ヒーローの末路
がしゃん、と大きな音が部室に響いた。文字で満たされたプールに泳いでいた視線を、音源に移す。彼は、息を荒げて肩を怒らせ、机を蹴り倒したのが古泉一樹であったかのように睨んでいた。その視線は、薄々見え始めていた終焉が今だと錯覚させるほどには凶悪だった。 「もうこんな所いてもしょうがねぇ。帰るぞ」 うんざりだ、飽き飽きだ、と彼は叫び、物に当たり散らす。 「俺には世界なんか守ってやる義務はない。いい加減解放してくれないか!」「……まぁ、そう言わずに」 落ち着いてください、と喋りだすのは超能力者。マネキンのような無意味で無機質の笑みを貼り付けて、芝居のように話し始めた。 「僕がこんな事を頼むのは筋違いかもしれません。けれど、個人的にも涼宮さんには幸せになって欲しいと心から願っています。 ……そして、彼女が幸福の実現のために望むのは、あなたです」 あなたと言う三音節を口に出す一瞬だけ、その笑顔が歪んだのを見逃してあげられなかった。 「世界の平和などではなく、どうか彼女の幸せを守ってあげてください。僕達がお願いしているのは、徹頭徹尾それなのです」 恋人も世界も守ってしまえるなんて、まるでヒーローだ!超能力者は腕を広げ、ここが舞台であるかのように高らかに歌い上げる。その態度が気に障るようで、彼は眉を少し顰めた。 「そういうならお前、変われ。俺よりお前の方がずっと適役じゃないか」「……何をおっしゃってるんですか。涼宮さんが選んだのは」「ほら、出来ないんだろ?人様に頼るなら、もっと言い方があるはずじゃないかと俺は思うがね」 自分が圧倒的に有利な立場にある事を知っている者の台詞だった。彼には似合わないその言葉は、それでも素直に部室に染み込んでいった。いつからだっただろう。常に皆のことを考えてくれていた彼が、自己中心的で、傲慢になってしまったのは。いつからだろう。その光景が毎日の日常のようになってしまったのは。 「なぁ、俺だってハルヒに隠し事をし続けるのは辛いんだ。分かってくれよ、古泉」 そう言って、舐めるような目付で古泉一樹を見る彼。何の色も映していない、魚のような目だった。 「……いくらですか?」「これくらいかな」「最近、多いですよ」 昔は、そんな顔をしていなかった。いつでももっと柔らかな顔をしていたのに。触れれば砕けてしまいそうな表情を、私は悲しく思った。 「そんな言い方、俺が何もしてないみたいじゃないか。世界を守るのに必要なものなんだから、気持ち良く出してくれないか?大体、お前だってバイト代くらい貰ってるんだろう」 「……えぇ、そうですね。あなたは、“普通の人”だから。ご苦労をお掛けします」 実際彼は、涼宮ハルヒのために尽力している。唯一普通であるがために、皆が彼に嘘を吐かせるのに。知られてはならぬと言う鎖で縛られながら、友人であった彼女と溝を作ってしまいながら、いつだって彼は涼宮ハルヒに誠実でいた。悪役と言うには、あまりに優しく普通だと思う。彼は、私たちよりずっと演技が上手だった。 「世界を救うヒーローに金を無心した事があるなんて、お笑い草だな」子供が生まれたら話してやろうなんて嘲笑う彼は、どんなに目を凝らしても排除すべき敵にしか見えなかった。「願わくば、その母親が神の少女である事を」そう言って、超能力者も笑顔になる。その笑顔は単なる笑顔と呼ぶには、些か沈澱した不純物が多過ぎるように思う。二人の男は、悪意を胸に秘めて笑っていた。あるいは、口の端をつり上げていた。そこにはすでに、ヒーローなどはいなかった。私は、変わってしまった二人を見ていた。涼宮ハルヒの周囲へ及ぼす影響を測るための観察対象として。また今日も、日は落ちた。異常なしと、報告する時間だった。*****「……っ、バカ!もう知らない!」「好きにしろ、ワガママ女」彼女が泣いている。それは、世界が泣いていると言う事だ。大きくいっぱいに浮かぶ涙が、今にも零れそうに揺れている。古泉くんの携帯が小さく震え続けている音が、いやに虚しかった。「もう二度とこんなところには来ない。私物は全部くれてやる」「……どうでもいいわ。とっとと行きなさいよ」「ようやく奢りが無くなると考えると清々する。次来る奴も遅刻魔だといいな、涼宮」ドアが力強く閉じ、大きな音を立てる。思わず小さく身震いをして、彼の行ってしまった方を見ていた。「……僕、ちょっと行ってきます」「いいわよ、あんな奴どうでも」嘘の下手な女だ。いや、それもまた計算だろうか。彼女の周りを包むオーラは、どう取っても絶望であった。古泉くんは一瞬だけ迷ってから涼宮さんに微笑み、長門さんにちらりと視線を送った。多分、後を頼んだとかそんな感じの。そしてキョンくんに追いつかんと、小走りで部室を出て行った。「……本当に、あなたは良いの?」「言ったでしょ、どうでもいいの」「で、でも、涼宮さんっ!喧嘩なんて……」「うるさいわ」「……す、涼宮さんっ」「いい加減にッ……!」