長門有希の秋色
『長門有希の秋色』
「キョンくん、長門さん、どこか悪いんでしょうか」
「えっ、長門が、ですか?」
ハルヒと古泉は掃除当番でまだ部室には来ていない。すでにメイド姿の朝比奈さんが淹れてくれたおいしいお茶を、いつものようにまったりといただきながら、午後のひと時を過ごしていたときのことだ。
お盆を片付けた朝比奈さんが俺の隣の椅子に腰掛けると、そのかわいらしいお顔を俺のほうに近づけて、そっと耳打ちするように話かけてきた。
少し驚いた俺は、いつものように窓際の丸テーブルのところに座っている長門の姿に目を向けた。
残暑の時期も過ぎ、すっかり秋の気配に支配された見慣れた窓の外の景色の前で、分厚い本をひざの上に置いた長門は、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。
「ほら、本を読んでいる様子がないんです」
「うーん……」
確かに、いつものように本は読んでいないが、特別何かおかしいようには見えない。長門だって、たまには目を休ませることもあるだろうし。
「でも、ここ数日、ほとんどずっとあんな感じで……」
俺に寄り添うようにして小声で話しかけてくれる朝比奈さんのほわっとした雰囲気を感じつつ、
「そうなんですか?」
「ええ、気づきませんでした?」
「……」
長門の表情専門家を自称する俺として、長門の様子がおかしいことを朝比奈さんに指摘されるとは少しばかりショックだ。
ただ単に、いつもの場所にいつものように座っている長門の姿を確認しただけで、何の問題も異常も感じないぐらいに油断していたのかもしれない。ううむ、いかん、いかん。
「昨日は普通に本を読んでいたようでしたけど?」
俺は昨日の放課後のことを思い出していた。
古泉とオセロ勝負をしていた背後で、長門はひたすら本のページをめくっていた。ごく普段どおりの姿だったので、俺はほとんど気にならなかったが。
「ええ。でもすごい速さでページをめくっていましたよね。それでわたし不思議に思ってそっと覗き込んでみると、何か細かい文字で数字がいっぱい並んだ少し厚めの本だったんです」
細かい文字で数字がいっぱいって……。いったい何を読んでいたんだろう? 乱数表か?
「その後しばらくすると、今度は何か遠い目をして窓の外を見つめていました。それで、わたし『どうしたんですか』って尋ねたんです。すると……」
そこまで話した朝比奈さんは、窓際の長門の方をチラッと見たあと、少しうつむいて次に口にする言葉を選んでいるようだった。
「どうしたんです?」
朝比奈さんは俺の方に振り向いて、長門のようにわずかに首を傾けながら微笑んだ。
「じっと私を見つめただけでした、いつもの無表情で……」
「えっと、それじゃ、全然普段の長門じゃないですか」
「そ、そうですね……」
朝比奈さんはくすっと笑って肩をすくめた。
「わたしが気にしすぎなのかなぁ」
右手の人差し指をつややかな唇に当てながら席を立った朝比奈さんは、
「ちょっと洗い物を」
と言い残すと、湯飲みをいくつか持って部室を出て行った。
残された俺は、あらためて定位置にいる長門を眺めてみた。確かに本も読まずに座っているだけの今日の長門は何か違和感がある。朝比奈さんが心配するのも無理はないな。
少し冷めてしまったお茶を飲み干すと、俺は窓際に足を運んだ。
「長門?」
「……!」
俺が声をかけて初めて長門は俺がすぐ横に立っていることに気づいたようだ。うん、確かに少し変だ。
「どうした、どこかからだの調子が悪いのか? 朝比奈さんも心配していたけど」
俺の目をじっと見つめた長門は、ひとつ瞬きをした。
「大丈夫」
「そうは見えないが」
「…………」
「またどこかの対抗勢力の類が何か企んでいるとか」
「そのような兆候はない。安心して」
「じゃ、どうしたんだ? いつものように本を読んでいるようにも見えないけど」
長門は膝の上に置かれた本に視線を落とすと、硬い表紙をめくって中表紙に書いているタイトルをそっと指でなぞった。『火星にて大海を思う』と読めた。著者は『T・フロゥイング』か?
