藤原くんの溜息
※周防九曜の溜息の続編っぽい話です
三年前の今頃。木枯らし吹き荒ぶ寒の候、暦の上の春とははやり旧暦に則った季節であると感じた二月の上旬。三保の松原に降り立った天女の如き麗姿なお方が、あろうことか双子になるという至福且つ至高を感じ、しかし同時に発生した不謹慎且つ憤懣な事件によって地獄の底に突き落とされるという表裏一体の出来事があった。 言うまでもない。波瀾に満ち溢れた俺の高校生活の中でも三指に入るほど腹立たしいであろう彼の事件、『朝比奈みちる誘拐事件』である。羽衣だけならばともかく本人そのものを奪い取るあの所業には、流石の俺も怒ゲージMAX230パーセントを32個分くらい溜め込んでもなお余りあるほどの怒りが込み上げてきたってもんだ。 その後も時々夢に出ては胸糞悪い目覚めで幾度となく学校をサボろうと何度思ったことか。もちろん、実際にはサボってなどないがな……。と、それはともかく。しかし、いつしかそれも過去の話となってしまった。ヤツら――とりわけ、『アイツ』と過ごした高校生活が長かったせいか、それとも時が怒りを鎮めてくれたのかまでは定かではないが、俺個人としては随分寛容に なったもんだなと自画自賛していたりもする。 いつまでも過去のことをグチグチ言うのは性に合わないし、それに当の本人――朝比奈さん自身が当時の事件の傷痕を残していないってのも俺の怒りが納まっている一要因とも言えよう。 欲を言えば、『アイツ』――事件の首謀者、犯人の一人でもある『アイツ』――が、あの時のことを申し訳程度に謝ってくれれば、俺は完全に許してやってもいいのだが……。……。……。……。……なに?『もう謝っているじゃないか?』だと? 『あの時はごめんなさい』って?おいおい、何を言ってるんだ? 『アイツ』は一言も謝ってなど……ん? 何? 『あの事件から二ヵ月後?』『佐々木やらと一緒に喫茶店で…………』……ははぁ、分かった。あの時の一件を言ってるんだな。だが残念、お門違いだ。そもそも俺が説明している『アイツ』とは、『橘京子』のことじゃないぞ。――え? それじゃ誰のことを言ってるんだと?ここまで来てまだ分からないか……。仕方ない。説明してやる。ある意味、橘京子以上のKYで且つ橘京子以上にヘタレな未来人ツンデレボーイと言えば分かるだろう。そう、『ソイツ』――自称『藤原』のことだ。『藤原』と言うのが本名なのか偽名なのか、いやそれ以前にファミリーネームじゃなくてファーストネームなのかさえ不明で、ある意味時を同じくして現れた別世界の宇宙人端末、周防九曜よりも情報源に乏しい彼だが、それでも彼について分かっている事もある。 即ち、(何を勘違いしたのか)橘京子を一方的に愛している、ってこと。最初はお互いの利害が一致したから行動を共にしていたんだろうが、何やかんやしていくうちに彼女に夢中になっていたのだろう。今となっては橘京子にとって都合の良いパシリ、下手をしたらそれ以下である。 どうしてそこまでして彼女に夢中なのか……いや、それは聞くまい。全ては『愛』。少年誌で頻発しそうなフレーズだが、この一言で片付けられるのも この二人ならではである。……傍からみたら、『愛ゆえに人は苦しまなければならぬ』を地でやってる聖帝様も真っ青なアブナイ人にしか見えないのだが、もちろんオフレコである。もう言っちゃったけど。もうここまで来れば分かるだろう。即ち、今回のお話は彼に纏わることである。因みに前回(って言ってももう半年以上前のことだが)、『橘京子は出てきません』って冒頭に言ったにも関わらずそれっぽい人が出てきてしまったからその辺は詫びておこうと思う。 だから今回は前もって言っておく。――出てくるぜ。――寸分の迷いもなく。――姿形を変えた他人でも、異世界に住まう番人でも、もちろん天の川ではしゃいでいる乙姫様でもない――――本物の橘京子が、今ここに!!!……って、ここまで大げさに言う必要もないか。それでは本編の始まり始まり~………………マークシート記入式の全国共通試験も終わり、自己採点結果を各予備校データシートに照らし合わせた結果、からくもB判定を貰って一息ついていた俺だが、俺以外の面子が当然の如くA判定を貰っていて若干、いやかなり萎えていたあの時。 二十四節季でいくと大寒を過ぎ、寒さも――そして受験シーズンもいよいよ佳境に差し迫った二月。俺は皆へのアドバンテージを確保するために、一人自室に篭ってラストスパートをかけていた。 この時期三年生は自由登校となっており、学校で先生に教えてもらうのもよし、予備校で激を飛ばされるのもよし、また俺のように自宅で独学に勉強するのもよしってことになっている。 では何故俺が自室で勉強するのを選んだかっていうと――意外にも、ハルヒの勧めである。曰く、『あんたはここぞって時に人に頼るクセがあるわ。だから基本問題は割合解けても、応用問題はからっきしダメってことになるの。いい? 今日一日は応用問題をみっちりやりなさい。一人で。時間になったら答え合わせしに行くから』 と、問題集の答えと携帯電話、おまけに家に備え付けてあった無線LANルーターまでキッチリ没収していきやがった。色々不平を言いたいところではあるものの、ハルヒの言いたいことは遺憾ながら理解できるし、おまけに佐々木からも同様の指摘をされたもんだから誰も反抗することなく、俺は本日一人でこの部屋に留まっていた。 他の皆――SOS団のメンバー――は、どこにいるか分からない。恐らく部室か、或いはいつもの喫茶店辺りで勉強していると思う。もしかしたら完全余裕をぶちかましてその辺で不思議探索やってたりな。 しかし、受験生となる前は正直そこまで乗り気のする活動でもなかったんだが、今思うと懐かしくてしょうがないな。できることなら勉強をほっぽりだして混じりたい気分だぜ。――いや、わかってる。今はそんなことしている場合じゃない。他人のことより自分のことを優先して勉強することが、現状回帰の一番の得策でも…………。ピンポーン。丁度そのとき、玄関のベルが鳴る音が聞こえた。誰だろう、お客さんかな? それとも宅配でも届いたのか……?平日の昼間、俺以外の家族は仕事やら学校やらで各々の職務を全うしているので、この家には俺しかいない。仕方ない出てやるかと、朝起きてから一度も着替えてないスウェット姿のまま重い腰を上げて自室のドアを開け――そしてその場に立ち尽くした。あることを思い出したからである。 「まさか、アイツらじゃないだろうな……?」新年早々、郵便配達を装った振袖姿の女性二人に連行され、何の実りもない『機関』のゴタゴタに振り回されたのはまだ記憶に新しいところである。あの時も本当に勘弁して欲しいと思ったが、今回の俺はそれに輪をかけて関わりたくない。大学入試の本試験が間近に迫っている昨今、一日足りとも無駄には出来ない。マジ掛け値なしで。 とは言え、もし玄関の前に佇んでいるのが正規のお客さんだったり正規の配送ドライバーだったりしたらそれこそ迷惑である。――出るべきか。出ざるべきか。熟考すること約三秒。俺はやれやれと両手を振り上げ、半ば諦めた様子で玄関に向かっていった。なに、仮にアイツらだったとしても、俺が本当に勉強で忙しいと言えば黙って引いてくれるはずだ。前回のゴタゴタをハルヒと佐々木にチクって鉄拳制裁を喰らったアイツからすれば自ずと理解できよう。…………多分。粛々とした足取りで玄関先まで移動し、念のためにと除き窓から人物を伺い――。「…………」思わず三点リーダを飛ばした。何故なら、玄関前に居たのは俺の予想を裏切る人物だったからだ。「……なんだ、いるじゃないか。だったらもっと早く出てくるんだな。こっちも暇じゃないんだ」両手をズボンのポケットに刺し込み、ふてぶてしい顔で一瞥したソイツ――藤原は、あからさまに不機嫌モード全開だった。「それは俺も同じだ。