キャンバス
ある夏の日のこと。俺はうだるような暑さの中、何故か公園にいた。なんでこんなとこにいるんだろうね。出来れば文明の利器クーラーがある場所に行きたいもんだが。だが俺は目の前で一心不乱に筆を動かす奴を見捨てては行けなかった
「キャンバス」
さて、何故俺が汗をダラダラ流しながら公園にいるのかというと、話は数日前に戻る。
「ういーっす」もはや日常動作の一つと言っても過言ではない、文芸部室への移動を行った俺は軽く挨拶をして部屋に入った。「・・・」「あっ、こんにちはぁ~」「どうも」三者三様の返事が返ってくる。中には既に逸般人三人が座っていた。なお逸般人というのは唯の造語である。一般から逸脱した人のことだ。
中の風景は一つを除いていつも通りだった。長門は窓際で本を読み、朝比奈さんは今しがた来た俺にお茶を入れてくれようとしている。だがしかし、その中で古泉だけがいつもと違う行動を取っていた。「おい古泉、お前何してるんだ?」「見たまんまです、スケッチブックに絵を描いているのです」なんだ。理数クラスでも美術の授業はあるんだな。うちのクラスではもちろんある。夏休みごとに出される課題がちょっと鬱陶しい。「いえ、ただの趣味です。言った事ありませんでしたっけ?」お前にそんな趣味があるだなんて露とも知らなかったぜ。それに俺はいちいち他人の趣味なんか確認しないしな。「そうですか、実は結構昔からの趣味でして。そういや部室で描くのは初めてですね」いつもの笑顔を顔に貼り付け古泉はそう答える。「私が来た時からもう描かれてました。見せてもらったんだけど結構上手でしたよ?」朝比奈さんがこの季節にはあまり合わない熱いお茶を俺の前に置きながら、可愛いエンジェルボイスで言う。しかし、ほう。多少なりとも興味はあるな。俺にも見せてくれないか?「良いですよ。描きかけですが、どうぞ」差し出されたスケッチブックに視線を走らせると、自然に感嘆が口から零れた。「上手いな・・・」そこには古泉の場所から見える部室の風景が描かれていた。正直、かなり上手い。俺に芸術センスなど皆無に近いが、それでもわかる。そこらへんの美術部よりも遥かに上手いだろう。確証なんてものは無いがな。「ありがとうございます」古泉は俺からスケッチブックを受け取る。「こんなに上手いとは思ってなかったぜ。中学の時美術部でも入ってたのか?」「いえ、部活動は行ってはおりませんでした。完全に個人の趣味です」「ほう、そういや昔からと言ってたな。小学校の時とかからか?」「そうですね。町のコンテストに参加したりして賞を貰った事もありますよ」俺の貧相なボキャブラリでは伝えきれないが、上手さ以上に何か惹きつけられる絵をこいつは描いていた。町が主催する小さなコンテストで賞を貰うなんて当然の事だろうなと思った。「ま、俺は人の趣味にとやかく言うことなんてしない。思う存分そこで描いててくれ」そしてたまに見せてくれ。俺はたった一枚しか見ていないのにこいつの絵が好きになりかけていた。「はい。ありがとうございます」何に対して礼を言っとるんだ、こいつは。しかし、あの暴走機関車様に見つかると色々と面倒くさそうな事になりそうだ。私達も古泉君に負けてられないわ! 皆でコンテストに参加しましょう! とかな。ああ、言いそうだ。視線を古泉に向けると、いつもの笑みは消え、真剣な顔でスケブに向かっていた。お前が別のことをしていると俺はゲームが出来ないから暇なんだがな・・・。そう言いかけたが、あまりの真剣さに俺は言葉を胃の中に押し込めた。こんなに集中して描いてる奴を邪魔するのは良くないだろう。たまには朝比奈さんともゲームをするか。そう思って俺は朝比奈さんを誘った。そういや朝比奈さんとオセロをするのは久しぶりだな。いつ以来だったか。そうして俺達は皆、各々暇を潰していった。
