Goddess Knows... - Chapter III
~ the first person : from the girl ~
喧騒とは無縁の静かで音の無い世界。 雪の中歩いていると私の期待通りに、前方に彼の姿があった。「ねぇ、」 彼を呼ぶ私の声だけが響いた。 道路は見えなくなる向こうのほうまで真っ白に覆われて、鼠色の雲が宙を染めていた。 木々に覆われた山も綿帽子を被っていた。 雪のおかげでやや乾燥が薄れ気味なのは幸いと言えるのかしら。「もしかして、有希だと思った?」 私の足音に反応した彼に訊ねた。 そしてそんな彼を私は一瞬、心の片隅で憎んだ。「ねぇ、どうなの? ちょっとは思った?」 コートのポケットに手を突っ込んで立っていたキョンは、私の姿を確認するように見つめると微かに笑った。「思わなかった、といえば嘘になるかもな」 久しぶりに聴く彼の声が私の鼓膜を振るわせた。 数年ぶりに彼を聴いて私に言いようのない感慨が訪れた。 雪を踏む音が聞こえたときは思わず声を掛けそうになった、と彼は溜息を吐いた。 それを聞いて私は、少しだけ寂しく、それでも笑った。 キョンが誰を期待したのか――私には痛いほど分かっていた。「やっぱり? そっか……でもそうかもしれないわね」 マフラーで少し顔の下半分を隠して、雪の上を踏みしめるように静かに歩んだ。 私の瞳に映ったキョンの横顔は、何かを憂いでいるように見えた。 キョンが口を開くと、白い息が現れた。「なぁ、ハルヒ。何年ぶりかな、こうして逢うのは」 私は見かけ空を仰いで考え込む仕草をしてから答えた。「そうね……五年、以上はとっくに過ぎてるわね」 キョンが懐かしむ表情をする。「そうか。……長いこと逢っていなかったんだな」 五年――長すぎる。「……言われてみればそうね」 心にもないことを私は答えた。 さむっ。 両腕を擦って、白い息で手袋をした両手を温めた。「雪、ね……」「雪、だな――」 この街に雪が降ってそれが積もることはとても珍しいことで、この辺りだと二、三年に一度、少し雪が降ればいいほうだった。 今こうやって雪が降っていること。 それが私がこの場所にやって来た理由なのかもしれない。 それは私自身にもはっきりと答えられるものじゃなかった。 あの日も雪が降っていた。 さっき以上の勢いと量で。 視界を舞い荒れる雪が覆って、空は黒色以外の何色でもなかった。 それはまるで怒った天が起こした、雪の嵐みたいだった。 今はそれに白色を多く混ぜた薄い灰色をした雲が世界を覆っていた。 ただただ、ふわふわと舞う小さな雪の結晶がキラキラと輝いていた。 この場所が少し山のほうだからか、大雪の警報が出たからか、人は誰一人としていなかった。 するとさっきから私のほうを覗き見ていたキョンが、突然訊いてきた。「その髪、伸ばしてるのか?」 その質問は何故か私の心を激しく揺さぶった。 どうしてなの? とにかく気づかれちゃいけない――そう思って私は驚いたふりをした。「へぇ、あんたもそういうトコ、気付くようになったんだ」 感嘆の雰囲気を声音に滲ませて。 でもそれだけは本音。 ――それだけキョンも成長したということ?「それだけ、大人になったってことさ。……何か恥ずかしいな、この台詞」 キョンは顔を顰めて小さく嗤った。 私もキョンにあわせて、一緒に笑った。 それでも内心別に思っていることがあった。 ――どうしてあの時は気づいてくれなかったの? もう何もかも遅すぎるわ――。 私は一つ大きな溜息を吐いた。「そう、伸ばしてるの。色々吹っ切るためにもね」 そして少しだけ胸を反らす。 こんな自分が嫌い。 口ではそんなことを言いながらも私はこの場所にやって来てしまった。「そうなのか。……ん? じゃあ、そのカチューシャはどうするんだ。それは外すのか?」 キョンが私の頭を指差す。「何言ってるのよ、これは私のアピールポイントなのよ? そう易々とは外せないわ」「アピールポイントか。お前らしいよ、ハルヒ」 私の矛盾にキョンが気づいた様子はなかった。 ――やっぱりまだ分かってはいないのね。 振り切ったはずの過去……その意味を。 そのカチューシャはまるで未練の表れのように思えた。 キョンはまた小さく微笑むと、今度は眼の前の建物を見上げた。 私もまたキョンの動きに釣られてそれを見つめた。 その白い建物はあちこちに劣化があったけれど、今日は雪のおかげもあって白く輝いて見えた。 