ハルヒの選択 後編
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涼宮ハルヒの愛惜 最終話 ハルヒの選択 後編
古泉。お前、ハルヒがSOS団を作った目的って覚えているか?「え? ……はい、覚えています」 呆けた顔の超能力者は、床に座ったままで頷く。 そうか、じゃあ言ってみろ。「宇宙人や未来人、超能力者を見つけて一緒に遊ぶこと……ですか?」 そうだ。 あの時のハルヒの楽しそうな顔は、生涯忘れられそうにないぜ。 ハルヒにとって未来人や宇宙人、超能力者ってのはいったいなんだと思う?「涼宮さんにとっての……?」 そうさ、あいつは別に宇宙人でも未来人でも超能力者でも異世界人でも男でも女でもいい、自分が特別だって思えるくらいに一緒に居て楽しい存在を探してたんだ。そして見つかったのが、朝比奈さんに長門、そしてお前。あと、ついでに俺だな。あれから半年以上一緒に居るんだ、そろそろわかろうぜ?「何を……でしょうか」 おいおい、俺に全部言わせるつもりか? 古泉の目の前に立ち、俺は溜息をついた。その溜息は古泉だけに向けられた物ではなく……何ていうか自分にも向けられた物でもある。 あいつはお前らの正体に気づいてないのに、宇宙人も未来人も超能力者も探さなくなった。つまり、あいつは目的の存在をもう見つけてるんだよ。あいつが見つけた宇宙人でも未来人でも超能力者でもなく、一緒に居て自分が特別な存在だって思えちまう程楽しい存在ってのは……正体なんて関係ない、団員である俺達なんだよ。 ……やれやれ、お互い大変な奴に選ばれちまったもんだよな。 俺はまだ座ったままでいる古泉の前に手を差し出した。 古泉、もしもお前がハルヒと一緒に居る事から降りるのなら仕方ないが、まだそのつもりが無いのならついてこい。ハルヒはお前を待ってるぞ。みんなも……ついでに俺もな。 涙で歪んでいた古泉の目に――遅せーよ――ようやく力が戻った。 古泉の手が俺の手を掴んだ所で、俺は目を覚ましてやろうとわざと乱暴に引き起こす。 よろけながら立ち上がり「……また、借りができてしまいましたね」 照れくさそうにしている古泉を睨み、 なんのことだ。 俺はそう言い返した。
「今回の機関の動きについて僕にわかる事は一つだけ、涼宮さんの誘拐に森さんが関わっているという事だけです」 鶴屋さんが用意してくれた10人は乗れそうな3列シートの大型ワゴン車――運転手付き――の中で、ようやく調子を取り戻した古泉が口を開いた。 ちなみに車の持ち主である鶴屋さんは「内緒話ししなきゃなんでしょ? あたしは前に座ってるからさ。目的地が決まるまではあたしの心当たりをぐるぐる回ってるからね」と言って助手席に座ってくれている。 ここまで手助けしてもらっておいて、何も言えなくてすみません。「森さんってあの、孤島の別荘で色々とお世話をしてくれた人ですよね」「ええ、彼女です」 って事は、あの人も機関とやらの一員なのか?「はい。機関で最も優秀な人材と言われています」 躊躇いがちに答える、古泉の顔色がやけに悪い。「……あの、どうして森さんは涼宮さんを誘拐したんでしょうか」「そこまでは。ただ、実際に機関の部隊が動いている様なので今回の件は彼女の独断ではなく機関の作戦による物だと思います。ですが僕はメンバーから外されているのでこれ以上の事はわかりません」 古泉、前に言ってた気配がどうとかでハルヒの居場所ってのはわからないのか?「かなり近づけば大体の居場所はわかるんですが、今はただ、彼女が無事だという事しかわかりません」 そうか……。長門、喜緑さんからあれから連絡は?「しばらく待って欲しいとメールが来てから、連絡が無い」 喜緑さんでも状況を掴めないとなるとこれは大事だな……ここまでくると、俺が頼れそうなのは後1人しか居ない。 俺が恐る恐る朝比奈さんへと視線を向けると、「……ごめんなさい」 何も聞く前に朝比奈さんは暗い顔で俯いてしまった。 ……ですよね。 そもそも、これが話していい事なら前みたいに事が起きる前に警告なり相談なりされそうなもんだ。 俺が異変に気づいたきっかけである朝比奈さんからあった電話の内容は、未来からの指示で今すぐハルヒを探さなくちゃいけないという事だけだった。 何の事かわからなかった俺と朝比奈さんは、ハルヒや古泉に電話してみたり、鶴屋さんに調べてもらっていく間にハルヒが誘拐されたという結論に行き着いたわけだ。 最初、俺はハルヒが「宇宙人にさらわれてみたい!」等と思いついたんじゃないかと心配したんだが……相手が謎の機関だったんじゃ……どっちもどっちだよなぁ。 しかし……超能力者も未来人も元宇宙人も駄目となると、後は現役宇宙人である喜緑さんの連絡を待つしかないんだろうか。 思わず無言になった俺達が居る後部座席に、「ね~! お話は終わった?」 助手席から退屈そうな鶴屋さんの声が聞こえてきた。 すみません、まだ何処へ行けばいいのかわからなくて。「そうなの? とりあえずハルにゃんの居そうな場所には着いたんだけど」 当たり前の様に告げられたその言葉に呆然とする俺達に、鶴屋さんは楽しそうにフロントガラスの向こうを指差している。 気づけばいつの間にか車は止まっていて、鶴屋さんが指差す先にはヘッドライトに照らされた北高校の校門があった。
車を飛び出した俺達は、真夜中の校庭を走っていく。 そんな中、俺は隣を走る鶴屋さんに疑問をぶつけてみた。 鶴屋さん。ここにハルヒがいるって、どうしてわかったんですか?「えっ? ああ、古泉君の住んでる場所を探したのと同じ方法で探したのさ!」 古泉の家って……確か、俺との通話記録から契約情報を割り出したんでしたっけ?「そうそう。学校のデータを探してる時間がなかったから携帯会社のサーバーにちょろんとアクセスしてね! それで、ついでにみんなの通話記録を検索してみたらビンゴってわけさ」 ビンゴ、ですか。 さらわれた後、誰かがハルヒと電話した記録が残ってたんだろうか。「みんなの通信記録の中で1人だけ居た不自然な反応。その人はずっとこの場所で留まってたってわけ」 それが、ハルヒって事ですか。「え? 違う違う!」 慌てて鶴屋さんは手を振って見せる。「見つかった不自然な反応っていうのはね? みんなから聞いた話ではハルにゃんを探してるはずなのに、ず~っとこの学校の中でじっとしてたのさ。それはもちろんハルにゃんじゃなくって……あの人」 そういって鶴屋さんが指差した先、グランドの中央に立つ小さな人影。 俺達を待ち構える様に立ちはだかったのは――俺が最後の切り札だと思っていた人「……困ります」 マジかよ……。 月の光に照らされた穏やかな顔つきの上級生、喜緑江美里さんの姿だった。 ――別に言葉や態度で足止めされている訳ではないのだが、彼女の手前で全員が足を止める。 機関とやらがどれ程やばい物なのか俺は知らん、古泉が何故か怖がっている森さんの凄さってのもな。 そんな俺でもこの人のやばさなら何となくだが分かるぞ。 大人しい上級生にしか見えない喜緑さんだが、その正体はれっきとした宇宙人なんだ。 その実力を俺より知っているのかも知れない古泉だけでなく、事情を知らない鶴屋さんでさえも迂闊に動けないでいる。 俺達を見回した後、「このまま、何も聞かずに帰ってもらえないでしょうか」 喜緑さんは疲れたような声でそう言った。 この先にハルヒが居るんですね。 俺の質問に、喜緑さんは視線を向けるだけで何も答えてはくれない。 何も聞くな……って事か。「ここまで来れば僕にもわかります。間違いなく、この先に涼宮さんが居ます」 そう言って、古泉は喜緑さんの後方にある部室棟の方向を指差した。 古泉、ハルヒは無事なんだろうな?「今のところは」 とはいえここでのんびりしてていいとは思えない、何とか説得を試みようと俺が一歩踏み出した時、「待って」 後ろに立っていた長門が、俺の手を掴んで引き止めた。「彼女は、私が引き受ける」 引き受けるったって……お前はもう普通の人間なんだろ? 以前、朝倉から俺を守ってくれた時なら話はわかるが、今のお前じゃそんな無茶はできないはずだ。「大丈夫」 俺の目を見てそう言い切る長門は、ゆっくりと頷いた後「信じて」 と、付け加えた。 どう考えたって大丈夫じゃない、相手は宇宙人でお前は元宇宙人でしかないんだ。「…………」 ……そんな説得をした所で、お前が聞くわけはないか。 俺はそっと朝比奈さんの方へ視線を送る――これから起きるであろう未来を知っているはずの朝比奈さんに。 これがチートだの小細工だの歴史改竄だのと言われようが知った事か、俺は長門を危険な目に合わせる訳にはいかないんだ。 そんな俺の思いを知ってなのかどうかはしらないが、朝比奈さんはしばらく迷った後、目を閉じて小さく頷いてくれた。 すんません、後で怒られる様な事があったら俺に好きなだけ八つ当たりしてくださいね。 俺は朝比奈さんから長門に向き直り、その小さな両肩に手を乗せた。 本当に大丈夫なんだな。「大丈夫」 俺を見つめている長門の目は、嘘をついている様には見えなかった。 そうか。危なくなったらすぐに助けを呼ぶんだぞ?「そうする」 いつか見たのと同じ、何かを決意した顔で俺を見る長門の頭を撫でつつ、俺は頷いた。 よし……頼んだ。
――
感じるまま、感じる事だけを
月明かりも差し込まない学校の中庭に、4人の高校生が走りこんでくる。 その姿を捕らえた監視カメラは、映像の中の動く物体を機械的にサーチしていった。「……」 机に置かれたモニターの中を動く4人の人影を、森は無言のまま見つめている。 彼らが部室棟の入口付近に辿り着いた時、建物の入口とその周辺に隠れていた機関の実行部隊が作戦通りに彼等を取り囲んだ。 まず、朝比奈みくるをマネキンを梱包するくらいに問題なく捕縛。 次に彼女を庇おうとした彼を捕縛。 抵抗しても無駄だと分かっているのだろう、古泉も抵抗を止める。 最後に……
てぇーいりゃー!! 4人中3人を捕まえて油断していたのだろう。油断していた黒服の男から警棒を奪い取ったあたしは、迷う事無く相手の鎖骨付近に警棒を叩き込んだ。 何かが砕ける感触を感じる間もなく、残りの襲撃者に視線を向ける。 あたしが抵抗する事が余程予想外だったのかな? 動きを止めた男の1人に警棒を投げつけて、あたしは飛んでいく警棒を追いかけるようにして駆け出す。 顔に向かって飛んできた警棒を両手で防ごうとする相手に、警棒よりも先にあたしの肘が腹部にめり込む。くの字に曲がった男の顔に、ようやく飛んできた警棒が激突した。「鶴屋さん?」 それが誰の声だったのかわからないけど、あたしの動きは止まらない。 地面に落ちた警棒を拾って、次の相手へと飛び掛っていく。「無駄な抵抗をす ごっめんねー、聞いてる余裕ないのっ。 大きく開いた男の口に、あたしが投げた警棒が突き刺さった。 残った敵は……見える範囲に居るのは2人、見た目では武器無し。 身構える相手に、あたしはここからが正念場だと思ったんだけど……。「退け」 現れた時と同じ、倒れた仲間を連れて音も無く黒服の襲撃者は去って行ってしまった。
暗闇の中、頬の傍にあるマイクを意識しながら小さな声で呟く。 実行部隊が壊滅した。プランBに移行する。「かしこまりました」 無線から聞こえる返事には、僅かな動揺も感じられなかった。 言う必要はない事だが……。 目標の中に、鶴屋家の御令嬢が居る。 なんとなく、そう付け加えると「……なるほど、実行部隊5人では歯が立たない訳ですな」 今度の返事には、少し楽しそうな響きがあった。 予定通りに頼むぞ、新川。 返事を待たずに無線を切った森は、来るべき時に備えて機器の撤収に取り掛かった。
