「双天使」
「双天使」 「もう! せっかく新しい衣装を買ってきたのになんでみくるちゃんが居ないのよ!」 放課後の部室――新しい衣装が入っているらしい紙袋を振り回しながら、ハルヒはいつものように喚いていた。 裁判に訴えたら勝てるんじゃないかと思えるような騒音被害にあっていたのは、俺と古泉、そして長門の3人。 そう、珍しい事に朝比奈さんはここに居なかったんだ。 ハルヒ。お前が荒れる理由はまあわかるさ。 俺も朝比奈さんのお茶が飲めず、あの愛らしいお方を眺める事ができないのは確かに辛い。 俺は自分で入れた味気ないお茶で自分の喉を慰めつつ、暴れるハルヒの暴言を聞き流しながら朝比奈さんの到来を待った。 時刻はすでに放課後を大きく回っていて、そもそもあまり利用者が居ない部室棟には殆ど誰も残っていないだろう。「昨日帰る時、今日はちゃんと部室に来る様に言っておいたのに……反抗期かしら?」 人生反抗期のお前にだけは言われたくないと思うぞ? それでも、特に何もしないまま朝比奈さんを待つ俺達4人だったのだが……これ以上待っても仕方ないと思ったんだろうな、長門が本を閉じた事で「今日はもう解散! ……はぁ……みくるちゃん、次会ったらお仕置きよ」 不吉な事を言い残しつつ、ハルヒは立ちあがった。 ――いくら朝比奈さんが未来人とはいえ、たまには一人になりたい日もあるんだろうな。 そう思っていた俺はパソコン強奪事件の翌日以来、皆勤賞状態だった朝比奈さんの不在をそれ程気にしてはいなかった。 ただ念の為にと思い、家に帰ってから「どうかしたんですか?」とメールを送ってみると……だ。送信者:朝比奈さんタイトル:すみません本文:どなたでしょうか? 何ていうか……色々とショックな内容だな、これ。 まるで他人宛てのメールに返す様な文面に不安を覚えた俺は、とりあえず携帯へ直接電話してみる事にした。 ――数コール後「はい、朝比奈です……」 電話の向こうから聞こえた声が多少元気がなかった事が気になりつつも、俺は朝比奈さんが電話に出てくれただけで安心しきっていた。 よかった、何かあったのかと思いましたよ。 ほっとしたのも束の間、「あの……どなたでしょうか?」 さっきより不安感アップ、セールス相手に「結構です」とでも言うようなニュアンスの声が返ってきてしまった。 あ、あの。朝比奈さん? ですよね?「はい。そうです」 ……人違いじゃない。あ、じゃあもしかして。 あの、朝比奈みくるさんのご家族の方ですか?「私は朝比奈みくるです。……貴方は、誰ですか?」 俺は……えっと、その。キョンですけど。 自分の名前をあだ名で言うってどうなんだ? 我ながら違和感のあるやりとりの中、「……ごめんなさい、やっぱり知りません」 ここまでで一番ショックな返事が返ってきた。 俺を知らないって……そんな。 世界の終わりって奴を実体験していた俺に、「あ…………ちょっと待ってください……。貴方の声、聞き覚えがあります」 暫くの沈黙の後、朝比奈さんは不思議そうな声で尋ねる。「もしかして、あの。……貴方はジョンさんですか?」 ――朝比奈さんの口から告げられたそのワードが、俺の立て付けの悪い脳内の引き出しから、ある出来事の記憶を引っ張り出した。 平凡な日常で忘れかけた記憶、寡黙ながらも僅かに微笑む長門。 敵が居なくて欲求不満な髪の長いハルヒ。 転校生で密かにハルヒに恋心を寄せる古泉。 そして……ただの上級生だった朝比奈さん。 俺の事をジョンと呼ぶ可能性がある朝比奈さんって言ったら……まさか。 駅前のファミレスに朝比奈さんを呼び出すことに成功した俺は、彼女が来るまでの間必死に事態がどうなっているのかを考えていた。 ……昨日までは、確かに朝比奈さんは普通の朝比奈さんだったよな。 ハルヒに「みくるちゃ~ん。そろそろ3サイズに変更があるかもしれないからチェックをしましょう~。特に胸」とか言われ部室の中で悲鳴を上げていたのは、俺が知っている朝比奈さんに間違いないはずだ。 だが、今日の朝比奈さんは俺の事をジョンと呼び、SOS団の部室に来ることも無く、俺の事も知らないようだった。 まさかとは思うが……もしかして。「お待たせしました」 考え込む俺の元へやってきたのは、中学生に見える事もあるロリータフェイスに大人顔負けのプロポーションという矛盾を同居させた魅惑の天使、朝比奈さんで間違いなかった。 