――――ドカンッ!朝比奈さんとのオセロ二回目が終盤に達しようとしている時に、ドアがはじけ飛んだ。「おっくれてごめーん!」我らが団長様のお出ましだった。静かに入ってくることは出来んのか。「掃除当番で遅れちゃったわ。後片付けは面倒くさいから谷口に押し付けてきたけど」ハルヒに強引なお願いを頼まれて、辟易する谷口の顔が容易に想像できる。明日俺に絡んできそうだな。全く面倒くさい。「喉渇いちゃったわ。みくるちゃんお茶ちょうだ・・・い」ハルヒが目をキョロっとまん丸にして、古泉を見つめている。古泉は古泉で机の上にあるスケブを隠そうともしないで、ニコニコしている。「それ、古泉君の?」真っ先に思いついたであろう疑問をハルヒは口にする。「ええ、先ほどからここで描いていました」「へええ・・・。ちょっと見せてくれない?」ハルヒはニヤニヤした顔で古泉からスケブを受け取る。
「・・・」ハルヒの顔がニヤニヤから段々と真剣な顔に変わっていく。「・・・凄いわね。正直びっくりしちゃった」「団長からのお褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします」古泉は大げさに、恭しくそう言ってお辞儀をした。「ふーん・・・。あんたも見たの?」ハルヒが俺にスケブへ目を向けながら聞いてくる。「ああ、見た。本当に上手いと思った」「よねえ。これは隠れた才能だわ」俺もそう思う。これからは副団長兼SOS団絵描き係で良いんじゃないか。「そうねえ。みくるちゃんと有希も見た?」「はい、見ました~。古泉君凄いですよねぇ」「見た」あれ、いつの間に? 俺らが来る前か?「そう」長門は古泉の絵を見てどう思った?「とても上手。優れた能力を持っている」ほう。「長門にここまで言わせるなんてさすがだな」「いやあ、皆さんから褒められて僕も嬉しいです」珍しく照れくさそうにしながら古泉は言う。
「古泉君、一つ頼みがあるんだけど良いかしら?」ハルヒが唐突に古泉にスケブを渡しながら言う。「団長の命令ならば、いくらでも。何でしょう?」「前々からこの部室には華が少し足りないと思ってたのよ。 みくるちゃんと有希がいるけど、さすがに華が二つだけじゃ物足りないでしょう? だから何か絵を描いてきて欲しいの。そうね、鉛筆画じゃなくて色を着けた絵が良いわ。頼めるかしら?」ハルヒからこんな言葉が出てくるとは、ちょっと思ってなかった。それほどまでに古泉の絵描きとしての腕を認めているんだろう。自分の事じゃないが、なんとなく嬉しくなってしまった。「承りました。期限はいつまででしょう?」いつもの笑顔で快諾した副団長兼SOS団絵描き係が、団長にお伺いを立てる。「そうねえ・・・。何でも良いって言っちゃったし、何描くか迷っちゃうわよねえ。 でもだらだら先延ばしにするのもアレだし・・・」ぶつぶつ呟きながらハルヒは思案に耽る。そして決まったらしく、勢いよく笑顔で顔を上げた。「そうね、じゃあ一週間後までに頼めるかしら? 無理だったら少しくらいは延ばしてあげるわ!」「わかりました。何とか一週間で仕上げてみましょう」「決まりね。じゃ、任せたわ」「はい」それだけ言うと、ハルヒはいつもの団長席でネットサーフィンを始めた。ま、今回はやれやれと言う機会は無いだろう。俺に迷惑が被るわけでもないし、何しろ古泉の絵は俺も楽しみだ。それから俺達は長門が本を閉じるまで、古泉を除いていつも通りに団活を行った。暇つぶしとも言う。