キョンは……見るからに普通の男の人だった。 だが彼の繰り返す疲れたような微笑みが歳月と苦労を匂わせるのは私の気のせいか。 この数年間、一体何があったんだろう。 私の頭の中はずっとそれで一杯だった。 電話すればよかった、ただそれだけの筈なのに。 吹っ切るという言葉に彼の反応は少し薄かった。 雪の勢いが少し治まった宙は、白く、でも純白じゃない曖昧な色になっていた。 ――まるで私のココロのよう。「妹さんはどう? 元気してる? もう二十歳は超えてるわよね」 沈黙を断ち切るため私はやっとの思いで質問を絞り出した。 取りあえず喋っていよう。 当たり障りのないことを。 私は質問を選んでいた。 それにキョンが気づいてるかは分からないけど。 キョンは乗ってきた。「あぁ、あいつか。相変わらず元気にやってるさ。……小学校のときはどうなるものかと不安だったが、今では俺よりもはっきりとした目標を持って人生を歩んでるさ」 「目標?」 夢じゃなくて?「確か動物関係の仕事だ。そのために大学まで選んでいたな。俺とはまるで違う」 私は小さく笑った。「確かにキョンとは大違いね。やっぱりそれって、シャミの影響なのかな」 彼は私と別の大学へと入った。 驚いたことに、自力で。 ――三年生のとき、私がキョンを教えた記憶は数えるほどしかなかった。「可能性は大いにあるな。何せあいつはシャミセンにべったりだったからな」 キョンが今日何回目かの懐かむ表情をした。 それほどキョンにとっては何もかもが昔なのかな。 私は意を決した。「ねぇ、シャミにさぁ……会いに行っても、いい?」 これはチャンスかもしれない。 キョンの家に行ける口実になる。 キョンは何故か逡巡しているようだった。 ――まさか。「シャミセンは……死んださ。一昨年ぐらいに」 そう告げたキョンの表情はそれほど悲嘆してなかった。 もう気持ちの整理はついているみたいだった。「そう……なの。知らなかったわ。……ごめん」 意識して声のトーンを下げる。「別に構わないさ。付け加えるとしたら、それもあって妹が余計動物に傾倒したってことぐらいだ」「そうなんだ」 私は溜息を吐いた。 冬になると、溜息までもが白かった。 この季節は嫌いじゃない。 でも自分の未練を視ることに嫌気がさす自分もいた。 普段は目に見えない吐息の流れが、この季節にはよく見える。 見えすぎるほどに儚く。 過ぎた年月はやっぱり戻せないもの。 もちろんキョンに気づかれないように私は嗤った。 キョンは高校生のときよりも遙かに大人びていた。 姿なんかがじゃなくて、その内側が。 私の中の彼は、誰かの容姿の違いを気づく人間ではなかった。 にも拘らず……私は変な想像をせざるをえなかった。 今のキョンは……そう、大人になっていた。 そしてキョンは私が彼の内側に触れることを拒んでいるように見えた。 彼の微笑が私を寄せつけない。 それ自体が防壁のように。 まるで――。 ……同時に私の中の矜持が彼にある質問をすることを拒み続けていた。 今のところキョンと、まともに面と向かってさえ話をしていないのもそのせい。 プライド? そんな簡単な割り切れるものじゃない。 もっと複雑なもの。 違うことを訊ねよう――その質問をするには私はやっぱり臆病すぎる。「ねぇ……古泉くんやみくるちゃんとは逢った?」 もしかしたら、彼にも無難に聞こえているのかもしれない。 私はあえて言葉を省いた。 でも多分今のキョンには伝わる。 私の質問にキョンは小さく笑った。「そうだな、古泉……とは最初の頃は連絡を取っていたりしたな……。朝比奈さんは、」 久しぶりだなこの名前、とキョンはまた――でもどこか寂しく――笑って、「お前と多分同じだ。質問しなくても分かるんじゃないのか?」「やっぱり? そうよね、もしかしたらとは思ったんだけど」 軽口に軽口でかえす。 この期に及んで私もまだ心を隠そうとする。「流石に俺も逢っていないぜ。……未来人には」 キョンは少し思案した表情をすると、寂しげに苦笑した。 もしかしたら……みくるちゃんを思い出していたのかもしれない。 朝比奈みくる――彼女は自分の正体を告げた後この時間、世界からその姿を消した。 多分、私はみくるちゃんの最後の表情を忘れない。「私もあってないわ。古泉くんは……ねぇ。機関のこともあったけど……もう三、四年くらい前かも」 それでもやっぱり残ったのはこの時間の人達だけね、と私は囁いた。 