ラスト・ダンス
気付けば、宙を舞っていた。点滅するネオンサイン。群れを成す高層ビルが織りなす光の横断幕。闇にいっそう存在を誇示する煌びやかな無機物たち。その上空に、わたしはいた。前後の覚えはない。わたしは浮遊していた。暗闇の中、地に足をつけているのと変わりない、危うさのない姿勢で下界を見おろしていた。空は風が強かった。幾度も北西からの夜風に煽られ、下衣が捲れ、髪が乱れた。……わたしは、それでもそこにいた。自覚がある。こんな吹きさらしで、誰かを待っている。
やがて、瞬きの先にわたしは待ち人を見た。
「やあ」暢気と言い表すのが適当に思える、笑みを含む声は、何処からともなく舞い上がった光から放たれる。空を遊泳する紅の神秘の魚。太陽を縮めてミニチュアにしたかのような、激しい熱を迸らせながら。芯の部分は驚くほど透明な、赤くまるい光。古泉一樹、とわたしは呼んだ。はい、と彼は応じた。
「奇遇ですね」のんびりと彼は言った。紅球は周囲の環境に左右されることはないらしい。風にも靡かず、揺るがず、泰然と浮かんでいる。空を我が物顔で飛び交う鳥たちと同じように、異質なものであるはずの光を風景に馴染ませている。空には赤い光が飛ぶのが当たり前、そんな認識の構築を行いそうになるほど。程よい現実味のなさを、リアリティの演出に利用する脚本の書き方を思い出した。その話を蘊蓄の一環としてわたしに話して聞かせたのは、目の前の彼であったような気がする。
「こんな夜更けに鉢合わせが叶うとは。これは幸先がいいですね。長門さんは、夜の散歩ですか」答えようがない。待っていた、恐らくはあなたを。だが、理由がない。この釈然としない胸中を、余すところなく相手に伝え理解を求めるのは、わたしには不可能に思われた。沈黙にも機嫌を損ねる風もなく、光は旋回する。「今晩は、生憎、天体観測には向きませんね」赤い光の軌道に沿って、わたしは上空から更に上空を見やる。雲が障壁となって、星はおろか、月の端すら望めない曇り空。今日の空は明るさが不足している。だが、人は空の明るさなど気にも留めていないだろう。街並みは無数の光を振りまいている。昨日も今日も、その光量は変わらず。「予定では満月でした。あの密雲が晴れ間を見せてくれたら、いい月見が出来そうだったのですが」少々勿体ない心持ちがしますね、と古泉一樹が言う。「そう」、とわたしは呟く。
満月を観賞したいなら、また一月を待てばいい。しかし、彼の言いたいことがその様な意味でないことは、わたしにも分かった。二人で。闇を従えた静寂の空で、待ち合わせたかのように出逢って。そこでふと見上げた空が、満ち足りた月であるからこそ、意味がある。
「長門さん」冗談めかしたように、古泉一樹がわたしの前をふらりと舞って、告げた。彼が人型だったら、きっと掌をこちらに向けて、優雅にウインクをひとつ決めていただろう。「Shall we dance?」わたしは、手を取る代わりに、人差し指を赤い光に触れさせた。 光は踊る。蝋燭の火の揺らめきが残すような影を、もといた場所に残像のように落としながら、赤い球は空を跳ねる。楽しげに、ひらりくるりと思うまま彼は舞い、わたしをリードする。わたしは古泉一樹の後を追うようにステップを踏む。BGMのない、月明かりのスポットライトもない、夜の舞踏会。爪先立ちに一回転。指は熱に触れ合って、また離れて。暖かな余韻が冷める前に、再び指は光と絡みあう。わたしに息が切れる、という状態はない。だが、わたしは、倒れ伏すまで踊り狂う誰かの物語を肌に感じた。その熱狂と、想いが分かる。終わらせたくない。叶うなら踊り続けたい。全ての思考をかなぐり捨てて、何もない身軽な姿で。情熱のタンゴを。艶やかなワルツを。リズムに乗って笑いあえるようなフォックストロットを。当て所もなく、永遠にここで舞踏を願う脚に任せていたい。だが――それはわたしの欲であり、古泉一樹の欲ではない。幻想のダンスは長くも一瞬。