用がないならとっとと帰ってくれ」負け時と俺も言い返す。が、「用がないのにわざわざこんな時代遅れの片田舎に来るはずもない」いちいち癪に障る言い方をする。だかコイツはこう言うヤツだ。言い返してたらキリがない。「で、何だ。用って」「あんたに相談したいことがある。ついて来てくれ」と、返答も待たず踵を返した。「おい、どこに行く気だ?」と問い掛けると、藤原は振り返りもせず答えた。「喫茶店さ。時間は取らせない。直ぐ済む」……ったく、何だかわからん。一応念のため、辺りを見渡す。トラブルメーカーの根源たる橘の姿は見当たらない。どうやら本当にコイツ一人みたいだ。なら、大丈夫だろう。……恐らく。「行ってやってもいいが、変わりに条件がある」ここでようやく藤原が歩みを止めた。「何だ」「喫茶店の代金は、お前持ちだからな」藤原に案内された喫茶店は、俺たちが頻繁に使用する馴染みの喫茶店であった。ヤツは店に入るなり一番隅の席――観賞用のソテツだかヤシだかで遮られた、いかにも密会が行われそうなテーブルへと向かい、そそくさと椅子に座り、俺に手招きをする。 仕方はなしに俺もそちらに向かい、藤原と向かい合う形で腰掛けた。注文を取りに来たウェイトレスさんが手にしたメニュー表を差し出す前に何故か小声で「ダージリン二つ」と答え、しかし嫌な顔一つせずコップを差し出して帰っていく様を見届け、ここでようやく口を開いた。 「で、何だ、用ってのは」「(シッ、声がでかい。もっと小さい声で喋ろ)」別段いいだろ。何があるってんだ?藤原は答えず、変わりに右手を突き出して俺の後方――植物に囲まれた、隣の席を指差した。「……あ!」「(だから声を落とせって!)」「(す、すまん……)」思わず謝ってしまった。だが無理もない。俺が見た光景は、ある意味ショッキングなものだった。藤原が指差していた席に居たのは、男女二人組。植物の影のせいで表情まで読み取ることはできないが、もれ聞こえる楽しそうな声から二人が仲睦まじく談議に花を咲かせているのだけはわかった。 傍から見れば仲の良いカップル。そうとしか見えない光景である。「(しかし、これは……)」内心の動揺を余所に、もう一度彼らの方を振り返る。今度は植物の葉と葉の隙間から、きちんと確認できるようにして。もちろん相手に気取られないよう、細心の注意を払いながらだ。 まず最初に見えたのは、男性の顔。非の打ち所がないくらいに整った顔立ち、おまけに長髪のブロンドを有した、まだ若い……俺達と同年代か、やや年上の……外国人風の青年。 もちろん俺の記憶に存在しない人間である。スラリと伸びる四肢はモデル並……とまでは行かないだろうが、古泉や藤原とほぼ同じような体躯をしている。遺憾ながら、俺よりも頭一つ分は背が高い。ただ……いくら容姿端麗とは言え、それだけで驚くようなことでもない。問題は、そのイケメンの彼と談話をしている女性のほう。女性――後姿しか見えないので顔や表情などは窺い知ることが出来ない。しかし、である。彼女の特徴的な髪型……栗色の栗色の髪を二つに束ねたあの姿、見間違えるはずもない。「(橘じゃないか……なにやってんだ?)」「(それが聞きたいのはこっちだ)」顔を伏せ、先ほどよりも更に小さくなった藤原の声に、若干すすり泣くような音が混じっていた。「(僕は……僕は、いつも彼女に悪い虫がつかないよう24時間体制で見守ってたはずなのに…………いつの間にあんあヤツとヨロシクやってんだよ……ううう)」24時間体制って……ストーカーかお前は?「(失礼な。愛があればどんな苦難も乗り越えられるんだ。不安なことがないか一時間に一本は電話を入れてるし、有事に備えていつ何時でも駆けつけられるように合鍵だって入手済みだ)」 モノホンだ。モノホンのストーカーだよコイツ。警察のみなさんこいつを逮捕してください一刻も早くお願いしますいやマジで。「(なっ……何を言ってるんだ!? 彼女の許可はとってある、承知済みだ!)」一瞬、藤原の目が泳いでいるのを俺は見逃さなかった。「(じゃあ今度橘に会った時確認してみるわ。部屋とか荒らされた形跡ないか、ってな)」「(冗談はさておき、本題に移ろうか)」……やっぱり許可とってなかったな、こいつ。「(本題に移るぞ!!)」わ、分かったから鼻先まで近づけるな、気色悪い。「(今日呼び出したのは他でもない。アイツのことだ。あんた、何者か知らないか? 聞いてないか?)」チラリと彼――ブロンド長髪ハンサム顔を睨みつけ、「(アイツが姿を現したのは、ここ一ヶ月の間だ。いつも通りスイーツバイキングで 全製品制覇を達成した彼女の前に、ヤツが興味津々な顔をして現れたんだ。それ以降、ヤツは毎日と言っていいほど彼女に付きまとって……くそ)」 ……ははぁ、そう言うことか。橘京子に対し一方的にラブ注入しつづけているポンジー藤原くんは、新たなライバル出現で気が気でないようだ。できれば彼と引き離し、ヨリを戻したいとそう願っているのだろう。 だが残念。普段の俺なら暇つぶし相手に構ってやってもいいのだが、如何せん現在の俺は受験と言う壁に直面している。こいつの無理難題につきあってやる暇などないのだ。 それに第一、俺は外国人に知り合いなど……いや、待て。「(どこかで見たことがあるような……)」「(な……!? どこだ!? どこで見たんだ?)」だからこっちに迫るな気色悪い。「(言え! 言いから思い出して全て吐け!)」「(わかったから落ちつけ!)」何とか気を鎮ませ、こちらも記憶を辿るため椅子に座って精神集中し――。――確かに、どこかで見たことのある光景だった。藤原、橘、そして美形の第三者。異様に仲の良い橘とブロンド青年に対し、異様に嫉妬する姿は確かに俺の記憶の仲に刻み込まれていた。しかし、それがどこで発生したことなのか、その記憶が曖昧だった。実際にあった事のある人物だったかもしれないが、まるで夢の中で出会ったかのような存在でもある。本人のようで本人でない、本人ではないのに本人以上な存在。そんな中途半端なヤツ…………確かあれは去年の夏、商店街に佇む九曜が俺を…………。「(……あ!)」「(そ、その顔は! 何か思いついたんだな)」ああ、思い出した。アイツだ。アイツそっくりの顔だ。――九曜の思いつきで飛ばされた宇宙空間。そこで行われた、前代未聞の七夕パーティ。橘ソックリの織姫様が見せてくれた、携帯電話の写真。そして、織姫様と仲睦まじく写っている金髪青年。「(確か……デネブくんとか……)」「(それがアイツの本名か!?)」待て。落ち着け藤原。あの時のアレは、役者が俺達の知っている奴らに似通っていたと言うだけで、必ずしも本人と言うわけではない。急かす藤原を何とか落りつかせ、再び脳内記憶の逆再生を図る。――確かに、デネブという名前を名乗ったことを覚えている。織姫様曰く、近所の幼馴染とか何とか。俺も写真でしか見せてもらってないのだが、これがまた絵に描いたようなイケメンなんだわ。さしもの彦星様……藤原ソックリの彼も、世界チャンピオン戦に敗れた元服役囚のように真っ白に燃え尽きていたっけな。……そうか、だからどこかで見たことあるような気になったんだな、俺は。「(誰なんだヤツは!?)」「(今から説明してやる、ちょっと待て)」と俺。内容が内容だけに、どこまで信じてもらえるかかなり疑問だ。実際俺だってあんな体験をしてなければ鼻の先で笑い飛ばすと思う。 九曜が関わった、尋常じゃないあの一件。他人に内容を理解させるためには、内容と俺自身の心の整理が必要となってくる。深く深呼吸した後、運ばれてきたダージリンを一口。ほのかに香る茶の香りが俺の心を鎮めてくれる。これで準備万端。よし、それじゃあ話そうじゃないか――そう思った瞬間。思いも寄らぬ声は、背中合わせに座っている橘の方から聞こえてきた。「じゃあ、今日はよろしくお願いしますね、ジョン=スミス!」ぶピっ。「うおおおおおーーーー!!!! 