空と君とのあいだには/朝倉涼子の発現 第四話
『もしもし、涼子さん?』 「……」 『聞いていらっしゃいますか?」
さて、どうしたものか。 電話の向こうから、どこかしら鼻につくカンジの、若い男性の声が聞こえてくる。 りょーこさん? その呼び方をされたのは、初めてかもしれない。
「……聞いてます」
しばらく沈黙した後で、あまり長く沈黙しているのもおかしいだろうと 私はとりあえず、できるだけニュートラルな語調で声を返した。
『あ、そうですか。安心しました』
電話口の声は、依然として事務的な、落ち着いた口調で話している。 古泉一樹。 一体何者なのだろうか。 私が本名でナンバーを登録するくらいだから、同じ北高の生徒か、少なくとも同年代の人物なのだろうか?
『それでですね、えーと……もしかしてと思いますが、僕は約束を取り違えているのでしょうか?』 「へ?」
思わず、のどから奇妙な声が漏れる。
『もう小一時間ほど、お待ちしているのですが……もしかして、約束の日取りを間違えてしまったのでしょうか?』 「え、ええと、ちょっと、待ってもらっても」
私はあわてて鞄から手帳を取り出し、予定表の欄を開く。 十二月十八日。空白部分には、小さなペン文字で、こう記されている
<放課後・一樹くんとオノデーで約束 ※アレを貰う>
……しまった。まず一番最初に、スケジュール表を確認するべきだったのだ。
『もしもし、涼子さん?』 「あ、あの、はい、えーと」
私はあわてて、携帯電話を取り落としてしまいそうになる。 落ちつきなさい、涼子。違和感なく振舞うの。
「ご、ごめんなさい、一樹君。ちょっとクラス委員の仕事が長引いてしまって。電話もできなかったの」
手帳に『一樹くん』などと記してあったくらいなのだから、おそらく、私とこの『一樹くん』は、それなりに親密な友人か何かなのだろう。 となれば、年代も同年代。敬語を使うのもおかしな話だ。
すると、電話の向こうの声は、すこし驚いたように沈黙したあとで
『いえ、かまいません。そうでしたか、安心しました。僕が間違えていたわけではなかったのですね』
と、心なしか声のトーンを上げて返答してきた。
『どうでしょう、僕としては、今からでもかまいませんので。そちらの都合がよければ、お会いしませんか』 「え、ええ、そうね。ごめんなさい、待たせてしまって」 『かまいませんよ。今日はどうせ、何の予定もありませんでしたから。場所はいかがいたしますか? どこか、そちらから近い場所を指定していただければ、こちらから伺いますよ?」 「えーっと……大丈夫、約束どおり、待っていてくれれば、十分ほどで行くわ」 『そうですか。では、お待ちしております』
通話はそこで終わった。
さて。どうやらこれから、私はその『一樹くん』と対面することになるらしい。 よくわからないけど、放課後に会う約束をするって……もしかして、いわゆる、恋人か何かなのかしら。 私に、長門さん以外の恋愛の相手が? ないと思うけどな。 凄いのが来たらどうしよう。 ああ、めんどくさい。わけわかんない。 助けて、長門さん。
◆
北高に一番近い駅から、電車で二駅ほど西に向かい、あまり大きくない駅舎から出て、西口の街に下りる。ロータリーをまっすぐ横切ると、古い雑居ビルがあり、その地下に喫茶店『Oh Not Die』が有る。 うわさには聞いたこと有るものの、あまり学生たちが同性の仲間内で訪れるような店ではないし、この店を実際に訪れるのは、此れが初めてだった……少なくとも、私の記憶の限りでは。どちらかというとこの店は、社会人のカップルや、夫婦が昼下がりに訪れるような店なのだ。
……こんなところで待ち合わせるような間柄なのかしら、私と『一樹くん』は。
「いらっしゃいませ」
薄暗い店内に足を踏み入れると、カウンターの奥で、初老の男性がそう言った。店内に客の姿は少なく、全員で五人ほど。カウンターに二人ほど中年の男性が座っており、二人席で向かい合って会話をしている初老の夫婦一組で、四人。 そして、最後の一人……壁際の二人席の片方に腰を掛けた、若い男性が、いかにも上品そうな微笑を私に向けていた。おそらく、彼が一樹くんなのだろう。
「待たせて、ごめんね」
私が歩み寄ると、『一樹くん』は椅子から腰を上げ、向かいの椅子を引き、私に座るように促してくれた。
「いいえ、お気になさらず。お疲れ様です」 「ありがとう」
その奇妙なほどに上品な振る舞いを前に、私はいささか面を食らいながら、木製の椅子に腰を下ろし、鞄を壁際に置いた。
「お久しぶりですね。お変わりない様で、安心しましたよ」
