかけた瞬間、俺は本当の意味で目覚めた。

コーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう。よく眠れたかな?」
カシイがそう言って俺の横にコーヒーを置いた。どうせなら美人の婦警さんに起こしてもらいたかったな。
「はっはっは。私もそう願いたいもんだ」
カシイはそう言うと、胸ポケットからマルボロを一本取り出してくわえた。
コーヒーをすすりながら、時計に目をやる。午前8時半を過ぎていた。
「朝食も持ってきた。食べ終わったら君は地元に帰ることになる。もちろん、そこでも聴取は行われるが」
カシイはコンビニの袋を俺に渡した。中には調理パンとおにぎりが少々入ってた。
「古泉によろしくと伝えてくれ」
カシイはそう言い残して部屋を去った。

カシイの言うとおり、俺は午前中のうちに長野県から自分の地元に移送された。もちろん家に帰れるわけでもなく、近所の少し大きな警察署に身柄を置かれることになった。そこでの事情聴取は、長門から教えてもらった誘拐に関する記憶を伝えるだけで終わり、非常に楽なものとなった。もし長門がいなければ、俺は今頃とんでもないことになっていただろう。結局聴取は一時間ほどで終わり、俺はその日のうちに家に帰れることとなった。
夕方、署には家族が迎えに来てくれた。妹と母さんは泣きながら俺に抱きつき、親父は涙を溜めた目で署員に感謝の言葉を送っていた。
家に帰ると、俺は真っ先に自分の部屋へと駆けつけた。予想通り、俺の部屋は寝る直前と何も変わってはいなかった。俺は深いため息をついてベッドに身を沈ませた。全ては無事に解決したようだ。
突然、床に放り投げていた携帯が鳴り出した。画面には長門有希と表示されている。
「長門か」
『……』
毎度おなじみの三点リーダである。
「助かったよ。お前がいなかったら今頃俺の頭は大パニックになっていた。事情聴取も全て片付いて、今は家でくつろいでる」
『そう』
数秒の空白の後、長門は俺にある用件を伝えた。
『すぐに私の家まで来てほしい』
俺は全速力で長門の家に向かった。

マンションの入り口で俺はいつもの通り、テンキーを708と押してからベルのマークのボタンを押す。数秒間が空いたが、ブツッとインターホンが接続された。
「長門、俺だ」
『入って』
蚊のようなか細く平坦な声が響くと、大きなガラスの自動ドアが開いた。

