涼宮ハルヒは夜しか泳げない
自分は世界の中心なんかじゃない。 世界が自分を中心に回ってるなんて考えたことなんてなかった。 でも、まざまざと思い知った。私は、世界の前では「その他大勢」でしかないんだ。 野球場でのこと以来、世界が違く見えた。 楽しい会話の中で、隙間を感じていた。 クラスの男子が馬鹿をする。誰かがそれを茶化す。笑いの輪の中で、ふっと、冷静になる瞬間。 こんなことが、本当に可笑しいのだろうか。本当に、楽しいのだろうか。 考え始めると、どんどん隙間は広がっていって、私は話しながら、笑いながら、遠くからみんなを見る。 私は、どこにいるんだろう。 夜、ベッドの中で布団に隠れて考えてみる。 もしも私がこのまま毛布の中で小さくなっていって、見えないくらい小さくなって、消えてしまったとしたら。この世界はどうなるんだろう。 私と一緒に消えてしまうんだろうか? そんなはずはない、世界は私のことなんかに構っている暇がないんだ。 毎日毎日、おんなじように回ることで精一杯なんだ。私がいてもいなくても、明日は来る。 私の大好きな人たちもいつか私のことを忘れてしまって、 …私は、誰なんだろう。私は、なんのためにいるんだろう。 考えても考えても、答えなんてひとつも出なくて、泣きそうなくらい寂しくなって、喉がきゅんと締め付けられて、呼吸がしづらくなった。 空気が重くなって、まとわりついてくるような。 誰か、 誰か、 誰か私を 「そりゃ、そんな底でじっとしてたら苦しいにきまってるさ」 どこからか声がした。 遠いようで、頭に響くようで。 「ほら、いい夜だよ。泳ぐにはもってこいだ」 泳ぐって、どうやって? 「昔とかわらないさ。さぁ、空気を蹴って」 毛布から顔を出すと、真夜中だというのに部屋は明るかった。 カレンダーの日付がはっきりと見える。 窓の外にはレモンソーダのグラスみたいに澄んだ月。絵本みたいに非常識なサイズの月が夜の景色の中で浮いて見えた。 「どうしたんだい、夜は短いんだ、さぁ早く」 「私、泳ぎ方なんて知らないわよ」 少し不機嫌な声で、その人は言う。 「ちゃんと教えただろう?まぁ久しく泳いでないから忘れるのも仕方がないかな」 私はなぜか申し訳ない気分で一杯になった。その声が、ほんの少し寂しそうだったから。 「よし、じゃあちょっと手伝ってあげよう。目をつむって、息を止めて」 迷ったけれど、私は声の言う通りにした。 目をつむっても、月明かりはぼんやりと感じることができた。 「嬉しかったことを思い出してごらん。なるべく、最近のことを」 嬉しかったこと、何かあったかしら。今夜はなんだか嫌なことしか思い出せないような気がする。 なやんでいると、その人はぼそっとした声で諭す。 「今日の晩御飯は、何だった?」 …そうだ、今日はカレーだったんだ。この間ハヤシライスだった日にカレーがよかったな、って言っちゃって。お母さん不機嫌になったのに、覚えててくれたたんだ。 「おいしかった?」 当たり前よ!お母さんが作ったんだから、おいしくないわけないじゃない。 「そりゃよかった。よかったことってのは意外と忘れがちだからね」 そういわれてみれば、わりとたくさんの嬉しい出来事が見つかった。 指を折りながら数えていたら、ずっと、ずっと昔のことまで思い出すことができた。 もっと昔に、何か嬉しいことがあった気がするんだけれど、何かモヤモヤとしてはっきりしない。 見えない蜘蛛の糸に捕まってしまったみたいで、私はうーんと頭をひねった。 「もう少しで、思い出せそうなんだけれど」 「それじゃあ、ばた足みたいに足を動かしてごらん。そうすると血がめぐって頭の回転がよくなるから」 そういえば聞いたことがあるわね。ずっと机にむかっているよりも散歩をしているときの方が脳が活発になる、って。 毛布の中でモゾモゾと足を動かす。 うーん、もっと、もっと昔に何かあったような。 うーん。 毛布がずり落ちても、気にせずずっと足をバタバタさせる。 うーん、うーん。 「さぁハルヒ。息を吸って、目を開いて」 え?ああそうだった。 目を閉じていたんだった。あまりにも月が明るくて、まぶたを閉じても届くからわすれていた。何で今日はこんなにも月が明るいんだろう。 目を開くと、月が目の前にあった。 「えっ?」 私の体は送電線の上。