長門有希の夏色
『長門有希の密度』を踏まえています。
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『長門有希の夏色』
「キョンくーん、早くー、行くよー」
わかった、わかった、ちょっと待てって。
玄関先で叫ぶ妹に向かってなだめるように答えながら、俺は急いでサンダルを履いていた。
なぜか、今日は妹と一緒に市民プールへ行くことになった。もともとは妹とミヨキチが二人でいくつもりだったらしいが、ミヨキチが夏風邪かなんか知らないが、少しばかり発熱してキャンセルになったそうだ。そのため、どうしてもプールに行きたい妹のお相手として俺に白羽の矢が立てられたわけだ。
ふん、うちの親も勝手なことをしやがる。せっかくSOS団活動がお休みで、ゆっくりと寝ていられると喜んでいたのに、妹の面倒を見ろとはね。この時期の市民プールには子供しかいない。朝比奈さん(小)や(大)レベルの女性がいれば目の保養になって、妹の相手といういささか退屈でしんどい作業に対するモチベーションも上がるんだが、まず望み薄だ。
まぁ、いいさ。妹の相手はほどほどに済ませてしまって、プールサイドの日陰のチェアで、長門に借りているロボット物の古典SFの文庫本でも読んでのんびり過ごさせてもらおう。
案の定、市民プールは、子供とその付き添いの親、それに健康づくりに励むお年寄りの姿が目立つばかりで、高校生や大学生クラスの若者は誰もいない。たぶん、もっと遠くにある、流れるスライダーなどの施設の整った遊園地のプールか海にでも行っているんだろう。
妹は更衣室で学校の友達と出会った様で、シャワー室から出てくると、「遊んでくるー」といって二・三人で連れ立って行ってしまった。なんだよ、これなら俺が来る必要なかったな。いきなり、やれやれだよ。
昼にはまだ時間があるためか、プールはまだそれほど混んでいなかった。とりあえず俺は、午後も日陰になりそうなプールサイドの椅子を見つけ出すと、その場所をキープするために、文庫本とバスタオルを手に近づいていった。
近くまで来て気づいたのだが、俺が狙っていた椅子の隣のビーチパラソルの影の椅子には、こんな市民プールには似つかわない硬い表紙の分厚い本に目を落としている、落ち着いた雰囲気を漂わせた水着姿の女性がいた。
それにしてもこんなところでハードカバーを読むなんて、世の中には長門みたいな女性もいるもんだ、珍しいね。
などと考えながら、空き椅子にタオルを置いて、ふと隣のショートカットの女性を見ると、本当に長門だった。
「な、長門ぉ? 何してんだぁ?」
驚いて思わずのけぞってしまった俺が声をかけると、長門も驚いたように一瞬体をびくっとさせた後、ゆっくりと俺の方に振り向くと、
「……読書」
と一言だけ答えて、大きな瞳をさらに大きくして俺のことを見つめていた。
読書中であることは一目瞭然だ。俺が言いたいのは、なぜ長門がこの市民プールのプールサイドにいるのか、ということだ。読書するなら図書館でもできるだろう。
「図書館は今日は休み。それでここに来た」
それでも腑に落ちないな。マンションの部屋でも十分読書はできる。あのリビングの部屋にはエアコンはあったはずだ、プールサイドより快適に読書に励むことができると思うが……。
ひょっとして、誰かと一緒なのか?