708号室のインターホンを鳴らすと、何も言わないまま鉄の扉は開いた。
「………」
制服姿の長門は何かを言うわけでもなく、ただ俺をじっと見つめている。俺はその光景に安堵していた。
「キョン君!」
突然部屋の奥から舌足らずで素っ頓狂な声が消えてきた。おっちょこちょいの未来人、朝比奈みくるさんである。
朝比奈さんは走って俺に抱きついてきた。こっちはどうやら私服らしい。それにしても、あなたをいつ見ても癒されます。
「よかった……(ぐすっ)もしかしたら……(ぐすっ)あの時、みたいに(ぐすっ)また消えた……(ぐすっ)まんまになるかと思って……」
はいデジャヴュ。俺はこんな光景を前に目にしたことがある。ハルヒと閉鎖空間に閉じ込められて、なんとか脱出した日に朝比奈さんは部室でこんなことを言いながら泣いていた。
ぐしゅぐしゅ言いながら泣く朝比奈さんの奥には、古泉一樹が立っていた。
「おかえりなさい。あなたがいないおかげでこっちは久々にクタクタにさせられました。中学生の涼宮さん以来ですよ。こんなに疲れたのは」
笑いながら文句を垂れる古泉に俺はこう言った。
「俺が消えてからの二週間、三人は何をやっていたのか教えてくれないか」
「いいでしょう。話すと長いですから、まずは座りますか」
それはこの部屋の主である長門が言うべき台詞だろ、とつっこみながらも、俺らはリビングにポツンとあるテーブルの前に座った。
長門は一人俺にお茶を出すと、その場に座って俺を見つめながらこれまでの経緯を話し始めた。
「涼宮ハルヒは市内探索であなたと喧嘩した後家に帰り、あなたの存在がうっとおしく思うようになった。 そしてその日の二十三時五十九分後十九秒、その思いが能力を発揮するレベルに達して、あなたの存在が消去された」
そこまでは既に聞いた。
「翌日、涼宮ハルヒはあなたに来ないことに対する怒りの電話をかけたが、あなた自体がいないので出るはずもなかった」
まぁ、そうだろうな。
「探索は通常通り行われていたが、古泉一樹は緊急の用事があるといって参加をしなかった。結局終始不機嫌だった涼宮ハルヒは午前中で探索を中止し、早々に帰ってしまった」
想像に難くない。きっとふくれっ面で、朝比奈さんに着せる衣装でも探していたのだろう。
「当初情報統合思念体は静観の構えだったが、協議の結果を受けて、わたしはあなたが拉致をされたという情報を用意した。しかし、情報統合思念体は情報の発信は時機を見て行えとの旨を加えた。警察には古泉一樹の機関に協力を要請して、秘密で捜査を行うようにしたが当然みつからない。これはあくまで警察の職務を全うさせるため」
ここで一度長門はお茶をすすった。絶えず背筋がしゃんとしていて、見ているだけでこっちも緊張してくる。
「一週間あなたは存在を消したまま、次の土曜日を迎えることになる。この日まであなたのことを本気で邪魔だと思っていた涼宮ハルヒにわたしは危機感を覚え、わたしはここで誘拐の情報を流す。具体的に言うと、警察にマスコミを通じてあなたが誘拐されたということを発表させた」
恥ずかしながら、俺の名前が全国に知れ渡ったということだ。それでも、周りの人は俺のことをキョンと呼び続けるんだろうなぁ。
「涼宮ハルヒの態度が変化するまで三日を要したが、次第に涼宮ハルヒはあなたのことを心配するようになり、 あなたが消えてから一週間と六日目に、ついにあなたに帰ってきてほしいという思いが能力を発動させて、あなたはこの世界に帰ってきた」
長門はいつもよりはなんとなくわりとわかりやすいが、かなり長々しい説明を終えるとまたお茶をすすった。
「あなたがいない間だけで、僕らは五十回は神人を倒していました。それほどまでに、彼女のイライラは増大していたということです」
古泉はため息をつきながら笑っている。
「キョン君が突然消えたと長門さんから聞いたとき、びっくりしました。まさかまた閉鎖空間に閉じ込められたのかと思っちゃって。そしたら今度はそれよりもひどくて、まさかキョン君の存在自体がないなんて」
朝比奈さんは目を真っ赤にしながら安堵の笑みを浮かべていた。
「あなたという存在が消えたということは、涼宮さんの状態は不安定になる。あなたは彼女の精神の箍のような存在でした」
迷惑極まりない。勝手に人をフタ扱いするな。
「その箍が外れてしまった。これは我々機関にとっては非常に好ましくない出来事です。もちろん、統合思念体や未来人そう思っているでしょう。そこで機関は考えました。今我々に出来ることは何なのだろうかと。結果、情報統合思念体や未来人と一時的な協力関係を築くこと。つまり、僕と長門さんと朝比奈さんが協力して、涼宮さんがあなたという人がいたということを、ホコリ程度でもいいから忘れさせないように行動せよという指針が下されました。」
「そうかい、それはありがとうな」
おかげで俺はこの世界へ帰ってこれたのだ。俺は古泉に素直に感謝した。
古泉もニコリと笑いかけてからお茶をすする。
「何にせよ、俺が帰ってきてこれで全ては解決ってことでいいんだな?」
俺は三人に問いかけた。三人は揃って
「そうです」
「はぁい」
「いい」
声を合わせた。

突然、携帯が鳴り出す。画面には涼宮ハルヒと表示されていた。長門を除いた二人が俺にうなずく。それを合図に俺は携帯に出た。
「ハルヒか」
『……今何やってんの?』
機嫌がいいのか悪いのかわかりにくい地の声だ。
「家でくつろいでる」
『あ、そう。これから学校まで来てくれない?』
「……わかった。少し時間がかかるけどいいか」
『うん』
「じゃ」
そう言って電話を切った。最後にハルヒが何か言いかけたみたいだが、気にしないことにしよう。
時計は七時を回っていた。そろそろ一度家に連絡を入れないと家族が心配しそうだ。
「いってらっしゃい」
古泉が笑いながら手を振っている。

