まぞ☆もり2
遠くで虫が鳴いている、蒸し暑い夜だった。 赤信号の光に、僕がペダルを漕ぐ足を止めると、僕の右手にぶら下げられたコンビニエンスストアのビニールの袋が、カサカサと音を立てた。 時刻は二十三時。信号機の赤い光の玉のすぐ隣に、僅かに書けた丸い月が浮かんでいる。 信号が青に変わるのを待ち、横断歩道を渡る。交差点を右に曲がると、機関の寮の裏門に取り付けられた、オレンジ色の蛍光灯が光っているのが見えた。 やがて、蛍光灯の光の元に、僕はたどり着く。 自転車を止め、常温のスポーツドリンクが二本だけ入った袋を手に、急ぎ足で屋内へ向かう。 エレベーターで四階へ移動し、一番奥の部屋。表札には何も書かれていない。僕と森さんの暮らす部屋だ。 「森さん?」 玄関に入り、室内に向けて声をかける。返事は無いが、居間の電気がついていて、そこからうー、うーと唸る声が聞こえる。 ダイニングの食卓の上にスポーツドリンクを置き、居間を覗く。二人掛けのソファの上に、横になってうずくまる森さんの姿があった。 月に一度。おそらくこの世で唯一の、彼女が恐怖する痛みが、彼女の体を襲う期間。 今日はまさにその、佳境の日だった。
「森さん、スポーツドリンク買って来ましたよ。今飲みます?」 「……冷たくない?」 「はい、大丈夫です」 「薄くして」 いつもの彼女と比べて、極端に口数が少ない。 うずくまった体勢では、表情も見て取れないため、一瞬、長門さんあたりと会話をしているような気分になる。 僕は言われたとおり、ガラスのコップに半分ほど、スポーツドリンクを注ぎ、そこに常温のミネラルウォーターを注ぎ、彼女の元に届ける。 森さんは体を起し、ソファの背もたれに力なく体を預けて待っている。細い両手が、コップをしっかりと握ったのを確認し、手を離す。 彼女がスポーツドリンクを飲んでいる間に、僕は洗面所からタオルを持ってきて、蛇口の水でぬらし、固く絞ったあと、電子レンジへ放り込んだ。 「まだつらいですか?」 「……少しマシになった」 「何か食べます?」 「それはまだいい」 引き続き長門さんモードの森さんは、コップの中身にちびちびと口をつけながら、僕に掠れた声でそう返した。 クーラーの風が、僕の足元とフローリングの床を一度に冷やしている。 電子レンジが声を上げるのを待って、僕は彼女の元にタオルを届ける。 「頭に乗せます?」 「お腹がいい」 そういうと、彼女はコップを右手に持ち替え、左手でタンクトップのすそをたくし上げる。 白いお腹と、その中心にぽっかりと空いたくぼみに、一瞬僕の左胸が高鳴る。 何を今更。と、心の中で呟き、僕は彼女の穿いているホットパンツのホックを外し、チャックを下ろし、下腹部を露出させる。 黒い下着と白い肌の境目の辺りに、湯気を立てるタオルを乗せる。うー。と、森さんが唸る。 「入院中のほうが楽だったなー」 「退院していきなりこれですもんね」 「お前はいいなー古泉、コレが無くて。私もコレが無いなら、男に生まれたかった」 含み笑いをしながらそう言う口調は、最も過酷なときのそれと比べれば、随分と余裕を取り戻しているようだった。 彼女の言うとおり、僕には生理の経験はない。よって、そのつらさがどの程度のものなのかは分からない。 しかし、彼女のそれは同年代の女性たちが覚える症状と比べて、いささか重過ぎるものであるようなのは分かった。 と、言うよりも、彼女自身がそう言うから、そうなのだろう。という程度のことなのだが。 「この世にこの苦しみさえ無かったらなー」 「この世で唯一、森さんが怖がる痛みですもんね」 「ばか、他にも少しはあるよ。なあ、それよりもうちょっと味のあるもの飲みたい」 「いいですよ、何がいいですか?」 「レモネード。アメリカンなほう」 彼女の唇がにやりと半月形を描く。彼女が所望しているのは、レモネードとは名ばかりの、レモンと砂糖とシナモンを入れたホットワインだった。 