憂鬱な殺人 6章
6章
地面に足が着く感覚とともに、前後左右がはっきりしてきた。 俺は目を開けると辺りを見回した。 夕暮れ時の光陽園駅前公園。おそらく、最初に過去へと出発した時間からそう経ってはいないのだろう。「ちゃんと帰って来れたみたいです」 少し安堵したような顔で朝比奈さんが言った。 帰ってきた。それはいい。 だが、事件はどうなった? 結局、俺は何もしていない。何も出来なかった。 俺は、過去の俺に託したんだ。後は俺が『俺』を信用してやるしかない。「結局、どうなったか分かります……って、朝比奈さん!?」 俺は朝比奈さんを振り返って聞こうとしたのだが、その朝比奈さんは突然くたりと意識を失って、そばのベンチに倒れ込んでいる。「だ、大丈夫ですか!?」 朝比奈さんが俺以上に時間酔いをするとは思えない。咄嗟に何があったのか理解できずにいたのだが、その後ベンチの後の茂みから出てきた人物を見て俺は納得した。
「キョンくん、お疲れ様でした。それと、ありがとう」
この1週間、もっとも会いたかった人物、つまり朝比奈さん(大)が微笑んでいた。
ああ、良かった。一瞬そう思った。 だが、おかしい。事件がなかったことになっているなら、朝比奈さん(大)は事件のことは何も知らないはずじゃないのか? だったら何故ここに現れて、俺に礼などを言うのだろう。「大丈夫、あの殺人事件は起こっていません。まさか、殺されたのがわたしだとは思ってもいなかったけど」 クスリと笑っていう朝比奈さんの言葉を聞いて、俺は心底安心した。朝比奈さん(大)がそう言うなら間違いない。だが、何故朝比奈さん(大)が事件のことを知っているんだ?「あの、事件が起こっていないなら、誰もその記憶がないはずじゃ……?」 俺にもよくわからん。わからないことは聞いてみるしかない。「それは、キョンくんに記憶があるのと同じ理由です。わたしも一緒にあの事件のあった日まで行ったんだもの」 そうでした。理屈はわからん。朝比奈さん(大)は分かっているのかもしれない。とにかく、あの事件があった時空にいた俺たちは記憶もそのまま残されるってことらしい。これはあの長門が改変した時空にいた俺がその記憶を持っていた、ということと同じかもしれない。「あ、でも何故、殺されたのが朝比奈さんだってことを知ってるんですか?」 朝比奈さん(小)にはひた隠しにしていた事実だ。本人も気がついている様子はまったくないし、この後も俺は言うつもりはない。きっとショックを受けて人事不省にでも陥るに違いないからな。「この事実を記憶に残せる人は他にもいます。それに、きっとキョンくんも誰かにお話するでしょう?」 長門か。 そうだ、長門は時空が改変されたりリセットされたりしても、その記憶を留めておけるだろう。あの15498回の夏休みのときのように。しかし、長門が人間のために記録を残すとも思えない。 俺の脳裏にニヤケ面がよぎった。確かに、俺は古泉にこの話をするだろう。もう既に事件の記憶はないのだろうが、だからこそあいつとこの事件について話してみたい気になる。俺は何だかんだ言ってもあいつの意味の分からない推論や解説を聞くのが、いつの間にかそんなに嫌ではなくなっているらしい。そして、その話は機関に伝わるだろう。機関ではどういう形で記録を残しているのかは知らないが、何らかの形で残っていくのだろう。「てことは、何らかの形で朝比奈さんのいる時代まで、この事件の記録が残っているってことですか」「ごめんなさい、禁則事項です」 そう言いながらも、たいして申し訳なさそうな顔はしていない。言わなくても分かるでしょう、そう言われているような気がした。
それより、色々聞きたいことがある。おおかたのことは禁則事項なんだろうが、それでも聞かずにはいられない。「朝比奈さん、あの事件の日、一体ハルヒの家で何をしていたんですか?」 これが最大の疑問だ。何故ハルヒの家に行かなければならなかったのか、そしてどうして殺されなければならなかったのか。それは知っておきたい。「それが、今のわたしは涼宮さんの家には行ってないの」「は?」「とある理由で、今この時空は最初にキョンくんが過去に行った時空とは異なっているの。だから、わたしは涼宮さんの家に行く必要もないし、今後も行くことはないと思う」 えーと、つまり過去の俺が何かしたわけだ。あの殺人事件を阻止する以上の何かを。それは間違いない。過去の俺に、俺の記憶にある行動と違うことをしろと言ったのは他ならぬ俺自身だ。だが、一体俺が何をしたのかは分からないし、それでどうして朝比奈さん(大)の行動が変化するのかもわからない。