マスターの消失
とにかく誰かに話を聞いて欲しかった、キョンったらどうしてああなのかしら! ああもう思い出しただけでイライラする!アスファルトの熱が体温を上げる。一刻も早くどこか涼しい場所へ入りたかった。
カランコロン。
いつも通りの音があたしを招き入れる。でも、迎え入れた声はいつもと違っていた。
「あら、いらっしゃい」「あれ? マスターは?」「ああ。コロンビアだったかチリだったか、二週間くらい放浪してくるってさ」
◇ ◇ マスターの消失 ◇ ◇
カウンターの上には、【現地で美味しい豆を仕入れてきます、しばらくしたら帰りますのでお待ちください】と、毛筆の書置きが貼り付けてあった。決して達筆というわけではないけれど、これはこれで味があるような気がした。正座で、墨汁を使ってコレを書いてるマスターを想像したらなんだか無性におかしくなって笑ってしまった。きっとこの紙でコーヒーを淹れたらマスターの味がするんだろうなと思った。
相変わらずの良い選曲、八十年代のJAZZ。これ以上ないくらい店内に染み渡るメロディー。重厚な木目のカウンターテーブル。いくつも並べられたグラスは細部まで磨き上げられていて、まるで鏡みたい。そこでいまグラスを拭いているのはマスターじゃなくて、奥さん。有希は今日、休みらしい。奥さんの話では、てっきり店は閉めておくものと思って、マスターが「夏休みを楽しんでくださいね」とか何とか言ったらしい。そういえば、有希ってここで働いてるのよね。変なの、いままで何回もウエイトレス姿の有希を見てるのに。改めて考えると、なんだか部室で本を読んでいる有希からは想像もできない。それでも、以前は見せなかった様な表情も増えたし、ほんの少しだけど物事に積極的になった気がする。有希は、確実に成長しているのだろう。ならば、自分はどうだ? あたしは、どうだろうか?今日だって──。「はいよ、お待ちどーさん」思考は、奥さんのソプラノによって一時停止された。
「なんでまたマスターは海外なの?」当然の疑問が口から出る。詳しい事はわからないけれど、仕入れならどこぞの業者に頼めば良さそうなものなのに。「あの人なりのコダワリってヤツだねえ、自分で納得した豆じゃないとダメだそうだよ」はにかむ笑顔がとっても眩しかった。きっといま奥さんの瞼の中では、マスターがとっておきの豆を見つけて子供みたいにウキウキしている姿が映っているんだろう。奥さんが淹れたコーヒーが口の中で柔らかく広がる。うっとりするくらい美味しい。マスターのコーヒーを太陽と表すのなら、奥さんのコーヒーは月。甘い甘いお月様。太陽の光を浴びて幸せそうに夜空に浮かんでいる。「奥さんは行かないの?」「どうしてもヨガ教室の休みが取れなくてねえ……。仕方ないからついでにこうして店開けてるってワケだよ」「あ、インストラクターやってるんだっけ?」「そうそう。ハルヒちゃんも今度来てみなよ、特別割引料金でいいからさ」「ほんと? じゃあSOS団の皆で行くわ!」「もちろんみんな大歓迎さ。はは、それにしてもほんと仲良しだねえ」「当たり前じゃない! あたしが団長なんだからね」聞けばマスターは五年周期くらいでフラリと海外へ旅立つそうだ。とことん自分の納得したモノだけで勝負する。あたしは、どうしてこの店に自分が通い続けているのかわかったような気がした。
「ねえ、奥さん。どう思う? キョンったらね、──」
いつの間にか話題はキョンへの愚痴になっていた。誰かに聞いて欲しくて、足は不思議とここに向かって。あたしは、また。どうしてこの店に自分が通い続けているのかわかった気がした。
奥さんは、ちゃんとあたしの話を聞いてくれた。時折とっておきのアドバイスをしてくれる。なんだかんだ男ってのはチョロい生き物だ、とか。財布の紐を握ったほうが勝つ、とか。他にも思わず顔を赤らめてしまうくらいなものも。
「──あはは。そうかいそうかい。いやいや、若いってのはいいねえ」
「何言ってんのよ、奥さんだってまだまだ若いじゃない」「はは、ハルヒちゃんにそう言われるとなんだかそんな気がしてきたよ」「そうそう。まだまだ元気で居てもらわないと」「優しいねえ、ハルヒちゃんは」「ちょっと、何も泣かなくてもいいじゃない」
「で、さっきの話だけど。……奥さんはどう思う?」「その、キョンくんの話かい?」首を縦に振った。そうなのだ、全てキョンが悪いのだ。何もあんな事を言わなくたっていいと思う。だから、あたしが怒ったのは、やっぱり当然なんだと思う、女として。「う~ん、どうだろうね。思春期の男の子って色々とアンバランスだからねえ、ムズカシイ年頃さねえ」「でも、だからってアレは無いと思うわ」「そうさねえ、私もアレはさすがに無いと思うけどね」「ったく……どうしてああなのかしら」「どうしてだろうねえ」奥さんは苦笑して困惑の表情を浮かべている。
