who I hug?
日も暮れたころ、気化熱により俺の体温を下げてくれるはいいが、べたべたと気分的によろしくない汗をぬるいシャワーで流していたとき、季節外れの猫マフラーをした妹が子機を片手にやってきた。 「キョン君電話ー」受け取ると、シャミセンは妹の肩から飛び降りて走りさっていった。妹も喜々とした様子でそれを追う。静かになった浴室で、俺は子機のハンドフリーボタンを押した。『やあ、キョン。妹さんもお元気そうだ』なんだ、佐々木か。『なんだとはとんだご挨拶だ』佐々木はそう言ってくつくつと喉を鳴らした。『それはさておき、キョン。明日の予定はあるかい?』予定は未定だが、また非常識な奴らと会わせる気か?『いや、彼らは来ないよ。僕たちだけで会いたいと考えてる』俺は髪を拭く手を止めた。どういうことだ?『簡単なことさ。僕の手には映画のチケットが二枚存在してね。僕のつれない友人たちを誘ったんだが断られてしまった。チケットを紙切れにするのもいささかもったいないような気がしてね。そんな時、君を思い出した』 まあ、明日の予定はないし、非常識な奴らと会うこともないなら俺はいい。『そう言ってくれるとありがたい。では、明日の十時に駅前にどうだい?』分かった。十時だな。『妹さんにもよろしく言っておいてくれ。じゃあ』佐々木はそう言って電話を切った。妹から子機と引き換えにシャミセンを受け取った俺は、自室へと戻った。シャミセンはふんと鼻を鳴らして、当たり前のようにベッドを占領する。それを横にどかして俺も眠りについた。翌朝、母の命令を受けた妹から布団とシャミセンをはぎ取られた俺はもそもそと身仕度を整えて、家を出た。しばらくペダルを漕ぐと、後ろから声がかかった。「キョン、おはよう」声の主は簡素な服に身を包んだ佐々木だった。「おはよう。早いな」一番最後に来た奴は奢らねばならんというSOS団の規則を回避するため虚しい努力を続けていた習慣から早めに出てしまい、時間的にはまだまだ余裕がある。「君もだよ。まあ、いいじゃないか」そう言った佐々木は月極の、俺は有料の駐輪場へと自転車を止めて再びおち会った。「これから映画館へ行ったとして、僕たちは立ったまま三十分近い時間を過ごさなくてはならない。そんな無益な時間を過ごすにしてもお茶でも飲みながら過ごした方がまだ、心理的にも疲労が少ないだろう」 何だか照れを隠すような口調の佐々木に促されるまま、いつもの喫茶店へと入った。「何を見る気なんだ?」俺はアイスコーヒーを啜りながらそう切り出した。これなんだが、と佐々木が取り出したチケットには洋画かなにかのタイトルが書いてあった。「前評判も聞かないし推測の域を出ないのだが、タイトルから察するにアクションを売りとする部類ではないように思える」たしかにこんな長ったらしい、アクション映画はないな。名詞かそれに二三の動詞を加えたくらいだ。「同意見で助かる」佐々木はそう言って独特の形に唇をくつろがせ、喉の奥で笑った。しかし、佐々木から誘ってくるなんて意外だったぜ。「僕の親友と呼べる交友関係の輪はあまり広くないからね」佐々木は一旦、アップルティーに口をつけて、「君の予定が空いていて助かったよ。てっきり、この間会った時みたいに涼宮さんたちとの予定が入っているんじゃないかと駄目もとでかけてみたんだが」それなら昨日あった。ちょうどここら一帯をうろついてたな。「ほう。なにをやったんだい?」なにをやったのかは分からんが、ハルヒ曰く不思議探しらしい。 「なかなか面白い人だね、涼宮さんは。一度ゆっくり話でもしたいな」佐々木とは言え、あいつの言動を理解できるとは思えないが。「ますます面白そうだ。理解できない事象ほど考えるに有益な対象はないからね」そうかい、と俺はアイスコーヒーを飲み干した。時計を見やると時間的にも頃合をさしている。「うん。そろそろ行くにはちょうどいい時間だね」会計をそれぞれ済ませた俺たちは映画館へと向った。映画館まではそこから歩いて五分ほどの距離にある。改札でチケットを千切られ、中へ入った。開始間際だというのに客入りはまばらもいい所だ。俺たちはとりあえず、薄暗い館内のど真ん中に陣取った。「貸し切りみたいだね。これじゃこの映画館は大損だ」押し合いへし合いをしながらみるよりいいだろう。「ああ。それでなくとも僕は一週間の内五日は満員電車に揺られているからね。人込みはもうたくさんだ」びーという音とともに照明が落ちて館内は真っ暗になった。 画面一杯に草原が映り、それがパンして長々としたタイトルが英語で写し出される。