神の領域 第二章
数日後朝、ハルヒと二人で少し遅い朝食を食べていると、けたたましい電子音が鳴り響いた。「なんだ、なんだ、こんな朝っぱらから、いったい誰だ」よっこいしょと立ち上がって、ハンガーにかけられている上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示された電話番号を確認する。「誰?」「古泉だ」さわやかな朝のひと時を邪魔されたハルヒも少し不機嫌そうに俺を眺めている。通話ボタンを押して受話器を耳に当てると、いつもの古泉の声が聞こえてきた。「朝早く申し訳ありません。もう少し経ってから連絡しようかと思ったのですが、僕のほうも少し焦りを感じているもので、迷惑とは思ったのですが電話させてもらいました」 「御託はいい、用件はなんだ?」「実は、アルバムを貸していただきたいのです。おそらく、涼宮さんが持っていると思われる、SOS団の設立時から僕たちが卒業するまでの写真を収めたアルバムです」 「SOS団のアルバム? そんなものがあるのか?」受話器を持ったままハルヒの方をチラッと見ると、ハルヒは「ああ、あれね」といった様子で立ち上がり、本棚の奥の方から立派な黒い革表紙のアルバムを取り出した。 「アルバムはあるが、どうするんだ?」「どうしましょうか? 僕があなたの部屋を訪ねてもいいのですが、涼宮さんとの仲むつましい愛の巣に部外者が土足で立ち入るのもなんですから、甲陽園駅前の公園で待ち合わせをしましょうか?」 「お前……」「いえいえ、冗談ですよ。それでは十時に公園でお待ちしてます」自分の用件だけ言って、こちらの都合も聞かずに電話を切ってしまった。口調こそ丁寧だが、対応の仕方はまるで少し前のハルヒのようだ。SOS団の中の常識人はやはり俺だけだったのかと、今になってつくづく思う。 「古泉くんが何の用?」「アルバムを貸してほしいってさ」「ふうん」憮然とした面持ちでアルバムを見つめるハルヒ。しばらくそうしていた後、ハルヒはアルバムを俺に差しだしてキッと睨みつけた。「言っとくけど、変なことに使っちゃダメよ! わかってるとは思うけど!」「それは古泉に言ってくれ。俺は関係ないんだから」「どうだか、この間の件もあるし」「だから、あれは……」「そんなことよりさっさとご飯を食べなさい。片付かないでしょ」将来は教育ママの素質十分だな等と考えながら、朝食の並べられているこたつ机の前に腰を下ろす。一応、今日の食器の後片付けの当番は俺なのだが……「あたしが代わりにやっとくから、あんたはさっさといってらっしゃい。た・だ・し……」「わかってるってば」ご飯の残った茶碗にお茶を注ぎ、大急ぎで朝食を終えた。「早く戻ってくるのよ。今日は昼から大学に行かなきゃならないんだから」ハルヒが二人分の食器を持って台所へと入っていくのを確認してから、上着を着て、光陽園駅前の公園へと向かう。アルバムが必要とは一体何の用事だ。いや、それ以前にこんなアルバムがあることを知らなかったぞ。なんで古泉は知ってたんだ。古泉が焦っているということは何か起こっているのか? まさか、この間の夢の件で何かわかったのだろうか? ぐるぐると頭の中をさまざまな思いが駆け巡る。そんなことを考えている内に目的地である甲陽園駅前の公園へたどり着いた。公園のどこで待ち合わせをするかまで決めていなかったが、古泉はすぐに見つかった。学生の頃、朝比奈さんに膝枕をしてもらったベンチに座っていたのだ。 「待たせたな」「いえ、時間どおりですよ」いつものように爽やかな笑顔をこちらに向けながら、軽く片手を上げて挨拶する古泉。「これでいいのか?」アルバムを差し出しながら、この間の話の進展をどうやって聞き出そうかと言葉を探していた。爽やかな笑顔を見ながら、得体のしれない不安がこみ上げる。「助かりました。