汚ねえーーーーー!!!!!!!!!」「がはっ!! ごほごほっ!! ぐひっ!!!」「あー! キョンくんじゃないですかぁ! 何してるんですかこんなところで? 受験勉強してないと佐々木さんに怒られちゃいますよ~」――そして、三者三様の感嘆が喫茶店内に木霊した。「ミナサーン、ハジメマシテ。ワタシジョン=スミスとモーシマース。ニホンブンガクをベンキョスルタメにヤッテキマシタ、リュガクセイデース」片言ではあるが、流暢な日本語で彼――『ジョン=スミス』を名乗った彼は自己紹介を始めた。比較的聞き取りやすいのだが、それでもずっと聞いてると少し頭が痛くなってくるので、彼の主張を掻い摘んで話すことにする。両親が親日家ということもあり、日本の文化や郷土に甚く興味を持った彼は、母国の大学を卒業後日本文化を研究するため単身日本に乗り込んできたという。日本文化を研究する大学は四月からの契約だが、早めに訪れ日本になじんでおこうと言うのが彼の主張である。しかし、いくら日本が好きだからと言っても他国。それに日本人の知り合いがいるわけでもない現状、心もとないのが本音だった。その時、知り合ったのが彼女――橘京子であった。「オナカスイタ、ケドオミセワカラナイ。ソノトキカノジョがガケーキゴチソウシテクレマシタ。コーユーノ、『センリヒン』とイウソーデス」何となくの馴れ初めは分かった。しかし一応突っ込んでおこう、違うぞ、その日本語の遣い方は。「イライ、ズットカノジョにオセワシテモラッテマース。トッテモヤサシイデース」「えへへへへ……」ジョン氏が橘のツインテールを優しく撫でると、橘も満更ではなさそうに微笑み、その姿を見て藤原が思いっきり不機嫌モードに突入したのは言うまでもない。「あ、そうそう。ジョンにも皆さんを紹介しなきゃ。こちらのカッコイイのがキョンくんです」適当に相槌を交わし、ヨロシクと言ってきたジョン氏とシェイクハンド。ただな橘よ、カッコイイと言ってくれるは有難いが人を紹介する時はせめて本名を教えてやってくれ……どうせ橘の耳に念仏だろうからあえて突っ込まないが。その橘は続けて藤原の方に手を回し、「で、こっちのクールガイがポンジーくん」「エ……?」瞬間、ジョン氏の眉がピクッ動き、差し出した手も僅かだが後方に引いた。「……どうしたんですか、ジョン?」「……イヤ、ナンデモアリマセン」平静を取り戻したか、努めて明るく振舞う。「……ふん」対して藤原は顔を背け、いつもと同じように憮然とした表情のまま、面倒くさそうに「ジョン=スミスさんとやら、あんたは何の目的であんたにつきまとってんだ?」ここで一瞬の沈黙。しかし割り込むように橘が間に入った。「いえ、勘違いしないで下さい。ジョンじゃなくて、あたしが彼に用があったのです」何の用でも構わんが、真面目で純粋な外国人留学生に日本の恥だけを教え込むのは止めてくれよ。「なんですか、それ。まるであたしが日本の恥そのものみたいなことを言うの止めてくださいっ」まるで、じゃなくてまるっきりそう言ってるのだが……いい。どうせコイツには通じない。「あたしはただ……」「ただ……?」「……あ……いえ。何でもないのです」間際になって口を噤む橘。……こいつもいつもと違う気がするのは、俺の勘違いだろうか?「……ちょっと、二人でお買い物をしようと思っただけです」「買い物?」「ええ。……そうだ!」何か思いついたのか、右手を軽くポンと叩き、「今からご一緒しませんか? そう、それがいいですわ。ねっ、お願い」「もちろんオッケー」あーあ、一発で了承しやがったよ馬鹿ポンジー。「わー! ありがと! 荷物持ちヨロシクねっ」「ふふふ、任せておくんだな。これでも学生時代、毎日十個単位でカバン持ちをやってたんだからな」「わぁ、すっごーいっ!!」「ははははっ! まいったか!」「オー、コレガイワユル『エンノシタノチカラモチ』デスネー!?」な、何だか頭痛くなってきた……。おい藤原、本気か? 利用されてるだけってことに気付かないお前じゃなかろう。「(利用されていたとしても、アイツと二人っきりで買い物するなんて、僕の気がすまないっ!)」何でもいいが……。「そうか、じゃあ頑張れよ」「え、キョンくんは行かないんですか?」当たり前だ、受験がもうすぐ控えてるんだ。少しでも勉強せねばならんのだからな。「まあまあ、たまには息抜きも必要ですよ」こいつは……さっき『勉強しなきゃ叱られる』とか言ってたのは嘘なのか? というか、「勘弁してくれ。お前といると息抜きがメインディッシュになってしまうだろうが」「あ、あたしがチャランポランみたいな発言は控えてくださいっ!」みたいな、じゃなくてそのものだ。「うわあぁぁぁあぁぁぁーーーーん!!! キョンくんがいぢめるぅぅぅぅ~!!!」「オー、ヨシヨシ……」「こらぁっ! 勝手に人の頭を撫でるなぁ!!」――そしてまた、三者三様の感嘆が喫茶店に木霊した。結局、『ついて来てくれないなら勉強サボって喫茶店に来てたこと佐々木さんに言いふらしますよ』という橘の脅迫と、『僕の大切な衣類に嘔吐した償いだ。二人のデートの邪魔をしてもらうぞ』と言う藤原の無理難題。 それらに押されて、またも余計な出来事に首突っ込むことになってしまい――。――といいたいところだが、実のところ、事態は首を突っ込まざるを得なくなっていた。理由は三つある。先ず一つ。橘が藤原を紹介した際生まれた、ジョン氏の明らかな動揺。二つ目。何かを言いかねている、橘のスッキリしない表情。そして三つ目。――これが一番大きな理由だが――『ジョン=スミス』を名乗り、俺や橘、そして藤原に接しようとする、『彼』の本当の目的。それらが渾然一体となり、受験勉強の柵に囚われた俺の楔を解き放つに至ったのだ。『下手をしたら、今まで以上に厄介なことになるかもしれないな』心の中でそう嘯きながら、俺は自分の運のなさを疎ましく感じたのだった。男三人女一人の逆ハーレム状態となった俺達一行が向かったのは、デパートにあるメンズブランドのテナントだった。配置された服やカバン、靴、その他諸々の製品が、パールホワイトで彩られた店内で小奇麗にまとまっている。何とはなしに手に取った帽子の値札をみて、ああユ○ク○なら何着買えるんだろう等と考えてしまうのは、決して俺がファッションに疎いからでも金銭面に厳しいからでもなく、単にブランド志向を持ち合わせてないだけなのかもしれない。 「で、ここで何を買う気なんだ?」「ええとですね、実はジョンのスーツを仕立ててもらおうと」スーツ?「はい。彼は大学に学生として入学したわけじゃなく、研究員として雇われた立場なのです。ですから、公式の場に出席する際はスーツが必要となってくるのです」ふうん、そういうものか。「何ならキョンくんも仕立ててもらいますか? 入学式とか、必要になってきますよね?」いや、遠慮しておく。こんな店でオーダーメイドで購入したらいくらになることやら。庶民には洋服の○山か○木で十分だ。「……ぷぷ」何やら声が聞こえてきたが完全無視し、「しかし、留学してきて早々そんな高いもの買うなんて、相当の金持ちだな。家は富豪なのか?」「何でも聞くところによると、元王家の血筋にあたるそうですよ」な……本当か!?「ソンナニ、タイシタコトナイデース。ソレにオウケはヒャクネンイジョウマエにカイタイサレテマーース。イマはショミンとオナジセイカツデスー」割って入ってきたのは、当の本人。「いや、絶対嘘だ」生活レベルに差がありそうだ。多分家は城のような佇まいで、敷地面積は町一個分くらいあるに違いない。「ソレニショウガクセイトシテ、クニカラモホジョキンガデテマスノデー」笑顔にクセがない分古泉よりも好印象なのだが、だからこそフィールソーバッドになるってもんだ。『天は二物を与えない』って諺。あれは嘘だ。そして更に追い討ちをかけるように、「ジョンは国から選ばれた優良研究員で、研究が終わって戻ってからも国の重要ポストに所属されるそうです」……もう、なんて言うか、ここまで来ると笑うしかない。