場面は家の中でたたずむ二人の男と女へと切り替わった。そいつらが英語でぺちゃくちゃで喋るのに合わせて字幕が流れる。なんと驚いたことにそいつらは延々と喋り続けるだけで、映像は大した変化も見せずに続いていった。哲学的に退屈なことを喋る三人の男女によって、俺は念仏を聞かされた馬のような心境になった。次第に、俺はこの映画より二倍は楽しいであろう夢の世界へと旅立っていった。 「キョン。起きてくれ」肩を揺すられて俺は空を自由に飛ぶことも、気合いだけで大岩を浮かすこともできる世界から呼び戻された。「いや、君があまりにも気持ち良さそうに寝ているのでね。起こすのも悪い気がしたんだが、このままここを不法占拠するわけにもいけないだろう」先ほどよりいくらか明るくなった館内で佐々木がくつくつと笑った。俺はすまん、と謝罪して立ち上がる。「さて、もう昼時だ。キョン、君がいいなら昼食にしたい」そうだな。俺も腹が減った。俺たちは近くのファミレスで昼食をとることにした。注文した品を待っていると、「あの映画、そんなにつまらなかったかい?」誘ってもらっておいてアレだが、肯定するしかないな。というか内容すらろくに覚えていない。「あれはね、監督が自らを三人の男女に置き換えて、なぜ人は人を好きになるのかってことを論理的に説明していたのさ」ほう。俺にはあいつらが口論しているようにしか見えなかったが。「暗喩を用いて表現していたからね。気付かないのも無理はないさ」そうだったのか。だったら、もっと昼時の主婦がまったりと見るには似合わないドラマみたいに簡潔にすりゃいいのにな。「映画監督や小説家は得てして捻くれているものだからね。いや、捻くれているからこそ映画監督や小説家なのかも知れない」そこにやってきた店員が運んんだスパゲティを受け取る。お前は楽しめたのか?「僕は恋愛感情なんて一種の精神的疾患だと思ってるんだが、こういう考え方もあるんだって理解できるくらいにはいい映画だったよ」俺はふーんとうなづきながら、スパゲティを口に運んだ。佐々木も口に物を含みながら喋るという悪癖はないようで、二人して黙々と皿を空にした。「キョン。これからどうするんだい?」とくに予定はないな。「だったら、もう少し僕に付き合ってくれないか」俺はすぐに賛同した。帰ったとしても、床に落ちたシャミセンの大量の抜け毛をコロコロで掃除するくらいしかやることがない。どこか嬉しそうに商店街を歩く佐々木を、道行く人の半分が振り返っていくのは愉快だった。つい頬が緩むのも仕方のないことだろう。しばらく歩いて佐々木は本屋の前で立ち止まった。「ついでに参考書を買いたいんだ。君も適当に見ていてくれ」後を追うように入店しようとした俺の肩を誰かが叩いた。「少しお話があります」珍しく渋い顔をした古泉が真後ろに立っていた。そのまま肩を引かれて路上裏へと引きづり込まれる。いつからお前はかつあげのバイトまで始めたんだ?「残念ながら、別件のアルバイトでして」まさか俺を尾行していたのか?「あなたではなくあなたのデートのお相手の方を、ですが」デートではないんだかな。「そんなことを今は問題としていません。問題はあなたが美しい女性を連立って歩いていることです。そして、最悪なことにその光景を涼宮さんが見てしまわれました」 ハルヒと聞いて俺は辺りを見渡した。「今はもう帰ってますよ」古泉はそう言って深々と溜め息をつくと、「“機関”の者が佐々木さんとあなたのデートを尾行している時に、僕へと連絡が入りました。涼宮さんもここに来ていて、このままでは出合ってしまうとね」 そんなことやってたのか、と俺は古泉に詰め寄った。「落ち着いて下さい。そこで僕はなんとか接触を防ごうとしたんですが涼宮さんはあなたたちを見つけてしまいました。現在、涼宮さんが創り出した閉鎖空間は急速に拡大しています」 ならさっさとあの青カビを始末してくればいいだろ。「前にも言ったように、あれは対処療法であって原因療法ではありません。それにこのままでは焼け石に水にしかならないんですよ。ですから、お願いです。涼宮さんの機嫌を治して下さい」 なんで俺がそんなことをしなきゃならんのだ。それにハルヒが機嫌を悪くする理由がないだろう。信じられないといった具合に古泉が驚いたとき、携帯電話が鳴った。手短に用件を聞いて電話を切った古泉は、「あっちの手が足りないようなので、僕もこれから向います。涼宮さんのことはくれぐれもお願いします」とだけ言い残して走りさっていった。