涼宮ハルヒの抹消 第三章
「あ、キョンくん」 喜緑さん疑惑のある議事録のページをコピーしに走り、会長のところに議事録を返却しに戻り、そこで会長に俺が適当な理由を吐くまで拘束され続け、その足で部室に赴いてもう一度パソコンを起動させてみた。パスワードとあるからにはどこかにロックがかかっているのではと思ったのだが、あいにくどこも普通にデスクトップを表示するだけだった。そんなこんなしているうちに昼休みは終了してしまい、校外に逃亡しようという行為を教師に目撃されないように前後左右を確認の後抜き足差し足で、などとやっていたら脱出がかなり遅くなってしまった。 もちろん靴箱も探してみたが残念なことにラブレターはおろか手紙の類は一切入っていなかった。しかしそれも俺の右手に握られているものを思えばそれほどショックなことでもない。 俺がダッシュで校門を突破すると、朝比奈さんが急斜面の脇に生い茂る木々の隙間からひょっこりと姿を現した。「もう、ずっと待ってたんですよー。学校の生徒さんたちに見つからないよう苦労しました」「それは申し訳なかったです」 まるでデート的な状況ではないかと一瞬だけ思ったがすぐに萎えた。不謹慎だからとかいう以前の問題である。 俺は朝比奈さんを促して歩き出しながら話題を捻出し、「それにしても朝比奈さんはよく誰にも咎められずに外に出てくることができましたね。仮病……演技はちょっと苦手そうに見えますけど」「鶴屋さんに助けてもらったの」 朝比奈さんはよたよたと坂を下りながら答えた。「あたし、演技なんて何もできないから。それでも風邪を引いたフリをしていたら、鶴屋さんが保健室に連れていってくれたんです。いえ、本当は保健室じゃなくて靴箱のところでした。何か言えない用があって帰らないといけなくなったんじゃないのって言われました」 感心を越えて笑いたくなってきた。 鶴屋さんはどこまでもできた人だ。むやみに完璧などという言葉を使いたくはないが、彼女ならあるいはと思いたくもなる。もしかするとこちらの思惑を完全に把握しているのかもしれん。だとしたら釈迦かキリストの生まれ変わりだ。パラメータ的に言うならば俺よりも一般人じゃないね。「でも、鶴屋さんも知らないみたいです……」 朝比奈さんが憂鬱そうにうつむいたまま呟いた。「知らないって、長門のことですか?」「うん。訊いてみたんです。長門さんを知ってますか、って。でもダメでした」 朝比奈さんがいつになくふさぎ込んでいるのもよく解る。未来人なのに未来と関係が持てなくなったという根本的などんでん返しを食らった上に親友の鶴屋さんまでもがおかしなことになっているらしいからな。「そんなに落ち込まないで下さいよ。大丈夫です、今までもそうだったんだから今回もきっとなんとかなりますって」 と、何の保証もない言葉を吐いてみて朝比奈さんを上の立場から慰めている自分に気づいた。 まあ、主観的にも客観的にもこんな事態は二度目であるし、慣れという恐ろしい不可抗力が働いているのだろう。それは俺の横でひたすら歩を刻んでいる朝比奈さんを見れば解る。冬の俺はこんな感じだったんだろうよ。 しかし、それだけではない確かな手応えを俺は持っていた。 喜緑さんのヒントメッセージらしきものを見つけたということだけではなくて、SOS団に味方してくれる人材についてである。ここに長門はいないらしいが、ハルヒはしっかりと俺の後ろに座っているしたぶん古泉もいる。朝比奈さんがいてこのメッセージを持っているのだとしたら、マイナス思考とかプラス思考とかを意識しなくてもそんなに落ち込む必要などないのではないかと思えてくる。 そしてまた、俺が一番に怖れているのはそのことでもある。ようするに俺はちょっとSOS団の戦力が増えたからといって調子に乗っているだけなのではないかということだ。世間は広いってことは春の一件で思い知らされたからな。やはり気を引き締める必要もあるのだろう。難しいものだが。 俺は顔を上げた。朝比奈さんは気にしていない様子だったが、いつの間にか俺と朝比奈さんの間には無言の空間が停滞していたらしかった。
