「断ったわよ」

 時は放課後、場所は文芸部室。
 ハルヒは前置きもなく俺にこう告げた。
 今部室には俺とハルヒしかいない。
 ハルヒ曰く、
「有希は今日用事があって来れないって。みくるちゃんも。古泉君はバイトらしいわ」
 俺が部室に入ってきて早々聞いてもないのに教えてくれた。
 長門のフォローか。どんな魔法で俺のその場凌ぎの嘘に気付いたかは知らんが感謝するぜ。今度何か奢ってやる。
 
 さて話を戻す。
 俺は定位置のパイプ椅子で団長様の先程の一言を拝聴した。
 一応耳には入り脳にも届いて意味も理解したが、念のため聞きなおす。
「それは『告白』をか?」
「そうよ」
 俺は「そうか」とだけ答え、大きく息を吐いてパイプ椅子に身を沈めた。天井を仰ぐ。
 さっきの男の雰囲気や言葉で、なんとなく答えは見えていたが、やはりハルヒ自身から答えを聞くまで落ち着かなかった。
 今の一言を聞いてようやく落ち着いた。落ち着いたら力が抜けた。脱力ってヤツだ。今日は本当に疲れたぜ。
 ハルヒは団長椅子からぴょんと飛び跳ねて俺の方に近づいてきた。
 にんまり微笑んで、
「なーにそんなにホッとしてるのよ? あんたもしかして、あたしが断らないんじゃないかって心配してたの?」
 からかうようなハルヒの声。
 さすが団長様。ふざけておっしゃってるつもりでしょうが、かなり的を射ててるんですよ、それ。
 俺は無言のまま、ハルヒを人差し指で招く。今朝の逆だ。
「? 何よ?」
 ハルヒが俺の方に頭を近づけるため体を屈めた瞬間、
 俺はハルヒの右腕を取って自分の方に引き寄せた。
 ハルヒがバランスを崩してよろめく──それを空いた手で受けとめて、さらにハルヒの体をくるりと回転させた。
 すとんとハルヒは俺の膝に着地した。まるで子供を抱っこしているような格好だ。
「えええええええっ!?」
 ハルヒが俺を見上げ狼狽している。
 俺はあたふたするハルヒに構わず抱き寄せた。黒髪に顔を埋める。甘い香り。
 俺は自分の心情を包み隠さず吐露した。

「そうだ、不安だったさ──だから俺は今めちゃくちゃ安堵している」

 ハルヒが息を呑んだのがわかった。
 俺はそれ以上語らず、ハルヒの艶やかな髪に顔を埋めながら、両腕でハルヒの存在を確める。
 ハルヒは最初全身を強張らせていたが、次第に力を抜いて俺の胸に体を預けた。
 心がどんどん落ち着いていく。
 ここ一日の不安や絶望の残り滓すらきれいに溶けて消えていった。



 何分経ったろう。ハルヒがおもむろに口を開いた。
「──そんなに不安だった?」
 それは今まで聞いたことのないほど優しさに満ちた声音だった。
 「ああ」と俺は呟く。
「バカね」
 ハルヒの口調は柔らかいまま。まるで小さい子供に言い聞かせるような。
「ホントバカ。言ったでしょ?あたしはあたしだって。あんただって言ってたじゃない、『人の意見なんかに左右されない不可侵の団長様』って」
 だから断ったのか。
 何だ、俺はもう昨日の内に知らず阻止していたわけか。とり越し苦労とはこのことだな。泣けてくるね。
「そうだな」
 俺は溜息一つしてそう呟いた。ハルヒはこつんと拳で軽く俺の胸を叩く。
「だから安心しなさい。あたしはあんたの側にずっといるから──」
 俺はその言葉に縋りつくかのようにハルヒを一層強く抱きしめた。ハルヒの肩がぴくんと跳ねる。
 吐息とともに俺は囁いた。
「そうしてくれ、頼む」
 それが俺の答えだ。
 この答えがいつか様々な感情に成長したり発展したりするのだろう。
 今はこれ以上の答えは出せないが、いつか遠くない未来に必ず出すから。
 それまで、
 『そばにいてくれ』


