夜と街灯
ただひとつのものを求めていた。 それを手に入れることは、決して困難ではなく、むしろ容易であるような気がしていた。
わたしは誰に知られることもなく、その街に再出現を果たす。 一年前まで、毎日眺めていた風景。新しいマンション、整然と並ぶ住宅街。 静謐に満たされた夜、わたしはそこに人知れず現れた。有機端末の具合を確認し、静かに歩き出す。 五月下旬の夜気は、湿り気を帯びていて、どこか冷たい。もっとも好ましいのは秋の夜だったが、この季節も悪くはない。 あの頃――任務外の時間は時折、こうして夜の街を歩いて過ごしたものだった。白い光を放つ、等間隔に並ぶ街灯。光の灯る舗道を歩くことは、わたしにとっての純粋な喜びであるように思われたのだ。
飛躍した話題をひとつ。 この惑星に住まう人類は、歴史の中で数多くの物語を生み出してきた。それは古くから書物の形式を取り、時代とともにその内容も変遷してきた。 それらすべてに共通していることといえば、それを制作した存在、すなわち人間にフォーカスが当てられているということだ。あるいは人間が抱きうる「感情」に。 物語というものは、それを交換する存在――ここでは人間――の価値観こそがすべての指標となる。人間の物語は人間にしか理解しえない。猫にそれを見せたところで、そっぽを向かれるだろう。概念を共有しうる、同等の存在だからこそ物語の伝達が可能となる。わたしにはこの星の人類が書く物語、その面白さがまったく解らない。 もし、興味のあるものを記すべく、わたしが何かを書いたとすれば、それは延々続く風景の描写になるだろう。夜と街灯。いかなる思惑も介在せず、誰も注目しない場所。その羅列。人間の描く物語においては、そうした描写は物語上のエッセンスにはなりえても、主題には決してならない。物語という形式は、描写がそれ単体で目的となることを認めないからだ。 わたしは人間の書く本を読んだりはしなかった。それは純然たる時間の無駄と言えた。しかし、わたしととても近いところにいる、ある端末は、来る日も来る日も書物のページをめくる手を止めなかった。 どうしてそのようにして時を空費するのか。そう質問をしたこともある。しかし得られた答えは、わたしの思考を満足させるものではなかった。やはり、彼女は特別な端末なのだろう。
わたしに下された指令は、あくまでも涼宮ハルヒの観察。それは換言すれば、人類の営みを、断片的にではあるが見届けること。しかしわたしという個体にとって、本当はそんなことどうでもよかった。 わたしが、この惑星でただひとつ好ましく思ったものが風景だった。 この街は美しい場所だ。人間が呼称するところの「都会」すぎず、「田舎」でもない。わたしを惹きつけるこの風景は、データベースを参照すると、この数年で生まれたもののようだ。この確率の一致には、人間の言葉を借りるならば――感謝、しなくてはならないのだろう。
話を戻そう。 わたしは夜の街を歩いていた。自らに不可視フィールドを展開しているから、この星に住む生命体がわたしを視認することはないだろう。わたしはひとつの目と化し、気ままに好きな場所へ歩くことができる。 通常、人間はその生活形態――現在の年齢、社会的身分、性別その他の属性により、行動を大きく制限されている。有限の存在である彼らは、しばしば「自由」という言葉を好んで用いる。制約を受けず、思うままに振舞える、力のかからない状態でいること。それが自由。 しかしその実、人間の存在は「自由」という言葉の規定とは甚(はなは)だ遠いところにある。彼らは日常を継続、維持するために、特定のタイミングに特定の行動を取らなくてはならない。わたしから見れば稚拙で滑稽なふるまいは、彼らにとってなくてはならないものだ。人間というのはそう宿命付けられた生命なのだろう。だからわたしは現在の自分が「自由」であることに、ひとつの優越感(端末本体が時折示す数値上昇を、ここではそう呼称しておく)を得る。
あの茶番劇。すなわち、涼宮ハルヒと彼女を取り巻く多くの存在が生み出したひとつの物語は、わたしの存在を再度認め、開放した。それゆえわたしはここにいられる。報告の必要のない「自由」の下、個人的な観測を行える。
夜と街灯を眺めながら、わたしはこのような問いを用意する。 人間はこの景色を眺めることで、何を思うのだろう? ただの日常風景として見過ごすだろうか。または、誰にも打ち明けることのできない迷いを溶かす場所として利用するだろうか。 あるいはわたしのように、純然たる好意を持って徘徊するかもしれない。 もしそのように、この夜の風景に何らかの感慨を抱く者がいるならば、他の人間よりまだしも、わたしはその存在を理解できるだろう。 夜景は人工物である。そして人工物は無機物である。 無機物は、自然が織り成す景色より、遥かに我々に近い性質を有している。感情を持たず、ただそこに存在している、という点で。 それは我々、情報統合思念体の端末それぞれにインストールされているプログラムも同様である。我々にも「性格」に該当するものはある。が、それは固定されたアルゴリズムの試行でしかない。本当の意味での「性格」ではないのだ。わたしは有機体の形を取っているが、他の多くの点において、限りなく無機的である。 だからだろうか。わたしは街灯の明かりを好む。 午前二時の街の中を歩く時、そこに誰もいないことに喜び(これも便宜上の表現)を感じる。コンクリートブロックで舗装された道が直線に延び、照明が、暗闇に浮かぶ島のように点っている。ひとたびその光景を記録することで、わたしは時間を超越し、あらゆるものから解き放たれる。 そこにあるのは――永遠。 まさしく、それこそがわたしの求めるもの。 物語の要求する、形式だけの振る舞いではなく、わたしがわたしとして求めるもの。
