「…よく眠ってるな…」
病室には俺と妹の二人しか居ない。
親と医者は別室で何かを話しているようだ。
朝から曇っていた空はいつのまにか雨に変わり、窓を叩いている。
手術は無事終わった。
左足の骨折以外は、特に異常無し。
経過を見ないと何とも言えないが、恐らく後遺症なども大丈夫だろうとの事だった。
「…今にも起きて来そうだけどな」
妹は穏やかな顔で眠っている。
頭に巻かれた包帯と吊られた足が少し痛々しい。
俺は椅子に座り、ずっと妹の小さな手を握っていた。
…暖かい。
……俺はその暖かさに何度か涙が出そうになった。
…ありがとう。
…ピクン
生きていてくれた事に感謝を捧げた時、その小さな手が、かすかに反応した気がした。
「………ふみゅ………」
妹が何かを呻いている。
…呻いているっていうより寝言か、こりゃ?
「…おい、大丈夫か?」
「……うん…うぅ~ん……。……ふぇ…キョン…くん…?」
妹がゆっくりと目を開け、俺を見た。
「寝ぼすけだな。もうすっかり夜だぞ、お姫様」
俺は静かにナースコールを押した。
「―――はい、如何されましたか?」
病室に看護婦さんの声が響く。
「妹が、気付きました」
「…え? もう…ですか?」
…言われてみれば。
まだ手術が終わってから二時間しか経っていない。
こんなに早く気付くもんなのか?
…まぁ、これが若さか。
「えぇ…気付きましたけれど」
「…そうですか。分かりました。…良かったですね。今、向かいます」
優しそうな声の人だな。
顔も知らない彼女も、妹の無事を喜んでくれているようだった。
「えと…キョンくん…わたし…」
ここが何処だかよく分かってないのか?
その大きな目がフラフラと辺りを見回している。
「覚えてないのか? お前は事故ったんだ」
「…事故…?」
「あぁ、車とな」
妹が何度かゆっくりまばたきした。何かを思い出そうとしているようだ。
「ふぁ…そっか…」
「思い出したか?」
「うん…ミカちゃんの帽子がね…? 風で飛ばされちゃって…それで…ひかれちゃうって思って…取りに行ったら…。…えへへ…」
妹が弱々しく笑った。
「それでお前が轢かれてたら世話ないぞ?」
俺は妹の頭を撫でようとして、その包帯に気付いた。
…頭を打ったって言ってたしな。
「うにゅ…キョンくん…くすぐったいよぉ…」
俺は妹の頬を撫でる事にした。
むずがるように、けれど嬉しそうに妹が言う。
「…これぐらい我慢しろ。俺達がどれだけ心配したと思ってるんだ」
「うん…ごめんなさぁい…」
妹はそう言うと、懐くように俺の手に頬擦りしてくる。
その柔らかい頬も、暖かい手も。
当然のように思っていたそれが失われようとしていた。
今更ながらにその事に恐怖する。
…でも、良かった。
…本当に…良かった。
「…わたしね…」
大切な存在が生きている。その喜びを噛み締めていると、妹がぼんやりと何かを話し出した。
「…どこか…大きな遊園地にいたの…」
…遊園地?
「昔、一緒に行った遊園地の事か?」
「…ううん…ちがうの…。どこか…知らない場所…」
妹は…何を言ってるんだ?
「…すっごくすっごくおっきい観覧車があって…雲の上まで続いてて…上の方は見えなくて…。
たくさんの人がそれを待ってるの…。みんな…青い顔をしてて…ぼんやりしてて…。
それで…たくさんの人が、どんどんゴンドラに乗って…雲の上まで上がっていって…。
でもね……雲の上からおりてくるゴンドラには…誰も…乗ってないの………」
………そういう。意味か。
「………わたしも…じゅんばんを待ってて…」
俺は何か薄ら寒いものを感じていた。
「…それで、どうしたんだ?」
「うん…わたしの番って…なったんだけど…。…そしたらね…? ハルにゃんの声がしたの…。
……まだ行っちゃだめって……キョンくんが泣いちゃうって……行かないで…って……」
…ハルヒの?
