「山月記」
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自分の思いを秘密にし、人に知られたくなければ嘘をつかなければならなくなる。 それは時に沈黙の嘘にもなり、虚言にも流言にもなりえ自分や相手、さらには周りの人間をも巻き込む事にすらなりえる。 そうまでして守りたい思い――それは何なのか?
聞くまでもない、答えられないからこその「秘密」なのだから。
定時連絡、監視対象に変化なし。入学式の自己紹介以来、彼女に近づく生徒もなし……。 不機嫌を外見に表わしつつも内面に溜め、そこかしこに閉鎖空間を生み出すだけの存在。 こんな困ったさんを、後どれだけ観察していればいいのかしらね。 情報収集に便利そうだから、それだけの理由で立候補したクラス委員の仕事を適当にこなしつつ、朝倉は視線の端で黒板を睨みつける彼女の姿を見ていた。 思念体の持つインターフェースの中で、最も優秀な長門有希のバックアップとして呼び出された私は……。そうね簡単に言えば退屈だったのよ。 新学期が始まったばかりだというのに、クラスの誰一人として彼女には関わろうとしない。 まあ、あの自己紹介の後で彼女に関わろうとする人がこのクラスに居れば、それはそれでびっくりなんだけど……あれ? 観察対象の前の席に座った男子生徒――名前は……あれ、なんだっけ? まあいいわ―― が、座ったまま振り向いて彼女に何か話しかけている。「さっきの事項紹介のあれ、どの辺まで本気だったんだ?」 ……怖いもの見たさ? というより彼女の外見が気になったのかしら……でもまあ、あの性格の彼女じゃあ会話が長く成立するとは思えないし。「だったら話かけないで! 時間の無駄だから」 やっぱりね。溜息ひとつついてページごとにまとめ終わったプリントを机の上に並べる。 そうね、一つだけ彼女に同意できる点があるわ。 これは時間の無駄だって事。 そんな本音を胸に秘めつつ、朝倉はマニュアル通りの笑顔を浮かべて立ち上がった。 私がクラス委員として何度話しかけても、彼女からはまともな反応は返ってこなかった。そしてそれは他の生徒でも一緒。どんどんクラスで孤立していく彼女に、私は正直この仕事をキャンセルしたくなっていた。そんな権利は持ってないんだけどね。
彼の何処が彼女の気を引く理由になったのだろう? 夏に向けてなのか髪を短く切った観察対象は、いつも通りのご機嫌斜め。今日も誰とも会話をせずにじっと黒板を睨んでいる……だけではなかった。 ここ数日の事だけど、HRが始まるまでの僅かな時間に、観察対象と前の席に座っている平凡な男子生徒の間で会話する事が日課になっているみたい。 内容は……取り留めのないというか、意味のわからない話題ばかり。男子生徒も、そして観察対象もその会話を楽しんでいる様には見えない……なのに一日として途切れることはない。 かといって他の生徒との間で、観察対象が会話をするようになった傾向も無い……。 なんなのかしらね? これって。 ――数日後、私と同じ意見を持つ生徒が他にも事を私は知った。 例の平凡な男子生徒が、他の男子生徒に問い詰められている。「おい、キョン。お前どんな魔法を使ったんだ?俺、涼宮が人とあんなに長い間喋ってるの初めて見るぞ」 あ、例の彼はキョンって名前なのね。 観察対象の現在地は……本棟の3階を移動中、この教室に戻ってくるのは早くても5分後。 一時的だとはいえ観察対象と親しくなっている彼は2次観察対象、私的な接触は厳禁。でも……少しくらい近づいてみないとわからない事ってあるわよね。「あたしも聞きたいな」 久しぶりの高揚感、私は勢いで彼に話しかけていた。 「あたしがいくら話しかけても、なーんにも答えてくれない涼宮さんが、どうしたら話すようになってくれるのか。コツでもあるの?」 本当、あるのなら教えて欲しいな。 彼は彼女と違って社交性は高いらしく、しばらく考えた後に首を振った。「解らん」 残念、それがわかれば情報フレアを導く手段もわかったかもしれないのに。「ふーん。でも安心した。涼宮さん、いつまでもクラスで孤立したままじゃ困るもんね。一人でも友達が出来たのはいいことよね」「友達ね……」 あ、今の貴方の顔は迷惑そうには見えないな。満更でもないんじゃない? 「その調子で涼宮さんをクラスに溶け込めるようにしてあげてね。せっかく一緒のクラスになったんだから、みんな仲良くしていきたいじゃない? よろしくね」 彼は苦い顔で視線を外している。