* 向かったのは長門のマンションである。他に行くところなど一つも思いつかなかった。古泉に電話をかけ、朝比奈さん(大)からのメッセージがないことを確認し、生徒会室で喜緑さんのメッセージを見つけた。朝比奈さんにもそのことは話したが、全然解らないということらしい。できることならもう少し情報が欲しいところではある。 川沿いの桜並木、このまま進めば高級分譲マンションに突き当たる道を俺と朝比奈さんは進んでいた。「何もねえか」 名探偵よろしく周囲に目を配りまくって歩いていたが、何も見つかる気配がない。あるのはサラサラなどと小気味いい音をして流れやがる川と、太陽を反射してキラキラ光る新緑の葉っぱだけ。まったく癪に障る。 川沿いの桜並木、思い出のベンチがあったりしていわくつきの場所であるし、朝比奈さん(大)が出てきたり変なものが落ちていたりするかと思ったのだが。「どうかしたんですか?」 コマドリのようにちょこちょこと俺の後をついてくる朝比奈さんが言う。「ここなら何か出てくるかもしれないと思っていたんです。未来からの指令とかでもよくこことか公園に来てますからね。春にも二月にも。だからひょっとしたらと思いまして」 朝比奈さんは短い吐息を漏らし、感慨深げに辺りを見回した。それから懐かしそうな目をして思い出のベンチに歩み寄り、ちょこんと腰を降ろす。「そうですねえ。言われてみると、男の子を助けたときや亀さんを川に投げ込んだときも、最初にあたしがキョンくんにあたしのことをお話ししたのもこのベンチでしたねえ」 どれも忘れようにも忘れられそうにないSOS団的メモライズばかりだ。未来関連の話が多いような気もするが、これは仕様なんだろう。「ところで朝比奈さん、あれから未来に連絡は取れましたかね」「ううん」 朝比奈さんは悲しげに首を振って、「全然ダメなの。時間平面のねじれはどんどんひどくなっていく一方で、あたしの力じゃこの先は見渡せないくらい。どのくらい分岐が増殖しているのかも解りません」 「どの分岐に入ったとかも解らないんですか?」「……ごめんなさい」「いえ、謝らなくてもいいんですよ」 これは俺の予想だが、今はどこかの分岐を通った状態にあるのではないかと思う。俺の鞄にねじ込まれている喜緑さんのメッセージを手に入れたのはかなり大きいはずだ。バッドエンドの分岐をとっとと切り抜けてくれるといいのだが。 * 長門のマンションには程なく到着した。道に地雷等が仕掛けられたりしていなかった代わりにヒントになるようなものもまったく落ちておらず、気がついたらマンションが目の前にあったという感じだった。 この高級マンションの長門の部屋になら何度となくお邪魔した経験があるため俺一人や朝比奈さんを連れていたとしてもすぐに行ける自信がある。しかしこのマンション、高級な故に玄関に鍵がかかっていやがり、一般人は部屋の前に行くことすら不可能な設定になっていた。かつてハルヒが朝倉の転校調査に乗り出したときのような犯罪すれすれの技をもってすれば侵入可能なのかもしれないが、俺は一般常識を一般人並に身につけているし何となく中に入りたい気分ではなかったのでやめておいた。あそこに違う家族が楽しそうに住んでいたりするのは見たくない。 玄関口にインターホンがついていたので、それで長門の708号室を呼び出してみた。 長門が出てこようなどとは思っていなかったが、やはり誰も出てこなかった。繋がりもしない。ノイズもなし。「ダメか」 ついでに朝倉の部屋も押してみたがこちらも繋がらなかった。いてくれても困るが。「ないとは思いますが外出中か、あるいは最初っからいないかですね」「そうですか……」 さて学校をフケたはいいがもう行くところがなくなってしまったなとか考えていると、今までもじもじしていた朝比奈さんが意を決したかのように顔を上げた。「あのっ、キョンくん」 朝比奈さんは真摯な瞳をしていた。「あたし、今度こそ役に立ちたいんです。頑張って長門さんを見つけましょう。あたしとキョンくん、それに涼宮さんと古泉くんもいるかもしれません。……本当はずっと長門さんに頼りっぱなしで心苦しかったんです。一人だけ上級生なのにちっとも上級生らしい振る舞いができなくて、逆にみんなに助けられてばっかりで」 そんなことはない。 何度も言うようですが、朝比奈さんがいなかったらSOS団は成り立たないんですよ。いなかったら俺のストレスは溜まり放題でハルヒとしょっちゅうケンカして、そうしたら古泉のバイトも増えていたことでしょう。