「奥さんはどうだったの?」「ん? 私かい?」「そうそう、今でもこんなにお似合いの夫婦だもの、当時からマスターとはラブラブだったんじゃないの?」「んな事ないよ。あの人とはまともなデートなんか一度もした事無かったね」え? そうなの?意外だった。きっと奥さんとマスターは大恋愛の末に幸せに周囲から祝福されて結婚したと思っていたから。「それにねえ、一度逃げちゃったのさ、私はね。あの人から」「ど、どうして?」奥さんはどこか遠い目をしている。触れてはいけない気がしたけれども、どうして? と聞いてしまった手前、もう後には引けない。「今考えるとどうしようもないくらいにくだらない理由さね。そうだね、言うならばあの人を好きになっていく自分が恐かった、かな」「好きになるのが、恐い?」「そうさねえ。ほら、あの人。真っ直ぐで純粋で、それでいてちゃーんと周りも見えてさり気無い気配りもできて。すごく大人な人だったのよ、昔からね」「やっぱり、昔からマスターはマスターって事ね」「うん、笑っちゃうくらい何も変わってなくてね。増えたのは白髪と髭くらいなモンだよ。でも、妙に頑固なトコロが玉に瑕だけどね」「聞かれたら怒られちゃうわよ」二人して声を上げて笑った。あたしは、どこか奥さんと似ているところがあると思う。不思議な感覚。
「はは、良いって良いって。でね、ハルヒちゃん。こっから本題ね」「うん」ソプラノは、いつの間にかアルトになっていた。
「当時の私は、そりゃもう荒れててね。今考えるとホントどうしようもないくらいに周りに心配かけて生きてきたと思うよ。親にも、学校の先生からも迷惑がられてね」
「でもあの人だけは違った、ちゃんと私と向き合ってくれた。気がつくとちゃんと隣に居てくれたのさ。ほら、でもさ。私はこんな性格だからなかなか素直になれなくてさ。ついつい邪険に扱ったりするんだけどさ、それでもちゃんといつも傍に居てくれたんだよね」
「いつか、なんてのは覚えてないけどさ。気がつくと好きになっちゃってね。一度好きになっちゃったらもう止められなくてね、毎日の様にちょっかいかけに行ったさ。ブレーキなんてのは最初っから無かったのさ」
ところどころ記憶が曖昧なところがあるけれども。たぶん、こんな感じだったと思う。奥さんは記憶の中のアルバムを一枚一枚めくるように丁寧に話してくれた。あの時のあの人はね~、とか。ピンチになったら絶対に助けてくれた、とか。奥さんの中では、マスターはきっと、ヒーローだったんだと思う。だけど。
「でもね、こっちが好きになりすぎて。ひょっとしたらそれがあの人の負担になってるんじゃないかって思っちまったのさ。それがとても恐かった。失うのが恐かったから私は先にあの人から逃げたの、最低よね。
どこか遠い町へ行って、適当に男でも引っ掛けて暮らそうと思ってさ。仕事もついでに見つければいいやと思った。でもね、思ってたほど世の中ってのは簡単にいかなくてね」 「でも、奥さんはココに戻ってきたんでしょう?」「はは、結局はそうなんだけどね。ココに戻ってきた時あの人何て言ったと思う?」「さあ……、想像もつかないわ」「『おかえりなさい』だったよ。よりにもよってこんな私をずっとバカ正直に待ってたときたもんだ、ったくとんだお人良しさね。まぁ……、そんなトコロも含めて好きなんだけどね」
「ねぇハルヒちゃん。その、キョンくんだっけ? 彼ね、とてもあの人に似ているの。だから私、ハルヒちゃんの事がどうしても他人事とは思えなくてね。あはは、こんな話しちまうくらいに心配しちまってるのさ」 「だからね、私から言えるのはこれだけ。『素直になること』いいかい? 気持ちは伝えようとしなきゃ伝わらないんだよ。わかるかい? 恥ずかしい事だけど大切な事さ、後悔先に立たずだよ。それが格好悪いなんて思ってるうちはその気持ちは本物じゃないんだよ、きっとね」「……、うん」
私はこんな簡単な事に気がつくのに随分時間がかかったけどね。ケロリと奥さんは笑う。純粋に、心から凄いと思った。この笑顔の裏には、ちゃんと生きてきた時間が積み重なっているんだと。実感した。
「ねえ、奥さん」「何だい?」「ありがとう」「いいって事さ」「あたし、頑張ってみる」「その意気だね、女は度胸ってね。ちゃーんとお互いが納得できればいいね」
店を出るときの奥さんの笑顔は、たぶんずっと忘れる事はないだろう。外は綺麗な夕焼け空だった。だから、これくらいは言っても許されると思う。
「────っ!」
おわり。
「それにしても、ほんとにマスターと奥さんって鴛鴦夫婦だと思うわ」「何でだい?」「だって、ずっと前にマスターにも同じような事言われたもん」「あはは。長い間一緒に暮らしてると不思議と似てくるモンなんだよ」
◇ ◇ ◇ ◇
「へっくし! おかしいですね……、風邪でも引きましたか?」
「へっくし! おかしいな……、風邪か?」
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