スノー・フィナーレ
春の日差しの中、桜並木を自転車で駆け抜ける。まだ桜の咲いてる季節だというのに、今日はやたらと暑かった。春のぽかぽか陽気と言ってしまえばそれまでだが、ぽかぽかというよりはジリジリといった風に太陽が一直線に俺を捕らえる。 このままだと夏になったら南極はなくなってるんじゃないか? ペンギンたちも大慌てだ。花びらが飛んできて、俺の頬にくっつく。それをつまみ上げて、ついでに俺は鼻をすすった。どうやら花粉症にかかってしまったらしい。そう言えば昨日の夜、母親が昼間に布団を干してくれたせいかベッドの中で鼻水が止まらなかったし、(おかげで俺のゴミ箱はティッシュの山だ)朝見た、洗面所の鏡に映るいかにもやる気のなさそうな男の目は少し赤かった気がする。 掃除機で吸っておけばよかったと今更ながら後悔した。恐るべし、花粉。 目的地のマンションに着き、俺は自転車を止めた。約束の時間二十分前。本日の不思議探索はお休みだ。じゃあ何故このお出かけ日和の中自転車を漕いでいるかというと、これまた深い訳があったが、端的に言うとある人物と出掛けるためだった。 お湯を注いだカップラーメンが食べ頃になるぐらいの間、周りの景色を見ながら時間を潰していると、マンションの自動ドアが開いた。こちらに気付き、足を進め俺の前に立つこいつは、いつも通りの制服姿だった。カーディガンが風に揺れる。こんな時まで律義に制服を着てこなくたっていいじゃないか、長門よ。 「よっ。早かったな」「ベランダからあなたの姿が確認できたため、降りてきた」「そうかい。それじゃ、少し早いが行くか」 俺の言葉に長門はこくり、といつものナノ単位の首肯をし、俺の自転車の後ろにまたがった。長門が乗ったのを確認してから、俺は勢いよくペダルを漕ぎ始めた。 一年の夏休みにも思ったが、軽いなこいつ。体重を感じさせないように宇宙人パワーを使ってるか、あるいはもしかしてドラえもんのように地面から数ミリぐらい浮いているんだろうか。あっちは未来から来たロボットだが、何でもありなところは長門と一緒だからな。それにこいつは沈黙を擬人化したようなやつだ。おかげでもしかしたら長門はいないんじゃないかと思い、俺は運転中何度も後ろを振り返り、長門の姿を確認するハメになった。 さて、どこに行こうか。誘った手前、長門には口が裂けたって言えないが、今日はノープランなのである。長門と言えば図書館を連想するが、実を言うと俺は昨日一秒たりとも寝れなかったのだ。全く、どこの小学生だ。そんな俺があんな静かなところに行ったら、三日間断食後の御馳走よろしく俺はソファーに寝転んで三秒で夢の世界へといっちまうだろう。 長門とこうして二人で出掛けるのは、実際不思議探索を除けば初めてだ。いわば、初デートなわけで。そんな時に寝るなんて正座で三時間説教されたって足りないぐらいの愚行だ。 そんなわけで苦考の末、俺が思いついたのがこの自転車ドライブだった。常時足を動かしてれば俺も大丈夫だし、おそらく長門も楽しんでくれるだろう……多分。全く、のっけからこれなんて自分のふかがいなさが身に滲みるね。今ならハルヒから「こんの馬鹿キョン!」と飛び蹴りを受けようがぐぅの音も出ないだろう。むしろ蹴ってもらった方が目が冴えるんじゃないかと被虐的な思考に浸っている自分に気づき、俺はぶんぶんと頭を振った。おいおい、止めてくれよ。俺はまだその新境地を開拓したくはない。 信号が赤に変わり、俺は足を止める。昨日、穴が開くほど天気予報のアナウンサーの顔を凝視し、てるてる坊主に五寸釘を差したおかげか、空は雲一つない快晴だった。おそらく俺ほど向こう一週間の天気について詳しいやつはいないだろう。ついでに、てるてる坊主に地主顔負けの念仏を唱える俺を見る妹の何とも言えない憐れみの視線も、向こう一週間は忘れられそうにない。 