「ふぇ~……こ、怖かったです~」 はいはい泣かない泣かないっ! みんな~怪我とかないかな? 涙目のみくるを慰めつつ、あたしはふらついている2人に声をかけた。「俺は大丈夫です」 みくるを庇った時にぶつけた頭をさすりつつ、キョン君も答える。「僕も怪我はありません。ですが、まさかここまで乱暴な手段に出るとは……」 ショックを受けた顔で古泉君は呟いた。 全力で追い返しておいてフォローするのもなんだけどさ、今の連中ってあたし達に危害を加えるつもりはなかったみたいだよ?「え?」 ほらこれ、さっきの奴らの落し物だけど。木製の警棒と防犯用の捕獲ロープだもん。これを見る限り何か目的があってあたし達を捕まえたかったみたいだね。ただ単に邪魔なだけだったら、もっと簡単な方法があるっしょ。 そう、これって危害を加えずに捕獲したかったとしか思えないんだよね……。 今更だけど、敵の目的が何なのかを考え出したあたし達の前に「お忙しいところ失礼します」 ――あたしの目には、その人は突然現れた様に見えた。 背中を冷たい汗が伝っていく。 さっきあたし達を捕まえようとした奴らが飛び出して来た時も、あたしはその動きにすぐに気づいて反応できた。 それからもあたしは警戒を続けていたはずなのに、その男の人が口を開くまで、あたしはその人の存在に全く気がつけなかったのさ。「貴方は……もしかして」「新川さん」 キョン君と古泉君の言葉に、その男の人――執事服に身を包んだ落ち着いた雰囲気の男性、新川さんは恭しく頭を下げてみせる。「ご無沙汰しております」「貴方も、ハルヒを誘拐した連中の仲間なんですか?」 キョン君の質問に、「左様で御座います」 新川さんは間を置いて頷く。「訳を聞かせてください」 凄く怖い顔をした古泉君が前に出ると、新川さんはすっと体をずらしてその視線を避ける。新川さんはあたし達の視線を一身に受けながら、部室棟の入口を手で指し示した。「私の任務は、ここから先にそちらのお嬢様方2人を通さない事です。ご質問があれば、この先に居る森がお答えします」 森という単語に、古泉君がまた体を震わせていた。 ……あたしとみくるは駄目だけど、キョン君と古泉君はハルにゃんの所に行っていいって事?「仰るとおりで」 じゃー2人はお先に行っちゃって! 軽く言い切るあたしに、キョン君は驚いている。「鶴屋さん?」 ほらほら急いだ急いだ! ハルにゃんを助けなきゃなんでしょ? ここで話してる時間はないっさ! それでもまだ何か言いたげなキョン君だったけど、「すみません、すぐに涼宮さんを連れて戻ります」 思い切りがいい男の子は高評価だねっ、古泉君は頭を下げて1人部室棟に走っていった。「おい、待て古泉! ……すみません、もしも危なくなったら」 だーいじょうぶだって! 危なくなったらちゃんとみくるを連れて逃げるからさっ! あたしの言葉を聞いてもまだ不安そうだったキョン君だけど、みくるが無言で頷くのを見ると古泉君を追いかけて部室棟に走って行った。 さっきの長門っちの時もそうだったけど、あれだけ心配性なキョン君がみくるが頷くとすぐに納得しちゃうってのは……まあ今は謎のままでいいっか。 2人の姿が階段の上に消えるのを見届けて、あたしは部室棟の入口で音も無く立っている新川さんに視線を戻した。 みくる~? 視線は変えないまま名前を呼ぶと、「は、はい!」 少し後ろの方からみくるの可愛い返事が聞こえてきた。 あのさ、ちょろっと危ないから本校舎の中に隠れててくんないかな。「え、え? ……鶴屋さん、何かするんですか?」 ん~……うん。暴れる。 あたしと新川さんの距離は、まだ間合いと呼ぶには遠すぎる距離だけど、あたしはゆっくりと足を一歩前へ進めた。「ええ? そんな、ここでキョン君達の帰りを待ってたほうが……」「私としましても、ここは大人しくお待ちになられる方がよいかと思います」 余裕とか、落ち着き、そんなレベルじゃない。 新川さんから感じられるのは、圧倒的な力の差による――自負。 ね~新川さんって森さんと比べてどっちが強いのかな。 あたしの質問に新川さんは少し迷った後、「森とは何度か手合わせした事は御座いますが、全て森が勝ちました」 そう答えた。 じゃあ、上に行った2人はここに残ってるより危険って事だよね? 距離にして10歩、自分の間合いに入ったあたしは何時もの様に体が望むままに構える。「お答えしかねます」 そんなあたしを見ても、新川さんは真っ直ぐな姿勢で立ったままでいる。 恐れるな、考えるな! あたしは自分を奮い立たせて、新川さんに向かって走り出した。
私が、させない。
どうして、こんな事を。 私がそう訪ねても、喜緑江美里は彼らが走り去って行った方向から視線を外そうとはしなかった。 すでに彼等の姿はここから見ることは出来ないかったが、そんな事は彼女にとって何の問題でもないはず。 それにしても……わからない。 穏健派に属するはずの貴女がこんな事に加担する理由、それは何。「……今は答えられません」 彼達の姿が旧館の方へと消えるのを見届けた後、彼女は振り向いてそう答えた。 今は……という事は。 いつになれば、答えられる。 私の質問に、彼女は首を横に振る。「私にはわかりません」 彼女にはわからない、それはつまり上位者の命令で彼女が動いているという事。 涼宮ハルヒの観察を行う彼女は、各思念体の直属。……ありえない、やはりこれが穏健派の取る様な行動だとは思えない。 やがて、私に向き直った彼女は真剣な顔で聞いてきた。「長門さん。今からでも遅くありません、彼等を説得してここから出て行ってはもらえませんか?」 その質問に私は頷いて、付け加えた。 涼宮ハルヒと一緒になら。「それは……できません」 彼女の顔が苦しそうに歪む。 では、私も貴女の要望には答えられない。「……困りましたね。ですが、貴女がここに残ってくれてよかったと思っています」 何故。 私は5人の中で最も戦力にならない。足止めをするのが目的だったのなら、これは最悪の結果のはず。「この先には数人の戦闘要員と、機関の使い手が2人居ます。……今は人間になったとはいえ、かつての同僚が危険に晒されるのはあまり気持ちのいい事ではありません」 いけない。 急いで追いかけようと走り出した途端、長門の体を不可視の何かが縛り付けた。 かつての自分なら容易くできた事、情報操作による行動停止を前に今はそれを知覚する事も抵抗する事もできない。 動けなくなった私の前に立って、彼女は諭すように言った。「ここでじっとしていて下さい。それに、彼らが万一機関の使い手から逃れる事ができたとしても、森園生の力によって涼宮さんには近づけません。何をしても無駄なんです」 ……だったら。 私は自分の体で唯一自由だった視線を動かし、彼女の顔を睨んで言った。 だったら、ここで貴女を倒してみんなを助ける。
デジャブ……ってやつか?
俺が部室棟に入った時、すでに古泉が階段を登る足音は聞こえなかった。 それは古泉がすでにハルヒの元に辿り着いたって事なのか、それとも……。 真っ暗な階段の先を何とか見据えようと目を細めるが、そこには何も見えない。 ええい、どっちにしろ行くしかないだろうが! 頭を過る暗い考えを跳ね除けようと、俺はわざと大きな音を立てて階段を上り始めた。 ――その違和感に気がついたのは、階段を上り始めてすぐの事だった。 前方に見えているはずの階段の踊り場は、俺がどんなに階段を登っても一向に近づいている気配が無い。 何が起きてるんだ? 一旦立ち止まり振り返ってみると、そこには遥か遠くまで下っていく階段の姿があるだけだった。 くそっ! 罠かよ? ただの一般人相手に手の込んだ事をしてくれやがって! あっさり罠にかかった自分にも腹が立つが……そうだ! 古泉! どこだ! そう叫んだ俺の声は、目の前にある暗闇に吸い込まれて返って来る言葉はなかった。 駄目か。どうする、このまま登るか? それとも一旦戻るか? そう俺が考え込んでいると、「あ、あれ? どうして貴方が?」 背後から聞こえてきた間抜けな声に振り向くと、そこ居たのは先に行ったはずの古泉だった。 お前、先に行ったんじゃ?「貴方こそ……待ってください、貴方は確かに僕より後にこの階段へ足を踏み入れた。そうですね?」 ああ、間違いない。 旧校舎の入口から階段まではすぐだからな。「という事は、この階段は恐らく階段の途中と踊り場付近の辺りで空間が繋がっているのだと思われます」 ……古泉、頭大丈夫か? 空間が繋がるとかどこのファンタジー世界だ、ここは現実だぞ?「僕はいつでも」 そこそこに正気なつもり、だろ? そんな事はどうでもいい。理屈なんて好きにしろよ。で、どうすればハルヒの所へ行けるんだ?「このまま貴方は階段を上ってください。僕は逆に階段を降ります」 それで?「僕の推測が正しければ、僕と貴方はいずれまた階段で出会う事になります。そこから空間の途切れ目を辿れば、この階段から抜け出せるはずです」 ……さっぱり意味がわからんが、まあいい。信じてやるよ。 俺は古泉に頷いて見せ、終わらない階段を再び上りだした ――なるほど、流石は超能力者って奴だな。 数分後、俺が見たのは階段の先で俺を待つ古泉の姿だった。「これで確証が持てました。この付近に空間を連結している次元断層があるはずです」 もう理解しようとするのは諦めた。 そこからなら出られるって事か?「ええ。ですがここから出た先が現実の世界だとは限りません、行き先がここよりももっと危険な場所ではないという保障は1つもないんです」 だからどうした。 安全確認でもしたつもりか?「……いえ。そうですね、貴方のその言葉が聞きたかったのかもしれません。こう見えて、僕は臆病なんですよ」 そう言った古泉は何故か嬉しそうに笑った。 ……お前が笑う所、久しぶりに見た気がするな。 差し出された古泉の手を掴み、目を閉じる。そして階段を数段上った所で、「もういいですよ」 古泉の言葉に目を開いた時、そこは階段の踊り場だった……が。 これは……閉鎖空間か?「どうやらその様ですね」 月明かりが差し込んでいるだけで真っ暗に近かったはずの階段は、今は灰色の光のような物に包まれていた。 まさかまたお前と閉鎖空間に来る事になるとはな……とはいえここなら古泉以外の人間は入ってこれないはずだ。さっきの黒服みたいなのが襲ってこれないだけまだいいのかもしれない。「涼宮さんの反応はすぐ近くです。急ぎましょう!」 ああ。 俺は古泉に続いて、階段を駆け上って行った。
灰色の部室棟の中には当たり前だが誰の姿も無く、廊下を走っている間も誰にも会うことは無かった。……ん? おい、古泉。「なんですか?」 新川さんの話じゃ、ここに森さんが居るはずじゃなかったのか? 俺の言葉に、また古泉の顔色がまた悪くなる。「部室棟に居る事は確かだと思います。ですが、この空間の中に僕以外の能力者の気配はありませんから、彼女はここには居ないはずです。彼女の事は、ここから出る時にだけ注意すればいいでしょう」 そう言い切っているのに、古泉の言葉には自信がまるで感じられなかった。 あの森さんはそんなに怖い人なんだろうか? ……俺にはそうは見えないんだが。 そんな事を話している間に、俺達はSOS団の部室の前に辿り着いた。 ここか?「ええ」 緊張した顔の古泉の手がドアノブに伸び、俺が頷くのを見た後、古泉はドアノブをゆっくりと回した。 不思議な程無音で、ドアは開いていく。 そこで俺達が見たのは、部室の中でいつもの様に団長席に座って眠っているハルヒの姿と……何となく、そんな気はしてたよ。「お待ちしておりました」 そんなハルヒの隣に立つ、見慣れたメイド服に身を包んだ森さんの姿だった。「な、なんで……貴女が……」 絶望って言葉がこれ以上ない程似合う顔で古泉は呟く。 おい古泉しっかりしろ! 挨拶だけで戦意喪失すんな! ……駄目か。 えっと、森さん。「はい」 硬直して動けない古泉に代わって、俺は口を開いた。 細かい事情とかはいいんで、そこのバカを返してもらえませんか? 俺は「バカ」という部分だけわざと大きな声で言ってみたんだが……くそっ気絶してるのか知らないが、ハルヒは何の反応も示さない。「申し訳ありませんが、それはできません」 あくまで丁寧な物腰で――つまり、欠片も譲歩する気が感じられない言葉で森さんは言い切る。 ……だったら、どうすればハルヒを返してもらえるんですか? 森さんの事だ、どうせ返答は無い。そう俺は思っていたんだが。「このまま1時間程お待ちいただければ、涼宮さんの自由をお約束します」 意外にも森さんはそう提案してきた。 なんだよ、古泉の反応だけで想像していたよりもずっと話が分かる人じゃないか。 じゃあ、その数時間で何をするつもりなのか教えてもらえませんか? そう尋ねた俺に森さんは小さく頷いた後――「世界を再構成します」 ……これ、笑う所? 窓から差し込んでいる灰色の光に照らされた森さんの言葉には、いつか聞いたあいつの言葉と同じように何の迷いも感じられなかった。 そんな時――お、おいマジかよ!?――まるで出番を待っていたかのようなタイミングで、部室の窓の向こうに青白い巨体、神人が姿を現しやがった! やばい、ここに居たら巻き込まれ……ん? 神人は何故かこの部室には興味がないらしく、本校舎や街のあちこちで好き放題大暴れしている。 おい古泉! 俺には詳しい事はわからんがあれが暴れてたらまずいんだろ? さっさと行けっ! 「で、ですが!」 あのなぁ、ここが何とかなっても世界が崩壊したら一緒だろうが! 古泉もそれはわかっているのだろうが、どうやら森さんを前に俺1人残す事を躊躇っているようだ。 この人は俺に任せろ、何とかしてみせる。「貴方は森さんの事を知らないからそう言えるんです。さっきお会いした新川さんですが、あの人はああ見えて世界でも有数の傭兵なんです。これまでにも何度もテロや戦争を未然に防いできた本物の英雄であるあの人ですら、森さんには手も足も出ないんですよ?」 ……必死に熱弁する古泉には悪いが、お前の説明と目の前に居る森さんはどうしても一致しないんだが。 アンティークなメイド服に身を包んだ森さんは、それこそ長門とそれ程変わらないのではと思うほど華奢な体をしている。「見た目で判断してはいけません」 とにかくだ、森さんがそれだけ凄いとするさ。「ですから本当に!」 いいから聞け! そんな凄い森さん相手にお前は対抗できるのか? できないから脅えてるんだろ? それだったらお前は神人を止めに行った方がまだ助かる可能性があるとは思わないか? 奇跡を待つより何とやらっていうしな。 これが絶望的な状況なら最善手を打つしかないだろうが?「それは……そうですね」 まったく、冷静なのはお前の役割だったはずなんだがな。 納得してからの古泉の行動は早かった。「すみません、涼宮さんをお願いします!」 そういい残して廊下に飛び出していく古泉の体からは、いつか見た赤い光に包まれ始めていた。 頼むぜ古泉、俺達の世界を守ってくれよ?「……」 そして問題はこっちか。 部屋から古泉が出て行く時も、森さんは何の邪魔もしなかった。 それは余裕からの行動なのか……それともまた何か罠でも仕掛けているのだろうかね。 とにかく、まずはハルヒの状況を確認しないとな。 ハルヒに向かってゆっくりと歩く俺の姿を、森さんは静かに見守ってい……あれ、普通に辿り着いてしまったぞ。 俺がハルヒのすぐ隣に立っても、森さんは何もしてこなかった。 ただ、俺の様子を見ているだけ。 いったいなんなんだ? ともかくこいつを起こしてみよう、そう思った俺はハルヒの肩に触れようとしたんだが……なんだ、これ? ハルヒの体からすぐの場所に何か見えない壁があって、それは全身を覆っているらしく俺の手はハルヒに届く事は無かった。 おい! ハルヒ起きろ! 揺さぶろうにもその壁は動かず、俺の声もハルヒには届いていないらしい。 この壁はいったいなんなんだ……まさかこれも森さんがやった事なのか?「……」 俺を見る森さんの視線には感情らしきものは見当たらず、その姿はまるでかつての長門を見ているようだった。 森さん。「はい」 世界を再構成って、どんな意味なんですか? まあ、聞いたからって素直に答えてもらえるとは思っていなかったんだが、「閉鎖空間の内面世界を神人によって崩壊させ、その場所に彼女の意識によって新たな世界を創造します」 意外にもあっさりと返事が返ってきた――意味はさっぱりだけどな。 それって、結局どうなるんですか?「新たな世界は彼女の望んだ世界になります」 ……それって、もしかしてどうなるのかわからないって事なんじゃ。「はい」 おい、本気なのかよこの人! 古泉が言うのとは別の意味で怖いんだが? ハルヒの思い通りの世界なんて本気で洒落にならんぞ? それって止めてもらう訳にはいかないんですか?「できません」 どうして? いったい誰がそんな世界を望んでるって言うんですか?「この世界に生きる全ての生物です」 ……は? 今、何て言いました?「この世界は今、とても不安定な状態にあります。たった一人の少女によって崩壊する可能性を常に秘めている。一度判断を間違えれば、何も知らないままの数十億もの命を失う事にもなり兼ねない」 淡々と呟くその言葉には、何の感情も感じられなかった。 ……世界が再構成されたら、貴女の言う何も知らないままの数十億もの命ってのはどうなるのか分かってるんですか?「はい」 森さんはハルヒの隣にあるパソコンを指差すと、「今、私たちが居るこの閉鎖空間は現実の世界をコピーした物です。パソコンに例えて説明すると、この空間は現在神人によって基礎部分を残してフォーマットされています、それが終われば彼女の認識によって世界が再構築されていきます。構築が完了すれば、コピーの元になった世界は消えます」 消えますって……死んでしまうって事なんじゃ?「そうとも言えます。ですが代わりに、新しい世界にはこの世界に現存する全ての命が生まれる事にもなります。それは全く同じものではありませんが、現在存在する物とほぼ同じ物になります」 ちょっと待てよ、それって……あの時の。 森さん! 貴女が今言ってることは、以前古泉や長門や朝比奈さんが止めようとした事じゃないんですか? ハルヒが世界の再構成を始めたあの日、確かに俺は古泉の言葉を聞いたんだ。 まだ俺たちと一緒に居たい、できるならば戻って来て欲しいってな。「古泉が?」 そうです、あいつは仲間の力を借りてなんとかここまで……来れた……って。 それまで穏やかだった森さんの顔に、急に浮かんだ表情。それは紛れも無く「……勝手な事を」 怒りだった。 目の前に居るのは長門と変わらない様な華奢な女性だ、それは間違いないのになんで俺はこんなに震えてるんだ?「なるほど。一度は再構成寸前まで進んでいたプロセスが急に白紙に戻った事がありましたが、あれには古泉も加担していたんですね」 俺は今まで、なんだかんだで機関ってのは敵じゃないんだと思っていた。そしてそれは、今でも間違いじゃないんだろうな。 つまり、この人たちにとって俺達は敵じゃないが……味方でもないんだ。 森さんはポケットから銀色の懐中時計を取り出すと、蓋を開けて中を見つめている。「残り約32分で神人の活動は完了します」 そんなもん、古泉が何とかするさ。 そう強がった俺に、森さんは首を横に振る。「神人の数と行動範囲を考えると、古泉の能力では作業完了を遅らせる事しかできません。それも長く見積もって3分といった所でしょう」 ……こうなったら、無理やりにでも止めるしかない。 いくら森さんが凄い人だろうが知った事か! 俺は手近なパイプ椅子を1つ畳んで両手で持ち上げた。 頼む、再構成とやらを止めてくれ。……こんな事はしたくないんだ! パイプ椅子を持った俺がそう叫んでも、森さんには何の変化も無い。 抵抗も、避けようともしない森さんに……俺は、俺は………………くっそお!! 振りかぶったパイプ椅子を、俺は足元の床に向かって叩きつけた。 衝撃に耐え切れなかった椅子の部品がいくつも散らばり、その破片の様子を森さんは眺めている。 どうすりゃいいんだ……このまま何もできずに見てろってのか? おい起きろハルヒ! 俺は立ち上がり、団長椅子で眠り続けているハルヒを揺さぶろうと手を伸ばした。その手はやはり見えない壁に阻まれてハルヒの体に触れることは出来なかったが……そんな事はどうでもいいんだ! さっさと起きろ! お前の団員がピンチで世界は滅亡の危機なんだ! こんな時の為のSOS団だろ! 違うか? ついでに教えてやるがお前が中学の時に見たジョン・スミスは俺だ! あの時お前が地面に書いた文字は宇宙人語で『私はここにいる』だろ? なあ、起きろよ! 頼むから起きてくれよ! どんなに俺が叫んでもただ喉が掠れるだけで……俺にはハルヒの前髪1つ揺らす事はできなかった。 ……俺の切り札まで無効とは恐れ入ったよ。 声が届かないんじゃ何を言っても無駄だよな。 もう俺達にできる事は何も……な…………俺……達……? 俺のカマドウマ以下の頭脳に、その言葉はやけに大きく響いた。 ハルヒはここで寝ている。 古泉はバイトで大忙し。 俺はここで嘆いていて……それで終わりじゃない、SOS団はまだ居るじゃないか! まだ長門も朝比奈さんも鶴谷さんも居るんだ、みんなが揃えばもしかしたら……。 古泉が居ない今、ここにみんなを呼ぶ為には……手は一つしかない。 森さん。「はい」 頼むぜ。あんたのその静かな態度は余裕の表れであってくれよ? 祈るような気持ちで、俺は賭けに出た。 外に居るみんなをここに呼んでもらえませんか。「……」 これが最後なら、せめて一緒に居たいんです。 この言葉は嘘じゃない、だがこれで最後にするつもりなんか欠片もない。 俺達の間に流れる沈黙は、やがて彼女の小さな手振りによって終わった。 森さんの右手が部室の窓へと向けられると、古ぼけた部室の窓はまるで魔法がかかったかのように変化してそれぞれに映像を映し出したのだ。 窓の1つでは青白い神人の群れを相手に奮戦する古泉が映り、他の窓では新川さん相手に格闘を繰り広げている鶴谷さんの姿が見える。長門は何故か喜緑さんの目の前でじっと動かないままで、朝比奈さんは校舎の中で震えていた。 ……こ、これは。「現在の状況です」 森さんの言っている意味はなんとなくわかるが……その前に、この人はいったい何者なんだ? いくら森さんが凄い人だからって、これはもう超能力なんて言葉では説明できない。こんな無茶苦茶な事ができる奴って言ったら、俺には宇宙人くらいしか思いつかないぞ? 森さんの素性を想像して冷や汗を流す俺に、森さんは丁寧に頭を下げる。「こちらとしましては貴方以外の人にこの場所へ来て頂く訳には参りません。申し訳ありませんが、この映像だけでご容赦願います」 ……妙に丁寧な言い方だが、これは裏を返せばヒントになるかもしれない。 つまり今のは、森さんにとってここに来てしまったら困る事になる奴が俺達の中に居るって事だよな? それは……可能性として一番高いのは鶴谷さんだろうか。 部室の窓の中で、鶴谷さんは新川さん相手に俺では目で追うこともできない程の速さで戦っている。 くそっ、もしもそうだとしてもここに古泉が居なかったら鶴谷さんを連れてこれないじゃないか! どうりでさっき、あっさりと古泉を見逃した訳だ。 古泉が映る窓では、逃げ惑いながらも反撃を繰り返す赤い光が見える。 携帯電話は……圏外か、そうだよな。閉鎖空間まで電波が来てたら逆に驚く。 古泉に連絡を取ることができないとなると、くそ! どうすればいい? 焦る俺が窓に映る映像にじっと目を凝らしていると、その内の1つに違和感を感じた。 それは長門が映っている映像で、喜緑さんと一緒にじっと立ったまま二人は動かないでいる。 あれ、何か変だと思ったんだが……。 他の映像と違ってここだけ静止画に見えるその映像を見ていた俺は、ようやくその違和感の正体に気がついた。 さっきまで見詰め合っていたはずの2人のうち、長門だけが視線が変わっているのだ。 長門の視線は、まるでモニター越しに俺を見つめているかの様に固定されている。 何だ……何か口が動いている様な気が……。 ……い……ま……た……す……け……に……い……く……? その瞬間、部室の窓の全てが白く光ったかと思うと、みんなの様子を写していた窓ガラスはまるで念入りにハンマーで砕いたみたいに空中で飛散して、そのまま霧の様に消えていった。 