ベッドに寝ていた姿勢のまま夜の風に吹かれていた。 「えっ?」 「絶対にうつむかないで。上を向いたまま、上に泳いでおいで」 ばた足の幅を大きくして、体をくねらせる。緩やかな風に乗って、私の体はふんわり高く昇っていく。 上空の空気は冷たく透き通っていて、体が軽い。耳の中で空気が音をたてて回る。 月も星も、撫でてしまえそうなほどに近い。 地面から遠く離れてしまって、回りに距離感がつかめるものがなくなったので、私は自分がどこにいるのかわからなくなった。 でも、それはそれで心地がよかった。 ビルの群れの向こう側に、街の灯も星の光も見えないところを見つける。 あそこは海。私の家は海から遠いのに、高いところからなら簡単に見ることができた。 少し強い風が、火照った頬を冷やしてくれた。 鼻が、胸が、むずむずした。 「すごい!私、本当に飛んでる!」 突然走り出したい衝動に駆られたけれど、ふわふわ浮いているから出来なかった。 「正確には泳いでるんだけどね。どうだい、久々に泳ぐ空は」 どこかから聞こえていた声が、今度は真後ろから聞こえた。 振りかえるとそこには、大きな鯨が優雅に泳いでいた。 「うん、どうしたんだい?黙り込んで」 「…魔法みたいに連れ出してくれたから、私、てっきりピーターパンみたいな男の子かと思ってたわ」 「残念だけど、子供だけの国には招待してあげられないよ」 愛嬌と魔法の粉を振り撒いてくれるかわいらしい妖精もいないしね、と鯨は言った。 「ねぇ、どうやって私を浮かせてるの?あなた超能力でも持ってるの?それとも、鯨はみんなこうなの?私、本物の鯨なんて見るのはじめてだからどんなのが普通かわからないけど、飛ぶなんて知らなかったわ」 「鯨?超能力?」 大きな口をぐわっと開いて、空気を震わせずに鯨は笑った。 「な、なによ!」 「そうか、君には鯨に見えるのか。うん、なるほど」 優しそうな大きな目で私を見て、鯨は言う。 「他の鯨はどうか知らないけど、わたしは別に念力だとか神通力だとかそんなようなものは持ってないよ」 「じゃあ、なんで」 「重い液体の中に軽いものがあると、それは浮くだろう?あれと同じさ。君は今、夜に浮けるくらい軽くなったんだよ」 それだけさ。そう言って鯨は尾びれを振る。 なるほど。難しいことはよくわからないけど、なんとなく納得した。 そんなことよりも、今はこうやって空を泳げていることが嬉しくてたまらなかった。 どうせなら腰から下が人魚みたいならよかったのに。イルカみたいにフリップしてみようとしたけど、うまくいかずに、私はふよふよと後ろに漂うように流れていった。 それをみて、鯨はまた大きな口で笑った。 「その様子だと、本当に忘れてるみたいだね」 「えっ?」 「昔も今日みたいに飛んでたことさ」 しばらく練習して、少しは自由に泳げるようになった私に、彼は言う。 「まぁ仕方ないかな。ずいぶん昔のことだから」 「…ごめんなさい」 「そんな、謝らなくてもいいよ。今はこうやって泳げてるんだからね」 彼は月に腰掛けて、尾びれをひらひら振って言う。 ビルのアンテナくらいまでしか泳げない私は、高くまで泳げる彼がうらやましく思えた。 「さて、もうそろそろ時間かな」 彼は月から離れ、私の方へけのびをしてきた。その反動で、月はゆっくりと動き出す。 「ハルヒ、君ももう帰りな。これはお土産」 彼は口にくわえていた星を手のひらにのせてくれた。一息で飛んでいってなくしてしまいそうなそれは、蛍みたいに熱を出さずに輝いていた。 とてもきれいで嬉しいけれど、 「私、まだ帰りたくないわ」 彼は困ったような顔をした。 「駄目だよ、こればっかりは」 「どうして!?」 せっかく泳げるようになったのに。 まだ、まだ高いところまで泳ぎたいのに。 「説明すると長くなるから、はやくしないと」 「…また、夜に連れ出してくれる?」 「わかった。約束しよう」 彼は、私を背中にのせて家の屋根まで運んでくれるという。 「危ないからちゃんと掴まってて」 うん、と返事をしようとしたけれど、その時にはもう彼はすごい速さで泳ぎ始めていたから、声に出すことができなかった。 …うらやましい。 高いところまで行けるだけじゃなくて、こんなに速く泳ぐこともできるんだ。彼の背中は広くて、熱くも冷たくもなくて、すべすべとした感触がした。 