※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「そういえばさ、前々から疑問だったんだけど。古泉君のアルバイトって、いったい何やってんの?」

 何の前触れも無しに、晴天の霹靂のごとく文芸部室その実態はSOS団のアジトに鳴り響いた我らが団長様の質問の声に、俺は不覚にも、ぴくりと頬を引きつらせちまった。まったく、せっかくの秋めいた穏やかな雰囲気が台無しだぜ。

「なんかさ、突然お呼びの電話が掛かってきたりするじゃない? 専門職っぽいっていうか、古泉君じゃなきゃダメって感じがするんだけど、でも高校生のバイトでそういう職種っていまいちピンと来ないのよね」

 団長椅子の上で腕組みをして背を反らせ、尖らせた唇と鼻の間にシャーペンを挟んだハルヒは、どこか中空を見上げながらそんな事を言う。また名探偵にでもなったつもりか。それにしても、無駄に勘が鋭い奴だな。
 って、どう答えるつもりだよ古泉。まさか閉鎖空間に神人狩りに行ってますとは言えないだろ。という俺の危惧は、まったく無用のものだった。わざわざ考えるまでもなく、このニヤケ野郎がこういう事態を想定していないはずがないのだ。

「さすがは涼宮さん。洞察が深いですね」

 はたして。古泉は指の間に挟んだチェスの駒をゆらゆら揺らしながら、いけしゃあしゃあと答えやがった。

「仰る通り、僕のアルバイトは定期的なものではありません。幾つか掛け持ちしているのですが、どれもこれも親類縁者からピンチヒッター的にお呼びが掛かるものばかりでして。ていの良い穴埋め要員といった所ですよ、ははは」

 まあ、僕としても金銭よりは社会的見聞を広めるのが主たる目的なのですけれどね、とむかつくくらい余裕ぶっこいた発言をかました後、古泉はさも今思いついたとばかりに、ポンと手を打ってみせた。

「そうですね、よろしければ今週末の不思議探索は、社会見学に変更してみてはいかがでしょう。あるいは人々が当たり前のように働いている中にこそ、意外な不思議が潜んでいるかもしれません」
「それって、古泉君のバイト先を案内してくれるってこと? ふうん、面白そうね!」
「いや待て待て、古泉。それは先方に迷惑じゃないのか?」

 能天気なハルヒの賛成に、俺は思わず口を挟んでいた。少し考えてみれば、古泉の野郎がハルヒを誘うというのは『機関』関係の下ごしらえが既に施された先でしかあり得ないってのは明々白々なんだが、それでも想像してみろ。超ド級爆弾娘、涼宮ハルヒに押し掛けられた職場の皆様の気分ってものを。
 底意地の悪いガキに、巣の中に水を流し込まれたアリンコもかくやって所だろうぜ。いくら『機関』の周知が徹底していたとしても、義憤に駆られた社員の一人がハルヒに噛み付いたとて、俺は何の疑問も抱かないね。
 が、チェス板を挟んで俺の前に居座るこのニヤケ野郎は、当然のように俺の憂慮をスルーした。

「大丈夫ですよ。元々、今週の土日で都合がついたら連絡してほしいという話でしたし。人の出入りも激しい所ですから、大騒ぎさえしなければ特に迷惑という事もないでしょう」
「えっと、その、古泉君…」

 と、それまで野道に咲くたんぽぽのように控えめに成り行きを見守っていた朝比奈さんが、小さく右手を挙げて質問なさった。ああ、この人は本当にひとつひとつの動作がいちいち可憐だな。見ているだけで心が安らぐね。
 ちなみに、この部室には長門も居る。会話に加わろうという気配すら全く無いので、こうして注釈を入れないと誰も気付きゃしないだろうが。

「結局、それってどんなアルバイトなんですかぁ?」

 興味と好奇心、よりは半分くらい、びくつきが優勢なのは気のせいじゃないだろう。ハルヒの事だ、朝比奈さんにどんな無体を言い渡さんとも限らないものな。
 ですが、どうぞご安心ください朝比奈さん。あなたの貞節はこの俺が体を張ってでも守ってみせます!という堅い決意にキリリと表情を引き締めた俺を見事に無視して、古泉は爽やかに言ってのけた。

「なに、そんなに大層な仕事ではありません。写真のモデルですよ、広告用の」
「ふえ~~~っ!?」

 朝比奈さんは目を真ん丸にして、素直に感嘆の意を表している。そんな表情でも愛らしいですね、あなたは。
 対してこちら、ハルヒの方は獲物を見つけた野生の獣よろしく眼をギラつかせながら、古泉の言に喰らい付いていた。

「すごいじゃない! 古泉君、モデルのプロダクションにでも所属してんの?」
「とんでもない。広告と言っても、本や雑誌に載るわけではありません。
 新聞と一緒に、地元のスーパーや量販店のチラシが入ってくるでしょう? ああいったささやかな仕事が主です。モデルの手配が間に合わない時に、僕にお鉢が回ってくるのですよ」
「ふむ。でもあたし、チラシで古泉君を見かけた事ないわよ?」
「それはそうでしょう、少し離れた地域の企業広告がメインですので。自分の近隣に写真広告が出回るのは、さすがに僕も気恥ずかしいですからね」

 お前に気恥ずかしいなんて感情があるのか。求められればヌードでも応じそうだがな。うえ、今ちょっと想像しちまった。

「じゃ、今週末は古泉君主催の撮影所見学に決定っ!」

 って、俺が気色悪さに背スジを震わせてる間に勝手に一人で決めちまったよ、この団長様は。どうせ反対したって、俺が槍玉に上げられる展開になるんだろうな。逆らうだけ無駄って奴か、はあ。

「では皆さんはいつも通り、土曜の朝に駅前公園に集合してください。そこから電車とバスで移動します。先方には、僕が話を通しておきますので」
「うんうん! よろしくね、副団長!」

 二つ目の太陽が出現したみたいな笑顔で頷きやがるハルヒ。まあいいか、マンネリ気味の不思議探索より、こっちの方がなんぼか後学のためになるかもしれん。俺が前向きに自分を納得させた所で、長門が本を閉じる音が、パタンと部室に鳴り響いた。
 なんだろうな。俺はこの時点で、自分の身に迫る危機に気付くべきだったのかね。いや無茶言わんでくれ、俺は常識的な一般人で、テレビか新聞でも見なけりゃ明日の天気だって分かりゃしないんだからさ。

 



 そんなこんなで土曜日。バスに揺られて隣市の郊外にやってきたヒマ人集団SOS団、なのだが。

「おい、古泉」
「なんでしょう?」
「俺は何か壮大な勘違いでもしてたのか」
「はて、何の事です?」
「今日は広告モデルの撮影を見学って話だったろうが!」

 古泉の野郎に案内された先、想定外の建物を前にして、俺は激しいツッコミを奴に浴びせかけていた。

「それなのに、なんで俺たちは結婚式場にいるんだよ!?」

 そう、ハルヒはキョロキョロせわしなく辺りを見回し、朝比奈さんはほえ~っと併設されている教会の鐘楼を見上げ、長門は無表情で、ガラスのウインドウに展示されているドレス姿のマネキンを凝視している。
 俺たちが場違いにもたたずんでいるのは、紛う事なく総合結婚式場そのものだった。かなり大掛かりな施設で、ちょっとしたホテルの様相を呈している。俺たちが今いるだだっ広い駐車場にも、大型バスが何台も停められそうだ。

「なぜ、と問われても返答に困りますね。なにしろ今回のお仕事は、この式場の広告モデルですし」

 またもや平然と答えやがったよこいつは。

「撮影所の見学じゃなかったのか」
「ですから、ここの撮影所で写真撮影です。衣装も山ほど揃ってますし、専属のカメラマン氏もいますよ?」

 にこやかに応じる古泉の横っツラを、俺は思いっきり殴りたい衝動を抑えるので必死だったね。
 ちくしょう、ハメられた。確かに結婚式場ってのは記念撮影のメッカだ。これだけの規模の総合施設だったら、さぞかしご立派な撮影設備が整ってるに違いない。そして『衣装も山ほど』という奴のセリフに、明らかに女性陣の目の色が変わっていた。信じられるかよ? あの長門でさえ心なしかwktkしてる感じだぜ?
 幻聴が聞こえる。ハルヒの奴が声も高らかに、

「よーっし! せっかくだからあたしたちもモデル業に挑戦するわよ!
 ほらキョン、あんたもボーッと突っ立ってないで、さっさか着替えてきなさい! ノロノロしてたら死刑よ!」

と宣言する姿が目に見えるようだ。でもって実際、その幻聴と幻影は数分後に現実となった。
 やい、古泉。心底げんなりしてる俺に向かって、その「かかったな、小物め!」とでも言いたげな微笑を見せつけるのはやめやがれ。くそったれが。

 



「いやはや、よくお似合いで」

 いかにも好々爺といった感じのスタイリストさんの言葉に、俺は、はぁ、と生返事を洩らす他なかった。
 着せられたのは形状はいわゆるダブルのフォーマルなんだが、とにかく全身真っ白な一揃え。スラックスも白、上着も白でベストもネクタイも白。白一色だ。こうして書くと麻雀の役みたいだな。
 あんまり白すぎて目がチカチカするぜ。まあ礼服の効果か、鏡の中の俺はそれなりに大人びて見えるんだが。馬子にも衣装って奴さ。あー、自分で言うのも虚しいな。などとヤケクソ気味な事を考えながら袖の金色のボタンを指先で弾いていると、嫌味なほど爽やかな声が背中から掛けられた。

「これはこれは。いや素材は良いと前々から思ってはいましたが」

 猛烈に振り向きたくない気分だが、無視して余計な所を突つかれても困る。というわけで振り向くと、古泉の野郎がさも驚いたといった様相で微笑んでいた。

「素晴らしい紳士っぷりです。見事に化けられましたね」
「人をキツネかタヌキみたいに言うな」

 ぎろりと睨んでやったのだが、奴はどういう感性をしてるんだか、くつくつ愉快そうに笑いやがる。真性のマゾかこいつは。
 古泉の方は、いわゆるタキシードという奴だ。首元の黒い蝶ネクタイが、キザったらしい顔にお似合いだぜまったく。つか、新郎役はお前一人で十分だろ。今日の俺はただの一般見学者だったはずだぞ。なんでこんな衣装に着替えさせられてんだ。

「お分かりのはずですよ? “涼宮さんがそう望まれたから”です」

 くそ。予想はしてたが、ムカつく答えだ。俺はただ諾々と振り回されてろって事かよ。

「まあまあ。そう深刻に受け止めずに、この状況を楽しんでみてはいかがです?
 お察しの通り、今回の件は涼宮さんを退屈させないための、『機関』主導の小芝居ではありますが。しかし広告モデルのアルバイトである、というのは事実です。それなりにバイト料ははずみますよ?」

 そう言って、古泉は俺の耳元に口を寄せてきた。おい、息が掛かってるぞ気色悪い。と、そこまでは不機嫌だった俺だが、古泉の奴がささやいた金額に、思わず奴に向き直っちまった。

