突然、謎の物体によって俺の視界が遮られる。
「ねえ、キョン。これ読んでみなさい」
 そう言って隣りの席に座ったハルヒが一冊の雑誌を俺の目の前に突き出していた。
 慌てて目の前のそれを振り払う。
「馬鹿! 事故るからどかせ」
 まったく、車の運転中になんてことしやがる。
 ん? なんで高校生が車を運転してるかだと?
 いやいや、もうあれから十年は経っている。俺は高校生ではない。社会人だ。
 さらに言えば、あの団長様が今では俺の口うるさき妻となっている。
 そして、俺とハルヒは今帰郷の途上にいるわけだ。
 何故かって言うとハルヒと俺の子ができたので、その報告にな。
 どうやら女の子らしい。いろいろな意味で俺に似なければいいと思う。
 もっともハルヒに似たら似たで俺が大変だろう。悩ましいね。
 名前はどうしようか。
 ……いかん、いかん。今は運転に集中せねば。
「『検証、図書館にあらわれる幽霊』」
 ハルヒが何かを読み始めた。
「なんだ、それは」
「あんたが運転中で読めないって言うから読んであげてんの。感謝しなさい」
 それは優しいことで……。で、幽霊がなんだって?
「よく聞きなさいよ。
『今回、我々取材班はとある図書館に出現するという幽霊について調査した』」
 ハルヒはあの日以来不思議な話にあまり食いつかなくなっていた。
 それなのにこんなオカルト話を持ちだすとはきっと何かあるんだろうな。
 俺の想像の斜め上を行くようなことが。
「『この幽霊の最初の目撃例は十年前だという事だ』」
 そんな昔の話を蒸し返してどうすんだ?
「『賢明な読者諸氏ならば
なぜ十年前からある話を今になって検証するのかとお思いだろう』」
 全くだ。この手の話は鮮度が命だろうに。
「『だが、超常現象だと判明したのはつい最近になってからである』」
 ここでハルヒがいったん読むのをやめた。
「えらく中途半端なところでやめるんだな」
「あんたこの話でちょっと引っ掛かるところない?」
 話をざっと思い返す。だが、
「いいや、特にはないぞ」
 あきれたような声色でハルヒが続きを読み始める。
「ほんといつまでも鈍いんだから。
……ええと、ここからね。
『まず、目撃証言によればこの幽霊は十年前から全く姿形が変わらないという事だ。
さらに姿がぼやけていたり、足がなかったりということは一切ない。
……そう、最近になって彼女が幽霊だと判明したのはこのためである。
目撃者の大半は彼女を単なる図書館の利用客としか考えなかったのだ。
しかし、継続的に図書館を利用する人々のあいだで
彼女の事が噂となり、我々に投書が寄せられた。
さて、その図書館に長く勤めている司書の証言によれば
彼女はここ十年ずっと近くの高校の制服に身を包み大体土曜日に現れるそうだ』」
 ……十年前、高校生、彼女、土曜日、図書館。
 突然それらの単語から一つの予想が頭の中に閃いた。
「ハルヒ、まさかそれ……」
 俺の言葉を遮りつつ、ハルヒがさらに読み進めて行く。
「『彼女の外見的特徴をここに述べる。
年齢は十四から十七。
身長は百五十から六十センチ。
肌は白く、髪は……』」
 それは、まさか――長門?
「そうみたい。目撃者の証言を元にした似顔絵ってのもあるけど完璧、有希だわ」
 けれど俺たちはあの日、長門が消えてしまうのを見た。
「そうね。これは現地調査の必要ありよ」
 俺はハルヒに促されるままに目的地を図書館に変えた。
 いや、たとえ止められても俺は図書館に向かっただろう。


 そして図書館についた。
「さ、入りましょう」
 ハルヒについて入った図書館の中は十年という月日を感じさせなかった。
 今にも長門が現れて、あの夢遊病患者のようなステップで本棚に向かいそうだ。
 俺は最初に長門とここにきた時のことを思い出す。
 確か……確か、あいつは筋トレに使えそうなくらい分厚い本が並んでいる棚の前にいた。
「ちょっと、どこ行くの?」
 急に歩きだした俺をハルヒが慌てて追いかけて来た。
「ちょっとな」