「……キョン、くるしい」
 ハルヒが俺の腕の中で身動ぎした。どうやら強く抱き締めすぎたらしい。
「あ、ああ、すまん」
 腕を緩め、ずっと埋めていたハルヒの髪から顔を上げた。
 ハルヒは少し身を引いて俺を見上げる。
 ハルヒ?
「お前なに泣いているんだ?」
 ハルヒの長い睫毛に小さな雫。そんなに苦しかったのか?
「ち、違うわよ。ちょっとびっくりしちゃっただけよ!?」
 ハルヒは慌てて手で目を隠す。手の隙間からほんのり赤くなった頬が見えた。
―─ハルヒ、それ反則。
 俺は本能的にハルヒの手を退けて瞼に軽く口付けた。
 涙で唇が少し潤う。
 ハルヒはぱちくりと大きな目を見開きしばらく固まっていた。
 かと思うと、耳まで真っ赤になりながらわなわなと口を歪め、とうとうそれを大きく開いた。
「キョン!!」
 わぁ、びっくりした。こんな間近でそんな大音声聞かせんでくれ。
「もう!! いきなり! 恥ずかしいこと! するな!」
 スタッカートを効かせてハルヒが喚く。
「すまん、あまりにも可愛かったもんでな」
「──!! そういうこともさらっと言うなー!!」
 と言ってハルヒは俺の胸に顔を伏せてしまった。
 ああ確かに恥ずかしいこといったな俺。言った端から顔が熱い。
 ハルヒは顔を伏せて俺のブレザーを掴みながら「う"ー」とか「むー」とか唸っている。
 ぽんぽんと頭を撫でてやると、今度は「アホキョン」「キョンのくせに」「キョンのバカ」とぶつぶつと呟き続けた。
 やれやれ。



 一通り俺に対して文句を並べたところですっきりしたのか、突然ハルヒがガバッと顔を上げた。うぉ、近ぇ。
 にんまりとしたアヒル口。
 うわー、なんか企んだな、コイツ。
 と思ったらネクタイをがしっと掴まれ勢いよく引っ張られた。俺の頭は連動してハルヒの目前に引き寄せられる。
 ハルヒの顔が近づいた。
──もしやこれは。
 俺は反射的に目を閉じる。
 しかし、一度夢で味わった柔らかく甘いものは予想とは違う場所に押し当てられた。
 俺の閉じた瞼に、だ。
「お返しよ」
 目を開くとへへーんと満足気な顔をしたハルヒ。やはりやられたままではいたくなかったらしい。
 目には目を、と言うわけですかね?意味が違うが。
 いや瞼でも充分恥ずかしいですけどね。現にされた瞬間から鼓動が速まったからな。
 ハルヒはケラケラと上機嫌に笑いながら、
「なぁに? キスされると思った?エッチぃわねキョンは」
「悪かったな」
 どうやら俺は至極残念そうな顔をしていたらしい。
 男とはそういう悲しい生き物なんだよ。それにおあずけくらうと、さらに欲しくなるもんだ。
「だーめ」
 ハルヒは胸の前で両腕をバツの形にし、
「なんの覚悟もなしに一時の感情に任せてしたら死刑よ、死刑。わかった?」
 これには頷くしかない。
 ただこの言葉はしっかり覚えておこう。覚悟ができたそのときのために。
 ハルヒは俺が頷くのを届けると、立ち上がった。
「さあ、もう帰りましょ」
 ハルヒは鞄を取りに団長席に向かう。
 と、何かを思い出したように足を止め振り返った。俺の鼻先にビシッと指を突きつけ、
「言っておくけど今日は特別だからね!ホントはあんなことしたら即死刑よ!」
 『あんなこと』とはどこまでを指しているんでしょうかね?
 まあ肝に銘じておきますよ、団長様。



 日も傾いた夕暮れ時。
 昨日と同じくハルヒと二人で坂道を下る。
 昨日とは打って変わってハルヒは機嫌が良いし、俺の気分も晴々としているがな。今夜はぐっすり眠れそうだ。
 ハルヒなんぞたまに鼻歌を歌っている。今日の授業で歌った曲だそうだ。しかしモルダウってそんなに明るい曲だったか?
 ところでだな。
「お前あいつに『本当の気持ちを教えてくれ』とか聞かれてたが、あれは何だったんだ?」
 ぴたと足と鼻歌を止め、ハルヒは俺をじとっと咎めるような目で振り返る。
「やっぱり聞いてたのね?」
「聞こえてきたんだ」
 俺は弁明らしきものをしたが、ハルヒは疑わしげな顔つきで「ふーん、どうだか」と呟く。やはりバレバレだったか。
 ハルヒは少し黙ったまま何か考え込んだ後、悪戯っぽい目をして俺を見上げた。
「知りたいの? キョン」
「ああ」
 教えてくれるなら教えてほしい。ちょっと──いやかなり気になるからな。
 ハルヒはふふんと鼻を鳴らしたかと思うと、
「教えてあげない!」
 と告げ、突然跳ねるように駆け出した。二、三歩進んだところで止まりくるりと踵を返す。
 満面の笑顔。まるで季節はずれのヒマワリみたいだ。


 俺はハルヒのその笑顔に、あの男に対する問いかけの『答え』を見つけた。



──終わり

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