「そんなに出るのか!?」
「ええ、まあこの程度が相場ですね。
 こう言っては何ですが、冠婚葬祭というのはある種のお祭り産業でして、利益還元率が高いのです。有り体に言えば、中規模の披露宴の一件でも受注できれば我々のバイト代など余裕でペイできるでしょう」
「話としては分かるがな。だったらそれこそ、本職のモデルを使うべきだろうに」

 問いただす俺に、古泉の野郎は鼻先でふっと笑った。

「なまじっかなモデルよりは、涼宮さんたちの方がよほどドレスが映えると思いませんか?」
「あ…まあ、それはそうかもな。写真だけならハルヒのトンデモっぷりもバレやしないだろうし。だが、いかんせん結婚式のモデルとしちゃ若すぎるだろ」
「そうでもありません。昨今は女性の社会進出から、晩婚化の傾向が強まっているそうですから。
 若いモデルの採用は、そういった女性層を刺激する意味合いもあります。この式場はお見合いの斡旋業なども請け負っていますからね」

 いかにもそれらしい古泉の解説に、俺はやれやれと肩をすくめてみせた。

「つまりは歳若いモデルのウェディングドレス姿を見せつけて、客を焦らせようって腹づもりか」
「涙ぐましい企業努力、と言うべきでしょうかね」

 ふふ、と笑う古泉に、俺はうんざりと顔をしかめちまったね。
 奴の言ってる事は理解できる。企業運営ってのは遊びじゃない。あの手この手で客を囲い込もうってのは、当然の戦略だろうよ。
 だが、俺はまだガキなのかね。そういうアコギさにどうしても抱いちまう嫌悪感があるのさ。それを大っぴらに口にしない程度の分別は備えてるがな。

 まあ、ハルヒの奴なら思いついたその先から、ズケズケと言いたい放題言い放つんだろうけども。女子衣装室へ向かう際の、あいつの笑顔が脳裏をよぎる。たかだかドレスに着替えるだけの何がそんなに嬉しいんだか、やたらとはしゃいでたっけか。
 こういう計算高い話は、それこそあいつには聞かせるべきじゃねえよな、どうせロクな展開にならん。などと埒もない事を考えていると、古泉の奴がいつもの5割増しくらいのニヤケ顔で、俺に訊ねてきやがった。

「ひょっとして、涼宮さんの事でも考えてましたか?」
「…何の話だ」
「いやあ、そろそろ彼女たちの方も撮影準備が整ったのではないかと思いまして」

 おい、なんだそのしてやったりな笑みは。俺が図星を突かれたとでも思ってんのか。勘違いもはなはだしいぞ、このペテン師め。いかにもそれっぽい服を着てるから、余計にそう思えるぜ。

「なら、さっさと合流してさっさと済ませるぞ」
「ふふふ、そんなに急かさなくっても涼宮さんたちは逃げたりしませんよ?」
「いちいち無意味な勘繰りを入れるな」

 これでもかと古泉を睨みつけ、俺は男子の控え室を出る。そして、すぐに途方に暮れる事となった。

「失礼ですが、この式場の部屋割りはご存知なので?」
「知るわきゃないだろ。今日初めて来たんだ」
「では、僭越ながら僕がご案内しましょう。女子の控え室はこちらです」

 結局、俺はバカみたいに古泉の後ろに追随せざるを得なかったよちくしょう。まったく、その場の感情で動くとロクな事がないよな。

 



 廊下を2回ほど曲がった先の、ひとつのドアの横で立ち止まる。そうして古泉は、俺に向かってにこやかに会釈してみせた。

「どうぞ。皆さんはこの中です」
「なんで俺に先を譲る?」

 我ながら小心だとは思うが、こいつなら笑顔の裏で平気でドッキリとか仕掛けかねないからな。けれども古泉の野郎は、質問の意味が分からないとばかりに小首を傾げてみせた。

「はて、あなたはそんな引っ込み思案な方だったでしょうか。むしろ僕が先に彼女たちの晴れ姿を拝見してしまうと、後で文句を言われそうだと思ったのですが」

 愛想笑いを浮かべながらの口上があんまり小憎たらしいので、よほど言い返してやろうかと思ったが、俺は寸前でそれを止めた。どうせ時間の無駄だ。それに、朝比奈さんの花嫁姿をいの一番に拝めるというのは確かに悪くないぞ、うむ。ハルヒの奴はどうせチンチクリンだろうがな。
 もちろん扉を開ける前にノックは忘れない。いつもそうだが、今日の俺は特に紳士なのだ。コンコン、っと。

「すいません、失礼しま…」
「あっ、キョンね! 無意味にかしこまってないで、さっさと入ってきなさいよ!」

 いちいち声の主を特定する気にもなりゃしない。ハルヒの辞書には『情緒』って言葉は載ってないんだろうよ。第一、今のはお前に対してかしこまったわけじゃない。主に朝比奈さんへの配慮だ、勘違いすんな。
 辟易とした気分でノブを回し、扉を開ける。するとはたして、控え室の中では椅子に腰掛けたハルヒを真ん中にして三人並んだきらびやかな花嫁たちが、俺らを迎えてくれていた。
 ――のだが。

「えへへ…どうですかぁ、キョン君?」
「…………」
「なにボーッとしてんのよ、キョン。褒め言葉のひとつも出ないわけ? 情けないわね!」

 幾つかの言葉と視線が、俺に投げ掛けられる。しかしそれらは全て俺の横を素通りして行った。ノブから手を離す事も出来ず、扉を開けて部屋に一歩踏み込んだ状態で、俺は固まっちまってたんだ。

 おい、ちょっと待て。待ってくれ。なんだ? 何なんだ、これは?

 体が動かない。視線が動かない。俺の中の神経たちが一斉に職場放棄しちまったような感覚。
 視界は良好で、多種多様な情報が網膜を通して大脳皮質に飛び込んでくる。だがそれも一向に像を結ばない。ハルヒの左隣にいる、スカートのふわっと膨らんだオレンジのドレスの女の子がたぶん朝比奈さんで、肩もあらわなスリムなラインの紫のドレスを着ているのが、長門なんだろう。目の前にいるのに「なんだろう」ってのもおかしいが。

 そして、ハルヒ。いや、ハルヒだよな?
 小さなブーケを持った両手を腿の上で揃えて、淑やかに椅子に腰掛けてるその姿は、普段、団長椅子の上であぐらを掻きつつネットサーフィンなんぞに興じている奴と同一人物とは、とても思えないぜ。見た目だけならどこの国のお姫様かって感じだよ。ああ、見た目だけならな。
 細い指先から二の腕の半ばまでを覆う、白の手袋。脚のほとんどを包むロングスカートからちらほら見え隠れする、エナメルの白いピンヒール。
 こまやかな細工のレースがふんだんに使われた豪奢なドレスは、光沢のある鮮やかな白。俺の服と対を成すような白一色。純白という言葉で言い表す事さえ陳腐に思えるほどの、白。一点の曇りもない、清麗なる白き花嫁。
 いや、違う。凄いのは衣装なんかじゃない。凄い事は確かに凄いんだが、そうじゃなくて。

 絹のヴェールの間から、上目遣いに俺の反応をうかがっているハルヒ。うっすらと化粧をしているのか、こいつ自身がとんでもなく綺麗だったんだ。
 そりゃ、こいつの事を「黙ってりゃかわいいのに」と思った事は何度かあるさ。だが今日抱いた印象は、これまで一度も感じた事のないもので、その鮮烈さが俺の心を好き放題に切り刻んでいた。インド人も朝倉涼子もビックリだな、これは。
 ハルヒの髪の中で、いつものカチューシャの代わりに…ティアラっていうのか? 何やら宝石が幾つも散りばめられた髪飾りがきらきら光る。それすらハルヒ自身の放つ輝きの前では、文字通り引き立て役でしかない。

「なんとか言いなさいよ、キョン。ふふん、それともあたし達のあまりの麗しさに、感激で言葉も出ないのかしら?」

 俺をからかってるつもりなんだろうがな、ハルヒ、少し眉根を寄せたお前は、どこか不安そうに見えるぜ。着慣れない服で一人前に緊張してんのかよ?
 そう俺は軽口を返そうとする。ところが意に反して、俺の耳はひゅーっひゅーっという、かすれたような音を聞くばかりだった。なんだ、この音は?

 ぱくぱくと、俺の口が動いている。けれども声らしい声は、まるで出てこない。ただ息が漏れるだけ、それがひゅーひゅーと音にならない音になっていた。
 舌の根が奥に引っ込んで気管を塞ぐ。ノドの筋肉が首でも絞められてんのかってくらい、独りでに縮み上がる。
 背筋がびくびく跳ね回る。目の奥がツーンと痛くなる。頬から手の平から、べたっとした嫌な脂汗がにじみ出てきて、膝がガタガタと愉快そうに笑ってやがる。
 おい、おい? なんだ、どうしちまったんだ俺? ほら見ろよ、ハルヒの奴が不安を通り越して心配そうな顔になっちまってるじゃねえか。別になんでもないって、さっさと答え…なけりゃ…。

「キョン? ちょっとキョン! あんた顔色がひどく――」

 そこから先は、もう聞き取れなかった。視界がぐるんと勝手に上に回る。ハルヒたちからは、俺が白目を剥いたのがよく分かっただろうよ。
 そうして視界と一緒に、俺そのものが後ろへ倒れこむ。ブラックアウトする意識の中で最後に見たのは、クリーム色の天井と、俺を抱き止めて上から「大丈夫ですかッ!?」と訊ねかけてくる古泉の珍しい真顔だった。
 なんてこった…こいつは悪夢だな…。いや、これから見るのが悪夢なのか…? どっちにしたって最悪――だ、ぜ――。

 



「はっ………夢か!?」

 毛布を吹っ飛ばす勢いで跳ね起きるなり、そう呟いて。それからすぐに、俺は自己嫌悪に頭を抱え込む事になった。どうやら俺のおつむは、ハルヒのようにひたすら自分に都合よくは出来ていないらしい。

「やあ、気が付かれましたか」

 俺が寝かされていたソファーの脇で、折りたたみ椅子に腰掛けていたニヤケハンサムが立ち上がり、ジュースの自販機へ歩み寄っていく。ここは…男子の控え室か…。
 って、俺が着てんのはランニングにトランクスだけかよ!? ひとつクシャミをして、俺は掛けられていた毛布を慌てて肩に羽織り直した。

「すみませんね、あの貸衣装はかなり高価な物でして。そのままというわけにも行きませんので、こちらで脱がさせて頂きました。どうぞあしからず。
 さて、まずは一服しましょうか」

 俺にスポーツドリンクを差し出し、自分は椅子に座って缶コーヒーのプルタブを開ける。そんな古泉に、俺はこれ以上ない程の仏頂面で訊ねかけた。

「気を失ってたのか、俺は」
「ええ。医師の診断では特に異常なしという事でしたが、ご気分はいかがです?」
「最悪だね」

 俺の返答に、くっくっと古泉はむせぶように笑う。まるで、面白い冗談だと言わんばかりに。

「その割には熟睡されていたようですが」
「けっ」

 あれから3時間近くも寝てたのかよ俺は。まあ、こいつがこういう反応を示してるって事は、とりあえず脅威らしい脅威は無いという事だ。
 まだノドの奥に残る吐き気をジュースで押し流しながら、俺は古泉のクソ面白くもない解説を聞いていた。

