長門有希の書肆(しょし)
長門有希の書肆(しょし)※この物語は涼宮ハルヒの憂鬱にサブタイトルの小説を掛け合わせてみたものです。クロスオーバーというほどでもなく、ハルヒさえ知っていれば小説のほうは未読の方でも充分楽しめるものとなっておりますのでどうぞお気兼ねなく読んで頂いて結構です。興味がありましたらぜひ小説のほうも読まれるといいでしょう。[ニューロマンサー]「涼宮ハルヒに特別な干渉をしているあなたの情報を得たい。協力して欲しい」 無感動な双眸を真っ直ぐ据えた長門はぽつねんとパソコンの前に立っていた。「お前からのたっての希望ならもちろん吝かじゃあないが、具体的に何をすればいいんだ……」 長門に促されてパソコンの席に座ると、黒いパイル地の汗止め(スウェットバンド)を渡された。「なんだこれ……」「皮膚電極(ダーマトロード)」 訝しがっている俺の表情を目に映して長門は説明を始める。「あなたの情報の入手と同時に幾つかの試験も行いたい。しかし現状次元のままでは情報操作だけでは試しきれず、またそのリスクとは裏腹にあなたが入手する情報量は極めて微少であろうと判断した。そこで、この原始的なネットワークに私のネットワークをリンクすることによって構築される電脳空間(サイバースペース)にあなたが接続することで、あなたの情報を得ると同時にあなたの意識のみでの模擬実験を試みることにする。その接続端子がそれ、額に巻いて」 言われるがままに電極とやらをおでこに巻くとパソコンが起動した。が、HDDやファンが稼動する低めの騒音は聴こえず、画面には不恰好なハチマキをした訝しがってる男の顔が暗闇の中に浮き出ている。「眼を閉じて」 眼の裏の、血に照らされた闇の中、銀色の眼閃が空間の端から渦巻くように流れ込み、催眠的映像が、滅茶苦茶に齣(こま)をつなぎあわせたフィルムのように走り過ぎる。記号、数字、顔──ぼやけて断片的な視覚情報の曼陀羅(まんだら)。 どこかで自分が驚いているのがわかった。しかし、既に意識だけが空間に浮かぶように佇んでいる。空間は空きチャンネルのTVの色の空、緑地に等間隔の黒色方形網の床、全方面が見果てのない地平線のみ。閉鎖空間とは異なるデタラメさが静かに形作っていた。「ここは……」「電脳空間」 と長門が後ろで応える。振り向くと、近いんだか遠いんだかわからないところに長門がやはりぽつねんと立っていた。北高の制服に黒いカーディガンに青地の文庫本で、「この空間は私のネットワークとの仲介地点を担うパーソナルコンピュータの原始的ネットワーク。ここで私とあなたを繋ぎ、試験する」 半歩前で長門が広げた両手をゆっくり上げ、ハンマーで殴ったような衝撃が頭上に響く。 燦然と輝く夕日に燃やされた部室は無人のためもあってかひどく淋しげだった。長机や折りたたみ椅子から伸びた影に縁取られ、部屋は綺麗な黒と淡い紅の妙な縞になっている。かすかなお茶葉の芳香が鼻を掠めた。椅子に座ったまま何をするでもなくぼんやりしていると、そのうちに黄色い月が空にかかり始めた。色はあるが光がない。青白い光が空に流れていて、暗闇にぼやけ始めた室内に蛍光灯の灯りを点す。 真夜中になって外へ出た。下校途中にある家々には暖かい光が溢れていたが、誰ともすれ違うことはない。十字路の真中に俺の自転車が立っている。鍵は開けられており、どこにも傷や壊れた箇所などはない。暗闇の深淵の中、俺はそれを走らせてある場所へと向かった。 SOS団御用達の喫茶店には既に見慣れた面子が揃っていた。他の客や店員はいない。「遅いわよキョン! 罰金ね!」と怒鳴った我らが団長様の声は静かな店内にはいささか響きすぎる。朝比奈さんの笑顔と古泉のニヤケ顔にも迎えられたが長門の姿だけはどこにも見当らなかった。「それで」 俺は朝比奈さんの隣に座りながら、「何が目的だ……」「どうしてすぐに気付いちゃったのかしら」 とハルヒはアヒル口を作り、「勘付かせる間を与えたつもりはなかったはずなんだけど」「直前の長門の表情からなんとなく、だ。