それからの帰り道。俺と並んで歩く古泉に質問を投げかけた。「なあ古泉。今日のハルヒの頼みだが、何を描くつもりなんだ?」「そうですねえ。まだこれといって決めていません」ま、そりゃそうだろうな。たった数時間前のことだ。「ちゃんと一週間以内には仕上げますよ」「無理しなくていいぞ。確かに俺もお前の絵は楽しみだが、無理して期限内に描き上げても 質が下がった絵だったら残念だからな」「その点は大丈夫です。僕も納得いく絵を描くつもりですから」「そうかい」俺はそれを聞いて安心した。俺もちゃんとした絵が見たい。「ま、楽しみにしているぜ。副団長様」「ええ、ご期待に添えるよう、頑張らさせていただきます」そうこうして駅に着いた俺達はそこでいつものように別れた。
それから二日、部室では古泉はずっとスケブを睨んでいた。たまに鉛筆を動かしたかと思うと、すぐに消しゴムで消してしまうという行動をずっと続けていた。こんなにもこいつのニヤケ顔を見なかったことがあるだろうか。いや無い。と、反語を使うくらい古泉は真剣だった。絵に描ける情熱というか、そういうものがひしひしと感じられた。
そして今日はいつもの不思議探索の日だった。決まりきったことのように集合場所へ最後に着いた俺は、罰金という名の恐喝をされた。本当にこいつらはいつから来てるんだ・・・? 今日だって20分前くらいには着いたのに既に全員いたぞ。ちょっと気味が悪い。長門なんか前日からずっとここで待ってたりしてるんじゃないか? 絶対にないと言い切れないとこがまた怖い。
喫茶店でペアを決めるためのクジを引くと、今日は古泉とペアになった。絵の進展も聞きたかったとこだし丁度良いな。全員分の代金を払った俺はハルヒ達と反対方向に向けて、古泉と歩き出した。
「おい古泉、絵の調子はどうだ?」「あまり芳しくないですね。一応何を描くのかは決まったのですが・・・」ふむ、珍しく疲れた顔をしているな。それほどまでに神経を磨り減らしているのだろう。「ま、そんなに思いつめるな。前はああ言ったが、少しくらいは気を抜いてもいいんだぞ」「それは出来ません」少し語気を荒くして、古泉は言った。しまったとすぐに思った。「僕は絵に対しては嘘をつきたくありません。なので気も抜けないのです」軽率な事を言ってしまった。我ながら恥ずかしいな。「悪かった。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」怒気を少し含んでいた古泉の表情がハッとしてから、バツの悪そうな顔になった。「ああいえ、こちらこそ・・・。少し大人気ありませんでした」「いや良いんだ。下手なこと言った俺が悪い」「いえでも・・・」「真剣になっている奴に対して、気を抜けなんて言うほうがおかしい。お前は何も悪くないぞ」古泉の言葉を遮って俺は反論する。そうさ、こいつはそれほどまでに絵に対し真剣に向き合っているんだ。ハルヒのニキビ治療薬として力を与えられて、どんな時でも神人と戦い続けて。そんな苦しい生活の中で唯一の救いだったのが絵を描くことだったのだろう。だから、こんなにも古泉は真摯なのだ。絵に対して。
「あ、では一つ頼みを聞いてくれませんか」「なんだ? 言ってみろ」さっきのことで俺は大抵の事なら聞いてやろうと思った。「明日、ここから近くの公園で絵を描こうと思っているのです。それを見ててくれませんか?」俺は古泉の意図があまり汲み取れなかった。見てて欲しいとはどういうことだ?モデルならまだしも、いやまあ自分にそこまで自信は無いのだが、正直良くわからなかった。「見ているだけでいいのです、飽きたら帰っていってくれても構いません」本当にわからない。わからないがとりあえず、二つ返事でOKしておいた。「ありがとうございます。おそらく昼の一時くらいから描き始めると思うのでそれくらいに来てください」「わかった。差し入れでも持っていってやるよ」「恐縮です」その後取り留めの無いどうでもいい世間話をしていると、集合時間になったので古泉と駅前に戻ることにした。
