スイング・第七楽章
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(フランス語『goût de la vérité』の直訳→『真実の愛』の意味)
小さな部屋。佐々木さん、有希。それ以外に、誰もいない寝室。有希の、揺れる目線。曇ってしまった眼鏡を外すと、しっかりとあたしを見つめようとする。「彼女は…敬愛する敵…私のライバルであり、観察対象だった」立ち上がり、棚の方角へ歩く。日記を取り出す。佐々木さんはやっぱり微笑んで「どうぞ」その声を聞いて有希はゆっくりと、佐々木さんの日記を、開く。
La valeur humaine est un effort.Je me consacrerai à musique.
(どこまで努力できるかが、人間の価値。私は音楽にこの身を捧げます)
…………
a tempo(元の早さで)
フルートを置き、ピアノの前に座る、長門さん。私はさりげなくカセットを回し続ける。
敬愛する敵の技術を観察する。そして、盗まなければ、ならない。
フルートの長門さんは、たとえ私がクラリネットだとしても、技術的にすばらしい、敬愛する敵だった。
彼女は世間の評価は未だないが、超えることのできない存在だと思っていた。そして、それは認めたくなかった。
インターフェースこんな指揮者の 操り人形 には負けたくは無かった。
長門さんはまずメトロノームを鳴らす。そして、メトロノームを止めると、鍵盤に手を置く。
曲目『Piano Phase』 Steve Reich 作
二十分以上続く、ただただ単調な調べ。何をしているのだろうか。
部屋に帰り、カセットを回す。 長門さんは、まずメトロノームを鳴らす。そして、メトロノームの音は止まらなかった。
カセットの中の長門さんと、私の暴走したメトロノームが同期する。
一分たち、五分たち、十分がたった。ロボットのように無機質な、カセットとメトロノームの関係は、変わらなかった。
二十分後、長門さんは演奏をやめる。同時に、私もメトロノームを止める。
私は同じようにピアノを叩き、録音する。メトロノームを動かして、聞く。
私の演奏は、三分程度でメトロノームと離れていった。
…
……
佐々木さんの日記はフランス語で書かれていたり、英語で書かれていたり、日本語で書かれていたりした。 それを、有希がすべて日本語に直して読んでいる。
…有希ってフランス語できたのね…
英語だって完璧。この娘、まさか万能じゃないの?
でも、今聞かなきゃいけないことはそれじゃない。有希に言わなければならない言葉は、賞賛の言葉ではなく、でも、その言葉が出ない。
「この薬は、…」
有希の冷たい声がただ暗い部屋に響く。
cette drogue cassera mon corps. et il me cassera.
(この薬は、あたしの身体を壊すだろう。そのうち、私も壊していくだろう。)
何日やっても、何回やってもずれていく。
何でこんな簡単な事ができないのだろう。
完璧にしなきゃ、そのうち、私は用済みになる。
長門さんの演奏を聞いてから、いつもより指揮者を意識するようになった。
あれほど嫌っていた、指揮者の操り人形へと変わっていく。私の音が消えていく。
最近呼ばれ始めた、『神童』という言葉が、重圧を帯びてくる。
どうして、どうして…
メトロノームが悪いのかしら。それとも…
そして現れる無力感。
眠れなくて、いらいらしてじっとしていられない。
それなのに、何もする気が起こらなくなる。
私が医者からリタリン(医療用の覚せい剤)を渡されたのは、その時だった。
その医者は、やぶ医者だったと、少したった今では思う。量だって多分間違ってた。
実際、リタリンは良く効いた。これを使っている間は、悪いことは全部忘れられた。
集中力も上がった。読むのに一週間かかりそうなスコア(すべての楽器が書いてある指揮者用の楽譜のこと)でさえ、一時間程度程度で覚えられる気がした。
なにより、テンポを正確に数えられるようになった。
(※1:リタリンを構成する化学的構造。発見の逸話より、よくヘビにたとえられる)
がたん。
第七章 〆
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