あ、そうだ。HR以外にもオフィシャルな用件があれば二人の仲はもっと親しくなるかも?「これから何か伝えることがあったら、あなたから言ってもらうようにするから」 こちらの意図に感づいた訳じゃないんだろうけど、急に彼が顔を上げる。「いや、だから待てよ。俺はあいつのスポークスマンでも何でもないそ」 それってどうでもいいの。 私は彼女に変化を及ぼす可能性があれば試してみたい。ただそれだけなんだもん。「お願い」 両手を合わせて懇願すると、彼は返事はせずに「ああ」とか「うう」と呻いている。 それ、肯定って事よね? そう決めたから。 考える時間を与えないように私は返事を待たずにその場を離れた。 自分の席に戻ると、そこには仲がいいクラスメイトが待ち構えていて、私には理解できないドラマとか音楽の話を楽しそうに話しかけてくる。いつもなら苦痛でしかないその時間なんだけど、その時だけは私も心から楽しかった。 何故って? ようやく観察対象に変化が訪れようとしていたからに決まってるじゃない。
――理由はよくわからないけど席替えだそうよ。 これが教師の気まぐれなのかどうかは知らないけどいいチャンス。 クラス委員の立場を使わせてもらってくじを入れた缶を運ぶ役目を手に入れた私は彼、キョン君が引いた紙片には中庭に面した窓際後方から二番目という中々のポジションを準備してあげたわ――もちろん、彼女はその後ろ。悪く思わないでね? 他の生徒から目につきにくい場所なら、二人の関係が進展する要因になると思ったんだけど――そうね、結果が全てじゃないにしろ、この行動は正しいとは言えなかったのかも。 色んな意味で、ね。
数日後の授業中、それは突然始まった。 何かが机に叩きつけられた打撃音、静かな授業中だったはずの教室は一瞬でその空気を変える。 いったい何事? そんな生徒達の視線が注がれているのは――ああ、やっぱりなのね――キョン君と彼女が居る教室の後方、窓側の席にだった。「何しやがる!」 キョン君が後頭部を抑えて怒鳴っている所を見ると、どうやら机に頭をぶつけたみたい……え、うそ?彼女がそんな乱暴な事を?「気がついた!」 不満をぶつける彼に対して、赤道直下の炎天下な笑顔を向ける彼女。あの、それより痛みを訴える彼への答えがそれでいいの?「どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら!」「何に気付いたんだ?」 なんだろう、私はその時どきどきしていた。何かが始まる、そんな予感がする。「ないんだったら自分で作れぼいいのよ!」「何を」「部活よ!」 その時、私は確かに感じた。 彼女の力で世界の何かが書き換えられた事を。 笑みが浮かぶのを俯いて隠しつつ、ノートを取るふりに戻る。 詳細はまだわからないけど、これはいい兆候よね。「そうか。そりゃよかったな。ところでそろそろ手を離してくれ」「なに? その反応。もうちょっとあんたも喜びなさいよ、この発見を」「その発見とやらは後でゆっくり聞いてやる。場合によっては喜びを分かち合ってもいい。ただ、今は落ち着け」「なんのこと?」「授業中だ」 教室中の視線にようやく気付いた彼女は、どうやら席に座ったようだ。 ――現状はそんな感じよ。 授業を受けながらインタフェース間の情報の同期を取った時、彼女に対するメインのインタフェースである長門有希からの返答は何もなかった。まあ、返事がないのはいつもの事。あっても「そう」とか「わかった」とか文字にして原稿用紙一行分を超えた事がないんだもん。 だからそのまま通信を切ろうとした時、彼女から返事が返ってきた事に私は本気で驚いた。『涼宮ハルヒの願望によって、私は文芸部に所属する事になった。貴女には、引き続きバックアップをお願いしたい』 思わず声をあげそうになったが――涼宮さんじゃあるまいし――今は授業中だという事を思い出してなんとか留まる。 ――え、その。長門さん、状況がよくわからないんだけど――『彼女は、宇宙人、未来人、超能力者を見つけ、遊ぶ事を目的としている。彼女の認識によって私のこの学校における情報が書き換えられた。これから先は何が起こるか予測ができない。貴女にはより一層の協力を依頼する』 シャープペンシルの先をそっと手の甲に当ててみる……うん、痛い。 それって冗談……を長門さんが言うはずはないわよね。