長門の家から学校へは歩いて少しかかる。登校と同じ道なので、俺は少し憂鬱になっていた。またあの坂道を登らなきゃいけないのか。ここら辺は住宅街なので、夜になると非常に静かになる。誰もいないので、変質者と見間違えられなければいいのだが。
途中、俺は疑問に思うことがあった。
俺はハルヒに邪魔と思われてこの世から姿を消していた。つまり、死んだも同然ってことになる。しかし俺は結局この世に帰ってきた。宗教には興味はないが、俺は死後の世界というのをもしかすると見たのかもしれない。でも俺は寝たと思ったらすぐ起こされてしまった。まるで気持ち良く起きた後のように、夢も見ないで。当然その間の記憶はないけど。 もしかすると死ぬことと寝ることはほとんど一緒で、違うとすれば生命活動の停止と脳の休息というところだけなのかもしれない。そんなしょうもないことを考えているうちに、俺は学校に着いた。
校門ではコートを羽織ったハルヒが一人ぽつんと俺を待っていた。顔からはいつもの元気さが微塵も感じられず、今のハルヒは長門よりも無表情に思えた。
「待ったか?」
ハルヒに聞いてみると、俺には思いもよらぬ返答が返ってきた。
「全然。というか、あんた随分早いわね」
本当は自宅ではなく長門の家から来たので俺は一瞬たじろいだが、ハルヒは意に介さずとばかりに俺の手を引っ張って校内へと入っていった。大丈夫なのか?

ハルヒは俺をテーブルが何台かある休憩所のようなところまで連れて行った。いつだったろうか、古泉から超能力者だと打ち明けられた場所だ。そこに俺を座るよう促した。ハルヒはその隣に座った。
「これはあたしの奢りよ」
そう言ってジュースを二本テーブルの上に置いた。一本は自分用だろう。
「……珍しいな、お前が奢るなんて」
「あたしはSOS団の団長よ。そのぐらい気前よくやるわ」
ハルヒはうつむいたまま答えた。続けて言葉を発してるみたいだが、かろうじて聞こえるレベルだった。
「……どうして急にいなくなっちゃったのよ」
「お前も知ってるだろうけど、俺は誘拐されたんだ。大変だっ」
「そんなこと聞いてるんじゃない!!」
ハルヒの怒号が校内にこだまする。誰か来なければいいのだが。
「あの時、確かにあたしはあんたのことをウザがってた。みくるちゃんをおもちゃにしようとしたら、いつもあんたがあたしを止めてたからね。あの時は本当にどうかしていた」
よく見ると、ハルヒの頭がぷるぷると震えているのがわかる。泣いてるのだろうか。
「でもね、あんたがいなくなってよーく分かったわ。みんな私を心から構ってくれない。まるで災難を耐え忍ぶような目で見てくる。腫れ物には触れたくないのかしら。でも、あんただけは違った」
「……」
「入学してから、あたしの行動に突っ込みを入れてくれるのはあんただけだった。あたしをちゃんと見てくれていたのは……あんただけだった」
コンクリートの上に数個シミを作りながら、ハルヒはふつふつと語った。
「だから、あんたがいない日々は物凄くつまらなかった。死にたいと思ったぐらいよ。しかも、あんたが誘拐されたなんてこと聞いたら……心配しないわけないじゃない!」
顔を上げたハルヒの大きな目からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれていた。こんな表情を見たら、大抵の男子ならコロッと逝っちゃいそうだ。
ハルヒは急にむっとした表情になって、右手の小指を差し出した。
「約束しなさい」
「何をだ」
「……二度と急に、あたしの目の前からいなくならないってね」
俺は数秒間を空けた後、ハルヒの小指と自分の小指を絡ませた。そして、泣きべそをかくハルヒを抱きしめて言った。
「約束する」
ハルヒは俺に抱かれながら、声を上げて泣きまくった。