「ワインがないんですよ、ザンネンながら」 「じゃあ透明なほうでいいや。てか、そっちのがいい」 そういって、森さんは再びソファに体を預けた。 僕の見る限りも、彼女の体が今、アルコールを求めているとは思えない。 冷蔵庫からレモンジュースの瓶を取り出し、きつめのレモネードを作る。 「閉鎖空間が出なくて良かった、一昨日から」 グラスにストローを添えたところで、彼女がぽつりと呟く。 「もったいないもん、こんなときに出たら」 僕はなんと返すべきか少し考えた後、それが彼女の独り言であるという事実に思い当たり、小さくため息をつく。 「サンキュー」 僕が無言でグラスを差し出す。彼女はストローに口をつけ、ふう。と息を吐く。 手持ち無沙汰になった僕は、彼女の右隣のスペースに腰を下ろし、左手で、汗によって彼女の額に張り付いた髪の毛を指先で取り払う。 上気した肌に触れていると、やがて彼女の上半身が、こつりとこちらへと倒れこんでくる。 濃く濃密な匂いを孕んだ彼女の頭が、僕の左胸の辺りにくる。 僕は心臓の音が彼女に聞こえてしまわないかと、下らない心配をする。 先週まで続いた治療で、彼女の体は幾分軽くなっているようだった。 強がってはいたものの、体中の傷を完治させるのに掛かった体力は、傷の重さ相応の、多くを要したようである。 つい先日まで包帯に包まれていた彼女の肩に、僕はそっと手を乗せる。 お互いの汗によって、濡れた肌同士がぺたりとはりつく。 「最近優しいなお前」 彼女が髪の毛の間から僕を見上げ、軽口をたたく。 何か言葉を返す代わりに、僕はため息をつく。 森さんの言うとおり、僕は近頃彼女に甘い。大概のわがままは聞き入れているし、自分で言うのもなんだが、日常生活では、彼女が女王様のようだった。 「やっぱりお前、私が好きなんだな」 その一言で、僕はあの日、彼女が入院した初日の病室でのやりとりを思い出す。 そして、そのときとまったく同じ思考を走らせる。 僕は森さんが好きなのだろうか? 彼女の体から立ち上るにおいを嗅ぎながら、考える。 やがて、前回と同じ答えに行き着き、僕は三つ目のため息をつく。 「ええ、好きですよ」 「あれ、素直になったな」 「この状況でそれを聴くのはズルです」 森さんが笑うと、彼女の体と僕のからだが触れたところを介して、彼女が揺れ動くのが伝わってくる。 それが一瞬、彼女が体を痙攣させているような気がして、僕はひやりとする。 「耳の後ろの傷、消えたな」 彼女の指先が、僕の髪の毛を掻き分け、敏感な部分に触れる。 ひと月前に彼女に噛まれたその箇所には、もう痛みはない。 「新しいの、つけてやろうか」 「元気になったらにしましょう」 「そうだな。明日だな」 そういって、彼女は再び体を僕に預ける。 僕は不意に、今、携帯電話が鳴らないものかと心配になる。 「あのさあ、さっき、私にも怖いものがあるって言っただろ」 「ええ」 「知りたくないか? 私の弱みだぞ」 「罠っぽいですね。まんじゅう怖いですか」 「あはは、そうかもな」 短く笑った後 「私さ、怖いよ。閉鎖空間が」 彼女は、言った。
窓の向こうで光る夜の街の光景が、一瞬、閉鎖空間を舞う狩り手たちのように見える。 窓を開けたら、涼しい風が入ってきそうだった。 「あそこにいるとさ、自分がどんどん取り返しが付かなくなってくのがわかるんだ」 森さんはぽつぽつと、空中に風船を浮かべるように語った。 「こないださ。あのイカみたいなのにやられたとき、武装を解いて落下したの。あれ、わざとだった」 僕の記憶の中に、ひと月ほど前。彼女と共に戦った、あの三体の神人たちの姿が蘇ってくる。 僕には東京タワーに見えたあの神人は、彼女にとってはイカの神人であったようだ。 「吹っ飛ばされながら、このまま落ちたら、どうなるんだろうって思ったの覚えてるんだ。そしたらもう、体が言うこと利かなかった」 「僕を助けてくださった、あの日、ですよね?」 