昼の部は長門とだった。長門とペアになったら毎回と言っていい程、図書館に行っていた。そして今日も図書館へ行き、本を長門と読んでいた。
長門はびっしりと細かい文字で書かれた分厚い本を、驚異的なスピードで読んでいる。そういや長門も古泉の絵を褒めていたな。夢中になっているとこを悪いが、そのことについて聞いてみた。「長門、お前も古泉の絵楽しみか?」「・・・楽しみ」本から顔を上げ、長門が答える。「長門も古泉の絵が好きなんだな」「好きという感情はあまりわからない。しかし彼の絵を見ると心地よいエラーが起きる。 心地よいというのはどういう事なのかわからない。だがそれに対し、私という個体は悪くないものだと受け入れている」長門、それは感動っていう感情さ。あまりエラーなんて言葉で片付けちゃ駄目だぞ。「・・・感動」そう、感動だ。古泉の絵を見ておそらくお前はそう思ったんだろう古泉の才能は本物かもしれん。あの長門に感情を少しばかりでも芽生えさせたのだから。確かに会った時よりも長門は変わってきつつある。怒り、悲しみ、喜び、勝ちたいと思う気持ち。本当に些細だが、俺は長門の感情の機微を傍で見続けてきた。だが感動という感情を長門からまだ確認した事はなかった。すげえな古泉。「・・・そう」そう言うと長門はまた本に目を戻した。ま、これ以上読書の邪魔をするのも良くないだろうと思い、最後に付け加えるようにこう言った。「長門も何か創作活動でもしてみると良い。以前文芸部の機関紙を作ったように」長門は本から顔を上げず、ポツリといつもより聞こえづらい声で呟いた。「・・・考えてみる」
時間になったので長門と駅前に戻り、何も見つけられなかったハルヒの不機嫌ボイスを聞いて今日は解散となった。帰る際、古泉に呼び止められた。「先ほどのことですが、もしも用事があるなら来なくても本当に構いませんので」それだけ言うと古泉は駅へ向かっていった。・・・だからそういう言い方をされると行かなくてはならない気持ちになるだろうが。ま、無論行くつもりだけどな。どんな風に描くのか気になるし。そして俺は駐輪禁止の場所に止めておいた自転車に跨り、帰途についた。
次の日。天気予報によると今日はこの夏一番の暑さらしい。約束し、OKした手前行かなくてはならないのだが少し憂鬱だったのは秘密だ。公園へと向かう途中、コンビニで差し入れのジュースを何本か買っておいた。もちろん俺の分もだ。こんなクソ暑い中で水分補給を怠ったら脱水症状に陥りかねんからな。着いた時刻は大体一時前だったが、古泉は既にそこで夢中になって絵を描いていた。暑さを感じないのか? あいつは。大きなイーゼルとキャンバスを目の前に置き、筆を動かしていた。俺はさっき買ってきた飲み物を取り出し、古泉に近づいて声をかけた。「よう。精が出るな」「ああ、どうも。おかげさまで」俺に気付いた古泉は筆を止め、パレットに置いた。「ほら差し入れだ。ありがたく頂け」さっき取り出したアクエリアスを古泉に渡す。「これはこれは。ありがとうございます」蓋を開け、ゴクゴクと喉を鳴らし美味そうに飲む。「ふう・・・。暑さに少し参っていたところでしたので助かりました」「それは何よりだ。しかし本格的なものを持ってるな」「ああこれですか。以前賞を取った時に親にねだって買ってもらった物なんです」「そういやそんなこと言ってたな。これは油絵だよな?」「そうですね。キャンバスでは水彩絵の具を弾いてしまうので」「ふうん。で、何だったか。俺は見ているだけで良いんだよな?」「はい。そこのベンチにでも腰掛けて見ていてください」言われるままに俺はベンチに座り、筆を持ち再開した古泉の背中を見ていた。