何が起きたのか何て事はわからないが……まあいいさ、俺が信じてないで誰が信じてやるんだよ。 こんな状況でも顔色1つ変えない森さんの横を通って、俺はいつもの自分の席へと戻った。 なあに、その静かな顔ももうすぐ驚きに変わるだろうぜ? 数分後――俺が聞いたのは、廊下から聞こえてきた誰かが走ってくる足音。その音はまっすぐこちらに向かってきて、そして躊躇なく扉は開かれた。「ハールにゃんどこさー? っと居たぁ! おおお! キョン君も居るじゃないか!」 最初に入ってきたのは鶴屋さんだった。「涼宮さん! キョン君!」 元気一杯の鶴屋さんに手を引かれて、我らが天使の朝比奈さんも登場だ。「……」 そして最後に……ありがとうな、お前が何かしてくれたんだろ? 無言のまま頷いてみせる長門の姿もそこにあった。 これで形勢は逆転だな。他力本願? ああ、好きに言ってくれ。俺はハルヒが助けられればそんなもんはどうでもいい。「ちょっとキョン君、どうしてハルにゃんを連れ戻さないのかい?」 そうしたいんですが……事情はうまく説明できませんが、とにかくそこに居る森さんをなんとかしないとハルヒを助けられないんです。「おっけー。話はさっぱりだけど、やらなきゃいけないことはよ~くわかったよ」 部屋の中に見慣れない顔を見つけた鶴屋さんは一歩前に出た。「あんたが森さん? ハルにゃんを誘拐したくなる気持ちは正直わかるんだけど、これはちょろっとお痛がすぎてるっさ!」 わかるんですか。「あの、お願いします。涼宮さんを解放してください」「私からもお願いする」 3人の言葉を聞いても、森さんは顔色1つ変えないでいる――本当にこの人は何者なんだろうか? 自分を取り囲むように立つ俺達を見て、森さんは小さく溜息をついてから……。「それはできません」 はっきりと否定するのだった。「ふ~ん、口で言っても分からないなら体に言い聞かせちゃうよ? そっちの方が趣味だしね! 言っておくけど今日のあたしは凶暴なんだから手加減できないっから!」 さっきまでの勢いが残っているのか、鶴屋さんは威嚇するように構えて見せる。 俺ならすぐに引き下がりそうな本気の視線を前に――それでも、森さんには何の変化も無かった。 じりじりと距離を詰める鶴屋さんを、森さんは視線の端でそっと見つめている。 鶴屋さん気をつけてくださいね? 見た目じゃわからないですけど、森さんは新川さんよりも凄い人らしいんです。「うん、聞いてるよ。それが本当かどうかを確かめる意味でも、是非お手合わせしてもらわないっとねぇ」 いかん、余計に火をつけちまったのか? 傍目にも分かるほどテンションを上げた鶴屋さんは――まるでそこだけコマが少ない映画をみたいに一瞬で森さんに蹴りかかっていた。 といっても俺には結果しか見えていないんだが、即頭部を狙ったらしいその蹴りは、まるで必要な分だけ動いたみたいな森さんの動作で回避されて空を切る。「――!」 完全に捕らえたと思っていたのか、鶴屋さんの顔に動揺が走った。 それでも――「せいりゃー!」 駒の様に体を回し、鶴屋さんは矢継ぎ早に蹴りを放っていった。 いったいどんなバランス感覚をしているんだ? 軸足を床につけたまま、森さんの膝や腹部、胸や顔へと繰り出された蹴りの雨は、彼女の服を揺らすだけで一撃も体に触れることは無かった。 援護に入りたい所だが……正直、俺では邪魔にしかならないだろう。 じっと2人の攻防を見守っていると、やがて鶴屋さんの動きに変化が現れてきた。 相手に反撃される事を考えて攻撃していたのでは、森さんを捕らえる事はできない。 そう考えたのだろうか、鶴屋さんは一気に森さんとの距離を詰めていった。 満員電車の中の様に向かい合った状態で、鶴屋さんの肘や膝が乱れ舞う。どう考えても避けられるはずがないはずなのに……「な、なんでさー?!」 鶴屋さんの攻撃は、それでも空を切るのだった。 反撃覚悟、組み付こうと腕を伸ばしても森さんはその動きが分かっていたみたいに容易く背後に回ってみせる。 急いで振り向こう鶴屋さんが体を捻ると、「おおわっ!」 急にバランスを崩した鶴屋さんは、その場に倒れてしまった。 鶴屋さん!「痛てて……い痛っ! な、なんなのこれっ?」 起き上がろうとした鶴屋さんが再び倒れたのも無理は無い、倒れた鶴屋さんの手足は、いつの間にか彼女自身の長い髪で縛られてしまっていた。 いくらなんでもこんな一瞬で人の手足を縛るなんて不可能だ。しかも相手は鶴屋さんなんだぞ?「つ、鶴屋さん」「みくる! その辺に鋏ない? 鋏!」「そ、そんなの駄目ですよ?!」「いいから鋏ぃ~!」 じたじたと暴れる鶴屋さんの前に立ったのは。「……」 いつの間にか俺の傍から離れていた長門だった。「だめ! 長門っち危ないよ!」「大丈夫」 鶴屋さんに頷いて見せてから、長門は森さんへと向き直る。 まるで鶴屋さんを守る様に立つその姿は、かつて俺を守ってくれた時の様に見えた。「涼宮ハルヒを連れて帰る」 そう言い切る長門を前に、「申し訳ありませんが、それはできません」 森さんは一歩も引こうとしない。 俺は、これから長門がいったい何をするつもりなのか全く知らなかった。それはまあいつもの事だし、正直聞いた所で俺に出来る事などないのも知っている。 それでも、この時ばかりは思ったぜ。 頼む、先に言ってからにしてくれってな。 長門は静かに自分の胸に手を当てて、その言葉を呟いたんだ。「来て」 その瞬間、さっき俺がモニター越しに見た光が狭い部室を埋め尽くした。
強い光を放つ長門の背中から突き出すように伸びた二本の光の柱。 それはやがて翼の様に形を変えて、長門の体を包み込んでいく……。 眩い光の中で、俺達は確かに見てしまったんだ。 光の中央に突如現れ、長門の小さな背中を愛しそうに抱いて立っている……あいつの姿をな。「お久しぶり」 長門を抱きしめたまま、そいつは俺に向かっていつか見た笑顔を向けている。 こんな状況に欠片も似つかわない軽い口調で挨拶してきたのは――まさかお前にまた会う事になるとはね――消えてしまったはずのクラス委員、朝倉涼子だった。 ……朝倉、お前天使だったのか? そう俺が聞いたのも無理もないだろ。 長門の背中にあったと思った光の翼は、今は朝倉の背に移り静かに揺れている。「さあ? それはどうかしら」 茶化すように朝倉ははぐらかしたが、何故か俺をじっと見つめて視線を外そうとしない。 何だろう。 その視線は久しぶりに見たクラスメイトって感じではなく、更に言えば殺し損ねた殺害対象を見ている様にも見えない。 始めて見るはずの朝倉のそんな顔を……何故だろう、俺は懐かしく感じていたんだ。 どこだったかは思い出せないが、俺はどこでこの目を見た事があるような……。「さっさと終わらせちゃうね。さ、長門さんは危ないから離れてて」 頷いた長門が俺の隣に戻ったのを見て、朝倉は小さくウインクしてから森さんへと向き直った。 「な、ななな。何なんですか、あの人?」「キョン君! キョン君! あれって天使なのかい?」 さ、さあ。俺には正直さっぱりです。 朝比奈さんはいいとして、鶴屋さんに朝倉を見られてしまったのはまずかったかもしれないが……まあ、今は緊急事態だから仕方ないよな。 長門、あれは本当に朝倉なのか? 俺の質問に長門は頷く。「彼女は味方」 ……そっか。 疑うまでも無い、朝倉を見る長門の視線には確かな信頼が篭められていたんだからな。 世界崩壊の危機とやらが迫っているはずなのに、俺が安心しきっていたのも当然だろ? なんせ、ここには本物の宇宙人が居るんだ。 いくら森さんが格闘技の達人だろうが、不思議な力が使えようが関係ない。人間が宇宙人に勝てるわけがない。「はじめまして。貴女には何の恨みも興味も無いんだけど、長門さんのお願いだからちょっと怖い思いをしてもらうね?」 言い終えるまでもない、気がつけば俺達の回りにあった机や椅子は姿を消していて、まるで森さんの視界を塞ぐ様に数え切れない程の光の槍が取り囲んでいた。 い、いつの間にやったんだ? 突如として現れた鋭利な刃物によって、ここからではもう森さんの表情を見る事すらできない。「逃げようとしても無駄、もう動きも封じたから。ちゃんと勉強したのよ?」 そこで俺を見なくてもいい。「は~い。さ、森さんだっけ? 涼宮さんを解放してこの閉鎖空間を消しなさい。お返事はもちろん「はい」よね?」 そう笑顔で言い切る朝倉を前にしても、森さんは「それはできません」 はっきりと言い返しやがったようだ。 お、おい! マジで危ないんだって! 一度殺されかけた俺にはわかる、朝倉は笑ってるからって安心できる相手なんかじゃないんだ!「ふ~ん……そう」 朝倉の笑顔に何かが混ざった気が――瞬間、森さんの足元に数本の光の槍が突き刺さっていた。 ほんの僅か、森さんの足元から数センチ離れた場所に槍は深々と突き刺さっている。「次は当てるわよ。返事ができる内に「はい」って言った方が貴女の為だと思うなぁ」 嬉しそうに笑う朝倉を見て、森さんはそっと腕を横に振った。「え?」 その動きを見た朝倉の顔から笑顔が消える。 同時に、森さんを取り囲んでいた光の槍も、朝倉の背中に輝いていた光の翼も全て姿を消してしまっていた。 光の翼が消えて急に暗くなった部室の中、「いけない」 よろめく朝倉の体を、走り寄った長門がそっと支える。「……あ、貴女いったい何者なの?」 朝倉にそう聞かれても森さんは何も答えようとせず、ただ静かに懐中時計を取り出し「残り13分です」 まるで時報の様に、俺達に告げるのだった。「キョ、キョン君! 残り13分って何が起こるのさ?」 床に転がったままで聞いてくる鶴屋さんに、俺は現状を何て答えればいいのか分からなかったし、どう説明すればいいかなんて考えている余裕もなかった。 いざとなったらハルヒにキスをすればいいって事あるごとに言われてきたが、それすら今はできないぞ? ……もう駄目なのか? ごく普通の人間である俺ですら世界の崩壊を意識しはじめた時、そいつはやってきた。 ――正義の味方は遅れてやってくるもの。「わぁ? 今度は何なのさ!」 そんなルールを守っているのかどうかは知らないが……遅えよ、馬鹿。 前触れもなくがら空きになった窓枠から飛び込んできた大きな赤い光は――お、おい? その光は俺達の元ではなく、迷う事なくまっすぐ森さんへと向かって飛んでいったのだ。 いくらなんでもこんな物は避けられない。 そう信じるに足るだけの勢いで飛んできた古泉は、森さんの体を確かに捉え――「ふっ」 ……小さな息と共に振り上げられた森さんの右手の一振りで、あっけなく跳ね飛ばされちまいやがったのだった。 大きな音を立てて壁にめり込んだ古泉が、ゆっくりと落ちてくる。「きゃあ!」 古泉! 思わず駆け寄った俺を見て、古泉は弱々しく笑顔を浮かべて見せ……そのまま意識を失って倒れてしまった。 古泉! おい古泉! 起きろ! 目を覚ましやがれ! ぞっとする程ぐったりとしている古泉の傍に、朝倉がやってきた。 動かない古泉に手をかざして、朝倉は真剣な顔をしている。「大丈夫、気絶してるだけ。命に別状はないわ」 よ、よかった……。 ったく心配させやがって! 朝倉、古泉を起こせるか?「うん。それくらいなら」 じゃあやってくれ!「は~い。任せて」 目を閉じた朝倉の掌に小さな光が生まれ、その光は古泉の体へと進んでいく。 やがて、弱々しかったその光が完全に古泉の体に消え去ると、「…………こ、ここは?」 入れ替わるように古泉は目を覚ました。 やれやれ……ったく心配させやがって、あれだけ森さんには歯が立たないって言ってた癖に何で無茶したんだ?「す、すみません。……ですが、この世界はすでに臨界状態を迎えています、残された時間はもう殆どないでしょう」 ……だから賭けに出たってのか?「ええ。ですが、やはり僕では彼女を止めることはできないんですね……」 ゆっくりと立ち上がった古泉の視線の先では、この部屋に来た時に俺が見た姿とまるで変わっていない森さんの姿がある。 