毎日が平和なのはいわば朝比奈さんのおかげなんです。 しかし朝比奈さんは哀愁を漂わせて弱く微笑むだけだった。「キョンくんがいつもそう言ってあたしを励ましてくれるのはうれしいです。それだけでも頑張ろうって気になれます。でもね、あたしの役割はそれだけじゃないんです。涼宮さんが言うような、そのぅ……」 朝比奈さんはそこだけどもって少し赤くなりながら、「マスコットみたいな人ならあたしじゃなくてもいると思うんです。だから、あたしがSOS団にいるには未来人って肩書きがないとダメなの。それなのに最初から今日までいざというときは長門さんやキョンくんや古泉くんに助けられてばかり。あたしが未来人として行動できたときなんてほとんどありません」 「それは仕方ないことなんですよ、朝比奈さん」 未来人として動こうにも、未来から何も教えられていないのだからそんなのは絶対に無理なのだ。それに、何も知らされていないのは決して朝比奈さんに実力がないからとかいう理由ではない、と俺は思っている。実際、彼女はもう何年かすると立場的にもグラマー度的にも大幅にプラス補正が施されることになるのだ。そりゃあ未来人なのに気の毒だと思ったことは数知れないが、それは知らされていないのだから仕方がないことなのだ。人間、自分の知らないことを知るには何かの情報に頼るほかないのだから。「それに、朝比奈さんは自由に行動したくてもできないようにされているんでしょう。未来にそういうふうに干渉されてるんじゃないんですか?」「だからなんです」 朝比奈さんは必死な声を出した。「あたしは今まで未来から禁則という形で縛りが入れられていたから自分の思うように行動できませんでした。だからみんなに助けてもらわないといけないのも仕方ないと自分で慰めていたんですけど、それじゃどうしてもあたしがみんなに後ろめたいです」 さすがに俺も朝比奈さんの真剣な声に黙り込んだ。朝比奈さんの言葉を待つ。「でも、今は違います。未来と接続を絶たれた今のあたしは、未来とは独立した存在なんです。禁則も解除されました。だから今度こそ、あたしは未来に影響されることなく自分の信じるように行動したいんです。みんなの力になりたい」 そのセリフは以前に誰かから聞かされたな。自分の能力を封印することで未来に束縛されることなく行動できるようになった、とか。未来なんてのは知らない方がいい。何かが起こった度に一喜一憂すればいいのだ。そんな感じの意味を持ったセリフをな。 背負うモノなんてないほうがいいに決まっている。事実、未来予知や超能力を使えない代わりにリスクや得失を考慮しなくてもいい俺はずいぶんと自由に行動できているのだ。 いつだかの俺は超能力者や宇宙人を万能の神だとか信仰していたように思うが、今ならそんな考えは一蹴できるね。万能の神には神なりの悩みがあるし、それは俺の悩みよりもはるかに重たいのだ。何の能力もないほどラクチンなことはない。
* 俺の鞄に入れてあった携帯電話が騒ぎ出したのは、過去に何事か事件のあった場所をすべて周り尽くすくらいしたときだった。川沿いの桜並木、近くの公園、ルソーの散歩道。 時間つぶしと大して変わらないのは重々承知である。しかし、もし何か可能性があるのなら行くしかない。とはいっても結局見つかったのは生徒会室のメッセージだけだったのだが。『こらあっ、キョン!』 古泉かと思ったが違い、電話の主は俺に近所迷惑の大声で怒鳴りつけてきた。『あんた今どこで何やってんの! 素直に言ったら極刑だけはやめにしてあげるから早く答えなさい』「あー、まあとりあえず落ち着け」 落ち着くわけがない。電話線の向こうでハルヒはますますいきり立ち、携帯電話を思わず手放したくなるような音量になった。『あんただけならいいわよ。いいえ、よくないけど、それにしたって何でみくるちゃんも古泉くんもいないのよ! ストライキなら諦めなさいよ。あたしはこれよりも譲歩するつもりはないから』 「ストライキなんかじゃねえよ。お前にそんなもんを仕掛けるような命知らずはいないぜ。そうじゃなくて、古泉はカゼで本当に休みなんだ。朝比奈さんは用事ができて今日は早退してるらしい」 ハルヒの直感力に勝とうとは思わん。俺はできるだけ事実に近いことを話した。『古泉くんがカゼでみくるちゃんが用事ねえ。