事態は私の想像以上に急変していた。 それまで反抗期の子供の様だった彼女は突然行動的になり、キョン君を引きずりまわして――文字通りの意味でね――何やら部活を始めようとしているみたい。長門さんが言っていた文芸部って話がこれに関わっているのなら、彼女は文芸部に入るつもりって事? でも無いなら作ればいいとか言ってた様な……。 そんな現状の把握に追われていた私以上に、長門さんは大変みたいだった。『私も彼女の部活に入る事になった』 ――彼女が文芸部に入るとは予想外ね―― 学校中の部活動で大暴れしていた彼女が、静かな部室で読書に勤しむ姿は想像できそうにない。『違う。彼女によって作られた新たな組織。名前はSOS団』 全世界が停止したかと思ったわ。 ――えっと、それって冗談?――『正しくは世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団、略してSOS団』 ……これって笑う所?『新しく2次観察対象として、朝比奈みくるという未来人が加わった。情報収集をお願いしたい』 ――え、あっはい。了解……―― 通信終わり。状況の変化に驚くと同時に、私はもう一つの変化にも気付いていた。 無口で感情を全く表に出さない万能インターフェースである長門有希、今の彼女の言葉には僅かだけど感情が芽生えていた事に。
朝比奈みくる。 長門さんの情報通り彼女はこの時代に送り込まれた未来の組織における連絡係。遺伝子的に見てもこの時代の人間と顕著な差異は認められず。ただ、脳内に無形のTPDDを確認。原始的な時間遡行を行う事ができると思われる……っと。 のんびりとした性格の彼女を調べるのは簡単だった。昼休みに教室でぼーっとしている所をスキャニングして終了。 それにしても……まさか本当に未来人まで呼び寄せちゃうなんてね。 これは未来に行くとかそんな簡単な事とは根本から違う、まるで無から何かを生み出しているかの様な……まさかね。 統合情報思念体にもそんな力はないもの、流石にこれは考えすぎよね? 放課後を迎え、下校しようと校舎を出た私の目に入ってきたのはバニーガール姿の観察対象二人だった。 ……え? なにこれ? 呆然としている私の横を誰かが走り抜けていく。あ、先生達だ。 校門の前で何かをしていたらしいバニーガール二人は教師に対して何か抗議を――一人は泣いているだけだったみたい――していたみたいだけど、聞き入れられずに校舎内に引きずられていった。 なんだったの……これ。 立ち尽くす私の足元に何か紙が飛んでくる、これはさっき彼女が配っていたチラシ?『SOS団結団に伴う所信表明。わがSOS団はこの世の不思議を広く募集しています。過去に不思議な経験をした……』 文面に頭痛を覚えた私は、最後までチラシを読むのを諦めてとりあえず鞄にしまった。
翌朝、クラスの話題は昨日の二人でもちきりだった――んだけど、彼女の居る前でそれを口にする人は居なかったわ。 休み時間、彼女が教室を出た途端に始まる噂話。これって全部記録しなきゃダメかなぁ……ダメよね。「ほんと、昨日はビックリしたよ。帰り際にバニーガールに会うなんて、夢でも見てるのかと思う前に自分の正気を疑ったもんね」 この声は国木田君だったかな、キョン君を捕まえてさっそく昨日の事を聞いているみたい。 見れば涼宮さんはちょうど不在みたいで、キョン君と仲のいい二人の生徒が彼の席で何か話している。 ……長門さんには指示されてないけど、ちょっと気になるのよね。むしろ気にならない方が変よね、この場合。「このSOS団って何なの? 何するとこ、それ」「ハルヒに訊いてくれ。俺は知らん。知りたくもない。仮に知ってたとしても言いたくない」 頭を抱える彼には悪いと思うんだけど、ちょっとだけ聞かせて欲しいな。「不思議なことを教えろって書いてあるけど、具体的に何を指すの? それで普通じゃダメって、よく解らないんだけど」 昨日のチラシを彼に見せてみると、すぐにため息が返って来た。「面白いことしてるみたいね、あなたたち。でも、公序良俗に反することはやめておいたほうがいいよ?あれはちょっとやりすぎだと思うな」 私の言葉に彼は何も返さないまま窓の外を眺めている。 どうやら手を焼いてるみたいね。