誰も口を開けないでいる中、森さんは懐中時計をしまって口を開く。「間もなく、世界の再構築が始まります」 森さんがそう言い終えるのを待っていたように、部室棟は小さく揺れ始めるのだった。 ――俺は心のどこかでこう思ってたんだ。 例えどんな非常識な事が起きたって、SOS団が揃えば何とかなるってな。 事実、これまで何度も俺達は無茶な出来事に巻き込まれてきたが、結果的になんとなかってきたんだ。今回は例外だ……なんて思いもよらなかったぜ。 ここで奇跡を願おうにも、ハルヒが寝てるんじゃどうしようもない……。「……森さん、最後に1つ聞かせてください」 落ち込む俺を前に、古泉は決死の表情で森さんへ問いかけている。「今から起きる再構築は、本当に涼宮さんが望んでいる事なんですか? 確かに、ここ最近の涼宮さんはいつもと違っていました、不機嫌に見えるのに当り散らしてきませんでしたしね。しかし、それと突然起きた今回の騒動に繋がる理由が僕にはわからないんです。以前、彼女が世界を作り変えようとした時とは状況が違います。彼女は現状に絶望などしてはいなかった。それなのに何故?」 ハルヒじゃない。「え?」 これはハルヒが望んでる事じゃないって言ったんだよ。 熱弁する古泉に反論したのは、何故か俺だった訳だ。「それは……いったい」 理由なんて知らん。でもな、これだけは言い切れる。あのバカは世界の再構成なんてくだらない事を本気で望んだりしちゃいねぇよ。「ですが、実際にあの時……」 前の事か? あの時だってそうだろ。あいつが本気で望んでたんなら、みんなが俺にヒントを出したりできると思うか? そんな理屈は抜きにしても、俺はハルヒがそんな事を望んでるなんて思えん。 言いたい事を勝手に言っただけの俺に反論、というか質問してきたのは「1つ聞かせてください」 何故か森さんで、「貴方は、世界を再構成したいと思った事はありませんか」 その内容は意味不明だった。 ……何を言ってるんですか? 月曜の朝に、実は今日は日曜だったらいいのにって思ったことならいくらでもあるとか――そんな話じゃないよな、多分。「もしも貴方に、世界を自分が思うとおりに書き換えられる力があったなら。その力を使わないで居られる自信がありますか」 使うはずが無いでしょう? そんな事をして何になるんですか。「いえ、貴方は書き換えました」 静かに首を振って、森さんはそう否定する。 いったい何の事を言って……。「過去に世界が改変された時、貴方はエンターキーを押したでしょう」 静かなその声は、俺の中に静かに広がっていくようだった。 ――何で……何で森さんがそんな事を?「あの世界は、貴方の選択によって時空修正されました」 事情が分からないみんなの視線を感じながら……俺は立っているだけの気力もなくなり、その場に座り込んでしまった。 ――長門によって書き換えられた世界を元に戻す為、長門にピストル型装置を構えた時、俺は俺のハルヒと古泉と長門と朝比奈さんを取り戻す。そう決めたんだ。 今でもそれは間違いだった何て思っちゃいないさ、でもその代償に俺はあいつらの未来を奪ってしまった……のか……。「その事について、貴方を責める事ができる人は何処にも存在しません」 見下ろすような森さんの視線は、少しだけ優しかった気がした。「古泉の質問に答えます、彼女は世界を変えたいと思ってはいません。ですが彼女が世界の破滅を願わない様にする為には、こうして世界を彼女の望む姿に変え続ける必要があるんです」 淡々と諭すように語る森さんに反論したのは、「違います!」 いつになく真剣な顔をした古泉だった。「森さん。確かにその様な意見が機関に存在する事は知っていました。ですがそれでは、僕達がこんな力を持っている理由が説明できないじゃないですか!」 古泉は掌に、かつてカマドウマと戦った時に見せた熱を放つ赤い光を作ってみせた。 同じように森さんも掌に光玉を作って見せ、「古泉、これは彼女の良心だ」「良心?」「そうだ。今、鍵である彼が思いつめている様に、彼女もまた自分の選択が世界を改編してしまう事に抵抗が無い訳ではない。人は、生きる為に他の生物の命を奪う時、それが自然の摂理であると理解していても心に呵責が生まれる。無意識の内に世界を変えてしまう事に対して彼女の呵責が生み出した力、それがこの力だ」 そう言って、森さんはあっさりと光玉を握りつぶしてみせた。 閉鎖空間の存在。 そして、超能力者。 ……なるほどな。 未だ目を覚まさないハルヒの姿を見て、俺は溜息をついた。 なあハルヒ。今ならお前の気持ちが、前よりほんの少しだけだがわかってやれる気がするよ。 森さんの言葉が全部真実かどうかなんてわからんが……何故か俺はそう思った。「そんな……」 よろける古泉にかけてやるフォローの言葉も思いつかない。「涼宮ハルヒは閉鎖空間を作り、神人を暴れさせる。その先にある結果は二つ存在する。1つは破滅、完全な虚無への回帰。私達が防ごうとしているのはこれだ。そしてもう1つは再生、より安定した形に世界は再構築される。本来であれば再生は誰にも止める事はできない……だから、お前には何も伝えていなかったんだ」 静かに続いていた振動は森さんの話が進むにつれて徐々に大きくなり、ついに天井から埃が落ち始めてきた。 そんな中、長門はじっと朝倉に寄り添っていて、2人は抱き合う様にしてこれから起きる出来事を受け入れようとしているみたいだった。 古泉は壁にもたれたまま俯きっぱなし。 ……森さんの言葉が余程ショックだったんだろう、何やら独り言を繰り返している。 鶴屋さんはようやく自由になった体で、朝比奈さんの事をしっかりと抱きしめていた。 結局、巻き込むだけ巻き込んで助けてもらっておきながら、何も説明できないままになってしまって……本当にすみません。 そして俺は、「……」 座ったまま、ただ森さんの顔を見続けるだけだった。 この人の言っている事が勝手な欲望だとか、独りよがりな思い込みの結果だっていうのなら反論のしようもあったさ。 無駄な抵抗だってなんだってしてやるよ。 だが、森さんの言葉にはそんな私情は見つからず、俺にはもう言い返す言葉がない。 そうさ、ここが長門が書き換えた世界だったら、そもそもこんな理不尽な出来事が起きる事もなかったんだよな。 ――静かに終わりを迎えようとしていた部室の中で、まだ諦めていない人が居た事を俺はこの後知る事になる。「……ま」 ――まるで囁くような小さな声。 それは古泉でもなければ長門でもない。朝倉でもなく鶴屋さんでも……眠ったままのハルヒでもなかったんだ。「待ってください……」 ――その声はとても小さかったけれど、とても強い決意の先にあった言葉。 いったい誰だって? みんながよーく知ってる人、いや――本物の天使様だよ。 「待ってください!」 そう叫んで朝比奈さんは鶴屋さんの腕から飛び出し、震えながら森さんの前へと詰め寄った。「みくる? あ、危ないっさ!」 引きとめようとする鶴屋さんを、朝比奈さんはそっと手で押し留める。 か弱い朝比奈さんの力で鶴屋さんが止められるはずは無いんだが、涙目だけど必死な朝比奈さんの顔を見て、「みくる……」 鶴屋さんは引きとめようと伸ばしていた手を戻した。「……鶴屋さん、今まで本当にありがとうございました。私、鶴屋さんに会えて本当によかったです」「ちょちょっと! ……みくる、何を言ってるのさ……ねえ」 朝比奈さん、なんでそんなに悲しそうな顔で笑うんですか。「みんなも本当にありがとう。……そして、涼宮さんも」 机の上で動かないハルヒに向かって、朝比奈さんはそのまま話し続ける。「……恥ずかしい思いもいっぱいしたけど、私は涼宮さんの事が大好きです。遠くから見てた時よりもずっと。だから……もしもまた会えたなら……遊んでくださいね?」 言葉の最後は涙で掠れてしまって俺には聞き取れなかったんだが、きっとハルヒには聞こえていたはずだ。 理由なんて無いが、俺にはそう思えたんだ。 服の袖で涙を拭いて、朝比奈さんは森さんの顔をじっと見つめる。 そして……何かを決心した様に口を開いた。「キョン君、時間の流れには色んな考え方があって……ごめんなさい、私の知識じゃ上手く伝えられないんですけど……。未来は選択によって絶えず分岐を繰り返していて、選ばなかった未来は無くなるんじゃないんです。ただ、別れてしまった世界には二度と行けなくなるだけなんです。それは終わりと同じかもしれないけど、終わってはいないんです」 静かに語る朝比奈さんを、森さんは反論もせずじっと見つめている。「ごめんなさい、こんな説明じゃわからないですよね。……もっといっぱい、お話ししたかったなぁ」 俺は朝比奈さんのその言葉は、もうすぐ世界が終わってしまう事を言っているんだって思ったんだ。「キョン君、今から私はTPDDを強制解除して禁則事項に該当する言葉を言います」 え? じっと森さんを見つめて、俺には背を向けた状態で朝比奈さんは話し続ける。「そうすれば……きっと、私も森さんもこの世界から居なくなると思います」 な、何を言ってるんですか。「森さんが居なくなれば、きっと涼宮さんを起こす事ができると思うから……後の事はお願いしますね?」 朝比奈さん! いったい何をするつもりなんですか? 俺の言葉に振り向いた朝比奈さんは、口の動きだけで俺に何かを伝えていた。 朝比奈さんが伝えたかった言葉がなんだったのかわからないまま……朝比奈さんは森さんへと向き直る。 そして――「森園生さん。貴女は……貴女は!「降参します」 ………………へ? その場に居た全員が――叫ぼうとして口を開けたままの朝比奈さんも含めて――が固まっていた。 …………今、何て言いました。 聞きなおした俺に、「降参します。涼宮ハルヒの身柄をお返しし、再構築を停止させます」 森さんは両手を挙げて……やはり無表情でそう言ったのだった。 突然の展開に誰も動けない中で、「……朝比奈みくるを止められなかった時点でこうなる可能性がある事はわかっていましたが……まさか、本当にパラドクスを恐れないとは驚きましたよ」 溜息と共に、森さんの周囲に金色に光り輝く玉が数え切れないほどに現れ部室を照らしたかと思うと、「わわわっ!」「おっと!」「きゃあ!」 光はまるで意思を持った様に一斉に飛び去っていった。 ある玉は部室の壁を貫き、またある玉は窓から空へと飛んでいき――部室の中は一瞬金色に包まれ、その光はあっという間に消えていった。 な、何をしたんだ? 再び光を失った部室の中、誰一人状況が掴めない中で――数秒後、それまで大きくなっていっていた振動は、どんどん静かになっていった。 やがて――灰色だった空に亀裂が走り出す。 お、おい古泉! これはもしかして。「ええ間違いありません。信じられませんが……神人が全滅し、閉鎖空間が崩壊しようとしています。余波が来ます! みなさん伏せてください!」 空に走った亀裂から光が差し込み、世界が再び大きく揺れ始める。 古泉の言葉に従ってみんながその場に伏せる中、俺は古泉がハルヒの上に覆いかぶさる姿を見た気がした。