かつて無関係の人々達を巻き込み宇宙を脅かすほどだった私の力は、もうとっくに消えてしまっていた。 ……消えてしまったらしい。 自覚がないから仕方がないけれど。 当然のように私が付与したことになっている超能力者たちの特殊能力もとっくに失われていた。 それが彼らにとっては私の無力化の証明らしい。 もしかしたら――。 私には一つの仮説があった。 そしてその仮説は自分でもあまりに寂しすぎるものだった。 求心力――。 少し寒さが強くなった。 白いさっきまでの空もまた灰色のくぐもった色へと変わってきていた。 雪もわずかにその姿を大きくして降ってきていた。 私のコートの上に落ちた粉雪はすぐに融けて消えて、次から次へと雪が降ってきた。 少しだけ、時間が過ぎた。 どこか遠くで車のエンジン音がした。 キョンはどこか遠くを眺めている。 すぐさま私はその車が近づいてきていることに気づいた。 私達のいる道が少し明るくなったと思うと、その車は下のほうから現れた。 今時少し珍しいような真っ黒の車はそのまま進むと思いきや、私とキョンのちょうど間で綺麗に停まった。 もしかして――。 暫くの間私は口を小さく開けっぱなしだった。 慌てて自分の口元を隠す。 黒いガラス越しの運転手の横顔を私ははっきりと確認した。 しばらくして車のエンジンが止まると、その運転手がドアを開けて姿を現した。 ――やっぱり!「おい……まさか、だろ?」 キョンは半分にやけた表情でそう口にした。「ええ。そのまさか、でよろしいかと」 お久しぶりです、と車から降りてコートの皺を直した突然の来訪者は柔和な微笑で挨拶した。「貴方にも、もちろん同じくらい涼宮さんにも」「ホントに古泉くんなのね!」 急いで道を跨いで私は彼のもとへと駆け寄った。 もう、本当にこんなに嬉しいのは何年ぶりかしら。 古泉くんは随分と精悍な顔つきになっていた。「本当に久しぶりだな、古泉。一体何年ぶりだ?」「さぁ、どのくらいでしょう。七、八年くらいはお会いしていませんよね」 古泉くんは笑顔で返した。 彼はその間なかった交流には触れなかった。「かもしれないな。……まさかとは思うがその車、お前のか?」 すぐにキョンの興味は古泉くんの乗ってきた漆黒の車の方に向いていた。「ええ、間違いなく僕のです。自分で購入したんですよ。流石にローン、ですがね」「それだけでも、大違いだ。俺なんか高校出て取りあえず免許取ったペーパードライバーだ」 キョンの顔にはさっきまでとはまた違った笑いが現れていた。 多分……相当嬉しいんでしょうね。「ねぇ、何で今日ここに来たの? もしかして……監視とか?」 私が冗談半分で訊くと、古泉くんはいつも部室の中で保っていた変わらない苦笑をした。「いえいえ、機関は既に解体されています。僕一人じゃなんともできませんよ」 まるで、ねぇ、とでも言うように古泉くんはキョンのほうを見た。 キョンは胡乱な視線を彼に送り返す。 半信半疑、っぽい。「何となくです。この天気、ですから。彼が毎年ここにやってきているというのは知っていましたが」 うそ……。 まさか、キョン今でも――。 そういいながら宙を仰いだ古泉くんは、少し離れてこっちを見ているキョンの方に向き直った。 するとキョンはその視線から逃げるようにまた建物のほうを向いた。「良いだろう、個人の自由さ。……あぁ、今更なんでそんなことを知ってるかなんて訊かないぜ」「相変わらずの配慮、恐れ入ります」 古泉くんは彼にお辞儀をした。 私はそれが彼の演技だってことを知っている。 あのときとはまた別の。 でもその後の微笑んだ表情は古泉くんそのものだった。 キョンも冗談と分かっているみたいだった。 しかし今の彼らの会話は酷く私を動揺させた。 毎年、逢いに来ていたなんて。「でもさぁ、何で来たの?」 私は訊ねた。 思わず無意識のうちに。「涼宮さんがそれを訊かれるのですか?」 彼の眼は笑っていた。 あっ――。 まずい、多分すぐに動揺が出たみたい。 キョンがニヤニヤしている。 とりあえず誤魔化せるかしら。「な、何ニヤニヤしてるのよ、バカキョン!」 するとキョンはまたしても笑った。「まったく、相変わらずだなお前のその動揺っぷり。バレバレだ」 やっぱりバレたみたい。 もしかして、今のキョンにバレたのかしら……それとも――。 キョンが静かに笑っていた。 