俺にどうしろって言うんだ。三角比の問題を押しつけられた小学生のような顔で俺が本屋へと入ると、佐々木は参考書コーナーで睨めっこをしていた。 佐々木は俺に気付くと、「遅かったね。買いたい本でもあったのかい?」いや、友人と会ってな。今帰ってったよ。「そうか。買い物は終ったし僕たちも行こうか」そういやどこへ行くんだと、歩きながら尋ねた。「たまにはゆっくりと話したいと思ってね。しかし、学生の財布を考えるとまた喫茶店へ行くのはいささか贅沢過ぎるんじゃないかな」たしかにそうだな。「うってつけの場所がある」佐々木はそう言って商店街の奥へと歩を進めた。しばらく行くと店よりも住宅の方が多くなった。佐々木は家と家の間に挟まれた猫の額ほどの公園に入った。こんなところがあったんだな。「ああ、僕もこの公園を見つけたときは驚いたよ。普段何気なく歩いていると見落としてしまうんだね」俺はベンチに腰を預けて辺りを見渡した。入口は木で覆われて、たしかにちょっと通っただけは分らない。しかし、お前の家はこっちの方じゃなかったような気がするんだが。「同じ帰路を辿るのに飽きて、何となく道を変えた時にたまたま見つけたのさ。それ以来たまに来るんだ。いわゆる、秘密の場所ってやつかな」佐々木は照れたように髪をなでた。奥まった場所にある公園がいかにも佐々木の性格を表しているようだ。「僕もそういう性格だと自負しているんだが、たまに突拍子もないことを考える時がある。君は僕の中に入っただろう?」俺は橘とかいう超能力者に連れられて、佐々木の創った閉鎖空間へ入ったときのことを思い出した。ハルヒとは違うクリーム色に満ちた世界。「それが羨ましいような気がしてね。是非ともいつかは入ってみたいんだ」 そう言って奥めいた笑いを浮かべる佐々木の願いが、まさかあんな形で実現するなんてこのときの俺には知るよしもなかった。それから中学時代の同級生の話をいくつかして、佐々木はまだ用があるらしく公園で別れた俺は帰路についた。部屋に戻るとシャミセンがこすりつけたのか枕が毛だらけになっていた。掃除機で抜け毛を吸い込んだあと、妹の玩具と化して嫌そうな顔をしていた犯人を受け取った。掃除機に怯えるシャミセンを押さえ付けて、毛を全て吸い取ってやる。これでしばらくは俺の枕は安泰だ。安心して、テレビをつけると“素晴らしきイスラム原理主義”なんてリベラルな番組がやっていた。顔をほとんど隠すような格好をした女性が、「人前でデートは恥ずべき行為です」、「婚前は清く正しくすべきなのです」、なんて鼻息も荒く語っていた。アッラーやムハマドなど信仰していない俺にはどうでもいいことなので、ザッピングする。『なんと、ただ今ベストセラーの“イスラエル流に生きる”から……』『現在予算審議中の国立イスラム教博物館について……』俺はあきらめて溜め息をついた。どうやら、ハルヒのせいで日本はイスラムブームになってしまったらしい。このままでは、二度と朝比奈さんの巫女姿を見ることができなくなってしまうかもしれん。そんな絶望的状況を打破すべく、脳内住人を総動員して解決策を探しているうちに妙案を思いついた。谷口には可哀相だが、この際しょうがない。そう満足した俺は寝むりについた。 「キョン。起きてくれ」肩を揺すられて妙なデジャヴュを覚えた俺は目を開いた。その視線の先には佐々木が不安げな表情でたたずんでいる。その後ろには見慣れた机。見慣れた教室。一気に眠気が吹き飛んだ俺は跳ね起きた。学校じゃねえか!「ここは君の学校なのかい?」恐らく自分の高校の制服に身を包んだ佐々木が言った。「ああ。お前、いつからここにいるんだ?」「起きたらこんな格好でここにいたとしか言いようがない」その言葉で脳裏にある閃きが走り、窓際へ走りよった。もしかしてここは……俺は窓の外に広がる空間を見て絶句した。まだらに交ざり合ってうごめく灰色とクリーム色が空を埋め尽くしていた。雨が降る前のような空にクリーム色の雲が浮かぶ。「ここはどこなんだい?」佐々木が独り言のように呟いた。俺にも分からん。ただ、「お前とハルヒが創り出す空間に似ている」「そうか……通りで懐かしいような不思議な感じがするんだ」空では灰色が次第に雲を塗りつぶすように広がっていく。「推測より……もっと確かな感覚としか……言いようがないけど……恐らく」とぎれとぎれに呟く佐々木の口調は苦しげだった。「……これも……感覚なんだけど……涼宮さんは僕を……」佐々木はとうとう机に突っ伏すように倒れ込んだ。おい!大丈夫か!