神の領域 エピローグ
あの事件からひと月余り経ってから、涼宮さんの葬式がしめやかに執り行われた。葬式に出席した参列者の中で涼宮さんがなぜ死んだのかということに疑問を呈す者はいなかった。九曜さんがそのように情報操作を行ったからだ。 あれから北高の残骸も数日の内に撤去された。もちろん、これも九曜さんが情報操作をしており、誰一人いままで北高の残骸が撤去されなかったことを不思議に思う者はいなかった。まるで、そんな事件は初めから無かったかのように。 白骨化した涼宮さんの遺体も、そのまま絢爛豪華な棺桶の中に入れられ、荼毘にふされることによって、涼宮さんはようやく天に召されることになったのだ。わたしやキョン、それに九曜さんや藤原、機関の新川さんや森さんも葬儀に参列した。 涼宮さんが煙となって天に昇っていく様子を、わたしは複雑な心境で眺めていた。彼女はあの日から一年余り、どんな心境で北高の廃墟の中に留まっていたのだろうか。暗闇と孤独の中で、いったい何を考えていたのだろうか。 同じ人を好きになった者同士として、なんとなくわかる気がする一方で、やはり涼宮さんの深い孤独と悲しみは、わたしなどには窺い知ることはできないような気がした。言葉で言い表せない虚無感がわたしの中にあるのがわかった。 なにより、この葬式自体が嘘のように思えてならない。誰一人、遺族でさえも涼宮さんの死因を知らず、また知ろうとも思わない。そんな涼宮さんの最期に、一抹の寂しさのようなものを覚えた。 葬式からの帰り道、わたしはキョンと並んで帰路についた。キョンが何を考えているのかはわからなかったが、深い悲しみに打ちひしがれていることはよくわかった。当然だろう。同じことが自分の身に降りかかれば、わたしだってこの世界に絶望する。 しばらく無言のまま歩いていたが、勇気を振り絞ってキョンに声をかける。「キ、キョン」無言のまま視線をこちらに向けるキョン。目には生気が宿っておらず、まるでキョンの時間はあの日から止まったままのようだ。「本当にキミは……その、このまま田舎に帰ってしまうのかい? あの……言いにくいんだが……」キョンは胡乱な目つきでこちらを見つめる。「涼宮さんも長門さんも、キミがそんな風に落ち込むことを望んでいないと思うよ。だから……、もう一度考え直してみればどうかな? せっかく一流企業に内定をもらっているのに……」 キョンは少し悲しげな微笑みをわたしに見せた後、ゆっくりと首を横に振った。「ありがとう佐々木。でも、もう決めたんだ。田舎に帰るって。このままここに残っても、この街にはハルヒや長門との思い出がたくさん残ってて、それを思い出すたびに胸が痛む気がするんだ」 「でも……」「お前の言う通りだ。きっと、いまの俺の状況をハルヒや長門が見れば、おそらく呆れると思うよ」「だったら……」わたしから視線をそらし、キョンは空の彼方を眺めながら弱々しく言葉を紡ぐ。「でもな、俺はお前やハルヒみたいに強くないんだ。この街で……ずっとこのまま昔の想い出と隣り合わせで生活していくことは俺には耐えられない。いたる所にハルヒとの想い出の場所があるこの街で暮らしていくのは……」 返す言葉が見当たらずうつむいてしまう。キョンの気持ちは痛いほどよくわかった。もし、わたしがキョンを失えば、きっと同じことを考えると容易に想像がついたから。 それでも、わたしはキョンにこの街に残ってもらいたかった。もちろん、これがわたしの我儘だということは十分に分かっている。それでも、キョンの将来を思えば…… このことは、キョンが田舎に返ると決めた日から、何度も話し合った将来についての話。キョンの決意は固かった。なにより、キョンの精神状態が限界に達しているようで、わたしも強く押すことができなかった。 「そう……」「そんなに心配するな」うなだれるわたしを、逆にキョンが力の無い笑顔を見せて励ます。「ちょっと田舎に帰って静養してくるだけさ。心の整理がついたら、また会いに来るよ」「で、でも……」「心配いらないって、うちの実家は農業をしてるから食うには困らない。