ありがとうございます」「それで……、何かわかったのか?」問いかけに、無言で首を横に振る古泉の様子を見て、不安が安堵に変わる。ほっと胸を撫で下ろしながら、このまま何もなければいいのにと思っていると、古泉はアルバムに視線を落とし、ペラペラとめくりながら独り言のように現状をつぶやいた。 「今はあの頃の記憶をひとつひとつたどっているところです。僕もあの頃の写真を持っていたはずなのですが、北高があんな風になってしまったこともあって、どうやら消失してしまったようなんですよ」 「あんな風とは?」何気なく言った俺の一言に、古泉は驚きを隠さなかった。アルバムに落としていた視線を上げて、驚愕の表情で俺の顔を見た。な、なんだ、何かおかしなことを言ったのか? 「じょ、冗談で言っているのではないでしょうね?」「な、どういう意味だ?」まるで場違いな発言をしたお笑い芸人でも見るかのように俺を見る古泉の表情が不安を掻き立てる。空気を読んで発言しろと言われているように思えたが、さっぱり見当がつかないのだから仕方がない。 「知らないんですか? もう一年も前のことですが、北高で爆発事故があったことを」「い、いや、全然知らんぞ。いま初めて聞いた」全く頭の片隅にもそんな事故のことは聞いた記憶がないことを強調すると、唖然としたまま古泉は俺の顔を見つめていたが、やがて何か重大な事に気づいたかのように真剣な表情で俺に問いかける。 「あなたはいまの生活の中で何か違和感のようなものを感じていませんか? 何かがおかしいと感じながらも、何がおかしいかわからないといった類の……」「え、あ、まあ、たまにな」心の中を見透かされたような気がして、少し戸惑いながら答えてしまう。そんな戸惑う俺の姿を古泉は観測者のような感情の無い冷徹な目で眺めていた。そして何かを確信した様子で立ち上がると、 「僕は、いまのあなたの言葉を聞いて、確信しました。いまのこの世界はどこかがおかしい。しかもその矛盾は、どうやら僕やあなたの身近にあるようです。ただ我々が気づかないだけで……」 「はぁ? な、なんだそれは? いったい何がおかしいと……」「高校一年の夏休みのことを覚えていますか?」「あ、ああ」おそらく古泉が言いたいのは一万回以上繰り返した夏休み最後の十四日間のことだろう。朝比奈さんの電話の呼び出しを受けてから、最終日にハルヒを含めたみんなで夏休みの宿題をした光景が映画の一コマ一コマのように目に浮かぶ。 「つまり……お前はまたどこかで時間がループしていると言いたいのか」「いえ、そうではありません。あの時の状況とは違っているかもしれません。ただ、おそらくあなたもあの時に感じた既視感のような違和感をこの世界に感じているはずです。あなたの夢はおそらくその一環……」 「だったら話は早い。あの時と同じように長門に……」言いかけて気がついた。そうだ、長門はもういないんだ。いつの間にか、俺達の前から姿を消してしまって久しい。「そう、あの頃のように僕たちは長門さんに頼ることはできないのです。いままで幾度となく彼女に助けられましたが、今回はどうやら我々自身の手で解決しなければならないようです。しかし……」 「なんだ、何か思い当たる節があるのか?」思い当たる節があるかのように考え込む素振りをする古泉。しばらく沈黙が続いた後、古泉は目をつむって考え込むしぐさのまま小さな声でつぶやいた。「時間ループというのは、あながち間違ってはいないかもしれませんね。そう考えれば、朝比奈さんがこの時間平面に未だに滞在していることに説明がつきます」「な!? なんだって!!」古泉がポロリと漏らした一言は、俺を驚愕させるのに十分だった。直後にしまったという表情を浮かべて古泉は俺を見る。「朝比奈さんがまだこの世界にいるのか!! いったい何のために?」