……ここは……。 急に辺りが静かになって、恐る恐る顔を上げた俺の視界に入ったのは夕方、いや朝方らしい薄暗い部室と――ようやくお目覚めか。「……おはよう」 何故か照れ笑いを浮かべたハルヒだった。 ここは……部室か。 壁に古泉がぶつかった跡はない、机や椅子も元のまま。窓にはちゃんと古ぼけたガラスが入っているし、そしてみんなの姿もそこにあ……あれ? 長門……朝倉はどうしたんだ? 何故か部室の中に、朝倉の姿は見つからなかった。 思わず小声で聞いた俺に、長門は寂しそうに首を横に振る。 それっきり何も言おうとしない所を見ると……まあ、何かあるんだろうな。 そして居なくなっていたのは朝倉だけでなくもう1人、ハルヒの隣には……「何よ」 いや、何でもない。 ハルヒの隣にずっと立っていた森さんの姿も、どこかに消えてしまっていた。 いったいこれは何だったのか……正直、色々あり過ぎてもう訳が分からないぜ。 それでも、世界は無事でこうしてみんなとまた会えたんだ。それだけで十分「ねえ、キョン。ちょっと聞きたい事があるの」 って訳にはいかないよな。やっぱり。 いったいなんだ? 悪いが、聞かれても答えられない事だらけだぞ。「何で部屋で寝てたあたしがここに居るの?」 知らん。「それに、何でここにみんなが揃ってるのよ」 さあな。 ずんずん迫ってきたハルヒは、俺の前に立ち……なんだよ、その顔は。 怒っているのでも笑っているのでもない、何とも言えない顔で……「まあ、その辺は……知ってるからいいんだけどね」 だったら聞くなよ。 ……っておい、何で寝てたはずのお前が知ってるんだ? まさかお前、さっきまでの事を――「いいじゃない。そんな事」 人を混乱させるだけさせておいて、ハルヒは――ああ、お前はそんな顔で笑う奴だったよな――久しぶりに向日葵の様な笑顔を浮かべていた。
「そうね……せっかくみんながここに集まってるんだから大事な事を確認しておくわ」 ハルヒはそう言いながら、まずは窓際に立っていた長門の元へと歩いていった。「最初は有希ね。1つ教えて」「何」「貴女にとって、あたしって何なの? 団長?」 意味不明な質問をするハルヒに長門は、「大切な人」 観察対象とか言い出さなくて良かったが……それにしても、聞いているこっちが恥ずかしく……ってまあ、女同士だよな。 しかし、同姓だから問題無いなんて常識的な発想をハルヒに当てはめる事には無理があったらしい。「……そっか。じゃあキョンは?」 ハルヒの言葉で、部室の中に緊張が走ったのがわかる。 なあハルヒ、お前が何を勘違いしてるのか知らな……聞いてねぇな、これは。 真剣な顔で見つめるハルヒを前に、長門は「大切な人」 俺に視線を向けながら、そう答えた。「……そっか。うん、あたしもそうよ」 接近するハルヒから逃げようとしない長門の顔にハルヒの影が落ちて、「……」 そのまま接近を続けた2人の唇は重なるのだった。 ……頼む、誰か俺に現状を説明してくれ。さっきまでの展開と落差がありすぎてついていけない。「……これはびっくりだねぇ」「す、涼宮さん」 女性陣2人が興味津々な目で見守る中、2人はようやく離れた。というかハルヒだけが離れた。「うん。前々からおかしいと思ってたのよね」 何かを納得するように頷きながら、ハルヒは朝比奈さんの方へと近づいていく。 ……嫌な予感がする。 ある意味、世界崩壊の危機なんかよりも、もっととんでもない事が起きてしまうような……そんな予感が。「日本は一夫一婦制で重婚は犯罪って言うけど、それって所詮小さな島国の小さな考え方だわ」 日本に居るなら日本の法律に従え。 文句があるのなら、政治家になって法律を変えるか違う国へ行けばいい。「SOS団は、世界を大いに盛り上げるこのあたし涼宮ハルヒの団なのよ? だったら守るべき法律はもっと世界的じゃないといけないのよ! ……つまり、同性愛は禁止なんて偏見も、当然守らなくてもいいのよね」 ここに来て自分が標的に選ばれている事に気づいたらしく、朝比奈さんが逃げ場を探し始めた。 朝比奈さん! 早く逃げてください!「え、あ、あ、あの。えっと?」 朝比奈さんの元へ行こうとするハルヒの前に立ちふさがったのは、「ちょーっとまったー! ハルにゃんのその意見には賛成だけど、みくるはあたしのだからねっ! これだけは何があっても譲れないっさ!」 森さんを相手に戦っていた時よりも遥かにテンションが高い鶴屋さんだった――それと鶴屋さん、意見に関しては賛成なんですか。 ハルヒと言えど、上級生である鶴屋さんを相手にそこまで無茶を押し通しはしないだろうと思っていた俺は、「そうね。じゃあ、半分ずつって事にしましょう」 ハルヒという存在を甘く見すぎていた。 おい半分ってなんだ? 朝比奈さんは物じゃないんだぞ?「みくるを……ハルにゃんと半分ずつ?」「そう。半分ずつ。あたしは鶴屋さんの事大好きだし、一緒の方が楽しそうじゃない?」 見上げる様な視線で何かを考えていた鶴屋さんは……やがて、「そっれいいねぇ!」 もう駄目だ。 味方だったはずの鶴屋さんはあっさりと寝返り、逃げられないように朝比奈さんの体を押さえるのだった。「え、あの鶴屋さんどうして? あの、あ涼宮さんまで?」「大丈夫大丈夫、怖くないから」「さ~みくるちゃん。……あ、その前に個人の意見もちゃんと聞かないとね」 順番が逆じゃないのか?「ねえみくるちゃん」「はは、はい」 駄目だ、俺には朝日奈さんが肉食獣を前に脅える小動物にしか見えない。「そんなに怖がらなくてもいいでしょ? また会えたら遊んで欲しいってさっき言ってたじゃない。嬉しかったな~あれ」「えええ?! す、涼宮さん何でそ――」 朝比奈さんの台詞が何故途中で途切れたのか? ……まあ、多分想像してる通りだろうから省略させてもらおう。 じたじたともがいていた朝比奈さんの手足が、やがて静かになった頃。「――っぷはぁ…………ふぅふぅ……うぅ……」 ようやく開放された朝比奈さんは涙目になっていた。「みくる~。キスする時は鼻で息をしなきゃ」 鶴屋さん、多分泣いてる理由は呼吸困難だけじゃないと思いますよ?「さて……次は古泉君ね」「ええ?!」 それまでいつもの様に営業スマイルで傍観していた超能力者は、その一言で面白いように動揺していた。 古泉は照れ笑いと共に近寄ってくるハルヒと、何故か俺を見比べている。 ……なんだその目は。言いたい事があるのならはっきり言え。「言えるわけないでしょう」 小声で反論する古泉だったが……そうだ、そういえば。「ど、どうしたんですか?」 そういえばお前には貸しがあったんだよな、2つ程。 俺の言葉に、古泉は口を閉ざす。「何よ……何男同士でひそひそ話してるわけ? ……まさかあんた達、そーゆー関係だったの?」 何だその詮索するような目は。ついさっき同性愛を否定しないって言ってた奴の行動とは思えんぞ。 生憎だがそんな趣味はない。それよりハルヒ、古泉に何か話があるんじゃないのか?「あ、そうね」 俺がその場を離れるのを見て、ハルヒは自分の携帯電話を取り出し――バキッ ……って何してやがる?! ハルヒの手の中で、携帯電話はあっさりと二つに折れ曲がっていた。「ねえ古泉君」 壊れた携帯電話をゴミ箱に投げ入れてから、「携帯電話が壊れちゃったわ」 ハルヒはそんな事を言い出した。「これで……あの時の返事は、直接貴方に言うしかなくなったのよね」 何の事か知らないがそれだけの為に壊したのかよ?「涼宮さん」 ハルヒはしばらく古泉の足元の辺りを見ていたんだが、やがて気合を入れるように顔をあげ、古泉の顔を見つめた。 傍目にも緊張しているのがわかるハルヒよりも、その前に居る古泉の方がよっぽど緊張している様だ。 朝比奈さんや鶴屋さん、長門までもが注目して見守る中。「あたしね……古泉君の事、好きよ」 最後まで目を見て言い切ったハルヒの言葉に、古泉は口を開いたままで何も言えずにいた。 時折、助けを求めるように俺の顔を見る古泉に俺は――やれやれ。 俺は古泉に見えるように指を二本立てて、その内一本を曲げてから口だけで「いえ」と言ってやった。 古泉はそれを見て苦笑いを浮かべた後……「僕も、涼宮さんの事が好きです」 はっきりと、そう答えたのだった。 鶴屋さんと朝比奈さんが声を出さずに歓声を上げる中「……ありがとう」 そう言って抱きついてきたハルヒに、古泉は一方的に抱きつかれたまま両手を挙げていた――意外に手のかかる奴だな。 俺が残ったもう一本の指を折り曲げて見せてやると、古泉は諦めたような……それでいて、至福の様な笑顔を浮かべて、ハルヒの体を抱きしめるのだった。 かくして、世界に平和が訪れたらしい。 いや~色々あったが「あんた、何勝手にまとめようとしてるのよ」 ……駄目か。 古泉から離れたハルヒは、今度は俺の前にやってきていた。 そして問答無用で俺の服を掴みっておいまて! 俺には何も聞かないのかよ?「あたりまえでしょ? あんたの気持ちなんて知った事じゃないわ。……でも言いたいのなら言わせてあげるけど」 ……迂闊な事を言ってしまった。「ほらほら、さっさと言いなさい。それとも何、またこうすればいいの?」 そう言いながらハルヒは髪留めゴムを取り出し、伸び始めていた髪を後頭部でまとめあげるのだった。 ……ってまてよおい? またこうすればいいって、まさかあの時の事まで覚えているってのか? 動揺する俺の質問は完全無視。ハルヒは問い詰めるような顔で「感想は」 ……そんなもん聞くまでもないだろ? しかしここは言ってやるべきなんだろうな。 そもそもだ。 俺は自分がポニーテールが好きなんだとずっと思っていたんだが、ハルヒに巻き込まれてからというもの、街でポニーテールを見かけてもそれ程興味を持たなくなったんだ。 それは俺の好きな髪形ってのはポニーテールじゃなくて、お前のポ……まあいい。 やっぱり似合ってるぜ、ハルヒ。 問答無用、強引にキスしてくるハルヒの体を受け止めながら……そうだな、そろそろ年貢の納め時かもしれん。 認めるよ。ハルヒ、俺はお前の事が――
それぞれのエピローグ
その日を境に、再びハルヒは俺達と一緒に行動するようになっていた。 以前の様にハルヒは無茶をやるようになり、主に朝比奈さんと俺はそれに振り回されっぱなしの毎日だ。「さ~みくるちゃん! 今日は巫女服に着替えましょう~」 どこからともなく仕入れてきやがった和風の衣装を手に、ハルヒは朝比奈さんを追い掛け回している。「す、涼宮さん……最近どんどん衣装が増えてる気がするんですけど……」 朝比奈さんの不安そうな視線の先には、すでに溢れかえりそうになっている衣装掛けがある。 ちなみに、衣装は朝比奈さんだけでなく、長門のも分も追加されていたりするぞ。「だってスポンサーがついたんだもの。ね、鶴屋さん」「その通りさ! みくるの巫女さん姿なんてめがっさ楽しみだねぇ~。ほらほら、巫女服を着る時は下着も脱がないと駄目なんだよ?」 脅威が二つに増えて、朝比奈さんの苦難はより厳しいものとなっていた。「や! 駄目! それだけは駄目! 駄目です~!」 古泉、廊下に出るぞ。 これ以上ここに居たら間違いなく逮捕されるだけでなく、それ以上の罪を犯してしまう危険すら感じる。「了解しました」 俺は長門に終わったら呼んでくれと伝えて、廊下へと避難した。 扉を閉め、朝比奈さんの悲鳴が小さくなった所で「1つ、聞いてもいいですか?」 遠慮がちに古泉は聞いてきた。 ああいいぞ。ちょうど俺も聞きたいことがあったしな。 前に一度、扉にもたれていたせいで朝比奈さんのあられもないお姿を偶然にも見てしまった経験がある俺は、廊下の窓側の壁にしゃがんでから古泉に喋るように促した。「では僕から。何故……涼宮さんが僕の気持ちを確認しようとしたあの時、貴方は僕に言えと仰ったのですか?」 そんな事言ったか? 悪いがまったく記憶にないな。「僕は……貴方は長門さんの事を好きなのだと思っていました。ですが、涼宮さんを助けようと必死になっている貴方を見ている内に、それは間違いだとわかったんです」 そんな簡単にわかった気になられてもな……。 まあいい。俺がお前に言えって言った理由だったな?「ええ。恋敵にあえて塩を送るような事をした、その理由が知りたいんです」 ……お前、意外に鈍い奴だな。正直驚いてるぞ。 古泉、お前だって自分がハルヒの事を好きなのに、俺とあいつをくっつけようとしてただろうが。 自分の事を棚に上げてよく言うぜ。「それは……ですがそれは」 機関の方針って奴か? ……ったく、そんな無駄な気を回した所で無意味だって言ってやれ。 そう言い切る俺に、古泉は溜息で答えて……何笑ってるんだよ。「いえ、何でもありません。それで、貴方の質問とは」 俺か? 俺が聞きたいのは、「いいわよー!」 部室の中から聞こえたハルヒの声で、続けようとした俺の言葉は掻き消された。 俺がお前に聞きたかったのは結局、機関ってのはハルヒをどうするつもりなのかって事だったんだが……まあいいよな。俺が詮索する事じゃない。 例え機関が敵に回ろうが何も心配する事は無い。 なんせ、俺達にはあの森さん相手に怯まなかった超能力者が居るんだからな。 話の続きを待っている古泉に、俺は部室の中へ戻ろうと首を振った。 さて、巫女姿の朝比奈さんか……いったいどんな神々しさなんだろうね? 背中についた埃を払いながら、いつもの非日常が待つ部室の扉を、俺は自分の手で開いた。