なんだったら、そのまま農家を継いでもいいんだ。後継ぎがいないって、いつもぼやいているみたいだから」 弱々しく笑うキョンの笑顔を見て、わたしの中に悲しみのような寂しさのような感情がこみ上げてきた。キョンがわたしの手の届かない遠くに行ってしまうような気がして…… 「いつ、出発するの?」「今日、もう出発しようと思ってる。一応、下宿の整理もついたし、家に帰って、妹の顔を見てから……」「そう……」紡ぐ言葉が見つからず、話す話題も見つからず、無言のままキョンの横を並んで歩く。手を伸ばせば届く距離にいるのに、もう涼宮さんも長門さんもいないのに……このままわたし達の関係も終わってしまうのだろうか。 ふたりの間を沈黙が支配する。周囲の雑踏が聞こえないくらいに、まるで世界からわたしとキョンだけが切り離されて存在しているかのように、キョンの心音が、息遣いが、聞こえるような気がした。 数分間だけの、ふたりだけが存在する世界。キョンの横顔をじっと見つめる。まぶたに焼きつけるように。もしかしたら、これがわたしの中でのキョンの最後の姿になるかもしれないのだから。 だが、この世界の終わりを告げるかのように、目の前に別れの道標となる十字路が見えてきた。「じゃあな、佐々木」平静さを装い、軽く片手をあげて別れの言葉を告げるキョン。何かもっと話すことがたくさんあったはず。このまま別れてしまってもいいのか? もう会えないかもしれないのに…… 焦燥感がわたしを責め立てる。何か、何か声をかけなければ……「待って!」かける言葉が見つからず、思わず叫んでしまった。少しびっくりした表情でわたしを見つめるキョン。「な、なんだ?」「あ、えーっと、その……」想いを伝えるんだ。わたしの想いを。もう、最後なのだから。たとえどんな結果になろうとも、後悔のないように……大きく息を呑みこみ、想いを言葉にしようとするが、声が出てこない。脳裏に長門さんの最期の顔が、涼宮さんの悲しげな恨めしげな表情が思い浮かぶ。涼宮さんは長門さんを守るために命を落とし、長門さんは涼宮さんに代わってキョンの傍にいることを、すっと後ろめたく思っていた。 そして最期に長門さんは、キョンをかばってこの世界から去っていった。そんな彼女たちに比べて、いまわたしがしようとしていることは、卑劣で卑怯なのではないだろうか。そんなわたしが、キョンに愛される資格があるのか? あの日から、何度も何度もキョンに自分の想いを告白しようとし、そのたびにこの疑問が心に浮かび、想いを告白できないでいた。だが、これが最後のチャンスだ。いまを逃せば、キョンはもうこの街を去ってしまう。 もう一度、息を吸い込み、想いを伝えようとするが、想いを伝える言葉が紡げない。怪訝な表情のキョンを前に、ようやくわたしは一言だけ言葉を紡いだ。「さ、さようなら、キョン」「……ああ、またな」一瞬、気が抜けたような表情を見せてから、キョンは少し微笑み、そしてわたしの目の前から去っていった。どうして、どうして、いつからわたしはこんなに弱くなってしまったのだろうか? 涼宮さんが存命中の時は、長門さんがキョンの傍にいた時は、あんなにも大胆にキョンに想いを伝えることができたのに…… 後悔と悲しみと切なさがないまぜになった感情を胸に溢れてきた。声をあげて泣きたかったが、涙が出てこなかった。十字路の真ん中に立ち、キョンが去って見えなくなってしまった向こう側を、ただ見つめていた。 「滑稽だな」背後で声がして、振り返ると、そこには藤原が立っていた。その後ろには新川さんの姿もあった。「んな!?」恥ずかしさに顔が赤面し、そのあと羞恥心が怒りへと変わっていったが、咄嗟に怒りを表現することができず言葉に詰まる。キョンが去ってしまった方向を一瞥して、藤原が鼻で笑う。 「どこがいいんだ? あんな奴。あの程度の男なら、そこらへんにいくらでも転がっているだろう」「うるさい!!」「まあまあ」新川さんがいつもの紳士的な態度でわたし達をなだめた。