で、時は冒頭に戻る。一時間くらい直射日光を浴びながら、俺は古泉がもくもくと筆を動かす姿を見ていた。買ってきたジュースは既に古泉の分を除き、無くなってしまった。というか古泉の分もこの暑さのせいで、すっかり温くなってしまっていたが。暑さでボーっとしていると古泉が立ち、こちらに向かってきた。「暑いですね、ちょっと堪りません」「そうだな。ジュースもすっかり温くなっちまった」古泉は温くなったジュースを苦笑しながら口に含んだ。「どうだ? 順調か?」「ええまあ、なんとか」汗を額に滴らせながら古泉は答える。「そういやさっきは見られなかったが、何の絵を描いているんだ?」「空です」「空?」空?「そうです。この抜けるような、そして今にも落ちてきそうな青空を描きたかったのです」手を空に向かって広げ、まるで小さな子供が何か嬉しい事があった時、それを親に伝えるかのように古泉は言う。青空、ねえ。またどうしてそれを描く気になったのだろうか。そう聞く前に古泉は自分から理由を口に出していた。「幼少の頃から僕は空が好きでした。特に青い空が。何故なのかと問われると返答に窮します。理由は自分でもわかりません。 しかし四年前、超能力者になってから僕は閉鎖空間の灰色の空を見続けてきました。 最近こそすれあまり無いのですが、昔は毎日のようにそれを強制的に見させられていました。実際、本当に苦痛でした」「・・・」「それからでしょうか。僕は以前よりも空の絵を描くようになりました。 ただの灰色の空なんて空じゃない。そう思って青空、夕焼け空、色んな空を描きました。 今回もさんざん何を描こうか迷いました。でも心の奥底ではやはり空を描こうと思っていたんでしょうね。 試しに少し、部室から見える空を描いてみるとこれしかないと確信することが出来ました。 それに涼宮さんに僕の渾身の空の絵を見てもらって、灰色の閉鎖空間に少しでも青空が反映されればと、淡い期待も抱いています」「ふむ・・・」「それだけです。たいした理由ではありません」「なるほどな。俺は立派な理由だと思うぞ、胸を張っていい」「あなたからそう言ってもらえるととても心強いですね」
中学一年生の時に古泉は神人と戦う事を義務づけられた。一般人の俺にとってそれがどれほど苦痛なのかわからない。昔はハルヒの精神は不安定だったと聞く。おそらく日に何度もあの変態空間が発生し、何度も戦った事だろう。下手をしたら死んでしまうかもしれない、そんな一介の中学生が背負うには重すぎる運命をこいつは今まで背負ってきたのだ。何度も何度も挫けそうになった、もしくは最悪死にたくなった時もあったのかもしれん。しかしその度に救ってきたのが、こいつの言う大好きな空を描く事だったのだろう。閉鎖空間が崩壊する時のあのスペクタクル。そこから覗く綺麗な空が今まであいつを助けてきたんだ。
「なので、あなたにはとても感謝しているんです」何をだ。あまり感謝されるようなことをした覚えは無いんだがな。「あなたが涼宮さんの傍にいることで、彼女の精神の安定化が進み、閉鎖空間もめっきり姿を見せなくなりました」別に俺がそうしようと望んだわけじゃない。あいつが無理矢理俺を引っ張ってきたんだ。じゃあSOS団なんかに入らなかったら良かったなんて、そんなこと言ったら嘘になるんだがな。「ふっふ、では僕は作業に戻ります」「あの灰色の空に色を着けられるよう、頑張れ」「ええ、全身全霊をかけて描き上げてやりますよ」
その笑顔は今までに見たことが無い笑顔だった。そう、いつも顔に瞬間接着剤で貼り付けているような笑顔じゃない。古泉が自分自身の真っ当な気持ち、心からの感情で作り出したごくごく自然な笑顔だったのだ。
