キョンの湯
姉妹編『長門の湯』『鶴屋の湯』『一樹の湯』『みくるの湯』『ハルヒの湯』もあります。
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『キョンの湯』「ふぅー」大きな溜息と共に髪をかき上げた後、両手で顔を覆って、二・三回、目の辺りを軽くマッサージした俺は、その両手を大きく突き上げて湯船の中で、うーん、と伸びをした。やはり自分の家の風呂が一番落ち着くことができる。老舗温泉旅館のでっかい湯船に入るのも、露天風呂で風を感じながら眼前の日本庭園を眺めるのも、もちろん好きだ。あの開放感は捨てがたいものがある。だが――。最後の最後に一番リラックスできるのは自分の家の風呂だ。その日一日どんなに疲れて帰っても、我が家の風呂の湯船に入った途端、汗と共に疲れも流されていくのが、なんとなくわかる気がする。こういうのも一種の帰巣本能なのかもしれない。「どんなに疲れても……か」俺のこの歳で、こんな台詞が似合うようになったのも、高校入学以来のさまざまな出来事のおかげかもしれない。湯船の背にぐっと身を預け、両手をだらんと伸ばし後頭部を浴槽の縁に乗せて、俺は僅かに湯気でかすむ壁と天井の境目をぼんやりと見つめながら、あの日のことを思い起こした。『東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上』俺にとってはこれがすべての始まりだった。ただし、ハルヒを北高に導いたのは、この入学式の三ヶ月後の時点から三年前に遡った俺、――ジョン・スミス――、がきっかけの一つとなったらしいが。 このあたりの時間と空間の関係を考え始めるとわけがわからなくなる。長門に聞けば、明確に論理的な解説をしてくれるのだろうが、そんなものは、俺の疲れを増幅させるだけだ。必要はない。結局のところ、それ以降、今に至るまで、俺はハルヒに振り回され続けた。そしてそれは永遠に終わることもなさそうだな。そんな状況はイヤか? もう抜け出したいか?いいや、そんなことはない。結論はとっくに出ている。俺はこの暮らしを、この非日常あふれる日常を受け入れた。スーパーアンドロイドの長門も、マイエンジェル朝比奈さんも、赤玉エスパーの古泉も、そしてすべての中心にいるらしいトンデモ神様のハルヒも、全部ひっくるめて受け入れた。俺は静かに目を閉じて、これまでに経験してきた様々な出来事を反芻してみた。初めての閉鎖空間に暴走アンドロイドに殺されかけた異空間、七夕に節分にバレンタイン、怪しげな未来人や宇宙人連中に翻弄された時もあった。そしてあの十二月の出来事、何もかもが改変されたあの数日間。俺はどんなに疲れるようなことになっても、死ぬような目に遭遇しても、このエキサイティングな日々を楽しんできた。そしてこれからも楽しみたい。そう、『やれやれ』でいいのさ。あの波乱万丈の高校生活を卒業してから、それ以上の怒涛の日々をどれぐらい重ねてきたのだろう……。…………。………………。ガタン。脱衣場の物音で我に返った。あわてて振り向くと、湯気で水気が滴っているすりガラスの扉が開いた。「ちょっとキョン? 生きてるの?」「よぉ……」首を突っ込んできたのはハルヒだ。大きな黒い瞳をくりっとさせてあきれたように口先を尖らせている。「あんまり静かなんで、溺れて死んでるんじゃないかって、心配するじゃない?」「ちょっと考え事をしていてな、で、少し寝てたようだ」「もぅ、ホントに溺れるわよ」「すまん」「あたしも入るわ」ささっと部屋着を脱ぎ捨てたハルヒが、浴室内に滑り込んでくる。すらっと伸びる足にメリハリのある体のライン、相変わらず素晴らしいプロポーションだね。かかり湯をしたハルヒが湯船に入ってきた。俺は体を動かして浴槽の長い方の辺に背中を向けると、右隣にハルヒを迎え入れた。我が家の浴槽は決してでかくはないが、こうして二人で一緒に入っても多少の余裕はある。それでもハルヒは俺にもたれかかるように密着してきた。 「おいおい、そんなにくっつかなくても……」「いいじゃない、別に」しばらく二人とも無言のままほっこりと温まっていたが、やがてゆっくりとハルヒが話を切り出した。「ねぇ、キョン、あたし、赤ちゃん、欲しいな」「え?」「今度の結婚記念日までにできないかなー」「今度って、再来月じゃないか」「そう、うん、だから……、ね」そういいながら俺の腕に巻きついてきたハルヒは、俺のことを見上げると俺にだけ見せてくれる優しい微笑を送ってくれている。この微笑は時に俺を疲れさせ、時に俺を癒してくれる。まぁ、統計的には九対一位で前者の方が多い気もしないではないが。俺とハルヒがSOS団の連中やその他大勢の関係者に祝福されつつ結婚式を挙げてから三年、お互いに一つの大台を迎える前に子供がいてもいいかな、とここ最近、俺も確かに考えていた。「子供、男がいいかな、女がいいかな?」俺は見上げていた天井から、隣のハルヒの方に視線向けて、「とりあえず一姫二太郎三なすび、だな」「はぁ? なすびはいらないわよ! それは初夢、一富士ニ鷹!!」あきれたようにそう言うと、ハルヒは、あははは、と笑いながら俺の腕に巻きつく力を強くした。しまった、いらんコトを言ってしまったか? まさかとは思うが、ハルヒ、なすびを身ごもるような非日常な、俺を疲れさせるようなことはしてくれるなよ。そんなバカな考えを振りほどき、俺はもう一度ハルヒの百ワットの笑顔を見つめながら、小さなお風呂で大きな幸せを感じていた。
Fin.
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