「で、いったい何の用事?」不機嫌な態度をとるわたしに、新川さんはあくまで紳士的な態度を崩さない。「実は、お伝えしたいことがありまして……」「どうやら、僕は機関と敵対している存在らしいからな。機関の情報を漏らすのはご法度らしい」藤原がそっぽを向いて腕組みをしながら言った。新川さんは藤原の方をチラッと一瞥してから、わたしに機関の現在の状況を説明し始めた。「古泉一樹の件ですが、機関は古泉の暗殺を朝比奈みくるの単独犯と断定し、彼女を見つけしだい報復行動をとることを決定いたしました。わたくしどもは上層部に何度か進言したのですが、聞き入れてもらえませんでした」 朝比奈さんの顔が思い浮かぶ。やっぱり朝比奈さんが黒幕だったのだろうか? あんな狡猾な策略を練る人だなんて、思いもしなかった。「よって、わたしも朝比奈みくるを見つけることがあれば、彼女を抹殺するために行動しなければなりません。わたしも機関の一員、これはわたしの意思ではどうしようもないのです」 また、新川さんは藤原を一瞥する。もしかしてこれは、わたしにではなく、藤原に言っているのか?「そ、そういえば、森さんは?」「園生は気持ちの整理がつかないと言って、先に帰りました」わたしの質問に新川さんは少し微笑んだ。しかし、その微笑みに、なぜか悲しみの影があるように感じられた。「園生は古泉を弟のように可愛がっていました。わたしも古泉のことは十分に目をかけていましたし、家族のように思って接してきたつもりです。でも、果たして古泉はわたし達の事を家族のように思っていたでしょうか……」 「え?」予測のできない新川さんの言葉に目を丸くする。わたしから目をそらし、新川さんは遠くを見つめながら心の内を言葉にする。「わたし達は古泉のことを家族のように思って接してきましたが、同時に機関の任務のために、古泉にいろいろなものを捨てさせもしました。まだ若い古泉には、それは辛い仕打ちだったでしょう。 もしかしたら、わたし達が一方的に古泉のことを家族と思っているだけで、古泉自身はわたし達を恨んでいたのかもしれません。そしてきっと彼女も、小さな頃からそういう仕打ちを受けてきているはずです」 「…………」「だから……わたしには今回の事件がいたたまれないのです」「…………ご、ごめんなさい、言っている意味がよく……」わたしの言葉を無視して、新川さんはじっとわたしの目を見つめる。「佐々木さん、あなたは自分に正直に生きてください。わたし達と同じ過ちを繰り返さないでください。わたしと園生は、あなたとは住んでいる世界が違います。だから、もう二度と会うことはないでしょう。 だから、これはわたしがあなたに贈る最後の言葉です。心の隅にでも留めておいていただければ幸いです」新川さんの言葉から、なぜか深い悲しみが感じられる。その様子から、新川さんの真実の心の言葉なのだとわかった。「……はい」わたしの返答を聞いて、新川さんはニコッと笑顔を見せると、そのまま踵を返して振り返ることなく目の前から立ち去って行った。横で様子を見ていた藤原が、新川さんが見えなくなったのを確認してから、「ふっ」と小さく笑った。 何が起こったのかわからない。だが、ドッと疲れを感じて、小さくため息をつく。早く帰って、今日はもうベッドに横になろう。「じゃあ、僕は帰るよ」「待て」家路への道を一歩踏み出したわたしを、藤原が呼び止める。「何?」うんざりしながらも、わたしは藤原の方を振り返る。「九曜はいるのか?」「え?」「周防九曜はいるのかと聞いてるんだ!」なんをそんなに怒ってるんだと思いつつ、なんとなく文句を言うのもめんどくさい気がしたので、おとなしく従うことにした。「九曜さん」わたしが名前を呼ぶと、地面にうつった影に瞳が現れ、瞬く間に目の前に九曜さんが立っていた。それを確認した藤原が、「よし、じゃあ行くぞ」「ちょっ、な、なに言ってるの!?」まるで、自分に着いて来いと言わんばかりに、説明もなく藤原はわたしの家とは反対の方向に歩きだした。