ミリ単位ほどのものだったが明らかに「迂闊」とでも言わんばかりに目を瞠(みは)っていたからな」「その細微な手掛かりからよくここまでの機微を推察できましたね」 と古泉がオーバーに肩を竦め、「見事の一言に尽きます」 くすりと朝比奈さんは微笑み、「でも今回はわたしたちの勝ちですね。現在のキョンくんの脳波は水平線(フラットライン)を示しています。このまま後数分でキョンくんは死にます」 今回はということは急進派のほうか。九曜の天蓋領域とやらのほうも考えてはいたが、こっちだったか。「日が暮れたころから脳波が停止しているのなら、もう随分時間が経ってるはずだが」「こちらの仮想空間の時間に対して現実空間で実際に経過した時間はまったく微々たるものです。あちらのあなたが死亡するまでには数分のみですが、こちらのあなたは充分一生を過ごすことができるでしょう」 ハルヒが身を乗り出して、「だからキョン、あんたはここで残りの人生を過ごすことになるの。こんな事をいきなり言われて吃驚するのはあたしもわかるわ。けど安心なさい! 団長様からのせめてもの慰めに、あんたが望むのなら何でもやってあげるわ」 とやたら嬉しそうに言い、「なんならみくるちゃんも好きにしていいわよ」 とあろうことか朝比奈さんに指を突きつけた。 朝比奈さんがえぇっと赤く熟れていくのを尻目に、「いや、いい」 と何時の間にか目の前にあったミントティーを口にして、「じきに長門が助けにくるさ」 ムッとしたハルヒは唇をへの字に曲げてチュゴゴゴとアイスコーヒーを飲み干した。 痛いほど澄み切った空気をカランコロンという鐘音が引き裂く。見ると長門がゆっくりこちらへ近づいてきており、一瞬だけいつものSOS団活動の心境に錯覚しかけた。「助けにきた」 と俺の手を取り、「急ぐべき」「今度は完璧だと思ったんですが、どうやら失敗のようですね」 と人事のように古泉は言う。「侵入を許してしまった時点でわたしたちの負けです」 と朝比奈さんは哀しそうな笑顔を向けた。 ハルヒはというと先ほどまでの挙動が嘘のように大人しくなり、静かな瞳で俺を見据えていた。何かを期待した俺の腕を引いて長門は喫茶店の戸口をくぐる。「キョン」 反射的に振り向いてしまった。不意に呼ばれたからでもあり、声がとても切なかったからでもある。「あたしたちは確かに仮想空間に作られただけの複製でしかないけど、その情報源になってるのはあんたの頭の中の記憶からなの。それは現実的に見ればひどく不完全なものに見えるかも知れないけど、でもある意味では"究極的"でもあるのよ」 仮想空間という、虚無に等しい世界に0と1の羅列のみで構成されているはずのハルヒが微笑みながら声を上ずらせている。涙が一筋、右頬を伝った。「その心は、あたしのこの気持ちは、決して偽りのものなんかじゃないの。だから、キョン──」「もう駄目」 と長門が再び俺の腕を引いた。先ほどより若干強く。「これ以上はあなたの生命に関わる。早く。眼を閉じて」 遠ざかる情景を後ろに固く眼を閉じる。ハルヒの最後の声がしばらく耳に纏わりついて離れなかった。 意識が身体へと帰り着いたとき最初に気付いたのは垂れ流しまくった涙と鼻水に、ひどい喉の渇きだった。次いで、何かが焦げていることに気付きそれが自分のおでこであることわかった。 長門が俺に接続しようとした瞬間を急進派が狙っていたんだそうである。しかし俺の万事を騙すことができず、またすぐに長門の解析・侵入が成功したことによって暗殺計画は結実することなく散ることとなる。あの仮想空間は既に消去されてしまったのだとか。それと数秒間ではあるがやはり脳波は止まっていたらしい。が、長門が言うには心配ないんだそうだ。「ごめんなさい」 と長門は一言謝ったが、俺は何も言わなかった。 後日、恒例不思議探索のルーチン化した日程を過ごしたときである。燦然と燃え上がる夕日に照らされて「またね!」 と言って別れるハルヒの満足の笑みに、"あの時"のハルヒも同じような笑顔であったのだろうかと思い出し、心臓が握り潰される心持がした。
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