『新しく2次観察対象として、古泉一樹が加わった。情報収集をお願いしたい』 はーい、了解です。 今度の相手は男子生徒で……ああ、なるほど機関の一員なのね。 涼宮ハルヒが無意識に生み出す閉鎖空間、それは徐々に拡大していきいずれは世界を覆ってしまう人類にとっては危険な物。 その空間を破壊する為に存在する異能力集団、それが機関……中学生のノートみたいな設定よね、これ。 でも残念ながらこれは事実、実際に何度となく発生してきた閉鎖空間は彼ら機関の手で例外無く破壊されてきた。当たり前よね破壊しなかったら世界は滅亡するんだから。 その機関の中でも実行部隊とも言える一部のメンバーは、閉鎖空間においてのみ特殊な能力を使役する事ができる。古泉一樹もその中の一人。 ……あ、つまりこれって未来人に続いて超能力者まで呼び寄せちゃったって事なのね。そして長門さんは宇宙人、彼女の目標はコンプリートしちゃったんだ。 あれ? じゃあ彼は……
「涼宮ハルヒにとって。彼は、鍵」 久しぶりに訪れた同僚の部屋は……なんて言えばいいのかしらね、難易度0の間違い探しでもできそうなくらいに変化がなかったって言えばわかってもらえるかな。言い換えれば物が無かった、ここで誰かが生活してるとは思えないくらいにね。 情報の共有ができるインターフェースにとって、わざわざ相手の部屋を訪れて言語を用いて話をする事に意味なんて無い。 それでも私はなんとなく彼女の部屋を訪れるのが好きで、彼女もそんな私を拒むことはなかった。「鍵……言語化してるからかな、意味がよくわからないんだけど。それって道具としての鍵? 暗号としての鍵?」「どちらとも言える」 彼女はわざと難しく伝えようとしているのではなく、本当にそれ以上の事はわからないみたいだった。「彼がそんなに重要な存在には見えないんだけど……調べた限り彼には普通の人間との差異は認められなかったわ。超能力者でも未来人でも、当然宇宙人でもないただの地球の高校生」 私の言葉にうなずく彼女。 それなのに重要な鍵……ダメ、意味がわからない。「統合思念体の意識には積極的な動きを起こして情報の変動を観測しようという動きもある。彼は涼宮ハルヒにとっての鍵。危機が迫るとしたらまず、彼に」 話の内容よりも、淡々と話すその言葉に私は違和感を覚えた。何故だろう、今の彼女は意識的に感情を排し様としているように見える。彼女の力があればどんなインタフェースが来ようとなんの問題もないはず、それなのに本気で心配しているような……。「貴女には、これまでの情報収集に合わせて彼の護衛をお願いしたい。最優先で」「え、彼女の観察よりも優先順位は上でいいの?」「いい」 信じられない……というよりも、この指示は本来あってはならないはず。 それでも自分を見つめるその瞳に対して、私は微笑んだ。「了解しました、安心して? 彼はちゃんと守るから」 ――ちゃんと、ね? そんな話をした翌日、長門さんは彼を部屋に呼びだしていた。 聞き耳を立てるつもりはなかったんだけど、長門さんの方から通信を呼び出されていたのもあって、二人の会話を結局聞く事になってしまった私。 さて、どんな方法で彼に事情を説明するのかしら。私なら……どうするのかな。 長い長い沈黙、読んでいる雑誌の内容はほとんど入ってこない中ついに長門さんは口を開いた。「うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて」 うんうん、それで?「涼宮ハルヒとわたしは普通の人間じゃない」 え、嘘。まさか何も隠さずにそのまま話すつもりなの? 私の予想は……当たってしまった。 情報生命体の私達にとってはそれはただの歴史であり事実、でもそれはこの星の有機生命体が理解出来る内容じゃない。「待ってくれ、正直言おう。お前が何を言っているのか、俺にはさっぱり解らない」 そうよね、それが普通よ。なおも説明を続け理解を求めようといくら言葉を紡いでも、彼はその言葉を信用する事はできないみたいだった。「情報統合思念体が地球に置いているインターフェースはわたし一つではない。統合思念体の意識には積極的な動きを起こして情報の変動を観測しようという動きもある。あなたは涼宮ハルヒにとっての鍵。危機が迫るとしたらまず、あなた」 付き合いきれなくなったのだろう。「お茶、美味かったよ。ごちそうさん」 彼はそう言い残して立ち上がる、そんな彼を長門さんは引き止めようとはしなかった。 ただ、無言の中で伝わってくるのは――寂しいという感情だけ。