「…そしたら…なんかあったかくなってきてね…? だれかにぎゅってされてるみたいで…。
…それから…それからね…? 光が…いっぱいになって…辺りが真っ白になって…」
そこまで話すと、妹は俺の手をきゅっと握ってきた。
「…それで…気付いたら目の前にキョンくんがいたの…」
…妹の話はよく分からなかった。
ハルヒが…どうしたって?
「あっ…! ねぇ、キョンくん…!」
俺が妹の言った意味を考えていると、妹が何かを思い出したように急に声を荒げた。
「ハルにゃんが…呼んでるの…!」
…ハルヒが呼んでる?
…さっきから妹は何を言ってるんだ?
…そんなに不思議系でも無かったハズだが。
ガラララ…
「お目覚めですか? 今、先生がいらっしゃいますからね」
俺が妹の不思議な言動に驚いていると看護婦さんが病室にやって来た。
その声から先程のナースコールを受けた人だと分かる。
「わたしの事なら大丈夫だから…だから…おねがい…。キョンくん…行ってあげて…。ハルにゃんが…泣いてるの…」
だが妹はやめない。
何か大事な事を伝えるかのように。
その事が急務かのように。
「…何を言ってるんだ? …少し混乱してるみたいだな。もう一度寝ろ。な?」
「違う…っ…違うのキョンくん…! ハルにゃんが…ひとりで…ひとりでさびしいって泣いてるの…っ!
だから…だからっ…キョンくんが…助けてあげて…!」
繋いだ手がぎゅっと捕まれる。
その力強さに驚く。
その瞳は、真剣さを超えて何か使命のようなものを感じさせた。
「………ハルヒが、呼んでるんだな?」
「うんっ…」
「…分かった。じゃあハルヒの所に行ってくるから。お前はもう一度おやすみ。それでいいか?」
…妹が何を言ってるのか、正直よく分からなかったがその必死な表情を思うと、むげには出来なかった。
「…うん。わかった…。…いってらっしゃい…」
俺はもう一度頬を撫で、妹の手を離すと、看護婦さんに携帯の使える場所を聞いた。
「あ…キョンくん…」
俺が病室を出て行こうとした時、妹が何か話しかけてきた。
「…ずっと…手にぎっててくれて…ありがと…。お兄ちゃんのあったかさも…感じたよ…?」
妹は顔の下半分を布団にうずめ、恥ずかしそうに言う。
「…あぁ。おやすみ」
…久しぶりに言われたお兄ちゃんは、少しくすぐったかった。
夜の病院はとても静かでひっそりとしていた。
病院の廊下に俺の足音だけが響く。
俺は看護婦さんから教えてもらった場所に行くと、ずっと消したままになっていた携帯の電源を入れた。
…ヴーッ…ヴーッ…ヴーッ…
電源を入れた途端、携帯が震えた。
…メール?
メールボックスを開く。
…新着18件。
…なんだこりゃ?
何かの間違いか?
俺は受信メールを確認する。
時刻:2006/ 10/8 16:57
From:谷口
Subject:無題
妹さんの安否が分かったら連絡しろ、いいな!
安否っていうか、無事に決まってるが、連絡しろよ!
時刻:2006/ 10/8 16:59
From:国木田
Subject:絶対なんて言葉は好きじゃないんだけど
キョン、きっと大丈夫だ。絶対に。
時刻:2006/ 10/8 17:02
From:長門
Subject:報告
レントゲン撮影終了
危惧された頭蓋への損傷は認められず
左足の骨折が周辺の筋組織に影響
時刻:2006/ 10/8 17:10
From:長門
Subject:報告
術式、開始
時刻:2006/ 10/8 18:13
From:朝比奈さん
Subject:涼宮さんから聞きました
…キョンくん、元気出してください。
きっと、大丈夫ですから。
わたしもお祈りしてます。
お願い…神様…
時刻:2006/ 10/8 18:16
From:古泉
Subject:無事を。
それだけを。切に願っています。
時刻:2006/ 10/8 18:22
From:長門
Subject:報告
頭部裂傷、縫合終了
バイタル安定
時刻:2006/ 10/8 18:57
From:鶴屋さん
Subject:みくるから聞いたんだけど…
きっと大丈夫。
めがっさ大丈夫。
あたしは信じる。
時刻:2006/ 10/8 19:12
From:長門
Subject:報告
左足の主だった筋組織を保護
時刻:2006/ 10/8 20:13
From:朝比奈さん
Subject:えと…
何度もごめんなさい。
こんなこと…聞いちゃいけないのかも知れないけど…
妹さん…大丈夫…ですよね?