才色兼備兼ね揃えすぎ。おまけに金持ちとあっては……どうみても藤原に勝ち目はなさそうである。俺と橘とジョン氏の会話を聞きながら、先ほどから一人沈黙しワナワナと振るえている藤原を見て、何だか哀れに思えてきた。「あれ、どうしたんですか、ポンジーくん。涙ぐんでません?」「……か、花粉症のせいさ……ぐ、ぐすん…………」ああ、そう言うことにしておこう。「いらっしゃいませ。本日は何をお探しで?」などとくだらないやり取りをしていると、ショップの店員さんに声を掛けられた。年のころおよそ30。自らのブランドスーツを着こなした、いかにもやり手って感じの男性である。 橘はジョン氏のスーツを仕立てて欲しいと用件を伝え、店員さんは分かりましたとメジャー片手に彼の寸法を計り出した。ということで、俺達は特に何もやる事もない。「いいえ、どんなスーツがいいか、見てください」はあ? 何で? 店員さんに任せればいいじゃないか。趣味や流行なんか反映させて、きっといいのを選んでくれるはずだぜ。「そ、それはそうですけど……」何故か橘は困った顔で、「ほら、あの店員さんもあたし達より結構年上ですし、若い人と趣味が会わないなんて事もあるだろうし。できれば年が近いお二人に選んで欲しいなー、なんて」 ならそれこそスーツを購入する本人に選んでもらえよ。「い、いえ……実は……ですね。やっぱここは日本ですからね。彼が選んだものが日本ウケしないものですと、彼が日本嫌いになる一因にもなりかねませんし。そうしたら国際問題に発展するかも知れません」 国際問題に発展するとは思えないが、「まあ……嫌いになるってのはいただけないな」「ね、ね。そうでしょ! そうでしょ!?」パタパタと手を振りながら弁明する。何だか少しおかしい気もするが、だからと言って俺たちが服を選定するのを拒む理由もない。「しゃあねえ。わかったよ」「ありがとうございます! ポンジーくんも、いいですよね?」「……うあ?」「ですから、ポンジーくんも、好きなのを選んでください」「……あう…………」にこやかに応対する橘に対し、今にも消え入りそうな表情で頷く藤原。その表情はまるで、『何で他のヤローのために服を選ばなきゃいけないんだよ……でも彼女が期待しているし、頼られているし……ここで僕の株を上げるチャンスかも……でもせっかく選んでも、アイツの所有になるわけで……』 と自問自答しているように見受けられ。……ああ、今回は藤原が心底かわいそうに思えてきた。それも藤原の気持ちに気付かない、本家本物のKYである橘京子の成せる技だろう。もしかしたら先ほどから全く話に乗ってこない藤原に対し、何とかして会話させようとする彼女なりの気遣いなのかもしれないが、世間一般的にそれは『余計なお世話』と言う。 「それとも、ここのスーツはお気に入りじゃないとか?」「……あ? ああ。そう……だな……何となく…………」「ふうん……そうですね…………」橘は暫し考え込み、「なら、好きなアクセサリーとかありませんか?」アクセサリー?「ほら、あそこ」言われて目を移動させる。ガラス製の透明テーブルの上に並ぶは、ネクタイやハンカチ、タイピンなどビジネスマンに必須のアイテム。「……いいや、特に…………」「そう。なら、いいです」やる気のない藤原の口調に気を落とした風もなく、橘は採寸が終わったジョン氏と共にアクセサリーを選び出した。「ありがとうございました」丁寧にラッピングされたアクセサリーを差し出すや否や敬礼し、そのまま身動き一つしない先ほどの店員さんに別れを告げ、俺達四人はテナントの自動ドアをくぐった。 やれやれ、これで買い物は終わりだな。決して役に立ったとは言わないが、橘と藤原が俺に要求した依頼はこれでクリアしたことになる。「じゃあな。俺は帰るぞ」「何言ってるんですか。お買い物はまだ終わりじゃありませんよ」は?「ジョンはまだ日本に着たばかりで、必要なものがほとんどないんですよ。あるのは当座の着替えと、夜露を凌げる宿くらいなもんです。ベッドは愚か、毛布一枚だってないんですから」 つまりそう言ったものを買うのも、俺達に付き合えと?「当然ですっ!」そんなしたり顔で言われても困るわ。「手伝ってくれないと佐々木さんに……」はいはい。わかったわかった。もうこうなりゃヤケである。散々気が済むまで付き合ってやる。で、続いて向かった先はインテリア雑貨店。ここでは主にテーブルや椅子、それに皿やコップなどを生活に必需な物品を買うのだと言う。店の雰囲気は先ほどのブランドショップに比べると雑多で華々しさに欠ける部分もあるが、それでも大衆的な雑貨店と比べると高級感たっぷりである。もちろん値札を見てそう思ったに過ぎないんだが。 「まさかベッドまで俺たちに選ばせる気じゃないだろうな」俺のぼやき対し、ジョン氏と一緒に店員さんの説明を聞いていた橘が、「まさか。必要なものに関してはジョン自身が自分で選びますよ。それより」何故か橘は俺たちのほうをマジマジと見つめて、「部屋に飾れそうな、素敵なグッズとかあったら教えてほしいのです」そんなもの、生活する上で必要じゃないだろ。「必要ですって。外国という慣れない環境で生活を営むのは、精神的負担が大変 大きいものなのです。仕事中はともかく、自分の部屋くらい心安らぐような空間であって欲しいと思いませんか?」 いいたいことは分かるが、なら尚更ジョン本人に心安らぐインテリアグッズを選んでもらった方がいいと思うんだが。「彼は……ええと、ほら。他のものも色々選ばないといけませんし。そっちのほうが大切ですし。だからあたしたちで何とか選んでおきましょうよ」へいへい。「ポンジーくん、よろしくねっ」「…………」「……ポンジーくん?」「へぇあ!? な、なんだ……何か用か?」「……いえ、何でも」少々訝しげな顔をしたツインテールは、ポンジーから俺に視線を変え、「ポンジーくんってば、先ほどから元気ないですね。どうしたんですか? 何かご存知ですか?」ご存知も何も、こちとら全てわかりきっているのだが。いっその事洗いざらい吐いてやろうか……と考えた瞬間、藤原から恐ろしいまで鋭い目つきで睨まれたのでやめておくことにした。 「……さあな。食あたりか何かだろ。あいつだって体調の悪い時もあるさ」「ふうん……」俺の言葉をどうとらえたのか、橘はそれ以上何も言わず、俺達から放れて別コーナーへと足を進めていった。結局、橘が言うところの『部屋に飾れそうな素敵なグッズ』は、橘メインで選ぶこととなり、俺は差しさわりの無い程度に補足したのだが、やはり藤原は何の役にも立たなかったことだけは付け加えておく。「んー、次はどこに行きましょう?」買い物袋を両手に抱え、楽しそうにステップを踏む橘。その横にはスマイルを絶やさないジョン氏。こう言うのも何だが、結構お似合いのカップルである。それに対し。「ああ……人生って…………空しいなぁ…………」タクラマカン砂漠の中心に裸一貫で置き去りにされたような絶望感に苛まれているお茶目な未来人は、『ず~ん』という効果音がピッタリ当てはまりそうなほど顔を青白くさせている。 落ち込む理由は分かるが、いいかげんうっとおしいので早く立ち直って欲しいものである……まあコイツの場合、立ち直ったらふてぶてしい態度を露にするんで、それもどうかと思うが。 それに第一、二人の関係がまだ恋人同士と確定したわけではあるまい。二人の出会いは殆ど偶然みたいだし、それ以前に付き合いがあったわけでもない。そんな二人が昨日今日で恋愛関係を育むほど発展するとは到底思えないのだが。 「わかってる……けど、それも時間の問題だ」藤原は、負けを悟り自害せんとする武将のような表情で前方――肩を並べて歩く橘とジョン――を見据え、溜息を洩らした。「仮に今そんな仲になっていなくとも、このままではいずれ恋人同士に発展するだろう。