それから三時間くらい経っただろうか。俺の傍には何故か長門が座っていた。先ほど、あまりの暑さに耐えかねて二度目の水分補給物資を買いにコンビニに着いたときだった。夕食の買い出しだろうか、弁当コーナーでジッと弁当を見つめたまま直立不動で立っている長門を発見したのだ。特にさしたる理由など無かったが、とりあえず声をかけておいた。「よう、長門。夕飯の買い出しか?」俺に気付いた長門がゆったりと弁当コーナーから、俺へと視線を移動させる。「そう」「そうかそうか。・・・もしかしてお前毎日コンビニ弁当なのか?」「そう」おいおいそんなの体壊すんじゃないか? 自炊すればいいものをと思ったところでこいつはカレーくらいしか作れない事に気付いた。俺が何を言おうか迷っていると長門が自分から口を開いた。「私は大丈夫。同じ有機生命体の形を取ってはいるが、栄養は偏り無く補給している」まあ、それなら良いんだが。たまには自分で色んな飯を作ってみるのも良いかも知れんぞ。長門の手料理ってのも中々乙なもんかもしれん。もちろんレトルトカレー以外で、だがな。
「あなたは」「ん?」「あなたは何をしているの?」珍しく俺の行動に興味を持った長門が聞く。「あ、ああ。古泉が絵を描くってんでそれの見学をしているんだ」「・・・」「公園で描いてるからな。暑くてしょうがないから飲み物を買いに来たんだ」そう、日陰も何も無いところなので死ぬほど暑い。一日で体重が数キロ減った錯覚を覚えるほど汗は垂れ流しだ。「じゃあ俺はそろそろ行くわ。古泉が倒れてたら怖いんでな」マジで。あいつ放っておくとずっと描いてるからな。たまに声をかけて水分補給をさせている。飲料スペースへ行き、何本かお茶を持ってレジで金を払い、店を出ようとすると急に腰辺りに負荷がかかった。驚いて振り向くといつかのように腰のベルトに指をかけ、俺を引き止めている長門の姿があった。「どうした? 長門」ちょっとビックリして情けない声が出そうになった。「私も行く」「どこへだ?」「古泉一樹がいる場所へ」
そうしてさっきの場面へと戻る。自転車の後ろに長門を乗せ、公園へと戻った俺達はさっき座っていたベンチに腰掛け古泉の背中を見つめている。買ってきた冷たいお茶であいつに水分補給をさせた時、かなり驚いてたな。
「どうして長門さんがここに?」「さっきコンビニで会ったんだ。で事情を話すと見たいと言ったので連れてきた」「そうですか・・・。こんなに暑い中、無理しなくてもいいんですよ?」俺にもそんな言葉をかけて欲しいもんだがね。「飽きたら帰ってくれても構わないと言ったじゃないですか」苦笑いを携えた古泉が言う。ふん。ただ暑いだけで飽きてないから俺は帰ってないだけだ。そこんとこ勘違いするんじゃねえ。「それはそれは。恐縮ですね」「私は平気」唐突に長門が口を開いた。「私は体温を自在にコントロールできる。暑さは感じていない」さすが対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。何でもアリだぜ。「それに退屈も感じていない。私のことは気にせず絵の完成を急ぐべき」「わかりました。今日中には無理かもしれませんが頑張ります」「・・・頑張って」なんと長門から応援の言葉が出てきた。なんとなく羨ましいぞ。微笑で答えた古泉は俺からの忠告を聞いたのか、一本お茶を取ってキャンバスへ歩いていった。