「当然の成り行きながら、撮影会の方も中止です。
 この式場では今日も数組、本物の結婚式が執り行われていまして。撮影所を押さえ続けるわけにもいきませんし、そもそもあの状況では、涼宮さんたちも笑顔でファインダーに納まる事は出来なかったでしょうからね」

 なんとももったいない事です、と古泉の野郎は両腕を左右に広げてみせる。いちいち仕草が大仰なんだよお前は。朝比奈さんの麗しいお姿を焼き付け損ねた点については同意するがな。

「僕としては、むしろあなたのポートレートを撮り損ねた事の方が残念ですね。
 いえ変な意味ではなく、涼宮さんを始め、朝比奈さん、長門さんとも良い関係を築くための好材料になると思ったのですが」

 なんだそれは。意味分かんねえよ。

「ともかく、本日のSOS団的活動は解散となり、朝比奈さんと長門さんは一足先にお帰りになりました。
 涼宮さんは『この施設内を探検するわ!』との事で、まだ残っておられるようですが。そうですね、団長としての立場上、いろいろと放置しておけない事象があるのでしょう」

 ニヤニヤしながらこっち見んな。不愉快極まりないぜ。
 しかし、そうか。あの二人がもう帰ったって事は、さっきのアレは、やっぱり敵対的な何者かの攻撃なんかじゃないって事だよな。

「それで、一体どうしちまったんだ、俺の体は?
 急に金縛りにでも遭ったみたいに動けなくなったと思ったら、勝手に意識が飛んじまった。また、ハルヒのトンデモパワーか何かが炸裂したのか?」

 すると古泉は、意表を突かれたようにぱちくりとまばたきをして、すぐに「ああ、なるほど」と一人で頷きやがった。何なんだよ、一体?

「さて、何とお答えしたものやら…。
 原因が涼宮さんかと問われれば、答えはイエスです。しかし先の事態は、あなたがお考えのような超常的な力に因るものではありません。ごく普通に、誰の身にも起こり得る出来事でして」

 いつもながら回りくどい。さっさと要点まで飛びやがれ。

「ではそうしましょう。ですが、どうか短慮など起こされませんよう、くれぐれもお願いします」

 やけに仰々しい前置きから、古泉は改めて口を開いた。

「医学的な見地から申し上げますと、あなたは過換気症候群に陥ってしまったのです」
「カカンキ…?」
「ニュースなどで聞いた覚えがありませんか? 韓流スターを空港で出迎えたおばさま方や、あるいはコンサート会場で熱狂が頂点に達したファンの方が、興奮のしすぎで呼吸不全を起こして倒れてしまう、というアレですよ。つまり――」

 いや待て。ちょっと待て、古泉。
 それ以上言うな。自分で訊ねといて何だが、どうにもすさまじく悪い予感がする。俺の悪い予感は当たるんだ。
 だが遅かった。古泉の野郎は、俺に向かって残酷な笑顔で言い放ちやがったのだ。

「端的に言うならば、あなたは涼宮さんの花嫁姿のあまりの美しさに、感極まって気絶してしまった、という事になりますね」

 



 例えるなら準備運動も無しに水に飛び込んで心臓麻痺を起こしたようなものですよ、精神的な意味で。という古泉のセリフは、もはや俺の耳を素通りするばかりだった。
 『機関』の手配がなされているのか――まあ、控え室なんざ幾つも併設されてるんだろうが――俺と奴の二人きりの室内に、ごん!という音が響く。それは思わず天を仰いだ俺の後頭部が思いっきり壁にぶつかった音だったんだが、当の俺には痛みを感じる余裕すら無かったね。

「おい、古泉」
「なんでしょう?」
「ピストルでも持ってたら、今すぐ俺の頭を撃ち抜いてくれ」
「あいにくですが、今日は持ち合わせがありません」

 なら用立てようと思えば用立てられんのかよ、だとかツッコんじゃやらねえぞ。くそ。この野郎、ここぞとばかりにニヤケやがって。

「ふふ、少し落ち着いてください。
 あなたが倒れられた後、この施設の支配人さんから涼宮さんたちにお話があったのですけれどね。結婚式という人生の晴れ舞台で、感激のあまり気絶してしまう人は案外、珍しくないそうですよ。それも新婦よりは、新郎や新婦の父親が倒れてしまうケースの方が、むしろ多いそうでして」

 そんな話が、いったい何の慰めになるってんだ。ちくしょうめ、俺の胸に去来してる喪失感やら敗北感やらを、10分の1でもこいつに押し付けてやりてえよ。これなら学校で、衆人環視の前で女の先生を『お母さん』とか呼んじまったりした方が、まだマシだろうぜ。
 勝ち誇ったハルヒの高笑いする姿が目に浮かぶ。高校1年の秋にして、俺の学生生活はもはや絶望的だ。気分はプロに入団してすぐに肩を壊したルーキー投手だな。ほとんどヤケっぱちで乾いた笑いを洩らす俺に、古泉は不意に声のトーンを落として、語りかけてきた。

「何か、勘違いをなさっているようですが。実は先程から、小規模ではありますが閉鎖空間が頻繁に発生しています。さながら群発地震のように」
「なんだと?」

 どういう事だ? 俺は、自分でもまだ信じられないんだが、ハルヒの花嫁姿に当てられて気絶しちまったんだぞ。
 もう一生涯ネタにできる程、俺に対する弱みを握ったってのに、なんでハルヒの奴は不機嫌なんだ? 張り切ってドレスに着替えたのが無駄になっちまったからか?

「それも有ると言えば有るでしょう。しかし、本質はそこではありません。不機嫌というより不安なのですよ、涼宮さんは」
「…不安? ハルヒが?」
「ええ。なにしろ――」

 微笑みを消して、古泉はじっと俺の目を見つめた。それはどこか、咎めるような視線で。

「――涼宮さんを見るなり、何も言わずに卒倒なさってしまわれましたからね、あなたは」

 まさか、って気分だよ。つまり何か? ハルヒは俺が、あいつのドレス姿を見るに耐えられなくて気絶しちまった、とでも思いこんでるって言うのか?
 ありえねえだろ、あの益体もない自信過剰の権化が!と一蹴しかけて、俺はハッとした。いや待て、ハルヒの奴は…。

「ええ、あなたには今さら言うまでもありませんが。
 涼宮さんは対外的には強攻とも呼べるほど、非常に自由闊達なお方です。しかし反面、自身に対する内面的な部分では、疑心暗鬼に陥りやすい面も持ち合わせていますよね?」

 そうだ、以前にあいつ自身が話してくれた。
 小学生の頃の野球場での出来事。そこで、これまでの自分に対する強い不信を抱いたから、今のハルヒがあるんだ。あいつの唯我独尊さは、自分の存在への不安の裏返しでもあるんだ。そうして、自分への不安と世界への不満が積もり積もって、5月のあの日にあいつは大癇癪を起こした…。
 あの閉鎖空間の中の校庭で、「俺は元の世界に戻りたい」と告げた瞬間の、あいつの顔を思い出す。今のハルヒも、あんな顔をしてるってのかよ。

「けど、さっきの支配人さんの話をハルヒは聞いたんだろ? だったら…」
「当然ながら僕も、朝比奈さん、長門さんまでもが、涼宮さんがあまりに美しすぎたが故に彼は失神してしまったのだ、と言い含めました。そうとしか考えられない状況でしたし、実際それは、あながち間違いではなかったようですしね。しかし」

 一呼吸置いて、古泉は弱りましたと言いたげな微笑を浮かべてみせた。

「涼宮さんは、ご自身の姿を写真に収めようとはしませんでした。それが全てです」

 



 重い沈黙が部屋を支配する。その渦中で、古泉はおもむろに口を開いた。

「知り合って間もない頃、なぜ僕があなたを閉鎖空間へお連れしたか、分かりますか?
 他に方法が無かったからです。言葉でいくら説明しても、決して理解できない。閉鎖空間とはいかなる存在なのかを知って貰うには、あなた自身の目で見て貰うしかなかったんです」
「…………」
「朝倉涼子との一件が無ければ、おそらくあなたは長門有希がTFEI端末だとは信じられなかったでしょう?
 実際に過去に飛ばされなければ、朝比奈みくるが本物の未来人であるかどうか、少なからず懐疑の思いは抱き続けていたでしょう? 要は、そういう事です」

 俺が黙っているのをいい事に、古泉の野郎の独壇場的な講釈が続く。

「我々がいくら説き伏せた所で、涼宮さんの疑念は尽きないのです。彼女が、確かにこれが真実だと思える明確な証拠を突きつけなければ、ね」

 そう言って古泉はしばらく、俺をじっと見つめる。と思うと、今度はおどけた動作でお手上げのポーズを取ってみせた。

「いや、それにしても参りました。涼宮さんのご機嫌を伺うつもりのイベントで、かえって閉鎖空間を発生させてしまうとは。
 完全に始末書物ですね。『機関』の同志にも合わせる顔がありません。策士策に溺れるとは、よく言ったものです」

 てめえの胸三寸だけで事を進めようとするからだ。事前に説明でもあれば、俺だってもう少しはだな…。
 そう非難しようとした矢先、古泉は同情的な眼差しを俺に向けやがった。

「あなたも、とんだ災難でしたね。体調に不備が無ければ、今日の所はお引き取りくださって結構ですよ。後の事は『機関』の方でなんとかいたしますので」

 そう告げて古泉は、丁寧に畳まれた俺の服を差し出してきた。…なんだと?

