泡沫
ある夏の日の事だ。アスファルトの照り返しと柔らかな陽炎の絶妙なマッチに、暑さへの殺意なんて物騒な物を覚えつつ、登校していたのは僕だけではないはずだ。もちろん学校に着いたところで暑さが和らぐなんて都合の良い事は起こらないが、昇降口は思いの外涼しい。今までの苦労が報われたような気がして少し気分がよかった。まあ、しかしこれから教室に向かえば、確実に今まで以上の暑さとの対決だ。僕は心の中でやれやれと溜息をついて、上履きをいつもより強く踏みつけた。そんな、暑い日の事。放課後までの間、涼宮さんが喜ぶような特殊な出来ごとに遭遇することもなく、僕は部室に向かう。授業はいつもどおり少々退屈で、この気候の中行われた体育のおかげで強大になった、眠気との戦いだった。正直、世界史の間の記憶がない。先生には本当に申し訳ないと思う。いつも通り扉をノックするが、返事が無い。多分中にいるのは長門さんだけなのだろうと見当をつけて、僕は静かに扉を開いた。「どうもこんにちは、長門さん。いつもお早いです………ね?」けれども、そこで待っていた客人はヒトガタですらなかった。少年の時分に夢中になった昆虫図鑑の片隅に載っていた。一目見てすぐにわかる。「―――蜉蝣だ」ふらふらと頼りなく飛ぶ。透ける羽を揺らしながら。なぜこんな所にいるのだろう。蜉蝣、なんて。窓を開けてそれを外に追いやろうとするが、一向に出て行く気配が無い。親切でやっていると言うのに。ならば勝手にしろと、僕は椅子に腰掛けて虫を注視した。心地よい風が髪を揺らし、部屋が快適になる。僕は、昨日閉鎖空間がでて寝不足だった事もあり。羽音の調べを子守歌として、いつの間にか夢の世界へと旅立っていた。その夢で、僕はまだ産まれていなかった。暗闇の中、意識だけがはっきりとしていた。土に包まれているような、暖かな感覚。水の中にいるような、柔らかな感覚。手を伸ばしてみると、世界が破れて。束の間の光。何があったか覚えていられないほどに、短くて眩しい生。そうして僕は、また死んだ。ふっ、と体が浮き上がる感覚。何の前触れもなく、目が覚めた。寝起きでうまく働かない頭を、ゆっくりと振る。多分、夢を見ていた。蜉蝣と自らを重ねた、自虐的でヒロイズムに満ちた夢。いい気分とは、言い難かった。「おはよう」「……いらしてたんですか。おはようございます、長門さん」長門さんは読書に戻り、無音の時間が流れる。気まずくは無い。長門さんと、部室ではいつもどおりにと、協定を結んでいるから。僕と長門さんの付き合いは、実はちょっとだけ他の人より長かったりする。そして、知らない内に。ぼくはかのじょに恋していたりも、する。打ち明けようとは思えないけれども。毎夜毎夜、押し寄せる激情の波に流されそうになっているのも確か。胸まで何かがつまって。息が止まりそうに苦しい。まるで、先程の蜉蝣のように。散りそうなこの思いを、僕は必死でつなぎ止めているのだ。なぜならそれは。何処にも還る場所を持たない。「疲れている?」「いいえ、それほどでは」長門さんに悟られてはいないだろうか。彼女が僕の気持ちに気付いていたら、なんて他愛ない想像。気付いていてくれたらどれだけ楽か、そんな風に思うのだ。彼女の言葉はまるで、夜の海に撒かれた夜光虫のように。旅人である僕を、導く。その行き着く先が何処であれ、僕は後悔などできなくて。青い道標は、常に僕を恋と言う名の甘美な罪に浸してくれる。そのうすぼんやりとしたひかりに、てをのばすことなどできやしない。ただ、ぼくはほかのだれもそれにふれないように。這い蹲ってもついていくと、決めている。長門さんは考えに耽っている僕を見て、疲れていると勘違いをしたのか心配の色を声に滲ませた。「昨日は大変だった?」「いえ、長門さんが来てくれたおかげで助かりましたよ」僕はくすりと笑って、自嘲するかのように言う。「貴女達の援護は僕ら地球人から見れば、桁違いに大きな力なんです。