「お、落ち着いてください」「どうなんだ!」詰め寄る俺とたしなめる古泉の押し問答の後、古泉は観念したのか、仕方がないといった表情で俺を見た後、小さくため息をついた。「……おそらく、間違いないでしょう。何人もの機関の工作員が彼女を目撃していますから。ただ、その目的までははっきりしていません」この世界に朝比奈さんがいる。そのことを古泉に聞いて、別れ際の朝比奈さんの姿がテレビの鮮明な映像のごとく脳内に映し出された。必死で涙を堪えて気丈にふるまい、俺とハルヒの行く末を祝福してくれる朝比奈さん。だが俺はそんな朝比奈さんの姿を見るのが忍びなかった。気丈な朝比奈さんの姿がむしろ痛々しく感じた。なぜなら、その数日前に朝比奈さんは俺への想いを告白していたからだ。 そして、俺といっしょに暮らすためになら、この時間平面に残ることすら厭わないと言ってくれたのに、俺は朝比奈さんの想いに応えることができなかった。悩んで悩んで悩み抜いた末に、俺は朝比奈さんではなくハルヒを選んだからだ。 俺たち二人を祝福する朝比奈さんの気持ちを思うと、胸が張り裂けそうになる。いったい朝比奈さんはどんな気持ちで俺たちを見ていたのだろうか。俺たちに祝福の言葉を投げかけたのだろうか。 あの日の情景があたかも現実世界のように目の前に広がる。卒業して北高を去る朝比奈さんと鶴屋さん。そして二人を見送るハルヒ、長門、古泉そして俺。同じ時間、同じ空間を共有しながら、俺と朝比奈さんだけは切り離された別世界に存在しているようだった。 無言で見つめあう俺と朝比奈さんの横で、鶴屋さんとハルヒがいつものように騒がしくはしゃいでいたのがやけに印象に残っている。かける言葉が見つからず、動くことすらできなかったあの時の情景が…… 「だ、大丈夫ですか?」古泉の声で、俺はあの日の思い出の世界から現実へと戻った。ハッと我に帰る俺の姿を少し心配そうにみつめる古泉。「ああ、大丈夫だ」「…………」俺の様子を眺めていた古泉は何かを言いかけて言葉にするのをやめた。おそらく、聞いたところで答えはしないということを、古泉なりに悟ったのだろう。そして、、用件がすべて終了したと判断した古泉は、 「とにかく、何か分かりしだいあなたにも報告します。その時はもしかしたらあなたや涼宮さんにご協力をお願いすることになるかもしれませんが、よろしくお願いします。では、これで」 「お、おい! 待て、古泉」別れの言葉を残し、こちらの返答を聞くこともなく、足早に目の前から去って行った。立ち去る古泉の後ろ姿からは、どこか普段の冷静沈着な古泉とは違う焦りのようなものを感じた。それだけ切羽詰まっているということなのだろうか? 独り公園に残された俺は、古泉が走り去った後を茫然と眺めながら、大きくため息をついた。いったい朝比奈さんはまだこの世界に残って何をするつもりなのだろうか。 周期的に見るおかしな夢の内容、古泉の慌てた様子、朝比奈さんが未だこの時間平面に残っているという情報。あの日以来、過ごしてきた日常が徐々に崩れてきている、はっきりとした確信はなくとも、そんな予感がする。 俺の中にある朝比奈さんへの贖罪の意識はそう簡単には消えないだろう。だが、それを口にすることはハルヒに対する裏切り行為になる。あの時、俺は古泉のためでも世界のためでもなく、はっきりと自分自身の意思でハルヒを選んだのだ。 だから、たとえその選択がどのような結果をもたらそうとも、そのすべてを受け入れる。その覚悟でハルヒを選択したはずなのに……もしかしたら、古泉の言葉を聞いて心が揺らいでいるのだろうか。そんなことはないと信じたいのだが…… 朝比奈さんとの別れ際の情景を思い浮かべて、自分の心の中に色々な思いが渦巻いているのを感じながら、この後どうしようかと考えたが、ハルヒの早く戻って来いとの御達しを思い出し、帰宅の途に着くことにした。