懐かしい、そう感じた。 彼の表情にまた私の心が動かされた。 私は今、あの頃にいたような感じがした。 まだ、SOS団があった頃の私……。 私も無意識に微笑んでいた。 今まるで高校生の頃のようだったわ、私はそう言おうとして止めた。 言わなくてもいいんじゃないのかな。 まるで降り続ける白雪が私の言葉を阻んだようだった。 そして世界にもとの静けさが戻った。 古泉くんがキョンのほうを見た後、私に視線を投げかけて、溜息をつきながら灰色に覆われた天を仰いだ。 手持ち無沙汰そうにしている古泉くんは、茫洋とした視線で建物を眺めていた。 その様子を見て私は思い出した。 もし……私が気付かなかったら彼らはどうするつもりだったんだろう。 少しの間言おうか迷っていると、閃いたことがあった。 多分あの頃の私ならしてたわ。 私はしゃがんで雪玉を作り始めた。 古泉くんがこっちを見ている。「それっ!」「ぐはっ!」 私の投げた雪玉は一直線に油断していたキョンの頭に当たった。「ナイスヒット」 古泉くんがぴゅうと口笛を一つ吹いた。「えいっ! やあっ! とうっ!」 呻いて後退るキョンに続けて三発投げ突ける。 さすが私、全部クリーンヒット。「お、おい、ちょっと待てって……くっ、仕返しだ!」 すかさずキョンが雪を拾って投げ返してきた。 それをいとも簡単によける私。 舌を覗かせる。 キョンが二弾目を投げた。「しまっ……た」「!」 弧を描いて古泉くんの肩にキョンの流れ弾が当たった。 あんたなんでまともに投げられないのよ。「宣戦布告もなしに奇襲攻撃とは……」 古泉くんは雪を払い落とし、「それでは、私も!」 すると今度は彼がキョンめがけて雪玉を投げた。 かろうじてキョンは横にステップを踏んで回避した。「ふっ、甘いな古泉。これぐらい、ぐほわぁ!」「ちっちっちっ。あんた気を取られすぎよ」 油断しすぎね、キョン。 私の放った雪玉はまたしても彼の顔の半分を覆った。 これなら余裕だわ。「くっ、ならば二連発!」「それっ!」 ああ、華麗によける私に惚れ惚れするわ。「あんたの玉が私に当たると思って、」 きゃっ! 突然眼の前が真っ白になった。「冷たい!」 雪を払い落としていると、「ナイスだ、古泉」「はて、何のことやら」 と言葉を交わす二人の声が聞こえた。 成る程、そういうことね。「うぬぬ……コラァ~、古泉くん!! ……こ~なったら、三つ巴戦争よ!」 キョンめがけてストレートを放つ。 極力私は高校生の頃に見えるよう努力した。「おい、古泉! お前も手伝え!」 私の玉を避けながら、キョンが古泉くんに助けを求めた。 喋りながらも投げてくるキョンの雪玉をかわして、今度は足元に投げる。 古泉くんが私の方を振り向いた後、微笑みながら頷いた。「わかりました!」「……って、おい古泉!」 一直線にキョンの手にぶつかる彼の雪玉。 そして振り向く彼の顔を思いっきり捉える二弾目。 さっすが、古泉くん。 分かってくれてるじゃない。 にこやかに微笑を浮かべて、「三つ巴、だそうですから」 と古泉くんは言いながら、さらにもう一発呆然のキョンの顔に投げて笑った。 取りあえずまずは、昔の私にでも戻しておこうかしら。 私は息を吸った。「こらぁ~、私も入れなさぁい!」 手始めに古泉くんの背中に雪玉を雨あられとぶつける。 キョンが私のほうを見てにやりと笑った。「それでは……」 古泉くんが私めがけて雪玉を投げた。 私達は暫くそうやって遊んでいた。 私は、見かけ、だけれど。 機関から解放された古泉くんは容赦なく雪玉を投げ続けていた。 ――私が機嫌を損ねても大丈夫だから? ――私がもう大人だから? お願い、早くその仮面を取って。 ……それから私達は雪玉を投げる速度を緩めて続けていた。 ただ遊んでいるだけ、という風に。 さぁ、気持ちを固めよう。 この雪玉合戦を始めた理由。 私は深呼吸をしてから、声が震えないように気をつけて2人に訊ねた。「ねぇ、キョンと古泉くん」 合間に雪玉を投げる。「何だ」「何でしょうか」 異口同音の返事を二人がした。 ああ、本当にこれでいいのかしら――。 ……もう迷っていられないから。 声音の雰囲気を意識してあげる。「もしさぁ……私が気がつかなかったら、」 あの時に――。「二人はずっと……」 あの時の古泉くんの表情――。「……本当のこと、黙ってた?」 古泉くんの飛ばした雪玉が、揺れてちょうど道の真ん中の辺りに落ちた。 