缶コーヒー
一つのお屋敷があった。純和風で、大きな門がある。しかし、今は闇に殆ど隠れていた。背景には星が鮮やかに浮かぶ。 すぐ脇に止まった車には一人の少年がいた。整った柔和な顔に笑みが浮かんでいる。退屈そうに欠伸をして、いつまでも開かない門を見やる。 ぎーっと音を立てて閂が空いたのは、少年がさらに二つの欠伸をしてからだった。中から背筋をしゃんと伸した妙齢の女性が出てきた。その顔は薄い影と焦躁をたたえていた。 「古泉。開けて下さい」 古泉と呼ばれた少年は車のドアを開けてから、「森さん。どうなされたんですか?」 森さんと呼んだ女性を気遣った。「なんでもありません。行きますよ」 森は運転席に乗り込むと車を走らせた。 しばらく山道を行くと、人気のない道路にぽつんと立った自動販売機の脇に車が停る。 古泉が何も言わずに車から降りて、二つの缶コーヒーを買って戻ってきた。一つは砂糖とミルクが沢山入っていて、もう一つはブラックだった。 どちらもあまり美味しくないと評判でミルクと砂糖の方は甘すぎて、ブラックの方は苦すぎた。二つを飲んだことがある人は、混ぜれば美味しいと思うだろう。 ミルクと砂糖入りの方を森に渡す。「ありがとう。いつも」 森の言うようにこれは習慣だった。そして、次の行動もだいたい決っていた。「……ひっ……うっ……ぐっ」 森は声を殺して泣き始めた。それでも溢れた嗚咽が車内に響く。 その頬を伝う涙を古泉はハンカチで拭いた。 「また、何か言われたんですか?」「……鶴屋(父)さんに……叱咤激励されました」 それは言葉の綾でしかなく、実際はこっぴどく怒鳴られただけだと知っていたので、古泉は何も言わず森の肩を抱いた。「……すみません……すみません」 森は古泉にしなだれかかって嗚咽と謝罪を続けた。 九時を示す放送がどこかから流れてから、ようやく森は顔を上げた。その目は兎のように赤く、蜜を垂らしたように潤んでいた。「いつもの……してくれますか?」 古泉は薄い笑みを浮かべて、いつものように森を強く抱きしめそっと唇を合わせた。 嗚咽が止んで、静寂が流れると車内には外で鳴くカエルの声まで聞こえた。 重なった唇が離れると、森はいつものきりっとした表情に戻した。ただ、目の赤みと潤みはどうしようもなく残っていた。 「今度こそはと思っていたんですが」「次に期待しましょう」 おどけた二人はそう言ってから車に乗り込んで走り去っていった。 その後には、寄り添うように置かれた缶コーヒーが二つ。一つは砂糖とミルクが沢山入っていて、もう一つはブラックだった。 どちらもあまり美味しくないと評判でミルクと砂糖の方は甘すぎて、ブラックの方は苦すぎた。二つを飲んだことがある人は、混ぜれば美味しいと思うだろう。 おわり
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