長門に自分が宇宙人であると打ち明けられて以来、俺は様々な話をこいつから聞いてきた。 そのどれもが容易には信じられない内容で……でもまあ、結局信じる事になるのはわかってはいたんだが……。 それでも、やはり俺の口から最初に出る言葉はこれからも同じなのだろう。 ……マジか?「本当」 昼休みの部室、俺の目をじっと見返す長門が言うには……だ。 今、この部屋に居るのは俺と長門だけなのだが、俺を見ているのは長門だけではないんだとよ。 氷が張った湖の様に、奥底で緩やかに流れている様な長門の目。その目を通して俺を見ているのは長門自身と――朝倉なんだと長門は言う。「喜緑江美里は私とは違う派閥から派遣されているインターフェース。今回の様に、彼女が敵対行動を可能性は想定されていた。人間になった私にはそれに対抗する力は無い。その為に、私には護衛がつけられた」 それは以前、朝倉の一件があったからこその事なのかもしれんが――問題はその護衛をしてくれる奴の人選だ。 統合思念体の考え方なんて物はわからんし、そもそもわかりたくもないんだが……よりによってあいつを選ぶとはな。 ……つまり、その護衛ってのが朝倉なのか。「そう。彼女は今、私の中で待機モードで存在している。彼女の情報連結は解除されてしまっている為、この世界で行動できる時間はとても短い。普段は私と五感を共有し、私の身に危険が迫った場合に限り、彼女は私を助けてくれる」 なるほどね。 長門の説明で思い浮かんだのは、光の翼をまとって笑う懐かしい笑顔だった。 ん……って事は、今俺が喋ってる事も聞こえてるのか?「聞こえている」 そうか。 なんとなくそう聞いただけだったんだが、長門はまるでビデオカメラでも構えているみたいに、俺の言葉を待っている。 ……といっても、別に俺はあいつに何か伝えたい事があるわけじゃないんだが……まあいいか。 えっと、朝倉。この間は助かったよ、ありがとう。 ……まだ何か言わないといけないのか? えっと……あ、そうだ。 朝倉、多分これは俺の勘違いか何かだとは思うんだが……。お前、俺と2人でどこかに出かけた事が……あるわけないよな。すまん、忘れてくれ。 森さんの前に突然現れたお前を見た時、俺は湯煙の中で幸せそうに笑ってる朝倉の顔を思い出した様な気がしたんだが……気のせいだな。 部室の中に予鈴が響くのを聞いて、俺はなんとなく名残惜しい気持ちに引かれながらも席を立った。 そろそろ教室に戻らないとな。 予鈴が終わりそうになっても窓際の椅子から立ち上がろうとしない長門に、俺はそう呼びかけてみたんだが何も反応は無い。 長門、遅れるぞ?「いい」 いいって……ああ、次の授業は教室じゃないのか。 じゃあ、また放課後な。 ゆっくりと頷く長門の視線に見送られながら、俺は部室を後にした。
――扉が閉まって静寂を取り戻した部室の中で『ありがとう、お話させてくれて』 私にしか聞こえない彼女の声が音も無く響いている。 いい。感謝しているのは私。貴女のおかげで彼を守れた。『ん~……かっこよく登場したのに、あっさり森さんに負けちゃったから素直に喜べないけどね』 それは仕方ない。『ねえ、あの人ってただの人間なの?』 そう。 それは間違いない。『それって本当? 情報操作に抵抗したり、神人を瞬時に消し去ったり……。あの未来人の女の子が言おうとしてた事と関係があるの?』 ある。でも言えない。『え~? 気になるなぁ』 私にも疑問がある。『え?』 貴女の事を、彼に説明させないのは何故。『何故って……。だって、キョン君はあの時の事はもう覚えていないもの』 貴女にはある。『……そんな事を言って困らせないで、やっと気持ちの整理ができたんだから……。それより貴女こそいいの? せっかくキョン君を独占するチャンスだったのに』 いい。『無理してない?』 していない。『……それならいいんだけど。私は、キョン君は涼宮さんよりも貴女が好きなんだって思うんだけどなぁ……いつも面倒みてくれてるし』 彼が私の事を大切にしてくれているのは、私が人間の生活に慣れていないから。『え?』 彼は優しい。とても。だから私の事を放っておけない。『それだけかな』 彼が私に抱いている感情は、私が彼を思う感情とは違っていた。『……』 彼が私と同じ目で見ている相手は、他に居た。 ――そう、私ではなかった。『そっか……』 それに、私には貴女が居る。『うん。……そうよね』 この部屋には私しか居ない。 でも、少しも寂しくはない。 私は1人ではないのだから。『……ねえ、ところで授業には行かなくていいの?』 大丈夫、情報操作は得意。『ちょっとまって! 今の貴女にはそんな事できないでしょ?」 ……そうだった。『ほらほら急いで! あ~もう! お弁当は後で持ちに来ればいいからしまわなくていいの。とにかく教室に向かって?』 了解した。 まるで自分の事の様に彼女は指示をしてくれて、そんな彼女に従う事に私は喜びを感じていた。 ――数ヶ月前、私は生まれてはじめて神に祈った。 大切な人にまた会えますように――と。 その願いは本当に叶った。 この星の神様は働き者。 来年は何を願おう? ――とても楽しみ。
長い様に思えて、過ぎ去ってしまえばあっという間でしかない冬が過ぎ――今は春。 満開を迎えた木々を撫でるように風が舞い込み、薄く色付いた桜の花びらが緩やかに散っていく。 風情なんて概念とは縁遠い俺ですら、思わず感傷に浸ってしまうのも無理もないだろ。 ハルヒと出会って……もうすぐ一年になるのか。 最初に思い出すのはいつも同じ。高校初日、一生忘れられないであろう自己紹介と共に俺とハルヒは出会った。 それは本当に偶然だったのか……今となっては何とも言えないな。 ……おや。 ふと気がつくと、物思いに耽っていた俺の顔を遠慮がちに見上げている視線がそこにあった。 俺と視線があうと、彼女は表情を綻ばせ「……この公園を一緒に歩くのって久しぶりですね」 そう言って微笑む朝比奈さんの顔は、いつになく穏やかで言うまでも無く可愛らしく、思わず息を飲んで「おやおや……どきどきな雰囲気だねぇ。お姉さんお邪魔じゃないかな?」 ……息を飲んでしまった俺の顔を、意味ありげで楽しそうに覗き込んでいるのは、言うまでも無くいつも楽しそうな鶴屋さんだった。 そんなわけないじゃないですか。「本当? 馬に蹴られちゃったりしない?」 しません。 残念ながらね。 両手に花という言葉を、そのまま具現化した様なこの状況に不満を持つ男がこの世に居るのだろうか? いや、居ない。 桜並木というオプションがある事を考慮してもそう言い切ってしまえる程に、華やかな振袖――鶴屋さんが着付けしたらしい――に身を包んだ今日の2人はいつにも増して綺麗だったわけさ。 さて、今日はハルヒ考案による花見なんだそうだ。 進級を控えて、SOS団の更なる結束が~とか何とか言っていたハルヒはいつになくハイテンションで、その勢いのままに俺は早朝からの場所取りを命じられた訳だ。 当初、何が悲しくて1人寂しく早朝から公園で座っていなければならんのだ? とも思ったんだが、意外や意外。ようやく日が昇ってきた頃、眠たい目で公園にやってきた俺が見たのは入口で待っていた二人のお姫様だった。 なるほど、これが早起きはプライスレスって奴か。「いや~絶好のお花見日和だねぇ~」 そう言って鶴屋さんが見上げた空には雲ひとつ無く、雲ひとつ無いとってつけた様な晴天が好き放題に広がっていた。 季節外れの台風のせいでここ数日天候は悪かったと思うんだが……まあいいさ、それが誰のせいかなんて無粋な事は考えない様にしよう。 普段から面倒に巻き込まれてる俺への、神様なりの配慮かもしれないしな。喜ぶべき事には、素直に喜んでおくのが正しい生き方だ。 謎は謎のまま、あるべき物はあるべきばしょにってな。 ――しかし、彼女はそうは考えなかったらしい。「ね~キョン君」 はい。「そろそろ、全部教えてくれてもいいんじゃないかなぁ」 全部……ですか?「そう! ハルにゃんと長門っちとみくると古泉君と……あの森さんの事、とか。ね」 笑顔の中に「教えてくれるまで諦めないっさ!」とでも言いたげな雰囲気を含ませ、鶴屋さんは俺を見つめるのだった。「あ、あの」 慌てる朝比奈さんは俺と鶴屋さんの顔を交互に見るだけで、残念ながら助け舟は来そうに無い。というかむしろ助けを求めている気配すらある。 ……正直、ここまで助けてもらっておいて何も言わない事に罪悪感を感じない訳じゃないさ。鶴屋さんの助けがなければ、ハルヒだって助けられなかっただろうしな。 しかし、だ。 みんなの背景を教えるって事は、そのまま危険な事に巻き込んでしまう事にもなりかねないんだよなぁ……。「ね~ね~。後で教えてくれるって言ってたじゃないか~」 それは……はい。 つまらなそうにふくれる鶴屋さんを申し訳無く思って見ていると、「……そっか、うん。ごめん、もう聞かないよっ」 気のいい先輩の顔に戻った鶴屋さんは寂しそうに笑うのだった。 本当にすみません。「じゃ~代わりに1個だけ教えて! みくるがあの時言った言葉だけでいいからさ!」「えええ! あ、あれは駄目です、本当に駄目なんです!」 本気で慌てている朝比奈さん。「あたしにも秘密なの? 寂しいなぁ~……」「ごめんなさい。あれだけはどうしても言えないんです」 俺もあれは気になってはいたんだが、朝比奈さん曰く「自分が世界から居なくなってしまう」言葉である以上、一生答えを知りたくない質問でもある。「おや、二人とも勘違いしてるねぇ」「え?」 あれ? 違うんですか?「あたしが聞きたいのはみくるが言わなかった言葉じゃなくて、あの時キョン君に向かって口パクで言った言葉の方なのさ」 ってそっちですか。「あれって何て言ってたの? あたしからはよく見えなくてさ、キョン君からは見えてたでしょ」 すみません、俺にもよくわかりませんでした。「そそそそうですよね」 何故かわからないが、俺の返答に朝比奈さんはやけに動揺していた。 本当に何て言ってたんだろう?「あらら、そうなんだ。ねぇみくる~。あれってキョン君に言ったんだよね?」「あの……はい、そうです」 素直に頷く朝比奈さんを確認してから、鶴屋さんは笑顔で「あのさ。「貴方の事がずっと前からす」の後に、みくるは何て言ってたのかな?」 絶対に確信犯だ、この人。 ……でもまあ、これは流石に鶴屋さんの見間違いだよな。朝比奈さんが俺にそんな事を言うはずがな……あ、あれ? 朝比奈さんの顔色は、桜の花びらの様から一気に赤へと色付き「……ふ~ん。キョン、あんたずいぶんモテてるみたいね」 確信犯は2人居た。 背後から聞こえてきたその何かを企むような声は、本来この場に居るはずがない……まあ、こいつがいつどこに居ようが今更驚かねぇけどな。 振り向いた先に居た華やかな髪飾りと振袖に身を包んだハルヒの姿を見て、俺は驚く前に溜息をついていた。「すすすす涼宮さん」 デジャブって奴か? 胸元に腕を寄せて震える朝比奈さんを見るのはこれで二度目……いや、結構頻繁に見てるか。「あのね、みくるちゃんが誰を好きになってもそれはいいのよ。ま、普通に考えてありえない事だけど、その相手が奇跡的にそこのバカだとしてもね」 好き放題言ってくれるな。 まあ、俺だって朝比奈さんが俺に密かな恋心を……なんてのはありえないって事くらいわかってるよ。「でもね、みくるちゃんの事が一番好きなのは間違いなくこのあたしなのよ! さあ、今からあたしの愛を再確認させてあげるわ!」 