ただ、違うのは「……」 じっと俺を見つめる不安そうな目……。 その一点だけが、この人はいつもの朝比奈さんではないのだと言っていた。 まず、確かめなきゃいけない事があるよな。 俺の事、わかりますか? そう尋ねる俺に肯き、彼女は対面の席の逃げやすい場所に座り「はい。ジョンさんですよね」 そう答えた。 そうか……聞き間違いって線はこれでなくなったか。「あの、お話ってなんですか?」 帰りたそうな視線を向ける彼女に悲しさを感じつつ、俺は核心部分を聞いてみる事にした。 ……貴女が知っている俺は、廊下であった時に突然……その貴女の胸の話をしたり、突然書道部にやってきた不審な女の傍に居たりしませんでしたか? そう聞きながら俺は真剣に祈っていた。 お願いです、首を横に振ってください! もしくは「えへへ、冗談でした☆」とかエンジェリックなスマイルをお願いします! そんな俺の願望混じりの祈りも虚しく……。「はい。その通りです」 当たり前の様に肯く朝比奈さんを見て――どうしたらいいんだよ、これ。俺はただファミレスの低い天井を仰いだ。 どこの世界に居ても、やはり朝比奈さんは朝比奈さんらしい。「……あの、ジョンさんが部室で急に倒れてから、みなさん心配してましたよ?」 俺に危害を加えるつもりが無いとわかってくれたのか、それとも落ち込む俺に配慮してくれているのか、多少硬さの取れた声で朝比奈さんは話してくれた。 その優しさに救われながら、俺は質問を続ける事にした。 何ていうか、すみません。俺もあの時の事はよく覚えてなくって、よかったらあの後どうなったのか教えてくれませんか?「その……ごめんなさい」 最初にそう謝った後、「貴方がパソコンを触っていたら急に床に倒れて、すぐ近くに居た私が倒れた貴方の様子を見ていたら何故か気分が悪くなって……気がついた時には、部室には誰も居なくなっていました。私が知っている貴方はそれだけなんです」 悩みの種は見事に開花し、実りの秋を迎えて俺に頭痛の種をふんだんに振りまいて彼女の話は終わった。 ……それってつまり……考えたくはない事だが。改編された世界の朝比奈さんを、俺は元の世界に連れて来てしまったって事なのか? いやまて、それは間違ってる。 もしも俺の想像通りなら、朝比奈さんが最初に行く場所は今じゃなくてあの日から3年前の七夕のはずだ。 ……だが、あの場所には俺しか居なかった。それは間違いない。 じゃあどうしてここに彼女が? 顔中に疑問符を浮かべる俺に、「……私も貴方に聞きたい事があるんです」 申し訳無さそうな声で、今度は朝比奈さんが聞いてきた。「私の……その……む、胸の黒子の事なんですけど……。確かに、あったんです。貴方の言う通りに星型の黒子が。自分でも知らなかったのに、何で貴方が知っていたんですか?」 それは……その、ですね。 未来の貴女に教えられたんですよ、何て言っても信じてもらえないよな。それが事実で間違いないんだけど。 無言で居る俺に、彼女は答えを待たないまま聞いてくる。「あの、ジョンさんは北高校の生徒なんですか?」 そうです。 どっちの世界でも、それだけは違わないはずです。 っていうかジョンじゃないですよ?「変な事を言うかもしれないんですけど………今日、教室の移動の時に気づいたんです。昨日までは1年の教室って九組なんて無かったはずなのに、今日は何故かあったんです。……ジョンさん、昨日まではありませんでしたよね?」 困った、これも答えられない質問だ。 俺にとってはノーだが、彼女にとってはイエスでもある。 朝比奈さんの切なげなお顔を見ていると、嘘でもイエスと言いたくなるんだがそれでは解決にならないよなぁ……多分。 どう答えるべきか迷っていた俺は……ん、北高生……。 確か、朝比奈さんは向こうの世界では書道部で……そこにも居るはずじゃないか! 俺は急いで携帯電話を取り出し、おそらくこの時間帯でもハイテンションを維持しているに違いない先輩へと電話をかけ「もっしもーし! ねぇキョン君、こんな夜分に何の用かい? お誘い? いっや~ハルにゃんに悪いなぁ」 ノーコール。待ち構えていたのか? と疑うような速さで、鶴屋さんの声が携帯電話のマイクを通しているとは思えない大音量で溢れ出した。 朝比奈さんもその声に聞き覚えがあったのらしく、驚いた顔で俺を見ている。 