学校を出て駅に向かう途中に、俺はハルヒに尋ねた。
「なぁ、ハルヒ」
「何よ」
「お前、死後の世界ってあると思うか?」
ハルヒには何言ってんのこいつみたいな眼で一瞬見られたが、考え込むような顔をしてこう言った。
「さぁ、死んだことがないからわかんないわ。でも、あんたと一緒ならそう居心地悪いものじゃなさそうね」

結局俺はハルヒを自宅まで送り届けてやった。駅で別れるとどこか心細い気がしてならなかったのだ。
「じゃあ、また明日な」
そう言って俺は帰ろうとしたが、ハルヒに腕をつかまれた。
「本当に明日会えるわよね? あんた、絶対学校に来るわよね?」
俺を必死に見るハルヒ。こういうシチュエーションで俺は一度やってみたいことがあった。
俺はハルヒを抱きしめ、パクパクしているハルヒの唇を軽く塞いでやった。もちろん自分の唇で。ほんの少しだった。三秒も経ってないだろう。互いの唇が離れると、俺はこう付け加えた。
「これが約束だ」
「……もっとちゃんとやりなさいよ」
ハルヒはむっとした表情をしたが、即座に俺の唇を塞いだ。これも当然自分の唇で。
俺たちは互いに離れたくない一心で、そうやって何分間もいた。

翌日学校へ行くと、先に来ていたハルヒが俺を見てニヤッと笑った。背中に寒気が走る。ハルヒは笑いながらこう言った。
「昼休み、屋上まで来なさい」
主語をはっきりとしてから喋ってくれ。
谷口や国木田などのクラスメイトは、まぁ当然の反応だろうか。続々と俺の様子を聞きに来た。誘拐された時、その後、警察署の中など。担任の岡部まで聞きに来る有様だった。
昼休みには、多分朝比奈さんから聞いたであろう鶴屋さんもわざわざ教室に俺の様子を見に来て、安堵のため息をついていた。
「……おかえりなさい、キョンくん」
「ただいま」
いつもより穏やかな笑顔の鶴屋さんは、朝比奈さんやハルヒの笑顔並みに破壊力があった。にょろ~んとかちょろ~んとか言う時とはギャップがありすぎです。
そうだ、屋上に行かないと。

屋上にいたハルヒは、いつも通り仏頂面でいた。
「遅い!」
そう怒るハルヒに、俺はなだめすかすように頭をなでてやった。とたんに笑みを浮かべる。単純なやつ。 俺たちはそこで一緒に弁当を食べた。ハルヒには、早く彼氏を作って普通の女子高生っぽい生活を送れと言ってきたが、まさか自分がなるとは夢にも思っていなかった。
あぁ、これは本当に俺がいた世界なのだろうか。ちゃっかり世界が改変されてるなんてことはないのだろうか。 けどこういうのも、まんざらでもないかもしれない。
「何ブツブツ言ってるのよ。はい、アーン」

放課後、いつもの五人でいつものように何もやることなくただのんびりと部室で過ごしていると、メールが来た。 相手は目の前でウインクしている古泉だった。気持ち悪い。
画面には
『終わったら部室で』
と書かれていた。
仕方ない。つきあってやるか。

活動が終わって女子三人は下校、残る男子二人は下校するふりをして解散した。十分後再び部室へ行く。
部室では、古泉がニコニコしながら椅子に座っていた。
「あなたと涼宮さんが喧嘩別れした後に機関で会議が開かれましてね、僕の帰属場所について話し合われました」
「結果は」
「あなたのご想像通りかどうかは知りませんが、とりあえず機関でも涼宮さんの下僕でもなく、SOS団ということになりました。しかし基本的には機関の命令に従い、なるべく涼宮さんの要望に沿った生活を送る。もしも僕の尊厳に関わるようなことがあれば、その時は自分で判断しろとのことです。ま、これで僕にも選択の余地が増えたので、助かりましたよ。感謝いたします」
「そうかい」
俺は安堵した。これでこいつがある程度人間的な生活や行動を送れるようになったのだ。俺たちは何故かそろって
「やれやれ」
と言ってしまった。