それを妨害するほどの能力は、残念だが僕には備わってない。知能、容姿、出所、財力……全てにおいて僕の完敗だ。勝てるはずもない」 「…………」「僕にできるのは…………そうだな、二人の門出を祝い、笑顔で送り出すことくらいだ。そう……それが規定事項なんだ……」……ったく、やれやれだぜ。どうしていきなりこいつはこうネガティヴに考えるのかね。「本当に、それでいいか、お前は?」「いいわけはなかろう……だが、僕にはどうすることもできない」「規定事項だから?」「……ああ」「……だとすると、所詮お前も『現在』と『未来』を束縛するために動く、『あやつり人形』に過ぎないって訳だな」「……何?」「だってそうだろ? アイツら二人の『未来』が決まってるから、規定事項だからって抗うこともせず身を任せているだけ。お前自身が嫌ってた『あやつり人形』ってのはまさしくソレモンじゃないか」 「ち、違う! 僕は第一……それに未来を安易に変えては禁則事項が……」「違わない」俺は何やら言いどもる藤原に対し、いつになく真剣な口調で言ってやった。「『未来』を受け入れようが拒絶しようが、引かれた線路は変わらないさ。大切なのは線路自身の方向を変えることだろ? 本来の目的じゃないかも知れんが、お前がこの時代にやってきたのはそのためだろうが」 「ぐ……」「ならやってみろよ。アイツの……橘の彼氏になるのが、ジョンなのか、それともお前になるのか……それを決めるのは、お前次第だ。禁則事項なんてクソ喰らえ、だ」 「…………」俺の言葉に、藤原は不気味なほど沈黙し、「くくくく…………ふははは…………」どうしたんだいきなり笑い出して。熱でもあるのか?「はははっ…………まさか現地人に、しかもよりによってあんたに能書き垂れられるとは思ってなかったんでな。これは茶番というより喜劇に近いことだ」悪かったな。「心配するな、誉め言葉を言ったつもりだ。僕にとって最高の賛辞といっても差し支えない」相変わらず意味不明な言動の数々である……が、それはとりもなおさず、藤原の活力が元に戻ったことを指し示している。これで……心配ないな。「何やってんですか! 早く来てくださーい!!」遠くで聞こえる、橘京子の声。いつの間にあれだけ離れてしまったのだろうか。「二人で何企んですか、あたしを除け者にして!」企むというほどのもんじゃない、単なる人生相談だ。除け者にしたのは正解だがな。「うわあぁぁぁあぁぁぁーーーーん!!! キョンくんがいぢめるぅぅぅぅ~!!!」「オー、ヨシヨシ……」「こらぁっ! 気安く触るなぁ!!」と、先ほどどこかでみたような光景をまたしても繰り返す一行は、反省の色がないというか成長してないというか……まあでも、これでよかったんだろう。きっと。藤原を前向きにさせることでメリットが増すわけでもないが、人と人との絆を増やすことでアイツ自身の考えが変わるんなら、この世界にとっては良い方向に向かってるはずだ。 藤原にとっても、ジョン氏にとっても――そしてもちろん、俺達にとっても。お互い共感し理解し、そして打ち解けあうことこそ真の規定事項ってもんだ。誰だって、そう思うはずさ。……なーんてな。実のところ、KYな橘の相手を唯一できるのが藤原だけだからテキトーなことを言って押し付けただけなんだが、その辺は是非口にチャックをして欲しい。そしてその藤原くんは、期待を裏切らない行動をしでかしてくれるのだった。例えば、こうだ。ポンジー藤原プレゼンツ、二人の仲をどうにかして切り裂いてやるぜ計画、その1。家電量販店にて、大画面プラズマテレビを見入ってた二人のムードをぶちこわそうと、同テレビに接続されていたブルーレイ再生機にマッチョな男二人組がキャッツファイトに励んでいる動画を再生させる。 しかし二人は「わー、おもしろーい!」「Pertty good!」と全く気にした様子もなく見入ってしまい、作戦失敗。もちろん、後から店の人に思いっきり怒られたのは言うまでもない。ポンジー藤原プレゼンツ、二人の仲をどうにかして切り裂いてやるぜ計画、その2。同じく家電量販店にて、ミニコンポから流れるラブソングを聴きうっとりした二人に対し、SDカードに溜め込んだ深夜アニメだかエロゲだかの電波ゆんゆんソングを大音量で再生させる。 しかし既に二人は別コーナーに移動した後。大音量で流れた曲を聞き駆けつけた店員さんにまたしても大目玉を喰らってしまう。ポンジー藤原プレゼンツ、二人の仲をどうにかして切り裂いてやるぜ計画、その3。またもくだんの家電量販店にて、PCコーナーにいた二人に対し何やらまた怪しいCDらしきものを携えてやってきたのだが、先回りしていた店員さんプラスごっつい警備員のおっさんに取り囲まれ、あえなく連行。「くそっ! 僕の一体どこが悪いんだっ!!」店の守衛室で散々説教を喰らい、何故か監督責任者として呼び出された俺まで注意を受けつつ、退去処分を言い渡され。憮然とした警備員に追い出された藤原が開口一番に言い放った。「いや、どう考えてもダメだろ。店に十分迷惑をかけてる」俺の最もな意見に対し、「これだから過去の人間は……」と、まるで反省する気など無いようだった。「少し外で頭を冷やしてな。俺はアイツらの所にいくから」念のために言っておくが、退去処分を言い渡されたのは藤原のみ。俺はお咎めなしである。当たり前だが。「なっ……なんだそれは! 約束が違うじゃないか!」「だから、」と言いかけた瞬間、「……ええい、使えんヤツめ。頼んだ僕が馬鹿だった!」勝手に外へと飛び出していきやがる。やれやれ。使えんのはお前の方だろうが……ま、いい。今は混乱しているようだし、一人にしていた方がいいだろう。どうせ戻ったところで橘とジョン氏がいちゃいちゃしているだけだ。それを見て更に頭に値を上らせても困る。そう思い、俺は藤原のことなど見向きもせず、再び店舗の中へと入っていき――。――しかし、この時は全く気付いていなかった。この時藤原を野放しにしたことが、彼自身の命運を決定付けることになることを。「……あれ、ポンジーくんってばどこにいったんですか?」橘が気付いたのは、それから数十分後のことだった。なぜそれまで気付かなかったかと言うと、真剣に家電を選んでいたからと言うわけではなく、玩具コーナーにあったオンライン型対戦格闘ゲームに夢中になってたからである。 「イマセンネー。おトイレデショカ?」同じくゲームに夢中になっていたジョン氏もコントローラを置き、辺りを見渡した。「全く、ポンジーくんも困ったちゃんですよね。人の仕事を棚にあげて勝手にどこか行っちゃうなんて」そいうかそもそも生活必需品を買いに来たのに、周りの迷惑鑑みずゲームに興じているヤツが言えるセリフではないと思うんだが。俺がそう言うと、橘は幾分ムッとした表情になり、「そんなことありませんって。第一あたしはポンジーくんに……」ポンジーに、どうしたんだ?「あっ……いえ、何でもありません、」慌てて言葉を飲み込み、「それより、あたし探してきますね。二人ともここで待っていてくださいねっ」と突然話を終わらせ、その場を去っていく。まるで何かを隠しているような素振りで。「……一体何なんだ?」「……トテモ、カノジョラシイデスネ」代わりに話し掛けてきたのは、俺と共に残ったジョン氏。クールスマートな笑顔と棚引くブロンドの髪は、見るもの全てを虜にしてしまいそうなほど決まっていた。「カノジョがイナイアイダに、ハナシテオキタイコトガアリマス」「俺にか? ……まさかお前もヘンテコリンな能力の持ち主と言うんじゃないだろうな?」思わず出そうになった後半の言葉は、寸でのところで飲み込む。対してジョン氏は切れのある蒼い目をスッと細め、「ヨク、ワカリマシタネ」「まあな。こう言うトラブルには慣れっこなものでね」「フフフ……サスガ、キョーコがメヲツケタダケアリマス」嘲りとも自惚れともつかぬ賞賛を受け、俺も負けじと喉を鳴らし――そして、暫しの沈黙。