時刻:2006/ 10/8 20:27
From:長門
Subject:報告
術式、終了
後遺症の心配も無し
良かった
時刻:2006/ 10/8 20:57
From:朝比奈さん
Subject:キョンくん…
お願い…無事だったって…言ってください…
時刻:2006/ 10/8 21:37
From:鶴屋さん
Subject:…良かったらさ。
良かったらでいいんだ。
みくるに連絡してあげてくれると嬉しい。
…ごめんね。
…胸が、熱くなった。
他にも何件かクラスメイトからの励ましや、妹の無事を祈るメール。
妹の事をこんなにも心配してくれる人がいる。
その事が何よりも嬉しく、誇りに思えた。
「…何やってんだ俺は」
それと同時に自分を恥じた。
今まで妹の事で頭が一杯で、他の人の事まで頭が回っていなかった事に気付いたからだ。
手術から妹が目を覚ますまで、携帯もずっとほったらかしになっていたしな。
この様子だと朝比奈さんなんかは泣いているのかも知れない。
…長門が何を覗き見ていたのかは分からないが。
全員に返信したい所だったが、妹から頼まれた事を思い出す。
同時に、このメールの中にアイツからの受信が無い事に気付いた。
「…ハルヒ」
…今日はアイツの誕生日だったんだよな。
でも、皆のこの様子だとパーティどころじゃ無かっただろう。
俺は着信履歴からハルヒの名前を見つけ出すと、通話ボタンを押した。
…テュルルルルル…テュルルルルル…
…遅いな。何をやってるんだアイツは。
……そうして10回ほどコール音が続いた時、電話が繋がった。
ピッ
「もしもし」
『やっほー、キョン君、お久しぶり』
………誰の声だ?
電話口から聞こえる声はハルヒの声じゃない。
…ハルヒじゃない誰かで…ハルヒの携帯に出る人…
『分からないかな? この前、道端で会ったじゃない』
…ハルヒ母。
「え、えっと。どうも。お久しぶりです」
俺は突然の事に少なからず慌てた。
どうしてハルヒ母がハルヒの携帯に出るんだ?
『うん、お久し~。出ちゃマズイかなとも思ったんだけど、キョン君からだったからさ。思わず出てしまいましたー。
ハルヒが携帯が無いとか騒ぎ出したんでしょ?』
…どういう意味だ?
『あのコ、今朝携帯忘れてっちゃったんだ。誕生日だってのに全く何やってんだろね』
ハルヒ母の笑い声が電話口から聞こえて来る。
『だから、ハルヒには携帯なら家にあるって伝えてくれる?
今、ハルヒと一緒なんでしょ?』
……俺は考えてしまった。
…ハルヒ母が俺にハルヒと一緒かどうか聞いてきた。
つまり、ハルヒは家に帰っていない。
携帯を耳から離し、時刻を確認すると22時12分。
…何をやってるんだあのバカは。
「…はい、一緒です」
…咄嗟に嘘をついてしまった。
ハルヒ母を心配させるよりはマシだ。
『そっか。ハルヒに代わってくれる?』
…マズイ。
「いや…えっと…その…今、寝てしまってて…」
その言い訳はもっとマズくないか、おい。
『…へぇー…』
ハルヒ母の声のトーンが急に低くなった。
…やばい、嘘がバレたか?
『……キョン君?』
「…はい」
『…娘に変な事しちゃダメだぞ?』
からかうような調子で言ったかと思うと、ハルヒ母は声を押し殺すように笑っていた。
『まぁ…キョン君が、娘の事本気で考えてくれてるっていうなら、ちょっとぐらいは変な事してもいいけどね』
この母にして、あの娘かも知れない。
「し、しませんよっ!」
『あー、さてはキョン君、もしかして、もう変な事しちゃった後だったり?』
「…してませんってば」
ハルヒはずいぶん素敵な教育を受けてきたようだ。
『あははっ、ごめんごめん』
…それから少し会話が途切れた。
ハルヒのヤツ…どこで何をしてるんだ?