俺を呼ぶ名前はキョン君か、よかったぜ。 どうやら鶴屋さんまで向こうの世界の住人って事はないらしい。 こんな時間にすみません鶴屋さん、ちょっとお願いがあるんですが。「あたしに? いいよっ! わ~かった、まかせちゃって!」 承諾は内容を聞いてからにしてくれると嬉しいです。 今から外に出れますか? 駅前のファミレスなんですが。「おっけ~。キョン君はもうそこに居るのかい?」 はい。「じゃあ5分で行くね! ばいばいっ!」 ――切られた。 色々聞かれないで済んだのは助かるんだが……それでいいんですか? 鶴屋さん。 それと貴女の家からここまでは、どう考えても5分じゃ無理な距離なんだけど……まあいいか。「あの、鶴屋さんとお知り合いなんですか?」 ええまあ、一応は。 自分の友人の名前が出たせいなのか、さっきまでよりも少しだけ打ち解けた雰囲気で朝比奈さんはそっと息をついていた。 居心地が悪そうに、じっとテーブルを見つめる切なげな表情。 朝比奈さん、今の貴女の気持ちは多分世界で一番俺がよくわかりますよ。 「ふんふん、なるほどねぇ……こいつはミステリーだ」 本当に5分ジャストでやってきた鶴屋さんは、俺と朝比奈さんの話を聞き終えた後、当たり前の様に注文していたミラノドリアを食べながら肯いた。「見知らぬ相手から親しげな電話! 突然現れた一年九組! 自分も知らない体の秘密を知ってる後輩男子ぃ!(ここで俺を指差してた) 深まる疑問、敵か味方か謎の美女の登場(ここで自分を指差してた)そして……!」 やけに演出に凝った喋り方を続ける鶴屋さん。味方ですよね? いつも通り見守るだけの朝比奈さん。 そして? 義務、というか聞かねばならない雰囲気に俺が尋ねると、「みくるの好きなのは果たしてジョンなの? キョンなの? どっちが好きなの~って事なのさ~」「す、好きな人とかそんな……」「鶴屋さん、からかうのはまた今度という事で」 っていうか、朝比奈さんが好きなのは俺でもジョンでも無いと思いますから。「今はダメなのかい?」 残念ですが。「そっかぁ……うん、じゃあ自重するね~……はぅ」 そこまで落ち込む事は無いと思いますよ? ってそれよりもだ。 鶴屋さんが知ってる朝比奈さんは、書道部ですか?「いんや? 違うよ」「ええ?!」 本気で驚く朝比奈さんが声を上げる中、「みくるはハルにゃんのSOS団の団員その3じゃないか~まあ、昔は確かに書道部だったけどね」「そ、それって本当ですか?」「もーっちろん。えっと確かあれは……新学期が始まってすぐだったね~」 疑問を浮かべる朝比奈さんに答えた鶴屋さんの返答は、俺の記憶している内容と同じだった。 って事は、だ。この世界における異世界人はやはり俺ではなく……。「今日は久しぶりに書道部に来てくれたから驚いたよ~。まあ、みくるも息抜きがしたい時もあるよねって思って何も言わなかったんだけどさっ……どしたの? みくる」 鶴屋さんの言葉に、朝比奈さんは親に見捨てられた小鳥の様に寂しげな顔を浮かべていた。 「みくるを慰める大役は涙を飲んでキョン君に譲ろう! ……優しくしてあげてねっ」 泣き顔を作って鶴屋さんは帰ってしまい、残された俺達の間に会話は無かった。 朝比奈さんは俯いたままだし、俺にはかける言葉も見つからない。 まるで別れ話を始めようとするカップルみたいな空気の中、俺はこれからどうすればいいのかを考えていた。 最初に思いついたのは長門を頼るという事。 あの世界を作った当事者である長門なら、この朝比奈さんの問題を解決できる可能性もあると思う。 しかし……できれば長門を頼るのは避けたいんだよな。 あの物言わぬ同級生は、自分の上司がリストラ的な対応を考えているって俺に打ち明けてきた。そんな事をしたらハルヒをけしかけるぞ! と言い切ってその場は事なきを得たっぽいが、これで安心していいとは思えない。 他に頼れそうなのは……古泉は駄目だ、前回も気づいてなかったみたいだし。 ハルヒ? 論外だ。 早々と手詰まりになった俺に、「……鶴屋さん……私に嘘をついた事、ないんです」 朝比奈さんは静かに語り始めた。「冗談とか、すぐに分かる嘘はたまに言う事もあるんですけど……その、私って何でも信じちゃうから、絶対すぐに本当の事を言ってくれるんです」 朝比奈さんの声は優しく、この人は本当に鶴屋さんの事を信じきっているんだなって俺は思った。