私の家の上まで、あっという間だった。 「ありがとう。あとは自分で泳いで帰るわ」 掴まっていた背びれから手を離す。 ふっと、体が重くなるのを感じた。 「えっ」 耳元ですごい勢いで風がなく。ハジャマがバタバタと暴れだす。 泳げない。 彼が、星が、月が飛んでいってしまったみたいに離れていく。 離れてるのは私の方。肩越しに後ろを見る。 私の家の屋根って、上から見たらこんな形なんだ。 だんだん細かいところまで見えてくる。鋭くて武骨なアンテナがすぐ近くに、 ああ、 「……痛い」 背中から落ちたけれどあまり痛くなかったのは、私より先に毛布がベッドからずり落ちていたからだった。 目の前には電器のヒモがだらしなくぶら下がっている。真っ白い天井は、朝の光で照らされていた。 「あ、そうだ!星は!?」 彼からお土産にもらった星は、どれだけ探しても見つからなかった。 落ちたときになくしてしまったのかしら。 あれだけ小さいものだから、もう見つからないかもしれない。 呆けていた私に目覚ましがヂリリと鳴いて、今日も動けと言った。 「いってきます」 扉を開けて、朝の空を見上げる。 雲がひとつもなくて、鉄塔や送電線がなければ不安になってしまいそうなくらい広い。 昨日の夜、私はあそこを泳いでいた。 そう考えるだけで、鼻の奥がむずむずした。 たんっ、とはずみをつけて跳んでみる。すぐに墜落して、背中の鞄につけたキーホルダーがじゃらじゃらと鳴る。 やっぱり、夜しか泳げないのかしら。 手を伸ばしてみたけれど、空は憎らしいほどに高い。でも、いい。きっと、夜になればまた。退屈な朝だけれど、夜のことを思えば少し希望が見えた気がした。 嘘つき。 あれから一週間、彼は現れなかった。夜、窓を開けて待っていた。そわそわして部屋のなかをうろうろしたり、じっと空を見つめていた。 でも、彼は迎えに来てくれなかった。 声も聞こえなかったし、空に鯨の影は見えなかった。 ふっ、と。不安になった。 やっぱり、夢だったんだろうか。彼のくれた小さな星も、結局見つからないまま。 今日は、もう寝てしまおう。毛布にくるまる。もうそろそろ、毛布でも暑い季節になってきた。 明日また暑いようだったら、タオルケットを出そう。 ひゅわっ、 部屋の中に、涼しい風が吹き込んでくる。 机の上のノートが、壁のカレンダーが、はらはらと音をたてる。 部屋の中に、ぼうっと蛍のような光が浮かぶ。 「あっ」 彼のくれた星だ。 蛍光灯の紐や壁にぶつかったりしながら、開け放たれた窓から逃げていく。 「ごめんね、なかなか会いに来れなくて」 彼の声に、私は急いで毛布から飛び出した。踏み出した勢いで、私の体はふわりと浮いた。 輪をくぐるイルカみたいに、窓から外へと飛び出す。 「遅いじゃない!」 もう、来てくれないんじゃないかと思った。 あたりを見渡す。 偉大な鯨の影を探す。 「ごめんごめん、急いで片付けないといけない用事が重なってね」 声はすぐ後ろからした。 我が家の屋根の上で、燕尾服を着こなした兎が恭しく礼をしていた。 姿は違っていても、私にはそれが彼だとすぐにわかった。 「今度こそ不思議の国に連れていってくれそうな格好ね」 「格好だけ、だけれどね」 彼の耳と髭が夜風になびく。上等な生地のジャケットが、月の明かりでなめらかに輝く。 「あなた、はいったい何者なの?」 「なんだと思う?」 彼はにこりと笑って、ふわりと浮かぶ。 引力から解き放たれたみたいにゆっくり高くあがっていく彼に置いていかれないように必死で泳ぐ。 「えぇと、天使か、神様かしら?」 「神様、ねぇ」 彼は考える人みたいなポーズでくるくる回る。 「…そんなに、似てる?」 「そういえば、そんなに似てないわね。神様は大体いつも人間の形だもの」 「似てないのか、ならよかった」 よほど神様が嫌いなんだろうか、彼は嬉しそうにくるくる回る。 さっきらか何度も回っているけど、目は回らないんだろうか。気持ち悪くなって、落っこちてしまったりはしないだろうか。 あ、そうだ。 「ねぇ、この間、何で私泳げなくなっちゃったの?いきなりだからびっくりしたわ」 「ふむ」 顎をさすりながり、彼は考えるフリをする。にやにや笑っているんだから、絶対真面目に考えてなんかいない。 