最初に動いたのは……ジョン。「……カノジョは――トテモイイヒトデスね」古泉に似た笑顔は、妙に俺の心を憔悴させた。「誰がやさしいっだって?」「モチロン、キョーコのコトデス。ボクはトテモカノジョにヒカレマシタ」ヒカレルって、「まさか交通事故!?」「ナンデヤネン」突っ込みは、えらく流暢だった。「トテモ、キョウミブカイデス。アナタは、ドウナンデスカ? カノジョに、キョウミがナイノデスカ?」俺ね……確かに面白いし見てて飽きない存在だが、あんまり深い仲になろうなんて考えたことはない。第一下手にちょっかいだそうとすると、ハルヒや佐々木が何を言ってくるかわからんしな。 その辺のことを掻い摘んで彼に話すと、彼は笑顔を綻ばせた。「フフフ、ソウデスカ」外見は朗らか、しかし心の奥底ではとんでもないことを考えていそうな、含みのある笑顔。先ほどまで余裕すら感じていた俺の顔はまたしても反転。曇りきった空のように霞み始めた。 コイツ……一体何を考えてやがる!?「カノジョ、トテモオモシロイ。カノジョノコト、モットシリタイデース。モットオチカヅキニナリタイデース」ここで一旦言葉を切った氏はそれまでの笑顔を消し、真剣そのものの眼差しで俺に迫った。思わず後ずさり。「何だ?」と返答したのは、必死に迫る恐怖を打ち消そうとしたからだろうか。 まさか新たな未来人か、あるいは超能力者とでも言う気じゃないだろうな? このタイミングで。しかし、彼が放ったその言葉は、違い意味で衝撃的なものだった。「タントウチョクニュウにモウシアゲマス。カノジョトの、ナカヲトリモッテホシイノデス」変な能力者をカミングアウトするわけはなかったが、これはこれでとんでもない発言である。「カノジョをモットヨクシリタイ。ダカラ、アナタカラもイッテホシイノデス。ワタシのユウイセイをモットモット」要は橘との仲を俺に取り持ってほしい。そんなところだろう。……ったく、こいつといいポンジーといい、あんなKY電波のどこがいいんだか……。ま、人が人を好きになる理由は人それぞれだし、それに関して文句を言うのは止めておこう。 しかし、これを了承するとなると、少々面倒なことがあるんだ。もちろん、藤原の存在である。俺としてはジョン氏の提案を飲むことに異論があるはずもなく、寧ろ橘を厄介払い出来るから諸手を上げて賛同したいのだが、藤原は断固拒否するだろう。普段なら『お前のことなんか知ったことか』と突っぱねるのは容易である。藤原を優位にさせる義理も約束もないんだから、当然である。しかし……そんな約束をしてしまったんだな、これが。先ほどの『二人のデートの邪魔をする』ってやつを。『破っちまえばいいじゃねーかそんなもん』と割り切ることは可能だが、アイツの性格からして後々ネチネチ文句を言われ続けかねないし、それはそれで面倒くさい。はてさて、ここはどう出るべきかね……等と考えていると、ジョン氏は返答に困っていると感じたのか、「ヘンジは、マタゴジツデモカマイマセーン」と申し出た。そう言ってもらえると助かる。藤原との約束は今のところ『本日』のみだからな。別の日ならば関係ない。非常だなどということなかれ。俺だってあと数日で本試験が待ち構えているんだ。協力するにせよその日以降にして欲しいんだ。 「ソレにキョウハワタシ、カノジョニタノマレタコトを、シナケレバナリマセン」「なんだ、それは」「キンソクジコウデス」……橘、変な言葉を教えるんじゃない。「イヤヨイヤヨモスキノウチ、デス」だから変な言葉を教えるんじゃない、パートツー。「フフフ、ジョウダンデスヨ。カノジョニタノマレタコト、オシエテアゲマショウカ?」言ってもいいのか?「ホントウハヒミツナンデスガ、アナタニカギッテハダイジョウブダトオモイマス」含みを持たせるのに十分足る言葉である。或いは、こっちが本来の目的か――?「わかった、なら喜んで聞かせてもらおう」「ワカリマシタ。ジツハ、カノジョハ……」更に数十分後。あちこち駆けずり回ってきた橘に一旦外に出て考えようと嗜め、入り口のドアを潜ると、ポンジーはそこで待っていた。アーケードに並ぶベンチに腰をかけ、どこか虚ろな瞳で灰色に染まった空を見つめていた。「あー、こんなところにいたんですか。もうっ、随分と探したんですよ。外で待ってる
ならそう言ってくれればよかったのに」「……ふん、古風な空気循環器内で長時間晒されるのは、僕の健康状態が危ぶまれるんでな」本当は追い出されて出禁を喰らったんだろうが、彼女の手前、何とかして取り繕うと必死である。が、「なんか怪しいですね」「な、何がだ?」「ポンジーくんってば花粉症で涙がでるくらい辛いんでしょ? そんな人が外で待ってるのって、どう考えてもおかしいでしょ」「あうっ」中々イタイところをついてくる。自称名探偵は伊達じゃない。「本当のことを仰ってください。何してたんですか?」「……ええっと…………だな、」「そう言えばさっきからお願いしているのに、何にも選んでくれないじゃないですか。どうしてなの?」「……うう…………」「それどころか、何故か邪魔ばっかりしてません? さっきから気になってたんだけど、さっきの店で変な画像や音楽やら流そうとしてたでしょ?」「いや、それは…………」橘の攻めに対し、藤原はしどろもどろでどう答えていいか分からない。なあ、もう『二人の仲に嫉妬してやりました』って言えよ。素直にいえない藤原の姿は滑稽そのものである。ああ、腹いてえ。 「もうっ。ポンジーくんならジョンのために頑張ってくれると思ったのに……とんだお門違いでした。もうポンジーくんには頼みませんっ! いいですねっ!!」「…………」「……ん? 何かいいましたか、ポンジーくん?」「うるさいぁっ! 僕の事なんかほっといてくれ!!」『なっ…………』藤原を除く、全員が絶句した。「何で僕がソイツのためにアレコレやらなきゃいけないんだ!? 世話を焼きたいなら自分ひとりですればいいじゃないか。それを他人を使ってあーだこーだいいやがって。僕はあんたの召使じゃないつーの!」 今までの鬱憤が溜まってたのだろうか。藤原は堰を切ったかのように猛烈な勢いで橘を咎め始める。橘もこれは予想外だったのか、何一つ言い返せずただ呆然と立ち尽くしている。「第一おかしいだろ? 本人が欲しいものを選ぶのがフツーだってのに、何でわざわざ僕とかに聞くんだ? お門違いじゃないか!?」「あ、そ、それは……!」「それは……何だって!?」「……いえ…………」「ほら、何もいえないじゃないか。結局のところプレゼント選ぶのに自分が楽したいために僕を出汁に使ったんじゃないか!」「……うっ…………」「相手に贈るものなんざ自分で決めればいいじゃないか。相手が欲しがるものを決めるためにやるんだ。第三者が選んで何の意味があるんだ!?」「…………」「こんな茶番、つきあってられん。僕は帰らせてもらう」「……あっ、ちょと待っ……」追いすがる橘の姿に目もくれず、激昂した藤原はその場を後にした。木枯らし吹き荒ぶ如月の候。春の日差しなどまるで感じられない淀んだ空。自分の世界でもそうそう変わることの無い光景だが、しかし過去に遡ったこの平