「助けたのかな。どうなんだろう」 少しの沈黙の後 「私はただ、あそこから落ちたかっただけかもしれない。そう考えると、怖くて怖くて仕方ないんだ」 僕は黙っていた。 「最高だったよ。お前も狩り手なら、わかるだろ? ドキドキした、頭からどんどん血が抜けてくのが分かってさ。 全身がぞくぞくして、ドンドン体が軽くなって。ああ、こりゃイッたなって思ったよ、正直。 だって、あんな最高の気分が、人生の最後じゃなかったら、そのあとの人生、何を求めて生きたらいいんだってぐらい良かった」 僕は想像してみる。彼女の言う、自分が死へと駆け下りているときに生じるであろう快感を。 それは僕の想像でしかなく、おそらく、本来のそれとはまったく違うものだろう。 それでも、僕はその快感を想像することが出来る。 自分のからだが傷つく快感を知っているのだ。 「でも、私は生きてた。たったの三週間ですっかり元通りになっちゃった。 なあ古泉。私さ、あのときのアレが愛しくてしょうがないんだよ。 そのために、また同じことをやるかもしれない。 でも、それでもまた、私は生きてるかもしれない。 あと何回、こんなことが出来るんだろう? 入院してる間、ずっとそんなこと考えてた。お前が来てくれてるとき以外」 「森さん」 それは、僕が何度となく考えたのと、まったく同じことだった。 森さんが、どんどん閉鎖空間に捕らわれていく。 僕から見てもわかるそのことが、彼女自身に分からないはずがなかったのだ。 「おかしいよな。私はあの神人どもを倒して、神様ができるだけ閉鎖空間を作らないようにするためにいるのに。 なのになんで……私が、あの空間がないと生きていけないみたいになってるんだろうな。 ていうか、本気でさ。私、閉鎖空間が無くなったらどうなるんだろう?」 「それは……」 僕は黙り込んでしまう。 「生理のときがさ、一番まともだよ、私は。このときだけは、普通の人間と同じように、痛みにうーうー言ってる。 でも、明日の朝になったらそれもおわりだろうな。私は元気になって、またドマゾに戻ってる。 もうさ、なんか疲れたなって思ったんだ。さっき、お前がコンビニ言ってるとき。 このまま、生理で苦しんでるまともな女のままで死んだら――――」 森さんの言葉は、そこで遮られる。 僕が、彼女の体を抱き寄せたからだ。 「……古泉?」 「すいません」 僕らの周囲の湿度が、僅かに上がったような気がした。 彼女の体から漂う、月経のにおいで、頭がくらくらする。 僕は彼女の言葉を、最後まで聴かずに済んだことを安堵した。 「……お願いします。行ってしまわないでください」 自分の言葉が、どこか遠くの世界で鳴く、虫の鳴き声のように聞こえた。 「古泉」 「すみません、でも……僕は、たとえ閉鎖空間がなくなっても。 あなたがいなくなってしまったら……僕は、ダメなんです」 それが、怖いんです。 自分が何を口走っているのか、うまく整理が出来なかった。 ただ、遥か前から、彼女に告げたかったいくつもの言葉や気持ちが、火蓋を切られた流水のように、頭の中に押し寄せていた。 「あなたを失いたくないんです」 あふれ出す。 「僕はあなたのことが好きなんです」 ひとしきりの気持ちが流れ出してしまうと、僕の頭は熱暴走を起したように、まったく回らなくなってしまった。 クーラーの風がそよぐ部屋の中心で、僕は彼女を抱きしめたまま、しばらくの間放心していた。 どれくらいの時間が経ったのか、それは一瞬、数秒であったようにも思えたし、一時間も二時間もそうしていたようにも思えた。 「ふふ」 やがて、僕の腕の中で、彼女が小さく笑った。 それを合図に、僕の意識はゆっくりと動き出す。 僕は今まで何をしていたんだっけ? ああ、そうだった。たしか、森さんのためにコンビニへ行って…… 「ありがとうな、古泉」 ぽんぽん。と、彼女の手が、僕の頭をたたく。 