 心臓が激しく脈打っている。今にも破裂するんじゃないだろうか?
 ハルヒも息を潜めている。
 なぜならそこにいたからだ。あいつが。
 無口で頼りになる、あの長門が。
 長門があの時のままの姿で本を読んでいる。寸分違わぬとはこのことだ。
「有希!」
 俺より先に立ち直ったハルヒが長門に駆け寄り、触れようとした。
 けれどその手は空を切った。
 そこに確かに見える長門にハルヒは触れることができなかった。
「キョン、これって?」
 恐らく喜緑さんの言った情報の残滓。思念体が完全には消せなかった長門の一部。
『また、図書館で』
 そうだ、長門は最後に俺たちにそう言ったじゃないか。
「なあ、ハルヒ。あの時の約束を果たそうか?」
 その最後の時に長門は俺たちに向かってカードを「預ける」と言った。
 預かった物は返さないとな。
「そう……、ね」
 俺は十年間持ち続けていたカードを取り出した。
 それはまるで昨日出来たばかりのカードのようだった。
 間違いなく長門が手を加えている。
 ここに一つの予感がある。
 カードを渡せばここにいる長門は消えてしまう。
 だが最後に一言二言くらいは言葉を交わせる。
 もし、渡さなければこいつは延々と同じことを繰り返すのだろう。
 どちらがいいのだろう?
 永遠に同じことを繰り返すのと……、
「キョン?」
 ハルヒの声で我に帰る。
 いつの間にか目の前には長門が立っていた。
「長門……」
 長門が手を差し出している。
 俺は逡巡の末、長門の手のひらにカードをのせ……。
 って、すり抜けて落ちるんじゃないか? 慌てて長門の手の下に自分の手をかざす。
 だが、カードは予想に反して長門の手の上にとどまっていた。
 長門が口を開いた。
「カードに組み込んだ実体化プログラムを起動した。
わたしが存在できる時間は十分」
 相変わらず要点だけを言う奴だ。
「有希!」
 今度こそハルヒの手がしっかりと長門に触れた。
「久し振り……このような状況ではこう言うと記憶している」
 確かにそうさ。十年越しの再会だ。他に言うことが思い付かない。
「何から話していいのやら。長門、聞きたいことはないか?」
 長門は一、二秒首をかしげたあと俺たち二人を指差した。
「あなたたちの今の関係」
 それは、また……どう言ったものかね? 俺が考えている間にハルヒが答えていた。
「えーとね。あたしたち結婚したの。それで……、そう! 子供ができたのよ」
 長門の顔の印象が柔らかくなる。ほほ笑んだのだろうか?
「あなたたちの子供が羨ましい。優しい父親に賑やかな母親に囲まれて、」
 ハルヒが少し膨れた。
「きっと幸せ」
 俺の胸が痛む。長門に残された時間はもうあまりに少ないのだ。
 長門には本当に俺たちの子供が幸せになるか知る術はないのだ。
 だがそれでも長門は確信しているんだろう。
 俺たちの子供が幸せになることを。
「有希、きっとじゃないわ。絶対よ」
 心なしハルヒの声が湿り気を帯びている。
「そう。
……わたしから一つ贈り物」
 贈り物?
「すぐに分かる」
 そう言うと長門は顔を伏せた。
 釣られてってわけじゃないが俺も視線を落とした。
 そこにあったのは消えていく長門の足だった。
「長門!?」
「もう時間。楽しかった」
 楽しかったって言うなら、その眼から流れてるのはなんだよ?
「エラ……、違う。悲しい? 涙?」
 ああちくしょう。視界がぼやけてきやがった。
「有希?」
 ハルヒが涙声で長門に呼び掛けた。
「何?」
「あのね……」
 ハルヒは何かを言おうとしていたが、結局何も言えず長門にすがりついて泣き始めた。
 長門はそんなハルヒの頭をなでている。
 なんで長門はこんなに落ち着いていられるのだろう。
 俺なんかもう涙で前が全然見えないのに。
 長門の頭が動いて俺の方を見たように思えた。
 すると長門はハルヒをはなすと俺の方に来た。
「あの時のこと、思い出した?」
 前にも聞かれたな。大丈夫、今度は思い出した。
「ああ、ハルヒから聞いてな」
 結局ハルヒからその時の事を聞いた後、一週間は口をきいてもらえなかった。
「そう」
 もう長門の下半身はほとんど見えない。
 反射的に俺はその消えゆく体を抱き締めた。
 そして、そして――


 ふと、手の中の存在感が消えた。
 俺は目を開けたが、そこには誰もいなかった。
「ねえ、キョン」
 後ろからハルヒが話しかける。
「なんだ?」
「有希、すごく幸せそうに笑ってた」
「そうか」
「だから……、」
 ハルヒは一度口をつぐんだ後、言った。
「だから、今のは許してあげる」
 俺たちはその場に立ち尽くしていた。


 どれくらい経った頃だろう? どちらから誘うでもなく俺たちは図書館を出た。
「あ……」
 俺たちが外に出ると同時に真っ白で、はかなくも美しい結晶が宙を舞い始めた。
 俺たちはその場でたたずんでいた。
 消えていった少女から、新たに生まれくる命への静かな贈り物。静かな祝福。
 それはこの世界に有る奇跡の一つ。


 そうだ、これを俺たちの子供の名前にしよう。
 そして、いつか話してやろう。
 同じ名前を持つ、無口で頼りになるある一人の宇宙人のことを。
FIN.

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