「おい。『明確な証拠』って奴をハルヒに突きつけなけりゃならないんじゃなかったのかよ」
「根源的にはそうですね。しかし先程も述べました通り、現在発生中の閉鎖空間は、割合に小規模な物です。対処療法で応じられないレベルではありません。そのうちに涼宮さんも落ち着きを取り戻すでしょう」
「俺に、ケツをまくって逃げ出せってのか」
「こう言っては何ですが。今、下手に涼宮さんを刺激してしまうと、さらに状況が悪化してしまう可能性もありますし、ねえ?」

 冷たい仮面のような表面上の微笑をたたえて、古泉はすげなく俺にそう答えた。

「いえ、あなたを責めるつもりは無いのです。こんな茶番劇に巻き込んでしまって、すみませんでした」

 しれっとした顔で、頭を下げる。そんな古泉の態度に、俺は鼻を鳴らして、受け取った服を着込み始めた。って古泉の野郎、何をニコニコしてやがる。視線を逸らすのがエチケットって奴だろうが。
 まあいい。オーバーシャツまで羽織り終えた俺は、すぅと息を吸い込むと、古泉に正面から向き直った。

「やい、古泉。歯ァ喰いしばれ」
「はい?」

 その1秒後、ぼぐっと鈍い音がして。俺の前で、苦悶の表情を浮かべた古泉が、体をくの字に曲げていた。

 



「このクソ野郎が!
 俺はどこにでもいる平々凡々な一高校生で、何の取り得もありゃしないがな。それでも何もかもハルヒにおっ被せて、自分は何の責任もありませんって、のほほんとしてられるような卑劣漢じゃねえんだ、バカにすんな!」

 いきなりの一撃だったせいか、俺のパンチを腹に貰った古泉は、そのまま床に崩れ落ちる。それでもなお、俺は上から思いっきりこいつに罵声を浴びせかけた。

「確かに今日の舞台はお前らの用意した茶番だったがな、それでもあいつを不安にさせたのは、この俺なんだろうが!
 だったら俺が幕を引かなきゃならないはずだ。それを分かってて、わざわざ俺を追い返すようなセリフ吐いてんじゃねえよ!」
「ふ、ふふ…ご高説、ごもっともです。それしても、歯を喰いしばれと言ってボディを殴る辺り…非常にあなたらしくて、惚れ惚れしますね…」

 片手で腹を押さえて呻きながら、それでも古泉の野郎は微笑んでやがる。こいつはガチで真性のマゾかよ。

「いやあ、非は僕の方にありますからね。わざとあなたを怒らせるような物言いをしてしまいました。どうも申し訳ありません」

 ニヤリとほくそ笑むように、古泉はそう言う。けっ、先に手を出させて正当防衛でも主張しようって腹か。どうやら俺は、奴の挑発にまんまと乗せられたらしい。

「でも安心しましたよ。あなたが涼宮さんに対する自覚と、自分が負うべき責任を理解していてくれて」

 てめえ古泉、そいつは褒め殺しって奴だな?
 くそ、ぐうの音も出やしねえ。他でもない俺自身が言ったんだ、ハルヒがどんなインチキパワーを持ってようが、あいつにばかり全ての責任を押し付けたりはしないって。じゃあ今日の撮影会が台無しになって、閉鎖空間がボコボコ発生してるって現実に、俺はどう責任を負えばいい?
 ちっ!と舌打ちして、俺は尻餅を着いている古泉に右手を差し出した。

「謝りゃしねえぞ。元はと言えば、お前らが勝手に書き上げたシナリオだ。
 それで、ハルヒはどこにいる?」
「この部屋を出て、右の突き当たりに休憩室があります。今はそちらにいるはずです。
 では、彼女の事はよろしくお願いします。僕はこれから本業のアルバイトの方へ向かいますので」

 引っ張り上げてやった古泉は、にこやかにそう答えた。
 こいつの手を握ってると、いつぞや閉鎖空間に連れて行かれた時の事を思い出す。まったく、男同士で握手っていうのがそもそもロクなもんじゃないが、このスマイル0円男と握手すんのは、さらに輪をかけてロクなもんじゃねえ。

「分かった。そっちは頼む」
「お任せください。こちらが僕たちの本来の役割ですしね。
 そうそう、先程はああ言いましたが…」

 そう前置きして、古泉はやたらと爽やかにこう続けた。

「あなたが本当に、涼宮さんの美貌に感激して気絶してしまったのか。実は僕も懐疑を抱いています。
 確かにあの時の涼宮さんは女神をも嫉妬させかねない程にお美しかったですが、さて、あなたが本当にただその“美”に撃たれただけで倒れてしまうような人物かどうか? それよりは、むしろ…いや、理屈はさて置きましょう。
 僕がそう思うのは、この半年のあなたとのお付き合いで得た直感、とでもしておいてください」

 あとはあなたのご想像にお任せします、ってか? そういう思わせぶりな語り口がペテン師くさいってんだよ。

「ふふ、それは失敬。
 それでは、あなたもどうぞ頑張ってください。お互いの健闘を祈りましょう」

 芝居がかったセリフにふんと鼻を鳴らし、了解の意の代わりにあいつが差し出した右手をパン!と音がするほど引っ叩いて、俺たちは揃って部屋を出た。
 あいつは左へ。俺は右へ。そう、自分が負うべき責任を果たすために。って、どうにも格好つかねえな。てめえの失態を、てめえで尻拭いしに行くだけの話さ。やれやれだ。

 



 ノックをする。返事は無い。
 俺は深い溜め息を吐いた。古泉の野郎がああ言ったからには、ハルヒは間違いなくこの休憩室に居るはずなんだがね。

 上機嫌すぎる笑顔で部室に飛び込んでくるハルヒってのも、それはそれで困り者なんだが。灰色オーラをどんより漂わせて取り付く島もないハルヒは、もっと性質が悪いな。機関銃みたいにポンポンと雑言を叩きつけてくれた方がまだマシだよ、ってのは自虐的な考えなのか。
 ともかく、俺は承諾も得られないままに扉を押し開けた。

 はたしてハルヒの奴は…居た。俺に背を向け、窓から外を眺めている。当たり前だがもう普段着だ。なんとなく惜しい気がしないでもない。どうしてだ? はて、どうしてだろうね?
 扉が軋む音にハルヒは振り返り、俺の顔を見て、また無言で窓の方へ向き直った。化粧も落としちまったんだな。つか、何か一言くらいあってもいいんじゃね?
 …とも言えないんだよな、今日の俺は。古泉いわく、『花嫁姿のハルヒを見るなり、何も言わずに卒倒してしまった』って前科があるらしいから。だがなあ、俺は俺でかなり居心地悪い気分なんだぜ? 分かってるか、ハルヒ。

 分かってねえよな。俺だって分かってなかった。お前がそんな不安を抱え込んだりしてるって事を。毎度の事ながら、それは俺の無神経さのせいで、だから俺は居心地が悪かろうが何だろうが、ハルヒに何かを伝えなけりゃならない。
 何かって、何を? さて、実はまだうまいこと言葉に出来ていない。ぶっつけ本番だ。激しく今さらだが、本当にこんな事でいいのかね。古泉も、さっさと帰っちまった朝比奈さんと長門も、俺の事を過信しすぎなんじゃね?
 いや、安請け合いしちまう俺も俺なんだけどさ。ともあれ、俺はハルヒの方へ歩み寄って行った。とりあえずハルヒが見ている景色を俺も見てみようかと、そう思ったんでね。

 二人きりの休憩室に、カツコツと、硬い革靴の音が跳ね返る。それでもハルヒは窓の向こうを向いたままだ。
 その背中から肩越しに、外の景色を眺めてみる。するとこいつが見つめていたのが何か、すぐに分かった。

 大きく開いた教会の扉から、並んで歩み出てくる初々しい新婚カップルに、大勢の参列客から歓声と共に浴びせられるライスシャワー。そういや古泉が言ってたな、この式場では今日も本物の結婚式が執り行われてるって。その内の一組か。
 ふむ。ハルヒの目に、あの新郎新婦はどう映ってるのかね。客観的には、ごく一般的な結婚式の図。しかしあの二人にとって、今日ほど特別な日は他にないだろうし。この光景はハルヒ的に、普通なんだか特別なんだか。

「ハルヒも、結婚とかには憧れたりするのか?」

 言ってから、いきなりの質問がそれか?と思った。多分、ハルヒもそう思ったんだろう。顔だけ40度ほど動かすと、ハルヒはじろりと横目で俺を睨み据えた。

「なに、それ。人をからかってるつもり?」

 



「大真面目な質問のつもりだが」

 凍てつく荒野みたいな眼差しだな。むしろ、眼で刺すと書いて『まなざし』って感じだ。出来るならそそくさと逃げ出したいね。
 それでもなけなしの根性で耐えていると、ハルヒは投げやり気味に答えてくれた。

「“結婚式”には憧れなくもないわ。ハレの舞台だし、パーッと派手にやるのは嫌いじゃない。
 けど“結婚”はどうだか。旦那に甲斐甲斐しく尽くす奥さんになったあたし? 想像つかないわね」

 ばっさり切り捨てて、ハルヒはまた視線で俺を責め立てる。

「そう言うあんたはどうなのよ」
「俺か? 俺は、そうだな。いつかは誰かとって、おぼろげに思い描いてた部分はあったさ。
 ただ、いかんせん俺はまだ高校生だ。そんなのは遠い未来の出来事で、言うなれば空想科学の世界に近いお話だと思ってたよ。つい今朝方までな。でも――」

 さて、ここから先を言って良いものか。劇薬は慎重に扱うべきで、その場の雰囲気で投与する物じゃないんだろうが、しかしここで黙ったらそれこそハルヒ爆弾が炸裂するだろうしああもう、なるようになれだ!ってヤケにでもならなきゃ言えねえぞこんな事は。頼むから噛んだりするな、俺。

「さっき、ウェディングドレスのお前を見た時な、ハンマーか何かでぶっ叩かれたかと思ったよ。
 あんまり綺麗で、綺麗すぎて、理屈なんぞはみんなすっ飛んじまった。ただお前を俺の物にしたい、とにかく他の誰にも渡したくない。そんな想いで頭の中が一杯になっちまったんだ、俺は」

 ひとつ、息を呑む音が聞こえた気がした。ハルヒは何か言葉を捜して、しかしうまく見つからないようで、結局、一言こう言った。

「なに、それ」

 またそれかよ。俺の発言ってのはそんなに的外れなのか? ちょっと自信なくすぜ。

「だって、全然いつものあんたらしくないじゃない。聞いてるこっちの歯が浮きそうだわ」
「仕方ねえだろ。オブラートで包めるもんなら俺だって包みてえよ。
 けど、どうにもごまかしようが無い。お前の隣には朝比奈さんや長門だって居たはずなのに、俺の記憶には二人はさっぱり写っちゃいない。
 お前しか見えなかったし、お前から目を逸らす事も出来なかった。それが事実だ。頭の中でどれだけ言い訳考えたって、否定できないんだ」

 俺の言い分に、むー、と何故だかハルヒは頬を膨らませて、また窓の方を向いちまった。今どんな顔をしてるんだか、ものすごく見たい気分なんだが、前に回り込んだら確実に死刑だろうな。

「それって、人を見てくれで判断したって事じゃないの」
「何にでもきっかけはあるだろ。それが見てくれで、何か悪いのか?」

 あー、ハルヒさんや。後ろからでも、お前の頬がぴくぴく動いてんのが分かるぜ。吹き出しそうなのを無理に堪えてるだろ、お前。
 いや、自分でもギャグ一歩手前のセリフだとは思うけどさ。なんつーか、今のお前はぺかっと光ってる電球に茶碗をかぶせても、洩れた光が溢れ出てるような感じだよ。

「ふうん、なるほど? つまりあんたは、ドレスアップされたあたしの花嫁姿の前に、思わず無条件降伏しちゃったってわけ?」

 声のトーンも上がったな。いつもの高気圧っぷりが少しは戻ってきたか。
 そんなお前に、こんな事を言うのは気が引けるんだがな。それでも俺は真実を伝えなきゃならん。

「違う」

 



「………え?」
「お前が、おそろしく綺麗だったってのは本当だ。だが俺が倒れたのはそれが原因じゃない」
「何よ、それ…。あ、あんたやっぱり、あたしの事をからかって…」