おいまてハルヒ、何を馬鹿な事を「あたしも負けないっさー!」 鶴屋さんまで何を言ってるんですか?!「えええええ!?」 本気で脅える朝比奈さんに、2人の手が伸びていく。「あああの! えっとその、涼宮さんはキョン君と古泉君の事が好きなんじゃ……」 俺を気にするようにして朝比奈さんは意見してみたが、「え? 違うわよ。あたしはみんなの事が好きなの。愛は世界を救うって言うし、好きなのは1人だけとかそんな出し惜しみしちゃいけない物なのよ! だーかーら、みくるちゃんは何も心配せず、安心してあたしの愛を受け入れてね!」 俺はお前の頭が心配だ。「そうそう。いや~ハルにゃん良い事言うな~」 駄目だこの2人。「そ、そんな~!」 相手がハルヒ1人の時ですら一度も逃げ切れた事が無かった以上、鶴屋さんが加わった今となっては、朝比奈さんが無事に逃げきれる可能性は、古泉が俺にボードゲームで勝利するくらいにないだろう。 これは早めに止めた方がよさそうだ。 鶴屋さん、ここは公園で人の目もありますから。「そっか、キョン君も一緒にいたずらしたいのかい?」 人の話を聞いてください。「あ、みくるちゃんの振袖胸元が苦しそうね。ちょっと緩めてあげましょう~」「な、何で腰帯に手をかけるんですか?」「ほら、花見には付き物でしょ? あ~れ~って回る奴」 どこの世界の花見だ、それは。 っていうかそれは胸元と関係ないだろ。「日本古来の伝統文化に決まってるじゃない。ねー鶴屋さん」「そうそう。女の子の夢だよね~」 どんな夢ですか、それ。「おや、皆さんもうおそろいですね」 未来人の窮地に登場したのは、いつもの笑顔を取り戻した超能力者と、以前より口数が増えてきた元宇宙人(振袖バージョン)だった。 古泉、いい所に来た。朝比奈さんを助けるのを手伝え。「了解です」「あ、古泉君。ちょちょっとこら! 人の楽しみを邪魔しないの!」「申し訳ありません。僕は彼の命令に逆らえないんですよ。ね?」 同意を求めるな。意味不明な事を口走るな。気色の悪い視線を投げるな。「わわっ! キョン君そこは駄目さ! あ~んハルにゃんが見てる~!」 鶴屋さん。俺が掴んでるのはどう見ても肘です、変な声を出さないでください。 朝比奈さんに群がる二人を取り押さえようと俺と古泉が取り組む中、何故か長門も手伝いに来てくれた。「ふぇ……な、長門さ~ん」 着崩れてしまった振袖姿で妖艶な色気を放つ朝比奈さんは、長門に助けを求めて手を差し伸ばした――のだが「以前から、一度やってみたいと思っていた」 長門の手は朝比奈さんの手ではなく、彼女が死守していた腰帯に伸びて――直後「や、駄目~!」 回転しながら薄着になっていく朝比奈さんの姿を、俺は溜息と共に見守るしかなかった訳だ。「ナイス長門っち!」 一仕事終えた顔の長門と、そんな長門とハイタッチを交わしている鶴屋さんに突っ込むだけの気力もありゃしない。「うう……も、もうお嫁に行けません……」 朝比奈さんはうずくまり大粒の涙を流していた。 ……その、なんていうか来て早々災難でしたね。でも最初が悪ければ後はどんどん良くなるって神社の人が前に言ってましたから、きっと良い事が「こらみくるちゃん! そこは「あ~れ~」でしょ? はい、もう一回やるわよ!」 追い討ちをかけるなこの馬鹿!「や、駄目! これ以上は駄目です! お願いです、駄目~!」 おいハルヒよせ! いくらなんでも内掛けはまずい!「いいところなんだから邪魔しないで!」 邪魔するに決まってるだろうが!「ちょっと離しなさい! ああもう、いいかげんにしないと本気で怒るわよ?!」 こっちの台詞だ!「なによ! あんたそんなにみくるちゃんが好きなわけ?」 いきなり何だそれは。「ああもう! ……キョン、あんたは誰が……その。あれよ! あんたの気持ちを教えなさい!」 俺の気持ちだと? そんなもん……その、あれだ。「部室でも、結局あんただけは何も言わなかったじゃない」 えっと……ああそう! あれだ! ハルヒ、お前と一緒だよ。 ついさっき聞いたハルヒの言葉を思い出した俺は、誤魔化すつもりでそう言ってしまった。「え?」 だから、俺の気持ちはお前と一緒だよ。 ほら、さっきお前が言ってただろ? 古泉や俺とかそんなんじゃなく、みんなが好きだ~って……あ、あれ? 何でお前の顔が急に赤くなってるんだ?「…………」 お、おいハルヒ? 急に顔を赤らめて俯いたハルヒは、そのまま沈黙してしまう。 直後、俺の肩に置かれる古泉の手。「おやおや、これは御暑いですね」 古泉、お前何を言ってるんだ。「地球温暖化がこんな所にまで」『本当、こっちまで熱くなっちゃったわよ』 長門まで? しかも何か違う奴の声まで混じってなかったか?「いいなぁハルにゃん。みくる~……あたしもみくるにあんな告白されてみたいよう」「つ、鶴屋さん? ……あの、ここじゃちょっと」 「え! ここじゃなきゃいいの?」 ちょっと鶴屋さん? 告白っていったい何の話ですか!「さ、僕達は邪魔にならない様にお花見の準備を進めておきましょう」「賛成~恋する2人のお邪魔はできないってね」「じゃあ、お料理並べますね」「手伝う」 頼むから人の話を聞いてくれって! なあ! ――俺の叫びは桜の花びらに紛れ、その声に耳を貸す人は誰一人いなかったとさ。
涼宮ハルヒの愛惜 ~終わり~
数百メートル先――桜並木の下で騒ぐ彼らの姿を、私は木陰に隠れて見つめていた。 数年もの間、ずっと観察を続けてきた彼等の顔を1人1人順番に眺めてからTPDDの回線を開く。 報告。コードネーム森園生。時空震の反応、閉鎖空間の発生。共に認められず。確認願う。 ――了解。……規定事項「スペアキー」の完了を確認。これで、この時代における全ての規定事項は無事、履行されました。森園生、貴女の帰還を承認します―― 了解。 最後の報告を終えてデバイスをオフにした私を、「お疲れ様でした」 江美里さんの落ち着いた声と「……」 新川の優しい視線が見つめている。 ありがとう。 この場に相応しいで言葉はわかっても、今は笑うべき所なのかそうでないのかは私にはわからなかった。 これでも少しは社交性を身につけたつもりだったんだが……駄目だ、任務だと思わないとやはり体は動かない。任務であればできる事なのに、何故なのだろう? 戸惑う私に、「園生さん。貴女はそのままでいいと思いますよ」 この場に相応しいのであろう笑顔を浮かべて、彼女はそう言ってくれた。 その言葉は私の中にあった硬い何かを優しく包んでくれて――なるほど。これが気遣いという物なのか。 宇宙人のインターフェースから人との接し方を学んでいる自分に、園生は自然と微笑んでいた。 江美里さん、貴女の助力には本当に感謝しています。「いえ、私は園生さんのプランを穏健派に伝えただけ。後は穏健派の意向に従っていただけですので、どうかお気になさらないでください」 優しい宇宙人はそう言って私の手を取った。「……また、会う日を楽しみにしていますね」 ええ、私も。 柔らかなその手をそっと握り返し、私は彼女を真似て微笑んでみた――が、彼女は何故か笑いを堪えている……どうやら及第点には程遠いらしい。 寝ごり惜しそうな彼女から視線を移し、私はもう1人の男へと向き直った。 ……新川。「はい」 いつもの黒の執事服に身を包んだその男は、やはりいつもの様に私を見守ってくれるような暖かい視線を向けている。 その視線は私が彼と初めて会った時からずっと続いているのだが、私はその理由を知らない。 そして新川は、その理由を話そうとしない。 ――ならば、わからないままでいいのだろう。 ただ、私にはお前の視線がとても心地よかった。 だから伝えておかなくてはならない。 ……いままでありがとう。 そっと頭を下げる新川へ、私は学んだばかりの笑顔を贈った。 柔らかな風が通り抜けていき、その風を追うように桜の花びらが舞い降りてくる……。 頃合だな。 私は静かに目を閉じて――声をあげた。 古泉、腕を上げたな。 新川と江美里さんの顔に緊張が走り、同時に同じ方向に振り向く。 私の言葉が辺りに響いて消えた頃、古泉は2人が見ていた木の影から姿を現した。 この2人に気づかれない様にここまで接近できるとは……どうやら、私が教える事はもうない様だ。 ――幼く無知で、勢いだけの実力が伴わなかった少年は、もうここには居ないという事か。 古泉、そんな顔をするな。「……」 無言で立つ古泉は、非難するのでも怒っているのでもなく、ただ……悲しそうな顔をしていた。 もう気づいているだろうが、私はお前を騙していた。その事について弁明する言葉はない。殴りたいのであれば殴ってくれても構わない。 そう私が言っても、古泉はただ私を見ているだけ――これなら、殴られた方がまだ気が楽かもしれないな。 沈黙が苦痛に変わってきた頃になって、ようやく古泉は口を開いた。「森さん。僕には貴女がわかりません」 ……。「機関の情報を調べました。涼宮さんを誘拐した事に関して、機関は何も知らされていませんでした。怪我をした同志も居ない、世界の再構築が機関の意向だという話も作り話……貴女は、いったいどんな目的があってあんな事をしたんですか!」 ……。「古泉さん違うんです、園生さんは貴方が思っている様な……」 無言でいる私に代わって話をしようとする江美里さんを、私は手で制した。 いいんです、伝えなくても。……古泉、私の予想では、お前はこの件に関して深入りしないと思っていた。「僕もそのつもりでした。ですが、一つ気になった事があるんです」 気になる事?「ええ、僕自身の事です」 そう言って古泉は自分の頭に手を当てる。「僕の記憶の中では、貴女と僕は色んな場所へ出かけています。しかし、その記憶はどこかへ行ったという事実だけで、そこで何をしたのかは全く思い出せないんです。最初は僕の思い違いなんだと思いました。ですが、それだけではどうしても納得出来ないんです。機関の意向であるという貴女の言葉を疑ったのは、それがきっかけでした」 ――まさか、2度も使う事になるとは……私は古泉に何も答えないまま、右手の掌に小さな金属の塊を精製した。 それはイメージした形へと変化し、冷たく重い金属――小さな銃へと姿を変える。数秒後、自分に向けられた私の手に銃が握られているのを見て、古泉は体を硬直させた。 銃口の先に古泉の額を定めて、そのまま口を開く。 古泉、いい男になったな。「え?」 私が次にお前に会う時……その時は全てを話そう。約束する。「森さん、貴女は――」 さよならだ、古泉。 ――これは私の規定事項。 私はトリガーを引き、掌に収まった小さな銃は弾倉に残っていた最後の弾を音もなく吐き出す。 弾丸は光となって一瞬で目標を貫き――桜の花びらが舞う中、古泉は倒れた。 新川、すまないが。「ご心配なく、うまく処理しておきます」 ……頼んだ。
「本当に良かったんですか? 何も伝えなくて」 新川に担がれて古泉もこの場を去り、私は江美里さんと2人っきりになっていた。 いったいどんな理由があるのかわからないが、この宇宙人は私と古泉の関係が気になっているらしい。 まるで自分の事に様に彼女は辛そうな顔をしている。 伝える必要はありません。古泉とは、また会う事になりますから。「……ですが、彼の記憶にあった貴女との思い出は消してしまったんでしょう?」 はい。今度は出会った時から全ての記憶を消しました。「……それでは……それでは貴女の思いは……」 なるほど、彼女の杞憂の正体がやっとわかった。 江美里さん、あいつは違うんです。「え?」 私が最初に恋した古泉は、あいつではありません。「え? それっていったい」 続きは……そうですね、また――年後に会った時にお話ししましょう。どこかゆっくり出来る場所でお茶でも飲みながらね。父に美味しいお菓子を焼かせます。「ま、待って!」 それでは、また。 はじめて見る彼女の戸惑った顔を目に焼け付けながら、私はこの時代に別れを告げた。
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