ふと後ろを振り返ると、長門の空を仰いでいた目がゆっくりと俺に向けられた。長門の瞳を、俺は綺麗だと思う。元は宇宙で造られたせいか、そのままあっちに繋がってるんじゃないかと思えるような、奥深く、引き込まれそうなオーラがあるのだ。 「……なに」 何処となく恥ずかしそうに、長門が問う。 「いや、お前の目は綺麗だなと思ってさ」 気が付けば、そんな言葉を口走っていた。今時ナンパでももうちょっとマシなセリフを言うだろう。だめだ、今の無し。古泉よ、頼む。編集では切っといてくれ。俺の今世紀最大のこっぱずかしいセリフに、長門は数秒ほど間を取ってから一言、 「そう」 と返しただけだった。いっそスルーしてくれたほうがマシだった。と俺は心の中で涙ながらに呟き、相変わらず自己主張の激しい鼻水をすすってから自転車を漕ぎだした。
三十分ぐらい走っただろうか。俺はあの日、朝比奈さんから未来人告白を受けたベンチ周辺で足を止めた。走っている間、特に会話らしい会話はしなかった。こいつから喋りかけられる事はなく、俺の問いかけにポツポツ、「そう」「わりと」などと返してくれるぐらいだ。まぁそれでいい、いきなりこいつが古泉並みにベラベラ喋り出したらそれはそれで困るものだ。 休憩がてらに俺はベンチに座り、落ちていた石ころを川に向かって投げた。ポチャンと乾いた音の後に波紋が広がり、やがて沈んでいく。 「ほら、お前もやってみるか」 適当な石ころを拾って長門に渡す。長門はまるでセミの抜けがらを見るような目でそれを凝視し、こくりと頷いてからそれを川に投げた。地面に断層ができてしまいそうな、あの野球大会の一幕のようなプロ顔負けの光の速さでは無く、あくまで自然に。 デートスポット100に掲載されてもおかしくはないこの場所は、去年もハルヒによる自主製作映画の撮影場所となった。「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」の新作こと「長門ユキの逆襲 Episode00」は、相変わらず起承転結の転しかないような代物だったが、長門や朝比奈さんやついでに古泉の人気のおかげか、それともハルヒのヘンテコパワーのおかげか、結果として大盛況となった。 またしても暗黙の了解で編集を任されたのは俺だったが、今回は「使えるものは使わなきゃ」というハルヒの言葉により、お隣のコンピュータ研も編集を手伝ってくれた。 あちら側も普段から長門にはお世話になっているからという理由で快く引き受けてくれてくれ、そこそこ見れる物にはなっていたと自負するね。 相変わらずの棒読み、それでも主演女優だからか、少し誇らしげな顔で星のステッキを振る長門と、いつも通りの一生懸命さと可愛らしさで駆け回る朝比奈さんのツーショットは、それだけで見る価値は十二分にあったように思う。
そんな朝比奈さんだが、彼女は高校卒業と同時に未来へと帰ってしまった。もちろんハルヒがいる手前、それは両親のいる海外へと戻るという名目になっていたが。その日の出来事はまだ記憶に新しい。去っていく電車の窓から顔を出し、溢れる涙を一生懸命拭いながら手を振る朝比奈さんと、それを必死に追いかける鶴屋さん。過ぎ去ってしまった後、朝比奈さんのいる時にはいつも笑顔を絶やさず気丈に振るまっていた彼女がへなへなと座り込み、まるで子供のように泣き声をあげるその姿はどこかの映画のワンシーンのようで、俺たちの涙を誘ったものだ。 「元気だろうか、朝比奈さん」 気が付けば、そんな言葉を口走っていた。今すぐ彼女のあの愛らしい尊顔を拝みたいところだったが、生憎俺は未来がどの方向にあるのかなんて分からないので、とりあえず空を見上げる事にした。 「大丈夫」 長門もゆっくりと空を見上げ、小鳥のさえずりのように呟いた。 「彼女なら、きっと」