「わたし一人で来た」
なんとなくほっとした。万が一でもあの長門が男と一緒なら天変地異の前触れなんだが、杞憂でよかった。しかし、高校生の女子がたった一人で市民プールに来ているのもどうかと思うぜ。いずれにせよ、普段どおりの穏やかな一日なりそうだ、よかった。
丸いテーブルを挟んで長門の隣に座った俺は、あらためて長門の様子を確かめてみた。ビーチチェアに腰掛けて再びハードカバーを読み始めた長門は、水色ベースのシンプルなワンピースの水着で腰の辺りにはきれいな青いグラデーションのパレオを巻いていた。さすがにスクール水着ではなかったが、恐らくマンションからこのプールまではいつもの制服で来たに違いない。
うん、なかなかいい感じのかわいい水着だ。しかし、そんな長門の姿を見ていると、なんとなく俺の胸の中にモヤモヤした違和感がわいてくる。この妙な感覚はいったいなんだろうと考えていると、俺の視線に気づいたのか、振り向いた長門が静かに言った。
「胸を構成する有機情報因子を増量した。どう?」
ぐはぁ、そういうことだったか。この違和感はそれだったのか。
あまりじろじろ見るわけには行かないが、でもしっかりと目に焼き付けているわけだが、確かに大きくふくらんだ水着の胸元に、はっきりと谷間まで見える。さすがに朝比奈さんやハルヒほどのことは無いが、そうだな、いち、いや二カップ増量といったところか。AAならB、AならCだ。そもそも全体的にスレンダーな身体つきだから胸の大きさが際立って見える。
「ど、どう、と言われてもだなぁ……」
俺は返答しようとして言葉に詰まってしまった。
「あなたが胸を大きくした方がよいと言ったので、情報統合思念体に有機情報因子の増量を要請し許可された」
「う、うん、それはすまなかったな、俺のために……」
とはいったものの、俺は明示的に胸を大きくしろ、と言った覚えは無いんだが……。
少し困惑する俺に向かって、長門はわずかに首をかしげた。
「いい、気にしないで……。それより、確かめてみる?」
「何を?」
「感触」
「へ?」
「先日は二の腕で簡易的な対応を実施し状態を確認してもらったが、今回、有機情報因子を増量することで本質的な対応を行った。おそらく以前の二の腕とは触った感じも異なるはず」
そうだった、あの時調子に乗って長門の二の腕をぷにぷにしていたら、ハルヒに見つかってエライ目にあったんだ。その後ハルヒをなだめるのにすごい苦労と散財したことを思い出した。
「どう?」
「待て、待て! それは胸を触ってもいい、ということか?」
「そう」
うーん、この有機アンドロイドは、自分で言っている意味がわかっているのかね。そりゃ俺だって触れるものなら触りたいさ。でも、市民プールのプールサイドでそのような行為に及ぶことはできない。ここは痴性より理性を総動員しなければならない。
「いや、あのなぁ……」
俺がどうやって長門に説教しようか考えていると、プールから上がった妹が走ってきた。
「わー、有希ちゃんだー、こんにちはー」
ちらっと振り向いた長門は、いつものように三ミリほど頭を下げて妹に挨拶をした。
俺たちが座っているテーブルのところにやってきた妹は、長門の前に立つと少し体をかがめて長門の胸元を覗き込んだ。
「あれぇ、有希ちゃん、胸おっきいぃー」
そう言うと、妹は長門の大きくなった胸を小さな手でつかんで楽しそうにぷにぷにし始めた。
「みくるちゃんみたーい。いいなぁ、わたしもこんなに大きくなりたいなぁ」
こ、こらー、妹よ、なんという、うらやましいことを、いや、失礼なことを……。それになんだ、「みくるちゃんみたい」ということは朝比奈さんの胸もぷにぷにしたことがあるというのか? ちくしょーめ!
妹に胸をぷにぷにされながら、長門は漆黒の瞳を少し潤ませた無表情で俺のことをじっと見つめていた。そ、そんな目で見ないでくれよ……。
無事にぷにぷにが終わった妹は、タオルですこし顔を拭きながら、
「ふーん、キョンくん、有希ちゃんとデートだったんだぁ」
「いや、これは偶然……」
「じゃあ、また遊んでくるねー、バイバイ、有希ちゃん」
それだけ言うと妹はあっという間にプールに戻っていった。こら、人の話はちゃんと聞きなさいって……。
俺は、妹の後姿から隣の長門に視線を移しながら、少し恐縮していた。
「すまんな、長門」
「構わない」
なんとなく長門の横顔がくすっという感じで微笑んでいたように見えたのは気のせいかもしれない。
その後はお互いに読書タイムとなったが、一時間に一回の休憩タイムがやって来た。やがてラジオ体操が終わったので、俺は、椅子から立ち上がると、うーん、と背伸びをしながら長門に話しかけた。
「ちょっと、ひと泳ぎしてくる」
「では、わたしも」
長門も椅子から立ち上がり、腰に巻いていた青いパレオをはずした。ほっそりとした白い素足が俺の目に飛び込んできて、うーん、ま、まぶしいじゃないか……。
俺が逃げるようにプールに近づくと、長門も俺のあとを追って、ととと、と水際にやってきた。
「泳げた、よな?」
「当然」
聞くまでも無いな。なんていったって情報統合思念体が誇る万能有機アンドロイドだ、水泳だって完璧にこなすに決まっている。
ザッバーン!
『飛び込み禁止』の看板を無視して完璧なフォームで飛び込んだ長門は、世界記録を上回るような勢いで、人混みをかき分けてクロールで泳いで行ってしまった。
なんて奴だよ、まったく。
俺は、ちょっと冷たく感じられる水を胸にばしゃばしゃとかけて、足からそろりとプールに入ると、長門の後を平泳ぎで追いかけた。
しばらく泳いだり、妹やその友達と一緒に水中鬼ごっこなどで遊んでいるうちに、昼飯の時間になった。こんなプールなのでたいした食べものは売っていないは仕方がない。ということで妹と長門は具の少ないカレーだ。俺はカップラーメンを買った。運動した後は、ぬるいお湯で作られたカップラーメンでさえおいしく感じるね。
「有希ちゃんもカレー好きなんだ」
「好き」
「給食のカレーシチューとか、とってもおいしいんだよ」
懐かしい、カレーシチューは今でも給食の人気メニューなのか。そういえば長門は学校の昼飯には何を食っているんだろう。弁当を食っているところも、食堂で食っているところも見たことが無いな。昼休みも部室で本を読んでいるだけなのか?