家に帰ると、玄関先にかわいらしい柄の封筒が落ちていた。大体の差出人は見当がつく。空けてみるとちまちました字で
『彼女が涼宮さんにいたずらされることは、彼女が通らなければいけない道の一つなのです。彼女はそれをわかって通っています。でも、安心していてください。彼女が任務を完遂しないで逃げ出すことはありません。それは、未来の私の存在が証明しています。 みくる』
と書かれていた。
でもねぇ、朝比奈さん。あなたが痛々しい目にあってるのを見るとつい心を動かされるんですよねぇ。ま、心に留めておきますよ。

二度目のキスをした夜からハルヒは俺に急接近をするようになり、俺とハルヒの仲はクラス公認のようなものとなった。ハルヒは俺と一緒にいるととにかくいちゃついていた。市内探索でも何故か俺とハルヒが一緒に組むことしか起きず、奴からはもう逃げられないことを証明していた。
数週間後、俺は長門の家を訪ねることになった。長門からの要請だ。
部屋では普段どおり制服姿で長門が俺を待っていた。お茶が二つあるテーブルの周りに座ると、相変わらずの無表情で
「あなたに報告することがある」
「言ってみろ」
「あなたを誘拐した犯人の情報を、本日をもって終結する」
長門は数秒目を閉じた。
「どういうことだ?」
俺が問いかけると
「犯人の存在は、元々私が情報統合思念体に要請されて作った情報だった。その情報を終結したということ」
「……よくわからないんだが、俺を拉致した犯人はもうこの世には存在しないってことか?」
「違う、元々犯人は存在しなかった」
そういえば、俺は一度も犯人の姿を見ていなかった。長門から刻まれた誘拐された時の記憶にも、ミステリアニメに出てきそうな黒いシルエットが俺を連れて行ったことしか映っていない。
「犯人は裁判で有罪判決を受け刑を執行中、刑務所内で死亡したということをつけてこの情報を完結。以後変更がなされることはない」
「つまり、死体はないけど死にましたってことか」
「そう」
長門がお茶をすすって、続けざまに言う。
「あなたの誘拐に関する私の仕事はこれで終わり」
「それだけを伝えに俺を呼んだのか?」
「そう」
ほっとした。またとんでもないことに巻き込まれるのを予想していた俺にとっては、肩すかしものだったがこれでよかったのだ。
気がつけば、長門は遠い目をして明後日の方向を向いていた。数秒そうやっていたが、すぐに俺に目を向けこう言った。
「……情報統合思念体からあなたに懇願がある」
「何だ」
長門の親玉からだ。さぞとんでもないものに違いない。
「私はあなたと涼宮ハルヒの環境を保全する役割を負われた。私はあなたや涼宮ハルヒを、外部的マイナス要因から遠ざける行動に出ることになる。しかし、内部的マイナス要因は私にはどうすることも出来ない」
相変わらずこいつの説明はよくわかりづらい。しかし、長門がどうにも出来ないことなんて一体何なんだ?
「どういうことだ」
「あなたには涼宮ハルヒからどんな形であっても離れないでほしい。彼女が死ぬまで」
長門が言ったことを訳すると、ハルヒと喧嘩をしないで仲良く暮らしてくれ、と思ってもいいだろう。事件の発端は俺とハルヒが喧嘩したことだからな。
「わかったよ」
苦笑した。宇宙の始まりとともに発生した巨大な情報生命体が、本来無視するはずだったであろう、辺境の惑星にいる一匹の生命体に懇願をしているのだ。滑稽じゃないか。
「ハルヒを大事にしてやりゃあいいんだろ?」
長門はミリ単位でうなずいた。更に俺は付け加えてこう言う。
「でもな、長門。俺はお前も、朝比奈さんも古泉もハルヒと同じぐらい大事な存在なんだ。だからな、えーと……」
長門は射抜くような目で俺をじっと見る。
「たまには、お前の好きな通りにしろ。俺たちがつきあってやれる範囲でな」
長門はまたミリ単位でうなずいた。

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