『一樹くん』は、目に掛かるくらいの長さの前髪をさっと横に分けながら、私の機嫌を伺うように言った。 一見すると社会人のように見えたが、彼が詰襟の学生服に身を包んでいることから、やはり彼は私の読みどおり、私と同年代か、あるいは、年齢差があったとしても、一つか二つ程度なのだろうということが分かる。 ……それにしては、キミが悪いほど落ち着いているけど。
「……正直、名残惜しいのですが、あまり遅くまでつき合わせても悪いでしょう。本題に入ってもよろしいですか?」
本題。私は私の手帳に記されていた、短い記述を思い出す。
<放課後・一樹くんとオノデーで約束※アレを貰う>
アレを貰う。どうやら私は、彼とデートをするために、この喫茶店で落ち合う約束をしたわけではないようだ。
「ええ、お願い」
私が言うと、彼は微笑を崩さないまま、傍らの学生鞄の中から、何かを取り出した。
「え、これ……」
差し出された数十センチほどの長さの物体を前にした私は、きっと、今日の昼休みのキョン君のような表情を浮かべていたことだろう。
「……お分かりですか。すみません、実を言うと、ご注文の型番は手に入らなかったんですよ」
『一樹くん』は申し訳なさそうに眉を潜め、細長い指で、皮のケースを取り外し、『それ』を取り出した。
「これでもなかなか頑張ったのですよ。しかし、僕では力不足でした。申し訳ありません。代わりになるか分かりませんが……こちらをご用意いたしました」
代わりになるもならないも……まさに『これ』じゃないの。
私はざらついた柄を受け取りながら、見覚えの有る銀色の光沢に、頭の中を焼かれてしまいそうだった。 あの日、夕日の教室で、あの少年を前にした瞬間の記憶が、目の前に蘇る。 あのとき、私の右手が握り締めていたもの。
それは、あの時のものとまったく同じナイフだった。
「……すみません、本当に尽力したのですが、ご注文の通りのものは……」 「……い、いえ、いいのよ。ありがとう」 「本当ですか?」 「ええ。……何ていうか。とても、気に入ったわ」
私がそう言うと、『一樹くん』は、これまでの微笑とはすこし毛色の違う、安心したような微笑を浮かべ
「喜んでいただけて、とてもうれしいですよ」
と、心なしか浮ついた声色で言った。
「……では。僕はこれで、失礼いたします」
『一樹くん』はそういうと、手の中の革製の鞘をテーブルの上に置き、傍らの鞄を手に取った。
「え、あの……一樹くん?」 「…………いいんですよ。それは、僕からの気持ちですから、気になさらず受け取ってください」
そう言った後、『一樹くん』は、ほんのすこし。ためらうように口を閉ざした後
「涼子さん」 胃を決するように私の名前を呼び、すこしだけ真剣な表情で、私を見つめた。 そして、言った。
「あなたにそう呼んでいただけて……これで、迷いはなくなりました。どうか、お元気で」 「え?」
私が何かを問い掛けるよりも早く、『一樹くん』は私に背を向け、足早に去っていってしまった。 残されたのは、手の中のナイフと、テーブルの上の革のケース。
「……これって」
私は改めて、彼に手渡されたナイフを、よく観察してみる。 それはあの日、私が情報操作で作り出したナイフと、まったく同じものだった。……唯一つの点を除いて。
「あれ……これ」
ナイフの刃の根元。グリップに一番近い部分に、小さな彫り文字で、こう記されていた。
<fromI.K forR.A>
それの一方は私のイニシャルであるようだった。けれど……この場合、本来なら、彼のイニシャルが記されているべき部分に記されているそのイニシャルが、一体何を意味しているのか、私には最後まで分からなかった。
……さて、いくつか細かい不審な点は残っているものの。 とりあえず、私は、おそらくこの不審だらけの世界を解明する鍵となるであろうアイテムを手に入れたのだ。
自宅へと帰り着いた私は、羽毛布団の上に制服のまま寝っころがりながら、そのキーアイテムを眺め回していた。
刃渡りは20cmには満たない程度だろうか。適当に構築したものなので、細かく設定を決めてあったわけではない。それは以前手にしたときとなんら変わりなく、重くもなく、軽くもない、微妙な手ごたえと共に、私の手の中で、電灯の逆光を浴びて、浅黒く輝いていた。
私は考える。 どう考えても、このナイフがこの世界に存在しているのは、誰かの意図によるものだろう。
それは一体、誰?
……すこし考えれば、分かることだった。 このナイフを知っている人物は、ごくごく限られている。 あの日、あの教室を訪れた人物。
私ではないし、キョンでもない。 あと一人は――――
つづく
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