俺がそんな事を考えているとハルヒ母が穏やかな口調で切り出した。
『…キョン君。ありがとね』
突然お礼を言われた。
…何か礼を言われるような事があったか?
『本当にあのコの誕生日、お祝いしてくれたんだね。
中学生の時ぐらいから…かな。ハルヒ、誕生日はずっと家に居たからさ。
誰かお祝いしてくれる人が出来て、私も嬉しいよ』
…胸が痛む。
『ハルヒの相手するの、大変でしょ? あのコ、私に似てガサツだし、ワガママだから』
そう言うとハルヒ母は爽やかに笑った。
…よく笑う人だな。
というかその言い方はズルイぞ。
確かにハルヒはガサツでワガママだが。
母上を引き合いに出されては認めるわけにもいかん。
「いえ…そんな事は」
『あははっ、キョンくーん、嘘ばっかり?』
はい、すみません。
嘘ついてます。
『…でもね、あのコ、最近は楽しそうにしてるんだ。前は全然だったのに、学校の事とかもよく話してくれて。
今日はどこに行ったとか、今日はキョン君にこんな事言われた、とかね。嬉しそうに言うの』
…ずいぶん似合わない事をしてるな。
『あのコがあんなに明るくなったのも、キョン君達のおかげだと思う。だから、ありがとう』
…違う。
俺は、今日だって。
『あんな娘だけど、これからもよろしくね』
「…はい」
俺にはそれしか言えなかった。
『あ、そーだ。どうしても変な事したくなったら―――』
「しませんってば」
ハルヒ母はもう一度笑うと『それじゃあね』と、電話を切った。
…ハルヒ。
お前はどこに居るんだ?
次に古泉に電話をかけたが、繋がらなかった。
…朝比奈さんなら何か知っているかも知れない。
…テュルルル…ピッ
『キョ、キョンくんっ!? ひっく、妹さんは…妹さんは無事、ですよねっ! えぐっ、無事だって言ってくださいっ!』
一回のコールで電話が取られたかと思ったら、電話口から朝比奈さんの涙交じりの声が溢れてきた。
…心配、させちまったな。
「…妹は無事です。すみません、連絡するのが遅れてしまって」
『…えぅ…ホントですかぁ…ひっく…良かった…うぐっ…良かったですぅ…本当に…ぐすっ…うぇぇぇん…!』
…朝比奈さんが電話の向こうでグズグズに泣いているのが容易に想像出来た。
…すみません。それから、ありがとう。
「…朝比奈さん、今日ハルヒと会いましたか?」
『ひっく…えぐっ…はい…? 涼宮さん…ですか…?
今日は…部室に行ったら…涼宮さんが…キョンくんの妹さんが…
じ…事故に…事故にあったって…ひっく…うぅっ…ひぇぇぇんっ…!』
妹が事故ったと聞かされた時の事を思い出させてしまったようだ。
「あ、朝比奈さん、落ち着いてください。妹なら、無事ですから」
『ぐすっ…ご、ごめんなさい。それで…涼宮さんとは…それっきり…です』
…やっぱりか。
「パーティは…やっぱり、無理、でしたか?」
『は、はい…。涼宮さんも、すぐ帰っちゃいましたし…わたし達も…妹さんの事で頭が一杯になっちゃって…』
「…分かりました。今日は、すみませんでした。それから、心配してくれてありがとう」
『ひっく…ううん、いいんです…妹さんが無事なら…それで…。ひっく…わたしこそ、こんなに泣いちゃって…ごめんなさい…』
「いえ。…誰が悪いって訳じゃないと思いますから。それじゃ、また明日学校で。おやすみなさい」
そう言って電話を切った。
切った途端、再び電話が震え出した。
今度は…着信?