おかげで僕は――」あなたとのきょりを、つうかんした。「五体満足で、また学校に来られました」僕は、あなたに踊らされている。分かってはいるけれど、歩み寄らずにはいられないのだ。足下なんて見やしない。ただただ前に進むだけ。辿り着いた先に貴女がいるなんて保証、誰もしてくれないけれど。触れる前に、腐ってしまうかもしれないけれど。でも今はあなただけいれば進んでいける。「先程の蜉蝣」「……あぁ、死んじゃいましたか?」ゆっくりと、彼女は首を振る。「あれは、お使い」「……へ?」間の抜けた顔をしていただろうな。恥ずかしい。僕は感情をなるべく隠して、長門さんに聞いた。「お使い、とはどういった事でしょうか?」「あれは、情報統合思念体から送られたデータ。原因不明のエラーで通常の形で受信出来ない。だから、蜉蝣と呼ばれる虫に、データの姿を変えて、極めて原始的な手段で通信をしている」「そうだったんですか……」長門さんは、少しだけ困ったように首を傾げました。「何故、安堵するの?」「……蜉蝣がどんな虫か、ご存じですか?」「――わからない」これは、知ってはいるけど僕の言わんとする事が理解出来ない、の意。……伊達に超能力者やってませんよ。「恋をするためだけに、大人になるんです」「……虫なのに?」そう、だけれども。虫だからこそ、だと僕は思う。「はい、そうなんです。蜉蝣は、成虫になってから一日で死んでしまいますが、 その一日で自分の相手を探し出して子孫を残します。水も飲まず、餌も採らずに――――」そんな恋に憬れるなんて。まるで少女のよう。自分でも分かっているんだ。キャラじゃない、なんて。「蜉蝣の産卵は、水中で行われます。そしてその場で死んでしまう。一日だけの寿命、ここで終えるよりは水辺で恋人との方がいいのではないか、と思っていたんです」――――――良かったです、と、彼は笑う。優しい人。私は知っている。この人の病的なまでの優しさを。虫にさえ、感情移入して。私でさえ、ないがしろにしなくて。誰にでも平等に向けられる、その優しさが憎くて、痛くて。だから私は、わざとこの人を困らせる。「それは、本能ではないの?何故、恋などと言う言葉で喩えられる?理解出来ない」そう、わからない。私は、この数多のエラーを理解出来ない。「そうですか?……なら、まだ長門さんには早かったかも知れませんね」私は幾千もの、泡沫のように消えて行く感情を。彼へではなく、空へ向けて放つ。答えを求めて、何かを探して。とん、と頭に手を置かれる感覚。父親のような慈愛に満ちた表情で、彼は私を見つめていた。「もう少ししたら、わかると思いますよ」「……そう」まだ飛んでいる蜉蝣の羽に、燦々と降り注ぐ太陽の光が反射して。もしかしたらその綺麗すぎる煌めきは。僕から、貴女への。私から、貴方への。届けば良いと思う、なにがしかの想いなのかも。僕は、こんな気持ちを教えてくれた長門さんに感謝している。苦しいけど、幸せだから。私はこのエラーを、幸せと言う感情にカテゴライズした。でも、胸が苦しい。幸せな、はず。なのに、どんどん肥大するエラー。見えない何かに締め付けられているよう。けれど、焼けて爛れて焦がされた、僕らの心の奥底は、急きたて誘い、騒ぐのだ。伝えれば、楽になる?伝えれば、楽になる。けれども、僕らはまだこのまま。黙って笑って維持してる。どうか、咎めないで。あなたに恋してる、だけだから。もう少しだけ。せめて、彼女がもう少しだけ落ち着いたら。想いに現を抜かしても、夢であなたに会う事も。しんと眠りにつく事さえも、許されると。しんじさせてください。こいは、ざいあくではないと。さらさらと光の粉に変わり行く蜉蝣を見ながら、そんな事を思う。ある、夏の日。真っ白な雲が綺麗な、晴れた午後の事。恋心が小さく交錯した、日常。
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