もやもやとした不安を胸の内に抱きながら…… 帰り道、ふと人ごみの中に佐々木と橘の姿を見つけた。どうやら向こうは俺のことには気づいていないようだ。声をかけるとややこしいことになりそうな気がして、そのまま通り過ぎようとしたその時、ふと気づいた。 佐々木と橘に隠れてもう一人、男の姿があるではないか。笑いながら二人と談笑するその人物は見まごうことなく国木田その人だった。普段ならなんてことない風景なのだが、この時はなぜか友人の知らない一面を見たような不思議な気持ちになる。 なぜなら、国木田のあんな楽しそうな顔を見るのは、いつ以来だか思い出せないくらい、珍しかったからだ。もしかしてつきあってるのか? どっちと? 佐々木? 橘? なんとなく複雑な感情が胸にこみ上げている自分に気づく。 思いあまって声をかけようかとも思ったが、かける言葉が咄嗟に思いつかなかった。いやいや、いかん、ハルヒに早く戻るように言われていたはずだ。三人から視線を逸らして、踵を返し、俺は自宅へと急いだ。 気がつくと、俺は真っ暗な暗闇の中で、独りたたずんでいた。いつからここにいたのだろう。時間の感覚がわからない。だんだんと周囲の暗闇に目が慣れてきて、周囲の状況が明らかになる。 コンクリートの破片、むき出しの鉄骨、周囲には瓦礫の山が広がっていた。戦争で爆撃でも受けたのかと思えるくらい、周囲にあるものは、かつて建物であったと思われるものの残骸だけだ。 周囲には光源らしきものは何一つないにも関わらず、薄ぼんやりと周囲が青白く光っているような感覚を受ける。俺はどこかでこれに似た風景を見たことがある。そうだ、古泉といっしょにいった閉鎖空間だ。空を見上げてみても、案の定星ひとつ見えない。 「うっ、うぅぅっ」突然、背後から少女のすすり泣く声が聞こえてきた。ゆっくりと後ろを振り返ると、瓦礫の片隅に少女がしゃがみ込み、顔を両手で覆って泣いていた。そして、その少女がハルヒだと気づくのに時間はかからなかった。 「ハ、ハルヒ?」「来ないで!」駆け寄ろうとした俺を、ハルヒは顔を両手で覆ったまま大声で制止した。思わず俺はその場に立ち止まる。「ど、どうしたんだ、ハルヒ?」「来ないで、近寄らないで! それ以上近寄られると、あんたは全部知ってしまうわ! あたしがあたしでなくなってしまう」「な、何を言ってるんだ、ハルヒ。いったいどういうことだ?」問いかけても応答はない。ハルヒは顔をこちらに向けないよう背けたまま立ち上がった。どうしてよいかわからず、そのままハルヒの後ろ姿を眺める。「キョン……」長いような短いような時間が過ぎ去った後、ハルヒが、小さく、いまにも消えてしまいそうなか細い声で、俺の名前を呼んだ。「寂しいよ……キョン……」「ハルヒ」後ろ姿のハルヒが儚くて、胸がかきむしられそうなくらい切なくなった。愛しいハルヒを後ろから抱きしめてあげたい衝動に駆られ、俺はハルヒに近づく。ハルヒにあと一歩という距離まで近づいた時、 「うぅぅぅ……、こ、来ないで……」突然、ハルヒが苦しそうに唸りだした。「ど、どうしたんだ、いったい」少し戸惑いながら、ハルヒの肩に片手を置こうとした瞬間、「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」恐ろしい形相で、ハルヒは振り向きざまに襲ってきた。その右手には逆手でサバイバルナイフが握られている。突然の事態に身動きが取れない。そして、ハルヒに胸を刺された瞬間、俺はベッドの上で飛び起きた。 「どうしたの? 大丈夫? うなされてたけど……」隣で寝ていたハルヒが心配そうにこちらを見つめている。「いや、なんでもない。ちょっと怖い夢を見て……、起こしてしまってすまない」「ううん、あたしは別にいいけど、本当に大丈夫なの?」