…発信者は…古泉。
ピッ
『先程は出れずに済みません。妹さんはご無事でしたか?』
電話を取ると古泉が矢継ぎ早にそう言った。
「あぁ、すまん。連絡が遅くなって。妹は無事だ」
すると電話口の向こうから、安心したようなため息が聞こえてきた。
『それは何よりです。…信じていましたけれど、やはり不安だったものですから』
古泉も信じてくれてたんだな。…ありがたい。
俺が密かに古泉に感謝していると、電話口の向こうから奇妙な叫び声が聞こえた。
『………ウォォォォォォォォォン………』
…古泉の声じゃない。
古泉が体長15メートルのアメリカザリガニでも無い限り、こんな声は出せないだろう。
…それに今の声。前に聞いた事があった。
「…古泉、今、どこに居るんだ?」
『おや、聞こえてしまいましたか。…恐らく、あなたの思っている通りですよ』
―――閉鎖、空間。
…ここ数日や今朝のハルヒの不機嫌具合を見れば、納得は出来たが。
「…悠長に電話なんかしてていいのか?」
『えぇ、今は彼等もおとなしくしていますし、空間の拡大も停止しています。…こんなのは初めてですね』
おとなしくしている?
あの馬鹿デカい青色の巨人がか?
…ちょっと想像がつかないな。
『……正直に言えば…あなたに期待していました』
古泉が唐突に切り出した。
「期待? 何をだ?」
『毎年この時期になると、閉鎖空間が多発していた。
その原因が涼宮さんの誕生日にあると気付くのは簡単でした。
しかし、分かった所で我々にはそれを解決する術が無い。
ですから、あの日、あなたが部室で彼女の誕生日を祝うと言い出した時、期待していたんですよ。
…もう少し、睡眠時間が増えるかな、とね』
…古泉はハルヒの誕生日の事を知ってたんだな。
もし俺が言い出さなかったら、古泉が言い出していたのかも知れない。
「…それは、期待を裏切っちまったな」
『いえいえ、少なくとも今は彼等もおとなしくしていますし。
恐らく涼宮さんの精神状態に関係あるのだとは思いますが。
…先程、初めての事と言いましたが、この空間内で一般の通信機器が作動したのも初めての事なんですよ。
…涼宮さんが思っているのかも知れません。一人では居たくないと』
…そうだ、ハルヒ。
「ハルヒが今、どこに居るか分かるか?」
『…そう聞くという事は自宅には居ないのですね。…済みません。僕には判りかねます。
長門さんなら涼宮さんの居場所を把握している筈。彼女に連絡してみては如何でしょう』
「そうか。分かった。…それと古泉、今日はスマンかった」
『いえ。お気になさらずに。それより…会いに行かれるおつもりですか?』
古泉は誰にとは言わない。
「…あぁ。よくは分からんが…一人で寂しがってるらしいんでな」
俺も誰にとは言わなかった。
『そうですか。…幸運を』
俺は戦場に向かうのか、古泉。
…ま、今朝の様子を見る限り、あながち間違っちゃ居ないのかも知れんが。
古泉との電話を切った後、今度は長門にかけてみる。
…テュ…ピッ
…ノーコールで取られた。
『涼宮ハルヒは神社に居る』
…話が早すぎるってのも、分かりづらいもんだな。
「長門、話を分かってくれてるようで何よりだが、神社って丘の上のアレか?」
この街に神社と言えばひとつしか無い。
『そう』
「分かった。…それと、心配してくれたのはありがたいが医療機器をハッキングするのはあまり感心しないぞ」
『…善処する』
あのメールを随時確認していたら、もう少し落ち着いてられただろうけどな。
「…長門、今日は済まなかったな。それから、ありがとう」
『…ん。』
長門の頷くような吐息が聞こえた。
…丘の上の神社。
そこにハルヒが居る。
なんだってそんな所に居るんだ。
俺は親に一言告げた後、病院の階段を駆け下りた。
そうして夜間出入り口から外に出ようとして改めて気付く。
…雨。
それも景色が霞むほどに本格的に降っている。
…こんな中、ハルヒは神社に居るのか?