 振り向いたハルヒは、なじるような瞳で俺を睨んだ。そんな顔してくれるなよ、ハルヒ。古泉たちがさらに苦労する羽目になるだろ。

「それも違う。頼まれたってこんな事、冗談で言えるか」

 分かっちゃいたが、こうもギロギロ見られるとさすがにやりづらい。俺は視線を落としつつ、話を続けた。

「おとぎ話やゲームの世界なんかじゃ、“結婚”ってのは幸福の象徴だよな。王子と姫は結婚して末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたしってさ。恥ずかしながら俺もそんな風に、漠然と“結婚”ってのに憧れてた部分があったよ。けどな」

 ふう、と溜息を吐きそうになる。なんで一日にこうも恥ずかしいセリフを連呼しなけりゃならないんだろうね。

「さっきも言った通り、ウェディングドレスのお前を見た瞬間、ハルヒ、俺はお前を自分の物にしたいと思った。他の誰にも渡したくないと思った。それは掛け値なしの本心で、本物の衝動だったんだ。ああ、それは疑いようもない。
 けど、それはつまりお前と結婚するって事だ。お前を背負い、お前と一緒に人生を歩むって事だ。これから先ずっと、ずっとな」
「…………」
「その事に気付いた瞬間に、俺の世界観は180度ひっくり返っちまった。“結婚”ってのは夢や憧れなんかじゃない、現実中の現実なんだ、って――そう理解した途端、俺にその現実の重みって奴が、ずっしり圧し掛かってきたのさ」

 そう、あの扉を開けてハルヒを見て、衝撃に身を震わせた次の瞬間にはもう、俺の頭の中ではひとつの疑問がガンガン跳ね回っていたんだ。

「ハルヒが欲しい。一緒に居たい。それは確かに本当だ。
 でもじゃあ実際、俺に何が出来るんだ? 俺は一介の冴えない高校生で、将来の見通しも何もありゃしない。現実問題、俺はお前を支える力を何ひとつ持ってない。それに比べて、お前は――」

 視線を上げて、改めてハルヒを見る。眉をしかめたそんな表情でも可愛いよな、こいつは。
 中学の頃、何人もの野郎に告白されたってのも頷けるね。でもってさらにこいつは成績優秀、スポーツ万能の完璧超人なんだぜ? ひとつ息を吐いて、俺は改めて言葉を切り出した。

「俺さ、小学生の頃に、初めてちゃんとした自転車を買って貰ったんだ。補助輪なんか最初から付いてない、ピカピカの奴だった」
「…何よ、やぶからぼうに」
「朝倉が転校して行った日だったか? 踏み切りの前で、お前が小学生の時分の出来事を話してくれたろ。それと少しばかり似たような話さ」

 ハルヒがむすっとしたままなので、俺もそのまま一方的に喋り続ける。

「自分の、自分だけの自転車に、俺は子供ながらに高揚したね。行動範囲が、世界が格段に広がったんだ。
 こいつで俺はどこにだって行ける、夢見がちにそんな事さえ考えてたよ。あの日も、特に深い考えがあったわけじゃなかった」

 ふと、窓の向こうの空を眺めてみた。わずかに橙色が混ざり始めた空に、淡い幻のような月の輪郭がうっすらと光っている。あの日と同じように。

「友達と遊びまわって帰る道すがら、見上げた空に丸い月がぽっかり浮かんでてさ。俺は何の気なしにその月を追いかけ始めたんだ。
 なんだか妙な自信があった。これまでは追っかけても逃げるばかりだったあの月も、この自転車でなら追いついて、追い越せるはずだって。子供っぽい敵愾心を胸に、俺は走り出したんだ」

 やれやれ。今日の俺は、なんでこんなに饒舌なんだ? その場の感情で動くとロクな事がないって、つい数時間前に思い知ったはずなのにな。まるで経験が活かされてないぞ。

「結果は言うまでもないよな? 俺は無謀なドンキホーテそのものだったよ。
 意地を張って、張って、張り通して、結局俺は知らない町で動けなくなって、警察のお世話になった。迎えに来た父親に、わけの分からん言い訳を涙ながらに訴えるのが精一杯だった。
 そうして俺の心に、“頑張っても報われない”そんな喪失感に対する恐怖が刻まれた」

 俺に野球場での出来事を話してくれた、あの時のハルヒの気持ちが、今はなんとなく分かるね。スイッチが逆に入るっていうか、普段なら隠し通したいはずの事をむしろべらべら喋りたくなる時って、あるもんなんだな。

「俺にはそれがきっかけだったんだが。まあ誰でも大なり小なり、そうさ。
 傷つく前に諦めるって事を覚えてく。それが普通で…そんな普通の生き方がお前は嫌いだったんだろ、ハルヒ?」

 むっつりと、ハルヒはこちらを睨んでいる。否定しないって事は肯定って事だ。

「ハルヒ。俺は、いつも前向きなお前が好きだ。
 同じような境遇で、俺は諦めて目を逸らす事を選び、お前はまだ知らない何かを探し出す事を選んだ。それだけでも、お前は凄えよ」
「…………」
「SOS団の結成からこっち、ぶつくさ言いながらも、俺がお前についてきたのはな?
 目的のためなら手段を選ばない、そうして自分の欲求は必ず果たす、お前の呆れるほどのバイタリティに、どこかで感服してたからだ。俺がいつの間にか忘れちまってた、後先考えないような冒険心を、お前の言動が思い出させてくれるからだ」
「褒め言葉になってないわよ、それ」
「そうか? 俺にとってハルヒ、お前は――」

 不機嫌そうなハルヒの呟きに、俺は答えながら小さく笑った。自分の卑小さを嘲るように笑った。

「――小学生のあの日に、何の理由もないままただひたすら追いかけたくなった、あの月みたいに綺麗で、憧れちまう存在なんだぜ?」

 そう告げた途端。ハルヒがハッと表情を強張らせたのが、目に見えて分かった。

 



「そうさ。今はSOS団員として、お前の傍に居られる。今は毎日が楽しい。だけどお前がいつか、本気で何かを目指し始めたら?
 俺がいくらあがいたって、あっという間に置いてけぼりにされるんじゃないか? どう頑張っても、あの月には追いつけなかったみたいに」
「キョン…あんた…」
「それが恐くて、俺はずっとお前への気持ちに気付かないフリをしてた。そのハズだったのにな。
 今日、お前のドレス姿を見て、俺は嫌でも思い知らされちまったよ。お前に抱いてる気持ちは、憧れなんか通り越して、とうに恋愛感情になってるって。でもやっぱり、俺は――」

 まったく、どうすりゃいいんだろうね。気分はデパートで、親にオモチャをねだる子供と同じだよ。とにかくオモチャが欲しい。自分には生活力なんぞ全く無いくせに、とにかく欲しくて欲しくてたまらない。
 子供なら、無心でわめきちらす事も許されるだろうさ。だが俺はもう、現実って奴を無視できない歳だ。ハルヒが欲しいって切望と、ハルヒについていけなくなって置き去りにされる恐怖との間で板挟みになって、そのどちらもが本当に本物の気持ちで。結局、俺は…。

「心の収拾がつかなくなって失神したっての? 呆れた」
「えーえー、返す言葉もございませんね」

 ベルリンの壁も崩れて久しい。俺のちっぽけな自尊心も、あっけなく崩壊しちまったよ。
 とりあえず心情は全て吐露したがな、ごちゃごちゃと理屈を並べて詰まる所、「ハルヒは好きだけど 自分に自信が無いんでアクション取れません」ってのが結論じゃねえか。
 それだけハルヒが才色兼備の高嶺の花だって事だが、それを置いても自分がダメ男だってのが自覚できるね。ああ、これ以上は考えたくもねえや。もう後はまな板の上の鯉だ。どうとでもしやがれ。

 目の前で腕組みして仁王立ちしてるハルヒは、そりゃもう見事なふくれっ面だね。トノサマガエルとだってにらめっこ出来そうだ。
 そんな顔でも可愛らしいのがなんだかムカつく。同時に、こいつには逆らいようがないと思い知らされる。なあ、おいハルヒさんよ。やるんならバッサリやって…。

「この、アホンダラゲっ!!」

 うむ、やられた。怒声一喝、つかつかとこちらに歩み寄ってきたハルヒは俺の頭を両手で引っ掴むなり、隕石衝突級のパチキをかましてきたのだ。
 うお、今、目の前で火花が散ったよ。こんな小さな顔でなんでこうまで石頭なんだこいつは………ん?

「何よ。何よ、もう!
 あたしの気持ちも知らないくせにッ…一人で勝手に盛り上がって、一人で勝手に落ち込んでんじゃないわよ、このバカキョン…!」

 すまん、状況が理解できん。
 誰か解説してくれないか。一体どうして、俺はハルヒにぎゅっと頭を抱きかかえられてるんですかね?

 



「バカ…本当にバカよ、あんたは…。
 分かったつもりで、何も分かってない…」

 ハルヒに抱き寄せられて、あいつの肩の上に俺の頭がある。お互いに表情は見えないが、触れ合う耳の先と先に、すごい熱量を感じる。

「あたしだってね? あたしだって自分が何者かなんて、まだ分かんないわよ。
 将来への展望とかだって、理想がいろいろありすぎてさっぱり考えがまとまりゃしないわ。だから今、いろんな事を試してるんじゃない!」

 ぎゅ、とハルヒの両腕に力がこもった。

「思いつく限り手当たり次第に何でも試して、そしたらうまく行かなくてイラつく事も、道を踏み外しそうになる事だってあるわよ!
 そんな時に、あたしの心の支えになってくれてるのが誰なのか…あんたはちっとも分かってない!」

 先程までのお返しとばかりに、ハルヒは一方的にまくしたてる。その口調は、次第に糾弾するような物に変わっていった。

「いい、キョン? 真面目に答えなさい。あんた、本当はあたしに逢いたくなかったでしょ!?」

 う、と思わずノドを詰まらせる俺。するとハルヒは、さらに舌鋒鋭く責めたててきた。

「気絶して、目が覚めて、すぐに逃げ出したいと思ったでしょ?
 分かるわよ? 夏休みの課題とかだって、なんだかんだと理由をつけてギリギリまで先延ばしにする、往生際の悪いあんたの事だものね!」

 俺のか弱いハートに、ぐさぐさと遠慮なしに突き刺さるハルヒの五寸釘みたいな指摘に、俺はマジ物で吐血しそうだったね。おいおい、勘弁してくれよ。いくらまな板の上の鯉だって、一息にトドメを刺してやるのが礼儀ってもんだろ?
 と、文句のひとつも返したい所だが、なにしろ、俺にはハルヒに反論できる言葉が無い。もう今この場から逃げ出したくて、靴の中で足の指たちがジタバタもがいてるくらいだからな。
 と言って、逃げ出す事も出来ない。ハルヒの抱擁ががっちりと俺を捕らえ続けている。そういや『鋼鉄の処女(アイアン・メイデン)』とかいう名の西洋の拷問器具があったな。抱きしめた相手を血の一滴まで残さず絞り上げるって残虐な代物だったとか。想像して、俺は思わず怖気に震えちまったね。