心配そうにハルヒが身体を起こす。ただの悪夢だって、そんな風に真剣な眼差しで見つめられると、本当に何かあるんじゃないかと思っちゃうじゃないか。「バカ! 心配してあげてるのに、知らない!」ハルヒは、怒ったように背を向けて、横になる。その姿を見て、夢の光景が鮮明に目の前によみがえった。まるで、夢ではなく現実のようなあの臨場感が。「ハルヒ!」思わず叫んでしまった。ハルヒはびっくりした表情で再び身体を起こして振り返る。「い、いや、なんでもないんだ。スマン」自分でもわかるくらいに挙動不審に告げると、ハルヒは、その表情に不安の色を滲ませながら、こちらを見つめていた。「だ、大丈夫だから、さあ、もう寝るぞ」そんなハルヒの視線から逃げるように、俺はハルヒから目を逸らして横になる。しばらくの間、ハルヒは俺を心配そうに見つめていたが、やがてあきらめたように、自分も俺の隣に横になった。 何なんだったのだろうか、あの夢は。いままで見ていた夢の内容とは全く違う。だが、あの現実と錯覚するほどのあの臨場感から、間違いなく周期的に見るあの夢と関連があることを確信できた。恐怖と不安がないまぜになったような感情が胸の内でくすぶる。 と、その時、『ふにゃっ』っと、予期せぬ柔らかい感触が俺の顔を包んだ。「ハ、ハルヒ?」「しっ、もう黙りなさい。夜中なんだから、近所迷惑でしょ」ハルヒは、俺の頭を優しく抱きしめながら、耳元で囁いた。「あんたがちゃんと眠れるまで、あたしが傍でこうして抱きしめていてあげるわ。だから、安心しなさい」「ハルヒ……」「キョン、あんたは独りじゃないのよ。あたしが傍にいるんだから、何かあったら頼ってよね。なんでも独りで抱え込むなんて、あんたの柄じゃなんだから」少しだけ寂しさと悲しみのこもった声でハルヒが囁く。そんなハルヒの心の内が痛いほどわかって、ハルヒを心配させている自分に自己嫌悪を覚えた。「言いたくないのなら、いまは聞かないわ。でも、忘れないでね。あんたの隣にはあたしがいるってことを」正直、ハルヒの行動に少し驚きを隠せなかったが、そのままハルヒの好意に甘えることにした。ギュッとハルヒの身体を抱きしめると、ハルヒは俺の頭を優しく撫でてくれた。そんなハルヒの心づかいがとても愛おしくて、思わず涙が出そうになる。 ハルヒの温もりが、胸の鼓動が、息遣いが、そのすべてが愛おしい。自分は独りではない。心の底からそう思えた。同時に、緊張がほぐれ、身体から力が抜けていくような感覚に陥る。そのままハルヒの優しさに包まれて、夢の世界へと誘われた。 pipipipipipipipi無機質な携帯の着信音で目を覚ます。枕もとにある携帯を手にとって、相手の電話番号を確認せずに通話ボタンを押した。「もしもし」「すみません、朝早く、古泉です」「お前……、非常識じゃないのか! こんなに朝早く」寝起きだったので、少々イラつきながら文句を言ったが、古泉は俺の機嫌などはどうでもいいといった様子で用件を告げる。「無礼は重々承知しています。ですが、緊急事態です。ようやくわかりました。この世界の違和感の原因が。いますぐ、光陽園駅前の例の場所まで来てください。必ず、あなた一人で」 「お、おい、古泉」「後……、いえ、なんでもありません。では、後ほど」古泉の口調から事態が窮迫していることがわかった。寝ぼけながら電話に出てしまったことを後悔するぐらいに。電話が切れた後、携帯電話を見つめながら、頭の中を整理していると、 「なんの電話~?」布団の中から、ハルヒが眠そうに眼をこすりながら俺を見上げる。「すまん、ハルヒ。ちょっと出かけてくる」「え!? な、なんなの?」「わからん。だが、さっきの古泉の様子からして、緊急事態なのは間違いなさそうだ」俺の言葉を聞いて、ハルヒは何かを考え込むように焦点の定まらない目で俺とハルヒの間の空間に視線を漂わせていた。