面世界ではより強調されているように感じた。それは過去の技術が未熟なためでも、過去の気候が自分の世界の気候と大きく変わっているわけでもない。単に、自分の心が虚しいだけなんだ。「僕は――馬鹿だ」何故、あの時あんな態度をとってしまったのだろうか?何故、心にも無いことを叫び続けたのだろうか?……答えは分かっている。彼女が――橘京子が、自分以外の男と仲良くやっているのが気に喰わなかったから。現地の世界で言うところの、『嫉妬』という感情。精神文明が発達した僕達の世界において、過去の遺物として歴史の教科書の隅にちょこっと書かれているだけの、取るに足らない感情。どうして、そんな感情が湧きあがったのだろうか?恐らく、長期間の滞在による下意識のストレスが精神体を蝕み、精神抗体の弱った部分に対してウィルスのように侵入し……。「……違う」何を言ってるんだ、僕は。何を屁理屈をこねているんだ?真相を語りたくないから『過去の遺物』とか『取るに足らない』とか、適当な嘘で自己満足に浸っているだけだ。本当は、分かっている。分かりきっている。凄く単純な理由だ。それは、僕が……僕が……。「未熟だったんだ……」――所詮お前も、『現在』と『未来』を束縛するために動く、『あやつり人形』に過ぎないって訳だ――『アイツ』のあの時の言葉、今になって心に重く圧し掛かる。規定された未来――『朝比奈みくるの世界』とは違う、別の時間平面――に誘うために、僕は派遣された。それが僕の任務だからだ。それなのに、未だ規定事項をクリアすることなく、僕はこの世界というぬるま湯にどっぷりと浸かっていた。そんなんでは世界を変えるなんて当然できっこないし、それどころか僕自身が『朝比奈みくるの世界』の望むがままの駒を、現在進行形で進めている。言わば、僕自身が『あやつり人形』を演じている状態。それに気付いたのは、遺憾ながらも『アイツ』の指摘だった。『僕の世界』が望む……いや、『僕』自身が望む世界は、こんなんじゃない。こんな世界じゃないんだ。だから、僕は足掻いた。自分自身の手で。頭で。身体で。規定事項を覆す本来の目的を果たすべく、がむしゃらに反抗した。しかし結果は失敗に終わった。『橘京子』は、僕に振り向いてくれなかった。彼女の興味は完全に『彼』の手中に納まっていた。「勝てない」能力、学歴、品格、センス。それらをひっくるめた、『彼』の人格に。そして……。『規定事項』に。――気付くと、僕は花壇の前に立っていた。以前とあるのものを拾い上げた、歩道橋脇の公共花壇。何故ここに来たか、正直自分でも分かってない。しかし、逆に分かったこともある。そこに植えられた花々……過去の文献を探って調べたことがある。福寿草、シクラメン、ビオラ、そしてパンジー――だったかな……が、どれもが疎らに咲き、自身の重さに耐え切れず項垂れている。 排気ガスなどと言う時代遅れの環境下に晒された結果か、地方行政の財産の行き詰まりによる管理破棄、或いは厳寒な気候を目の当たりにした結果かもしれない。それとも……。 ……いや、プロセスは何だっていい。理由はどうであれ、運命は決まっていた。景観を保つためだけに植え付けられた花の――運命が。「お前達も、僕と一緒か……」生あるものは、やがて死が待っている。花も草木も動物も、そして人間も。形あるものは全て滅びと言う運命が待ち構えている。時間平面の移動を可能にした僕達の世界でも、それは例外ではない。相対的な時間変化を調整することが出来ても、絶対的な時間の流れを取り戻すことはできない。未来はあくまで過去の結果であって、過去そのものを塗り替えることは、僕の力では無理だったんだ。その時、というべきか。暗澹な気分に陥った僕の目に、ふと一つの花が飛び込んできた。それは、一輪のパンジー。そう、一輪のみ。他のパンジーはとうに枯れ果てていた。しおれた花びらと変色した葉っぱが疎らに存在する様は、土壌と同化するまであともう少しといったところか。このパンジーもいずれは枯れ果て、他のパンジー同様花壇の肥しとなり、短い一生を終えるのだろう。それは間違いない、自然の摂理なのだ。しかし。何故かこのパンジーは違った。いや、実際には同じものかもしれないが、少なくとも今の僕の目には別物に思えてきた。真冬の活動停滞期。世話をしてくれる人間もいなければ一緒に咲き誇る仲間すらいない。それなのにも関わらず、活き活きと力強く咲いているのだ。まるで運命に逆らうかのごとく。生と死のサイクルに抗うかのように。「……そうか、お前も必死に抵抗しているんだな」何故か、笑いがこみ上げてきた。何故なら、全てが馬鹿らしくなったから。何を思い悩んでいたんだのか。何を思いつめていたのか。生だとか死だとか、やたら話のスケールを大きくして考えすぎだ。一つの失敗でへこんでたらこの先やってはいけない。もっと図太く生きなきゃ、ただでさえ不安定な時間平面にいる僕が先にお陀仏だ。生と死の運命は変えられないかもしれない。規定事項は規定事項であり続けるかもしれない。だけど。それに抗って生きていくのもまた一興だ。反抗して、反抗して、反抗して。そして最後の散り際に言ってやる。この世界の人間に。そして未来の世界の人間に。「僕は世界のあやつり人形にならなかったぜ」ってな。本当ならその場面を見せてあげたいところだが、悲しいかな花の命は人間よりも儚い。どれだけ延命措置をほどこしても、僕の寿命が尽きる前にこの花の寿命が尽きるだろう。せめて……この花の寿命が尽きる前に、生まれ変わった僕を見せてあげたい。――謝りに行こう。橘京子に。そして、『彼』に。「じゃあな」独り咲き誇るパンジーの花に惜別の挨拶。もちろんパンジーは答える術もなく、静かに花びらを揺らしたのみ。「ふっ、当然か」心の中でほくそ笑み、そして振り返って歩みを進め――しかし、二の足を踏むことができなかった。何故なら。「……ここにいたんですね」いつの間にやってきたのだろうか。彼女……橘京子は、俺の目と鼻の先に立っていた。どうして、ここが……?「ポンジーくんの行きそうなところくらい、お見通しよ」彼女は、感情の起伏に乏しい口調でそう答えた。「ポンジーくんったら、不機嫌になるといっつもここに来て。そしてここの花を見つめていましたもん」正直、自分では分からなかった。確かに機嫌が悪くなると独りで何かを見つめていることは多かったが、その場所がここの花壇だったってのは言われて初めて気がついた。「とりわけパンジーの花ばっかり見てたのよね」それも今初めて知ったことである。「だからあたし、あなたのことポンジーくんって呼んでたのよ。知ってた?」……いや。「ふふふっ。だと思った」橘の、無感情だった表情が緩む。「ポンジーくんってば、結構感情が態度に出るタイプですから」「ふん、あんたに言われる筋合いはない」――何故、ここで悪態を吐くんだろう? 素直に謝るチャンスだってのに。「ほら、やっぱり」「うるさいな、静かにしてくれ」――おい、何言ってんだ、僕は?「……うん。ごめんね、ポンジーくん」「何がだ」――何が、じゃないだろ。『こっちもごめん』って、素直に言えって。「ポンジーくんの気持ちも考えず、買い物につき合わせちゃって」「ああ、分かってるじゃないか」――さっき約束したのは嘘だったのか!?「そう……だよね。いくら何でも、時間ばっかり取らせちゃったね」「全く、そのとおりだ」――こっちから謝ろうってのは嘘だってのか!?「……ごめんなさい」「ふん」――パンジーの花の誓いを破る気か!?「最初から正直に言えば、こんなことならなかったんだ」「……え?」――え?「やっと、見つけた」――な、何を……?言葉を切り、彼女は歩みを進めた。一歩。また一歩と俺に近づき――そして通り過ぎる。「おい、そっちは花壇しか……」それでも彼女は歩みを止めなかった。何故なら、彼女の目的が花壇そのものだったからだ。手にしたショッピング袋の中から、紙袋で包装された筒のようなものを取り出した。この紙袋を丁寧に取り外し、現れたのはガラス製のコップ。先の雑貨屋で購入したものの一つだ。「とりあえずは、これで我慢してね」取り出したコップを花壇の淵へと置く。「さて、今度はこっちの番ね……慎重にやらないと」彼女は羽織っていたブランドもののコートを脱ぎ捨て、ブラウスの袖を捲り、その場にしゃがみ込み、そして白魚のように透き通ったその手を花壇の土の中へと潜り込ませた。「お、おい! 止めろって! 汚れるぞ!」「大丈夫です。ちゃんと洗いますから」「許可なくそんなもの採ったら怒られるぞ!」「いいでしょ別に。