「でも――」

 ところが、ハルヒの声のトーンは急に柔らかくなった。

「でも、あんたはここに来た。あたしに逢いに来た。どうして?」
「いや、それはその…古泉の野郎に…」
「古泉君に?」
「俺が、花嫁姿を見るなり卒倒しちまったせいで、お前に変な勘違いをさせちまったんじゃないかって話を聞かされたもんだから…まあその、なんとなく様子見に、だな」
「ふうん?」

 俺の耳元で、呆れたようにハルヒがささやく。

「やっぱり、あんたはバカね。本物の大バカだわ」

 そのきつい言葉とは裏腹に、ハルヒはなぜだか俺を抱く腕に、さらに力を込めた。リボンの端がうなじに当たってくすぐったいぞ、こら。

「間違ってもあたしが上機嫌じゃないのは、あんただって分かってたでしょうに。なのに、なんでわざわざ様子見になんか来るのよ? 普通の人間だったら、さっさと帰ってる所よ」

 はて。確かに言われてみればその通りだ。いや――。

「いや、だってそうしたら、お前が」
「そうしたら、なに? あたしが一人で悩み苦しむから? だから、放っておけなかった?」

 不意に力を緩めて、スッと体を離す。そうして、ハルヒはまっすぐ俺の瞳をのぞきこんできた。
 見慣れたはずのハルヒの、見慣れない優しい表情が目の前にあってドギマギする俺に、ハルヒは微笑みながらこう告げた。

「だから、あんたは大バカだっていうのよ。誰かに貧乏クジを引かせるくらいなら、自分で引く――あんたのそんな桁外れのお人好しさがどれだけ希少なものなのか、ちっとも分かってない。
 目には見えないけど、本当は気高い精神を心に秘めてるって、なんで自分じゃ分からないのかしらね?」

 



 …えーと、いま俺、褒められてるんだよな? でもって褒めてる方のハルヒは、なんでこんなに嬉しそうなんだ? 母親が子供の頭を撫ぜてる時みたいな、今のハルヒはそんな表情をしてるんですが。

「気高い? 俺が?」
「ま、あんたの場合、空回りも激しいけどね。変に律儀で生真面目だし」

 いたずらっぽくけらけら笑ったかと思うと、ハルヒは突然瞳を細めて、真剣に語りかけてきた。

「でも…。ううん、だからこそ、かな?
 あたしはあんたの優しさを、心底信じられる。だってあんたは
 絶 対 あ た し を 裏 切 ら な い も の !!」

 ぽかん、と口が勝手に丸く開く。そんな間抜け面の俺の向かいで、ハルヒはくすくすと笑っていた。

「そうね、あたしを裏切るくらいならあんた、豆腐の角に頭をぶつけて死んじゃうんじゃないかしら?」
「人の死に様を勝手に決めてくれるなよ」
「もう! だからね、あたしはそのくらい、あんたの事を…その、本当は、頼りに…」

 最後の方は、ぼそぼそした呟きで聞き取れない。なんだからしくないなと思ったのも束の間、顔を上げたハルヒは、逆ギレっぽく俺に怒鳴りつけた。

「ほ、ほら、さっきあんた言ったじゃない! 『あたしがいつか本気で何かを目指し始めたら、置いてけぼりにされそうで恐い』って。
 ええ、自分で言うのも何だけど、確かにあたしは何かコレっていう物を見つけたら、そのまま飛び出してっちゃうわ! 目標めがけて突っ走ってる時は、悪いけどあんたの事も、他の何もかもがアウトオブ眼中よ! いちいち何やかやと説明するのももどかしいし!」

 ハキハキした口調だが、ハルヒの表情はどこか寂しげな物を感じさせた。

「でも! でもあたしだって、やっぱり一人の女の子なんだから…!
 キョン、あんたがあたしの行動力に憧れて月になぞらえたりとか、それはそれで悪い気はしないけど。でも、あんたが置いてきぼりにされそうで恐いって感じたみたいに、あたしだって…。
 気が付いたら一人ぼっちになってそうで恐い、ってワケの分からない不安に震える夜だって、あるんだよ?」

 恐い? 不安? ハルヒが?
 いや、そりゃハルヒだって恐い物のひとつやふたつはあるだろうが、それはいかにも少女らしい不透明な怯えで、俺は思わず呆然としてしまう。するとそれをどう受け止めたのか、ハルヒは斜め下に視線を逸らしてしまった。

「時々さ、あたし、夜中に突然あんたの携帯に電話したりする事、あるじゃない?」

 ああ、よりによって人が寝入りかけの時に掛かってきて、一方的に用件だけ伝えてくアレな。

「ん…やっぱり迷惑だった? でもね、あたしはアレで安心できるのよ。あんたの声を聞いてからだと、不思議と穏やかに眠れるの。
 あんたは気付いてないんでしょうけどね、あたしはそれぐらい、あんたの事を信用してるんだから。だから…つまんない事でぐちぐち考え込んでばかりいないで少しは自信持って行動しなさいよ、このバカキョン!」

 はあ。自信持て、と言ってる割には、文句ばっかり並べられてる気がするんですがね。
 それになあ、ハルヒ。絶対あたしを裏切らないとか人を買いかぶってくれるのは結構だが、実際俺は今日、肝心な場面で気絶したポンコツなんだぞ? あんまり期待しすぎない方がいいんじゃね?

 …なんてな。珍しくも、こいつがここまで心情をあらわにしてくれたんだ、ひねた物の見方は程々にして、少しは前向きに物事って奴を考えてみようか。
 そうだ、確かに俺は今、ハルヒの前に居る。それは、こいつを憂鬱にさせちまうと世界が滅びかねないからか? だからか?
 違うね。それは胸を張って言える。世界の滅亡とか、壮大すぎる話は俺には分からん。古泉の話が全部真実だとも限らないしな。俺がここに居るのは、ただ俺の意思だ。お前の不安をどうにかしてやれないものかと思ったからだ。それは確かだ。

 ああ、ありがとうな、ハルヒ。俺はどこかで自分の存在を卑下していたが、お前のおかげで誇りって奴を取り戻せたような気がするぜ。ほんのちょびっとだけな。
 そして、そうだな。ハルヒが言った通り、俺はずっと空回りをしていたんだろう。一人で盛り上がって、一人で落ち込んで。まともに交際もしてない相手に一生を背負うとか、おこがましいにも程があるってんだ。そうして自分の事だけでいっぱいいっぱいになって、ハルヒの悩みにも気付いてやれない。これじゃ怒鳴られても仕方がないよな。すまん、ハルヒ。
 心の中で謝ると同時になんだかホッとして、気が付くと俺は、ぷっと吹き出してしまっていた。

「ちょっと! 何がおかしいのよ!?」
「いや、その。ハルヒが俺を励ましてくれてるってのが何というか意外で、なあ?」
「意外で悪かったわね」
「そうむくれるなって。ありがたいし、嬉しかったぞ」

 精一杯の感謝の意を込めて答えると、ハルヒはなんだか狼狽した様子で、声を震わせた。

「そ、そういう事、真顔で言うなっ!!
 だいたいね、あんた、この事にも気付いてないでしょ!? さっきあたしに何て言ったか!」

 ん? 何か俺、変な事を言ったか?

「あ、あたしの事、綺麗だって…あたしのドレス姿しか目に入らなかったって…。
 もうっ、どうせあんたは何も分からないで言ってんでしょうけどね! 女の子にとっては『好き』だの『愛してる』なんてのより、あたしを、あたしだけを見てるって言われるのが何より嬉しいのよっ!?」

 かーっと頬を紅潮させたハルヒは、そうしてしばらく俺を睨みつけていたが、突然すがるように俺の胸の中に飛び込んできた。

「お、おい、ハルヒっ!?」
「みくるちゃんや有希だって、あんなに綺麗で可愛かったのにさ…。
 あたしだけが特別だったとか、あんたにさっきそう言われて、あ、あたしはもう気が狂っちゃうんじゃないかってくらい、そのくらい…嬉しかったんだからねッ!」

 



 言うなり、ハルヒは俺の胸に顔をうずめてしまった。いや、ちょっとその、柔らかい物が当たってるんですが?とか言えるような雰囲気じゃないな、こりゃ。
 自分の経験値不足が恨めしい。ええと、こういう時はやっぱり優しく肩を抱いてやるべき、なのか?

 って言うかさ。ついさっき言葉にしたばかりだろ、俺にとって、涼宮ハルヒは世界で一番まぶしい女の子だって。その子がこうして今、胸に飛び込んできてるんだから、強く抱きしめるのが当然だろうが、俺!
 と、頭ではそう考えてるんだが、なまじ美味しすぎる状況に体の方が動いてくれない。ええい、なぜ動かん!? 動け、動けジ・O! いや違う何か混線した、動けよ俺の両腕! んー、今の俺ってひどく冷静に混乱してるぞ。アクセルとブレーキを平然と踏み間違えられそうだ。すごいな。別にすごくないか?

 いやだから、密着状態のハルヒの暖かさと柔らかさとやたらといい匂いに、俺の脆弱な思考回路はとっくにオーバーヒートしてんだっての。目の前に白い首筋があるんだぞ? 青少年がまともでいられますか!
 それでもぎくしゃくと近づいた俺の指先が、ようやくハルヒの肩にちょんと触れた、その時。突然、ハルヒはがばっと勢いよく身を翻した。

「そうよ、一個人の涼宮ハルヒとしては、ものすごく嬉しかったわ!
 でもね、SOS団団長としての涼宮ハルヒは怒り狂ってるのよ!? あんたの情けない言動にっ!」

 本当にコロコロと表情が変わるよなこいつは。と思うのは今日何度目だろうね? さっきまでのロマンティックが止まらなそうなムードはどこへやら、今のハルヒは怒髪天を突かんばかりの勢いです。
 そして俺はいろんな意味で、凹みまくりです。団長様、あなたは一体、俺が何をやらかしたって言われるんですかね?
 間抜け顔の俺の眼前に、ビシィ!と擬音が文字として目に見えそうなくらいの勢いで人差し指を突きつけたハルヒは、そうして、これでもかと憤激を叩きつけてきた。

「月を追いかけて、追いかけて、追いつけなかったから諦めた、ですって!? SOS団員としてあるまじき敗北主義っぷりだわ。ふざけんじゃないわよ、この軟弱者!」

 うへえ。さっきまでの守ってやりたくなるような儚さはどこへやら、いつものハルヒ節炸裂ですよ。
 でもって、不条理にもハルヒに怒鳴られてるこの状況にどこか安堵を感じちまう俺は、もはや末期症状なんですかね?

