ロマンティックが止められない
※ホモ・百合ネタ注意
雷鳴轟く季節外れの嵐の夜。とある北高生宅の台所には、頼りないロウソクの火に照らされた怪しげな人影が一つ。 「あとは雄の三毛猫の毛を煮出した汁を一滴入れて、マムシの干物の粉末を小さじ一杯……と」 この魔女の薬作りを連想させる、奇怪極まりない作業を行っているのは、時には人知れず、時には本人すら知らずの内に何かしらの騒ぎを生産し続ける暴走少女、涼宮ハルヒである。 「それで色が紫から透明に変われば完成なんだけど……あ!」 不思議なことに、鍋の中の液体は、彼女の言葉通り毒々しい紫から一点の濁りもない無色透明へと変化していった。 一つ付け加えるなら、先程の魔女の薬作りという表現は実は比喩ではない。彼女が手にしているレシピは、本物の魔女が残したとされる曰く付きのシロモノである。 「か、完成したわ!」 どういう化学変化が起きたのか解明不能な、その鮮やかな変化ぶりには、流石の彼女も驚きを隠せないようだ。 その証拠に、今も不敵な笑みを浮かべ―― 「ふっふっふ……」 ……不敵な笑み? 「キョン……いよいよあんたも年貢の納め時よ!」 ……訂正、薬の効能以外にはあまり興味がないようだ。 そして……どうやら、今回も苦労するのは彼……キョンと呼ばれた、この物語の主人公のようである。 日本の正月と言えば、だらだらとコタツに入りながら、大して面白くもない、年末に撮り貯めされたバラエティを眺めつつ、お雑煮やお節など丁度三日で飽きそうな季節限定料理を摘み、妹と最後のみかんの奪い合いをする。 これがもっとも正しいスタイルだと、俺は信じて疑わない。 そんな、平穏を愛する俺にとっては拷問に近い、『第一回!チキチキ二日間耐久不思議探索!』と称された新年企画が開催されたのは、ちょうど一週間前の話だ。 そこから鶴屋邸での新年会、冬休み明けの実力テストと、楽しいイベントと楽しくないイベントを交互に消化し、やっといつもの日常を取り戻しつつあった冬のある日……。 俺は凄まじく嫌な予感に包まれていた。 「さ、誰か来ない内に食べなさい」 ……まずは状況を整理してみよう。「遠慮しなくていいわよ?」 眼前には、不気味なほど上機嫌の我らが団長様。どうも冒頭で話に出た、『第一回(以下略』にて、何やら収穫があったらしく、その日からずっとこんな感じだ。 当日ハルヒと組んでいた朝比奈さんによると、なんでも、古本屋で面白そうな本を発見したそうだ。「食べないの?美味しいわよ?」 更に、俺の嫌な予感を助長するアイテムがハルヒと俺の間に鎮座している。「せっかくあたしが作ってきてあげたんだから、団員であるあんたが食べない訳ないわよね?」 ……プリンだ。 これがただの市販プリンなら俺もありがたく頂戴しただろう。もしくは、ハルヒがこうも執拗に勧めてこなかったなら、やはり手に取っていたかも知れない。「食べなさいよ、ほら」 ……あのハルヒが何もない普通の日に、わざわざ俺のためにプリンを作ってくる? その上、何故かやたらとしつこく食べることを強要してくる? ……ありえない。間違いなく裏がある。「……食べろって言ってるでしょ」 その証拠に、だんだんとハルヒの笑顔は引き攣ってきている。 なんだ?このプリンには何が仕込まれている? 考えられるのはトウガラシなどの刺激物辺りか? 心当たりがありすぎて困るが、こいつの機嫌を損ねることをやらかしていたとしたら、充分にあり得る話だ。 不思議探索をさぼって古泉、長門とゲーセンに行ったことがバレたか?それとも、新年会でハルヒが取っておいた栗金時を勝手に食べたことか?あるいは、実力テストの結果……は、ある意味いつも通りだし、取り敢えず保留だな。 他には―― バァンッ! 「ッ!」 ハルヒを怒らせた可能性を一つ一つ思索していると、俺の態度に業を煮やしたのか、ハルヒが両の手を机に叩き付けて乱暴に立ち上がった。 まずい、キレたか?「……どうして」 ん?「どうして食べてくれないの?あたしがあんたに施しを与えるのはそんなに変なこと?」 と、ハルヒは伏し目がちに呟いた。 その、悲しげな表情を見て、ガツン、と頭を殴られたような衝撃を受けた。 ……俺はとんでもなく失礼なことをしているのではないだろうか?「……たまにはあたしだってあんたを労おうって思うわよ」 その目には光るものが見えたような気がした。 ……そうだよな、考え過ぎだよな。ハルヒだって四六時中悪巧みをしている訳じゃないさ。 ふぅ、と短く息を吐いて、ハルヒの手からスプーンを取る。「……分かった」「キョン……」「疑って悪かったな。食べるよ、ハルヒ」 俺はおもむろにプリンをスプーンですくい取り――「……お前が毒味した後でな」「え?」 ひょい ――ニヤケ顔で油断していたハルヒの口に放り込んだ。 ……計画通り!って感じの顔をするのが一瞬早かったな、ハルヒよ。せめて俺が口にするまで我慢すべきだろう。「ん~ッ!ん~ッ!」 口を抑えてジタバタとするハルヒ……って、なんだよ、そのリアクション?本当に変な仕込みやってたのか?「ん~ッ!」 なんとか吐き出そうとするハルヒだが、のどに直接流し込まれては流石にどうしようもなかったようだ。 そうして、しばらくもがいた後、ハルヒは諦めたようにガクリと下を向き、「ん……」 ごくりとのどを動かし、「…………」 ……そのまま動きを止めた。 おいおい……どんな強烈な仕込みをやってたんだよ?「ハルヒ?大丈夫か?」 黙ったままうつ向いているハルヒの顔を恐る恐る覗き込む。すると、ハルヒはいきなり顔を上げ、俺を怒鳴りつけてきた。「なにすんのよ!バカキョン!」 ……いや、なにすんのよ、じゃねーよ。それはこっちの台詞だ。「やっぱり妙なもの入れてたのか……」 俺がそう言うと、ハルヒはキョトンとした顔をして、小首を傾げた。「……あれ?何ともない?」 疑問形で言うな。お前が作ったんだろうが。「……おかしいわね?」 何かを確かめるようにもう一口、また一口と口に運ぶハルヒ。本当に何ともないらしい。「……ねぇ、ちょっとキョンも食べてみて」 差し出された不信感たっぷりのプリンに一瞬躊躇したが、それを食べた当のハルヒは何事もなかったようにしている。少なくとも今すぐどうこうなる訳ではなさそうだ。 ……ま、いいか、一口くらいなら。 スプーンを手に取り、プリンを口に運ぶ。じんわりと控え目の甘さが口の中に広がり、舌の上で溶けていった。「……なんだ、普通に美味いじゃないか」 ふと、ハルヒを見ると、じぃ~っという感じで熱視線を送ってきていた。「キョン」 なんだ?「あたしを見て」 見てるだろ?「顔が熱くなったりしない?」 いや。「心拍数上がってない?」 全く。「息が荒くなってるのを我慢してない?」 これっぽっちも。「効果なし、か……ま、当然と言えば当然よね」 ……だから、一体何を仕込んだんだよ、お前は?今のやりとりで凄まじく不安になったぞ?「大丈夫よ、食べられないものは入ってないから……一応」 一応って言うな、一応って。「はぁ……あんな胡散臭い話を信じるなんて、あたしもヤキが回ったのかしら?」 さっきからハルヒの言動が全く理解出来ない。結局何をやりたかったんだ、こいつは?「それもこれも……キョン!全部あんたのせいなんだから!」 いきなりキレるな。意味が分からん。「あぁッ!もういいわよ!今日は帰る!」 そう言って、ハルヒは乱暴に鞄を掴むと、部室のドアを壊しかねない勢いで帰ってしまった。「……やれやれ」 ハルヒの行動が模範的一般人である俺に理解不能なのはいつものことだが、今日のあいつはそれに輪を掛けてひどい。「本当になんだったんだ、一体?」 本日二度目のやれやれが口から出掛かったところに、ハルヒと入れ替わりで眉をひそめながら古泉が部屋に入ってきた。「……一体、何をやらかしてくれたんですか?涼宮さん、物凄い顔で走り去って行きましたよ?」 毎回毎回俺のせいにするな。少なくとも今回の俺は全く悪くない。「はぁ……何があったか知りませんが、どうやら出動の準備をしていた方がよさそうですね」 そう言って、古泉は盛大に溜め息を吐いた。 お疲れさん、頑張ってくれ。 適当な声援を送る俺をジト目で見ながら、古泉は冷蔵庫を開く。すると、何かに気付いたようにぼそりと呟いた。「あれ?プリンが入ってますね?」 古泉越しに冷蔵庫を覗き見ると、ハルヒが持ってきたプリンと同じ物があと三つ確認出来た。 ……まだあったのか。異物混入疑惑のあるプリンなんて俺はいらんぞ。 ……ん?そうだ。 そこで、俺はあることを閃いた。「それはハルヒが作ってきたプリンだな、俺と古泉の分らしい。俺はもう食べたけど、なかなか美味かったぞ」 ……味はな。「そうなんですか……なるほど、さてはこれが喧嘩の原因ですね?駄目ですよ?素直に美味しいと言ってあげないと」 なにか勘違いされてるようだが、面倒なのでそういうことにしておこう。「そういうことでしたら、遠慮なくいただきますか」 古泉はプリンを手に、いつもの自分の定位置へと戻る。 ……捨てられて無駄になるよりは誰かの口に入った方が食材も喜ぶってものだろう。頑張って一人で処理してくれ、古泉。 俺が心の中で密かに合掌し、古泉が今まさにプリンを口に運ぼうとした、その時、「あれ?皆さん早いですね?」「…………」 朝比奈さんと珍しく遅れてきた長門が部室へとやって来た。「あぁ、お二人とも、ちょうどいいところに」 ここで古泉は持ち前の気配りを非常に迷惑な方向に発揮した。「涼宮さんがプリンを作ってきて下さったそうなので、みんなでいただきましょう」 ……ちょっと待て。生贄はお前一人で充分なんだ。朝比奈さんと長門を巻き込むな。それはハルヒが悪戯目的に作ったプリンなんだよ!「プリンですか、いいですね」「…………」「彼はもう食べたそうなので、ちょうど人数分ですね」 ……などと今更言える訳もなく、俺は古泉がプリンを配るのを複雑な気分で眺めるしかなかった。 ……大丈夫。ハルヒだって『一応』食べられる材料しか使ってないって言ってたじゃないか。問題ないよな、うん……多分。 そんな風に何の根拠もない気休めを自分に向かって呟いていると、コンクリートの壁越しでも届きそうな視線を送ってくる人物の存在に気が付いた。「…………」 ……長門よ、何故そんなに俺を見つめるんだ?もしも異物を発見したなら苦情はハルヒに言ってくれ。「…………」 しばらく俺を凝視してから、結局長門は何も言わずプリンに視線を戻す。 クソ、なんで俺が罪悪感を感じなきゃならないんだ?ハルヒが妙な真似をしなければ無事平穏に放課後を過ごせたっていうのに。 ――この時の俺は、まだこれが身の毛もよだつ恐怖体験の序章に過ぎないことを知らないでいた。 「では、いただきます」「いただきまぁす」「…………」 ――何故この時、俺は本当のことを言わなかったのだろう? 古泉と朝比奈さんが嬉しそうにプリンを口にする。 ――もしも真実を言っていたとしても、ハルヒ第一のこいつらは結局同じ行動を取ったかも知れない。 それを見た長門もスプーンを取り、プリンを口に運んだ。 ――それでも、もしかすると長門なら……。 ……いや、よそう。今更そんな話をしてもこの後に起きたことはもう過去の話なのだから。 「……え?」 ――そうして、部室は修羅場と化した。 「……!」 最初に反応したのは長門だった。 一口食べたプリンを即座に吐き出し、瞬時に部室の隅へと移動した。「……え?」 全員に背を向けて、何かから身を守るように体を小さく丸める長門。 いきなりどうしたんだ?などと考える余裕を俺に与えることなく、事態は急変していく。
次に動いたのは朝比奈さんだった。 ぼうっと長門の動きを眺めていたかと思えば、普段の彼女からは想像出来ない機敏な動きで……長門に襲いかかった。「長門さん!」「……!」 ……いや、襲いかかったと言うと語弊があるな。正確に言うと、朝比奈さんは後ろから長門を抱き締め、恍惚の表情を浮かべているている。つまり、襲いかかったと言うのは―― 「……朝比奈みくる……あ……」「長門さん……はふ……」 ――性的な意味で、だ。 残念ながら、18歳未満お断りな域までは達していないが。 ……いやいや、俺は何を考えているんだ。そんなことより朝比奈さんをどうにかせねば。「あの、朝比奈さん?どうしたんですか?」「ああ……長門さん……」「あの~聞こえてますか?朝比奈さん?」「長門しゃん……はぁ……」 ……聞いちゃいないな。長門以外は目に入ってない感じだ。「何がどうなってるんだよ……」 ……そして、最後に動いたのは古泉だった。 