なんで、わたしの周囲にいる男ってこんな変わった人間ばかりなのかしら。自分勝手で、我儘で、人の気持ちに鈍感で…… 「いったいどこに行くつもり?」「朝比奈みくるのいるところ、この事件の黒幕のいるところだ」「え、ええ!?」驚きの声をあげずにはいられなかった。朝比奈さんの居場所を既に把握していたなんて。いきなりの展開についていけなくなる。まるで大学の講義の最中に、いきなり面接官が入ってきて、就職面接が始まったような気分だ。 キョンに想いを伝えることができず、途方に暮れて、このまま家に帰るだけと思っていたので、まったくなんの覚悟もできていない。もちろん、朝比奈さんに会って聞きたいことはたくさんあるのだが、頭の中が混乱して…… しばらく頭の中を整理しながら、無言で藤原の後ろを歩いていた。「朝比奈さん、どうしてこんなことをしたのかしら」心に思っていたことが、ついうっかり声に出てしまう。藤原は、歩みを止めることなく、首だけを回してわたしの方を見た。答えは聞かなくてもわかっている。キョンが原因だ。そんなことはずっと前から想像がついていた。 だが、藤原の答えはわたしの想像を超えるものだった。「お前は……、本当に朝比奈みくるが犯人だと思っているのか?」「え? は?」咄嗟に、藤原の言った言葉の意味が理解できなかった。藤原は、わたしの様子を見ながら、呆れたようにため息をつく。「犯人は朝比奈みくるじゃない」「じゃあ、いったい……」藤原は、わたしから目をそらし、前を向く。「今回の事件は、涼宮ハルヒの心の隙に、朝倉涼子がとり憑いたことから始まった。朝倉涼子にとり憑かれた涼宮ハルヒは世界を滅ぼそうとして、そのことを古泉一樹に感づかれた」 そして、そのまま歩きながら今回の事件の概要を説明し始めた。「朝倉涼子を止めるためには北高に行って、情報統合思念体を完全に消滅させねばならない。だが、北高は涼宮ハルヒの世界改変によって、誰も、天蓋領域さえも、近づけない、観測すらできない不可侵の空間と化していた」 「…………」「そして、この世界に誰一人として、北高があのまま放置されていることを疑問に思う者すらいなかった。北高が廃墟になったことすら知らなかった者もいるぐらいだからな。それほどまでに、涼宮ハルヒの世界改変は完璧だった」 走馬灯のように、いままでの状況が目に浮かぶ。確かに、誰かが北高を訪れれば、涼宮さんの死体が発見されて、キョンといっしょにいるのが涼宮さんではなく長門さんだとばれてしまう。そのために涼宮さんは…… 「だが、この世界でたった一人だけ、世界の崩壊を予測するとともに、その原因が北高にあり、北高への侵入方法すらも知っている人間がいた」「そいつが真犯人?」わたしの言葉に藤原はうなずく。いつの間にかわたし達は、長門さんの住んでいたマンションの前まで来ていることに気づいた。「涼宮ハルヒの世界改変が発動する前まで時間移動し、そこから北高へと向かい、そのまま現代へと戻る。それが不可侵の領域となった北高へと侵入する唯一のルート。つまり犯人は……」 だんだんと藤原の声が凄みを帯びてきたように感じた。思わず唾を呑みこみ、藤原の言葉を待つ。「僕達に時間移動をするように仕向けた人物」エレベーターに乗り込みながら考える。わたし達が時間移動をする事を提案したのは……わたし自身? え!? どういうこと?藤原の顔を一瞥する。藤原もこちらの様子を確認していた。なぜか背筋がゾクっとするような感覚を覚える。いまいる場所は……せまいエレベーターの中。どこにも逃げ場はない。 「ま、まさか……僕が……犯人だと思って……るの?」そういえば、涼宮さんも喜緑さんも、犯人は女性らしきことを言っていた。ま……さか……エレベーターのドアが開くとともに、藤原がふっふっと笑いだす。「よく考えてみろ。お前はどうして時間移動などということを思いついたんだ?」「それは……たしか……」思い出す。キョンに時間移動のことを提案しに行く前……藤原にそれを頼みに行く前……愕然となる。