そこから少しぐらい話をして、気が付けば時間はもうお昼時になっていたので、俺たちは適当なファミレスに入った。正直家中の貯金箱をひっくり返してきたおかげで、普段不思議探索で搾り取られる俺の財布にも昼飯ぐらいは豪華に食えそうなお金が詰まっていたのだが、俺の財布のダイエットに気を使ってくれているのか、それとも単にそこのメニューが食べたかったのか、長門が頑なに「ここ」と指差すので俺たちはそこで食うことにした。 全く、どっかの団長さんもこの謙虚さを習って欲しいね。 長門はカレー、俺はメニューを一見し、目を惹いたハンバーグセットをオーダーし、一息つく。 「ごめんな」 ドリンクバーのメロンソーダを不思議そうな目で見つめていた長門の顔が持ち上がる。なに? と言いたげな二つの目が可愛らしい。そこら辺の動物特集なんか目じゃないぜ。 「いや、本当ならもっと面白いところ連れていってやりたかったんだが」 正直この道路交通法違反ドライブが長門にとって楽しいかも分からないし、本来なら遊園地とか、そういう楽しい所に行きたかったんだけどな。そんな作戦を目論む俺に、諭吉は無情だったらしい。全く、泣けてくるね。 「大丈夫」 そんな俺を宥めるかのような、柔らかい声だった。 「とても、楽しい」 そうかい、そりゃよかった。こいつは嘘をつかないからな。実際俺も、楽しいか楽しくないかと問われると、楽しいに決まってるだろと諸手を挙げていえる。鶴屋山付近や、坂中家のルソーと散歩した場所などSOS団と縁ある場所を通り、それについて長門と思い出話をするっていうのも、なんだか新鮮で楽しかったものだ。 ま、俺は長門といれればどこでもいいんだけどな。 「……そう」 こいつは照れたらとりあえずこう返すらしい。俺は笑ってから、適当な大きさにハンバーグを切り、それを長門のカレーの上に乗せてやった。
「あっちーなー」 再び自転車に舞い戻り、俺は駅前周辺を漕ぎ回りながら呟いた。 「今年は例年に比べて温度が三.五度高い」 そりゃ暑いな。勘弁してくれよ太陽。吹いてくるそよ風も、この天候じゃドライヤーの温風だ。懐かしむように周辺をうろつき、さてそろそろ移動するかと思ったちょうどその時だった。 「ん?」 見覚えのあるというか、毎日後ろの席で顔を合わせているよーな、そんな気がしないでもない姿が目に入った。 「あ」 向こうも俺達に気付いたようで、あんぐりと口を開けた。その中にピーナッツでも放りこんでやりたい気持ちに駆られたが、残念ながら今は手持ちにない。しばらく無言の押し合い相撲が続き、結果、土俵から追い出されたのは俺だった。 「奇遇だな。何してんだ? お前」 長門を降ろし、後ろのスタンドを掛けながら尋ねる。そいつはショートカットとリボンを揺らし、俺と長門を観察するかのように交互に見据え、 「それはこっちのセリフよ。キョン、あんた有希に変な事してないでしょうね?」 俺の顔を指差した。第一声がそれだとはな。おいハルヒ、お前における俺の信用度はミジンコ以下か? 「せいぜいミトコンドリアぐらいね。有希、あんた何かされたらすぐにあたしに連絡するのよ。世界中のどこにいたって、あたしが三秒で駆けつけてぎったぎたのめっためたにしてやるからね!」 団長のなんとも頼もしいお言葉に、長門は珍しくはっきりと分かるぐらいの相槌を見せた。それに満足したように、ハルヒは「よろしい」と微笑み、それからズズズと鼻を啜った。なんだ、お前も花粉症か。 「……そうなのよね。朝から目も赤いし。全く、やってらんないわ。恋人探しは結構だけどもうちょっと遠くでしなさいよね」 花粉に対する愚痴を述べて、ハルヒはちらりと長門を一瞥してから鞄からティッシュを取り出し、鼻をかんだ。 