「キョン君!」 それは、普段から聞き慣れた単語と、聞き慣れた声なのだが、拭い切れない違和感があった。 何故なら、普段は絶対にその名前で俺を呼ばないヤツが発した台詞だったからだ。「古泉……?」 不審に思い、声の主を振り返ると、ルパンダイブを彷彿とさせる放物線を描き、こちらに跳躍してくる古泉の姿が目に映った。「僕と……僕と……!」 時に、友人だと思っていた人物に本気で襲われそうになった経験はあるだろうか? 実際に経験してみれば分かると思うが、まず思考が固まる。鬼気迫る表情で飛び込んでくる相手に即座に反応は出来ないと思う。 「な……!?」 しかし、対朝倉戦の経験が生きたのか、はたまた俺の防衛本能が人より優れていたのか……。 ガスッ! 俺の場合は、躊躇いなくそのアゴを打ち抜いた。「いきなり何を錯乱してるんだ、お前は!?」 ものの見事にカウンターを受け、地面に転がった古泉をなかば叫ぶように怒鳴りつける。余程いい角度で入ったのか、転がった物体からの返事はなかった。 急転した事態に追い付かない思考と、ジンジンと不快な痛みが残るこぶし。全てが俺から冷静さを奪っていく。 ……まずは落ち着け、状況を把握しろ。 長門が逃げ出したかと思えば、朝比奈さんがそれに襲いかかり、古泉は俺に襲いかかってきた? ……OK。まるで意味が分からない。 一向に収まる気配のない激しい鼓動と、次々と溢れ出す嫌な汗に、この上ない不愉快さを感じていると、絶対的な安心感を与えてくれる、頼もしい仲間の声が俺に冷静さを取り戻させてくれた。 「……私がうかつだった。これは非常に危険な状況」「長門?」 よかった。お前は無事だったのか。 だが、そんな俺の期待とは裏腹に、振り返って目にした長門の姿は、無事なのかどうか非常に判断しづらいものだった。「……はい?」 長門は椅子に座った朝比奈さんの膝の上で、抱きかかえられるように、ちょこんと横を向いて座っている。たまに見掛ける、恋人同士が人目も憚らず一つの椅子に座るアレだ。 「……えーと、無事なのか?」 そんな俺のツッコミを無視して、長門は淡々とこの異常事態の説明を始めた。「……ことの始まりは一週間前、涼宮ハルヒが古本屋で紛い物の魔術の本を手に入れたことから始まった」「魔術の本?」 ハルヒの言ってた収穫ってのはそいつのことか。「……昨晩、涼宮ハルヒがその本に書かれていた方法で調合した薬をプリンに混入しているのは知っていた……でも、その薬では彼女が望む効果は得られないはずだった」 怪しげな薬入りのプリンかよ。なんつー危ないものを作るんだ、あの馬鹿。「……ん?でも、効果はないはずなんだろ?ならなんで朝比奈さんたちは妙なことになってるんだ?」「……本の内容自体は適当に書かれた真っ赤な偽物。本来なら服用しても人体には全く影響がない……その薬を調合したのが涼宮ハルヒ以外なら」「……そういうことか」 そこまで聞けば俺でもオチは容易に想像出来る。要するに、ハルヒが本物であって欲しいと望んだから偽物の薬が本物になってしまった訳か。「……そう。私の見通しが甘かった」 ……また、ハルヒのキテレツな力が原因なのか。毎度のことながら、はた迷惑極まりない……たまには人類のためになる方向で力を奮ってくれ。 憂鬱な気持ちを追い出すように、一つ大きな溜め息を吐いてから、長門に説明の続きを求める。ここで萎えていても何も解決しない。「それで、ハルヒの求める効果というのは?」「……服用した直後、最初に見た人物へ強烈な恋愛感情を抱く薬……つまり、惚れ薬」「……ちょっと待て」 軽く目眩がした。 惚れ薬だと?あいつはそんなものを俺に使ったのか?いくら俺の人権が無視されているからって実験動物扱いはないだろ。「……彼女はそういうつもりではなかったと思う」「実験目的以外に何があるって言うんだ?」 俺の言葉を聞いて、意味深な視線を投げ掛けてくる長門。 どうした?他に何かあるのか?「……こればかりは流石に彼女に同情する」「はぁ……?」 まぁ、ハルヒの目的は今はどうでもいい。結局、朝比奈さんと古泉にばっちり効果が出てしまったのか。そして、朝比奈さんは長門に、おぞましい話だが、古泉は俺に惚れてしまった、と。 