コントロールが狂ったようだ。「どうなのかなぁって、思って」 雪玉を投げ続けることで私の外の表情を遮る。 顔色一つ変えないように緩やかに投げ続ける私。 ああ、こんな自分が嫌になる。 吐きそうになる。 心底、叫び喚きたくなる。 全てを吐き出したい――。 でも――。 ……それを私が許さないジレンマ。 困惑が一瞬現れた古泉くんはすぐに取り直して雪玉を私に投げ返した。 キョンも苦悶の表情を浮かべながら道路に積もっている銀白の雪を掬うと、丸めて私に向かって飛ばした。 二人は暫くそうやって遠くに雪玉を投げ続けていた。 空の色がますます暗くくぐもった色に変わりつつあった。 古泉くんの考えは相変わらず読めない。 あの時からずっと彼の心の中は分からなかった。 彼の存在を初めて見つけたときから。 私の伸ばす手を彼はいつも跳ね除けていた。 優しく微笑みながら――。 キョンの表情は困惑しきっていた。 やっぱり驚いているわよね。 でも私を遠ざけるのは同じ――。 雪の粒がさっきより大きくなった。「ねぇ、どうなの?」 声を真剣なものに変えてもう一度訊ねた。 今度は雪玉を投げ続けていた両腕も身体の横に戻して。 二人も私の声で気づいたかのように動きを止めると少し目配せした。 古泉くんが肩を竦める。 二人の間のやり取りは私には全然判らなかった。 ――でもようやく話してもらえる。 古泉くんは咳払いをすると私と真正面に向き合った。「正直言いましょう、涼宮さん。どちらか分からない、などとは誤魔化しません。彼はともかく、」 彼はジェスチャーでキョンを示したあと、自分自身を指し示した。 ――心の準備が一歩間に合わなかった。「少なくとも私には涼宮さんに真実を告げるつもりはありませんでした」 思わず眼を見開く。 うそ――。 生唾が喉を通っていった。 古泉くんが鋭く突き刺すような視線を送る。 少しの間気づかないうちに古泉くんをずっと見つめていた。 私の心は激しく動揺していた。 気を取り直して――。「……キョンは?」 少し声が掠れた。 古泉くんの台詞を聞いて、キョンもかなり驚いている様子だった。 キョンは瞳を私に向けなおすと静かに喋った。「俺は……古泉とは違う。いつか明かせる日が来るはず、そう……信じていた」 後半はどこか遠い口調でキョンは言った。 古泉くんは瞼を閉じて腕を組んでいる。 彼の役割って一体――。「……そう」 どうやって信じろと?『嘘よ!』 そう叫びたかった。 心の底から否定したかった。 喚きたくて堪らなかった。 私の心が激しく葛藤していた。 それが言えたら、どんなに楽か。 でも私には無理。 どうして? それは……未練という名の潔さのない自分。 それは私がとっくに気づいてでもひた隠しにする弱さ。 今の彼の言葉は、それが本当なのか嘘なのか全然区別がつかなかった。 高校生のときとは勝手が違うことに今更のように気づいた。「どうして秘密のままなの? 古泉くん」 それでも、答えて欲しい。 そう願って、彼を見据えて、問いかける。 また返答に長い沈黙があった。 鋭く身体を芯まで凍らすような山颪が斜面を駆け下りる。 古泉くんはその冷たさにも身じろぎ一つせずゆっくりと天を見上げて、長く息を吐いた。 そして私を見つめた。「それは……この自分は決して『鍵』たる存在ではないからです」「えっ……」 透き通った彼の声が直に私の心を揺さぶり始めた。 えっ、えっ、どういうこと――。「私は彼の存在にはなりえません。ただ答えを導く者達の一人というだけです」 そして彼の悲しい真意に私は気づいた。 彼の瞳は温かく見守るようで――そして透き通っていた。「なによそれ――」 思わず嗚咽がこぼれてしまう。「貴方に全てを打ち明けるのは、この私が奪う役目ではない。この意味がお分かりですか?」「そんなの……答えになって、ないじゃない」 涙が溜まってきた。 泣いちゃダメ――。 だって今まで我慢してきたんだから。「かもしれませんね」 ――そんな、私だったんだ……。 変わっていなかったのは。 分かっていなかったのは。 人の気持ちを理解できていなかったのは。 コートの袖で眼元を拭った。 だって……そんなこと、一言も言わなかったじゃない。 何で――。「ですが、私にとっては答えとしてそれで充分なんです。……これ以上ないほどに」 微笑を顔に浮かべた彼はゆっくりと歩き始め、眼の前の白く輝く――北校の門の前でその歩みを止めた。 