それからというもの、私は長門さんの部屋に通う日が増えていった。 私達の間での主な会話は彼、キョン君の事。 内容は彼の追加情報やちょっとした変化など事務的な内容ばかりだったけれど、長門さんはそれを興味深そうに聞いてくれる。 そうね、そんな時間が私は楽しかったんだと思う。 だから彼の護衛をするという名目で彼の行動範囲や趣味や嗜好、その他色んな情報を集めるだけ集める日々が続いた。 長門さんは長門さんで、SOS団で行動して彼の奢りでアプリコットティーを飲んだとか、図書館に言ったとか……それと、彼が「この前の話をなんとなく、少しは信じてもいいような気分になってきた」と言ってくれたと教えてくれた時には、もうわかっていた。 彼に作ってもらったらしい図書館のカードを見つめている長門さんにとって、彼とはなんなのか……がね。 少し寂しいような、なんだろうこの気持ち。 それでも私は彼の情報で喜ぶ長門さんが見たくて、その後も彼の情報収集と護衛に余念がなかった。 ――それが、仇になった。
「キョン君を殺せ……か」 いつもの様に長門の部屋でのんびりとした時間を過ごし、自分の部屋に戻った朝倉を待っていたのはそんな命令だった。 指示を送ってきたのは急進派、長門さんが危険視していた派閥からで間違いない。命令の詳細はこうだ、彼を殺害して観察対象に精神的な影響を及ぼす事で情報フレアの観測を狙う――幼稚で稚拙な思考、でもそれも間違いなく統合思念体の意識の一部なのだ。 私は急進派の所属だけど長門さんのバックアップとしてここに派遣されている、だからこの指示を無視する事もできなくはない……だけど。『貴女には、これまでの情報収集に合わせて彼の護衛をお願いしたい。最優先で』 彼女の願いを叶える為にベストな選択肢は……こうすればいいのよね。 私は鞄の中からノートを取り出して、ページを一枚破る。『放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室に来て』これでいい、やるならば早くしなければ意味がなくなってしまう。 何故だろう、ペンを持つ手が震えている。それにノートには何か水滴が落ちてきて、紙が所々ふやけてしまった。 この感情はなんなのだろう、目的の為に最善の手段を尽くすだけの事なのに……私は今、どうして悲しいのだろう? 理解できない感情の動きに戸惑いながらも、朝倉の顔に苦しそうな笑顔が浮かんだ。 ああ、でも……叶うなら。もう一度だけでいい、彼女の笑顔が見たかったな
「遅いよ」 夕方の教室、待っていたのが私だと気づいた彼はあからさまに驚いていた。 誰からの手紙だと思ったの? あの未来人? それとも涼宮さん? それとも……まあいいわ。「入ったら?」 私の言葉に、入口で動きを止めていた彼がようやく教室の中へと入ってくる。「お前か……」「そ。意外でしょ」 夕日に照らされた教室の中は、どこまでも赤くそれがこれから起きるであろう出来事に備えているようで皮肉にも思えた。「何の用だ?」 そんなに警戒しないで? ――無駄なんだから。「用があることは確かなんだけどね。ちょっと訊きたいことがあるの」 貴方にとって、長門さんはいったいどんな存在なのか? なんて、それも聞いてみたいんだけど今は違う。「人間はさあ、よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔したほうがいい』って言うよね。これ、どう思う?」 多少困惑した顔の彼だが、一拍置いて返事を返してくる。「よく言うかどうかは知らないが、言葉通りの意味だろうよ」「じゃあさあ、たとえ話なんだけど、現状を維持するままではジリ貧になることは解ってるんだけど、どうすれば良い方向に向かうことが出来るのか解らないとき。あなたならどうする?」「なんだそりゃ、日本の経済の話か?」 残念、はずれ。貴方にとってもっと身近な話よ。「とりあえず何でもいいから変えてみようと思うんじゃない? どうせ今のままでは何も変わらないんだし」「まあ、そういうこともあるかもしれん」「でしょう? でもね、上の方にいる人は頭が固くて、急な変化にはついていけないの。でも現場はそうもしてられない。手をつかねていたらどんどん良くないことになりそうだから。だったらもう、現場の独断で強硬に変革を進めちゃってもいいわよね?」 私が何か企んでいると思ったのかしら、彼はきょろきょろと教室の中を見回している。「何も変化しない観察対象に、あたしはもう飽き飽きしてるのね。だから……」 ちゃんと見てないとダメよ? ――本当に刺さっても知らないからね?「あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る」 隠し持っていたナイフを強く握りしめ、彼との距離を一気に詰める。その先端にあるのは無情な金属の刃。 