「……古泉一樹と朝比奈みくるだけではない」「へ?」「……プロテクトが間に合わなかった」 そう言って長門は自分を抱き締める朝比奈さんの体に、そっと自分の腕を回し……って、「長門……まさか、お前もなのか?」「……頭では事態を収拾させなければと理解している……でも、これ以上自分を抑えることは不可能」 そう言いながら、ほんのりと頬を染め、朝比奈さんに体を預ける長門。長門から預けられた重みを優しく受け止める朝比奈さん。そして、慈しむようにお互いの体に触れ合う二人……。 「……ごくっ」 ……正直、たまりません。 ……いや、だから、今はそんなこと考えてる場合じゃないだろ。「長門、どうにかならないのか?」「……朝比奈みくる」「長門さん……」 やっぱり聞いちゃいねぇ。「……朝比奈みくる、有希って呼んで」「え?あの……ゆ、有希?」「……ありがとう、みくる」 ……とうとうファーストネームで呼び合い出しちゃったよ、この人たち。完全に二人の世界に入った模様だ。 長門まで骨抜きにするとは……改めてハルヒの力の無茶苦茶さを目の当たりにしたな。「……あれ?」 そう言えば、俺とハルヒには効果がなかったな?長門にすら効く薬が全く効かないなんてことがあるのか?「……なんでだ?」 ふいに湧いた疑問が気になり、少しばかり今の状況を忘れて考え込む。しかし、背後から掛けられた底冷えするような声によって、落ち着いて考察する余地は奪われてしまった。 「いきなり殴るなんてひどいじゃないですか……優しく抱き止めてくれると信じていたのに」「うお!?古泉!?」 もう復活したのか!?「さぁ、今度こそお互いの体温を共有しましょう」 さぁ、じゃねぇ!両手を広げて微笑むな!気色悪い! 殴られて正気に戻る、なんて都合のいい展開にはならなかったようで、今も古泉の目は獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝いている。 えぇい、そのまま眠っていればいいものを。「いいか?古泉。落ち着いてよく話を聞いてくれ。お前は今、ハルヒの力によって俺を好きだと思い込まされているだけなんだ」 きっとすぐに元に戻る。だから、頼む。じりじりと間合いを詰めるのはやめてくれ。 俺がそう言うと、古泉は表情を固くして、動きを止めた。「涼宮さんの力?まさか……でも、確かに僕はノーマルな人間を自負していましたし……」 ……お?これは?「そうだ。お前は普通に女子が好きな普通の男子高校生だ。だから、元に戻る方法を考えよう、な?」「この、キョン君を求めて止まない感情が偽りのもの……?」 古泉はとうとう俺から視線を外し、考え込むような仕草を取った。 ……ふぅ、取り敢えず話は通じたらしい。一時はどうなることかと思ったが、古泉が無事ならいくつか手段はある。 そうだな……とにかく協力者が必要だ。まずは古泉に森さん辺りに連絡を取らせよう。 ようやく見えた光明に僅かながら安堵する。これできっとどうにかなる。そんな緩んだ空気が俺の中に満たされた。 ……が、「……それで、それがどうかしたんですか?」 は……?「僕が感じている熱い情熱の炎に比べれば、そんなこと些細な問題です」 ……お前、今支離滅裂な台詞を言っている自覚はあるか?「僕は冷静ですよ?冷静に、そして、情熱的にキョン君を愛しています」 そう言って、古泉は寒気の走る微笑を浮かべた。 ……前言撤回、全く話が通じていない……。 仕方ない、もう一発殴って再び眠って貰うしか……!「おっと、先程の再現を狙っても無駄ですよ?機関で訓練を受けた僕に、正攻法で勝てるとは思わないで下さいね?」「……チッ」 古泉の言葉がはったりかどうかは別として、確かにこちらから向かっていくのはリスクが高いか……。 どうする?頼みの長門は朝比奈さんとの密月に夢中だし、「……ん……みくる」「……ユッキー」 古泉はこんなだし……。「そうだ。僕も名前で呼んで頂けませんか?一樹でもいっちゃんでも構いませんよ?」 ……やばいな。今、はっきりと認識した。これは俺の人生史上でもかなりランキング上位に食い込むピンチだ。 こうなったら……俺の取れる行動は一つしかない。