それから特に会話をすることも無く、長門とボケーッと見学していた。少し、空が夕焼けに染まりだしてから古泉がキャンバスに布をかけ、こちらに向かってきた。「今日はここまでにします。空の色が変わってしまったので」変にキザったらしく言うんじゃない。夕焼けに変わったで良いだろうが。「ふふ。空は空ですので」親が子供を諭すような口調で言いやがるのでちょっと腹が立った。「ああそれと、これから少し団の方へは顔をお見せできないかもしれません」「ああ、そのことに関しては俺がハルヒに言っておいてやるよ」「ありがとうございます。迷惑をかけて申し訳ありません」「良いよ別に。その代わりちゃんと完成させてこいよ」「ええ。お任せください」
それから片づけがあるので、と古泉が言うので先に帰らせてもらった。俺は長門を荷台に乗せ、さっき買えなかった長門の夕食をコンビニまで買いに行き、マンションまで送ってやった。マンションの前で降ろすと、長門から思いもよらぬ言葉が飛んできた。「今日は楽しかった」ただボーっと絵が描かれるのを見学するのがか?「そう」「それは良かった。絵の完成を楽しみにしていようぜ」「・・・」誰もがわかるような頷きで、肯定と俺に返す。「じゃあ、また明日学校でな」「また」そうして俺と長門はマンションの入り口前で別れた。
家に着いた俺は、汗で体がビショビショだったのですぐに風呂に入り、シャワーで体を流した。そして今日あった事を脱衣所で髪を拭きながら、反芻していた。古泉の絵を描く理由。長門の楽しかったと言う言葉。どちらも二人の内なる面を少し見ることが出来たような気がして、SOS団の仲間としては少し嬉しい気分になった。
それからハルヒが期限を言った日から、ちょうど一週間経った。つまり今日が〆切日である。古泉はあの公園で会ってから一度も姿を見せていない。倒れたりしてんじゃないかとなんとなく心配にもなったりしたが機関の人もいるし大丈夫か、と安心していた。ハルヒに古泉が来れない旨を伝えると、あっさり「そう」とだけ言って後は何も言わなかった。まあハルヒが自分から頼んだ事だし、そんなことでギャーギャー言う奴でもないしな。最近は。
とまあそうして一人欠けた状態で、いつものように団活を行っていたのである。長門は読書、ハルヒはネット、俺と朝比奈さんは通算・・・何回目だ? オセロに興じていたところだった。俺が朝比奈さんの黒い星を数個ひっくり返したところで、少し立て付けの悪くなったドアが不意に開いた。そこには大きなキャンバスを抱えた古泉が立っていた。「どうも。今まで休んでいて申し訳ありません」古泉はそう言うと重そうにキャンバスを地面に置いてから、謝罪の念を表すように深々とお辞儀をした。なんとなくホッとした気持ちになった。そういや少しやつれているな。飯食ってるか?「ええ、まあ」曖昧な返事を返す古泉。おそらくちゃんと食ってないんだろうな。後で何か奢ってやるか。「ちゃんと期限内に完成させてきたようね! さあ古泉君渾身の絵を見せて頂戴! もし私が気に入らなかったら描き直しなんだからね!」そんなことさせる気なんてさらさら無いだろうに、そんなことを一々言ってしまうのはこいつの性なんだろうか。実を言うと俺もちゃんと絵は見ていない。結局公園では絵ではなく、古泉の背中しか見てなかったことになる。本当に何で俺を呼んだんだ?「わかりました。あまり期待しないで下さいね」そう言うと古泉はキャンバスに掛けてあった布を外し、手でキャンバスを支え、俺達の前に置いた。
そこにはまるであの快晴を切り取ったかのような、青空が広がっていた。青く、透き通るような空の絵。俺達は全員が息を飲んだ。いつもなら真っ先に騒ぎ出すハルヒですら目をまん丸にして、キャンバスを食い入るように見ている。朝比奈さんは手を口に当て、目をキラキラさせながら小声で凄い凄いと連呼している。長門はいつもの窓際の席ではなく、絵に一番近い場所で凝視していた。俺? 俺はというと、何も言えなかった。まさかここまでとは思ってなかったからな。脳の言語中枢はすっかりフリーズしていた。