まさか、犯人は……「バカな! だって……」「普段の奴の姿からは想像できない、とでも言いたいのか? 奴も工作員の一員なんだ。自分を偽って見せることぐらいわけないさ」そう言いながら、こちらに顔を向けることなく藤原は708号室のドアを開けた。かつて、長門さんが住んでいた部屋だ。「こんなことになるなんて……、わたしは、わたしは、キョンくんといっしょにいたかっただけなのに……それだけなのに……」泣き声ともおぼしき悲痛な声が聞こえる。聞き覚えのある声。朝比奈さんの声だ。「いまさら後悔しても遅いわ。それに心配することないですよ。どうやら上手くいったようだから。世界の崩壊は免れたわ。まあどの道、あなたはあたしの奴隷に変わりないですけどね」 嘘だ……まさか……聞き覚えのあるこの声の主は…………部屋の中に入ると、朝比奈さんが部屋の片隅でめそめそと泣いていた。そして、部屋の主としてそこにいたのは……「橘……さん……?」「そろそろ来る頃だと思っていましたわ」驚愕するわたしを前にして、橘さんはいつもと同じように素敵な笑顔で微笑んだ。いままではなんとも思わなかったその笑顔が、いまはとても不気味なものに思える。言葉を失ったわたしに代わって、藤原が尋ねた。 「今回の事件の首謀者はお前だな」「そうよ」静かに詰め寄る藤原に、橘さんは悪びれた様子もなく答えた。いつもの橘さんが目の前にいた。あのドジっ娘で、元気が空回りして、ちょっとお茶目な……まさか、それがすべて演技だっただなんて信じられない! ずっといっしょにいたはずなのに、同性では一番の友達とすら思っていたのに……「どうして……?」いままで見知った世界が崩壊するようなショックを受けて、頭の中が真っ白になりながらも、ようやくたった一言だけ橘さんに問いかけることができた。わたしの当然の疑問に、橘さんは可愛らしく首を少しかしげるポーズを見せた。 「世界の安寧のためでですよ。最初に佐々木さんにお会いした時にも説明したはずですわ」「仲間や友人を犠牲にしてまでか!」初めて見るかもしれない憤る藤原を前に、橘さんはあくまで普段わたし達に見せる態度を崩さない。「当然ですぅ~、世界の安寧のためには多少の犠牲は厭いませんわ。『佐々木さんを神にして世界に安寧をもたらす』その目的のために、あたしは両親を犠牲にし、機関を裏切り、組織の同胞を殺害し、 朝比奈みくるを利用し、喜緑江美里・朝倉涼子を騙し、古泉一樹・涼宮ハルヒ・長門有希を謀殺したんです。すべては……この世界を……守るために…………」目の前の演技じみた橘さんの態度が、だんだんと狂気を帯びたもののように見えて、うすら寒いような感覚に身震いがした。彼女の眼は長門さんよりも、九曜さんよりも、無機質なものに思えた。 「だって、危なっかしいでしょ。涼宮さんや長門さんのような感情に左右されるような存在が、この世界を滅ぼすほどの能力を持っているなんて。だからあたしは考えたのです。涼宮ハルヒと情報統合思念体の存在をこの世界から消してしまおうと。 情報統合思念体が地球を去るのと引き換えに、涼宮ハルヒの身柄を引き渡すように喜緑江美里と話をつけたのはあたしなのです。でも、いつかまた、情報統合御思念体が地球に戻ってくるかもしれないって思ったから、朝比奈みくるを使って、涼宮さんにあの兵器を渡したの。涼宮さんと情報統合思念体、双方を相撃ちにさせるためにね」 「…………」まるで、良いことをした子供が褒めてもらおうと両親の前で話すように、得意げに謀略を説明する橘さん。見た目と話の内容のギャップにとても言葉が出ない。どうしてこんな凄惨な計画を、そんな風に嬉々として話すことができるのだろうか。 「計画は上手くいったと思ったわ。戻ってきた長門さんにはほとんど能力が残されてなかったし……でも、朝倉涼子が涼宮ハルヒにとり憑いて事態は一変したのよ。瞬く間に世界の危機が訪れた。無責任よね、涼宮さんも。自分が望んだことなのに、その結果、彼の傍に長門さんがいることに嫉妬するなんて」 「そんなことは予め予測できたことだろ」「そうね。