止まらず降り続ける雪が彼を包んだ。 そして一人、天に向かって話しはじめた。「今、この世界は大きな閉鎖空間の中にあります」 広げた両腕で世界を覆うように彼は大きな声で喋った。「ご存知でしたか? この世界を覆い尽くすほどのとてつもなく巨大な閉鎖空間が今、構築されていることに。そして面白いことですが、確かにその中でも時の針は止まらず進み続けているのです」 何が言いたいの――。 おかしい。 頭の中の何かが叫んでいる。 ――大事なコト?「ですが、この世界に未来はありません。あのときからずっと――何故でしょうか。我々が望んだはずの、そして苦労して繋げたはずの世界は、未来は……この閉鎖空間で包まれた世界には訪れないのです」 まさか――。「それは、この世界に存在するはずの『神』とその心の扉を開くことの出来る『鍵』。その二つの存在がこの空間を、この時間を、この世界を閉ざしてしまっているからです」 今になって私は彼が背負い続けた宿命に気づいた。 気づいてあげられた。 今の彼の言葉は巧みに比喩によって紡がれている。 それ以上、聞けない。 古泉くんは構わずその弁舌を振るい続ける。 ああ、私の心が痛む。「ですが、超能力者はそれを認めません。お分かりですね。……そう、閉鎖空間の拡大を許した世界はいずれ破滅を迎えるからです」 そして言い切ると、私達のほうを改めて振り返った。 もう彼の言うことの真意は確実に私に届いていた。「もちろん私もそれを認めません。昔、私は言ったことがあります。この世界に愛着があると。今のこのかけがえのない世界が好きだと。だからこそそれを……神様と救世主のわがままで終わらせたくないんです」 ワガママ。 そう、たったそれだけのことなのかもしれない。 私を見つめる彼の瞳はとても優しかった。 顔を向けると、私を見ていたキョンと視線が合う。「幸か不幸か、今我々を閉じ込めているこの閉鎖空間は何故か、その拡大をあと一歩のところで止めています」 彼の声は意識して作られたもの。 そして古泉くんが再び歩き始めた。「幕は……お粗末ながらこの私が引きましょう。結末は……お二人でお決めください」 私は思わずコートの端を握り締めていた。 それは私の耳に高校生の頃に掴めなかった真実とともに伝わっていた。「心から僕は……この世界の平穏を願っています。――それでは、また逢う日まで」 彼の手は既に車のドアを掴んでいた。 さようなら、と彼は囁くように言うと自分の身を車のシートにあずけて、すぐに車を発進させた。 まるで彼の未練を感じさせない勢いで車はこの場を離れて行った。 私は彼の音が聞こえなくなるまでずっと佇んでいた。 空を覆う雲が降らす雪は優しく、軽やかに、そして白く輝いている。 ――もうこんな雪は見れないかもね。 古泉くんがまるで言い聞かせるように独白する中、彼はずっと私からその眼をそらしていた。 誰一人として誰かと眼をあわせようとしなかった。 ――声を掛けようか。 いや、待つべきなのか。 『彼』はその役目を担う人間だと古泉くんは言った。 鍵だから。 正直言って分からない。 キョンが本当に『鍵』だったのか、私なんかが『神』だったのか。 私の忠実なしもべは神のワガママを諌めた。 それだけのことなのかもしれない。 そして私は、流れるようにして現れた真っ白い空気を捉えた。「ねぇ、キョン」 私の言葉にキョンの肩がぴくりと震えた。 溜息を吐く。 どうしたらいいの――。「……有希に逢いに来たのね?」「!」「何そんなに驚いてるの……。そう、よね。だって毎年この日に、この場所に来てるんでしょ?」 ――もういいわ。 私の不意打ち気味の言葉にキョンは黙ったまま正直に反応した。「やっぱりね」 そう呟くと一緒に吐息が漏れた。 キョンとは眼をあわさず雪を見つめる。 情報統合思念体の端末、私の望んだ宇宙人。 長門有希――キョンは彼女を気にしている。 違う……。 彼女が好き。 本当に? 分からない。 ――本当は分かっている。 ただそれを彼に言ってもらいたいだけ。 周りに求めるだけ――。「……ここにくれば、長門に逢えそうな気がしてな。しかも今年はこの――あの時以来の大雪だ。今年は何かあるんじゃないか……そう、思ってな」 私と同じことを彼は考えていた。 ただ誰と逢えるかが違うだけ。 彼は有希。 私は彼に逢えると思った。 