「えっ?」佐々木にしては少し高い声を出した。瞬きして、不思議そうに俺を見つめる。「ちょっとキョン。ここどこなの?」佐々木だよな?「なに寝ぼけてんの!」そう言って俺の頭を殴った佐々木は窓の外を見やった。今や、空にはクリーム色の部分がほとんど塗り潰されていた。「あれ? あたし前にもここに来たような……」まさか、ハルヒか?「なに言ってんのよ? 当たり前でしょ」そう言って唇をアヒルのように曲げる姿はまさしくハルヒだ。だったら佐々木は……考えばすぐに分ることだった。かあっと頭に血が登って、俺は佐々木兼ハルヒの肩を掴んだ。「お前なんてことしたんだ!」佐々木兼ハルヒは俺にいきなり怒鳴られたからだろうか、怯えたように身体を強張らせた。「……どういうこと?」どうやって説明したらいいんだろう。俺が逡巡していると、どがんというおよそ閃いたときの効果音にはふさわしくない音を立てて、校舎が揺れた。俺は佐々木兼ハルヒを掴む手を離して、窓から身を乗り出した。校舎から少し離れたところに、青いカビの集合体のような人型が第二撃を繰り出そうと拳を振りかぶっている。くそ。忘れてた。佐々木とハルヒが混じったこの空間にも“神人”がいやがった。ハルヒの閉鎖空間にでるよりいくらか小さい“神人”はそれでも激しい音を立てながら、校舎を重機のように崩していく。 「キョン……どうし……」俺が呆気にとられて見ていた横で、佐々木兼ハルヒが再び倒れた。「大丈夫か?」「……わ……たしが?……僕?……」目まぐるしく流れる雲のように空が変化していく。俺の腕の中で戯言のように呟く佐々木はほんとうに佐々木なのか。それとも、ハルヒなんだろうか。どっちにしても関係ない。二人とも俺の大事なやつだ。佐々木兼ハルヒの目が見開かれた。またしても、喉にひっかかった毒リンゴを吸い出してやる奇特な王子役をやるはめになるとはな。はたして、俺はどちらにキスしたんだろうか。そんなことを思い浮かべながら、俺の意識はブラックアウトした。 寝不足のせいで中国産白黒ネコクマのような顔をしながら、ハイキングコースのような通学路を登った。今朝のニュースをいくら見ても、イスラムブームはなりを潜めたように一度も放送されなかった。教室へ入ると、事件の犯人は俺の席の後ろで熱心に空を観察していた。その目の下もやはり黒く縁取られている。俺を見つけたハルヒはふんと鼻息を立てて、机に突っ伏した。俺も無視して椅子に腰を落ち着ける。「昨日、嫌な夢見たわ。あたしがあたしでなくなるような」そうか。俺もだ。ハルヒは顔を上げて、何度か口を開こうとして言葉を飲み込んだ。らちがあかないので俺はこの時のために作った話を話すことにした。「昨日、中学の同窓会があって駅前に行ったらちょうど佐々木と会ってな」ハルヒが疑わしそうな目で俺を見つめる。その言葉を代弁するように谷口が割って入ってきた。「同窓会? 俺んとこにはそんな知らせはなかったぞ」俺は慌てずに、「そう言えばお前いなかったな。まあ、中学時代影が薄かったから忘れられてたんじゃないか」その時の谷口の顔と言ったら、世界に絶望したキリストみたいな表情で、危くあらいざらい懺悔する所だった。「ふーん」ハルヒは鼻を鳴らしただけで、再び雲の流れを眺め始めた。 その夜、佐々木から電話が入った。『キョン、君は昨日……だろうな。そう仮定していいだろう。覚えているかい?』ああ、と溜め息のような声が出た。『あれが閉鎖空間というのか? だとしたら残念極まる。じっくり見る余裕すらなかった』どこも異常はないのか?『むやみやたらに眠いくらいのものだよ』そうか。それじゃ、と俺が電話を切ろうとしたとき、『なあ、キョン。僕たちはどうやってあそこから出たんだい?』覚えてないのか?『ああ、不覚にもね。後学のため是非とも教えておいてくれ』俺は明日地球が滅亡するとしたら知らない方がいいと思う方の人間だ。佐々木は電話の向こう側でくつくつと笑った。『僕は全てを知りたいなんてそんな神のようなことは思わないよ。神になんてなるくらいなら白雪姫にでもなった方がいい』俺が佐々木の発言の本意を尋ねようとしたときにはすでに電話は切れていた。俺があのとき抱きしめていたのは誰なんだろうか。まあいいか。俺は神様になんてなりたくない。その神様とやらの横で見物する傍観者の方が性分にあってる。俺は佐々木とハルヒを交互に思い浮かべて眠りについた。
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