でも、そんな涼宮さんが世界を滅ぼす能力を持つなんて危険でしょ。そんな弱い心の持ち主だから、朝倉涼子なんかに隙をつかれたわけですよ。おかげで、その後の対応には苦慮したのです」 あたかも、今回の事件の原因が涼宮さんにあるかのような言い方に思わず反論する。「当り前じゃないか! 涼宮さんはキョンのことを誰よりも好きだったのだから」『おやっ』というような表情をこちらに向ける橘さん。「大きな力を持つ者には、それに応じた責務が課されるの。彼女たちには感情なんかには左右されない強い心を持つ責任があったわ。それができなかったから、あたしがこの世界から彼女たちを消去したのよ」 わたしの目を見る橘さんの眼差しを見て、背筋がゾクっとした。いままで体験したあらゆる恐怖とは異質のおぞましさを橘さんから感じる。無機質な恐怖とでも形容すればよいだろうか。 たった二十年ちょっとしか生きてない、それほど人生経験を積んだわけでもない、わたしにさえもわかる。彼女はもうすでに壊れているのだと。もしかしたら、わたしと会ったときからすでに壊れていたのかも…… 『きっと彼女も、小さな頃からそういう仕打ちを受けてきているはずです』ふと、さっき会った新川さんの言葉が頭に浮かんだ。彼女とは橘さんのことだったのか! つまり、新川さんは、もしかしたら森さんも、知っていたんだ。真犯人が橘さんだということを…… 「では、お前には彼女たちを消去する資格があったというのか?」静かな声で橘さんに問いかける藤原。「もちろんよ。あたしは神の領域に立っているわ。あたしの心は何ものにも左右されることはない」「そうか……、よくわかったよ。僕とお前が…………決して理解し合えないということが!!」言い終わると同時に、藤原がどこから取り出したのかわからない光線銃を橘さんに向ける。それよりも早く、橘さんは藤原の懐に飛び込み突きを喰らわせた。藤原の身体が背後に吹っ飛ぶ。 倒れた藤原の姿を一瞥した後、橘さんはゆっくりとこちらを振り向いて笑顔で言った。「佐々木さんなら、あたしのことを理解してくれますよね?」思わず後ずさりする。あの日、朝倉さんにとり憑かれた涼宮さんと対峙したとき以上の恐怖がわたしを襲う。いままでにない恐怖に負けて、首肯してしまいそうになる。微かに震えている自分に気づく。 ふと、わたしを見る橘さんの瞳の奥に、なぜか哀願のような、すがるようなものを感じた。違和感、なぜこんなものを彼女から感じるのか? 彼女は、自分が誰よりも強く正しいと自負しているのではないのか? いったいなぜ? そうか……彼女は心のどこかでは気づいているんだ。自分が間違っていると。だが、いままでの犠牲があまりにも大きすぎて、それを認めることができないでいる。だったら、彼女に答えるべき回答はただ一つ。 「橘さん、キミは間違っている。わたしはキミの友人として、間違ったキミを叱らねばならない。間違った道を歩む、キミを止めなければならない」勇気を振り絞り、できるだけはっきりとした声で、精一杯毅然とした態度で、橘さんに告げる。「はっはっはっ、滑稽だな、橘京子」よろよろと立ち上がりながら藤原が大きな声で言った。「長門有希は最期、人の心を得ることで、進化のカギを見つけたと感謝して消えて逝った。それに比べてお前のしていることはなんだ。人に生まれたくせに、人の心を捨て去って神の領域に立つ? 無様もいいところだ」 茫然とし、焦点の定まらない目でこちらを見ながら、橘さんは壊れたテープレコーダーのようにわたしに告げた。「残念ね、佐々木さん。あなたなら……あたしを理解してくれると思っていたのに、あなたは……あたしと同じ神の領域に立っていると信じていたのに……」「橘京子」わたしと橘さんの間に九曜さんが割り込んだ。「ひとつ聞きたい」「なぁに?」「あなたは、たとえそれが誰であったとしても、世界の安寧のためになら、その存在を消去し抹殺することを厭わないの?」普段とは違う口調の九曜さんに、わたしや藤原、橘さんは、一瞬だけ、奇異なものを見る視線を向けた。