「わたしが何をしていたのか、今回の事件のこと、それから涼宮さんの行動などから推測はできました。多分、テレビのチャンネルを変えに行ったんだと思う」「テレビのチャンネル??」 なんだそれは。どこの世界にテレビのチャンネルを変えたからと言って殺される人がいるんだ。いや、目の前にいるのだが。それにしても意味が分からない。「ええ、あの日のある番組を見て、涼宮さんにある考えが浮かぶかもしれない。それは、わたしにとって規定事項ではないし、大きく影響を与えることでもなかったはず。せいぜい、規定事項を早めることが目的だとしか思えないわ」「そんなことが許されているんですか」 未来人は、過去において規定事項の遵守が絶対だと思っていた。規定事項を“早める”とか、そういうことが許されるとは思ってもみなかった。「だから、それは厳密に言って規定事項じゃないんです。過去に干渉することが全面的に禁止されているわけでもないのは、わたしがこうしてキョンくんとお話してることからも分かるでしょう」 なるほど。そして、朝比奈さん(小)がSOS団にいる時点で、未来人は過去に大きく関わっているわけだしな。 それにしても、だ。「いったい、テレビのチャンネルを変えたくらいで、何で朝比奈さんは殺されなければならなかったんですか?」 それを殺されたはずの本人に聞くのもおかしな話だが、他に答えてくれそうな相手もいない。あの藤原とかいう奴に聞ければいいのだが、多分、しばらくは俺の前には現れないだろう。そんな気がする。「それは、彼らに聞いてみなければはっきりとはわかりません。ただ、彼らにとって、わたしはかなり邪魔者みたい。それと、あの日、涼宮さんがテレビを見ることが彼らにとってかなり困ったことだった、としか推測できません。そこに死体があれば、テレビを見ようなんて気は起きないでしょう。彼らにとってはわたしの死と、涼宮さんがその番組を見ないこと、一石二鳥だったのかも」 テレビ、テレビね。心霊特集かUMAの特集でもやってたのかね。深夜番組にはありそうだ。そういう番組なら、ハルヒは色々影響されそうだし、何かやらかしそうではある。しかし、朝比奈さん(大)は自分が殺されたというのにこともなげに言ってのけるな。実感が沸かないからか、それともそれなりに修羅場を踏んでいるのだろうか。「一体、それはどういう番組だったんですか? 既に朝比奈さんが行っていないってことは、その必要もなくなった、ということでいいんですよね。ハルヒは結局それを見なかったんでしょう」 家に帰って古新聞のテレビ欄とにらめっこすれば分かるのかもしれないが、ハルヒにある番組を見せたかったはずなのに、それをもうしないという理由が分からない。「それは」 朝比奈さんはいたずらっ子のような笑顔を浮かべていった。「禁則事項です」
はぁ、と俺は溜息をついた。大概のことは禁則事項なのはわかっているつもりだが、そう言った朝比奈さん(大)の表情が気になるぞ。何でそんな悪戯をしているような、からかっているような顔で俺を見ているんだ。 まあ、そこは考えても仕方がない。朝比奈さんが禁則といえば、もうそれ以上は聞けないということだ。「それじゃ、もう一つ聞きたいんですけど」「なあに?」 小首を傾げて聞く朝比奈さん(大)は、少し幼く見えて、ベンチに横たわっている朝比奈さん(小)の面影と重なる。当たり前か。「何で、俺だったんです? 朝比奈さんがあそこで死んでしまうのは規定事項じゃないと言っていた。だったら、未来人で何とか出来るんじゃないんですか?」 俺が聞くと、朝比奈さん(大)は少し困ったような顔になった。「生死に関わることに直接関与するのは最大の禁則事項の1つなの。それが規定事項ではなくても、自分の本来いるはずの時代以外で死ぬことになっても」 そういや古泉が言っていたな。自分自身に自分の未来を教えるのは禁則だろう、と。自分の死を教えるのは最大の禁則、というのも納得はいく。だいたい、教えれば当然それを回避することを考えるわけで、それで未来が変わってしまうかもしれない。
「それじゃ、わたしはもう行きますね」 朝比奈さんはそう言って俺にほほえみかけた。その笑顔を見ていると、あの日ハルヒの家で見た遺体なんて嘘みたいだ。実際に嘘にしたのだが、それにしても俺の記憶自体が間違っているという気になってくる。