その刃先は彼の腹部に到達する寸前で目標をはずし、彼のネクタイを分断するだけに留まった。 尻餅をついた彼はこの状況が信じられないのか、怒りでも恐怖でもなくただ驚いているようだった。「冗談はやめろ。マジ危ないって! それが本物じゃなかったとしてもビビるって。だから、よせ!」 現状を説明して欲しそうね、でもだめ。そんな事をしたら全てが水の泡になっちゃうの。「冗談だと思う?」 なるべく普段と変わらない表情を作り、彼に語りかける。まだ、少し時間が必要だから……。「死ぬのっていや? 殺されたくない? わたしには、有機生命体の死の概念がよく理解出来ないけど」 ……昨日の理解できないあの感情、あれがそうなのかな? ――だめ、よくわからないわ。「意味が解らないし、笑えない。いいからその危ないのをどこかに置いてくれ!」 危ないの……ああ、これ? これってそんなに危ないかな。「うん、それ無理」 いつもと変わらぬ笑顔を浮かべる私を見て、彼の顔が引きつる。「だって、あたしは本当にあなたに死んで欲しいんだもの」 彼に逃げられては意味がない、私はもう一度突撃する間に次の手を打っておく。 ぎりぎりの所でナイフから逃れた彼は、今度は迷う事無くまっすぐ廊下へと向かって走り出した。 賢明ね、でもだめ。「無駄なの」 彼が目指した廊下への道はもう、存在しない。私が消してしまったから。 突然姿を変えた教室に戸惑う彼に向って、ゆっくりと歩いて行く。もうすぐ、もうすぐよ?「この空間は、あたしの情報制御下にある。脱出路は封鎖した。簡単なこと。この惑星の建造物なんて、ちょっと分子の結合情報をいじってやればすぐに改変出来る。今のこの教室は密室。出ることも入ることも出来ない」 彼の顔を見る限り、私の言葉に絶望しなかったようだ。現状が理解できていない訳でもないはずなのに。 私のナイフを警戒してか、彼は中腰で逃げる体制を取っている。「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだし」「……何者なんだ、お前は」 いい質問ね、でもだめ。それには答えてあげられないの。 ――今はまだね。 ゆっくりと後ろに下がる彼だけど、手狭な空間の中で追い詰めるのにそれ程時間はかからなかった。 いよいよ後がない、そう追い込まれた事に気づいたのか彼は近くにあった机を持ち上げると私に投げつけてきた。 ……そうね。別に当たってあげてもいいんだけど、演出って必要じゃない? まっすぐ向かってくる机を私は避ける事はしなかった。机はゆるい放射線を描いて私にぶつかるはずだったが、目の前に展開しておいた障壁にぶつかって無残に跳ね飛ばされていく。 どう、少しは絶望してくれたかな?「無駄。言ったでしょう? 今、この教室の全てはあたしの意のままに動くって」 この期に及んでも、彼は抵抗の意思を捨てていない様に見える。 ちょっと意外ね、すぐに諦めてくれると思ってたんだけど。 どうやら彼に恐怖を与えるにはもっと絶望的な状況でなければいけないみたい、それにもう時間も残り少ないんだし急がないと。「最初からこうしておけばよかった」 彼の体の自由を奪う、それは特に難しい事じゃない。 不可視の力で体の自由を奪われた事で、彼の表情にようやく恐怖らしき物が浮かんできた。「あなたが死ねば、必ず涼宮ハルヒは何らかのアクションを起こす。多分、大きな情報爆発が観測出来るはず。またとない機会だわ」「知らねえよ」 あら、まだ虚勢を張る元気が残ってるんだ。……残念、時間切れ。君の怖がる顔が見たかったな。「じゃあ死んで」 マネキンの様に動けない彼にナイフを突き立て致命傷を与える、それは児戯にも等しい簡単な事。 耳を劈く破壊音、降り注ぐコンクリートのかけら。白い粉が降り注ぐ中現れた彼女によって、その瞬間私と彼の間の距離は無限に等しい程に広がったのを私は知った。 彼と私を結ぶ最短距離に立ちふさがった彼女の手は、私の持つナイフの刃を握りしめている。 小柄なその姿、揺るぎのないその目。 彼を助けるべくこの場に現れた長門さんの姿に、私は驚きを浮かべて見せた。 実はその表情には演技だけではなく少しの本音も混ざっていた、だって私が思い描いたタイミングと形そのままで彼女が現れたんだもの。「一つ一つのプログラムが甘い」 あら、そうだった?「天井部分の空間閉鎖も、情報封鎖も甘い。だからわたしに気づかれる。侵入を許す」 手厳しいなぁ、嬉しいけどね。「邪魔する気?」 