ふっと目に怒りが点り、拳が高々と上がった。私はその光景を知っていた。殴られるんだと、特に感慨もなく思った。目も閉じられなかった。けれど、その手首を止めたのは長門さんの細腕だった。「あなたのそれは八つ当たり。冷静になって」「有希……。でも、でも……だってキョンが!」キョンがキョンがキョンが。子供のように喚く彼女を睨み付けたい気持ちを必死で押さえ付ける。殺意さえ、感じていた。誰のせいだと迸りそうになる言葉を堪えて、ただじっと俯いていた。こうしていれば、まるで純粋無垢な少女に見えると教えてくれた上司たち。今頃彼らはどうしているのだろうか?既定事項どおり、と笑っているのか。規定事項が終わらないと嘆いているのだろうか。私は涼宮ハルヒを宥める宇宙人を伏目がちに見つめながら、人から見れば泣き顔に見えるように顔を歪めた。私はいつだって、呼吸をするように人を騙してきた。そこにあったのは悪意などではない。任務に対して忠実たれという、純然たる本能が私を動かしていた。そのとき、自分でも笑えるくらいに、醜い泣き顔をしていた事に気付いた。*****日は高く、センチメンタルな気分と裏腹にきれいに晴れ上がる空。ああ、なんて決まらない別れのシーンだろうか。だが俺みたいな最低野郎には、こんな間抜けな最後がお似合いさ。「なぁ、古泉」追いついて来た古泉を横目に見ながら、彼に対して呼び掛ける。息を乱すそいつを眺めながら、俺はハルヒをどれだけ好きだったかという事を思い返していた。「っ……なんでしょうか?」息切れを隠しつつ答える様すら、イケメンだ。名も知らぬ誰かの机に腰掛けて、本当に久しぶりに普通の会話を始めた。「お前、団が解散したらどうする?」「は……?」「SOS団が解散したら、お前はどうなるんだ?と言っている」金をせびり取る以外で話すのは、随分と長らくなかった事だ。こんな話し方で良かっただろうかと考えながら、俺は過去を悔恨する。他のどんな奴よりもハルヒを愛している、幸せにしてやれる。そんなふうに自惚れていた時期があったと。誰にも負けないと、真面目にそう考えていた事もあったと。「帰るのか?元いた場所に」「……いいえ、恐らくそうはしません」少なくとも、僕の意思では。そう言って、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔をあげる。いつもどおりの、殴りたくなるほど端整なツラ。対する俺の、泣きそうなくらいよくある顔。並んでいるのが恥ずかしくなるくらい、違っていた。更に言うなら、劣っていた。だから、俺は決めた。「ずっとハルヒの側に、いるんだろう?」「……そうですね」俺はハルヒが好きだ。古泉だって大事な仲間だ。本当は、ずっと思っていたんだ。ハルヒに取っての、ヒーローはあいつなんじゃないのかと。「なら、なんの心配もない。俺がいつまでもあそこにいるわけにはいかないんだ」「……何を、言っているんですか?」今までずっと、勘違いをしていた。ハルヒと俺は、扉と鍵。切り離せる関係ではないと。「ハルヒに幸せになって欲しいんだ」「だったら何故!」「分かれよ。そのぐらい」鍵なんて、扉に挿しっ放しじゃ意味がない。錠を開けたその後は、ポケットにしまわなければ危なっかしいだろう。分かってくれ。俺は、もうここに居てはならないんだ。そのためにアイツや古泉に嫌われるのは、だいぶ堪えたけれど。それに俺じゃ、ハルヒと釣り合わない。眠り姫は、本当のヒーローと幸せになるべきだ。朝を共に迎えるのが、名も無き村人Aと一緒だなんてお前には耐えられないだろ、ハルヒ?「……あなたは、涼宮さんがいない日々に耐えられるのですか?」「あぁ、むしろ楽になるな」耐えてみせるさ。立派にな。「団の事など、どうでもいいとお考えですか?」「まあ、ハルヒが望むのは凡人じゃないしな」「彼女の性格はご存じでしょう。離れてしまったらそう簡単には……」「今までが近過ぎたんだ。多少遠くならなきゃ意味がない」「あなたが居ないと、涼宮さんが駄目になってしまう!」「大丈夫だろう。いつまでも俺に頼っている状態の方がよくない」ハルヒには、お前が付いててくれるだろう?一人にしないでやってくれよな。「朝比奈さんも、長門さんだって、あなたがいなければ……」「朝比奈さんはああ見えてしっかりしてるよ、大丈夫だ。長門は言わずもがなだろう?だいぶお前とも仲良くなったし、心配する事ない」「――――僕だって、寂しいです」「知った事か。野郎の心配なんかしないぞ、普通」このままではみんな、と整った顔を歪めて言う。皮肉な事に、こいつの化けの皮を剥がすのは俺からの裏切りだった。なんと戯言めいた事か、と思った。(そうして、おひめさまとおうじさまはむすばれ、しあわせなひびをすごしました。むらびとは、てをたたいてよろこびました)そんな日々を、望んだだけなのに。*****この人は諦めたのだ、と僕は悟った。きっと、世界を操れる立場に居る重責に耐え切れなくて。