都合がよくて疑わしいわね』「本当なんだよ」『まあいいわ。で、あんたは何なのよ。午後の授業サボるなんて意外と度胸があるのね』 度胸も何も、俺が無許可で学校を飛び出したのは後にも先にも二回っきりだ。よほどの理由がなけりゃ、そんな教師の反感を真っ向から食らうようなマネはしないぜ。『だから、その理由ってのは何なのって訊いてるの。よほどのことがあったんでしょ? 長門なんとかって娘のこと?』「ああいや……うん、そんな感じだな。えーとだな、今日の昼休みに電話がかかってきやがったんだよ。急に引っ越すって。だから最後に一目会いたいって言うんだが時間がないらしくてな、仕方なく俺が学校を抜け出してきたんだ」 我ながら苦しい嘘である。 というか、嘘のレベル以前にこういう話はハルヒ相手には禁物なのだ。どう禁物かというと、それは俺の口からはいろいろ葛藤の末言い難いことであるし俺自身よく解らないしハルヒもよく解っていないのだろう。結果論ならば古泉のバイトが増えるってことだな。『ふうん』 ハルヒは半分疑っているような口調で、『別にいいわよ。あたしは団員の諸事情には口をつっこんだりしないから。ちゃんとした理由があるなら部活を休むのも許してあげるわ』「悪かったな、無断欠席して。なんなら今から戻ろうか? もう授業も終わっちまってるだろ」『今日は休みでいい。どうせみくるちゃんも古泉くんもいないし。ただし埋め合わせはするわよ。今日は休む代わりに明日の土曜日、いつもの駅前に九時集合ね。今度はしっかり来なさいよ。あとこのこと、みくるちゃんと古泉くんにも伝えておきなさい。いいわね?』 「ああ解った解った。そんくらいならやってやるよ」 さて古泉にはどう伝えてやろうかと考えているうちに電話は一方的に切れた。もう帰ると言い残して。 俺も携帯電話をしまうと、マンションの日陰にたたずんでいる朝比奈さんに向き直った。「明日、市内パトロールだそうですよ。九時に駅前集合です」「そうですか。なんだかあれをするのも久しぶりですよねえ」 そりゃ、春にはこちとらいろいろあったからな。ようやく元の秩序を取り戻しつつあったわけなのだが。「しかし、長門のことはきれいさっぱり消し去られてますね」「はい?」「電話でハルヒと話してても、やっぱり長門を知らないんです。明日駅前に集合するのは四人だけの予定なんですね。部室もそうです。あいつに関するものが一切なくなってるんですよ」 俺は目の前にそびえ立つマンションをあごでしゃくって、「ここも空き部屋になってるらしいですし」「あのう、キョンくん。もしかして部室であたしとか古泉くんの持ち物とかもなくなってたりしませんでしたか?」「は? いや、ポットも急須も普通にありましたけど。何でまた?」「ううん。ちょっと心配になったから。もしあたしのがなくなってたらどうしようと思って」 そうなんだよな。 まったく同じなのだ。長門がいないということを除けば、この世界で昨日と矛盾していることなんか一つもない。ハルヒも谷口も国木田も。長門有希という存在だけがなくなって、そこにポッカリと穴が開いているだけなのだ。 そしてその分の埋め合わせはされているらしい。文化祭のギターや映画撮影での朝比奈さんの敵役。長門という女子は最初からいなかったかのように、都合よく連中の記憶が変わっているのだ。「本当に、何にも証拠がないんですよね」 そして長門が存在したという証拠は何一つとしてない。七夕の短冊にいたってまで、長門の分だけが不気味にも消え失せていた。 まるで存在そのものが抹消されちまったみたいにな。 * ハルヒが下校するときに俺と朝比奈さんが一緒にいるところを目撃されるのはまずそうだったので、適当に話をまとめて頑張りましょうと言ってから、ハルヒがやって来る前に別れて家路についた。 さんざん探し回った結果俺が見つけられたのはよく解らんパスワードが刻まれた生徒会議事録のコピーだけだったが、脈のありそうなところをすべて回ってこれしか出てこなかったのだから仕方ないだろう。証拠は早くも出そろってしまったらしい。後は推理するだけだ。 家に帰るとすでに妹が帰宅しており、俺の足音を聞きつけるなり眠そうにしているシャミセンを抱きかかえてひょっこり現れた。