疑いを抱かせない程度に腕に力を入れてみる……間違いなく激痛が走っているはずなのに、彼女に怯む気配は欠片も無かった。「この人間が殺されたら、間違いなく涼宮ハルヒは動く。これ以上の情報を得るにはそれしかないのよ」「あなたはわたしのバックアップのはず。独断専行は許可されていない。わたしに従うべき」 その通りだと思うわ。……でもそれじゃだめなの、私は自負心が高く貴女のバックアップだという自らの身分に満足しきれなかった。貴女には、そう思って貰わないと困るのよ。「いやだと言ったら?」 高慢な態度で言い切る私に、長門さんの視線が鋭くなる。「情報結合を解除する」 怖いなあ、その目。虐めたくなっちゃうじゃない。「やってみる? ここでは、わたしのほうが有利よ。この教室はわたしの情報制御空間」 自分を過信した演技って怖いな、本当にそう思えてきちゃうもの。「情報結合の解除を申請する」 その言葉によって、私の持っていたナイフが光の粒へ変わって消えていく。 慌てて手を放し、後ろに飛んで彼女との距離を放した。 さ、うまく防いでね? 空間を歪め、周囲の物質を使って即席の槍を作り出す。 都合がいい事にここは教室、資材ならいくらでもあるわよ? 一切の遠慮なしに放った槍の雨は、彼とその前に立ちふさがる長門さんへと降り注ぎ、その全てが長門さんの手によって弾かれてしまった。 さあ、いつまでもつかな? 私が攻撃し続ける限り、彼という枷がある状況で彼女は反撃に出る事はできない。 そんな状況で私の攻撃を全て防ぎきれるなんて思ってないわよね? 彼が体を動かすのを見て、変則的な攻撃を加えてみる。これって防ぎきれる?「離れないで」 自分で防げる範囲から彼がずれた事に気づいたのだろう、彼女は迷う事無く即座に彼を蹴り飛ばし、私の攻撃から彼の身を守ってみせた。『朝倉涼子、どうしてこんな事を』 一瞬の隙で命を失うこの状況で、彼女の声は直接私の中に届いた。でもだめ、ここで何か答えてあげる訳にはいかないの。『私は貴女を信頼し、貴女も私を信頼してくれていると思っていた』 ――その言葉が、とても痛い。 それでも私の顔は今も笑ったままだろう、そうでなければいけないのだから。『とても。悲しい』 ……ダメ、お願いまだ折れないで、ここで心が折れてしまったら長門さんが……。 たったそれだけの彼女の声で何もかも投げ出したくなる、今すぐ全てを打ち明けてその上で情報連結を解除されるのならそれは私にとってどれだけ救いになるだろう。 でもね……ダメなの。それじゃあ。「この空間ではわたしには勝てないわ」 あくまで強気に言い切る私に、長門さんはついに口を開いた。 人間には知覚できない領域で呟かれる言語。「SELECT シリアルコード FROM データベース WHERE コードデータ ORDER BY 攻性情報戦闘HAVING ターミネートモード。パーソナルネーム朝倉涼子を敵性と判定。当該対象の有機情報連結を解除する」 彼女が本気になった。それはつまり私を排除する決意ができたという事なのだろう。 それは私が望んだ展開だった。そう望んでいたはずなのに、彼女を失ったという現実はあまりに重い。「あなたの機能停止のほうが早いわ。そいつを守りながら、いつまで持つかしら。じゃあ、こんなのはどう?」 今までと変わらない槍の連打、彼女がそれを防ぐ合間に私は直接彼女に言葉を送った。『キョン君の事好きなんでしょ? わかってるって』 ……なんて酷い女なんだろう、私。 一瞬の油断、それはこの状況では致命的な物になる。 回避しきれなかった攻撃のいくつかが彼に襲いかかる中、長門さんは自らの身を盾にしてそれを防ぐ。 次の瞬間、1ダース程の槍に貫かれた長門さんの姿がそこにあった。「………」 無言で背を向ける彼女から、眼鏡が床へと落ちていく。その眼鏡も、傷口から流れる彼女の血によって赤く染まる。「長門!」 私の槍が、長門さんを貫いている――。「あなたは動かないでいい」 胸に刺さった槍を引き抜く動きも緩慢で、これ以上の戦闘行為はできないはず。 それでも彼女は彼だけは守るつもりなのだろう、自分の肉体を維持する事よりも彼の防御だけを考えている。 ――ここで躊躇うな、躊躇えば彼女は疑いを持ってしまう――。 震えを止められない自分を必死に抑え込み、あくまで余裕気な声で口を開く。「それだけダメージを受けたら他の情報に干渉する余裕はないでしょ? じゃ、とどめね」 ……これくらいは許されるだろうか? 償う事も出来ない罪を犯した私にも。