「朝比奈さん」 もう一つ、言っておきたいことがある。「気をつけてください。俺はもうこんな思いをするのは嫌ですから」 そう言うと、朝比奈さんは驚いた顔をして、その後、あの見る者すべてを恋に落としそうな笑顔になった。「ありがとう、気をつけるわ」 それだけ言い残すと、公園から出て行った。 本当に気をつけてくださいよ。誘拐したり殺したりなんて許し難い行為を平然とやってのける奴らがいるんですから。これからも危険があるのかもしれない。 そのとき、俺や長門や古泉が助けられるとは限らないんですから。
すべての疑問を解消したわけではない。例えば、元いた時空と違っているなら、俺は一週間前に時間遡行する必要もなくなっているはずで、だったら元いた俺と二重に存在しそうなものだが、朝比奈さん(大)はそうは言わなかった。多分、それについては問題ないのだろう。だが、その理屈は分からない。多分、一生分からないだろうが。 それに、九曜の目的も分からなかった。九曜がもっと人間の言葉をわかってくれればいいのだが。今のところ、それは望み薄だった。これはやがて分かるときが来るのかもしれないな。
それから朝比奈さん(小)が起きるまでに30分ほどを要した。「あの、一体……?」 少々パニックを起こしている朝比奈さんに、俺は説明すべき言葉を持たなかった。しまった、朝比奈さん(大)に何か聞いておけばよかった。だいたい、自分のことを秘密にしておけと言うのなら、代わりの言い訳も考えておいて欲しいもんだ。
しかし、朝比奈さんはこれまでにあったことを考えて、自分がまた何も知らされないこと、俺が何かを知っていることに思い当たったらしい。「また、わたしは何も知らないままですね……」 悲しそうな笑顔を俺に向けて、溜息をついた。 そんな顔をしないでください。いずれ、すべてを知る日が来るはずですから。「それでも、この事件は解決したんでしょう?」 なんて健気なんだろうね。自分が傷ついていることより、事件が解決できたことを喜ぼうとしているのだ。思わず抱きしめたくなる。いや、実際にはやらないぞ。本当に。「ええ、朝比奈さんのおかげです」 代わりに、俺は心からそう言った。朝比奈さんがいなきゃ過去にもいけないってこともあるが、俺が俺に「指令」を出したのは、今までの朝比奈さんとの行動があっての思いつきだった。結果的に、それがうまくいったらしいのだから、朝比奈さんのおかげだろう。 朝比奈さんは少し驚いた顔をして、その後笑顔になった。「ありがとう」 何故俺にお礼を言うのかよくわからない。まるでさっきの朝比奈さん(大)の行動を見ていたようだ。
その後、とってつけたような会話を少しして、俺たちは別れた。 送っていくと言った俺の言葉を固辞して、朝比奈さんは一人で帰ってしまった。ここで何かあるなら朝比奈さん(大)からヒントが出そうなものだし、多分大丈夫なのだろう。 しかし、朝比奈さん(大)からヒントがないからといって安心は出来ない。 なぜなら、本人が規定事項から外れて一度は殺されてしまったのだから。
今まで考えなかったような不安が俺の心に残っている。 SOS団の未来はどうなってるんだ? きっと大丈夫だと思っていた未来が、もしかしたら消えてなくなるのかもしれない。誰かにとっての規定事項は、別の誰かにとっては規定事項ではないんだ。 ということは、俺が今、朝比奈さんの未来を変えてしまったように、誰かが俺たちの未来を書き換えてしまうかもしれない。
朝比奈さんは、長門は、古泉は、そしてハルヒと俺は。 大丈夫だ、きっとそれぞれ笑って過ごせるはずだ、そう思うのに不安が拭えない。
そして、その考えとともに1つ大きな疑問がわいてくる。
いったい、規定事項とは何なんだ?
朝比奈さんがハルヒの家で死んでしまう、という未来は規定事項ではないと言われた。だが、それが起こってしまった以上、未来では当然朝比奈さんはあそこで死ぬのが歴史に書かれた事実にならなくてはおかしい。 なのに、誰かは知らないが、朝比奈さん(小)を通してそれは規定事項ではないと伝えてきた。つまり、その時点ではまだ歴史は決まっていなかった、ということになる。
じゃあ、今回は一体何が規定事項だったんだ? 何をもって、規定事項であるのかそうではないのかが決まるんだ? 今回俺がやったことで、未来は「固定」されたのか?
事件はどうやら解決したらしいってのに、俺の心は晴れなかった。
こんなことを考えていたって答えは出るわけがない。 結局、俺は「今」を俺なりに生きるしかないはずだ。 それにしても、気持ちを切り替えるには何か気付け薬のような物が必要だな。
……あいつの顔が見たい。 唐突に、そんな考えが頭に浮かんだ。 ハルヒに会いたい。今、すぐに。
俺は携帯をとりだした。
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