「だから……さっき鶴屋さんが私は書道部じゃないって言った時、凄くショックだったんです。あの時の鶴屋さん、嘘をついてる顔じゃありませんでした。……あの! え、SOS団って何なんですか?」 悲壮な顔で聞いてくる朝比奈さんに……俺は、何て言えばいいのかわからなかった。 SOS団というのは希代の変人、涼宮ハルヒが作った非公認団体で、貴女にとっては危険な場所です……なんて言ったところで混乱させるだけだ。 だからと言って、実は貴女はこの世界の住人ではありません、こことそっくりな別の世界に住んでいる人なんですよ……とも言えないだろ? 無言で頭を抱えるだけの俺に、「……ごめんなさい。キョンさんにこんな事を言っても困らせるだけですよね」 ようやく俺をキョンと呼んでくれた事は嬉しかったが、状況が分かるにつれて混乱は深まるばかりで……すまん、長門。 そう心で謝りながら、俺はまた携帯電話を取り出した。 駅前から程近い分譲マンションへ向かった、俺と朝比奈さんの口は重い。 エレベーターの中、「あの……今から尋ねる長門さんって……」 そこまで尋ねた所で沈黙してしまった朝比奈さん同様、俺もなんて言えばいいのかわからなかった。 今から、宇宙人に頼んで貴女の悩みを解決しに行きます。 言ってしまえばそうなんだよな。 ともあれ、朝比奈さんがそれ程面識もないはずの俺についてきてくれているのも、鶴屋さんという共通の友人が居るおかげなのだろう。 ハイテンションで去っていった上級生に感謝する中、エレベーターは7階へと辿り着いた。 ――とまあ、そんな訳なんだ。 我ながら要領を得ない俺の説明を聞き終えて、長門は「わかった」 とだけ答えた。 相変わらずコタツ机1つがあるだけの部屋の中、俺と朝比奈さんの視線を受けて、長門は何か考えているのかじっと沈黙している。沈黙はいつもだが。「あの……貴女は長門有希さんですよね?」 おずおずと尋ねる朝比奈さんに、「そう」 長門はそう肯定する。 俺からすれば普段通りの対応なのだが、朝比奈さんにとってはそうではなかったらしい。「長門さんって、確か眼鏡をかけていませんでしたか?」「今はかけていない」「それに……あの、何だか私が知ってる長門さんとは雰囲気が違う気がするんです」「貴女の知っている長門有希は私ではない」「え?」 お、おい長門。 まさかお前、全部そのまま伝えるつもりじゃないだろうな?! そんな俺の不安を知ってか知らずか、「詳しくは言えない」 長門は朝比奈さんの目を見て、そう呟いた。 そうだよな、俺に説明しろって言われても説明する自信がないぜ。「……貴女の問題を解決する為に時間が欲しい」「時間って……どのくらいだ?」 聞き返す俺に、長門は部屋の時計を見つめる。 俺と朝比奈さんもつられて時計を見ると、今はちょうど22時を指している。 まるで俺達が時計を見終えるのを待った様なタイミングで、「午前零時まで」 長門はそう答えた。 長門がこれから何をするのか? 朝比奈さんはいったいどうなるのか? そんな疑問はまだ残っていたはずだったんだが、「それでですね? 長門さんの書いた小説が凄く素敵で、私ファンなんです!」「そう」「長門、お前どんな話を書いてたんだ?」「知らない」「そうなんですか……その小説なんですけど、今、大空の上で戦ってるシーンなんですがもうどきどきで、これからどうなっちゃうんですか?」「知らない」 何故だろう、俺達は和んでいた。 物事をそれ程深く考えない人なのか、それとも長門の事を信じているのか。 さっきまでのシリアスな空気はどこへやら、コタツを囲む3人の中で一番喋っているのは、このメンバーでは意外な事に朝比奈さんだったりする。 それにしても、どうやら向こうの世界では、朝比奈さんと長門はうまくやってるみたいだな。 しかもだ、聞くところによれば向こうの世界の朝比奈さんもあの部室に入り浸って居るらしい。SOS団は存在しないのに。「書道部と文芸部を掛け持ちしてるんです。どっちも部員の数が少ないので、合併の話も出ているんですよ」 なるほどね。 こう言ってしまっては何だが……俺が知っている朝比奈さんより毎日が楽しそうなのは気のせいだろうか? ハルヒの監視という仕事も無く、上司に言われるままに過去や未来へ飛び回る事も無く、ごく普通の高校生として毎日を楽しむ。 俺の視線を感じたのか、朝比奈さんは不思議そうな顔で俺を見た。