「……よし!」 三十六計逃げるに如かずだ! 「あばよ!古泉!」「あ!ちょっとキョン君!」 俺は古泉たちに背を向け、部室から飛び出すように逃げ出した。 走る。ただ走る。廊下を、中庭を、グランドを。上履きのままだとか、走りにくい制服のズボンだとか、そんなことは気にしてられる状況じゃない。「くッ……!」 必死に走り続ける俺に着かず離れずの距離を保ち、あたかも影のように一人の獣が疾駆する。「着いてくるんじゃねぇ!」 獣なのに一人という数え方はおかしいかも知れないが、今のヤツはそうとしか表現出来ない。 獣の名は古泉一樹。今はただの恋するホモだ。「ふむ……逃げられると追いたくなるのが男心……流石はキョン君、心得てますね?」「アホかぁぁぁッ!」 全力疾走を続ける俺に、やすやすと着いてくる古泉。その余裕と落ち着きぶりが俺の恐怖心を煽る。 機関での訓練がどうたらと言う話ははったりじゃないみたいだ……その身体能力をこんなことに活かしてんじゃねぇよ!「クソ!」 逃げる。ただ逃げる。逃げてその後どうするか、なんて考えはない。今はひたすら本能が最大級の警鐘を鳴らす危機から一歩でも遠くへ。「待って下さいよ~」 誰が待つか!俺を捕まえてどうするつもりだよ!?「別にあなたを無理矢理襲ったりするつもりはありません。ただ、抱き締めたり、頬擦りしたり、あわよくばキスをしたいなぁって思っているだけです。そのくらいなら問題はないでしょう?」 大アリだ!男にそんなことをされて、何が嬉しいんだ!?「僕は嬉しいですよ?ただし、キョン君限定ですが」 その名で呼ぶな!全身に鳥肌が立ってくる!あと、そんな風に言われても全ッ然ッ嬉しくないからな!「ふふ……素直じゃありませんね?噂に聞くツンデレというヤツですか?」 くッ……この件が解決したら覚えてろよ!テメェ! 走る、俺は走る。足が前に進む限り。 「僕の想いを受け止めて下さい!」「断る!」 「うおッ!?……なんだぁ?キョンと古泉じゃねぇか、何やってんだあいつら?」 走る、古泉も走る。俺という獲物を捕まえるために。 「愛しています!キョン君!」「デカい声でそんなことを叫ぶんじゃねぇ!」 「おや?今のはキョン君と古泉君?ん~何やら面白そうなことになってるにょろっ」 どちらも足は止めない。この鬼ごっこはどちらかが力尽きるまで終わることはない。 「ふふ……まるで海岸で追い掛けっこをする恋人同士のようですね」「……ッ!誰でもいいから助けてくれッ!」 「あれは古泉とSOS団の……いや、関わるのはよそう。どうせロクなことにならん」 そんな、命よりも重いものを賭けた、本気の鬼ごっこだったが……先に足を止めたのは俺の方だった。「ぜぇ……ぜぇ……」 どのくらい駆け摺り回っていただろうか? 何も考えず、足の動くがままに逃げ続けた結果、屋上へと続く踊り場に行き着き、そこでついに俺の足は言うことを聞かなくなってしまった。「はぁ……はぁ……」 この荒い息遣いは古泉のものだが、どうも走ったせいで息が上がっている訳ではないらしい。「キョン君……ハァ……ハァ……」 背筋が氷りそうな話だが……どうやら、古泉は獲物を目前にして興奮しているだけのようだ。 クソ……学校内を何周全力疾走したと思ってるんだよ?これだから特殊な人種は……。「やっと追い掛けっこは終わりですか?流石にこれだけ焦らされると、僕もどこまで我慢が効くか分かりませんよ?」 我慢って何のだよ!?「勢い余って最後まで、なんてことになるかも知れませんね」 さ、最後?最後って……いや、いい、言うな。想像したくない。 一瞬浮かびかけたイメージを振り払うようにぶるぶると首を振る。 じょ、冗談じゃない。そんなことになったら……いや、だから想像するな!俺! 残り少ない体力を無駄に消費しながら一人ジタバタ悶える俺を見て、古泉は芝居掛った仕草でこんなことを言ってきた。「……とは言え、無理矢理というのは僕の趣味ではありませんね。ピュアな恋愛で行きたいと思います」「……はは」 なら残念だったな?お前の一人よがりなラブロマンスもここまでだ。どう足掻いても俺がお前を受け入れる訳がないだろう?「ふふ……そうでしょうか?」 ……何故笑う?