「凄いわ! エクセレントよ古泉君!」数分経ってから、団長が最大級の賛辞を大声で述べる。「これは額縁に入れなきゃだわ! 美術部とかどっかに余ってないかしら!」ハルヒは一人暴走していた。気持ちはわからんでもないが、またコンピ研の時のように強奪してくるなよ。古泉は古泉でニコニコと嬉しそうにしている。そりゃこれだけ自分の絵を気に入ってくれたら嬉しいだろう。ましてや神と崇めている存在にだ。天にも昇ることが出来る気持ちじゃないのか?「ふわあぁ、古泉君凄いです~」「・・・素晴らしい」朝比奈さんと長門も感動の一端を口から零れさせる。朝比奈さんはまだしも、長門にここまで言わせるなんて相当なもんだろう。ふと古泉に視線を戻すと、何故か俺を見つめていやがる。わかってるよ、俺も何か言えばいいんだろう。「やるな、古泉。これならお前の願いも達成できるんじゃないか」「ありがとうございます。僕も矮小ながら自信はあります」そう言って古泉はまたあの時のような笑みを浮かべた。歳相応な、高校生らしい笑顔を。
「じゃあ私ちょっと美術部行ってくるから!」ハルヒはそう言うとドアを蹴り破らんばかりのスピードで駆けていった。またSOS団の悪評が飛び回りそうだ。取り残された俺達団員はまだ古泉の絵を見ていた。そこで俺は頭の中にあった疑問を古泉にぶつける事にした。「なあ古泉。どうしてあの日俺を呼んだんだ?」そう、あの古泉見学デーのことである。俺は未だに理由がわからなかった。「ああ、そのことですか。たいした理由ではないのですが」「いいから言え。逆に気になる」「ええとですね、本当にただ僕が絵を描く姿を見ていて欲しかったのです」「うん・・・? だからわからんと言ってるだろうに」「僕は貴方のことを友達以上の存在だと思っております。貴方が僕のことをどう思っているのかは知りませんが。 そういった存在の人に僕が真剣に取り組んでいるところを見て欲しかったのです。 貴方の中の僕はおそらくいつもニヤケ顔を携えている奴という印象が強いでしょう」まあな。しかし今まで一緒にSOS団で奮闘して来た仲間だ、俺だってお前の事を国木田や谷口達以上の存在だと思ってるさ。「ありがとうございます。なので僕だって本当に真剣になれる事もあるんですと、伝えたかったのです」なるほどな、つまるところ自分を認めて欲しかったという事か。「そんなところです。で、どうでしょう?」と、少し自信なさげなスマイルを携えて古泉は俺に聞く。ふん。言わずともわかるだろう。聞かなくてもいいことを聞きやがって。「それはずるいですね。僕も勇気を出して行動を起こしたのです。貴方も言葉という行動で返してもらいたいものです」
チッと軽く舌打ちをしてから俺は正直な気持ちを言った。「ああ、凄いよお前は。大したもんだ」これで良いか? と最後に付け加えると古泉は「はい。努力した甲斐があったというものです」そう嬉しそうに言っていた。
それから一時間くらいして、団長様がおそらく美術部から持ってきた、ないしは強奪してきた大層な額縁を抱えて部室に飛び込んできた。これに古泉の絵を入れて、部室に飾るらしい。ハルヒの提案に俺や他の皆も快く同意した。美術部に後で謝りに行かなきゃならんがな。
そして高校三年生になった今でも古泉の絵は部室に飾られている。あの、今にも落ちてきそうな空が。透き通るような青で描かれた空が。機関としての人間ではなく、一人の少年が描いた空が。俺達SOS団を見守るように、飾られている。
おわり
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