窓の外から見える真っ白い街を眺めて私は確信した。「だからずっと、待っていたのね」 キョンは答えなかった。 ただ北校の校舎のほうを眺めたまま。 有希がその姿を消した場所。 私達の始まりと終わりの場所。 やっぱり――。「そう……なんだ。……ねぇ、キョン?」 キョンはずっと待っていた。 まるで私がなんと言うのか分かっているみたいに――。 悔しい。「有希のこと……好き?」 自分に言い聞かせてみる。 ただ確かめるだけ。 そう、ステップなのだと。 キョンは朴念仁。 そうどこかで思ってたりしてた。 それは高校生の頃だけのこと。 もう今は通用しない。 私は敢えて時制をはっきりさせなかった。 今のことなのか過去のことなのか。 ――今でもなのか。 お願い、答えて。 じゃないと私が――「その質問、果たして俺はどう答えるべきなんだろうか」 それでも私は彼の言葉を待った。 ――そして私は、「……いいえ、って答えることは嫌いって意味だろ? だったら、」「誤魔化さないで!」 自分のものとは到底思えない叫び声が響き渡った。 睨まれたキョンは悔悟の表情をした。 ――どうしてなの、キョン? 握り締める掌に力がこもる。 ――吐き出せ!「何で! いつも、いつもそう! 何でキョンはそんなに身勝手なのよ!」 もう抑えきれない、私の不の感情。 それは爆発的な勢いで溢れ出てきてた。「身勝手で、一度も私の質問に真面目に答えたことなんてないじゃない! なのに……それなのにいつも私に押しつける!」 ――キョンに喋らせない。「ずっと私に押しつけてたわ! あれこれ言うくせに、くせに……一度も私のことを解った例がないじゃない! いつも! 自分を貶めた言葉で自分を守ろうとする! 有希もみくるちゃんも古泉くんも皆、私との間に心の壁を創ってた。でもね……キョンだって、そうだったわ!」 止められない。 涙が溢れ出てくる。 彼が苦悶の表情を浮かべた。「私に気づいてくれない! 私の心を解かろうとしない! 私を助けようとしない!」 私に思いを打ち明けない!―― ――私を抱きしめてくれない!「……大人になって、いつからキョンは古泉くんみたいに言葉を並べるようになったの?」「おい、それは古泉への侮辱じゃないか!」 無様ね、キョン。 彼は険しい眼をして私を指差した。 ……もっと否定しないといけないことがあるでしょ!!「……そうだったわね。……古泉くんのことは謝る。でも今……キョンは自分のことは否定しなかったわ。やっぱり思ってるんだわ! 遮ろうとしないで! 謝らないで!」 喚き叫び、限界に来ている身体を今はただ私の自尊心だけが支えていた。 負けられないのよ! 何で慰めてくれないのよ。 どうして、はっきり違うって言ってくれないのよ! 頬を溢れんばかりの涙が伝い、雪の上に流れ落ちていく。「ずっと、ずっと、ずっと! 私だけが一人ぼっちだった! 私だけが取り残されていた! 私のいないところでずっと……私が望んだ世界が、動いていた! なんで……なんでなのよ!」 ――拭っちゃだめ! 私はフッと視線を落とした。「さっき古泉くんが言ったときね、私、本当にびっくりした。まさか永久に今の全てが秘密のままだったかもしれないって思ったら、背筋が凍りついたわ」 そして彼を睨み返す。 もうキョンの顔すらぼやけているのに。「キョンだって! ……曖昧な返事しかしない! いつも最大公約数のような希望論しか答えない!」「違う! 俺は初めから思っていた! 全部話せる、真実が明かせる日がくればいいって!」 遅いわよ――。「……残念だけどね、キョンの言葉だってもう信じられないわ。だっていつも、キョンと古泉くんは私から遠ざかっていた。そして古泉くんの後がキョンの言葉よ。……信じろって言うほうがどうかしてるわ!」 どうして、どうして、どうして! あの時からずっと自問自答を私は繰り返した。 何で私を遠ざけるのよ! キョンが反射的に宙を見上げる。 違うわ、ここは閉鎖空間なんかじゃないわよ。「もう……ほんとに嫌、こんな世界。大キライ! 私なんか大嫌い! ……いっそのことこの世界が終わってくれればいいのに。古泉くんだって、そう言ってたわ」「そんなことは古泉は望んでいない」 まるで呻くような声で彼が呟く。 それを聞いて私は嘲るように嗤った。「はぁ……まるで、あのときみたいね。他に全然音がしなくて、世界が灰色に覆われてて…………叫ぶ私達だけで。