「そもそも、あんたは諦めが早すぎんのよ! 本当に憧れてたんなら、もっとジタバタあがきなさい! 自転車でダメなら盗んだバイクで走り出すとか、他にもいろいろ手段はあるでしょうが!?」

 どこのオザキだそれは。犯罪行為を助長するようなセリフを吐くんじゃありません。

「つか、あの頃の俺は小学生で、まだ団員でも何でもねえし。
 そもそも月まで地続きになってない以上は、バイクだろうが車だろうが、いくら走っても無駄な努力だぞ?」
「だったら、ロケットでも何でもぶん取ればいいじゃない! 試してみもしないで分かった風な口きくなッ!!」

 だからまず、そのルパン的発想をどうにかしてくれ。普通なら冗談で流せる話も、お前の場合は本気で心配する事態になりかねないんだからさ。なあ、ハルヒよ。あまり貧乏クジばっか引かされてたんじゃ、俺だっていつまでも保ちゃしないぞ?
 と、俺は心の中でそう考えていたんだが。ハルヒはまるでそれを見透かしたように、ギロリと俺を睨み据えた。

「あーっ、もう! 歯痒いったらありゃしない!
 キョン! 下っ端の雑用係とはいえ、あんたもSOS団の端くれならね、中途半端な所でウダウダしてんじゃないわよ! 本当の本当に憧れてたんなら、月を占領して地球に独立戦争を挑むくらいの気概を持ちなさい!」

 う~っ!と、ハルヒは前屈みに両肩を震わせていた。おいおい、どうしてお前がそんなに興奮してんだよ。なんで俺の事でそんなに――。
 いや。俺の事だから怒ってくれてる、のか?

 



 確かに、俺のポジションはひどく中途半端だ。それは余計な責任を負わなくても済むって事で、その心地良さに俺は今日の今日までどっぷり浸かっていたんだが、しかし心のどこかで、やっぱりこうも思っていた。いつまでもこのままでいいのか?と。
 俺がハルヒに憧れたのは、ハルヒが俺とは違うからだ。そう、どんなに馬鹿げていても、ハルヒはまず行動を起こす。そんなハルヒからすれば、俺の存在は本当に歯痒く見えるに違いない。焚きつけたくもなるだろうよ。

 そして今は、俺自身が俺を焚きつけたいと思っている。あの日、心に絡みついた「頑張っても報われない」って恐怖の呪縛から、いいかげん抜け出すべきなんじゃないのか、と。

 そう、俺は気が付いちまったからな。ハルヒを他の誰にも渡したくないって気持ちに。まあそれで豹変できるほど人間単純じゃないが、何かコレという目標が、ちょうど欲しかった所だ。月に行く、悪くないんじゃないか?

 そりゃもう、どう考えたって難問山積みだろうがな。そんなのは小学生にだって分かる事で、つい昨日までの俺だったら勘弁してくれと肩をすくめていただろうよ。
 だが今の俺は、無謀でも何でもとにかくチャレンジしてみたい気分だね。失敗したって構わない。やるだけやってみるさ。いろいろと面倒は増えるだろうが…ハルヒ流に言えば、そっちの方が面白そうだ!って所かね。

 まずは、ハルヒと同じ大学を志望できるくらいの学力を目指さなきゃならないか。ふう、考えただけでげんなりするぜ。言うは易し、行なうは難しってな。
 けどまあ、まるっきり現実を無視した話でもない。あの遠すぎて見上げるばかりだった月にだって、ロケットでなら辿り着けるんだ。今、俺の目の前に居るハルヒに手が届かない理由はない。
 あとは手を出すか出さないか、その覚悟の問題で…。

 と、そこまで考えた時。俺の頭の中で、ピンッと何かが閃いた。
 特に深く考えもせず俺がそのアイデアに乗っちまったのは、そうだな、ちょっとした反発心かね。俺も一介の男子高校生だから、ハルヒに一方的にやり込められてるこの状況に、それなりに悔しいものがあったのさ。軽く仕返ししてやろう、そんな気持ちだよ。言うなれば若さ故のあやまちって奴か?

「なるほど、さすがは団長様。やってみて初めて分かる事もあるだろうし、出来る出来ないはともかく、気概は大きく持つべきだよな。お前の言う事は全てもっともだよ、ハルヒ」
「へえ、今日はやけに素直じゃない」

 自分の檄が受け入れられた事に満足してか、腕組みをしてうんうんと大きく頷くハルヒ。ったく、いい笑顔だよ。あんまりいい笑顔すぎて、ちょっと意地悪したくなるね、などと安い映画の悪者っぽい事を考えながら、俺はハルヒに一歩詰め寄った。

「そこで、だ。さっそく団長様の訓示を実践しようと思う」
「へっ?」

 意図を量りかねているハルヒに、俺はまた一歩、近づいた。反射的に、ハルヒは一歩後ろに下がる。

「ちょ、ちょっとキョン、どういうつもりよ!?」
「どうもこうも。『本当に憧れてたなら、強引に支配するくらいの気概を持て』って言ったのは、お前だろ?」
「そ、それは…」
「俺がお前に憧れてる、ってのはもう伝えたはずだよな、ハルヒ?」

 ずい、ともう一歩踏み込む。元々窓際に立っていたハルヒは、既にその背中に壁を背負っていた。

「ふ、ふ、ふざんけんじゃないわよ、バカキョン! あと一歩でも近づいてみなさい、大声上げてやるから。そしたら、あんた…」
「そうしたら、何だ?」

 構わずに、さらに一歩踏み込む。ハルヒは、びくっと身をすくませただけだった。

「そ、そしたらあんた…お、大恥さらす事になるんだから…」
「あいにくだが、恥ならもうかいた。お前のドレス姿を見た途端、衆目の前でぶっ倒れちまったからな」

 ハルヒの耳のすぐ横の壁に右手を突いて、上からあいつの顔を覗き込む。奥歯をぐっと噛み締めたハルヒが、俺を睨み上げている。

「ふ、ふん! それでヤケになってこんな事してるんだ? 最低ね、このヘンタイ!」

 って言うかなあ、ハルヒ。お前は大声を上げる事も出来るし、身をよじって逃げ出す事も、何だったら腕力で俺をねじ伏せる事だって出来るはずだぞ? 俺はてっきり「調子に乗るなこのエロキョンっ!!」とパンチの一発でも貰う覚悟でいたんだがな?
 そんな風に少々からかうだけのつもりが、いつの間にやらシャレにならない雰囲気になっちまってるよ。いや、だってお前にそんな怯えたような表情見せられたら俺も男として苛虐心がうずくというか、ああやっぱり今日の俺アクセルとブレーキ踏み間違えてるな、と思いつつもハルヒをもっと苛めたくてたまらん俺がいますようわあ。

「ヘンタイか。そうかもしれないな。
 なにしろ、ウェディングドレスを着たお前の姿があんまりまぶしくてな? あれからずっと、まぶたの裏に焼きついて離れやしないんだ。このままじゃ、俺はおちおち眠れもしないだろうよ。今にも頭がどうにかなっちまいそうなくらいなんだ。
 だから、な、ハルヒ」
「う…」

 すがるように俺がそうささやくと、ハルヒはぷいと顔を横にそむけ、弱々しく唇をわななかせた。

「あ、あんた絶対、後悔するからね! 思い付きの衝動で、こんな事…したら…」

 ふむ? 俺は以前に、ハルヒが恋愛なんて精神病の一種だとか言った日の事を思い返していた。
 あの時、ハルヒは『一時の気の迷いで面倒ごとを背負い込むほどバカじゃない』と言ってたな。今、なんとなく思ったんだが、あれがハルヒ流の逆説的言い回しだとしたら――。
 あたしに手を出すつもりなら、一生モノの覚悟で挑んできなさい!ってな意味に取れないか?

 真実は本人に聞かなきゃ分からないがね。いや、本人も分かってないかもしれん。自己矛盾の塊だからな、ハルヒは。
 オーケー。だったらこっちも自分に都合のいい解釈をするまでだ。背負い込んでやろうじゃないか、面倒ごとを。

「ああ、後悔するんだろうな。たぶん一生、ずっと。
 後悔させ続けてくれよ、ハルヒ。これでもう、俺は永遠にお前に頭が上がらないんだからさ」
「キョ、キョン!? あんた、それって…?」
「俺の残りの人生、丸ごと前払いだ」

 まだ何か言いかけたハルヒの唇を、俺は強引に塞いだ。
 柔らかく、潤ったその感触に、それだけで脳髄が溶けそうになる。あー、やっぱり俺は狂ってるのかね? 本気でこの瞬間に人生賭けちまったって、悔いは無いぜ。

 目を閉じているから、こいつの表情は分からない。けれども俺が目一杯の情熱を唇に注ぎ込んでいる内に、ハルヒの手がおずおずと俺の頬を撫ぜ、そしていつしか、俺にすがるように両腕を首に回してくる。
 二人きりの休憩室には、ただ窓の向こうから届く教会の鐘の音だけが、カランカラン!と高らかに鳴り響いていた。

 



 秋の日はつるべ落とし、という言い回しを教わったのは、田舎の婆ちゃんからだったか。まだ6時前だというのに、ベンチに座って帰りのバスを待つ俺たち二人の周囲は、もうとっぷりと暮れかかっていた。

「寒くないか、ハルヒ?」
「うっさい! 今さら人を気遣うようなフリすんなっ!」

 やれやれ、あれからずっとこの調子だよ。俺にいいようにあしらわれたのが、よっぽどシャクだったと見えるね。
 そのくせ、不機嫌そうな表情のまま視察と称してあの式場内の施設をあちこち引きずり回してくれたおかげで、今もうこんな時間になっちまっているんだが。

 この総合式場は大規模な分、郊外にあるので、交通の便はそれほどよろしくない。まあ結婚式に出席するような上等なお召し物を着た大人たちは、たいがいタクシー等を利用するから問題ないんだろう。
 実際、本数の少ないバスを待ってるのは、しがない学生の俺たち二人だけだ。バス停は小屋のような形で、ある程度は寒さをしのいでくれてるが、スカートにブーツのハルヒには夜風が少々きついかもしれないな。

「ちょっと待ってろ。そこいらの自販機で、温かい物でも買ってくるから」

 そう言って、俺はベンチから立ち上がろうとする。と、しかしハルヒの右手が俺のシャツの裾を掴んだ。

「いい。いらない」
「いらないって、お前。寒くは…」
「いいの! とにかくここに居なさい!」

 強引に俺を座り直させて、ぴとっと寄り添ってくる。参ったね、怒るんだか甘えるんだか、どっちかハッキリしてくれないか?