俺は普通の女の子が好きな至極ノーマルな男だ。奇跡でも起こらない限り、俺の嗜好は変わらんぞ? その俺の台詞を受けて、古泉は喉を鳴らして楽しそうに笑った。「奇跡ならありますよ」「なに?」「あのプリンです。あれをキョン君に食べさせれば、僕たちは相思相愛になれるのではありませんか?」「……それは……」 ……確かにさっきは効果がなかったが、また同じ結果が出る保証はない。 もし効果が出てしまったら……。 『一樹……』『キョン君……』 だあぁぁぁぁぁぁッ!想像しちまった!イメージ消えろ!俺の脳から出ていけ!「そう言う訳で、取り出したるは例のプリンです」 待て……やめろ……。「懐に入れてきたので、ほんのり人肌なのは我慢して下さいね?」 そう言って、古泉は弱りきった俺を壁に押し付け、くいっとアゴを上に向けた。「大丈夫、キョン君も体験してみれば分かりますよ。この、世界が生まれ変わったかのような、素晴らしい感覚が」「やめろよ、古泉、なぁ?それは無理矢理じゃないのか?」「クク……さぁ、新しいキョン君の誕生です」 やめろぉぉぉぉぉぉッ! ……あれ? 迫りくる恐怖から逃げるように、思わず目を瞑ってしまったが、無理矢理開かれた口には一向に異物が流し込まれる気配はない。 恐る恐る目を開けると、床に溢れたプリンに頭を突っ込むようにして倒れている、古泉の情けない姿があった。 ……何が起きたんだ? 本日何度目かのクエスチョンマークを浮かべていると、階段の曲がり角から、ウェーブのかかった髪を湛えた人影が現れた。「ふぅ……なんとか間に合いましたね」 あ、あなたは……。「まったく……長門さんもうかつですね。帰ったらお説教です」 ぷんぷんといった感じで可愛らしく怒っている人影の正体は、生徒会書記にして長門と同じく不思議パワー持ちの宇宙人、喜緑江美里さんその人だ。「は、はは……助かった……」 喜緑さんの顔を確認した途端、壁にもたれかかっていた体はへなへなと地面に沈み込む。やれやれという言葉すらどこぞに消えてしまうほど、今回ばかりは切羽詰まっていたらしい。 『お疲れでしょう?今は休んで下さい。あとは私と長門さんで処理します』 この最後の台詞は俺の脳内補完だ。なんせ、張りつめていた緊張の糸が切れたせいか、俺の意識はゆっくりとシャットダウンしていったので、何かを言っているってことしか分からなかったからな。 でも、記憶の最後に残ったあの喜緑さんのお姉さんみたいな柔らかい笑顔なら、きっと俺に優しい言葉を掛けてくれたはずさ。 そう言う訳で、とっくの昔に限界を迎えていた俺は、朝比奈さんと長門がどこまで行っ……ゲフン……無事なのかを気にしつつ、夢の世界へと落ちて行った。 願わくば、夢の中ぐらいは静かに過ごせますように。 翌日の放課後。俺は学校の中庭でホモとお茶をしていた。「ホモは酷いですよ……あの時の記憶は全くないんですから、もう勘弁して下さい」 うるさいホモ。昨日の仕打ちは当分根に持つから覚悟しろ。というか、あのキモさはさっさと忘れたいのに忘れられん。何が情熱の炎だ。「あ、本当にやめて下さい。記憶がなかった時のことを聞くと、本気でへこみそうです」 ふん……体温を共有しましょう、とかも言ってたな?「やめて下さいって!……それに、聞けばあのプリンが怪しい代物と分かりながら僕に食べさせようとしたそうじゃないですか?」 う……喋ったのは長門か?「それでおあいこにしましょうよ?」「……ふん」 古泉から視線を逸らすように、意味もなく校舎の窓を見つめる。 釈然としない自分や自業自得を認める自分が入り混ざり、なんとも言えない妙な感じだ。 ……それに、こいつにも同情するところはあるしな。 と言うのも、今朝学校に登校してみると生徒はおろか、教員の間でも『古泉ホモ疑惑。つーか確定?』の噂で持ちきりだった。まぁ、いくら人が少ない放課後と言えど、学校中を求愛しながら走り回ればどうなるかは自明の理だが。 休み時間ごとに野次馬が教室の外に壁を作り、知り合いからは生暖かい視線と共に励ましのお言葉を頂いたそうだ。 結局、長門が情報操作を行うまでその状態は続き、その間、避難した部室の片隅で、膝を抱えて小さくなっていた古泉の背中が印象的だった。 