「なんでだろうねぇ」 「教えてよ!」 「それはハルヒが一番よく知ってるんじゃないかなぁ」 どういうことだろう。わからないから聞いてるのに、いじわる。 「…ヒントくらいは頂戴よ」 「じゃあ、ひとつだけ。軽くないと夜は泳げないよ」 …あ、 「つまり、その」 「ハルヒが何を考えてるかなんてわからないけれど、多分正解」 「……ごめんなさい」 不思議そうな顔で彼は言う。 「なんで謝るのさ。怖かったのはハルヒなんだから」 それでも、私は謝りたかった。 今日の彼は、この間とは違う泳ぎ方を見せてくれた。屋根や電線にふわりと降りては、けのびするみたいにして昇っていく。 昇りきった上空で、彼はしばらくふよふよと漂うように泳ぐ。私も真似をしてみたけれど、彼みたいに身軽には泳げなかった。 彼の白い毛並みは、月の光を反射してきれいだった。 月にうさぎがいないのは知っているけど、月にうさぎはよくあっていると思う。 昔の人が勘違いしたのもわかる気がする。 こんなにきれいなんだから。 「毎日が楽しくないって?」 「そう」 鉄塔のてっぺんに並んで座って、彼と話をする。 でも、彼は自分が何者かは教えてくれなくて、私の話を聞いて楽しそうにしているだけだった。 「でも、友達はいるんだろう?」 「うん。だけどね…」 私は、彼になら遠くに離れてみている私のことを話してもいいかな、と思った。 彼になら、何を話しても許してくれそうな気がした。 「そうだ!いいことを教えてあげよう!」 急に大きな声で彼が言うから、私の大事な決心は消し飛んだ。 「いいことって?」 「暗号さ!」 彼が教えてくれたのは、私とおんなじように退屈していて、一緒に退屈を吹き飛ばしてくれるような人を呼ぶ暗号だという。 「ややこしい形ね…覚えるの大変そう」 「そうかい?簡単だよ」 彼は星を並べかえてもう一度空に描いた。適当な線みたいで、覚えにくい。 手のひらに何度も練習していると、彼は懐から時計を取り出して取り乱した。 「いけない!もう夜が終わってしまう!」 「えっ、もうそんな時間!?」 彼は急いで時計のねじを巻いたり、月を蹴り飛ばしたりした。 「私に何か手伝えることは?」 「あぁ、ありがとう、でもこれは僕の仕事なんだハルヒは急いで家に帰りなさい、朝は影について厳しくて、絶対に許してくれないから!」 「影?」 私は足元を見た。そういえば、いつも私につきまとっていた影がない。 「夜は優しいから時々許してくれるけれど、朝や昼は容赦なく影を作るからね!」 なんで影があるとダメなのか聞こうとしたけれど、忙しそうに飛び回る彼に悪いような気がしたから言われた通りに家に向かった。 「じゃあ、またね!」 彼は、軽く手を振って応えてくれた。 「じゃあ、あの暗号を書いたお札を学校じゅうに貼ったのかい!?」 「そうよ」 あれからまた一週間くらいたった夜、彼はまた私に会いに来てくれた。前よりも高いビルの上で、魚に餌をやりながら話をした。 「………っ」 「…どうかした?」 「あはははははははっ!君はすごいな!まさかそんな風に使うなんて!」 彼は長い尻尾をぐねぐね振って、喉をぐるぐると鳴らして笑った。 今夜、彼は猫だった。 「なっ、なによ」 「いやね、今まで何人かに教えたことがあったんだよ。でも、だいたいの人は紙に書いて枕元に置いたり、お気に入りの本に栞みたいに挟んだりしててね。まさかこんなに派手にアピールするとはね」 「だからって、なんでそんなに笑うのよ!」 呼吸困難になるくらい笑うなんて。ちょっと拗ねる。 「あはは、君は本当に変わりたいんだね」 「どういうこと?」 まだ落ち着かない呼吸で、彼は言う。 「変わりたい、って思ったり言ったりしていても、いざチャンスが与えられたら急に臆病になる人が多い。いや、ほとんどの人がそうだ。 僕が今まで出会ってきた子どもたちも、結局は誰かが助けてくれるのをじっと待ってるだけだった。」 へんなの。私だったら、そんなチャンスいつだって大歓迎なのに。 笑ったはずみで彼がばらまいた餌に、魚がきらきらと群がる。 「君みたいな人は素晴らしいよ。きっと君みたいな人が、世界を変えるんだ」 そんな、大袈裟な。 でも、私を見つめる黄金色の瞳は真剣だった。 真っ直ぐで澄んでいて、夜みたいな彼の毛並みに浮かぶ満月に見えた。 