「死になさい」 私は物質を変化させた槍などではなく自分の腕を光の帯に変化させ、動きを止めている長門さんへとまっすぐに伸ばした。彼女の小柄な体は私の腕に貫かれ、大きな風穴をあけて小さく揺れる。 最後に、彼女に触れている事。どうかこれだけは許して欲しい。「終わった」 ポツリと言って、長門さんは私の腕だった光を握った。だが、何も起こらない。「終わったって、何のこと?あなたの三年あまりの人生が?」 ……それとも、私との短い付き合いが……なんて、そんな事私に言う権利はないか。「ちがう」 終わり、ね。「情報連結解除、開始」 長門さんのその言葉に、私はようやくこの悲しい行為が終わる事を知った。「そんな……」 さあ最後まで演じ切ろう、私はもうすぐ消えてしまうのだから。 そして最後まで見ておこう、私が――な人の姿を。「あなたはとても優秀。だからこの空間にプログラムを割り込ませるのに今までかかった。でももう終わり」 どうやら疑われずに済んだみたい、でもまだよ。まだなの。「……侵入する前に崩壊因子を仕込んでおいたのね。どうりで、あなたが弱すぎると思った。あらかじめ攻性情報を使い果たしていたわけね……」 この言葉は嘘ではない。ただ、それを知らなかったのでもない。 その事を長門さんには知られてはいけない、私は彼女の策に敗れて負けた。それが規定事項なのだから。 光の粒になって消えていく自分を見ながら独り呟く。「あーあ、残念。しょせんわたしはバッグアップだったかあ。膠着状態をどうにかするいいチャンスだと思ったのにな」 自らの思いと自尊心が強い故に暴走し、こんな姿になってもまだそれを求める。 ――今の私は、長門さんにはきっとそう見えているはず。 残された時間は殆どない、か。ああ、彼にも何か伝えておかないと不自然よね?「わたしの負け。よかったね、延命出来て。でも気を付けてね。統合思念体は、この通り、一枚岩じゃない。相反する意識をいくつも持ってるの。ま、これは人間も同じだけど。いつかまた、わたしみたいな急進派が来るかもしれない。それとも、長門さんの操り主が意見を変えるかもしれない。それまで、涼宮さんとお幸せに」 最後の瞬間、私は長門さんの顔を見た。 そこにはマンションの部屋の中、私に向けてくれていた時と同じ僅かに温もりを帯びた顔があったような――なんて、私の思い込みよね。「じゃあね」 せめて微笑んでいよう、彼女が最後に見た私が笑顔であるように。
――さようなら長門さん。 結局伝えられなかったけど、彼の護衛をするって貴女との約束、ちゃんと守ったからね? あの時、急進派は一番目標の近くに居た私にキョン君を殺害するように命令した。私がその命令を拒否すれば他のインターフェースがそれを実行しただろう。 恐らく、私が取った様な回りくどい事はせずに一瞬で。 そうさせない為には、私は命令を受けた振りをして時間を稼ぐ必要があった。主流派に対してアプローチして、急進派の行動を押さえてもらう為に。 ……でも、私が思う以上に主流派はインターフェースに対して冷酷な考えを持っていた。 急進派の策略を利用し、長門さんと彼との間に信頼関係を築かせる為の布石になれ。 即座に返ってきた命令を前に私は笑いだしそうだった……そうか、私は本当に駒なんだなって。 それと同時に思ったの、私が駒でしかないように長門さんもまた駒でしかない。そんな彼女に私がしてあげられる事はなんだろう? 何ができるんだろう? そう考えたら……すぐに答えは出た。 主流派が望むような陰険な謀略ではなく、急進派が望むような傲慢な策略でもない。 私は、本当に彼を殺そうとして――長門さんに本当に消されればいい。 そうすれば主流派が望む以上に彼と長門さんの間には信頼関係……もしかしたらそれ以上の感情が生まれるかもしれない。それは主流派にとって有利な事、結果として長門さんはただの駒ではなくなる。そして急進派は、今回の事件によって大きく規模を縮小される事になるはずよね。主流派は常にその隙を狙っていたんだから。 長門さんの行動を事前に教えてくれていた主流派も、目標の殺害を確信していた急進派もびっくりしたでしょうね。ただの駒に過ぎない私が、主達の予想の上を行ったんだから。
……なんてね、建前はそんな所よ。 じゃあ本当の理由は何って? ――だめ、秘密は答えられないの。 答えられないから、秘密なんでしょ?
「山月記」 終わり
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