「何をしているのでしょうか」
するはずのない声に、わたしは振り返った。「どうして、あなたがここに?」 目の前にいたのは喜緑江美里だった。音もなく出現するのはこの端末の得意とするところだ。 彼女はゆるやかな笑みを浮かべ、ふわり、という形容が相応しい挙動とともに、数歩、こちらへ近づいた。「パーソナルネーム朝倉涼子。あなたは現在、情報統合思念体統一意思による行動制限下にあります」「へえ。統一意思。そんなものがあったなんて初耳だわ。わたしが消えている間に、何か進展があったの?」「いいえ。統一意思とはあくまでも進行上の存在であり、実在するものではありません。決定を下すための代名詞です。まとまらぬ各派閥が存在することに、依然として変わりはありません。わたしは統一意思に遣わされてここへ来ました」 「知らない間にずいぶん役割が増えたのね、喜緑さん。あなたが今度は主導権を握ったということ? 長門さんが放棄したから?」 わたしの望む時間を、彼女は剥奪しに来たということだろうか。「主導権ではありません。わたしは決定を示達しているにすぎません。規定の逸脱は許されませんから」「これが逸脱? わたしは役割を果たしたでしょう。ここは指定の範囲外。彼らの目に触れない以上、どうしようとわたしの勝手だわ」「いいえ。あなたは有機端末を許可なく再構成しています。それは認められることではありません」喜緑江美里は淡々としている。それは機械知性体のあるべき姿だ。「あなたはどうなの?」「わたしは県立北高校第三学年の生徒、兼生徒会書記としてこの時空に所属しています。必要性から存在を許可されているのです。しかし現在、あなたは自身の継続維持を認められていません。また我々のガードを不正に突破しましたね。秘匿しているアンチコードがあるならば、それを提出して下さい。直ちに回収します」 「カンニングを咎める先生のつもりかしら? ねえ、喜緑さん。わたしには欲しいものがあるのよ。それさえ手に入ればもう他に何もいらないの。解るかしら」「解りません。理解の必要がありません」 柔和な表情を浮かべる彼女は、夜の景色に相応しくない存在に見えた。わたしにとっての異分子である彼女を、排除したい。しかし、ここではわたしこそが異分子なのだ。 「欲しいものよ。喜緑さん、あなたはどうしてそれを感じないの? 長門さんにだってあるわ。わたしとは異なっていて、おそらくわたしよりもよほど強い欲求がね。欲求……、そう、それよ。とっくに気がついているでしょう? 喜緑さん。わたしや長門さんにあるのに、あなたにないとはどうしても思えないのよね」 「有機端末にエラーが付随するのは当然のこと。しかし、だから何だと言うのでしょう。任務の履行には不要です」喜緑江美里は静かに双眸を閉じる。眠っているかのように。 「あなたはそうかもしれないわね。でも長門さんは違うでしょう。彼女があそこで生活を送ることで、日々降り積もるバグを解析すること。それこそが我々の進化の端緒となりえる。そのはずじゃなかった?」 喜緑江美里は、くす、と笑った。「ええ。その通りです。パーソナルネーム、長門有希の最大の存在事由がそれですから。わたしやあなたと異なり、彼女はそうしたエラーの解消手段がことさら限られています。いかなる状況においても、わたしたち三人の中では彼女にもっとも大きな負荷がかかる。初めにこの地へ降り立った日から、あらかじめそうなるように設計されています」 「それを知っていてあの集まりに彼女を置いているんだから、わたしたちの製作者はずいぶんな物好きよね。サディストだわ」 喜緑江美里はわたしの挑発には乗らなかった。夜の光を波打つ髪に反射させ、静かに微笑み続けている。「自律進化の糸口となる、不確定の数値変化が解析されはじめています。特に、この一年間における長門有希の観測結果が、それに多大な貢献を果たしていることを、あなたもご存知でしょう」 わたしは彼女を無視してこう言う。「ねえ、喜緑さん。前から思っていたのだけど、あなたには願望がないの?」 この問いにも彼女は口を開かない。と思いきや、遅れて彼女はこう言った。「必要のないものです。しかし、」と言葉を切り、「あえて言うならば、わたしの願望は統合思念体の目的が達成されること、でしょうか」 わたしは首を振る。「それはあなた自身の願望ではないわ。解っているくせに、わざとそんなことを言うのね」「必要のないものですから」 沈黙が、青い夜を包む。 彼女においても、エラーが存在しないわけではないことをわたしは知っている。わたしや長門有希より、蓄積するペースは緩やかかもしれない。しかしそれは確かに存在する。ただ、彼女がそれを黙殺しようとしているだけなのだろう。 「どうしてもわたしを連れ戻すつもりなのね」「……戦うおつもりですか」 わたしは首を振った。「観客もいないのにそんなことをしてどうするの? それにね、わたしの好きな風景を、こんな風につまらない人形劇で乱したくないの。あなたなら分かるでしょう?」 喜緑江美里はゆるやかに曲げた口元を、小さく開けた。「では……まいりましょう」 私はその場所からひとたび姿を消す。 次の瞬間には、喜緑江美里も見えなくなっている。 残るのは夜景。 誰もいない舗道。等間隔に並ぶ街灯。それらが作り出す、無機質な風景。
永遠――、 それこそ私が求めることだ。 そこには、無限の自由があるのだから。
<了>
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