「この本も全部読んだ」
「……そうか。次に読む本もなにかあるんだろ?」
長門は少しの間、読み終えたという膝の上の分厚い本に穴でも開けるような視線を突き刺した後、小さく息を吐くと、そっとつぶやいた。
「……読む本がなくなった」
「へ!?」
「もちろん、地球上で出版されたすべての書籍を読み終えたというわけではない」
いや、そりゃそうだろう。いくら万能有機アンドロイドでもそんなことはできないはずだ。でも長門なら、やれと言われればやりかねないかもしれないが。
長門は、座ったまま俺を見上げると、今度は俺の視線を押し返すような勢いで見つめ返してきた。
「情報統合思念体の自律進化の可能性に少しでも関連があるようなものから単なる娯楽作品まで、あらゆるジャンルのさまざまな代表的な書籍を読了し、傾向と対策についてはほぼ把握した」
「け、傾向と対策って……」
長門の鋼の無表情の中に確固たる自信がみなぎっている様に見える。
「読むべき本がなくなった」
「いや、そんなことはないだろう?」
「昨日はこの地域の電話帳を読んだ」
「な、なに?」
そうか、朝比奈さんが言っていた細かい数字が並んだ本って、電話帳だったのか。いったい長門は電話帳を読んでどうするつもりだったんだ?
ところで、朝比奈さんは電話帳というものの存在を知らなかったのか?
「記載された内容を記憶し、電話番号の下四桁で昇順に並べ替えた。その結果を解析したところ、重複も少なくほぼ一様に分布していることがわかった。ただし、数字個々に見ると、四と九の発現頻度がやや少ない傾向が見られた」
「あ、あのぅ、長門……」
お前、そんなことやっていたのか。そこまで追い詰められていたってことなのか。朝比奈さんに声をかけられたときには、きっと頭の中で数字の並べ替えでもやっていたんだろう。だから、少し遠い目をしていたってことか……。
俺はそんな長門にかける言葉が見つからなかった。
「興味深い結果だった」
「そ、そうか、それはよかったな」
何がよかったのかはわからないが、俺はそう答えるしかなかった。
少しの間、長門は黙って俺を見上げていた。やがて、ポツリと話し出した。
「もし……」
「ん?」
「もし、おすすめの本があれば紹介して欲しい」
そう言う長門の黒い瞳は、いつもより少し輝きを失っているようにも感じられた。
「俺がお前に本を紹介って……」
普段からたいして本なんか読んだことない俺が、目の前の読書マシーンに紹介できるはずはないだろう。俺が読んだことがあるような本は、長門もすでに読み終えているはずだ。
「なんでもいい」
「なんでも、って言われてもだなぁ……」
俺をじっと見つめる長門の真摯な瞳に期待を込めた一縷の光を見たような気がした。世話になっている長門の求めにはなんとか応じてやらなければなるまい。
「わかったよ、何か探しておくよ」
長門はわずかに首を傾けると、ほっとしたように口元をわずかにほころばした。
「でもな、長門……」
俺はさらに続けた。
「別に『読書の秋』だけじゃないぜ。せっかくいい季節になってきたんだから、本読むのもいいけど、どこか出かけたほうがいいと思うぞ」
「国立国会図書館に行ってみたい」
「いや、だからな、そうじゃなくて、ハイキングに行くとかだなぁ」
「……紹介して」
「え?」
「秋のお出かけにふさわしいところ」
ううーん、まぁ確かに、俺が長門に紹介できるのは、本よりも行楽地のほうがいいにきまっている。
「よし、じゃ、今度の休みにどこか行こう。『行楽の秋』だな」
静かに立ち上がった長門は、窓から少し乗り出す様に外の景色を見つめている。その長門の小さな後姿を見つめながら、俺はどこか気晴らしになりそうないいところがないか考え始めた。
しばらくして振り返った長門の俺を見つめる瞳には再び輝きが戻りつつあった。
「楽しみ……」
小さな声でひとことだけつぶやいた長門の無表情の中にわずかに芽生えた微笑が、秋色たっぷりのさわやかな青空を背景に、どんどん大きくなっていくような気がした。
Fin.
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