「はい」 俺がぼーっとその光景を見ていると、ハルヒは残りのティッシュを俺の目の前に突きつけた。なんだ、くれるのか? 「さっき街歩いてたら余分に貰ったからあげるわ。あんた、ずいぶん酷い顔してるわよ」 サンキュ。ずっと自転車に乗ってたせいか、花粉が目に直撃してたんだ。ふんっ。とハルヒは腕を組み、それから「そう言えば」と、思い出したように言葉を続けた。 「さっき古泉くんと会ったのよ。バイトに行く途中だって。そこで聞いたんだけど、古泉くん、バイト止めちゃうんですって。『今日が最後なんです』って言ってたわ。それはいいんだけど、なぜかあたし古泉くんにお礼言われたの。『今までありがとうございました』って。なんでだろ。あたし古泉くんが何のバイトしてたかも知らないのに。でもね、あたし、気が付いたら言ってたのよ。こっちこそずっとありがとう、って。何故かそれを言わないといけない気がしたから」 ハルヒはそこまで言うと満足したのか、それでもどこか名残惜しそうに、「じゃあね」と言うと走り去って行った。
それからは二人、何も話さなかった。何か言わなければいけないと思っていても、頭がこんがらがって上手く言葉が出ないのだ。 「長門」 今まで、何度この名前を呼び掛けただろうか。その度にコイツはゆっくりと顔をあげて、俺を見据えるんだ。「どうしたの?」ってさ。 「……わたしは、幸福だった」 今まで、何度こいつに助けられてきただろうか。どんな奇想天外な出来事に巻き込まれても、いつだってコイツは助けてくれたんだ。「もう、しょうがないなぁ」って。 「あなた達のおかげ」 だから、と長門は言葉を刻む。 「ありがとう」 ペダルを漕ぐ音がやけに響いた。何言ってんだよ長門。そんなの、本当にお別れみたいじゃないか。明日になればきっと、ハルヒが無理難題を高らかに突き付け、古泉が「さすがは涼宮さんです」なんて言って笑って、長門が静かに本を読んでるんだ。なぁ、そうだろ?そんな問いかけをしながら、後ろを振り向く。答えは、返ってこなかった。 ――きっと、それが限界点だった。一つ、また一つとサドルに雨が降る。何かのスイッチを入れたかのように、何粒もの涙が頬を通り過ぎた。溢れでる涙を袖で拭う俺の横を買い物袋を持った母親ぐらいの歳のおばさんが通り、まるで隣の家の旦那がリストラされた事を聞いたような哀れみの視線を向けてきた。 おい長門。お前のせいで不審者扱いされちまったじゃねーか。どうしてくれんだ。何が『わたしは情報統合思念体に帰還する』だ。何が『だから、お別れ』だ。おかげでこっちは一睡もできなかったんだぞ。 思い出巡りをして、長門がこの場所にいたという事を忘れて欲しくなかったから、なんて。本当は、俺をずっと見ていて欲しかったんだ。俺の後ろ姿を、忘れてほしくなかったんだ。 信号を渡るあのサラリーマンも、楽しそうに自転車を漕いでいるあの小学生達も、みんな長門を知らない。本のページをめくるあの透明な瞳を、注意していないと見落としてしまいそうな感情の変化を、意外と負けず嫌いなあいつの素顔を、あいつらは知らない。でも、俺は知っている。それだけで、何故か誇らしい気持ちになった。 なあ長門。忘れないでくれ。ハルヒの百ワットの笑顔を、朝比奈さんのお茶の味を、古泉が時折見せる素の表情を、そして俺のことを。輝いていた、SOS団の日々を。一万何回と繰り返された夏休みの内容を全部記憶してたお前だからな。期待してるぜ。俺も、絶対覚えているから。 一人きりの自転車を漕ぎながら、吸い込まれそうなほどの蒼い空を見上げる。 「約束する」と、淡い雪のように微笑む誰かを思い浮かべながら。
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