午後のひと時はお昼寝タイムだ。このために、午後にこそしっかり日陰になる場所を選んでいたんだから。俺は、ビーチチェアを少し倒すとその上で仰向けになった。テーブルの向こう側の長門は、相変わらず分厚い本を読んでいるようだ。眠たくならないのかね、なんて考えているうちにあっという間に俺は眠りに落ちた。
寝ていたのは三十分ほどだろうか。また、ラジオ体操の放送で目が覚めた。隣の長門はというと、ハードカバーをお腹の上に乗せて、やっぱりお昼寝モードに入っていた。
それにしても、仰向けに寝ていても胸のふくらみがはっきりわかるぐらいだから、情報統合思念体も思い切って増量したらしいな。
ぼんやりと長門の寝顔を見ていたが、休憩タイムが終わって子供たちが歓声を上げてプールに飛び込み始めたので、長門も目を覚ましたようだ。両手を上げてクーッと背筋を伸ばしていたが、俺の視線に気づいたのか、慌てた様に上げていた手を下ろしてこっちに振り向いた。そして少し恥ずかしげに首を傾けてつぶやいた。
「気持ちよかった」
「うん、そうだな」
俺は、長門のなんとなく人間らしい仕草を見ることができて、少しばかりハッピーな気分に浸ることができた気がした。
その後も少し泳いだりしながら過ごしたが、三時の休憩タイムをきっかけに俺たち兄妹は帰ることにした。長門も「わたしも帰る」と言って一緒にプールサイドを後にした。
先に着替え終えた俺がプールのエントランスホールで待っていると、妹に手を引かれて長門がやってきた。近づいてくる長門の姿を見て、俺はまたしてものけぞってしまった。
なんと定番の制服ではなく、白のタンクトップにデニムのミニスカート、少しヒールのあるミュールという夏真っ盛りという感じの長門にしては大胆な格好だった。増量中の胸がいやでも眼について離れない。どうにかしてくれ。
「せ、制服じゃないんだな」
長門は、体の前にした両手でバッグを持ち、何かを待つようにじっと俺の事を見上げている。うん、いくら鈍感と言われる俺だって、次にどうすればいいのかはわかるさ。
「かわいいな、そのカッコ……」
普通の女の子なら、ここでにっこりと微笑んでくれるんだろうが、さすがに長門はそんなことはしないし、されると俺が困る。その代わり、いつものようにミリ単位で首をかしげてくれた。そう、それで十分だ。
市民プールの建物の外は、まだまだ暑い昼下がりだったので、俺たち三人は、プールの近くの喫茶店に入ってカキ氷を食べた。プールの後はやっぱりカキ氷だよな。
キーンとなる痛みを頭に感じながらカキ氷を食べていて気づいたんだが、俺や妹は少しばかり日焼けして腕が赤くなっていたが、長門は真っ白のままだった。うーん、さすがだな、有機アンドロイドは……。
「有希ちゃんねー、お肌真っ白なんだー」
妹はいちごのシロップで口の中を真っ赤にしていた。
「それにね、やっぱり、すごく胸、大きかったよー」
うぐぐぐ、そんなことを急に言うな、むせてしまうではないか。
「プールの更衣室でね、触っていいよって、また触らしてくれたのー」
長門―、お前、そんなに胸が大きくなったのがうれしいのか?
目の前で、黙々とメロン味のカキ氷を口に運んでいる長門を見つめてみたが、まったくの無表情だった。こいつは、あのスピードでカキ氷を食っても、頭は痛くならないんだな。
い、いかん、俺の方がますます頭が痛くなってきた……。この痛みはカキ氷の冷たさのせいだけではないな、たぶん…………。
その夜のことだ。
そろそろ寝ようかと思っていると、携帯がうなりを上げた。見てみると珍しく長門からのメールだ。題名もなく、いかにも長門らしい簡潔なメールだった。
『今日はありがとう。
また、市民プールに……』
な、長門…………。
そうだな、せっかくだから「市民プール」なんてけちなことは言わずに、海にでも行くか。
長門の簡単明瞭な文面を見ながら、どう返信しようかと考えているうちに、胸の増量と共に少しばかり大胆かつ積極的になった夏色に輝く有機アンドロイドの笑顔が、携帯の液晶画面の中に浮んで見えた。
Fin.
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