赤い光が舞うのをやめたとき、わたしは言葉に出来ない焦慮にかられた。しかしわたしがこれ以上をせがむことが、わたしの我意であることは分かっていた。神秘的なダンス会場は、冷たく重い夜空に戻る。作られた光は地上に溢れているのに、天からは何ももたらされない。ただ、静穏。赤い光は、ゆっくりと降下し、わたしの手元に身をとどめた。わたしは標準的な膨らみの風船ほどの大きさをした赤い球を手中にし、その表層から発される熱を受け取って、無言で膚を温める。古泉一樹はくすぐったそうに僅かに身じろいだが、すぐに大人しくなった。光が華やかに明度を増す。 「ありがとうございます。とても楽しかった」「……」「いつまでもあなたと踊っていたかったのですが、さすがに潮時のようです。このままでは、夜が明けてしまう」優しい笑みが見えるようだった。穏やかな言葉遣いは、古泉一樹の常。決して他者を不快にさせないよう、雰囲気を大切にするときは、切り上げの挨拶さえオブラートに包む。今はまだ空が白むような時刻ではないから、古泉一樹がそれを言うのは、つまり、終わらせるときが訪れたのだということ。わたしは何かを口にしなければならないような疼きに苛まれ、わたしは彼の袖を引き留めたい、発生源を突き止められない衝動に襲われ、 「……そう」 どうにか発したのは、それだけの言葉。 「おやすみなさい、長門さん」「おやすみなさい」「……今夜は、よく眠れそうです」最後に、泣いているような、そんな声。わたしの手のなかで、光はみるみる小さくなる。 わたしはそれが消えないように掌の中に包もうとして、ぱちん。
電子音が響いていた。 普段の途切れ途切れの音ではなく、一音をひらたく伸ばした、甲高い機械があげる悲鳴のような音だった。わたしは目覚めた。ベッドに顔をうつ伏せにしていた。 心臓を脅かすような不快な音は病室内で鳴り止まず、わたしは面を上げるまでもなく、彼の最期を知った。 その表情をすぐに確かめる勇気はなく、わたしは顔を伏せたまま、握っていた彼の掌に温もりを探す。年を経て、皺だらけになって、かさついた手。彼がベッドに縛り付けられてからの眠りは長かった。もう、一年以上になる。毎日欠かさず見舞いに立ち寄った。変化はなかった。来る日も来る日も。彼が饒舌にわたしの料理を誉めそやすことはなく、彼はもう空を見て星を指さすことすらなく、わたしはいつかには既に、終わりを知っていた。早く休みたかったのか。引き延ばすことを選んだわたしを、もしかしたら彼は悲しんだのかもしれない。 ――わたしは夢を見ない。そもそも夢を見るものとして、わたしは作られていない。だから今見たものは、彼が今際に命を振り絞って生み出した、独りきりになるわたしのための再会であったのだとわたしは信じた。……その機会さえ、わたしは上手く振る舞えなかったけれど。わたしはいつも、彼に伝えられない。未熟な個体だった。わたしは幾つ年を重ねても変わらない。見目も、搭載する機能も、心のなかみも。だというのに、それでいいと彼は柔らかく、わたしに頷く。ただ傍にあれただけで良かったと。救われたのは同じ。幸福であったのも同じ。あなたとの日々、わたしはただのわたしとなり、繋いだ手に焦がれ、あらゆる世界を愛しんだ。たった数十年、永遠のような数十年。あいしていた。 彼ら皆を順に失った今、孤独はわたしの隣にあった。だが、これから先、朝比奈みくるに会うまで。わたしは生きていかなければならない。わたしは耐え忍んだ声を、噛み締めきれずに零した。 「一樹」 溜め込み続けた言葉は、堰が切られる瞬間を待っていた。涙はない。古泉有希は、今、泣くべきではない。 「ありがとう。……わたしも、とても、楽しかった」 いつかまた踊りに行こう。今度は月が綺麗に見える夜に。わたしはそっと顔を上げ、彼の永久の寝顔を覗き見る。古泉一樹は、笑っていた。
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