長門は「情報操作を忘れていた」と言っていたが、求愛相手が俺という情報だけはきっちり操作していた辺り、本当のところはどうなんだか? そうそう、ちなみに朝比奈さんは長門を恐れてか、今日は学校を休んだらしい。「では、本題に入りますか。今回の件についてです」 そんなこんなで、放課後になってやっと復活した古泉に呼び出され、俺は今回の事件についての今更な解説に耳を傾けていた。「今回問題になった本を機関で回収し、記されている内容を再現してみたところ、例の薬のように効果を発揮したものはありませんでした」「そいつは結構な話だ」 もしハルヒ以外でもあの薬を作れるとなったら面倒な事態になりそうだからな。「ええ。どうやら涼宮さんの願いは『本の内容が本物であって欲しい』ではなく、『薬の効果が本物であって欲しい』だったようです。もし前者だったら大変でしたよ。世界中の書店、図書館などを調査し、あの本と同じ物を全て回収する、という途方もない任務が発生するところでした」 他人事ながら、聞いただけでうんざりするような仕事だ。長門なら喜んで参加しそうだが……いや、あいつならその前に解決出来るか?「……それで、話はそれだけじゃないだろ?」 苦労しましたよ、って愚痴ならともかく、そんな仮定の苦労話を聞かせるためだけで呼び出したんなら、冬の中庭にカップの自販機コーヒー一杯じゃ割に合わんぞ。「はい。むしろこれからが本題ですね。こちらは興味を引かれると思いますよ」「なんだ?」「何故あなたと涼宮さんにだけ薬が効かなかったかについてです」「ほう?」 そういや、昨日今日はそれどころじゃなかったんで、すっかり忘れてたな。確かに興味を引かれる話だ。 話の先を促すように姿勢を古泉の方に向き直す。古泉も俺が話に食い付いたことに気をよくしたようで、推理小説の探偵よろしく、聴衆役の俺に解説を始めた。「涼宮さんはあの本の内容を忠実に再現したと予想されます」 ふむ。「例えば、効果は三日間、副作用がある、などの記述があればそれは全て実現されるでしょう」 お前の説が正しいのなら、それはそうだろうな。「今回のポイントはここです。涼宮さん自身は覚えていなかったようですが、ある条件まで再現したと思われます」 ある条件? 「はっきりと覚えてはいなかった。けれど、自身の能力が発動した時には、しっかりとその条件まで付加していた、というところでしょう。知っての通り、彼女の能力は全て無意識に発動されるので、そうなったとしても不思議ではありません」 なるほど。それで、ある条件とは?「まぁ、その条件を覚えていたとしても、涼宮さんはその可能性は否定するでしょうね。彼女の能力と人間関係を知る第三者からすれば、この条件以外はありえないのですが」 ……だから、一体どんな条件なんだ?勿体つけるのはお前の悪い癖だぞ? 俺が焦れた態度を示すと、古泉はにっこりと笑みを浮かべ、キザったらしく人指し指を立てながら、楽しそうに種明かしをした。「惚れ薬の項目に、こんな注意書きがありました。『ただし、薬を飲んだ人物が、最初に見た対象に初めから好意を抱いていた場合、効果はありません』、と」「…………」 生憎、手元に鏡はなかったので確認のしようはなかったのだが……この時の俺は余程変な顔をしていたのだろう。 なんせ、あの古泉が吹き出したんだからな。「くくッ……いや、失礼しました……くッ……」 と言いつつも、笑いを堪えられないといった感じで後ろを向き、小刻みに体を震わせる古泉。「くくッ……」 これがどうでもいい話で普段の日常と同じ状況なら、オセロ辺りで憂さ晴らしして終わりだったかも知れないが……残念ながら今回はこいつに八つ当たりするのに充分な条件が揃っていた。 俺は未だに笑いを止められない古泉を眺めつつ、心の中で一人呟いた。 古泉よ……残念だが、おあいこは撤回だ。 ……取り敢えず、昨日のこいつの恥ずかしい言動をノーカットでDVD化出来ないものか、明日にでも長門に尋ねてみるとしよう。 ……配布先は森さんでいいかな? END
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