皆と共にある事を。彼女と共に歩む事を。傍観する事に決めたのだろう。指を咥えて眺め、何かがあれば誰かが守ってくれると高を括って。心など動かさないと。手も足も、口さえも汚さないと。僕が、これまで。身を呈して守ってきた世界はそんなに安いものではないのに。ならば、それならば。もうあなたのことなど、知りません。勝手になさい。二度と、あなたのことなど気にかけたりしない。僕は、あなたに変わって世界を救う。救い、守り、そして飽きたら――――。捨ててしまえば良いんだ、あなたのように。ヒーローになりたいと願った事、数え切れないほどたくさんあった。その思いを糧に、僕はあなたを憎み続ける。絶対に、許すものか。あなたを超えよう。涼宮ハルヒを幸せにする。してみせる。*****――そうだ、これだけは言わなければならない。と、声が重なる。未来人が、宇宙人が、超能力者が、神が。そして、凡人が。嘘を、紡ぐ。*****「私は、キョンなんかどうでもいいの!出て行くなりなんなり、好きにしたらいいじゃない!」あんな奴いなくったって、全然構わないわ!――そんな、悲しい嘘。「なら……、私だって帰ります。キョンくんがいないなら、こんな所いたくないです」みんな一緒じゃなきゃ、嫌なんです。――なんて、隠し通す本当。「…………………」沈黙。それによって語られる真実。――それが、一番の言葉。「わかりました。ならば僕が、あなたの代わりになりましょう」僭越ながら、と微笑む仮面、握る拳は震えてて。――あなたを、信じてたのに。「ハルヒに伝えとけ。俺はお前なんか大嫌いだったってな」真顔で紡ぐ堅い嘘。けれどもそれは、落とせば割れる陶器のように。――好きだ、好きだ、好きだ。本音は闇に落とされて。でも、それが割れる音なんて、誰も聞かなかった。物語は進む。何もなかったかのように、いつもどおりの日々を刻む。乗り越えられなかった壁を避けたという当たり前の事をしただけなのに、彼らは決定的な何かを無くしてしまった。それは運命だったのかもしれない。或いは、少女の小さな願いだったのかもしれない。どちらにしても、針は左に回らない。決して神の力などではなく、皆の弱さが紡いだ道筋。誰をどうして責められよう?狂った道筋は変えられない。濁った流れに逆らう力を、皆無くしてしまった。そして、月日は流れる。余りにも淡々と、まるである種の大河のように。*****かつての仲間たちは、みな在るべき場所に帰った。それが正しい事だったのかは、私にはわからないし、知る必要もない。観察以外の目的や命令は、瑣末な問題でしかないのだから。その形は心地よく、各々に取って最も行動しやすいそれであったが、別にベストである必要性は皆無だ。大事なのは、世界が、つまり涼宮ハルヒが安定している事。その言葉は、逃げでしかないとわかっているけど。彼が聞いたら一生懸命に諭してくれるだろうけど。あの人はその後、一度も私たちの前に姿を表さなかった。それを古泉一樹は逃げたと思っている。彼の考え方を否定するつもりはない。それでも、友人の事を一番に思い、彼なりに行動した結果を逃亡と言うほどに私は子供ではない。彼は全てを、真正面から受け止めていたように思うのだ。ただの大人が、どうしてヒーローを責められようか。あなたの帰りを待つヒロインでもなく、あなたを助ける仲間でもない、私。憧れた、子供時代さえ終わってしまった。あの時預かった機関のお金は、全てご祝儀に回すつもり。最後まで迷惑を掛けるな、と小さく笑った彼の顔がふとした瞬間にフラッシュバックする事があった。あまりに印象的だったから。封筒を苦々しげに見つめる目は、決意に満ちていた。一か月後、涼宮ハルヒは古泉一樹と結婚式を執り行う。ごくごく内輪の、静かな式だ。そこに、あなたはいないのだろう。きっと、朝比奈みくるさえいない。美しい時代は全て過ぎ去ってしまったのだ。忘却の彼方へ、優しさの向こうへ。ならば私は語り継ごう。いつか生まれる彼女の子へと、昔話を淡々と。次に生まれるその子ぐらい、意地など張らずに生きるべき。どうか、ヒーローを殺してしまう事のないように。かつての私達の愚行を繰り返してしまう事のないように。「その英雄は、幸せでした。けれどその幸せは、少しだけ悲しい幸せです。私はあなたに、間違っていなくても、悲しい結果になってしまう事だってあるんだと伝えたい。その英雄が、私達の前に現れないのは、逃げているのでも恐れているのでもなく、私達の中の何かが、彼を殺してしまったからだと」いつだって優しかった彼なら、これくらいは許してくれるはず。封をした手紙を、彼の家に投函。あなたの望んだ通りの結果だと。あなたが願ったハッピーエンドが、ようやく訪れたのだと。筆を止めた瞬間に流れた塩からい水。私はまだ、これの名を知らない。
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