「あの……どうかしましたか?」 いえ、何でもないです。 ちょっと貴女に見とれていただけですよ、朝比奈さん。 楽しい時間は瞬く間に過ぎて、時計の針はついに零時を指し示した。 日付が変わったのと同時に立ち上がった長門は、まだ座ったままの朝比奈さんへと視線を向ける。「時間」「あ、はい。えっと……お邪魔しました。お話楽しかったです」 そう笑顔で答えながら、朝比奈さんも立ち上がる。 朝比奈さんは長門の手を取り、「また、遊びに来てもいいですか?」 と聞いた。 その問いには答えないまま、長門は握られた自分の手を見ている。 何度か瞬きを繰り返してから、「向こうの私になら」 そう答えた。 何度か朝比奈さんに時間旅行に誘われた事がある俺だが、人が時間旅行をするのを見るのは初めてだった。 と言っても一瞬の事で正直よくわからなかったんだが、長門と向かい合って立っていた朝比奈さんの姿が歪んだ様に見えたかと思うと、その次の瞬間にはそこには誰も立って居なかったんだ。 ただ、朝比奈さんと手を繋いでいた姿のままの長門が残されていて、今はただ差しだされた状態の自分の手を見ている長門の顔が寂しげに見えるだけで。 静かな部屋の中に、「ご! ご、ごめんなさい! やっぱり、私はジョンさんよりキョン君の事が……あ、あれ?」 突然、奥の和室から聞こえてきた声。 俺は自分の頬が緩むのを感じつつ、家主の許可も取らないまま和室の襖を開けた。「あ! え? あ、あれ? ……キョン……君?」 真っ暗な部屋にしゃがみ込む、愛らしい天使がそこに居た。 「えっと……その。何て説明すればいいのかなぁ……。カーナビに住所を入力したら、住所が変わってた……とかじゃ分かりにくいですか?」「なんとなくわかりますよ」 って一応言っておきますね。 長門の部屋からの帰り道、朝比奈さんから聞いた説明によれば……だ。 報告の為に一度未来に帰った朝比奈さんがもう一度この時代へ戻ろうとした時、誤って長門が作ってしまった世界へと飛んでしまったそうだ。「自分で戻ってくる訳にはいかなかったんですか?」「TPDDは連続使用できないんです。だから救助をお願いしたんですけど、まさかこんな事になるなんて……」 びっくりした朝比奈さんは未来へ救助を頼んだのだが、間違えて向こうの世界の朝比奈さんをこちらへ送ってしまったらしい。 二次被害を生んだのはいったいどんな未来人なのか? ……なんとなくだが、あの人の様な気がするな。 ……なんていうか、未来人だからって進んでるって訳じゃないんですね。「うう……ごめんなさい」 ああ、なるほど。長門が零時を待ってたのはその為だったのか。 万一ハルヒに2人の朝比奈さんを見られてしまったら、それだけで大変な事になるもんな。 暗い夜道を俺と並んで歩く朝比奈さんは、何だか暗い顔をしていた。 それは未来の人に怒られる事を考えてなのか……それとも。 朝比奈さん。「はい」 俺は朝比奈さんとまた会えて嬉しいですけど、本当にこっちの世界に戻ってきてよかったんですか?「え?」 向こうの世界なら面倒な事に巻き込まれる事も無いし、毎日楽しく過ごせたかもしれませんよ? 無口だが僅かに感情表現する長門や、鶴屋さんと過ごす平凡な学生生活ってのを手に入れるチャンスだったとも言えるんだ。 俺の質問に朝比奈さんは静かに首を横に振って、「向こうの世界のみんなも優しくしてくれましたけど、私はこっちの世界がいいです」 ハルヒが居るのに? また着せ替えのおもちゃにされるかもしれませんよ? 多分、明日の放課後に。「だって……向こうの世界にもみんなは居たけど……その、えっと……」 俯いて喋る朝比奈さんの言葉はどんどん小さくなり、最後の方は聞き取る事は出来なかった。 彼女が何を言いたかったのかは分からない。ただ、朝比奈さんは最後に顔を上げて「キョン君。ふつつか者ですが、これからもよろしくお願いします」 いつか聞いた挨拶と一緒に、朝比奈さんは微笑んだ。 ――さっき、長門の部屋で向こうの朝比奈さんの方が幸せそうだって思ったんだがあれは撤回する。 今こうして俺の目の前に居る、この天使様より幸せそうな人なんて居るか? いーや、居ない。 「双天使」 ~終わり~ その他の作品
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