「なに言ってんの!? そう簡単に許せるわけないじゃない! あんなムリヤリな迫り方しちゃって、一歩間違えたらストーカーの性犯罪者なのよ!」
「すまん。今日の機会を逃したら、もう二度とお前に詰め寄れるような気概は持てない気がしてな」
「だから、今さら謝ったって遅いの!」

 ぷんすか!と頭から湯気を噴き出しそうな勢いでハルヒはこう言い放った。

「あんたはもう、手を出しちゃったんだからねッ! 分かってんの!? これからは…」
「ああ、これからはもう少し諦め悪く生きてみるさ。その覚悟を決めた上で、俺は行動に出たつもりだぜ?」

 さらっと俺が答えたのが意外だったのか、ハルヒはぽかんと口を開けた表情のまま固まっていた。

「お前に置いてきぼりを喰らうのだけはご免だからな。出来うる限り、あがいてみるさ」
「ふ、ふん! 言うだけなら誰だって出来るわ!」

 うーむ、どうにもヤバいね。こうして膨れているハルヒがやたらといとおしい。いとおしすぎて、また苛めたくなってくる。

「じゃあ、せいぜい俺を監視しててくれ。目を離したら、その隙に逃げ出しちまうかもしれないぞ? そうすりゃキスの奪い得ってな」

 ほんの冗談のつもりだったんだが、ハッと表情を強張らせたハルヒは、うーっ!と俺を睨みつけ、そして、

「ぐわっ、ちょ、待てハルヒ…ギブだ、ギブアップ!」

俺の腿をつねり上げてきた。いやマジで勘弁してくれ、チノパンごと皮膚を引きちぎる気かよ!? この馬鹿力め! …俺が悪かったってば。
 と、その時。ピロリロピロリ、と胸ポケットの携帯が電子音を奏でる。これぞ天佑と、俺は相手も確認せずに通話ボタンを押した。

「やあ、ご機嫌はいかがですか?」

 



 貴様か。空から落ちてきた鳥のフンを避けたらドブに片足を突っ込んだような気分で、俺は古泉の爽やかな挨拶に答えた。

「最悪だね」
「それはそれは。ご愁傷様です」

 くっくっと、またむせぶように古泉は笑う。宵の口の静けさで、俺たちの会話は丸聞こえだ。アヒルみたいな三角口したハルヒが、俺を白い目で見てやがるよ。くそ、わざわざ厭味を言うために電話してきたのかお前は。

「とんでもない。おかげ様でこちらも一段落つきましたので、一言お礼でも、と」

 いらねえよ、お前の言葉なんか。感謝してんなら物で示せ。そうだな、虎屋のようかんか何かでいいぞ。朝比奈さんのお茶で美味しく召し上がってやる。
 そんなくだらない事を考えていると、了承もなしにハルヒが俺の手から携帯を引ったくった。

「古泉君? あたしよ、あたし。ごめんねー、今日はキョンの奴が迷惑かけちゃってさ」
「ちょっと待て、ハルヒ。今日、いきなりモデル業に挑戦だとか言い出したのはお前だろうが。諸悪の根源はお前で、巻き込まれた俺はいい面の皮だぞ」
「なに言ってんの、あんたの精神が惰弱すぎるから、あーゆー事態になったんじゃない!」

 携帯を奪い合いつつ、ツバを撒き散らす俺たち二人。するとその携帯の向こうで、古泉の野郎がいかにも愉快そうに笑いやがった。

「何がおかしい」
「いやあ、僕の勘違いかもしれませんが。涼宮さんの物の喋り方が、まるであなたの恋人か奥さんのようだな、と思いまして」

 途端、ハルヒの顔がかーっと赤くなる。さっきとは違う意味で頭から湯気を上げながらうつむいてしまったハルヒを横目に、俺は携帯に冷ややかな視線を向けた。先程、俺とハルヒがようやく一線を越えた事は、こいつはまだ知らないはずだが?

「やい、古泉。お前、どっかから俺たちを覗きながら電話してんじゃないだろうな?」
「ええ、実は新川さんに頼んで…というのはもちろん冗談です。ふふふ」

 なんだその含み笑いは。つくづく忌々しい野郎だ。
 何が忌々しいって、俺が本心ではハルヒに惚れていたのをあっさり見越した上で、俺の背中を押すような配慮をしてやがったのが心底ムカつく。くそ。てめえなんかにゃ絶対に感謝してやらねえぞ。

「ああ、涼宮さんに、バイトの件でしたらお気遣い無くとお伝えください。まだ日程の余裕もありますので。
 それに…以前にも言いましたよね、僕は社会的見聞を広めるためにアルバイトをしています、と。今日はあなたのおかげで、貴重な体験をさせて頂きました」

 何だそれは。主語をすっ飛ばすハルヒ語もわけが分からんが、やたらと遠回しな古泉語はそれに負けずとも劣らずだ。

「では、ゆっくりご説明申し上げましょう。ヒマつぶしとでも思って、しばしお付き合いください。
 ――あなたは、19世紀の画家ジェロームの『裁判所のプリュネ』という作品をご存知ですか?」

 



 またいきなりだな。おあいにく様だが俺の家は見事なまでの中流家庭で、高尚な絵画なんぞに通じている趣味はない。隣のハルヒも、クエスチョンマークを頭の上に浮かべている。

「古代ギリシアの説話をモチーフとした絵画なのですが。題名通り、プリュネという稀代の美女が居並ぶ裁判人たちの前で裸身をさらしているという、非常に奇矯な絵です」

 おい古泉、今わざと“裸身”って所を強調しただろ。ハルヒがジト目で俺を見てるぞ。ったく。
 しかし、裁判所で裸? 確かに妙な絵だなそいつは。

「ええ、プリュネは美女であるが故に、男から財産を掠め取ったという嫌疑を掛けられ、その裁判は彼女にとって不利に進行していました。
 その状況を打開すべく、弁護人がやおらプリュネの衣服を剥ぎ取ります。そして、こう言うのです。『こんなに美しい女性が罪人のはずがない』。
 裁判人たちはプリュネのあるがままの“美”の前にひれ伏し、彼女はみごと無罪となったのでした」

 何故だろうな? その光景がありありと目に浮かぶようだ。衆目の面前で朝比奈さんの着衣を嬉々として脱がす、自称辣腕弁護士のハルヒ――。いやいやいや。何を不埒な想像してるんだ俺は。

「ふん。その裁判人どもはよほどスケベだったんだな」
「ごもっとも。もしも古代人がスケベでなかったら、僕たちは現代に存在していないでしょう。スケベ万歳ですね」

 いや冗談です。と笑って、古泉は話を続けた。

「まあプリュネの話はあくまで説話、ある種のおとぎ話ではありますが。しかしながら哲学の都アテナイの裁判人たちをしても、彼女の“美”には逆らえなかった。その物語にはひとつの教訓が含まれています。
 つまり法や倫理、戒律といった物は、しょせん人間の作り出した枠でしかなく、“美”というのはそれらを飛び越えた所に在る。ひとたび“美”に魅入られたなら、人間には抗する手立てなど無い、という事です」

 ふっという軽い笑いと共に、古泉の得意げな独り語りはさらに続いた。

「たとえば日本にも、妖刀村正の伝説などがありますね」
「ああ、それならあたしも聞いた事あるわよ! あまりに刀身が美しすぎて、持つと人を斬りたくてしょうがなくなるって刀の話だっけ」
「狂ってんな」
「ふふふ。ええ、確かに。
 しかし“狂う”というのは、常軌を逸するという事。それまでの人生で自分が積み重ねてきた常識の数々をかなぐり捨ててしまえる程の魅力がそこには在る、とするならば――
 あるいは“美に狂う”という事こそが、人間にとって至上の幸福なのかもしれません」

 おいおい、病院の世話が必要なんじゃないのかお前、と半分本気で心配しそうになった矢先、古泉の奴はやけに真剣な口調で、こう言った。

「気絶したあなたを見て、僕は正直うらやましいと思ったんですよ。狂えと言われても、人は狂えるものではありませんから。
 僕もいつか、狂おしいまでに愛しい、そんな風に思える存在に出逢いたいものです」

 



 あ、と俺は間の抜けた声を洩らした。ハルヒを好きだって気持ちを自覚してからこっち、俺は自分でもコントロールできない自分を、何度も感じてきた。
 ハルヒ言う所の、恋愛という一種の精神病。他人から見れば、今日の俺こそまさしく狂っていただろう。そして俺を狂気に駆り立てた発端は、他でもない。あまりと言えばあまりに美しすぎた、あの――。

 思わず目と目が合う、俺とハルヒ。と、そんな俺たちを見透かしたように、古泉のセリフが携帯越しに響いた。

「そう感じたのは、僕だけではなかったようで。実は、ひとつ伝言を頼まれています。あの式場の支配人さんからです」
「伝言?」
「ええ。『本日はまことに残念な出来事となりました。しかし男女の仲は合縁奇縁、何がきっかけで結ばれる事となるやもしれません。もしもあなた方が将来の縁に恵まれたなら、ぜひ当式場をご利用ください。精一杯サービスさせて頂きます』との事です」

 再び、顔を見合わせる俺たち。それから俺はふっと微笑んで、携帯の向こうへ朗らかに呼びかけた。

「せっかくのお言葉だが、古泉」

 なんだろうな、このわくわくする高揚感は。これが狂うって事なら、確かに悪くないかもしれない。

「悪いな。俺たちの結婚式は、月を占領してからその独立記念式典の中で行うって、そう決めてんだ」

 俺のセリフが予想外だったのか、目の前でハルヒがぱちくりとひとつ、まばたきをした。さて、あのニヤケ野郎はどんな表情をしてるんだか。さすがのあいつも、今は呆れと戸惑いがハンサム面の上でダンスを踊っているだろうよ。

「月というと…夜空の、あの月ですか?
 ふっふふふ、いや、それは愉快ですね。なんとも壮大な計画です」
「なに他人事みたいに言ってやがる。SOS団員である以上、お前も一蓮托生だよ。副団長あらため副大統領くらいにはしてやる。せいぜいボードゲームの腕でも磨いておきやがれ」

 承知しました、ではまた月曜日に、と気取った声を残して古泉は電話を切った。ふう、と息を吐いた俺に、今度はハルヒがからかうような調子で話しかけてくる。

「ずいぶん大見得切ったわね、キョン」
「まあな。誰かさんと付き合う覚悟を決めれば、この程度の大言壮語も出てくるさ」
「あら、あたしとあんたがいつ付き合う事になったの?」

 にやり、とあからさまに裏のありそうな笑みを浮かべて、ハルヒはこう言った。

「あんたは、あたしの下僕なの。『俺の残りの人生まとめて前払いだ』ってあの言葉、まさか口からデマカセじゃないわよね?」

 ちっ、しっかり憶えてたか。

「あたしの唇を一方的に奪った、その罪は高くつくわよ? 一生かけて、あたしに献身なさい。月の王様だか大統領だかになっても、ずっと下僕のまんまだからね」
「へいへい。生涯お供しましょう、ハルヒ様」
「ふふん、あんたがあたしについて来れるものかしら? あんたが月を支配するって言うなら、そうね、あたしは太陽くらい盗んでみせるわよ!」

 ニコニコ笑顔でそう宣言してみせる。あー、ハルヒはやっぱりハルヒだね。俺の大言なんざコオロギの一鳴きくらいに思えますよこんちくしょう。

「ともかく、下僕として恥ずかしくないよう、これからはあたしがビシビシあんたを指導してあげるわ。
 口先だけの男なんて許さないわよ? あんな大きい事を言った以上、もう『やれやれ』だなんて言わせないんだから!」

 左様でございますか。俺は古泉ばりにわざとらしい仕草で、大きく肩をすくめてみせた。

「今、ものすごく言いたい気分なんだがな」
「言ったでしょ、言わせないって!」

 くすっと笑ったハルヒの顔を、あんたらにも見せてやりたいね。きっと天使ってのはこんな風に笑うんだぜ? うわ、やっぱ狂ってんな、俺。
 見とれている内にハルヒが覆い被さってきて、今度はこっちが唇を塞がれる。秋虫の声がさざめき渡るバス停の中、空に蒼い月だけが、俺たち二人の逢瀬を見守っていた。



月で挙式を   おわり

|