携帯電話を枕もとに置きベッドから出ようとすると、いきなりハルヒが片腕をつかむ。 「!?」「緊急の用ってなんなの?」「いや、わからん。だが、とにかく急ぐようなんだ」俺の目をじっと見つめて問いかけるハルヒが、なんとなくいつものハルヒと雰囲気が違っているような気がしてドキッとした。だが、古泉の電話の件で頭が一杯だったため、特に気にすることもなくハルヒの手を払ってベッドから出ようとすると、 「待って!」ハルヒは身体を起こし、俺を引き留めようと片腕にすがりついた。「おいおい、お前の考えているような……」振り向いて、ハルヒの表情を見て、いつものハルヒではないことに気づいた。それは浮気云々を咎めるいつもの様子ではなく、何か得体のしれない恐怖に怯えているように見えた。 「行かないで! 独りにしないで!」「ど、どうしたんだ、ハルヒ?」「わからない、自分でもわからないよ。でも、なぜかこのままあんたを行かせると、もう二度と会えないような気がするの。だから、だから、お願い。今日だけは、今だけは傍にいて」 咄嗟に状況が理解できなかった。なぜ、ハルヒがこんなことを言い出したのだろうか? わからない。昨日まで、いや、さっきまでは何ともなかったはずなのに……古泉の言う世界の違和感の原因がハルヒだというのだろうか? ハルヒはそのことに気づいているのだろうか? それとも、気づいてはいなくても、何か予感めいたものを感じているのだろうか…… ハルヒは懇願するように片腕にすがりついて、下からじっと俺の目を見つめていた。その大きな瞳が涙で潤んでいる。いくらなんでも、この状態のハルヒを放っておいて古泉のもとには行けない。 「ど、どういうことなんだ?」「わからない! わからないよ! でも、なんとなく予感がするの。今日、あんたといっしょにいなきゃダメだって。さっき、あんたが古泉くんから緊急の電話がかかってきたって言った時から、そんな予感がするのよ!」 こんな風に取り乱したハルヒを見るのは初めてかもしれない。古泉の様子といい、ハルヒの様子といい、何かが起こっていることには間違いない。だが、いったい、いまのこの状況をどうするべきか…… このまま残るか。いや、世界が危機に瀕しているかもしれないというのにそれはまずい。だが、ハルヒを放っておくわけにもいかない。とすれば、折衷案として……「わ、わかった、わかったよハルヒ、だから、手を放してくれ」「お願い……お願いだから……」「じゃあ、いっしょに行こう。それなら、ハルヒも心配ないだろ? 俺は絶対にお前の傍を離れない。だから、俺を信じてくれ」古泉の『必ず一人で来てください』と言った言葉が頭をよぎったが仕方がない。しばらくして、片腕にしがみついていた手から力が抜けると、「う……うん……わかった」ハルヒは申し訳なさそうにうつむいてボソボソっとつぶやいた。「じゃあ、はやくベッドから出て服を着ろ。いくらなんでも裸じゃいけないだろ」俺に指摘されて、ハルヒは自分が裸であることにようやく気づいたらしい。自分の身体を一瞥した後、頬を赤く染めて、俺を睨みつける。「バカ! スケベ! エロキョン!」少しだけいつもの元気を取り戻したハルヒはベッドから出てバスルームの方へと歩いて行った。 「まったく、お前は身支度にどれだけかかるんだよ」「お、女の子はね、外に出かけるときはいつも真剣勝負なのよ。男と違って」さっさと出かけるつもりだったのだが、ハルヒの身支度にかなり時間をとられてしまったため、部屋を出たのは古泉からの電話があってから一時間以上過ぎた後だった。 とりあえず、俺と行動を共にすることでハルヒは不安を払拭したようだが、朝の電話で古泉が一人で来てくれと言っていた言葉が胸に引っかかっていた。もしかしたら、ハルヒには言えないような内容の何かを古泉が見つけてしまったということではないだろうか。