「あ、キョンくん、おかえりー」 無邪気に笑う小学校六年生に俺はさしたる期待もせず長門のことを訊き、まったく芳しくない答えを投げつけられ、ついでにふと思い出したのでシャミセンが我が家に来た経路を訊いてみた。「んー、シャミのこと? キョンくんど忘れ?」 さあね。お前の記憶が正しいかどうかテストしてやってるのさ。「映画撮影でもらってきたんだよな?」「そうだよ。ウチに来てよかったよね、シャミ」 ふむ。やはりそこらへんは正しいらしいな。長門に関する記憶と事実以外は昨日と同じなのではないだろうか。「ねー、よかったねえ?」 妹にかかえられた災難猫は、どうでもいいから早く横にさせてくれと言わんばかりの顔で俺に懇願してくる。悪いな、今はお前に構ってらんないんだ。またいつかみたいに喋り出すならともかく、たぶん喋らないだろうことは解っている。まあこいつには映画撮影でも阪中の件でも借りがあるからいつか返さねばならんだろうが、少し待っててくれ。そのうちいらなくなった服をズタボロにさせてやるから。 人間にさえ伝わらないテレパシーが猫相手に通じるはずもなく、うにゃあとマヌケな声を出すシャミセンを後にして俺はさっさと二階に上がった。 * もはややり残したことはない。あらゆる可能性はたった一日で見事に潰れてしまった。俺の働きっぷりと疲労の割にそれがまったく報われないのもムカツクが、今は愚痴をこぼせるような相手すらいない。気が狂っていると誤解されるだけだ。 もしいるとすれば――と俺は携帯電話を手に取る。 あの超能力野郎しか思い浮かばないね。 何となく古泉がこの世界にいることは解っているのだ。ハルヒや九組の連中が古泉のことを知っていたし、ボードゲーム各種はきちんと部室にあって、七夕の『世界平和』『平穏無事』なる今日見たらひどい軽薄さを感じた四字熟語も風に踊っていた。 はたして、電話はスリーコールほどで拍子抜けするほどあっさり繋がってしまった。『古泉です』 ああ。 何やら嬉しさのような達成感のようなものがこみ上げてきた。悟りの境地に達したのを自覚した瞬間の人間ってのはこんな感じなんだろうか。しかし悟りの境地ってのは何なんだろう。何しろ俺はいまだに悟ったものなどなくただ漫然と毎日を過ごしていたはずで気がついたらこんな事態になってたりして、放っておいても奇妙奇天烈な人生を送っている自分を客観視する自分がどこかにいるような、いやこれが悟りってものなのか。ふむ。 と、まったくどうでもいいことを考えて俺は頭を振った。違う違う。 古泉です。 向こうにいるのは古泉で間違いない。古泉の携帯電話にかけているのだから古泉以外の誰かが古泉の声マネでもして話していない限りこいつは古泉だ。 しかし何て言えばいいのだろう。ぶつけてやるべき質問と苦情が多すぎる。何だこの状況は。長門はどこだ。お前はどこにいる。俺に連絡よこせよ。ふざけんな。 俺がしばし黙していると、向こうから再び声がした。『ええと、どこから申し上げるべきでしょうか。ああ、僕や「機関」の仲間はあなたと同じ、正常な記憶を持っていますから確認の質問はパスさせて下さい。こちらもあまり時間がありませんから。またそれ故にこちらからあなたに連絡している暇がなかったのですが、とりあえずそれを詫びておきましょうか。申し訳ありません』 「そんなことはどうでもいい。これはいったい何が起こってやがるんだ。なぜ長門がいない? お前はどこにいる。何で昼間かけたときに繋がらなかった?」 『おや、そんなことは解っていると思っていたのですが』 古泉は作り声で意外そうな声を出し、『閉鎖空間ですよ。それも特大のね。昼間から、正確に言うと昨日の夜あたりからずっと異空間バトルの状態です。今はちょっと外にいますけどね。《神人》がわんさかいて、実に壮大な眺めでしたよ。ぜひあなたにもお見せしたい』 そんな軽口がたたけるようならずいぶんと余裕があったもんだろう。質問の嵐以上に怒りが沸いてきた。「そんなことより長門はどうなってるんだ。それに喜緑さん。この世界から消えちまってるのか?」『その通りです』 古泉は単純明快に答えた。相変わらず、丸一日サイキックバトルをしてたとは思えん爽やかな声である。『実を言うと長門さんや喜緑さんだけではありません。推測するに、昨日から今日にかけて情報統合思念体製のすべてのインターフェースがこの世界から消えているのでしょう。