「大人になる時、人はいろんなものを削っていく。要らないものも、大切なことも。その要らないものの中で一番大切なものを、ハルヒはずっと守っていけるよ。きっと」 彼のウインクで、新しく星が生まれた。魚たちは驚いて、放射状に逃げていく。 朝、いつのまにかベッドに戻っていて、頭の向こう側で目覚まし時計が鳴っていた。 頭をはたいて黙らせたとき、ふっと思った。 そうだった。私もいつか、大人になるんだ。 ある日突然大人になっているんだろうか。それとも、気付いたら大人になっているんだろうか。私は、大人になるんだ。ぼんやりと、変な感じがした。 それからしばらく、彼は姿を見せなかった。 彼がいなくても泳げるんじゃないだろうかと、ベッドから飛び立ってみたけど、私はすぐに墜落して、下の階で寝ていたお母さんを怒らせただけだった。 その朝は、拍子抜けするほど唐突にやってきた。 寝覚めが悪くて、なかなか起き上がれずにいた。 寝直したいけど、時間はどうだろう。まぁ、いいや。そう決心して寝返りを打つ。 不快な感触に、どきりとした。 「え?」 どうしよう、まさかこの歳でしてしまうなんて。 焦って、身動きができなくなる。どうしよう。でも、このままじっとしているわけにもいけないし。 おそるおそる、触れてみる。確実に湿った感触が伝わって、落ち込む。どうしよう。 違和感に気づいたのはその時だった。 腐ったサビような、鼻をつく臭い。 それに気付いて、瞬間に私は言葉を失った。 「大丈夫よハルヒ、病気じゃないわ」 私のシーツを片付けながら、お母さんは言う。 「…本当?」 「授業でまだ教わってないのかしら」 こんなこと聞いたことがなかった。私は顔を横に振る。 「教えておいた方がよかったわね」 お母さんは優しく、私の頭を撫でる。 「ハルヒは、みんなよりちょっとだけ早く大人になったの。これはその印なのよ」 ぎゅっと抱き締められた私は、また遠くから自分を見ていた。 抱き締められている実感なんてなくて、お母さんの腕の暖かさなんて全然届かなくて、寒いところへ突然突き放されたみたいだった。 名前を呼ぼうにも、私は彼の名前を知らなかった。 一人でも飛べないかと思ったけれども、昼も夜も、影がついてきた。 彼がくれた星は、そういえば、あの夜逃げていったままだ。 夕方にまでふらふらやってきた星を見て、あのときにちゃんと捕まえておけばよかったと、 どうしようもない気持ちになる。 夜、窓を開けて空を見上げてみる。空を遮るほどの偉大な鯨も、月がよく似合う飄々としたうさぎも、夜そのものみたいな猫も 見つけることができなかった。 …大人になってしまったから? 大人になって、彼の言っていたものをなくしてしまった? 私の楽しめる場所は、泳げる場所は夜だけだったのに、夜しか泳げなかったのに、夜にさえ許してもらえなくなってしまった。 今日は月が綺麗。 彼は、あそこまで泳いでみせた。いつか君も届くよ、と。 今となっては、全部が嘘なんじゃないか、最初から夢だったんじゃないかと、疑ってしまう。 きっと、今の私は泳げないほどに重いだろう。 余計なものを捨てて、重くなったんだろうか。 私は、もう大人なんだろうか。 月に手をかざしてみても、残酷なほど遠い距離がはっきりわかって、余計に寂しくなるだけだった。もう泳げないのなら、二度と月には届かない。 彼の言ったいつかなんて、来るはずがない。 指の間から、小さな月が見え隠れする。 嘘みたいにくっきりとした小さすぎる月は、私の細い指にでも全部隠れてしまう。 頼りなさげな月は、ぼんやりと光る。 月が現れると、星がぼやける。月が隠れると、星がよく見える。 星。 「ちょっと、どこに行くの?こんな時間に」 そうだ、 彼は私に教えてくれた。 「友達ん家!親戚から竹切ってもらったんだって」 星を、並べかえて。 「そう、あんまり遅くならないようにね」 あの暗号を。 「うん、いってきます!」 描こう。あの暗号を、彼に見えるように描こう。遠く離れてしまった月からでも見えるように。 笹の葉に紛れてこっそり願うんじゃなく、大切な人に届くように。 今日は、願いが叶う夜。待ち望んで、二人が出会う夜だから。 おわり
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