生理の発熱と、僕の体温とで、赤く上気した森さんの頬に、一筋、涙が伝っていた。 絶頂のとき以外では見たことの無い、彼女の涙の意味が、僕にはしばらく分からなかった。 「なんで、私とお前みたいのが、同じところにいるんだろうな」 そう言いながら、彼女は僕の頭をなで続けた。 彼女の言葉の答えを考えようとしたけれど、早くなった心音に邪魔されて、うまく考えることは出来なかった。 ただ、今までで一番、僕から近い場所に、森さんがいる。その一つだけが理解できた。 ◆ 僕は閉鎖空間の夢を見ている。 どこかの街ではない、ただ、360度、地平線以外を見つけることが出来ない、空と地面だけの閉鎖空間だった。 僕の目の前に、一体の神人がいる。あの日に戦ったのと同じ、イカ、あるいは東京タワーの姿に酷似した神人だ。 僕の体は半ば自動的に、赤い波動を纏い、目の前の神人に攻撃を始める。 僕は空中を大きく迂回しながら、赤い波動球を四つ放ち、そのうちの三つが神人の体に触れ、爆ぜる。 神人の体が折れ曲がり、僕は更に攻撃をしようと、接近する。 ……そこで、気づく。 ああ。これはあの日と同じだ。 このままでは、僕は―――― 気が付いたときには、もう時は遅い。神人の肉体から、まっすぐに、僕に向けて、新たな触手が放たれる。 細い触手が、一瞬で僕の周囲を舞い、次の瞬間、首元につよい圧迫感を感じる。呼吸ができない。僕は、首を絞められている。 「う……」 触手は僕の首に強力に巻きついている。それを取り払おうと、両手で掴みかかるが、触手を引く力は強く、それはままならない。 やがて、僕の脳は、ぼんやりとした、温かい水のようなものに包まれる。 目の前が薄く曇っていき、今の今まで苦しみに満たされていた胸が、すっと軽くなる。 ――ああ、これが。 彼女の言っていたものなのだろうか。 頭の中から、余計なものが一切抜けていき、ただ、体が軽くなって行く。 上を向いているのか、下を向いているのかも分からない。喉の熱さと、頭を燃やすぼんやりとした快楽だけが、世界を包み込んでいた。
◆
「うっ……!!」 泥濘に包まれた意識の中で、首に撒きつくそれを引き剥がしたのは、僕と言う人間の最後の本能だった。 喉に張り付くやわらかいものを掴み、一心不乱にかきむしる。 やがて、強力な力で僕の呼吸を遮っていた何かが、木の実が枝から離れるような感触と共に取り除かれる。 求めていた酸素が、一気に僕の体に流れ込んでくる。それを上手く処理することが出来ず、僕は強く咳き込んだ。 「はあ、はあ……」 気が付くと、僕は仰向けに寝転がっていた。 ここは閉鎖空間ではない。僕と森さんの暮らす部屋の、今のソファの上だった。 酸素の供給と共に、ぼやけた視界がゆっくりと明確になってゆく。 窓から差し込む朝の光が見える。そして、それを背に、僕のからだの上に、何かが圧し掛かっている。 「……こいずみ」 頭の上から、声が降りそそぐ。森さんの声だ。 僕はたった今まで締め付けられていた首に両手を当て、もう三度、深く咳き込む。 「も、り……さん?」 やがて、僕の体の上に覆いかぶさっているその物体が、森さんの肉体であることに、僕は気づく。 逆光で暗く焼きついた森さんの表情は、笑顔。 どうして、森さんが、僕の上に乗っているのだろう。 「古泉、お前も来いよ」 森さんが何を言っているのか分からない。喉が痛い。もう一度咳をする。
森さんは、僕の前で、更に笑顔を綻ばせて やがて、右手を僕のほうへと差し出してきた。 何がなにやら分からずに、僕は差し出された手を見る。 指の外側に、爪の跡のような傷がある。まだ新しいものだ。 手のひらの中心に、何かが乗っている。 それは、白い錠剤のように見えた。 森さん? 「古泉、一緒になろう」 森さんが、笑う。 「私と一緒に」 END
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