少なくとも、我々「機関」とコンタクトを取っているTFEIはすべていなくなっています。そしてこの巨大な閉鎖空間。とんでもない事態ですね』 誰の仕業だ。やっぱり周防九曜か。『さあ、そこまではさすがにね。まあ、僕は彼女の一派だと思っていますけど。そうでなかったら長門さんのような方々を一気に消し去ることができる存在は、僕の知る限りでは有り得ませんからね』 俺の知る限りでもそんなやつは九曜ぐらいしか思いつかん。あとハルヒにも可能と言ったら可能な気もするが、あいつは間違ってもそんなことはしない。 「どうすればいい。まさかお前だって長門が消えちまってるこの状態を放置する気はないだろ」『当然ですよ。僕たちは共同体ですからね。五人で輪になって初めて意味を持つんです。今となっては、誰を引き抜くこともできません』 それは俺も何度となく考えた。ハルヒという巨大恒星を中心として公転する惑星の俺らはハルヒも入れて必ず五人なのだ。土星や火星でもいきなりなくなったら地球内外が大混乱するに相違なく、太陽が消え去った日には俺らはあっという間に全滅である。そんなことはあってはならないんだ。『ただし』 古泉が真面目な声で付け加えた。『どうすればいいと訊かれると僕は返答に詰まります。あなたや僕、それに朝比奈さんがこれからどう動けばいいのか、どんな方向を向けばいいのか、はっきり言って僕にはまったく解りません。非常に自己嫌悪に陥りますが、正直、長門さんがいないと僕たちだけではどうしようもないんです。感覚的な問題ではなく、冷酷な事実としてね』 俺が何とも言えないいらだちを覚えて黙っていると、『おっと。そろそろ時間が厳しくなってきましたね。ごくわずかなハーフタイムももう終了してしまいそうです。それでは、またお会いしましょう』「待て待て」 まだ肝心なことを言っていない。訊きたいことなら腐るほどあるが今その時間はないらしい。訊きたいことにはしばらく腐ってもらうほかないな。『何でしょうか?』「お前、明日は来られそうか? 市内パトロールだってよ。無理なら俺からハルヒに伝えとくが」 こんなときに市内パトロールもへったくれもない。不思議なことなら目の前にあるってんだ。 古泉はしばらく考えている様子で息づかいだけがこちらに伝わってきたが、『行きますよ。それしかないでしょう』 そう答えた。『僕の業務は「機関」の一員であってまた、SOS団の副団長ですからね。とにかく涼宮さんが最優先です。《神人》を狩る者はたくさんいますが、市内を涼宮さんと一緒に歩き回れるのは僕だけなんですよ。なんともありがたく、嬉しいことにね』 古泉はいまいち真意がつかみかねることを言ってのけ、今度こそさようなら明日お会いしましょうと言って電話を切った。「キョンくん電話ー?」 携帯をしまい終えると妹がシャミセンを抱えたままノックなしに俺の部屋に立ち入ってきた。せめてノックだけはしてやってくれよ。俺にだってプライバシーってやつがあるし、そうじゃなくても訊かれちゃまずい会話ってのはあるんだぜ。 俺はしっしと妹を追い払いながら、「まあな。俺もいろいろと忙しいんだ。お前も友人には気をつけろよ。友人によって一生楽しく過ごせるか一生後悔し続けなければならんか決まっちまうんだからな」「はあい」 妹は解ったんだか解ってないんだかよく解らん顔になって、シャミセンを俺の部屋に放置すると最近リメイクされたごはんの歌(新バージョン)を口ずさみながら階下へと消えていった。どうせ我が妹はあんなやつだ。ミヨキチのようなできた友人がいてくれれば問題ないだろうが、心配にはなるね。もっとも、今心配すべきことは妹の将来ではないのだが。「にゃう」 床に放置されたシャミセンが愉快そうな声を立てた。一日でもいいからシャミセンになりたいものだ。自分の部屋で(シャミセンにとっての自分の部屋は俺の部屋である)一日中ごろごろできたらどんなにリラックスできるだろうか。そんなことしても無気力感が増すだけだと解ってはいるがやってみたいと思うのはなぜだろうね。誰か教えてくれ。「やれやれ」 俺は常套句を吐くと、床に寝転がるシャミセンをなでてから自分のベッドに倒れ伏した。疲れた疲れた。今はもう何も考えたくない。
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