しかし長門が間違えた事など今まで一度たりとも無かった。
長門がそう言うなら、ハルヒは本当に神社に居るのだろう。
「…くそ。あのバカっ」
俺は傘立てから乱暴に一本掴むと雨の中へと飛び出した。
…誰のかは知らんがすまん。後で返すから。
神社への道を走る。
走り続ける限り、傘は大して役に立たなかった。
横殴りの雨が吹き付ける。
10月だってのに遠くに雷鳴が聞こえた。
まるで嵐だ。
その内、息が上がり、わき腹が痛んだ。
思ったよりも遠い。
俺は雨の中を走りながら、ここ数日の事を思い出していた。
ずっと機嫌が悪かったハルヒ。
やっぱり誕生日だったからなのか?
しかし、理屈は分からんが、妹はハルヒが泣いていると言っていた。一人で寂しがっていると。
古泉も似たような事を言っていた。
…寂しいなら寂しいと言えばいい。
…昔の事は知らんが、今、お前には友達が居るだろうに。
友達ってのは自分を映す鏡って言葉を知ってるか、ハルヒ。
俺はお前を映す鏡にしては、ありきたり過ぎるかも知れん。
でもな、ハルヒ。ウチの部活にはヘンテコなヤツが三人も居るんだ。
お前とタメを張るぐらいの不思議なヤツらがな。
そうして鏡と鏡を合わせれば、そこにお前も映る。
…一人じゃないんだ。
……恥ずかしいセリフ禁止。
やっとの事で神社に辿り着いた時、俺は絶望した。
…何段あるんだ、この石段は。
人妖の境界かここは。まさにPhantasm。
…ハルヒよ。今度はなるべく平地に居てくれ。
今度なんて無いと思うが。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…!」
ようやく石段を上り終えた時。
心臓は張り裂けそうだった。
つーか、口から出そうだ。色々と。
汗なのか雨なのか分からないものが全身を伝っている。
「はぁっ…はっ…はぁ……」
全力で呼吸を整えながら俺は辺りを見回した。
…そこに、居た。
煙る雨。
響く遠雷。
白い制服。
ハルヒは神社のヒサシの下の石畳。その地べたにアグラをかいて座っていた。
…だから、アグラは止めろっていつも言ってるだろ?
…その内、パンツ見られるぞ。
しかし上半身を見れば、こうべを垂れ、両の手の平をしっかりと組んでいる。
祈る。正にそんな感じだ。
「…わたしの番って…なったんだけど…。…そしたらね…? ハルにゃんの声がしたの…。
……まだ行っちゃだめって……キョンくんが泣いちゃうって……行かないで…って……」
妹の言葉が思い出される。
「…そしたら…なんかあったかくなってきてね…? だれかにぎゅってされてるみたいで…。
…それから…それからね…? 光が…いっぱいになって…辺りが真っ白になって…」
「…ハルヒ!」
雨の勢いに負けないように俺は怒鳴る。
ハルヒは一度ビクンとなったが、やがて立ち上がるとキョロキョロと辺りを見渡し、その内、俺に気付いた。
…ハルヒが駆け寄って来る。
その全身が雨に晒された。
「キョン! あんたどうして…!?
ううん、そんな事より、妹ちゃんは…妹ちゃんは無事なんでしょうねっ!?」
ハルヒは雨など気にしないかのように、俺に負けず劣らず叫んだ。
その瞳には、不安、強さ、恐れ、葛藤、様々なものが浮かんでいる。
…バカが。
こんな所にずっと居たら風邪引くだろ?
お前が風邪で寝込んだりしたら、俺がノートとか届けてやらなきゃならないだろ?
ちょっとは自分の事にも気を遣え。
俺はハルヒに傘を差し出す。
「…あぁ、妹は無事だ」
「………そう。良かった…。ホントに…良かった…」
俺の言葉を聞いたハルヒがふらりと揺らいだ。
「お、おい、ハルヒ!?」
俺は咄嗟にハルヒの体を支える。
ハルヒを支えるために俺の手から傘が落ちた。
冷たい雨が俺達を包む。
雨の中、ハルヒの鼓動が伝わる気がした。
「…ちょっと貸しなさいよ…。少し、疲れた……」
ハルヒは俺の胸に体を預けると、ゆっくりと目を閉じた。