あのとき私は言ったわ。こっちの世界のほうがいいって。何とかなるかも、って」 ――そんなはずがない。 それを一番私が分かっていた。「それは……間違っている」 キョンが辛そうに呟く。 それを視てもう一度嗤う。「そう? そんなことは誰にも分からないわ。超能力者達にも、無論私にだってね。……ねぇ、私の力って本当にもう消えたの?」 キョンは黙ったまま俯いていた。「そうよね。キョンに分かるはずはないわ。でも多分……本当にもう無い。そんな気がする。あぁ残念。今、心の底からこの世界を壊したいって思うわ」 あは、あはははははははは―――― 自暴自棄になってきた。「これね、皆が恐れてたことって。私が力に気づいちゃいけない。当然だわ。だって私……本当に世界を壊しそう。古泉くんには申し訳ないけど、想い叶えられそうにないわ。みくるちゃんにも謝らないといけないわね」 「ハルヒ……」 ――どうしてなのよ……「有希も、みくるちゃんも、古泉くんもみんな私の前から居なくなっちゃった。そして結局そのままバッドエンドみたいね。誰の願いも叶わないまま……」「ハルヒ!」「なによ!」 視界と意識が突然鮮やかになる。 キョンが私の肩を掴んで激しく揺さぶった。「そんなことを言うな! そんなことをお前が! 言うなよ!」「どうして!」 至近距離にある彼の顔を精一杯の力を込めて睨み返す。 また涙が溜まる。「お前は……知らないからだ! あいつらが……お前の周りにいた皆がどれほど……お前のことを思っていたかをだ!」「!」 彼の言葉に私の両目が見開かれる。「あいつらは――SOS団は、一度たりともお前を疑ったことはない! 全員が、お前に関わる全ての人々がお前を信頼し、お前が決して悲しむことがないように、この世界を、この世界のままであり続けさせたようと全力を振り絞ったんだ!」 違うわ!「なによ! どうやってそれを分かれって言うの! 今だって、私に押しつけているだけ。あの時どんな思いで私が――有希を護ろうとしたかキョン達に分かるの! 無理よ! 想いは伝えてこそ初めて分かり合えるのよ!」 だから、私はSOS団の団員誰とも分かりあえなかったのよ!「分からないでしょ!」「だったら、何故分かろうとしないんだ!」「だからそれはキョンがよ!」 あぁ、もう涙が止まらない――。「じゃあ、俺達が、世界が破滅するかもしれない瞬間にどんな思いで――決断したか分かるのか! 今、お前に伝える! 俺達は、全員がお前を信頼していた! 心から、ちらとも疑わずにだ! お前に全てを預けた、だからこその――」 私の視線ははっきりとキョンを見据えていた。 そして――。
「だからこその! ハルヒ! 俺は! お前が好きだ!!」
誰が世界を創り、壊すのか。 その資格を持ちそれを使命として背負うものは誰なのか誰にも分からない。 けれど。 それを彼が背負うものであることを誰にも否定は出来ない。 なぜなら、この私は世界の望む『神』なのだから。 そして彼は『鍵』なのだから。 私達の役割に本当にあったこと。 それは創世であって、破壊なんかじゃない。 私は彼の言葉を待った。「なぁ、ハルヒ」 キョンの声が直に聴こえる。「俺は……お前のことが、好きだ。出会ったときから、今でも、変わらず」 あぁ、ようやく聞けたのかもしれない。 あの時から欲しくてたまらなかった言葉を。 そしてSOS団が解散してからずっと私が伝えたかった言葉を。「なによ、今更そんなこと……」 口が私の意に反してそう呟く。 素直になれない自分が哀れに思える。 二律背反する私の心。 ――そして油断していた。「だから俺が、お前の心の扉を開いてやる」「えっ……!」「大好きだ」「!」 ――俯きすぎだ、ハルヒ。 多分キョンはそう言ったのだろう。 驚いて上げた私の唇に彼はそのまま自分の唇を重ねあわした。 ちょっ、ちょっと……待って。 彼はキスをすると同時にその瞼を閉じ、肩にそっと腕を回した。 この冷たさの中、キョンと触れ合う部分が熱くなっていく。 ようやく――。「私もよ」 静かに唇を離してそう呟いてから、私のほうからそっと触れ合わせる。 息が止まりそうになるほど永く。 多分この幸せを私は忘れない。 ――ありがとう。
そして静かに雪を降らす雲に覆われたこの宙の天辺がひび割れた。
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