ハルヒに言えないこと……もうすでにハルヒは全てを知っている、だから、そんなことはないはずだが…… 一抹の不安を抱きながら、俺たちは甲陽園駅前の公園へと着いた。例のベンチの場所まで行くが、周囲には人の姿が見えない。もちろん古泉もいない。一時間ほど古泉が姿を現さないかベンチに座って待ってみたが、一向に姿を現す気配が無い。 「変ねえ、どうしたのかしら、古泉くんが待ち合わせの時間に遅れるなんて」ハルヒがきょろきょろと辺りを見回しながら周囲の様子を窺う。「おいおい、もしかして、俺たちが来るのが遅くて帰ってしまったんじゃないだろうな」この事態を目の当たりにして、ハルヒに言ってるのか、自分に言い聞かせているのか、それとも独り言なのかわからない調子で口走ってしまった。「何よそれ、あたしが悪いって言いたいの」拗ねた表情で唇を尖らせながら、ハルヒがこちらを睨む。だが、いつもの迫力は無く、むしろバツが悪そうだ。「そ、それに、古泉くんは重大な用事があってキョンを呼んだんでしょ。重大な用事なのなら、時間に遅れたくらいで帰ったりしないわよ」確かにそのとおりだ。本当に重大な用事なら、俺が公園に来なければ部屋まで訪ねてくるはずだ。もしくは携帯で連絡をとることもできるはず。「で、でしょう? つまり、もし古泉くんが勝手に帰ったのなら、そんなに重要な用事じゃなかったという事よ」「…………」釈然としない気持ちになったが、ここでこうしていても仕方が無い。「帰るか」「う、うん……」ベンチから立ち上がり、公園の出口に向かって歩き出そうとした時、ハルヒが俺の服の裾をつまんだ。「ね、ねえ、キョン、せっかく出てきたんだし、今日はこのままふたりでデートってのはどうかな」柄にも無く、少し照れたような様子でつぶやくハルヒの様子を見て、古泉の電話を聞いてからの緊張感がとたんに緩んだ気がした。小さくため息をついてから、ハルヒに微笑む。 「いいぜ、どこか行きたいところはあるのか?」「そうこなくっちゃ」ハルヒは満面の笑みでキラキラと瞳を輝かせながら俺の手を引っ張る。久しぶりに見るハルヒの100ワットの笑顔。「あたしね、前から行ってみたかった所があるのよ」急にテンションを上げてはしゃぐハルヒの様子を眺めながら、『もしかしたら、これはハルヒと古泉の策略か?』一瞬、そんな思いが脳裏に浮かんだ。そうではないことは、古泉の電話の様子や出かける直前のハルヒの行動から容易に推察できたが、かといっていまの自分にはどうすることもできない。宇宙人でも未来人でも超能力者でもまして神様などではないからな。 だから、とにかくいまはあまり深く考えずに目の前のハルヒとのデートを楽しむことにしようか。俺の手を引っ張って目的地に向かうハルヒの無邪気な様子を見て、妙に自分まで嬉しくなってくる。こんな日がずっと続いてくれればいいのだが。 しかし、翌日になってこの行動がいかに浅はかだったかと後悔することになる。翌日、ハルヒと朝ごはんを食べている最中に、昨日と同じように電話がかかってきた。なんとなく予想はしていたので驚きはしなかったが、携帯をとり相手の電話番号を確認すると、電話の相手は古泉ではなく国木田だった。少し不思議に思いながら、電話に出る。 電話を終えた後、あまりのショックにしばらくの間、切れてしまった携帯電話をただ見つめることしかできなかった。「電話誰から? 古泉くん?」台所からお茶碗を持って戻ってきたハルヒが何気なく軽い感じで問いかけてきた。しばらく沈黙があった後、茫然と携帯電話を見つめたままハルヒの名前を呼ぶ。「ハルヒ……」「な、何?」「古泉が……殺された……」 ~第三章へ~
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