どうせこのままじゃ枯れちゃうし」「それにそのコップ、アイツの為に買ったやつじゃ……」「ジョンに許可を得ましたから問題ありません」「ど、どうしてそこまでして……」「決まってるじゃないですか」あなたが、一番欲しかったものですもの。「……え?」呆けている間、根を傷つけず綺麗に取り出したパンジーの花は、プランター代わりのコップに入れられた。「はい、どうぞ。大切に育ててくださいね」泥だらけになったその手を見て、受け取らずにはいられなかった。「気に入ってもらえたかしら?」――あ、ああ。でも、これは一体……?「あ、そうか。言うの忘れてました」彼女はいたずらっぽく舌を出し、そして最高の笑顔で答えた。「アニバーサリーです。あたしと、そしてポンジーくんが。初めて出会った日の記念日です」――詳細は、ジョン氏から聞くことができた。『藤原と出会った記念に何か贈りたい。でも彼が好きなものがわからない。何を贈ったら喜ばれるか、男性の立場として考えて欲しい』ジョン氏が俺に打ち明けた、橘との約束とはこう言うものだったのだ。本心をあまり見せない藤原だけに、好きなものが何なのか、どういったものを好むのか全く情報が無い。ならば一般男性が好きそうなものでも贈ればいいんだが、生憎同年代の男の知り合いもそうそういるわけでない。真っ先に思い浮かんだのが俺だったみたいだが、当然俺は受験勉強に明け暮れている毎日。呼び出すのも悪いし、万一ハルヒや佐々木に見つかったらどんな折檻を受けることになるのか、想像するだけで恐ろしい。 そんなこんなで思い悩んでいたところ、偶然出会ったのがジョン=スミス氏だった。彼ならば年代も近いし博識だし、藤原の好きそうなものをきっと選んでくれると考え、彼の生活備品を購入する本日、ついでに選んでもらおうと考えたわけだ。しかし、ここで予想外の出来事が発生した。もちろん、俺と藤原の乱入である。『ピンポイントでプレゼントを贈る相手とバッタリ鉢合わせするなんて、何と言う偶然、神様の悪戯だろうか』橘が藤原を紹介した際、ジョン氏が驚いた素振りを見せたのはそのためだった。しかし、橘京子を舐めてかかっては困る。斜め上を見抜く力は伊達じゃない。彼女は驚くどころか寧ろ『ポンジーくんが好きなものがわかっていいじゃない』と言い放ち、プレゼントする本人に欲しいものをいけしゃあしゃあと選ばせたのだ。大胆とも無謀とも取れる計画だったが……橘らしい言えばそのとおりである。だからこそ、だろう。橘は藤原にあれだけ熱心に何が欲しいかを聞き、選ばせていたのだ。もちろん品定めには俺も加わっていたのだが、こちらはどちらかと言うと藤原の目を欺くための噛ませ犬みたいなもんだろう……少々癪に障る部分もあるが、よしとしよう。 途中藤原の暴走と言う予想外の出来事もあったわけだが、結果よければ全てよし、である。俺はやれやれと溜息をつき、遠巻きに見える花壇――藤原と橘の姿を視界に入れた。二人の表情までは見えないものの、そっぽを向いている藤原の様子からちゃんと仲直りできと思う。これでめでたしめでたし、だ。「いいえ、まだですっ!」って、いつの間にこっちに来たんだ? 橘!?「はいっ、キョンくんにもプレゼント! バレンタインも近いですし、これどうぞ!」まさかまたカカオ99%のチョコレートじゃないだろうな……? などと一抹の不安があるものの、俺は橘から渡された弁当箱サイズの包みを空けた。……っと、これは……?「じゃっじゃじゃーん! あたしとキョンくんが初めて出会った日記念、とぉーってもスィートなチョコレートでつくったアニバーサリーケーキですぅ! もち手作り!」 「な、なにぃっ! バレンタインケーキだとっ!?」ポンジーが過敏に反応しやがった。「か、過去人形のくせになんとうらやま……もとい、身分不相応なものを! けしからん! この僕が没収する!」素直に俺も欲しいっていえばいいのに。「うるさいっ!!」顔を真っ赤にして怒るその姿は、「まるで本当にパンジーの花みたいだな」「ふふふっ。ホントですね。もしかしたらパンジーの化身じゃないんですか?」「うわぁぁぁぁぁ~ん!! 皆で僕をいぢめるぅ~!!!」――あ、泣いてどっかいきやがった。ってかお前がやっても気持ち悪いから。「ま、いっか。藤原だし」「そうですね。ポンジーくんですから」あれだけ思わせぶりなことをしたわりにバッサリと切りやがったな。「あ、もしかして妬いてるんですか、キョンくん」「はあっ!?」「ふふふ、もう。やだなぁ。キョンくんったら。チョコレートケーキじゃなくてあたしが食べたいとか……きゃはっ♪」白昼堂々公衆の面前で馬鹿丸出しな発言はやめろぉぉぉ!!「ええいっ! これ以上KYな発言をするなら俺にだって考えがある!」「な、何ですかその得意げな顔は……?」俺は指をパチンと鳴らし、「ハルヒ! 佐々木! 今こそ出番!! 変態逆賊KYツインテールに天誅を下し給えっ!!」『らじゃー!!』って本当に出てきたぁーーーー!!!!「びえぇぇぇええぇぇ!!!」「ふふふふ……一部始終、見せてもらったわ」「くくくく……彼のためにプレゼントとは、なかなか優しいじゃないか、橘さん……」お、お前達、何でここに……?「決まってるじゃない。キョンの部屋に仕込んだ盗聴器から一切の音が聞こえなくなったからこれはきっと外出してるんだと判断したのよ。もちろん嘘だけど」「キョンの携帯電話をいじくって、GPS機能が僕達の携帯電話と連動するように改造し、ここを突き止めたんだよ。あくまでフィクションだけどね」おおよそ嘘とは思えないほど緻密な内容は、しかし俺に突っ込みをさせる気を削ぐのに十分だった。「それより橘さん、約束覚えているわよね?」「キョンは受験勉強で忙しいから、絶対つれ回しちゃダメだって」「ひ、ひえ……でも、あの……今回はあたしが呼んだんじゃなくてポンジーくんが勝手に……」『問答無用!!』「ひえっ!!!!!!」「ふふふふふ……あれだけいぢめ――コホン、『教育』してあげたのにまだ分かんないかな……?」「くくくくく……ならばフルボッ――エヘン、『指導』を充実させたほうがあなたのためね……?」「ひ、ひえ……ひえひえ…………ひえ」怯えて口が回らなくなったのか、それとも日が沈みかけた冬の寒さに身が凍みたのか。橘は尻餅をつき、身動き一つも取れないまま恐怖と絶望に苛まされるのであった……。――合掌。追伸;ジョン=スミスについて。彼は本当にタダの一般人であることが、後日古泉ら『機関』の報告で判明した。『ジョン=スミス』の名も、俺に接触したのも、全て偶然。では何故、橘に対してあれだけ執拗に調査していたのか。それは、彼の本業――即ち、研究内容に関連するものだった。実は彼、『比較文化学』を専攻しており、とりわけ若年層現代人の思考と思想を風俗レベルで調査・研究しているのだと言う。自国の研究で学位を取得後、他国――つまり、俺たちが住むこの国でも同様の研究を行い、自国との文化の違いを比較・考察して論文を書くというのが留学してきた目的でもある。 さあ、ここまで来れば大体分かってきただろう。――つまり、研究対象として橘京子を選定したのだ。ジョン氏の意味深な発言。橘のことをもっと知りたいと言うのは男女の仲ではなく、この国の一般的女性ととしての研究対象としてもっと知りたいと言う意味だった。よかったな、藤原。俺は全く良くないが。『ワタシ、ガンバッテケンキュウシマース。ガッカイハッピョウは、ゼヒミニキテクダサーイ』揚々とした口調で学会発表とやらの日時を教えてくれるジョン氏に対し、この国に対する諸外国の評価が235度くらい変わりそうな戦慄を覚えた俺は、誘いを丁重にお断り申し上げ、そして彼の研究内容に若干のアドバイスを助言したのだった。――『頼むから、アイツをこの国代表として研究するのは止めてくれ』、と。終わりっぽい。
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