「当然よ。今日はいやに流暢にしゃべるわね、九曜さん」「それが、同じ苦楽をともにした仲間である、わたしや藤原であっても?」「当り前じゃない」「あなたの無二の親友である佐々木さんであっても?」「くどいわね、あたしの感情はそんなことに左右されないわ」「そう…………」この後、誰も橘さんでさえも、予期せぬことが起こった。「この世界の安寧を最も脅かしている存在は…………、あなた自身だとは考えなかったのかしら!!」そう言い放った九曜さんの声が、いや姿さえもが、一瞬だけ涼宮さんの姿にダブって見えたのだ。部屋にいた全員が、朝比奈さんさえもが、驚愕の表情で九曜さんに視線を集中する。 パン直後に、九曜さんがいつの間にか構えていた銃からタイヤのパンクしたような音がして、驚愕の表情のまま橘さんの身体が背後にすっ飛んだ。そしてそのまま壁に頭を打ちつけ、壁に血糊をつけながらずるずると驚いた表情のまま沈んでいく。 沈黙「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁ!!」目の前で起こったことに理解が追いつき、朝比奈さんが恐怖のあまり叫んだ。「落ちつけ! 朝比奈みくる!」咄嗟に藤原が朝比奈さんの下に駆け寄り肩を抱く。だが、朝比奈さんはパニック状態でじたばたと暴れ、喚いていた。「た、助けて!!」「落ち着いて! みくる姉ちゃん!!」藤原が朝比奈さんを抱きしめる。藤原の言葉に朝比奈さんはびっくりして動きが止まった。「え!? まさか……!」「そう、僕だよ、みくる姉ちゃん! お姉ちゃんを連れ戻しに、この時間平面までやってきたんだ」「そ、そんな……」「帰ろう、僕といっしょに……」「……できない、できないわ! だって、わたしは…………」「大丈夫! 僕も証言台に立つよ。そしてもう一度、罪を償ってやり直すんだ。僕も……協力するから…………」「あ、あ、あ……、わああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ」藤原の言葉に安心したのか、感極まったのか、朝比奈さんはそのまま声をあげて泣きだした。藤原は朝比奈さんを抱きしめたまま、顔だけをこちらに向ける。「僕たちはこのままお暇するよ。森や新川に見つからないうちにな。あまり役には立たなかったが、協力してくれたことにはいちおう礼を言っておこう。だが、お前はそれでいいのか?」 「え?」「奴は今日の正午の列車に乗る。規定事項だ。お前はどうするんだ? 橘京子と同じように、神の領域を目指すのか?」「…………」「まあ、お前の人生だ。好きに生きればいいさ」最後まで悪態をついて、藤原は目の前からスッと煙のようにいなくなった。急に静けさが戻ったような気がして、わたしは九曜さんの方を見て小さくため息をつく。「だって……、どうしよっか……」「――――――わたしは――観測する――――だけ……決めるのは――――――あなた――」そう言うと、九曜さんは優しい微笑みを残して、目の前から姿を消した。ふと周囲を見回すと、いつのまにか部屋の中にあった家具も調度品も橘さんの死体もなく、がらんどうの部屋に、たったひとりポツンと立ちつくしていることに気づいた。 まるで、いままで目の前で起きたことが、すべて夢であったかのように…………腕時計で時間を確認する。午前十一時。ここからなら、正午までには十分駅にたどり着ける時間だ。部屋から出て、エレベーターで一階まで下り、玄関から外に出ると、空はどこまでも青く澄みきって雲ひとつなかった。 あれこれ考えるのはもうやめよう。いまからキョンにわたしの想いを告白しに行く。その結果がどうであろうと後悔はしない。たとえ卑怯だと後ろ指を指されても、滑稽だと笑われても構わない。それがわたしの正義だと思うから。 強い決意を胸に秘め、わたしは駅への道を駆けだした。 ~終わり~
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